【農場記4】皐月晴れの日に
マスター名:やよい雛徒
シナリオ形態: シリーズ
相棒
難易度: 易しい
参加人数: 11人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2014/06/03 21:46



■オープニング本文

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 皐月晴れ。
 その言葉にふさわしく、空は晴れ渡っている。
 畑から翡翠の祠が掘り出されたのが昨年の十月末のこと。
 あっという間に過ぎた六ヶ月。色々な事が変わったと、杏は思う。

 騒動の末にミゼリは長く眠り続けた。
 二日か三日に一度起きて、何かを食べたり厠に行ったりはするのだが、まるで亡霊のような足取りで、正気とは言い難い様子を繰り返し、気づくと眠る。
 そんな日々が2週間ほど続いた。
 次に目が覚めた時、 ミゼリは覗き込む面々に恐れおののいた。

『一体どこの子!? あなたたち誰なの!?』

 約三年半の記憶が、見事に失われていた。
 成長した実の弟すら認識できない。
 ミゼリが認識できたのは、姿形のかわらない人妖ブリュンヒルデと人妖炎鳥のみだ。
 顔ぶれは勿論のこと、かつて要塞のように閉じた屋敷が美しく整理され、大幅な改築がなされた屋敷の有様にも目を疑っていた。一歩外に出れば、かつては荒れ果てていた畑が青々と蘇り、広大な牧草地には薄荷畑が広がり、大昔に枯れた池が元に戻っていて、鶏の鳴き声が響く敷地を、飼い犬や雌牛たちが悠々と駆け抜ける……
 それらの光景に、呆然と立ち尽くしていた。

『これは……夢?』
『夢じゃないよ』
『ここはミゼリの家よ。家族の皆が取り戻してくれたの』
『今じゃ、白螺鈿でも有名な農家なんだぜ』

 元よりこうなると分かっていた人妖たちは、困惑を隠しきれないミゼリに一ヶ月かけて少しずつ説明をした。今は天儀歴1010年ではなく1014年である事から始まり、農場を支えてきた開拓者の話や住み込み一家のこと、農場としての再生に至る道筋、なぜミゼリが――三年半の記憶を思い出せないのかも。
 全て。
 最初は疑っていたミゼリも、鏡に映る自分を見て加齢を認識したらしい。
『本当に杏なの』
『そうだよ、姉ちゃん』
 かつて五歳前後だった幼い少年は、家事から畑仕事までこなす大人びた少年になった。
『大丈夫だよ。消えたんじゃないんだ。いつか戻るっておっしゃっていたから』
『……なんだか、未来に来た気分だわ』
 今のミゼリにとって此処は未来も同然。
『何がどうなってるのかさっぱりだけど、少しずつ覚えるわね。……蜂とか加工品の作り方とかまるで覚えてないみたいだけど……教えてもらえると助かるわ』

 よそよそしい生活が始まった。

 ミゼリは一先ず母屋や敷地の事について覚える為に人妖たちと散歩をする。
 その間に、杏と女性たちは牛の世話や加工品をせっせと増やす。
 秋撒きの野菜は大根・蕪・玉葱・ニラ・小松菜・春菊・ホウレン草等だったから全て、冬の間に収穫して売っておいたので、徐々色々と植えなければならない。
 姉が心配で4月の畑仕事を控えていたのだ。
 代わりにミゼリが寝ている間に集めたサトウカエデの樹液も毎日少しずつ火を通して煮ているが、120リットルを焦がさず煮きるのは難しい。40リットルほど煮詰めれば1リットルの樹糖ができるとわかっている以上、地道に励むしかない。

「姉ちゃん。そろそろ忙しいし、家族みんなを呼ぼうと思うんだけど、いい?」
「開拓者の人達よね」
「まぁそうだけど。それ……皆の前で言っちゃだめだよ。みんなきっと、泣きそうな顔で姉ちゃんを見るから。姉ちゃんも辛いと思うけど、図々しいくらいが丁度いいと思う」
 ミゼリが肩を落とす。
「名前と特徴は炎鳥達から聞いたけど……間違えないか心配で」
「間違えたって心配ないよ。皆も分かってる。ずっと此処で暮らしてきたんだから。依頼書を書いてくるから、少し変わってもらえる?」
 一旦、杏が樹糖の鍋をミゼリに任せた。

