策謀〜躙り寄る悪意 4
マスター名:月原みなみ
シナリオ形態: シリーズ
EX
難易度: 普通
参加人数: 8人
サポート: 3人
リプレイ完成日時: 2011/06/16 05:40



■オープニング本文

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 ジルベリア東方に位置するザーヴァック領でスタニスワフ・マチェク(iz0105)の公開処刑が行われる予定だったあの日、領主邸がある街はかつてない混乱に陥った。
 当初は処刑される予定だった罪人マチェクが拘束から逃れて領主に刃を向けた『大事件』かと思われたが、次いで起きたアヤカシの大群の襲来、それらから人々を逃がすべく奔走した開拓者と傭兵団ザリアーの面々の奮闘、更には興奮した領主シルヴァン・ヴィディットが口走った「アヤカシを利用した」という言葉を複数の領民が耳にした事で状況は一変した。
 領主がアヤカシと手を組んだ結果、町は襲われて甚大な被害が出た。
 人命こそ失われなかったが、それは開拓者と傭兵団ザリアーが協力して避難誘導及びアヤカシ討伐を行ってくれたからであり、ましてや領主はそのザリアーの長であるマチェクを私欲のために無実の罪で殺そうとしたという『噂』が街中に広がったのだ。
 ――だがそれは、表向きの事象を見える範囲で捉えた人々の話。
 領主が失墜するのは時間の問題、もしかすると暮らしが上向くかもしれない、そうなれば万々歳だという結果を望む人々に反し、裏で起きた真実を知る開拓者や、ザリアーの面々にとっては、此処からが勝負だった。



 数日後、アイザック・エゴロフ(iz0184)はマチェクに頼まれてレディカ夫人の農場を訪れていた。そこで日雇いの農夫に扮しながら万が一の時には夫人の身を守るために派遣され、その役目を全うした仲間の亡骸を引き取るために。
 これまで諸々の事情で明かす事が出来なかったけれど、彼らは自分達の仲間で‥‥と語るアイザックに、夫人は微笑んだ。
「やっぱり傭兵さん達のお仲間だったのね」
「‥‥お気付きだったんですか?」
「ええ。だってあの騒動以来アイザックさんは頻繁に此処を訪ねてくれていたし‥‥他の日雇いの方々もそう。あの夜盗達がザリアーを名乗った時‥‥お二人が亡くなった時‥‥私を守って下さった時‥‥普通の方とは違いましたもの」
「そう、ですよね‥‥」
 苦い笑みを浮かべる夫人に、アイザックも力無く笑い返した。
「マチェクさんはお元気ですの?」
「ええ。まだ傷が癒えていないのでニコライさん達に見張られながら療養生活を送っていますが、本人はもう元気だと言っています」
「それを聞いて安心しましたわ。マチェクさんまで意気消沈されているのなら私が直々に出向いて喝を入れて差し上げなければなりませんもの」
「夫人自ら、ですか」
「もちろんですわ」
「‥‥それは、怖いですね‥‥」
 思わず本音を零す青年に、夫人は微笑う。
「アイザックさんも、いつまでも落ち込んでいるつもりなら私が元気になるコーディネートをして差し上げますわ。どんなドレスがお好みかしら?」
「ド‥‥女装の趣味はありませんっ」
「あら、アイザックさんの趣味なんて関係ありませんのよ。私のコーディネートだと言いましたでしょう?」
 にこにこと、恐らく本気で言っている夫人の笑顔は恐ろしい。‥‥だが、以前と変わらぬ彼女の態度が心強くもある。
 彼女と話しているだけで元気が貰えた気がしたアイザックは、ボスからの伝言を伝えた。
「あの二人の遺体を引き取らせてもらえますか?」
「ええ‥‥けれど、もしよければ埋葬の費用その他はすべて私に出させてもらえないかしら」
 思いがけない話にアイザックは目を丸くしたが、夫人は構わずに続けた。
「傭兵さんが諸々の手続きをするよりは私の方が信頼度も高いでしょう?」
「それは‥‥でも、そこまで夫人にご迷惑をお掛けするわけには‥‥っ」
「迷惑だなんて水臭い」
 慌てる青年を、夫人が少なからず強い語調で制する。
「あの二人は私の命の恩人ですもの、これくらいは当然だわ。それに、‥‥傭兵団の皆さんにお任せしてしまったら、彼らに謝りたいと思っているだろう御嬢さん達が最後に会う事も叶わないでしょう?」
「ぁ‥‥」
 それが本当の理由かと察したアイザックは、もう、頭を下げる事しか出来なかった。
「ありがとうございます‥‥ボスに、そのように伝えさせて貰います‥‥っ」
「ええ。よろしくお願いしますわ、‥‥ね?」
 夫人は微笑んだ。
 まるで母親のような慈愛に満ちた微笑みだった。



