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■オープニング本文 前回のリプレイを見る 長い冬が去った。 白螺鈿の周辺一帯では、薪が必要な寒さが例年四月まで続き、四月下旬から五月下旬に桜が咲き始める。時々気まぐれに降る名残雪の悪戯にも負けず、薄桃色の桜が咲き、臙脂色の八重桜が人々を楽しませ、花弁が湖面を染める頃、森にも緑が戻ってきていた。 しかし以前、積み上げた雪も徐々に溶けていく。一緒に積み上げた微量の土が顔を出し、遠目には砂山に見える。だが土の下には氷が厚くが残っていた。実はこの氷の山、周辺に濃霧を生む原因になっている。 朝陽の熱で気化した蒸気は、濃霧となって農場を覆っていく。 そんな霧にも動じない杏が、24本の畝を眺める。 苦労した香草の数々、繁殖を始めた葉ネギ、花が咲いたばかりの蝦夷蛇苺、来月収穫予定の豌豆……と見ていて、放置された15本の畝に気づいた。 「何か植える?」 人妖のブリュンヒルデが紙を持ってきた。畑の畝に何を植えてきたかの覚え書きだ。 全ての畝に番号が書き込まれ、連作状況が一目で分かる。 01番畝:根深葱(収穫済) 02番畝:蒲公英(収穫済) 03番畝:葉ネギ&青梗菜(収穫済) 04番畝:じゃが芋→法蓮草(収穫済) 05番畝:放置(元葉野菜畝)→大根(収穫済) 06番畝:じゃが芋→白菜(収穫済) 07番畝:じゃが芋→白菜(収穫済) 08番畝:赤紫蘇→法蓮草(収穫済) 09番畝:玉蜀黍→蕪(収穫済) 10番畝:向日葵→大根(収穫済) 11番畝:三つ葉(元べと病)→人参(収穫済) 12番畝:蔓紫→人参(収穫済) 13番畝:じゃが芋→緑花椰菜(収穫済) 14番畝:じゃが芋→玉菜(収穫済) 15番畝:牛蒡(収穫済) 以上が収穫を終えて雪の下に眠っていた畝である。 何処に何を植えようかと騒いでいると、家族たちが帰ってきた。 帰宅を「おかえりなさい」と出迎える。 今回は蜂の対応や栽培箱の準備もあるし、堆肥も使えるようになった。 どの仕事をしようかと、話し込んでいると濃霧の中から客人が現れた。 「おはようございます。こちらは百家の御息女のお宅でしょうか……おや?」 「柚子平?」 家族の一人が別人の名前を呟く。 濃霧の中から現れたのは、忌まわしい男と瓜二つの容姿を持った陰陽師の若者だった。 ミゼリと杏に大事な用件があるというので、渋々母屋に通した。 差し出された蒲公英珈琲を「自家製ですか、美味しいですね」と悪意なく微笑む姿は、記憶の中にいる悪漢と重なってしまう。頭で別人だと分かっていても……流石に気分が悪い。 「申し遅れました。封陣院の分室長、狩野柚子平と申します」 陰陽師は深々と頭を垂れる。 「ご用件は」 家族の一人が固い口調で問いかけると、柚子平は抱えていた風呂敷の包みをほどく。 多額の現金と膨大な書類が積まれていた。 「本日は故人の代理人として此方に参りました。これは虎司馬が蓄えた私財の一部、31万文と取得した土地の権利書、未開封の茶封筒は詳しくは存じませんが、何らかの調査書が入っています」 一般的に町人の年収が7万8千文と言われている。 柚子平が持ってきたのは、年収にして約四年分の大金だった。 そして家族達の数人が、顔をしかめた。 虎司馬が病死したという噂は白螺鈿中に広まっている。余りにも急で、不自然だった。身を隠したのでは、という噂も出ていたが、他界したのは本当らしい。 「そんなもの、どうしてここに?」 「虎司馬は、遺産相続の候補に、此方のご姉弟を指名しています」 想定外の言葉に、唖然とした。 如彩四兄弟の中で尤も優れていると噂され、目的の為には手段を選ばず、一族の栄光と発展の為に功績を挙げてきた男が、何故そんな指名を下したのか。 「それは本当なんですか?」 「はい。執務室の金庫の中から遺言状と複数の茶封筒が発見されました。もしも自分に万が一のことがあった場合、次のように取り計らって欲しいと。私は遺言状の遂行を委任されました。要求が複数ありましたので、此方へ来るのが遅くなりました。申し訳ありません」 柚子平は再び深々と頭を垂れた。 「どうしてこんな」 「……ここだけの話。虎司馬は、如彩家を心底憎んでいましてね」 意味がよく分からない。 互いに顔を見合わせていると、柚子平が言葉を添えた。 「私は虎司馬の実の兄弟です。虎司馬は数年前、如彩家の四男として養子に入りました。血の繋がりは半分だけ。所謂、妾の子という奴です。私と虎司馬の母は、元々如彩家のお抱え陰陽師でした。しかし我々を身籠もった直後、一方的に任を解かれた。血縁上の父親に当たる人物はご想像の通りですが、アレは奥方がいながら母に手を出し、身重の母を追い出した。極貧に喘ぎ、母が早死にしたのは、父親のせいだと虎司馬はよく憤っていましたよ」 天井を仰ぐ。 「子供心に許せない境遇でした。十数年を経てから、如彩は我々の前に現れました。解任は俺ではなく当時の当主……祖父が一方的に下した命令だと言い、養子の話がでた時に、何を今更と我々は考えました。