「ヒルデー、帳簿おわったー?」
「終わったわよー。ついでに依頼書のまとめもね」
「なにしなきゃいけないっけ」
「まず納品。で、畑がなーんもないから何植えるか見繕って、植えられるのは植えちゃったほうがいいわ」
 今まで五月に何を植えていたか記録を見てみると……

 豌豆は5月植の8月収穫。法蓮草は5月植の7月下旬。青梗菜や春菊は5月植で7月収穫。人参は5月植の8月下旬。枝豆は5月植の8月収穫。馬鈴薯は5月植の9月収穫だが、気温が30度を超えると芋が形成されない問題がある。トマトは5月植にすると7月から10月まで収穫が長い。ニラはほぼ一年間収穫できる。蝦夷蛇苺は5月下旬に種を巻けば、10月収穫になるだろう。玉蜀黍は5月植だと9月収穫になるから、旬には少し遅いかもしれない。
 花を植えて盆に備えることもできる。
 思い出せば蔓紫や蒲公英珈琲もなかなか美味しかった。

 皆も欲しい植物があるはずだ。
 だから勝手に決めるわけにはいかなかった。
「ほかは?」
「急いで蜂の巣箱を三つ外に出すでしょ。採蜜は来月やるとして……あと、堆肥が完成してるから袋を買ってきて詰めなきゃいけない。炭窯で焼き物の試作もやんないと。幸弥から田圃借りたい話が手紙でまた来てるから、この辺も相談して……」
 相変わらず目の回る忙しさだ。

 そこに雇いの女性たちがやってきた。
「ちょっといい」
「なに?」
「今のミゼリさんにとっては私達は赤の他人だから、少し距離を置いたほうがいいんじゃないかと思ってね。結果的に足も治ったし。郊外で家を借りて通おうと思うのよ。
 勿論、彼女が元に戻ったらまた一緒に住まわせてもらえるとありがたいけどね。
 ここに住まわせてもらっている分、暮らしが凄く楽だった。
 貯金もできたわ。感謝してる。
 それとね。
 今は畑仕事の手伝いをさせてる聡志と小鳥を、ちゃんとした学び舎にやりたいと思ってるの。勝手な話かもしれないんだけど……住処も見つけてて、皆に引越しを手伝ってもらうのは難しいかしら」
 生活に余裕が出てきた今、我が子により良い教育を受けさせたいと願うのは親として当然の心境の変化だろう。渡された地図からすると、新居は農場から徒歩で30分ほどの距離である。
 杏は頷いた。
「うん。書いとく。新しい家と足が治ったんだし、おめでとうの会とかしようよ」

 喜ばしいことぐらい祝っても良いはずだ。


■参加者一覧
鈴梅雛(ia0116
12歳・女・巫
アルーシュ・リトナ(ib0119
19歳・女・吟
ロムルス・メルリード(ib0121
18歳・女・騎
久遠院 雪夜(ib0212
13歳・女・シ
ハッド(ib0295
17歳・男・騎
白 桜香(ib0392
16歳・女・巫
真名(ib1222
17歳・女・陰
ネリク・シャーウッド(ib2898
23歳・男・騎
桂杏(ib4111
21歳・女・シ
蓮 蒼馬(ib5707
30歳・男・泰
マハ シャンク(ib6351
10歳・女・泰