 アイザックが夫人の農場に居る頃、療養中のマチェクの部屋に居たのは副団長のイーゴリ。ベッドに横になっているボスを見張っている彼は、いつにないしかめっ面だった。
 そんな彼にマチェクは笑ってしまう。
 素直過ぎると言おうか、そこまで感情を面に出してしまうようでは傭兵団の副団長としてどうなのか、と。
「俺に何か言いたい事があるなら言ってごらん。今だけはきちんと聞かせてもらうよ?」
「いいえ、何も」
 返される台詞も正直過ぎて。
「アイザックには、随分とキツくあたったようだが?」
「っ、それは‥‥!」
 若き剣士の名を出せば眉根を寄せて腰を浮かしかけたものの、ハッとして深呼吸を一つ。椅子に座り直した。
 くすくすと笑い出すボスに、仏頂面の副団長。
「‥‥少しはこっちの身にもなって下さい。俺達がどれだけ心配したと思っているんですか」
「判っている。すまなかった」
「‥‥本当に判っているんですか‥‥っ?」
 重ねて聞いてくる副団長に笑い返したマチェクも、さすがに今回は反省すべき点が多々あると自覚していた。それ以外に手段が無かったとはいえ、部下達は生きた心地がしなかっただろう。
 そうしてしばらくは互いに無言の時間が続き、先に沈黙に耐えられなくなったのはイーゴリ。
「‥‥で、これからどうするんですか」
「ん?」
「シェリーヌと、赤いペンダント‥‥フェイカーでしたか。その事をいつまでも俺達内輪だけの情報にはしておけんでしょう。奴を逃した今、ジルベリア全土が危険だと言っても良い‥‥そろそろ帝国にこの事を知らせないと」
「ああ、そのつもりだよ」
 イーゴリの懸念にあっさりと返すマチェク。
「以前に戦場で知り合った皇族親衛隊の隊長がいただろう? アイザックに、彼のところへ今回の一連の情報を持って行って貰おうと思う。ただ知らせに行くだけでは俺達は情報提供のみで済まされ、以後のフェイカー捜索は帝国側の兵力のみで行われてしまうだろうが、彼を通す事で俺達が協力する許可を得る」
「ボス‥‥」
「‥‥仲間を三人も奪われて、このまま終わらせるつもりなど毛頭無いからね」
 マチェクの低い声音に、イーゴリは‥‥妙な話だが、安心した。
 それでこそボスだと。
 ただ、一つだけ懸念があるとすればそれは開拓者の事。
「‥‥まさか、また手を組むとは言わんでしょうな‥‥?」
「それは彼女達次第、かな」
 マチェクは意味深に笑み、イーゴリは顔を顰めて頭を抱える。


 後日、マチェクの命令により首都へ向かうアイザックはフェイカーの事を帝国に知らせるための協力をして欲しいと開拓者達に声を掛けた。
 同時に、仲間の葬儀にも参加しませんか、と――‥‥。
 


■参加者一覧
秋桜(ia2482
17歳・女・シ
フェンリエッタ(ib0018
18歳・女・シ
ルシール・フルフラット(ib0072
20歳・女・騎
フレイア(ib0257
28歳・女・魔
ファリルローゼ(ib0401
19歳・女・騎
風和 律(ib0749
21歳・女・騎
レジーナ・シュタイネル(ib3707
19歳・女・泰
緋那岐(ib5664
17歳・男・陰