私は断りましたが、虎司馬は承諾した。でもそれは権威や財産に目がくらんだ訳ではなかった」 柚子平の瞳が暗く濁った。 「養子に入ったのも、全ては復讐のため」 「復讐?」 「虎司馬は憎い父親に、己の優秀さを認めさせた上で、何を捨てたのか思い知らせたい様子でした。理想の息子を演じ、如彩家から全財産と全権利を奪い……最後は如彩の醜聞を広めて一族を破滅させようとしていました。自分が不治の病で死ぬ前に、道連れにする気だったのです」 「不治の病って」 「物の例えですよ。……計画が実現していたら、きっと今頃、白螺鈿は大混乱だったでしょうね」 だからいいんですよ、と柚子平は笑った。 「だからって何故ウチに」 「確証は持てませんが、如彩の身勝手に振り回された者同士としての親近感……みたいなものを感じていたのではないかと思います」 「親近感?」 「如彩家が破滅すれば、当然この地は新しい主が必要になります。そして後任にふさわしい相手として……如彩の影響で没落した百家を選んだのでしょう。ミゼリさんを妻に、と望んだのは、伴侶にすれば相続が有利に働くからかもしれません。何の説明もなく、脅迫じみた強引な方法をとったことは事実な様ですし、非礼についても、兄弟の私からお詫びします」 再び深々と頭を垂れる。 そして大金と書類に手を置いた。 「ですから『コレ』は、あくまで個人の遺書を尊重した『寄贈』に過ぎません。おイヤでしたら断ってくださって結構です。ただ虎司馬には直系卑属はいませんので、順当にいけば直系尊属。母は他界しておりますので、あなた方が断れば、この全財産は法に従い、如彩家に戻るでしょう」 ミゼリは沈黙したまま。 杏はよく意味が分かっていないようだ。 柚子平は「虎司馬の遺志を受け入れるかどうかはご自由に」と告げた。 数日後にまた来るという。 |
■参加者一覧
鈴梅雛(ia0116)
12歳・女・巫
酒々井 統真(ia0893)
19歳・男・泰
若獅(ia5248)
17歳・女・泰
ロムルス・メルリード(ib0121)
18歳・女・騎
久遠院 雪夜(ib0212)
13歳・女・シ
ハッド(ib0295)
17歳・男・騎
ミシェル・ユーハイム(ib0318)
16歳・男・巫
白 桜香(ib0392)
16歳・女・巫
ネリク・シャーウッド(ib2898)
23歳・男・騎
桂杏(ib4111)
21歳・女・シ
蓮 蒼馬(ib5707)
30歳・男・泰
マハ シャンク(ib6351)
10歳・女・泰 |
■リプレイ本文 虎司馬の遺言。 それを伝えに来た狩野 柚子平(iz0216)の背中を見送った面々は、溜息を零した。 「またこの忙しい時期に、とんでもないものを置いていったな。さて、どうしたもんか。仕事しながら考えるか」 ネリク・シャーウッド(ib2898)は加工品と氷の保冷庫を準備を始めるべく歩きだした。 最期まで面倒な話を押しつけてくれるが、悩んでばかりもいられない。 農場の仕事がある。 鈴梅雛(ia0116)は「幸弥さんの所へいってきます」と言った。アヤカシがお医者様に化けていた事と、退治した事を報告してくるという。午後は白螺鈿を巡って、他にもアヤカシが潜んでいないか、瘴索結界で調べて来るそうなので、帳簿の仕事は後日になる。 「もし何かあれば、からくりの瑠璃さんに連絡を頼みますから」 「私も行くわ。形だけでも、お悔やみを言っておいた方がいいでしょうし。……彼がしたことを許すつもりはないけど、亡くなった人を責めても仕方のないことだから」 ロムルス・メルリード(ib0121)が立ち上がって鈴梅の隣に並ぶ。 腕組みをしていたマハ シャンク(ib6351)も、若獅(ia5248)と共に堆肥の切り返しと仕分けの準備に出ていった。午後には白螺鈿に出かけて、堆肥の相場を調べて来るという。 ミシェル・ユーハイム(ib0318)の大荷物を倉庫へ格納した蓮 蒼馬(ib5707)は、ハッド(ib0295)と共に柵の点検と修理に出かけることにした。 道中のハッドがなにやら饒舌だ。 「虎司馬めも困ったヤツよの。とはいえ、ヤツもヤツなりに懸命に生きたのじゃろ。世は不条理に満ちて弱者には酷くできておる。故、常に備え、準備を怠ってはならぬのじゃ」 「準備……なぁ」 どうなんだろうな、と蓮は工具を抱えながらひとり呟いた。 ユーハイムと白 桜香(ib0392)は手分けして近所の挨拶に向かう。堆肥の宣伝ついでに氷を提供する為だ。夏は物が腐りやすくなるので、氷霊結は喜ばれる。 ところで。 ミゼリ達に、羽妖精の姫鶴を紹介していた久遠院 雪夜(ib0212)が我に返る。 「あ。ボク、これから森の調査へいくけど。蜂の巣箱、どうしようか。人手って、足りるかな?」 「うちの桔梗はどうだ? 蜂の巣箱を出すときは刺されても平気そうだし、手伝わせてもいいか? 終わったら子供達の遊び相手でも頼んでおく」 痛覚のないからくりに命じて蜂を外に出す、という結論が出た所で。 頭をガリガリ掻いた酒々井 統真(ia0893)は「畜舎に行く前に……翠、仕事の前に話がある」と雇い女性の一人を奥の間に連れて行った。 