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■オープニング本文 前回のリプレイを見る 深夜遅く。 杏が寝静まってから、人妖たちは縁側で寝ころんでいた。 「なぁ、ブリュンヒルデ」 「なによ、炎鳥」 「この前、知らない人が来ていただろう?」 「ああ、ミゼリの状態がアヤカシ関係じゃないのかって、アレ?」 「あの時、関係ないって分かって俺すごく嬉しかったのに、かなしいんだ」 「は?」 「だって、ミゼリがこの状態なのは、杏や俺達のせいかもしれないってことだろう? ずっとあのままだったらどうしよう、わかんねぇ‥‥自信なくなってきた」 「ばかね! 泣かないでよ!」 その時、ぺたり、と立ち止まった足跡は‥‥きびすを返して歩き出した。 通り過ぎた各部屋には、眠った杏と雇った女性達がいた。 + + + 五行結陣の遙か東、金山を越えた先にある白螺鈿。 その傍にある農場の一つに、幼い杏と障害故に嫁にいかず日々を暮らす姉のミゼリ、そして二人に付き従う人妖のブリュンヒルデと炎鳥は暮らしていた。 多数の開拓者を雇い、土地を開墾し、小屋や生き物の世話を再開し、農場が本来の機能を取り戻しつつあっても、姉のミゼリは視覚と聴覚、そして声を失っており心を閉ざしていて殆ど何も出来ないままだった。 害を及ぼさないと判断した者のみ、彼女に触れることができたが、ただそれだけ。 彼女の周囲の空気だけは、かわらず静かにたゆたっていた。 現在、開拓者と雇い入れた者の力で農場を元来の姿に戻すための準備が始まっている訳だが、当然、家畜の世話と畑の手入れで、家の中は食事と就寝以外、殆ど誰もいない。 開拓者が不在の間は、杏と人妖の三人が家畜の世話をしている。 炎鳥が鶏小屋の清掃と餌やり水やり卵の回収をして、女性陣と食事を作る。 杏とブリュンヒルデは畜舎の雌牛十二頭に餌を運んで水を運び、搾乳をして戻る。 これでも楽になったほうだ。 雇った女性二人が、畑の水やりと食事の支度を頑張っている。 開拓者達が耕した畑は3000平米、つまり大凡900坪。 しかしその約800坪はそのまま手つかずとなっている。 というのも。 開拓者達が仕入れた種や苗は、約百坪に作った畝にほぼ全て納まってしまったからだ。 この百坪には、開拓者が頑張って作った25Mの畝が24本ある。 このうち畝14本は未使用。 来年三月に収穫ができる予定の牛蒡の苗100株は、畝1本に納まった。 十一月に収穫予定の根深ネギや、九月収穫予定の人参もそれぞれ同様に畝1本ずつ。 数が不明で二つに割ったりしながら植えた種芋は、合計四百十個にもなり、畝五本を占領している。残り畝2本に葉物をそれぞれ三分の二ほど植えていた。 「また雑草が生えてきたな」 炎鳥の眺める先にある、手つかずの畑。 「まだ刈る程じゃないけど、一ヶ月もすればボーボーよね」 貸すほどある畑が広がっている。少なくとも現在作物を植えた場所は、そもそも間引く必要性がでないように、作物にあわせ十センチ或いは三十センチ間隔で苗や種を植えてある。 耕したまま放置してる場所はともかく。 手つかずの畝十四本はあまりにももったいない。とはいえ、無理をすればまた誰かが過労で倒れかねないのだが。 それに雇った女性の子供二人は、現在、名もない子犬を世話して遊ぶので手一杯だった。母屋の傍に囲って作った栽培箱に植えた葉物の三分の一、そして謎の苗2種類百株に水やりをしているので、頑張っているほうなのだろう。 「あれ、枯れそうねー、そういえば子供達が畑に変な穴があるって騒いでたわ」 実はモグラの穴なのだが、対策は開拓者がきてから考えようと話し合う人妖たち。 塩卵は百五十個が現在瓶の中に漬かっている。一ヶ月というからもう少しかかるのだろう。市に出すには、まだ少しだけ早い。 前回、市場について調べてもらってきたのだが、四兄弟の管轄区ごとに客層にも品目にも違いがでている。 誉の市には老舗が並びやや格式高く、高齢者を含める年輩の利用者が多い。 神楽の市には小売りや総菜屋が多く、利用者も単身世帯の若者が多数を占める。 幸弥の市にはこれといって目立った特徴はないが、可もなく不可もない環境で、年輩から家族連れが多く見られた。 虎司馬の市には安定供給できる直営農家に加え、白螺鈿の外から来た商いが多くをしめ、珍しいものもあり、観光客向けに最も活気が見られたという。 それぞれの町内にも同様の特徴が確認されていた。 「どこにいくか賭けだよなー」 「開拓者と相談よ。買い足した牧草、来月にはまた買ってこないとねー。そういえば個々の野菜や卵に興味があるって料理人が何件か来る予定なんだけど、どっから聞きつけてきたのかしら」 「声かけたのが居たんじゃないか。いつくるんだっけ、確か開拓者の来る二日目と四日目‥‥あれ?」 ミゼリがいない。 そういえば、朝からみていない。 散々さがして、見つかった先は畜舎。 牧草の上に寝ていた。そしてなにより、そこから動こうとしなかった。 食事もろくにとってくれない。 「尋ねても首を振るだけで‥‥訳が分からないんだ、俺達どうしたらいい?」 炎鳥はがっくりと肩を落として連絡に来たのだった。 |