■リプレイ本文


 その日、アジュール姉妹はヴェレッタの町に続く道の途中にいた。
 いつしか聞こえて来る複数の馬の蹄の音。
 姉妹は顔を見合わせると、どちらともなく安堵の息を吐いていた。
 近付くのは姉妹の待ち人に違いなく、スタニスワフ・マチェク(iz015)と、彼が率いる傭兵団のニコライ、ルヴァン。マチェクがヴェレッタの町に行くと聞き同行を望んだファリルローゼ(ib0401)は、しかし彼の怪我の具合からして単独行動は仲間が許さない事、その仲間が開拓者と顔を合わせたがらないだろう事を予測した上で、必ず通る道の途中で待つ事にしたのだ。
「ボス」
 姉妹の前で馬を止めた彼を低く呼ぶ声。マチェクはしばらく待つよう彼らに告げ、その指示にもやはり何か言いたげな二人だったが、結局は待機を選んだ。ただし、三人から距離を取った場所で。
「やはり、‥‥私達の顔を見たくない、か」
「感情のやり場に困っているだけだよ、勘弁してやってくれ」
「勘弁だなんて‥‥」
 フェンリエッタ(ib0018)は言い掛けた言葉を呑み込み、しばらく悩んだ後で真っ直ぐにマチェクを見つめた。
 そうして告げる言葉は。
「‥‥抱き締めても、いいですか?」
 姉が目を丸くしたが敢えて二人の間に割って入ろうとはせず、けれど納得もしていない様子だから彼は笑う。
「ロゼが良いと言うなら、ね」
「っ‥‥こ、今回だけだ!」
 姉の即答に笑う二人。
「ありがとうございます‥‥」
 マチェクを抱き締めながらフェンリエッタが呟いた言葉は、誰への感謝の気持ちだったか。
(‥‥命の、鼓動‥‥)
 彼が生きている証、それを直に感じる事で得られる喜びは、同時に、失わせてしまった命を痛感する行為でもあった。
「ごめんなさい」
 フェンリエッタは瞳を伏せると、二度、その言葉を繰り返した。
「‥‥私達は明日の葬儀に参列します。その際に、一つだけお願いがあるんです。‥‥葬儀の場では、今みたいに団員の皆さんを止めないで下さい」
 例え傭兵達が開拓者を責めても。
 詰っても。
「マチェクさんが止める事で開拓者への感情を押し殺してしまう事は、苦しみを抱え込む事と同じ‥‥そんな苦しみまで味わって欲しくないんです」
「‥‥それは、君達全員の覚悟かい?」
 問うてくる彼の視線に姉妹は力強く頷き、彼は応じる。
「判ったよ、‥‥と、‥‥あぁ」
 姉妹の願いを了承する一方で僅かに思案したマチェクは、フェンリエッタに告げる。
「俺からも一つ良いかい? 御節介だとは思うが‥‥フェイカーの狙いは、俺達ザリアーと開拓者だけだとは限らない。奴が次に何処で動き出すか、‥‥いや、恐らくはもう動き出しているだろう」
 強張る姉妹の表情を順に見つめ、続けた。
「その事はアイザックに託した手紙にも書いておいたが、‥‥フェンリエッタ。もしも君の大切な人がその渦中に呑み込まれそうになったなら、駆け付ける事を躊躇ってはいけないよ」
 目を見開くフェンリエッタに彼は続ける。
「フェイカーの存在はジルベリア全土の危機を示唆している、という意味だ。あの土地が再び狙われる可能性は決して否めない」
 そこで一度言葉を切ったマチェクは、ほんの僅かに表情を緩めた。
「‥‥『君にしか出来ない事がある』とは言わない。君がいなければ他の誰かが代わるだけだ。‥‥ただ、君の心は、君だけのものだから」
「マチェクさん‥‥」
「君は命の尊さと、個人の無力さを知っている」
 無暗やたらと『全てを守る』なんて理想論を語る開拓者が多い中で、出来ない事が有ると知りながらも生かすために必死で足掻く姿をマチェクは好ましいと思う。
 だから信頼しようと思えた。
「投げ出す事と、託す事は違う。‥‥進む事を恐れずに、ね」
 その言葉が彼女の胸にどう響くかは本人にしか判らない。ただ、フェンリエッタはしばらく考えた後で持っていた包みをマチェクに手渡した。あの乱の後、首謀者として処刑されたコンラートを偲び育てた向日葵の種。ヴェレッタの人々への分は姉に託してあり、明日の葬儀ではレディカ夫人にも渡すつもりでいるから。
「この種は、ザリアーの皆さんに」
 願うは人々の笑顔。
 真っ直ぐに前を向いて生きて欲しいという祈りと共に。
「お気をつけて」
「君も、ね」
「はい‥‥、お姉様も」
「フェン‥‥」
 姉は妹を抱き締め、そうしてマチェクと二人、先で待つ傭兵達と共に発つ。
 その背を見送るフェンリエッタの胸に宿る想いは――。