暫くして啜り泣く声が聞こえた。翠の親戚が一家で事故にあって亡くなった、と酒々井が説明している。開拓者業をやっていると思わぬ所で関わりができる。翠は今後、我が子を拠り所にして生きていくだろう。 昼を過ぎて、ユーハイムから苗の買い付けを頼まれた蓮達の所へ現れたミゼリが「少しいい?」と声をかけた。躊躇いがちに「朝の、どう思う?」と問いかけられた。遺産についてだ。 蓮は「……虎司馬が、如彩への復讐に生きた話を考慮するとだな」と前置きをした。 「例の書類に如彩の暗部が記されている可能性は高い。如彩と覇を競うなら力になるのは間違いないが、俺はそんな物を使って欲しくない。それでは如彩と変わらん。例え甘くても、杏達には如彩と違う道を歩んでもらいたい」 血生臭い過去より、洗われた未来を願った。 隣のユーハイムが陽気に笑う。 「僕も蒼馬と同じ気持ちさ。さて。苗、頼むね。僕は雪夜と桜桃の収穫にいってくるよ。お土産楽しみにしてて」 蓮達と入れ替わる様に、和釘を取りに来たハッドが現れた。ミゼリが同じように尋ねてみる。 ハッドは受領すべきだと考えていた。 「虎司馬を許せとはいわん。だが、見てみぬふりをしてもやがて嵐は来るし、何も知らねば備えることもできん。真実を知ることが己を守り、同じように世の理不尽に苦しめられる人を救う道となるならば、歩むべきじゃろう」 ハッドの言葉に、ミゼリは首を傾げた。 嵐が何を示すのかよくわからなかったし、遺産を受け取ることで世の誰を助けられるのか、さっぱり伝わっていなかった。 シャンクが価格調査に出かけ、鶏小屋と畜舎を酒々井に頼み。 畑用の堆肥を運び出していた若獅が、休憩をしようと農具を置いた。手を洗い、遅い昼食をとるべく離れた日陰に寝っ転がる。 空が青い。 「虎司馬の奴……何て言うか、素直じゃないよなぁ」 全てを信じた訳ではないが、もの悲しい想いと共に溜息が零れていた。 「おいそれと人に話せない事情を抱えてる事は、想像に難くないんだけど。それでも、生涯を終えるには早過ぎるよ、な」 そこへ「残念?」と、杏が顔を出した。氷水を届けに来たらしい。 今朝の遺産について、どう思うかを、問いかけてきた。 子供とは思えない、真剣な横顔だった。 「……拒否すべき、だと思う」 もし万が一。 周囲に如彩に仇なす行為に加担していると解釈される事で、杏やミゼリ達が謂れの無い厄介事に巻き込まれる可能性が高い、と若獅は判断した。 「受け取る場合、二人が百家の後継として生きる意思がある事、土地の暗部と戦い生きる覚悟と意志の有無次第だ」 「……そっか」 膝を抱えた杏は、近くの榛をぷちぷちと千切った。 ところで土間の桂杏(ib4111)は上機嫌だった。 「遺産の件はさておき。時間というか、心に余裕が有るのは随分と久しぶりの様な気がしますね。夕飯まで時間があることですし、いよいよアレに手をつけるとしましょう。百三郎、手伝って」 桂杏の腕には以前、蓮が神楽の都で見つけてきた羊の発酵乳の入った小樽と同じ物がある。 アル=カマルとの国交が始まってから、神楽の都では香辛料の数が爆発的に増え、遊牧民達が愛する自然発酵食品も流通し始めている。前は使い切ってしまったが。今度こそ乳製品を増やそうと決意していた。 まず熱湯で殺菌した容器の中に種となる発酵乳と常温の牛乳を加え撹拌する。容量の比率は種五に対して牛乳が九五程度だ。今はまだ少しだけ発酵に適した気温より寒いので、夜は暖炉のある洋室作りの居間に置いておく。 桂杏はシャーウッドに声をかけた。 「氷の保冷庫、いつから使えそうですか?」 「整備があるから、三日後かなぁ。若獅達に頼まないと。当面の間は、氷を作ってもらったらいいんじゃないか?」 そこへミゼリが通りがかった。 今朝の話について、それぞれに意見を求めた。 桂杏は何処か鬼気迫るような……悟ったような眼差しで「世の中にタダより高いものはありません」と告げた。 何かあったのだろうか。 ともかく、基本的には拒否すべきだと考えていた。 「理由は色々ございますが……後になって何やかんやと恩着せがましく言ってこられては堪りません。でも、一旦如彩家に総てお預けした上で、先日の件のお詫びを常識的な範囲で形にして頂く、なら話は別かも」 そういえば先日の非礼については話が宙に浮いたままだった。 シャーウッドは夕飯の釜の米をとぎながら「拒否すべき、かな」と呟く。 「どちらを選んでも結局大変なことになるだろうと思う。今この場で何かを背負うか、後で何か背負うと考えるか。何にしてもお前たちの判断を俺は信じるよ。お前たちの判断以上に大切なものはこの場でないと思うしな」 一通り聞いたミゼリは「考えてみる」とだけ呟いた。 夜になると出かけていた者達も帰ってきた。 久遠院は午後からユーハイムとも合流し、前に見つけた桜桃や茸の群生地、森の私有の境界の印の杭の位置を確認し、余った時間は桜桃等の収穫に費やした。白が傷ものはジャムにすると意気込んでいたので、人妖たちの手も借りて、夜遅くまで仕分けが続いた。 