■参加者一覧
酒々井 統真(ia0893)
19歳・男・泰
若獅(ia5248)
17歳・女・泰
ブラッディ・D(ia6200)
20歳・女・泰
アルーシュ・リトナ(ib0119)
19歳・女・吟
ロムルス・メルリード(ib0121)
18歳・女・騎
久遠院 雪夜(ib0212)
13歳・女・シ
ミシェル・ユーハイム(ib0318)
16歳・男・巫
白 桜香(ib0392)
16歳・女・巫
ネリク・シャーウッド(ib2898)
23歳・男・騎
桂杏(ib4111)
21歳・女・シ |
■リプレイ本文 広大な田園風景を抜けた先にある、城のような大きな町並み。 それらの傍らに農場はあった。 「うわー! ひろーい、ここが白螺鈿なんだ。鬼灯で色々と話は聞いてたけど、実際来るのは初めてなんだよー」 やや興奮気味の久遠院 雪夜(ib0212)は、未知の環境を前に興奮気味だった。 迎えに来た雇い主の少年杏と、自由気ままな人妖達に「はじめまして、よろしく」と挨拶した。 杏がふと、ミシェル・ユーハイム(ib0318)の手荷物に興味を示した。 「なぁにそれ?」 「これ? 故郷ではハーブと言うんだけど、ひらたくいえば薬草かな」 ユーハイムは神楽の市に立ち寄り、香草の種を調達してきた。余っている畝に根付かせ、料理や虫除け、様々な分野に活用しようと考えたようだ。 「ジルベリアの言葉ではローズマリー、ルーヘンダ、ゼラニウム、ワイルドストロベリー」 「あれ? でも名前が違うよ?」 杏の言うとおり、種の入った小袋には漢字が書いてある。 「そうそう、実は天儀本島の方では別の名前が付いているみたいでね。驚いたよ」 実は、いずれも普段意識していないだけで身近にあったりする薬草や香草ばかりだ。 野草に詳しくない者が見れば、単なる雑草や草花にすぎないが、意味を知る者には多大な恩恵を見たらしてくれる。 まず、ローズマリーは『迷迭香』と書いて、一般的にマンネンロウと呼ばれる。香辛料、精油の薬効、花も食べられるという優れものだ。ゼラニウムは『蚊連草』と書いてカレンソウと読むのだが、字の通り蚊を退ける薬効を持っている。ヘンルーダは『芸香』と書かれており、駆虫剤として役立てる者が多い。ワイルドストロベリーは『蝦夷蛇苺』の名前で、繁殖力の強さも相まって古くから広く人気を集めていた。 「楽しみだね!」 野菜だけでなく、こういった物の育てる楽しさは、また格別だ。 杏の笑顔に、ユーハイムもなにやら嬉しくなってしまう。 でも楽しみばかりではない。 「確か、もうひとりいるんだよね? ご挨拶ってできるかなー?」 久遠院の言葉に、杏の表情が暗くなった。ユーハイムが人妖達に様子を尋ねても「相変わらずよ」という返事。 「全く、ほっとくと色々問題が出てくるな」 感動すら覚える。最も、何事もゼロから始めているから仕方ないのかも知れない。 いつもの事ながら、ネリク・シャーウッド(ib2898)は積み重なる問題に溜息がとまらなかった。背伸びをしながら、滞在中の作業について考える。どこから手をつけたものか。 「ミゼリはかなり深刻そうだし。まぁ地道に頑張るしかないか」 ミゼリといえば。 ロムルス・メルリード(ib0121)は、じっと傍らの男達を眺めた。 「ネリクと統真とミゼリの三角関係か‥‥勘違いしてくれたおかげで、とりあえず凌ぐことはできたようね」 しみじみと呟く。酒々井 統真(ia0893)はあれはふりだぞ、と念を押す。 しかし何処かメルリードの空気が剣呑だ。 「‥‥まさかとは思うけど、ネリク。本当のことだったりはしないわよね?」 可哀想で世話している間に、うっかり何かが芽生えてしまった‥‥とか。 年頃の乙女としては、余計な心配が脳裏をよぎる。 様子を眺めていた若獅(ia5248)が、微妙な空気の意味を分かっていないようで、きょとり、と周囲を見回した。 「一先ず、虎司馬の求婚は退けられた訳だけど‥‥何だか多角関係? ってやつなのか?」 「違うって。俺にだって思い人の一人や二人いるんだぞ」 賢明に弁解する酒々井。変な噂が広まっては困る。それはシャーウッドも同じだ。 絶賛勘違い加速中の乙女を前に、まずはこっちだなとメルリードの手を引いた。 人前でする話でもないな、ということで耳元に囁く。 「‥‥ロムルス。そんな事実はないし、俺が心に決めてるのは今も昔も一人だけだ。そういうわけだから心配するな」 殺し文句だ。 わかってるわよ、とそっぽ向く。誤解も解けたところで本題に入った。 ミゼリの状況は、誰の目からみても良いとはいえない。 しばらくして酒々井は、ガリガリと頭をかいた。 