■リプレイ本文

 農場に到着した久遠院 雪夜(ib0212)は、杏達の姿を見つけると深呼吸して走り出す。
「ミゼリちゃん、杏君、お久しぶり。元気してたー?」
 ぎゅみー、と抱きしめる。杏は慣れたものだがミゼリは困惑気味だ。親しく接するのは、これが『当たり前』だから。そして今まで積み重ねた時間を嘘にしない為だ。陽気に振る舞い「だーれだ」と質問を投げてみる。ミゼリは頭からつま先まで凝視し、口を開けようとしては……閉じる、という行動を繰り返す。
 教え聞いた名を間違えるのが怖いのだ。
 上級人妖の菫は、立ち尽くしている主人の横顔を「マハ様?」と覗き込んだ。
 マハ シャンク(ib6351)の瞳に、若干の郷愁と寂しさが見えた気がする。
『……忘れてしまったんだな』
 知っていた事だとマハは自嘲気味な笑みを浮かべ「元気であるならそれで良い」と呟く。
 見返りなど求めるものでもない。
 己に色々言い聞かせ、前を向いて歩き出す。
 次々と周囲に集まる開拓者を見て戸惑うミゼリに、マハが手を差し出す。
「思い出す訓練は追々だな。私はマハシャンクだ。好きに呼んでいい。肥料の世話役だ」
 そこの生贄達と一緒にな、と男達に視線を投げて笑う。
「そう、ですか」
「そうよ。無理して焦って思い出そうとする必要はないわ」
 ロムルス・メルリード(ib0121)は改めて名乗った後、広がる農場の前に立つ。
「深く気にしないで。その代わり、色んなものを見て聞いて感じて欲しい。貴女が頑張って取り戻したものだから」
「間違えたっていいんだよ。ボクは久遠院雪夜、一緒に作業してる内に覚えるよ」
 杏を抱きしめていたアルーシュ・リトナ(ib0119)がミゼリを向く。
「ミゼリさん。初めましてアルーシュです」
 慌てたミゼリは「はじめ、まして」と返事をしてから人妖に助けを求める。
「何か聞いてました? ふふ……ええ、もう一度初めからで良いんです。改めて宜しくお願いしますね。これからの作付けが正念場ですから」
 続く真名(ib1222)も「私は真名。よろしくね」と元気に振舞う。笑顔を崩さぬまま、励ますように接しながらミゼリの様子を伺う。
『私は一番つき合いが浅い。もっと悩んでる人は沢山いるものね。姉さんだって、そう』
 だからリトナ達の微笑みや優しさに習う。
 ネリク・シャーウッド(ib2898)も明るく話しかけた。
「少しずつ思い出せるならそれでよし。思い出せないなら、これから色々積み重ねていけばいい。どう転んだって大丈夫。俺たちの家族なことは変わらないからな」
 後方の蓮 蒼馬(ib5707)は「既に聞かされていると思うが」と前置きして微笑む。
「失われた記憶は切っ掛けさえあれば、きっと取り戻せる。俺もそうだったからな」
 少し前まで娘の顔も思い出せなくてな、と言いつつも、今は記憶を取り戻して一緒に暮らしていると告げた。一時的なアクシデントに過ぎない事だと笑い話にしつつ、蓮はミゼリの記憶のきっかけが楽しい思い出である事を祈った。
「改めて宜しくな」
 シャーウッド達に言われて、細い肩からほっと力が抜けるのが分かった。

 様子を眺めていたハッド(ib0295)は、事態の深刻さを捉えつつ思考を切り替える。
『ふ〜む、ミゼリんはまだタイヘンなよ〜じゃが、これから時間をかけてじゃの〜』
 記憶の有無に関わらず、農場を盛り立てていく決意は皆変わらない。
「ミゼリさん、記憶を失って不安でしょうね」
 挨拶を軽く済ませた白 桜香(ib0392)が傍を離れて仲間達に呟く。
「いつも通りが一番良いのではないかと思います」
 囁く鈴梅雛(ia0116)も、できる限り普段通りで過ごすと決めていた。
「ミゼリさんの記憶も、何を切っ掛けに思い出すか分りませんし」
 桂杏(ib4111)は「うーん」と軽く唸る。
「少しずつ戻ってくれれば良いのですが。にしても『アヤカシも精霊も勝手に与えて勝手に奪っていく』というところは一緒なのかも」と呟きつつ『勝手というほど勝手なのではないのかもしれない』という考えも脳裏を過ぎる。
「根っこにヒトの願いがある件は否定できないし……目下の問題は、今年の実りですね」
 精霊による強制的な奇跡が消えた今、守護地がただで済む、とは誰も思っていなかった。リトナも「今年の実りがどうなるか」と若干心配そうな顔をした。真名も肩をすくめる。
「これからどうなるんだろ。……なんて弱気になってる場合じゃないわね。できる事から頑張っていきましょう」
「はい。これからどうなるかは分りませんが、まずは目の前の仕事をしないと」
 鈴梅の言う通り農作業は山盛りで待っている。