この日、メルリード達は三男の幸弥に、虎司馬の不自然な急死が事実であることは確かめられたが、他のことに関しては「詳しく話せないんだ。ごめんね」となにやら訳ありの空気を漂わせていたという。 二日目の早朝から農場は忙しかった。 ユーハイムは昨日、蓮と買い込んできた苗の数々を整頓していた。 畑の土壌改良が午前中までに終われば、午後から最終日にかけて黙々と植える事になる。 一番と二番と八番畝にはトマト。三番と十二番畝には馬鈴薯。四番と五番畝には人参。六番と十三番畝には枝豆。七番畝には蝦夷蛇苺。九盤と十五番畝には法蓮草。十番畝には春菊。十一番畝には青梗菜。十四番畝には玉蜀黍。 蓮やユーハイムが一緒に倉庫から苗を運び出す。 からくり達も手伝っていた。からくりの瑠璃と一緒に鈴梅も仕分けと運び出しを手伝っていたが「収穫も大変でしたけど、植えるのも結構大変です」と額の汗を拭いながら、手の泥を落としてぺったりと床に座り込んだ。 小休止をしている背中へ、杏が近づいた。 「ねーねー、今いい?」 挙動不審の杏が「遺産についてどう思う?」と尋ねると、鈴梅は「うーん」と軽く唸る。 「私は……遺産は、受け取っても構わないと思います。何となくですが、虎司馬さんはミゼリさんに、好意を持っていたと思います。色々あって……歪んでしまっただけで」 憶測を述べつつも「あ、もちろん、許せないのは確かですけど」と言い添える。 「あら、昨日の話?」 メルリードが顔を出した。 杏から、鈴梅にきいたものと同じ質問をされたメルリードは溜息を零す。 拒否すべきだと考えていた。 「正直、私は迷ってるわ。その遺産があれば大きな助けになるでしょうね。でも同時にとても重いものを背負うことになる。あなたたちにそれを背負わせていいのかな、って……ごめんなさい、助言でもなんでもないわね。……あら、ネリク」 「朝食の支度できたぞ」 朝食後、桂杏に台所を任せたシャーウッドは、白螺鈿の馴染みの店に挨拶回りと買い出しへ出かけた。ついでに街の中で虎司馬の他界が、どう影響を及ぼしているのかも見てくるという。 白は近所に同じ様な話を伺いに出かけている。一通り用事を済ませたら白螺鈿に出かけると言っていた。メルリードもまた白螺鈿へ、影響を確かめに出かけた。この過程で、翡翠の値上がりが止まったことを知る。 農場に残った者達だって勿論休む暇がない。 ハッドは豪雪で荒れた森の整備に出かけた。放っておくと危険な樹木も多いので、アーマーの鉄くずが大活躍している。ついでに補修用の材木を確保しておく。 若獅と酒々井は畜舎が忙しい。 畜舎の清掃を済ませた酒々井が声を張り上げる。 「おーい、若獅ー! 俺、午後からマハの方を手伝うから、ちょっと離れるぞ」 「あー、分かった。堆肥用の麻袋は母屋の倉庫だぜ!」 重い上に汚れ仕事だ。完成した堆肥を畑用と売り出し用に分けて、次を作り始めなければならない。若獅に言われた通り、袋を探しに来て……酒々井はミゼリと出くわした。 今やミゼリは、足音で誰かなのか、分かるようになっているらしい。 目が見えずとも的確に名を呼ぶ。 そして遺産についての意見を尋ねられた酒々井は、がしがしと頭を掻いて、麻袋の束を脇に抱えた。 色々考えて「俺は、拒否すべきだと思う」とだけ呟いて身を翻した。 理由は……言えなかった。言えるはずもなかった。 知り過ぎている事は、秘密を抱えるのと同じことだった。 酒々井は二年近く、五行近辺で、ギルドの仕事を集中的にこなしてきた。関わった事件は一見全く関わりがないように見えて、実態は根が深い事を知った。遺産を受け取る事は、大なり小なり、そこへ関わる窓口をもうけてしまう。終わりの見えない戦いに、命を懸ける者達を見てきた。解決の糸口は……見つかっていない。 堆肥を詰める袋を持って戻った酒々井は「あれ? マハは?」と居合わせた蓮に尋ねた。 「食堂へ納品に出かけたが。暫く来れなくなるから、夕方まで手伝ってくるらしい。確かに伝えたぞ」 「……締め上げに、の間違いじゃないのか。まあ、店主の怠け癖と外装修繕なんかもマハが絞ってなきゃ、今頃そのままだったろうしな。そっちは畑の方は終わったのか?」 凍てついた空気のシャンクと店主を、仲裁した記憶が懐かしい。 「いや。まだだが……戻りついでに幾つか運ぶか」 雑談をしながら蓮が堆肥の袋詰めを手伝う。 ちらりと酒々井の顔を一瞥した。 「……浮かない顔だな。杏やミゼリに聞かれたか」 「遺産を拒否すべきだと言った。あくまで個人的な感想でな。そっちは」 「奇遇だな。同じくだ。奴が杏達に何を望んでいたにしろ、そこにあるのは人の闇と復讐だろう。杏達にはそんな物に触れてほしくはないと思ってな」 「そうか。俺もな。俺一人の意見で、全てを決めるわけにはいかないし、最終的には決定に従う。でも……反対した理由を伏せておいて勝手な言い分だが……家族に、危険と分かっているモノに触れて欲しくはないぜ」 ざくざくと堆肥を掘りながら、二人はそんな話をした。 その日の深夜遅く。 