「ミゼリが畜舎から出ないのは、もしかしたら「識別できない相手」が家によく来るようになったせいかもな‥‥‥‥急過ぎる自覚はあったが、予想以上だったか‥‥その場は凌いだが、新しい問題も作っちまったし、空回りだな」 覚悟を決めた酒々井は「ひとつ相談がある」と手を挙げた。 「ミゼリを怖がらせない為にも、今回俺はずっと森の方にいるつもりだ」 「ええ! いくら夏が近いといっても、まだ寒いよ!」 心配した久遠院に、酒々井が笑う。 「流石に野宿はしねーよ。天幕で野営するだけだ。水源や蜂のこともあるし、じっくり調べたいこともあるしな。農場の方の仕事は雪白に手伝わせよう」 人妖の雪白は「しょうがないなぁ」と言いながら了承した。 「じゃあ、食事は天幕の方へ運ぶことにするか」 シャーウッドの提案に「ああ、頼む」と笑った。 白 桜香(ib0392)は動揺を隠せず、おちつきなくアレコレと不安なことを口にした。 「ミゼリさん、一体どうされたのでしょう‥‥心配です。私達が色々バタバタしているのを、気にされてなければ良いのですけど」 急に接しすぎたでしょうか、と白が肩を落とせば酒々井もまた思い当たるところがありすぎて落ち込んでしまった。空気が重い。 「そんなことないわよ、きっと」 メルリードの慰めもまた、尻窄みに小さくなってゆく。 様子を聞いていたユーハイムは呟いた。 「ミゼリは‥‥もしかして聞こえてるのかな? 感じ取って、かもしれないけど」 実際会ってみないことには、判断がむずかしい。 しばらく悩んでいたメルリードが手を挙げた。 「ミゼリが心配だから、私は畜舎で寝泊まりするわ。そっちの仕事も手伝うから安心して」 やや負担が大きくなるが、ここは譲れない。 焦っては悪化しかねない。じっくりと時間をかけて付き合う必要があるとメルリードは判断した。「夜は私もご一緒します」と白も申し出る。心配でたまらなかった。 運ぶ量を考え、シャーウッドが献立に悩み始めた。 「森に運ぶ分は鍋にでもいれるか‥‥あとミゼリの食事も作っておくから、運んでくれよ」 畜舎で寝泊まり宣言した面々に、まるでおかんのように運び入れる物について話し出した。メルリードが「一緒に来る?」と伺ったが「まさか、やめとくよ」と返事が返った。 「怯えさせたくないからな。‥‥あいつの好きなものを少しでも作ってやるのが、俺に出来ることかな。少しでも安心できるならそれでいい。あとは任せるさ」 出来ることを、精一杯。 若獅は肩を落としてしょぼくれた。 「ミゼリは、何か気を遣ってるのかな‥‥?」 心を閉ざしていた少女が何を考え、何を思い、どうしてそういう結論になったのか。 「こういう時、ミゼリに俺達の気持ちを上手く伝えられないって‥‥もどかしいなぁ」 見えることが、聞こえることが、話せることが。 ここまで大事なことだとは思わなかった。 同じく元気のないブラッディ・D(ia6200)が「そうだ‥‥ね」と首を縦にふる。 「何ていうか‥‥今まで生きてきて知らない気持ちをいっぱい感じるのって怖いよな。俺も、ね」 心配しているだけなのに、ままならない。 「‥‥皆が、ミゼリさんの事を大事に思ってる事が、伝われば良いですね」 白の呟きを「そうだね」と若獅達が頷いた。 頬に手を添えたアルーシュ・リトナ(ib0119)もまた、何処まで触れて良いのか測りかねていた。しかし悩んでいても始まらない。やるべき事は山ほどある。 「今日なんですけれど、砂糖がまだありますし、卵とバター、小麦粉でジルベリアの焼き菓子を作ってから、杏さんとご近所周りをしてきたいと思っています。私のフィアールカを荷馬車に繋いで一緒にいきますから、何かあれば言ってくださいね」 相談しながら、焼き菓子を杏にもあげよう、とぼんやり考えた。 賢明に頑張るあの子に、ご褒美くらい、あってもいい。 なにしろ今回は忙しいのだ。 桂杏(ib4111)が町中で声をかけた料理人達が来てくれることになっている。活動がじわじわと実る様に、胸が躍った。 「声をかけさせて頂いた方が来てくれたのなら嬉しいですね! あ、でもそれ以外の方はお断りとか、そんなんじゃないですよ」 農場の体勢が整えば、いくらでも迎え入れたい。 長い目で見て、これから先が正念場なのだから。 「農場を知って頂くこと、興味を持って頂くことはとっても大事ですから」 感情の起伏が少ない桂杏の顔にも、知らず知らず笑みが宿る。 「同感だな」 「そうよ、がんばんなくっちゃ! キリキリ働いてもらうから覚悟してね!」 人妖の炎鳥とブリュンヒルデが大声で叫んだ。 元々が流れの開拓者なだけあって、酒々井の野宿準備は瞬く間に終わった。 自分の代わりに働く雪白に仕事を言付け、去っていく彼の一言はといえば。 「心配すんな。蜂は狩ってくるぜ」 森に生息する蜂をどうにかできないかと、リトナやシャーウッドと相談した結果、どうにかするのは明日に回して、蜂の巣の位置、数の調査を中心にすると言った。終わり次第、牧草を刈りに行くということで、鎌も忘れない。