「こんなに晴れやかな気持ちで農作業出来るなんて久しぶり……もう何も怖くない」
 久遠院は現実逃避してみた。しかし蜜蜂を早く外に出さないと、昨年のように採蜜が難しくなってしまう。買い物に出かけようと思っていたシャーウッドが「手伝うか?」と声をかけた。
「ううん、いいよ。畑だって一刻を争うんだし。外に出すのは今日やっちゃうから。変わりといっては何だけど明日は天敵調査に森へ入るから、代わりに世話頼んで良いかな」
「一日でも早いほうがいいよな。分かった」
 蜜蜂の移動を久遠院に託す。
 シャーウッドが一緒に行く蓮達を振り返る。
「暑くなったから需要も変わってるだろうし、調査もかねよう。何か変わった事がないかも。納品は後日やるとして何を買うんだっけ」
 昔の帳簿から必要苗を書き出した蓮がシャーウッドに書きを渡す。
「えーと法蓮草、春菊、玉蜀黍、薩摩芋、馬鈴薯、トマト、茄子、胡瓜、枝豆、豌豆、南瓜、唐辛子、ニラ、蒲公英の苗と……」
「堆肥の用の袋だな。一緒に行こう」
 荷車を運び出す蓮達に声をかけたのはシャンクだった。ついでに上級人妖の菫を食堂に置いて来るという。菫が遠い目をしたが、半ば諦めの境地にいるようだ。
「菫」
「なんでしょうマハ様」
「念の為、言っておくが精霊の話などは出すな。戦で忙しかったとして、給仕をしながら不平不満や面白いこと、日常会話を拾っておけ。何かしら情勢が入っているだろうし……そう言えば、幸弥以外にも祠を探す者がいると言っていた気がするな」
「そういう類の情報もですね、了解ですー」
「皆も、ここ半年の話は同じ理由で誤魔化す事でいいだろうか。話が散漫だと疑念を抱かれる恐れもあるし、厄介事を招くのは面倒だ。如彩家は勿論、百家縁の者達にも」
「そうだな」
「色々忘れたミゼリ、か。疑われぬように頑張ろう。買い物の量が凄くて、長話も回避できるだろうしな」
「苗も凄い量ですものね、私も行きます」
 桂杏は上級人妖の百三郎を連れて市場へ行き、如彩幸弥の動きも気にかけてみるという。幸弥はきっと精霊の恩恵を知っていたのだろう。それ故の行動と考えれば納得はできる。が、その後の様子が気になる。特に『精霊が去ったかどうかを気づいているか否か』だ。
 リトナに塩の買い出しを頼まれた後、買い出し班が出かけた。
 ハッドは砂糖楓が枯れていないか、畑に向く土壌の調査も含めて森へ出かけるという。
「おお、そうだ。白よ、欲しい土の希望は何かあるか」
「え?」
「前に焼き物を考えておったろう。土の採取ついでに焼き物に適した土があれば、我が輩が探してくるぞ。長石を含んだ土あたりがいいんかの〜?」
 予想外の声に驚いた白は、余裕があれば焼き物用の土を……と考えていた為、土壌調査と調達をハッドに託す事にした。
 夏から秋にかけて畑と栽培箱で手一杯だったからだ。 
 遠ざかる背中を見送りつつ「畑も動物も、どちらも待ったナシですものね」と虚ろな目で小屋を振り返る。苗が調達が終わるまでの時間、牛をメルリードに任せ、鶏小屋は白が掃除することになった。メルリードは鬱憤の溜まっている牛たちを散歩に解き放つ。一緒の手伝いを申し出た真名には畜舎の掃除を託した。
「悪いわね。臭い仕事を任せちゃって」
「いいわよ、慣れたし。私も動物の世話は得意な方だけど……暴れ牛を放牧させるにも手慣れた人が必要でしょう。散歩の間に、紅印に破損箇所を調べさせて置くから細かい部分はお任せするわね」
「ええ。じゃあ行ってくる」
 玉狐天を天井に放った真名が、糞尿の掃除を始めた。これらもシャンクの手で大事な肥料に変わるのだ。全部どけるのも相当な重労働だが、掃除後は屋内の修理が待っている。
 鈴梅は樹液を煮詰める作業にとりかかる。からくり瑠璃と一緒に煮るとはいえども、透明な樹液を焦がさず粘った液体にまでするのだ。毎回、約2リットルを50ccにまで濃縮せねばならない。日が高くなると「暑いですし、思った以上に重労働です」と言った。
 リトナは余り物の古い蜂蜜と卵を使って焼き菓子を作っていた。此処半年ほど精霊に振り回されて周囲を尋ねていないから「午後は出かけますね」と言う。
「近所の土の様子と、ついでに茸の栽培についてきいてきます」
 今年は去年より豊富に育つ工夫が欠かせない。