居間にいた久遠院は不揃いの桜桃を摘みながら、昨日、森で発見した樹木の位置を、昼間から延々と地図に書き起こしていた。その音を帳簿の音と間違えたミゼリがやってきて手伝いを申し出たが「ちがうよー」とけらけら笑う。雑談ついでに、やはり同じ質問がきた。 「遺産について……どう思う?」 久遠院は悩んだ。 拒否すべきだと思っては……いる。 「受け取らないのが良いけど、仮に受け取って金銭は各方面に寄付、茶封筒は如彩兄弟の前で受け取って中身を見ずに燃やしてしまう、と言う手も有るよ。虎司馬の復讐を引き継ぐ気はない証明になるし…………暗い話になっちゃったね。あ、そーだ。ミゼリん、ちょっとみんなを驚かさない?」 久遠院が何かをミゼリに耳打ちした。 三日目の早朝、メルリードは昨日の買い忘れと追加の買い出しに出かけていった。ハッドの榛葉家宛の請求書なる手紙を届ける意味もある。 そして、ほぼ全員総出で残った作付けをしていた。 鈴梅や久遠院、ハッドとシャンク、シャーウッドや桂杏もいる。 てきぱきと苗の位置を告げるユーハイムを、雌牛達を連れた酒々井が遠巻きに見ていた。 隣に若獅の姿がないのは、母屋で来月から氷を詰める保冷庫の整備をしつつ、せっせと加工品作りをしていた為である。 酒々井が見上げた空は青く澄み渡り、蓮の迅鷹の絶影が悠々と飛んで見回りをしていた。 主人の蓮はと言えば、栽培箱の支度中だ。 付き添っているのは白である。 「紫蘇をまた植えたいんです。あと新しいハーブや生薑、胡麻も欲しくて」 「欲張ると大変じゃないか? そういえば紫蘇は……何故か雑草と一緒に畑に生えてた気がするが」 「ええ? 本当ですか?」 昨年の話になるが、大葉と赤紫蘇は近距離にあったことと穂紫蘇を放置した為、種が飛び散りこぼれた。その為、雑草に混じってあいのこ、つまり交雑種が出てきている。 蓮がうろ覚えで畑を覗くと、やはりあった。 放置すると大変な森になるのは昨年の経験から理解しているので、白はせっせと栽培箱に交雑種と思しき芽を移動する作業に追われる。栽培箱に色々植えるのは次回になりそうだ。 蓮はハッドと午後から農場の修繕に出かけた。 へとへとに疲れ果てつつも、皆が寝静まる夜には、やはり夜食を片手に働く者の姿がある。 塩卵用に茹でた卵の殻を剥くのを、珍しく夜更かししていたミゼリが手伝った。殻を剥くだけなら見えずともできる。 「ありがとうございます。早く終わりますね」 「……あのね。桜香は、遺産について、どう思う?」 問われた白は天井を仰ぐ。 目を離した隙に、人妖の桃香が味見という夜食をしていた。 「私は遺産は受領せずに一票です。色々聞いてはおりますが、過去の復讐まで受取らずとも良いかと。未来用の切札として受取るには有用でしょうが、大事なのは未来です。最終的には、どちらもお二人の覚悟次第かと」 そこへ欠伸をしながら起きてきたシャンクが「何かないか」と白に声をかけた。 働きすぎると、時々夜中にお腹が減って眠れない時がある。 シャーウッドが毎晩作るまかないと桜桃の残り、温めた牛乳を机においた。 椅子に腰掛けてまず一口。 ミゼリがシャンクにも同じ質問をしてみた。 「それで、どうしたいんだ? 今まで私はお前達に聞く機会がなかった。それ故聞きたい」 シャンクは腰を据えてミゼリを見た。 口調から真摯な空気は伝わった。 「受け取らなければ何も変わらない。そう、何もだ。今まで通りの生活が続いていく。受け取れば厄介事に巻き込まれる可能性はあるが、この土地であった事や両親についても知る事が出来るかもしれない」 二つの可能性を提示してからシャンクは助言をした。 「厄介事は私達に押し付ければいい、その為の開拓者だ。その為の『家族』だ。知りたいのであれば遺産は受け取ればいい。知らなくてもいいのであれば、受け取らなければいい。……それだけのことだ」 シャンクは受領に重きを置いてはいたが、只一人、決定権を左右する言葉を選ばなかった。 選ばない代わりに、未来の苦難を肩代わりする覚悟があることを伝えた。 四日目の朝。 外ではユーハイムが蓮と作った栽培箱を軒下に並べていた。苗と種植えだ。 鈴梅はからくりの瑠璃と一緒に、残った畑の作業中だ。人手が足りないので、メルリードも手伝いに行っている。シャーウッドは桂杏と共に、土間で加工品の準備と作業に徹していた。明日はお祝いの宴をするつもりでいたから、手の込んだ料理は準備が忙しい。 酒々井と若獅、久遠院と白、ハッドは片隅で見守っている。 言葉を待つ狩野柚子平に、盲目のミゼリは手で探りあてた資料を……そっと押し戻した。 「私達は、権利を放棄します」 それがミゼリと杏が悩んで決めた答えだった。 狩野は「宜しいのですか」ともう一度訊ねると「遺産は受け取りません」と、はっきりした言葉が返ってくる。 「かしこまりました。もし宜しければ、理由をうかがっても?」 ミゼリは暫く沈黙してから口を開いた。 「……色んな人の言葉や考え方を聞きました。それから考えたんです」 「どんな風に?」 「お金があれば、勿論私達は豊かになるでしょう。虎司馬さんが沢山の土地を買い占めていたことも家族からきいて知っています。