三日目は母屋に一時帰宅すると約束した。 「気をつけてねー!」 久遠院のかけ声を後ろから眺めていた人妖のブリュンヒルデは、うんうんと頷いた。 「おじいさんは山へ芝刈りに! って感じね」 「森の間違いだろ。大体そこまで歳じゃないってば」 つっこむ雪白。案外馴染んできているのかも知れない。 ところかわって、放置された旧畑。 この農場は、かつて大きな農家だったに違いないと桂杏は思った。 開拓者達が昨年末から苦労して手入れをしてきた場所だけで約900坪ある。 しかしそれよりも広大なこの土壌を腐らせておくのは、あまりにも惜しい。 「ここを放牧地にできれば」 既に柵は修復しているのだから、わざわざ森へいく必要もなくなる。 「糞に牧草の茎を植え込む場合は、畜舎で牛糞を汚れた寝藁ごと回収し、旧畑に散布するとしましょうか」 桂杏は牛乳の殺菌やチーズに関しても目を付け、色々と考えを巡らせていた。 これから忙しくなる。 戦いとはまたひと味違った闘志が燃え上がった。 勿論、体力がついていくかどうかは、また別の話ではあるのだが。 荷車はどこまでも長閑な道を行く。 焼き菓子を作ってから杏と出かけたリトナはといえば、近隣の農家を尋ねてまわり、お礼を述べたり、虎司馬の様子を聞いて回った。虎司馬は相変わらず強引な手段で土地を買い占め、様々な施設を増設しているらしい。 「あの大金はどこからくるんだろうねぇ」 「気を落とさないで頑張っていきましょう。圧力に屈してはいけません。これからも宜しくお願いします」 地道に挨拶してまわりながら、リトナは養蜂を営んでいる家はないかと尋ねて回った。どうやら鬼灯の里寄りの山麓に、ひとり、趣味で作っている人物がいるらしい。 「ありがとうございます。今度尋ねてみます」 昔の酷い関係が、少しずつ改善され始めていた。 戸を閉めて居留守をされていた頃と違い、皆、話を聞くだけ聞いてくれる。親切な人に鍵って言えば、こうして世間話ついでに助言も与えてくれた。そして杏が荷車に戻った時を見計らって、こんな話を切りだした。 「‥‥あの、昔、杏さんの農地が開かれる前の様子や彼のお父様が此処に農場を作った経緯などをご存じではありませんか?」 「そうさな。随分と変わった夫婦だった覚えはあるけどねぇ」 高齢の老婆は、そんなことを言った。 畜舎の扉を開ける。 むわっとした、獣の匂いがメルリードの鼻孔をついた。 畜舎の中で好き放題に暮らす雌牛たち。干し草の上にはミゼリがいた。 「掃除が必要だな」 「ブラッディ。今日の掃除は私がするから、材料調達と雌牛の世話を頼むわ」 「確かになー」 木や石と氷で出来る簡易冷蔵庫の製作を頼まれたブラッディは、手持ちの資材を眺めて悩んでいた。栽培箱も沢山欲しい。材料調達にいくなら、雌牛たちの協力はかかせないというものだ。 「たまには牛も思いっきり散歩したいだろうし、運動も大事!」 思い立ったが吉日だ。 必要な量を計算して、斧を持ち、戦乙女と名高き雌牛たちを振り返る。 「皆ー、いくよーっ!」 雌牛たちの目が出番にぎらつく。 「帰ったらブラッシングしてあげるから手伝ってくれな?」 森で使えそうな木材。冷蔵庫の石壁にできそうな石材。粘土にできそうな土が沢山あれば、場所を記録して必要な分を取りにいってもいい。採取した材料は牛達にも少しもってもらおうと考えを巡らせながら、大いなる牛飼いは旅に出た。 「あ、蜂に出くわさない様に注意しような」 蜂に追いかけられてはたまらない。 雌牛を連れ出したブラッディを見送り、掃除を始めるかに思われたが、メルリードはミゼリに近寄った。 「ミゼリ」 手に触れる。抵抗はない。ただ見えない目から戸惑いの色は伺い知れた。 「新しい仲間を紹介しにきたの。いいかしら」 手に文字を記し、様子を伺ってから、メルリードは入り口の所で佇んでいた久遠院を呼んだ。既にミゼリがどういう状態か聞かされていた久遠院は、まるで壊れ物に触れるような間隔で自己紹介をした。怯えさせるのではないか、という不安と焦り。 「時々覗きに来るね。今日は天国と一緒に子犬の躾をかねて、モグラ退治をする予定なんだよー」 「ええ、お願い」 「いってきまーす」 この元気な声が届けばいいのに。 遠ざかる少女の後ろ姿を見送ると、メルリードは本題に入った。まずはミゼリの食事を元の状態に戻さなければ。じっくりと賢明な説得を重ねてから、メルリードは最期に断言した。『母屋へ帰らないのなら、私もここで寝泊まりするわ』と。 この日、白螺鈿への買い出しにはシャーウッドに加えてユーハイムと若獅も同行した。 「おれはいつもの店に顔を出してくる。足りないものを買って、あとは種と市場か」 シャーウッドは桂杏から牧草の種も探してきて欲しいと頼まれていた。 「私達は香草を買いに行くから、一緒に買ってこようか?」 ユーハイムの目的は勿論、市場のお店周りと種の買い付けだ。加えて野菜や香草を育てるときの注意点を聞くことが出来れば、これ以上ない収穫である。