 ジルベリアの六月には不似合いな汗ばむ朝。
 領主邸の前に集まったのは、アイザックからの連絡を受けて『赤いペンダントことフェイカー及びシェリーヌの情報』と『領主シルヴァン・ヴィディットの罪』を帝国中央に明かしに行くと決めた開拓者総勢十一名と、彼らを見送りに来たレジーナ・シュタイネル(ib3707)達数名。フェンリエッタもジェレゾに向かって出発すべく合流を果たしていた。
 アイザックは一人一人の顔を見てから「じゃあ行きましょう」と笑い掛ける。
「レジーナさん。領主と面会出来るように仲間には話を通してありますから、気兼ねせずに会って来て下さいね」
「ありがとう、ございます」
 レジーナがぺこりと頭を下げる横で、フレイア(ib0257)は周囲を見渡しつつアイザックに問い掛けた。
「マチェク君は見送りに来られないのでしょうか」
「ええ。ボスは朝早くにヴェレッタに向けて発ちましたから」
 二人の話を聞いたレジーナは僅かに安堵した様子。今は彼に合せる顔がないから‥‥と切ない表情を浮かべていると、彼女から今回の一件に関しての手紙を預かったイリスが声を掛けた。
「お互い、最後まで決して諦めずにフェイカーを追いましょう。レジーナのこの手紙、貴女の想いと一緒に確かに預かりましたから」
「はい‥‥」
 こく、と頷くレジーナは耳朶の真珠の耳飾りに触れた。イリスの耳朶にも同じ耳飾りがあり、揃いの宝石は誓いと絆の証。
 二人のやり取りにアイザックも微笑み、改めて出発を促す。秋桜(ia2482)、風和 律(ib0749)、緋那岐(ib5664)、フェンリエッタ、フレイア。
 ファリルローゼはヴェレッタの町に向かったし、レジーナは此処でやりたい事があるからと残る事を決めたが、もう一人――。
「ルシールは大丈夫だろうか」
 律は、あれ以来まったく姿を見せないルシール・フルフラット(ib0072)を案じた。彼女の事を心配しているのは律だけでない。他の仲間達もそれぞれに思うところはあったが、彼女がどうするかは自身で決める他なく。
「‥‥行きましょう」
 アイザックが言い、一行は首都ジェレゾへ向けて出発した。



 ジェレゾへ向かう仲間を見送った後、レジーナは単身領主邸を訪れた。
 アイザックが前以て話を通していた事もあり、帝国中央から役人が派遣されるまでという期限付きで領主邸の監視を行っている傭兵団の面々からはじろりと睨まれるだけで済み、地下牢に拘束中の領主とは容易に面会が叶った。
 牢内の奥の壁を背もたれにした彼――元領主である男は、現れたレジーナを鋭く睨み付け、舌打ちを一つ。
「‥‥何をしに来た」
 不快感、嫌悪感を露わにした態度に、レジーナは拳を握りしめた。
「話を‥‥したく、て‥‥」
「話だと? ハッ、貴様ら開拓者がいまさら私に話か。笑わせてくれる」
 吐き捨てる相手にレジーナの胸が軋んだ。
 この男に恨み言を言おうと思えば限がない。この男が人間としての理性を保ち続けてくれてさえいれば、と。
 だが、レジーナはそんな本心をぐっと堪えて伝える。
 今となっては、この男に頼るしかない事。
「‥‥私達は、守りたかったんです‥‥けれど力が足りなくて、どうしようもなく大きな犠牲を‥‥悲劇を、招いてしまいました‥‥きっと、貴方もそう、なのでしょう‥‥?」
 少女の問い掛けに領主は眉根を寄せた。
 話が見えないと言いたげに。
 それでもレジーナは続ける。
「‥‥私達は、走り続けます。今度こそフェイカーを斃す為に。だから‥‥力を貸して、下さい」
「なんだと?」
「貴方は‥‥フェイカーの一番近くに在って、‥‥その間に見たり、聞いたり、知った事を、教えて欲しいんです‥‥それは、貴方にしか出来ない、事。頼めない事。‥‥この土地の人達‥‥貴方が守るべき人々の為に、‥‥ほんの少しでも、領主の誇りがあるのなら‥‥お願い、します」
 そうして頭を下げるレジーナに、男は、笑った。
「はっ、ははっ、あはははははっ! 何を言い出すかと思えば馬鹿馬鹿しい!! 貴様は本当に私を笑わせに来たのか? だとすれば喜べ、今のは傑作だ!!」
「‥‥っ」
「守るべき人!? 領主の誇り!? このような田舎で私が満足しているとでも思ったのか? こんな土地で誰がどうなろうか知った事か。私は全ての責任をあの傭兵共に押し付け、それを捕え処刑した功績で中央へ出世してやろうとしていたんだぞ?」
 ククッ‥‥と喉を鳴らす彼は、しかし次第にその表情を険しくする。
「第一、私は貴様らのせいで破滅だ。中央に引き渡されればそれこそフェイカーの件で尋問を受け、処罰――処刑される事もあり得る。そんな私がフェイカーを斃す為に貴様らに協力すると思ったのか? 説得に応じると? まったくめでたい連中だ‥‥っ、貴様らの敗因はその感情論だとまだ気付かないのか!」
 ガンッと壁を殴りつけた男は、怒鳴る。
「いっそジルベリア帝国など滅んでしまえ!! その方がよほど楽しめるわ!! あははははは!!」
 その後、男は笑い続けた。
 レジーナが軋む胸に顔を歪め、その場を立ち去ってからも、地下牢から邸内に続く階段を上っている間も、その背には男の嘲笑が響き続けた。
 少女は『言葉が通じない』という事を、身を以て知ってしまった。
(‥‥想いだけじゃ、誰も護れない‥‥)
 何も変えられない。
(‥‥強く、ならなくちゃ‥‥)
 階段を上り終えて邸に戻ると、背中に突き刺さるようだった笑い声も聞こえなくなり、その事にほっと安堵の息を吐いたレジーナはふと見上げた二階の廊下に仲間の姿を見付けた。
 ルシール、だ。
 その傍らには弟のアルベールの姿も――。
「‥‥ごめんね、アル。付き合わせてしまって」
 ルシールは弟に謝るが、まるで独り言のように呟かれる少女の言葉にアルベールが言葉で返す事はなく、レジーナも声を掛けようとしたが掛ける言葉を見付けられずに、その場を立ち去った。
 ただ、心の中で祈る。
 彼女が一日も早く立ち直ってくれる事を。