中身が分からない封筒については……『如彩を潰して百家を立てようとしていたのでは』という狩野さんのお話の通りだと過程すれば、それは『私達』には有益だろうと思いますが……『如彩』の方には百害あって一理なしの品物だと考えました」 「……それで?」 「お金や土地だけでも莫大な財産です。うちは今ひどい赤字で、ここにいる家族に多額の借金をして、支えてもらっていますから、受け取れば恩返しができる事は分かりました。それに私達の祖父母が、如彩の方に陥れられた、という噂話もきいています。でも」 「……でも?」 「父と母ならどう思うか考えたんです。敵を討って欲しいと思うかどうか。結論は……否でした。例えば私に子供がいたとして……子供が私の仇討ちに、とあえて危険な人生を歩くより、何処かで幸せになって欲しい、と考えると思います。私達は自分たちの農場経営すら、人の手を借りなければ再建できませんでした。一気に裕福になれるような器量はありません。多額の資産を譲り受けても、きっと使い潰すと思います。そうでなくとも多額のお金は魔物です。以前、裕福だった頃……我が家にはお金目当ての人達が沢山いました」 それで杏は人間不信になり、権利者であるミゼリは乱暴されかけたのだ。 「ですから、遺産は受け取りません。ここで……身の丈にあった暮らしを続けます」 ここには貧しくとも幸せがある。 微笑んだ狩野が、杏達に遺産放棄の書類に一筆書かせ、遺産を包んで立ち上がった。 別れを告げて玄関を出る時、白と蓮が声をかけた。 「あの……ご兄弟の事、ご愁傷様です」 「あんたも大変だな。よく解らんが……娘が友達と仲直りできたのか心配してたぞ」 軽く頭を下げて遠ざかる。 狩野の背中を、若獅が走って追いかけた。 「まってくれ! なぁ、狩野……さん、虎司馬は一人で戦って……怖くなかったのかな」 敵だった男。 何度も迷惑な思いをした。 罵声を上げて怒り、憎んだ男はもういない。 「……身を焦がす怒りは、恐怖を凌駕します。そして孤独には……慣れるものですよ」 それが答えだった。 若獅が見送る中で、故人と瓜二つの男は……静かに遠ざかって、道の果てに消えた。 ふわふわと漂ういい香り。 ミゼリの声が戻った祝いにと、今日は豪華な料理を作っている。 材料は惜しまない。 今や農場の胃袋担当となったシャーウッドの手伝いを終えた白は、自家製バターと生クリームでパンケーキを作っていた。目が不自由なミゼリは生クリームづくりを手伝っていたが、腕がへにゃへにゃに疲れている。 「はい、ミゼリさん。後は私が。御馳走になりそうで良かったです」 様子を見守るシャーウッドが鉄板に菜種油と大蒜の欠片を叩き込んでから、野菜を炒める。 既に完成している今回の農場名産物キッシュもまた野菜主体だが、実は早朝に「肉があればもっと豪華なものも出来たんだろうけどな」などとシャーウッドが呟いたので、小耳に挟んだ蓮が昼間、森へ兎を狩りに出かけて帰ってきた。とはいえ。蓮の帰宅段階で仕込みは終了していたので、蓮の獲得した肉は絶品煮込み料理に大変化を遂げた。 料理上手が多いと素敵な驚きが沢山ある。 ここで恒例のシャーウッド先生による自慢の一品の作り方をご紹介する。 まず、じゃが芋を洗って薄くスライスし、自家製バターを敷いた大きな鍋に並べて火にかけ生地にする。次に別の鍋で刻んだ葱、青梗菜、緑花椰菜、人参等を炒め、ハーブ類で軽く味付だ。そして炒めた野菜類をじゃが芋生地の上に入れ、その上から牛乳と卵、強めの塩、ハーブ類を溶いたものを流す。最期に蓋をして弱火でじっくり焼き上げ、裏返して裏面もしっかり焼く。 以上である。 襖を取り払った和室では若獅が子供達と飾りを作り、蓮が高いところの飾り付けを手伝っていた。 「ネリク達はさ、料理の魔法使いだよなぁ」 紙細工の花を作りながら、うっとりと呟く若獅は、次々増えていく料理皿にそろそろと手を伸ばす。 ぺちん、とシャーウッドが手を叩いた。 「はい、却下ー。おだててもつまみ食いはダメだぞ。子供達がマネするだろ?」 「つ、つまみ食いじゃないぞ、味見してるだけだし!」 「夕食前に無くなっちゃうだろ。全く。それ終わったら皆を呼んでこいよ」 そこへ賑やかな声が一人増えた。 「はは! レッツパーリィーじゃの! 菓子でも馳走してしんぜよ〜ぞ!」 珍しくハッドが台所にいた。母国の菓子を披露するというので、普段の二割り増しくらいに輝きながら、蜂蜜をふんだんに使った焼き菓子を子供達の席に置いていく。 「それでは、かんぱーい!」 賑やか印の若獅が湯飲みを掲げた。白がじゃんじゃん料理を運ぶ。 この豪華な食事を堪能する為に、みんなで仕事を頑張った。 例えば、普段なら深夜までかかる帳簿の整理を夕方の内に終えた鈴梅は、食事にがっつく杏の口を拭ったりしていた。 おままごとみたいで見た目に和む。 酒々井は料理を片手に渋い顔をしていた。ミゼリの回復は嬉しいが、以前入院していた杏の傍に潜んでいた夢魔の存在が気になる。傍目には虎司馬に協力していたとも取れる様子だが、虎司馬は死んだ。