栽培箱で枯れそうになっている植物についても尋ねて回る必要がある。 「じゃあ頼むよ」 「あのさ。俺、牧草は、永続性に優れたイネ科の物がいいとおもうんだよね」 若獅が小声で進言する。 「ほら、ここって五行有数の穀物地帯だろ? 土壌も多分、合うと思うし」 「勉強したのか、凄いな。じゃあそうしようか」 必要に迫られて増やした知識とはいえ、新しい知識を増やすのは良い変化だ。 「あと統真が牧草刈ってくれるって言ってたけど、蜂の件もあるから半分はもう買ってこうって話になったから、その分の金も預かるな。今日明日で買ってくる」 「‥‥大量に食うからな、あの雌牛たちは」 若獅の話に、雌牛を薙ぎ倒した時の記憶が蘇るシャーウッド。 夕方までに落ち合う場所や、それぞれが調べに行く所を確認した。 「そろそろ売り出すところも決める必要もあるしな」 「買い物が終わったら、俺達は幸弥の市場にいってこようか?」 と若獅は言った。 若獅はユーハイムと分担して約800坪に蒔く種の入手がある。 神楽の都で事前購入した香草の種は、偶然にも名を変えて身近で手に入る品だった。 草木には色々と他国の名前が付いているので惑わされやすいが、もし秦国やジルベリアの香草があれば入手したいというのも本音だ。日避けや食材を兼ねた向日葵やトウモロコシ、赤紫蘇・大葉、香料や虫よけ効果もあるラベンダーの苗なども捨てがたい。 しかし今回は如彩家次男の神楽と三男の幸弥が統べる市場の調査をかねている。出回る品の売れ筋や傾向、同業者の評判もかかせない。似た製品を出しては差別化は図れないし、価格を調べて高くもなく安くもない値段を決めなければならない。 どこで取引をしていくのか。 今後の命運をわける。 「手分けだな。俺は神楽の市場について詳しい状況や条件を聞き込んでくるよ」 そういって一度解散した。 ひとまず白は家事に専念した。 ミゼリのことは勿論心配だが、雇った女性達への気配りを忘れてはならない。 整理整頓。たまった洗濯物。今後に役立てるべく要望も聞いて回った。さらに出かける前のシャーウッドについて、料理の味に近づけるよう何度も努力してきた。 勿論、全く同じ味にする必要はなかったのだが、シャーウッドが忙しくて居ない時も、ミゼリや杏達が好んだ味、つまり慣れ親しんだ味を提供できるように必死だった。 「どう、桃香」 つまみ食いや味見が大好きな相棒に器を差し出す。 「仕方ないわねー、んー、近いと思う」 「よかった」 皆の分の食事を作り、昼にはお弁当にして届け、夕方には鶏小屋の掃除を手伝う。 そして畜舎に、メルリードと共に泊まり込むための毛布や寝袋の準備を始めた。 獣の匂いや寝心地の悪さなど、白はさして気にならなかった。 出来ることは、傍にいること。 伝わらない心の距離を、肌で感じる日々が始まった。 二日目。 朝早く、酒々井の所へ、リトナが出かけた。 目的は蜂ひいては蜂蜜だ。出来れば捕獲して養蜂を行いたいところだが、それにはまだ準備が足りない。ひとまず小動物というより昆虫相手のため『小鳥の囀りで巣から出し、夜の子守唄がきくか実験してきます』と言って出かけた。 そして。 「何があったんですか?」 家事をしていた白が、目を丸くして問うた。 早々に帰ってきたリトナと酒々井は、明後日を見た。でっかい蜂の巣を麻袋に入れて。 曰く。 蜂の巣がぶら下がった腐りかけの樹木の枝があった。 小鳥の囀りを使用したところ、真っ先に栗鼠やネズミ、鳥といった小動物達が集まってきた。ところが何しろ森の中だ。枝をかき分けて舞い降りた大きめの鷲が、思わず小動物を餌と認識。急降下した所、蜂の巣がある小枝に激突したという。 「‥‥落ちたんですね?」 不可抗力である、と声を大にして訴えたい。 不慮の事故により、蜂の巣は枝ごと落ちた。当然、蜂は何事かと思って巣から出てくる。原因になった鳥は、蜂の攻撃を受けながら森の奥へと飛び去った。 「‥‥もったいないしな」 「‥‥もったいないですし、ね」 「きっとまた新しい巣ができるさ」 「秋はいい時期だと言いますしね」 結論、持って帰る。 「まだ何匹か巣の中にいるし、蜂の子も詰まってるからどうしたもんか」 このまま袋の口を開けると危ないのではないか、と酒々井が話をしていたところへ、料理人の接待準備に勤しんでいた桂杏が目を煌めかせた。 「蜂の子は良い食材になります」 どこで仕入れた、その知識。 時折、異様に料理方法に詳しい桂杏が「処理は任せてください」と受け取った。 「‥‥食うのか、それ」 そういや何処かの隠れ里も、養蚕で余った虫を煮て食ってたな、と変な記憶が蘇る。 桂杏は上機嫌で家の外に焚き火を始めた。 「実際に蜂の子を食べるかどうかは別として、ひとまず蜂を燻して、蓋を剥がして蜂蜜だけでもとらないと。これだけの量なら、高品質の蝋燭もいくらか作れるかと」 少量だが蜂蜜は手に入った。 はしゃぐ子供達に加えて、日々料理開発に励む面々も頬が緩むのを隠せない。 