 ルシール姉弟は領主邸を出た後であの裏路地へ向かい、しばらくして領主邸に戻っていた。
 それは彼女があの日の自分の行動と、その結果を追うため。
 どうして自分が生きて此処に在るのかを思い知る為に。
「‥‥ごめんね、アル」
 彼女は繰り返す。
 ずっと黙って傍にいてくれる弟に。
「‥‥傷は治ったのに‥‥頬が痛いんです」
 呟きながら触れる頬は、あの日、この場から自分を助け出し、叱りつけた傭兵・ショーンに殴られた場所だ。
 あの時、彼は『生き抜く覚悟』を語った。それはまだ自分が幼い頃に剣の稽古をしてくれた母親が教えてくれたはずの事――ルシールは、それが理解出来ていなかったことを痛感した。
 仲間達からも忠告を受けたにも関わらず自分の感情で行動して、弟を巻き込み、ショーンの命を。
「‥‥っ」
 彼の死を知った後、自責の念に駆られ自分など消えてなくなってしまえば良いとも考えたけれど、この頬の痛みが「生きている」という事を教えてくれた。
 生きていなければ感じられない痛みは、彼が与えてくれたもの。
 だからルシールは決めたのだ。
 たくさんの傷を抱える事になったとしても生きる事を決して諦めない、と。
「‥‥私はいきます」
 そう呟く少女の瞳は真っ直ぐに前を向いていた。
 覚悟をしたためた文と、もう一つ。懐から取り出した恋愛成就のお守りを重ねてこの邸の、この部屋に置いていく。
 ショーンの姿が最後に目撃された、この場所に。
「姉さん、そのお守り‥‥」
「いいんです」
 弟の言葉を遮るように左右に首を振ったルシール。
 大切に育てて来た気持ちを踏み躙ってしまったのは自分自身だから、‥‥だから。
「行きましょう」
 少女は立ち上がる。
 前を向いて歩き出すために。



 帝国の首都ジェレゾまでは馬で二時間程。
 正午過ぎには、目的地である人物――数ある皇族の親衛隊の内、皇帝陛下の四番目の娘にあたるディアーナ・ロドニカ皇女の親衛隊隊長キリール・クリモワの邸に到着していた。
 どうやら此方にもマチェクの方から予め手紙が届いていたらしく、開拓者一行はそれほど待たされる事無くキリールと面会する事が出来た。
 事前に聞いていた通り屈強な体格で威風堂々とした雰囲気を醸し出している大男だが、アイザックに「久し振りだな!」と屈託なく話し掛けてきた彼の笑顔は、顔立ちが整っていて若く見えるせいか、まるで子供のようだった。
 ただ、それでも十三歳の少年からしてみれば三七歳は立派な大人で。 
「‥‥イケメンと言われようが、おっさんだな」
 さらりと失礼な事を言う緋那岐に周囲は驚くが、言われた本人は豪快に笑った。どうやら大きいのは体だけでなく器の方も相当のようだった。