不可解が重なるため「さっぱり分からねぇ」と呟いていた。 「そんなに考えこんでいると、若いうちに頭がハゲあがるぞ」 酒とお猪口を手にしたシャンクが声をかけた。 「誰がハゲか。どうかしたか?」 「まあ、のめ」 つきあえ、と言わんばかりに、ずいと差し出した杯に「お、おぉ」と気圧され気味の酒々井が様子を伺う。とくとくと酌をしながら、シャンクは横に腰掛けた。 「……どうかしたか?」 本日二回目の問いかけに、シャンクは隣を一瞥した。 「統真と若獅は、よく私の生けに……ごほん、手伝いをしてくれた。礼を述べておこうと思ったまでだ。感謝しているぞ」 「……なあ。俺の聞き間違えじゃなきゃ、今さりげなく生……」 「む?」 酒々井の追求を遮り、急にシャンクがぺたりと酒々井の額に手を当てる。 「もう酒が回ったのか? 顔が赤いぞ? これからという時に幻聴とは情けない。折角、酌をしにきたのだ。溺れるまで呑むがいい。なあに、目を回しても介抱してやろう」 ずいずいと酒をすすめるシャンク。 そう。 間違っても『生け贄』だなんて言ってない。ここはうやむやにして逃げ切るが勝ちだ。 蓮や鈴梅と遊び転げる子供達へ「箸を持って騒がない」とシャーウッドが一声投げる。視線を映せば、白や久遠院と一緒にパンケーキを食べているミゼリが見える。 「何事もなく済んで、よかったよ」 シャーウッドの声をメルリードが拾った。 「……難しい選択だったとは思うわ。私たちだって簡単には答えを出せないもの。でも思いっきり悩み抜いて出した答えなら、私はその答えを尊重するわ。あの子たちがこの選択を後悔するかどうかは、これからの私たちにかかってる」 だからネリク、と。 メルリードはシャーウッドの瞳を見た。 「頑張らないとね、あの子たちを後悔させないために」 「ああそうだな」 一方その頃。 「若獅」 酒々井を半ば酔い潰したシャンクが蓮と場所を交代し、若獅の所へやってきて「堆肥作りでは世話になったな。助かった」と感謝を述べた。 あまり表情に出さないシャンクの意外な挨拶回りに一瞬瞬きを忘れた若獅は、にっと笑って「どういたしまして」と返した。 「うん、こっちこそ。あー、まんぷくまんぷく。極楽だな!」 鈴梅と遊ぶ杏達が微笑ましい。 遠巻きに眺めながら、畳の上にごろんと横になった。 そんな若獅を見た桂杏が「食べた後に寝ると牛になりますよ」と言いながらも、座布団を放り投げる。枕用だ。 「へへ、ありがと」 「今日だけですよ、もう」 腹這いになり、埃っぽい座布団を丸めて顎を乗せた若獅が悦に入る。 そして視線だけ杏達に向けながら「最近、よく思うんだけどさ」と桂杏にくぐもった声を投げた。 「俺達って言うか、俺はさ……ここ縁の者でもないし、行きずりの開拓者の一人に過ぎないのかもしれない。でも、ミゼリや杏が必要だと思う時に傍にいられる存在に……俺もなりたいな、って思う」 ささやかな願いごと。 話を聞いていたシャンクは杯に移る自分の顔を見て……少しだけ驚いた。見慣れた横一文字の口元が、微かに弧を描いていた。情がうつったかな、と朧に思いながら酒を呷る。 桂杏もまた胸中で自問自答していた。 今回の遺産騒動も、ひょっとして姉弟の未来や可能性を摘み取ってしまっただろうか、とも考えはした。過去の出来事と向き合う時が、今ではないことは間違いない。 という確信だけはあったが……何が正解だったのか。 正直に言えば分からない。 それでも。 「楽しそうですね」 目の前にある賑やかさが、染み渡る落ち着いた空気が……答えのような気もした。 「はいはい皆さん、ちゅうもーく! これからボク達が歌っちゃうよ!」 久遠院が羽妖精の姫鶴と……なんとミゼリを連れ出した。久遠院は伴奏だ。 「ミゼリんに聞き覚えの多い童謡をきいて、夜にこっそり練習したんだ」 ぽろろん、と楽の音が零れた。 「……はーるよ、ここさこ。(春よ、此処へ来い) となりのあんにゃが、わーちげ、きたすけ。(隣の長男が私の家に来たから) ふきのとうどと、つみにこか。(蕗の薹と独活を摘みにいこうか) なーつよ、まつりら。(夏よ、祭りだ) となりのあんにゃさ、なーちげ、きたすけ。(若い男性があなたの家に来たから) えんげなおめさん、きぃつけれ。(綺麗なおまえさんは、気をつけなさい)」 春夏秋冬を歌ったものだろう。地元の言葉が混ざった歌は、半ば呪文のようだった。 演奏と歌に拍手を贈る。 蓮が娘に作ってもらったお守りをみんなに配った。 杏やミゼリ、住み込みの女性とその子供、そして仲間達にも。そして杏に告げた。 お守りの中には『心と心の繋がりは、決してきえることはない』と記されている。 「杏、忘れるな。例え離れていても、俺達の心はお前達と共にある」 明日になれば一旦、神楽の都へ戻らなければならない。 開拓者は皆、神楽の都に居を構える。 依頼を受けて各地を訪ねて、結果を報告する義務がある。それは依頼の形を装って此処へ来ている者達にも当てはまった。 この幸せな時間が夢だというなら、覚めなければいいのに。 「先を越されたな。