「蜂の件も片づいたことだし、俺は旧畑の方いってくる。ミシェルが調べた方法も一応聞いてあるし、これでどうにかなるといいんだが。正直大仕事でいつおわるかわかんねぇから、水源の方は期待しないでくれ」 数少ない男手だ、重労働担当は致し方あるまい。よろよろと歩き出した。 昼過ぎに白螺鈿から料理人がやってきた。 名前は明らかにしなかったが、老舗の料亭で修行を積み、最近独立したばかりだという。 人の口に入る物は、自らの五感で選びたいという拘りがあった。 その徹底した意識は、桂杏にも似通ったところがあったらしい。 ぴったりと付き添って農場を案内した。 作物は夏以降の収穫であること。現時点では牛乳と卵を主体に、その他の加工調味料や加工食品をつくっていること。経営者である姉弟の境遇をかいつまんで説明しながら、複数の開拓者による継続した支援、今後は益々発展させていくのだと熱弁を振るった。 普段の無表情が、幻に見えるほど生き生きとしていた。 白とリトナも、前々から苦労して試作したマヨネーズと、そして若干早いながら塩卵の試食も忘れずに売り込んだ。個数や塩分は調節できること。市場の価格よりも安く提供できることは、かなり料理人の興味を引いた。 人数増加による食糧難。 作物の価格が高騰し続けているのだから、当然だろう。 この日、シャーウッドは農場に居なかった。 調理人の身元調査をした上で、将来的な養蜂を視野にいれ、鬼灯方面の山麓で蜂蜜をつくっているという養蜂家を訪ねにいった。探求心旺盛である。 若獅は主に牧草の買い足しに出かけている。 共に出かけたユーハイムは、引き続き苗や種探しだ。手つかずの約800坪を、できる限り手の掛からない状態で役立てたい。薄荷、大葉、三つ葉は勿論、トウモロコシ、ツルムラサキ、フダンソウ、タンポポも欲しいのだと、いざ植えるとなると色々試したくなるようだ。 「薄荷は800坪に蒔くから多めに買ってくる。それ以外は一畝分かな」 花や食用の草木で、薄荷畑をぐるりと囲むのも悪くはない。 ブラッディは雌牛の世話を終わらせると大工仕事、という順序が体に染みついてきていた。森の中は、いわば人の手が入らない野生の天国。横倒しのまま野ざらしの木々もあるわけで、そんな中から、空洞化していない良さそうな木材を斧で切っては、雌牛たちに積んで運んだ。冷蔵庫用の箱や栽培箱は最優先である。 ところで。 前回植えた畑には、度々モグラが出現している。 モグラは穴を掘ることで作物の根っこを傷つけ、畑のミミズを食いまくる。 なにしろ十二時間以上胃袋に餌がないと餓死してしまうデリケートなほ乳類なため、その大食漢には定評が、いや、畑を荒らされる側にとってはろくでもない生き物ではある。 「わああああ、天国ー!」 抜けない忍犬。前にも見た光景だ。 ひっぱりだすと、口にぐったりした黒い物を抱えていた。突き出た鼻、頑丈な爪のある手足。紛れもないモグラだ。もぞもぞと動いている。 「偉いんだよ、天国ー、でも殺しちゃうのもかわいそうかな? よし、天国。森の奥に放しておいで」 誇らしげに胸を張って走っていく。その後ろを、現在必死に躾中の子犬がついていった。 「順調、順調」 あの子犬にとって、久遠院の忍犬・天国や若獅の忍犬・天月は良いお手本となっていた。 今はまだ無駄吠えや甘噛みの程度がよくわからなくとも、上位者たる農場の人達を大切に想い従う事、外敵には全力で上位者を護る事、時間をかければ仕込んでいけるはずだ。 「思い出したんだよー」 久遠院は杏の方を振り返る。 「あの子に名前をつけてあげたらどうかな。僕のお薦めは『絆』君。人達の繋がりとなる子であれ、と。他にもみんな名前候補があるみたいだから、杏君に決めて欲しいんだよ」 「名前?」 将来の相棒への贈り物だ。 ところでメルリードは、畜舎の仕事をブラッディと分担しながらミゼリの傍についていた。食事はとってくれたが、夜中になると音もなく泣いている。声が出ない分、奇妙な呼吸が耳についた。 様子を伺うのも一つの手段ではあったのだが、メルリードは視覚と聴覚と声を失ったミゼリにも出来る作業を探した。普段は凶暴な雌牛たちが木材運びでくたくたになった所を見計らって、体を撫でたり、ブラッシングをさせたり。 鶏小屋で産み立ての卵を回収するのを手伝わせたり。 そしてその度に。 ミゼリの表情が微かに動くのを、傍にいたメルリードは感じ取っていた。 三日目は、皆それぞれの仕事を終えてから、若獅とユーハイムが調達してきた種を蒔いた。杏も炎鳥もブリュンヒルデも。種まきには雇った女性達も、その子供も、なにより畜舎に居座っていたミゼリにもさせてみた。 根付けば良し、失敗すればそれはそれ。謎の苗の残りも畑に植えた。 リトナの提案で足の悪い女性達用の荷車を作る案も出ながら、ゆっくりと、しかし順調に作業をこなした。 そしてそれは夕食も終え、ミゼリと一緒に白とメルリードが畜舎へ戻った後のこと。 