 買い出しや家畜の世話に明け暮れ、夜になると殆どの者が畳部屋で熟睡する。鈴梅や上級人妖桃香のやっていた樹液の煮る作業を白が引き継いだ。
「お疲れさま、桃香」
「美味しいお菓子の為に頑張ったよ」
 頑張りを褒める白が「明日の昼も御願いね」と言うと、よろよろと畳に飛んでいく。そして寝た。どのみち樹液はしっかり作らなければならない。白が睡魔を押しのけて鍋と向き合う間、鈴梅は昼間の買い物や各種契約について纏めていた。
 ミゼリが気遣う。
「休んでは?」
「ひいなは大丈夫です。回復もできますし、帳簿はいつも書いてます。色々な事があって手が回らない所もありましたし。不履行とか信用問題は避けたいですから」
「そう、なんですか」
 メルリードが「任せて大丈夫よ」と言いつつ、窓辺の席にミゼリを連れて行く。
「ミゼリ、ちょっと手を出してもらっていいかしら?」
「手を? はい、なんでしょう」
「実は初めて会った時も、こうやってあなたの手を取った事があるわ。それが私の中での、あなたとの最初の想い出。その時のあなたは目も耳も声も失っていたわね。意思の疎通を図るには、手のひらに文字を書いて伝えるしかなかった。……今は何も思い出せなくて不安かも知れない。でも、思い出す切っ掛けなんてものは、きっとあちこちに転がってるわ」
 昼間、ミゼリは皆の働きを見て回った。
 例えば真名が『この子達、名前は?』と雌牛達の名を聞いてみた。昔から居る家畜の名前は分かっても、その後に飼い始めた愛犬の名前などはやはり分からず教えて貰っていた。
 話し込むメルリードを眺める杏に、リトナが「そういえば前に本を持ってましたね」と話しかける。
「……杏さんは何かお勉強したい事、ありますか?」
「経営とか農場のこと。色々学びたいけど、今はいいんだ。姉ちゃんが元に戻るまで」
 此処にいる、と暗に告げる杏。
 ふいに鈴梅がやってきた。
「お話中にすみません。茸の件なんですが何か分かりました?」
「あ、話してませんでしたね」
 リトナが調査した茸栽培だが、人工的に増やすには設備投資が必要で、農場では森に原木を放置する自然栽培の方が適するという。椎茸やシメジを秋に収穫するには四月までに準備を終えなければならないので不適当。なめこは10月から11月に収穫できるが、五月までに接種するのが普通な為、6月中に作業して秋にできるかは博打らしい。
「原木も色々条件があり、年内収穫を目指すならハッドさんの伐採した薪用とシャーウッドさんが伐採した建物用木材、この辺を使うしかない様なので……」
 鈴梅は「後日相談ですね」と帳簿に書き込んだ。