「――で、早速本題だが」
 総勢十二名の来客を迎えた広い部屋。アイザックが届けたマチェクからの手紙を読み終えたキリールに促され、開拓者達はこの一件で自分達が実際に見聞きした情報をそれぞれに伝える‥‥と言っても、開拓者達が持つ情報は基本的に同じだ。
 ヴァイツァウの乱でコンラート軍についていた傭兵団員アイザックは、質屋で偶然見かけた『赤いペンダント』を当時ロンバルールが所持していたそれだと確信、入手しようと試みるが、一足遅く盗賊によってこれを奪われ、追跡を開始した。
 盗賊との攻防、アヤカシの群れに襲われた小さな村の人々を救出、領主邸の裏の林に出たホルワウの群れ退治――その後、領主からの依頼という形で関わる事になったヴェレッタの町の叛乱疑惑。
 これらの一部始終を語ったのはヴェレッタの人々と関わって来た秋桜、フェンリエッタ、フレイア、律、緋那岐の五名が主で、彼女達は経緯と同時に傭兵団の機転で一般の人々に犠牲が出なかった事を言い添えた。
「アレは性質上、何の気構えも対策も無ければ危険よ。‥‥私達が手痛くやられたようにね。ただ、そのお陰でこっちは奴の性質を身に染みて理解出来た」
 時雨の言葉を受け、キリールは頷く。
「故に今後もフェイカーの追跡を継続したいという事か」
「そうです」
 代表して律が応じれば、フレイアが続く。
「フェイカーは強大且つ狡猾な力を持つアヤカシです。傭兵団と開拓者だけでは今回の二の舞になりかねませんが、帝国の組織力が加われば、あるいは‥‥。同様に帝国の組織力だけでは今回の私達と同様、出し抜かれる可能性は高いでしょう。傭兵団ザリアーの機動性と柔軟性は、帝国という組織には存在しないように思われますから」
 両者の連携を密にして包囲していくことこそ肝要だと告げれば、キリールは「確かに」と重々しく頷いた。
 その応えは、フェンリエッタから齎された「フェイカーは既に動き出している可能性が高い」「その危険はジルベリア全土に及んでいる」という情報も含んでのもの。
 であれば人手が多いに越した事はなく、傭兵団の協力は東方における凶事への即応を可能し、且つ今回の一件がフェイカーの個人的な感情から傭兵団と開拓者を巻き込んだものであるなら、その存在は今後の切り札にもなり得ると、これは秋桜の意見だ。
 傭兵団ザリアーが信頼に足る存在で有る事を開拓者達から繰り返し説かれたキリールは、アイザックに「心強い仲間を得たな」と笑った。
「君達の話は判った。この一件は私から皇帝陛下にお伝えし、また、君達開拓者と、傭兵団ザリアーが今後もフェイカー追跡を続行する許可を賜れるよう努力する。我が主の助力も仰げれば、恐らく悪いようにはならないだろう」
「よろしくお願いいたします」
 一礼する律達に、穏やかに微笑むキリール。
 こうして開拓者達とキリールの面会は目的を果たして終了するわけだが、エルディンの提案で夜は飲みに行こうという話になったが、緋那岐は個人、フレイアは姉と調べ物をしたいからと誘いを断り、秋桜、フェンリエッタ、律もそれぞれの事情でこれを辞退した。
 明日の朝の集合場所と時間を確認した彼らは、こうして一つの大きな役目を果たしたのだった。



 ヴェレッタに到着したファリルローゼは、妹から託された向日葵の種を、その意味と想いを添えて村の人々に託すと共に彼らの無罪放免と、領主の処遇を伝えた。
 安堵と歓喜に沸く人々は近隣の村にも伝えに走れとお祭り騒ぎ。
 広がる笑顔がファリルローゼの表情を明るくさせた、‥‥だが。
 村長と、彼が保有する倉庫に保管された武器の扱いについて話し合っているマチェクの姿を見ると胸が痛んだ。
 人々の笑顔は嬉しい。
 彼らの命を守れた事は誇っても良いはず。それでも、失われた三つの命を想うと心から喜ぶ事など出来ず。
(‥‥マチェク‥‥君は、ちゃんと泣けたか‥‥?)



 ジェレゾから戻った一行と、ヴェレッタから戻ったファリルローゼ、此処に留まっていたルシール姉弟は葬儀が始まる二時間前に合流を果たし、着替え等の準備を済ませた後でレディカ夫人の農場へ向かう事にした。
 マチェクは葬儀の前に領主邸に寄るからと別行動を取る事になり、それを聞いた律はアイザックにこう提案する。
「キリール卿への面会が無事に終わった事は早めに報告しておいた方が良いのではないか?」
「それはそうですが‥‥でも、皆さんは夫人の農場に向かうんですよね? それなら俺もご一緒した方が」
「構わない。私達は問題ないから‥‥、行ってくれ」
 彼が何を心配しているかなど手に取るように判るから律は即答し、アイザックはそれでもまだ不安そうだったが、開拓者一人一人の顔を見つめる事でそれが全員の総意なのだと悟ったらしい。
「‥‥判りました‥‥が、くれぐれも無理はしないで下さい、ね」
「ああ」
 そうしてアイザックと別れた律達は互いに顔を見合わせて頷く。
「‥‥行こう」
「ええ」
 揃って夫人の農場に向かう彼女達の足取りは、決して軽くは無かったけれど。