「たっだいまなんだよー! と、ゴメン、夜に大声出して」 食後に姿を消した久遠院が、腕に何かの布の包みを抱えて帰ってきた。 台所には、塩卵増産中のリトナ。 眠れない若獅とブラッディ。 畑の鳥対策に黒い紐をつけた棒をつくるユーハイム。 絞った牛乳をグラグラと湧かしている桂杏とシャーウッドがいた。 「みんな夜行性だねー、って、そうじゃないんだよ、これみて!」 ばらっ、と床の上にほどく。ころころと広がる赤く輝くもの。 「なぁこれ、桜桃じゃないか?」 ブラッディが無造作につまみ上げた。口の中に広がる、華奢で芳醇な甘みと酸味。 「そう! なんとサクランボなんだよー、二人で探して、ようやくみつかったんだよー」 どうやら野営満喫中の酒々井は、時々果物を銜えた鳥を見かけていたらしい。 遠くにいるので具体的に何か分からなかったのだが、先日の蜂騒ぎで小鳥が落としていったものが桜桃、つまりこのサクランボだった。 種まき後、森に戻った酒々井へ夕食届けついでに森の調査に出た久遠院は、森の動植物調査と地図作成を始めた。その際、桜桃の話を聞いて、この時間まで探し回ったようだ。 「大粒だな、しかも色がいい」 シャーウッドも、リトナも、若獅も、桂杏も味見をした。 「生えてる木に規則性がないから、どこかから運んできたんだと思う。けど結構いい出来だと思って、売り物になるかなぁ?」 桜桃の木は、てっぺんから赤く熟しており、まだ下の方が熟すには数週間ほど時間がかかる。それでも、収穫すれば一定量は手に入ると推測された。 「そうですね、三十粒ひと箱3000文は如何でしょうか」 きらり、と桂杏の双眸が光る。 最近、商魂逞しくなってきた桂杏は、トロ火で30分ほど煮込んだ牛乳を味見しながら指を立てた。 「‥‥高すぎないか? 売り買いは後で考えるにしても、実際、自然の木の恩恵だからな。安定供給までは難しいだろうが、限定品ならなんとかなるかな」 シャーウッドが悩み始める。絞った牛乳に果実酢を銜えて、所謂カッテージチーズを作った桂杏は「これと一緒に、明日は杏さんや皆さんに試食してもらいましょう」と言った。 「明日、ミゼリさん達にも持っていきましょう」 きっと喜んでくれます、とリトナが笑うと若獅は畜舎の方を見た。 「ミゼリ、嘗て活気のあった農場の姿を思い出してるのかな」 心配だった。 メルリードと白に任せてはいるけれど、不安は拭えない。せめて、と思って忍犬の天月は畜舎の傍で番犬代わりに置いてはいる。 「農場が軌道に乗り、栄える事は自分達も楽しんでやっている事だと感じてもらえたら‥‥なんて望み過ぎかな」 ブラッディは椅子に座り、桜桃を銜えたまま、涙がにじんだ。 「俺も、ミゼリのことが心配なんだけど‥‥んと、仲良い人の方がいいんだろうけど、それでも、俺、こういうの慣れてないから上手くいえないけど! こわがらないで、少しずつでも俺達を知って欲しい、な」 寂しかった。 胸の中に、ぽっかり開いた穴のようなもの。 理由がわからないだけに、状態を思えば尚のこと、接し方が分からない。 久遠院も、桜桃をつまみながら忠実な相棒を見下ろした。 「‥‥ボクはダメでも、天国となら仲良くしてくれないかな」 溜息ばかり零れる。 じわー、と目に涙が浮かんできたブラッディ達に、シャーウッドは一杯の牛乳を差し出した。自嘲気味な、微笑みを浮かべて。 「そうだな、‥‥ミゼリも一緒に混ざってやれるなら皆との距離も近づくんだろうが」 肩をすくめた。 「まぁ今はしょうがないな。色々ありすぎて‥‥きっとミゼリも大変なはずだからな」 時間が居る。 忍耐強く、まつしかない。 「無理だけはさせないようにしないと。あいつがまた戻って来てくれるなら新しい料理を考えて喜ばせてやることも出来るんだけどな。‥‥早く顔を見せてほしいよな」 しんみりとした空気の中で、静かな夜は更けていった。 四日目のこの日、朝早くから調理人がやってきた。 店の開店前に訪ねてきたらしい。 朝早くから働いて、一息つく頃には昼時だった。 遅い朝食に、赤い宝石を添えて。 届けにいったブラッディは、夜の会話を思い出して息を詰まらせた。 ‥‥‥‥焦ってはいけない。分かっている。けれど寂しい。心配なだけだ、と口では言える。それでも心の焦燥感は拭えない。目の前にいるのに。すぐそこにいるのに。伝わらないこの距離は、どうすればいいのか。 分からない。 「ブラッディ? どうしたの?」 カタカタと震える指先に、メルリードが驚いて顔をのぞき込んだ。 「ははっ」 答えのない考えに囚われる自分が、無性に笑えた。 「‥‥こんな狂ってる頭でも、友達って、欲しい、と思うんだな」 「え?」 触れられる者が羨ましい。 自分は平気だと虚勢は張れても、本心は違う。深呼吸一つして、奥を見た。 「ミゼリ、あのさ」 言葉で言っても、聴覚のないミゼリに通じないことぐらいは分かっていた。 意志のない瞳をみるのがつらくて、顔を上げられない。 