蒼馬ばかり格好つけてずるいじゃないか」 笑ったユーハイムが、小さな鉢を抱えていた。 久遠院と森を調べた時に見つけた苗木である。これをミゼリに手渡した。 聴覚も声も戻ったが、今だミゼリの瞳は闇だけを映す。慈しみの微笑みは届かない。 それでも、手を触れることすら拒絶された頃とは違う。 長い時間が、皆の努力が、彼女を変えた。 「……愛おしい君。花を咲かせ、実を結ぶのはこれから」 あれは遠い昔のようにも思えるけれど。 「いつでも、どこにいても、君たちの幸せを祈ってるよ」 歌うような囀りが、直接届く日が来るとは思わなかった。 「……ありがとう」 人形のように窓辺に座り、反応一つ示さなかった遠い季節に、別れを告げた。 朝霧が深い農場では、まだ太陽の光が届かない。 うっすらと物の輪郭が分かる程度の明るさだが、家族達は身支度を終えて母屋を出た。 ハッドがあくびをする横で、桂杏が「忘れ物はありませんか」と身支度を心配し、シャーウッドは朝食の支度を終えて鍋に蓋をしていた。雇いの女性達が目覚める頃には、絶品の朝食が待っている。 母屋の外にいるのは、メルリード達開拓者だ。 見送りに出てきた杏とミゼリ。そして玄関にいた子犬の絆が「きゃん」と吠える。 皆、忙しい身なので一ヶ月に数日しか住むことができない。楽しくて賑やかな時間が過ぎるのはあっという間で、最終日の翌朝には農場を旅立ち、徒歩で結陣へ戻り、そこから深夜0時に開く精霊門から神楽の都へと戻っていく。 「あ、そーだ。ミゼリん。暫く来れなくなっちゃうけど、この鈴が少しは寂しくなくしてくれるから。大丈夫、本当に寂しくなる前に、また、逢いに来るよ」 久遠院がイヤリングを贈った。 その横では、杏がわしゃわしゃと酒々井に頭を撫でられていた。 「少しでも周りの人間の様子がおかしいと思えば、迷わずギルドに声かけろ。表向き農場仕事で報酬安かったり現物支給でもいいから」 「そうそう。お前やミゼリに何かあれば必ず駆けつける。俺達は家族だからな」 蓮も頭を撫でてやった。 杏はこうして、みんなに頭を撫でてもらうのが好きらしい。 幼くして親と死別し、姉が抜け殻状態になってしまった時期が長かった所為で、杏は年相応の甘え方を忘れてしまっていた。必要に迫られて大人にならざるを得なかったのだろう、とは想像に容易い。 だからつい、手を伸ばす。 頭を撫でる。 たったそれだけのことで喜ぶ姿は、何人かの胸を軋ませた。 誰かに褒めてもらうことすら『高望み』になってしまった子供達に、彼らが与えてやれるモノの一つだと、理解していた者は少ないかもしれない。頼れる者がいない不安と孤独。詐欺紛いの行いにまで身を落とした過去。それは一年以上もの月日をかけて現状までに改善された。 「暇つぶしには、丁度よかったぞ」 シャンクが杏の頭を撫でた。 素っ気ない言葉とは裏腹に、初めて此処へ来た日とは全く違う気持ちだった。 杏がシャンクの手を両手でつかんで「じゃあさ」と声を張り上げる。 「また暇をつぶしにきてよ! ね!」 そう言って蓮や酒々井たちの服の裾を掴んで無邪気に笑う。 ……帰ってきてね。 ……いなくならないでね。 ……『また』どこかへ消えたりしないでね。 そう、怯えながら言われているような気がした。 幼い杏が覚えているかは不明だが、男親は開拓者だったと聞く。例えば「すぐに帰る」と言って日付がのびたり、二度と帰ってこなかった過去位は、推し量ることはできた。 そんな陰鬱な様子を吹き飛ばすように、最期に男性陣の腕にぶらさがってみたり、足にしがみついて遊んでみたりする。 心のままに遊ぶ余裕を、与えられたことが嬉しい。 騒いでいる内に、畜舎から若獅、畑の方からユーハイムが戻ってきた。 「ごめんごめん、遅れた。あっちは賑やかだなぁ」 「夜明け前なのに、蒼馬たちは元気だね」 「お疲れさまです。大変な事がたくさん有りましたけど、笑って過ごせるのは、幸せです」 微笑ましそうに見守る鈴梅の言葉に「そうだね」とユーハイムが呟いた。若獅も笑う。 「あはは、……大変な事も沢山あったけど、ああいうの見てると、やっぱり俺、此処が大好きなんだって思うよ」 緊張感のない笑い声が、幸せの証だと思う。 ユーハイムは家族達と朝露に光る畑を見比べて「ささいなことでも心が揺れるね」と独り言を呟く。 ギルドに身を置く開拓者の大半は、アヤカシ退治や面倒ごとを解決して依頼人との縁が途切れる。それを考えると、農場仕事は異例といえた。 多額の依頼料など手に入らない。 極めた技術を披露することもない。 名誉もない。 賞賛もない。 ただ地味で平凡な仕事だ。 それでも『家へ帰ろう』と思わせる『何か』がある。 形がないけれど、確かなものが。 「いってらっしゃーい」 杏が手を振る。 かつて『さようなら』と言われた言葉が『いってらっしゃい』に変わったのはいつだったろう。 白が道中のお弁当を配りながら「いつもながら、感慨深いですね」と囁いて農場を振り返った。戻る場所。血の繋がりがなくとも、大切な家。 霧が晴れていく。 青い空が顔を出し、朝陽が眩しく家族を照らした。 もうじき。 君と過ごす、夏がくる。 |