 夫人の農場に到着すると、一見して傭兵と判る屈強な男達が多い中、年代が異なる女性の姿も少なくなく、恐らくは亡くなった傭兵達の身内なのだろうと察せられる。皆、二人が納められた棺を墓地まで運ぶために集まっているのだ。
 荷馬車などで移動するのではなく、その肩に全員で担ぎ歩いていこう、と。
 しかし、開拓者達が到着したのを知った途端に彼らは静まり返った。周囲の空気は重々しく変化し、呼吸する事さえ躊躇うような緊張感。それでも覚悟を決めて来た八人の開拓者は一列に並ぶと、マチェクもアイザックも不在の傭兵団に深々と頭を下げた。
 そうして告げる言葉は唯一つ。
「すまなかった」
「申し訳ありませんでした」
 傭兵に対しても、夫人に対しても、詫びの言葉しか無い。並ぶ棺に納められた二人と、そして遺体までも奪われたままのショーンと、三人。彼らの命を奪ったのは紛れもなく自分達だ。
 だからこそ、傭兵達からはどんな罵りの言葉も甘んじて受けようと覚悟し、彼らを制する事になるだろうマチェクとアイザックには席を外して貰ったのだ。――だが、いつまで経っても、誰も、何も言おうとはしなかった。
 恐る恐る顔を上げれば、誰もが唇を噛み締めながら自分の足元を見据えていた。
 ‥‥耐えている。
 耐えずとも責めてくれればと思うが、そんな彼女達の気持ちを察し口を切ったのは副長のイーゴリだ。
「‥‥あいつらの前で君達を責めてどうなる。君達は、最後の別れの時すら静かに過ごさせてはくれないのか」
「っ、そんなつもりは‥‥!」
「参列を断りはしない‥‥君達が責任を感じているのは判っているから、‥‥頼むから、俺達の心を乱させないでくれ」
 イーゴリの言葉を受けて開拓者に返せる言葉はなかった。
 そんな中で妹の肩を叩き、傭兵達に口を開いたのはファリルローゼ。
「ならばせめて‥‥せめて、彼らのために詩を奏でさせてはくれないか」
「うた‥‥?」
 怪訝な顔付きで聞き返してくるイーゴリは、しかし傍にいた女性に止められる。
 彼女は開拓者達の顔をじっと見つめ、そして。
「‥‥是非、お願いします。夫も、ユーリーさんも、ショーンさんも‥‥音楽がとても好きな人達でしたから」
 その言葉から彼女がマーヴェルの妻だと知れ、開拓者達は再び深く頭を下げた。
「ありがとうございます‥‥っ」
 その言葉に返る声は無かったけれど。



 墓地。
 二人の為に設けられた穴に棺を納め、仲間達が順番に土を被せていく。
 その土と共に彼らを包めと、開拓者達は祈りの詩を奏でた。

『希う 暁の天へ
 明日を願う 心絆いで

 命の誇りを知る者よ
 自由の意志を継ぐ者よ』


 レディカ夫人は、隣に佇むルシールの様子が最初からおかしな事には気付いていたが、この場に至っていよいよ心配になる。傭兵二人の死によっぽど心を痛めているのだろうと考えたらしく少女の肩を抱き締めたが、‥‥抱き締められたルシールは囁くように口を開く。
「‥‥一人、足りないんです‥‥。私の所為で奪われてしまった、命が」
「もう一人‥‥?」
「‥‥その人は、体を奪われてしまったままで‥‥」
 だから、せめて彼の体を取り返さないと葬送も出来なくて。
「‥‥必ず、取り返します‥‥」
「ルシールさん‥‥」
 決意に満ちた瞳が、しかし深い悲しみの色に染まっていると判るから夫人はなお強く少女を抱き締めた。頑張れとは言えないけれど、開拓者達が傭兵の旅路を祈るように、開拓者の行く先を見守り祈る者もいるのだと言う事を、忘れずにいて欲しくて。


『その剣は誰が為に
 答えは結びし絆にこそ

 いつか困難の雨風に
 貴方の灯す火が消えようと』


「俺‥‥何とか役に立てないかと思ってジェレゾの図書館や、ギルドで過去の報告書を漁ったりして来たんだけどさ」
 響く歌声を決して邪魔しない声量で語り出した緋那岐の言葉を、マチェクは黙って聞いていた。
「行方を晦ましたフェイカーがいつまた動き出すかも判らないから、今の内から少しずつでも過去に似た事例が無かったかとか、調べておいた方が良いと思ったんだけど、‥‥怪しいと思い始めたら限がなくてさ。‥‥結局、かえって混乱しただけだった」
「‥‥『赤いペンダント』という無機物がアヤカシだった事は、今回の件でようやく見えた真実だ。過去に奴が関わった騒動がギルドにあったとしても、探る事は不可能に近いだろうね」
「ん‥‥」
 緋那岐は悔しそうに眉間に皺を寄せた。
「‥‥今回の一件が始まりに過ぎないなら、いずれは皇族が狙われる可能性だって捨てきれない。自分一人じゃ動くことも出来ないフェイカーがシェリーヌを使っているのは判るけど、‥‥奴が個人で動いているのかも引っ掛かるんだよな‥‥、って」
 唐突にマチェクから頭を撫でられ、ムッとする緋那岐。
「子ども扱いするな」
「あぁすまない‥‥だが、目の付け所は悪くないと思ってね。これからギルドに出される依頼を油断せずに見ていれば、奴に繋がる事件と遭遇するかもしれない‥‥頼りにしているよ」
「‥‥ふんっ」
 そうしてそっぽを向く緋那岐に、マチェクは静かに微笑った。