これは心の整理をつけるため。 無意味でも、かまわない。 「えと‥‥扉超しでも、話せればな、とか‥‥嫌ならしないし! 絶対にあんたも、あんたの大事なもんも傷つけないから! 信じても大丈夫だから! だから‥‥」 どうか、嫌いにならないで。 メルリードが肩をさする。 「‥‥ブラッディ、あなた今日は休んだ方が‥‥」 ふ、と体に影かかかった。人の影だった。 「‥‥ぁ」 包み込むような白い手に、体温がある。ミゼリがいた。 「ご、ごめ‥‥俺、寝不足で」 ブラッディの額に、額があわさる。それは、子供を心配する母親のような姿だった。 「ミゼリ、あなた‥‥聴覚が、戻ったのね? そうなのね?」 目が点になったブラッディと、詰め寄るメルリード。 近くにいて、一緒に寝起きして、気づいたことは、些細な変化ばかりだったけれど。ミゼリには、自発的な行動が増えていた。前は、周りに誰もいない、正しく捨て置かれた人形のような状態だった。 メルリードの手に文字が綴られる。 『是』 それから、ちょっとした騒ぎになった。 ミゼリが音を聞くようになったのは、非常に大きな一歩だったからだ。 長い間外界を拒絶していた為、反応こそ鈍いものの、ミゼリは確実に人の声をきいて非常に短いが返事をした。はいとか、ちかうとか。本当にそれだけだったけれど。 メルリードが辛抱強く話を聞いて。 分かったことは、居場所がないと感じたこと。 負担になる自分に嫌気がさしていたことだった。 望んでなった結果ではないが、視力を、声を、音を失い、最期は心まで閉じてしまった。 外の声を聞きたいと熱望するようになったのは、開拓者がきてからの話だった。 「俺のこと、怖くない? 話してもいいのかな?」 落ち着きのない者達に代わってメルリードがミゼリにさせたことは、今此処にいる者達の名前をあげることだった。 杏、炎鳥、ブリュンヒルデ。次々とあがる家族の名前。 そして。 『ろむるす』 『あるーしゅ』 『みっしぇる』 『ねりく』 『いゅんしゃん』 『るおしー』 『ぶらっでぃ』 『とぉま』 『けいあん』 『ゆきや』 それは、開拓者達を一個人として認識していたことを意味していた。 簡易冷蔵庫も作ったブラッディと若獅が、勢いよく祝杯をあげた。 「かんぱーい!」 「かんぱーい!」 こんな晴れやかな気分で食事をするのは、一体いつぶりだろうか。 連日の忙しい毎日を送った後、みんなでピクニックをしようという話になった。 杏も炎鳥もブリュンヒルデも、ミゼリからさっぱり離れない。 「三人とも、またミゼリが聞こえなくなったらどうするの。放してあげなさい」 メルリードに「めっ」と叱られて「ごめんなさい」と三つの頭が力無くたれる。 ユーハイムは笑いながら隣の酒々井に呟いた。 「‥‥束の間でも安らげる時間をあげたいな、と思っていたんだ。何をする訳でもなく、陽だまりの中に憩う。そんな時間をさ」 「叶ったか?」 「ふふ、まだまだ。欲が出たかな」 ところで酒々井はミゼリの聴覚が戻ったという知らせを受けて、森から帰ってきた。散々「家出だ」と人妖達に弄られたのは仕方あるまい。原因が分かり、症状が回復したという事実にほっとしていた。 アルーシュは、ミゼリに待ち人がいるのではと思いながら、この新しい日々を祝って心の旋律を披露した。一方久遠院は、これからの季節を意識し、夜なべして仕立て直した薄絹の単衣を杏とミゼリに贈った。杏の袖に翡翠と、ミゼリの方には希望の翼をしのばせて。 シャーウッドは養蜂に、桂杏は牧草地の開拓に熱意を向けていた。 白が物静かなミゼリに、穏やかに語りかける。 「ミゼリさん、私も皆は貴女が大好きですよ。少しでも力になれればと願ってます」 メルリードも「そうよ」と言葉を添えた。 「この農場を元の姿に戻すために、あなたの家族達は精一杯頑張ってるわ。‥‥ミゼリ、私はあなたにも頑張って欲しいって思ってる、あなた自身を取り戻すために」 ミゼリの声はまだ、戻っていない。 視力も。 それでも、望みはきっとある。 「辛いかもしれないけど、支えてくれる家族が居るわ。仲良くなりたいって人もたくさん居る。皆、あなたが好きで笑顔になって欲しいと思ってるの。だから、一緒に頑張りましょう」 薄く微笑んだ表情は、今だからこそ読みとれる努力の賜だ。 「杏君、子犬の名前は決まったー?」 「迷ったけど、やっぱり名前は『絆』にしようと思うんだ」 キズナ、それは彼らを繋いだもの。 赤の他人同士だった鬼灯祭の夜。 あれからもう、半年が経とうとしている。 何度も何度も衝突して、やっとここまで辿り着いた。 今ここにある大きな奇跡を導いたものに、万感の感謝をこめて。 「こんな風に外に出る日がくるとは思わなかったなぁ」 酒々井が杏の頭をわしゃりと撫でる。 「このまま満足されたら困るぞ、なんせ今はひどい赤字だからな」 この場所は、まだ始まったばかりなのだから。 蒸し暑くなる季節を前に、香る風が賑やかな笑い声を運んでいった。 |