 二日目になった。
 リトナは早朝から卵を茹で、買って貰った塩で塩卵の作成をすすめる。書きとめておいた資料をミゼリに見せながら方法を教えていく。卵の茹で終わりと入れ替わるように鈴梅は樹糖作りを進める。森で土掘りを終えたハッドも樹糖作りを手伝う。
「では、やるかの〜。なにせ樹糖づくりは根気のいる作業の上、目を離せるものでもないからの〜。今晩の当番は我が輩がしよう。寝ていたら起こすとよいぞ、うむ」
「わかりました。瑠璃さん、遠慮なく起こしちゃってください」
 キラッ、と鈴梅の瞳が輝き、隣のからくりが肯いた。
 真名は雌牛の搾乳に出かけ、メルリードは畜舎の簡単な修理の後に、白に鶏小屋の様子を聞いて、錆びた鍵の交換や網の修理に向かう。
 シャーウッドはバター作りに取り組みつつ、時々久遠院が外の日陰へ出した蜂の巣箱を見に行った。久しぶりの採蜜に期待がかかる。シャーウッドは「うまい蜂蜜を頼むぞ」と声をかけつつ、何を作ろうかと楽しそうに考えていた。
 因みに久遠院はというと日の出と共に森へ出かけた。
 広大な敷地を探索するには時間が居る。花の咲き具合はそこそこであったが、小川を辿った先でスズメバチの巣があった。蜜蜂には天敵だ。農場の母屋から遠い岩場の影であるし、巣の大きさも子供の頭ほど。今は問題ではないが、今後移動や増殖されると厄介だ。地図に位置だけ記して引き返した。
 周辺の植物の状態なども調べねばならない。

「さて、やるか。畑を」
 作付けは蓮と白、桂杏、蓮、マハ、動ける相棒、杏や女性達含めての総出で行われた。塩卵作り中のリトナは「唐辛子は連作が難しいので栽培箱をお勧めします」と告げた。
「はい、では箱と唐辛子は明日ですね。畑をしっかりやらないといけない季節ですし」
「どれほど収穫が見込めるかわかりませんものね。あ、この畝が終わったら少し抜けます」
 桂杏は米の苗を少し購入していた。水田作りには間に合わないが、浅い池なら裏手にあることを思い出したからだ。最も川の小魚が泳ぎ放題であるし、虫もどうだか分からないので期待半分ではある。理想としては農場で食べる分だけでも、という程度だ。
 夜になって蓮やリトナと一緒に杏が栽培箱の点検をしていた。リトナは手慣れた様子で確認する杏を眺めて『本当に逞しくなって』と感慨深く眺める。知っている少女と杏の年頃が近い所為か、色々と思うところがあるようだ。
 夜も寝ずに樹液が煮詰められ、畳の間には疲れ果てた者達の屍が累々。
 一方、白は簡単な仕事をミゼリに教えながら助言をしていた。
「記憶は頭だけで覚えている物ではなく、手だったり舌だったり匂いだったりが糸口になることもあるそうです。同じ暮らしの中で体を動かしていれば、案外良いのかもしれません。手伝いたい事があれば遠慮なく言ってくださいな」


 三日目は苗を植えるのに鈴梅も参加した。
「量も多いですし、早く終わらせないと、生育にも悪いですから」
 リトナは宴に備えた買い出しと、茸の群生地だった場所の様子見に出かけた。メルリードは破損が大したことがなかった分、作付けに加わり、徹夜の樹糖作りで疲労困憊のハッドは獣に癒しを求めたのか、真名と同じく畜舎に向かった。
 ……のだが、シャーウッドと共にシャンクに捕まった。
「堆肥を袋詰めせねばならん。明日の受注分だけでも、だ。手伝ってくれるだろう」
 不敵な微笑み。
「それとも悪臭放つ新しい堆肥の仕込みを手伝ってくれるか?」
「ハッド、詰めるか」
「うむ、詰めてしんぜよう!」
 哀しみを背負った男達は堆肥をザクザク詰めていく。
 一方、捕獲を免れた蓮は病害虫予防の薬草などを次回の作業に回すと、加工品保存の為に保冷庫の設置を始めた。扉を外し、配水管を取り付けていく。白は早速保冷庫の天井に氷を敷き詰める。バターは勿論、桂杏特製の発酵乳にはじきに危険な気温だ。そして桂杏はミゼリに思い出話を交えつつ、発酵乳の管理の仕方を教えていく。
「前もね、忙しく準備したものよ。預かった子に盗み食いされた事もあったけどね」
『体が覚えててくれたら嬉しいけど……うん、焦りは禁物』
 積み重ねが大事だ。
 夕方になると肉体疲労極まるシャーウッドとハッドが雌牛に癒しを求めていた。
「ゲルヒルデ、王がゆくぞォ!」
「あーはっはっは、俺も色々発散させたいから遠慮なくかかってこい!」
 若干、会話が壊れている。

 夜になると連日の疲れが出てきたのか、かなりの人間が畳に崩れた。もはや一歩も動けない。体力底なしの開拓者ですら突っ伏す有様なので、ミゼリ達も寝入っていた。寝顔を見た久遠院は肩から力を抜くと「おやすみ」と囁いて樹糖の当番に行く。
「今度来た時は、昔話でもしようかな。杏君や人妖達から聞いてるかも知れないけど、ボク達視点だとまた違うかも知れないし。記憶を取り戻す、手助けになるといいんだけど」
 帳簿をつけていた鈴梅が「そうですね」と肯いて欠伸を一つ。
「今後、何かミゼリさんが思い出した事があれば、そこを切っ掛けに、少しずつ思い出を繋げて行ければ良いのですが……思い出せない時も、無理はしない方が良いですね。それよりも、今を楽しむ事の方が、きっと……大事だと……思います……か……ら」
 帳簿に突っ伏して寝た。


 四日目の午前中まで畑作業は続いた。
 午後からは女性達の引っ越しを手伝うシャンク達と、料理を作る者達に役割を分担した。ご褒美でつった炎龍レーヴァティンや空龍フィアールカには重い物を運んで貰い、ハッドはアーマー人狼改ことてつくず弐号で新居の周囲の岩を運んでどけたり、積み荷をおいたりした後「恵んに樹糖の評価をして貰ってくるかの。宴には戻る」と言い残し、美食家で名高い商家の娘の所へ出かけた。帰りに食堂に放置しっぱなしの菫……シャンクの人妖も拾って来るという。
「いってらっしゃい。……色々あったけど、悪い事ばっかりじゃなかったんだよね」
 久遠院はしみじみと引っ越し中の皆を眺める。理不尽と悪意に翻弄された日々だった。けれど二度と治らないと言われた女性達の足が治り、ミゼリの目も見えるようになった。
 母屋ではリトナと真名、白とシャーウッドにより粛々と宴の準備が進む。
リトナは机を新しいテーブルクロスで飾り、リボンを飾る。白は仕上げた樹糖の味見をかねたクッキーにケーキ。真名が自信を持って異国料理を作り、宴の料理は増えていく。勿論、シャーウッドが作る懐かしの卵菓子も並んだが……これは理由がある。
 初日の話だ。妙にぎこちない空気のメルリードとシャーウッドの内緒話の時のことだ。メルリードはミゼリに食べさせた料理を付くって欲しいの、と頼み込んだ。
『色々試せば、記憶を戻す切っ掛けの一つになるかもしれない。御願いできない?』
『任せろよ。なんでもつくるさ。遠慮がちなミゼリにもちゃんと食べてもらいたいしな』
『ありがと。えっと……やっぱりさ、長いこと同じ毎日だったから、急に変わるのって難しいよね。でもちょっとずつでいいから……変わっていけると、いいね』
『ここまで長かったんだ、これからが長くても問題ないさ。少しずつ変わっていけばいい』
 かくして皆の思いをのせて。
 独立と快癒祝いの宴が始まる。
「明日もくるのに、なんだか気恥ずかしいね」
 照れる女性達の前で白が乾杯の音頭をとる。
「そんなことありません。足が治って、子供達が都の寺子屋に行けるのは嬉しいです。是非お祝いしましょう。僭越ながら用意させていただいた冷たいミルクセーキで乾杯を」
 乾杯、と皆が器を掲げる。賑やかな中で、蓮やハッドが代表して贈り物を渡した。
「快癒おめでとう! 歌おう、姉さん!」
 リトナが歌う。真名が周囲の者達を誘いながら踊り出した。
 街の噂や調査して分かった事、気になる問題は沢山ある。
 それでも今は。
「昔も大事ですけど、今も、これから先だって、大事です」
「そうだな、ひいな。観客から演者に変わったとしてもそれは変わらない。私達は……持ちつ持たれつ、だろう?」

 農場の夜は更けていく。