『天揺るがす鬨の声に
 剣を振るうこの腕に
 戦場駆けるこの足に
 誇りを抱くこの胸に

 貴方の炎は宿るだろう
 貴方の名前を刻むだろう』


 秋桜は一人、葬送の詩に拳を握った。
(これで此度の終幕、ですか)
 終わりという独白に、無意識に唇を噛み締めていた。
 錆びた鉄のような血の味に冗談じゃないと憤る。
(‥‥本当に、何も出来ていない‥‥これでは唯の役立たずだ‥‥っ)
 これで終わらせる事は自分達の所為で犠牲となった彼らへの冒涜になる。
 命を賭した想いに報いるためには、進まなければ。
(フェイカーを討ち滅ぼす時が来るまで歩みを止めるつもりはございません。いつか必ず‥‥っ)
 心の中、秋桜は誓う。
 そうでなければ、いつか冥府で酒を酌み交わす事も出来ないと。


『一人でやろう、そう決め剣を取る前に
 残りし手、開いて貴方に差し出しましょう
 許される、訳は無いのはわかってる
 でもね? もう、振り払われても諦めない
 だって一人じゃ駄目って知ったから
 かけがえの無い命だから』


 レジーナは秦における最敬礼で以て個人に拱手する。
 後悔と自責、感謝と敬意を生涯忘れないため。
 そしてフレイアもまた彼らへの謝罪と感謝の想いを、‥‥涙に託した。


『だから片隅だけでも心に留めて
 きっと、思うだけでなく
 何時か貴方に届けます
 ‥‥手と手を重ねあえる日が来ると願って‥‥』


「‥‥すまなかったな」
 祈りの詩に、すすり泣く声が重なる頃、律は隣に佇むアイザックにそう声を掛けた。
 謝罪の言葉に込めた思いは様々だ。
 三人を死なせてしまったのは間違いなく自分達の手落ち。相手が強敵だと判っていながら最後まで『協力』が出来ていなかったがために出してしまった犠牲。
「謝って許されたいのではない‥‥いや、告げられる言葉が、謝罪しかないんだ」
 死んだ彼らに次はなく、自分達に彼らの墓前で「次」を口にする資格はない。それでも立ち止まる事は出来ないから。
「私は‥‥私達は、奴を追い掛ける。フェイカーだけは決して捨て置けん。地の果てまでも追い続け、必ずや‥‥っ」
 そうして握られる拳に、アイザックは。
「俺は、信じています」
 何をとは言わない。
 何を、とも聞かない。
 言葉にせずとも伝わるものを確かに感じ、律は強く頷いた。
「必ずだ」


『信じる道を共に往かん
 命繋いでその先へ
 望む未来に光あらん

 希う 暁の天へ
 明日を願う 心届けて
 叶うように 叶えるように――。』


 開拓者から墓前に手向けられた花はシロツメクサと紫色のスイートピー。
 彼らが『約束』と『優しい記憶』を抱いて旅立てるよう願う。
 マーヴェル、ユーリー、ショーン‥‥彼ら三人を開拓者達は決して忘れない。
 ‥‥絶対に。
「執事殿だが」
 葬儀を終えた帰路、ウルシュテッドは姉妹に話して聞かせる。彼女達がそれぞれに行動していた頃にあの領主邸の執事と話して聞いた、彼の想い。
「主の異変に気付かず民を苦しませてしまった事を深く後悔していたが、新たな領主が派遣された後も、許されるなら執事として努めたいと言っていたよ」
「そう、ですか‥‥」
 叔父の言葉に姉妹は、‥‥ほんの微かに、微笑んだ。


 葬儀を終えて皆がそれぞれの帰路に着く中、マチェクの異変に気付いたのはファリルローゼだった。
 傷が癒えていない事は知っていたし、‥‥腹部の傷は彼女の剣が刺し貫いたもの。
「マチェク‥‥傷の手当てをさせてくれないか?」
 そう切り出せば彼は静かに微笑った。
「心配しなくても直に治るよ」
「だが‥‥」
 どうしても引き下がれず、かと言って無理に手当するのも違うと思うから黙ってしまったファリルローゼ。‥‥と、そんな二人に声を掛けたのは傭兵団の副長イーゴリだった。
「傷は直ぐに治るでしょうが、いま顔色が悪いのも確かです。しばらくあっちの木陰で休んではどうですか。‥‥一人じゃ退屈だと言うなら、‥‥その御嬢さんに付き合って貰えばいいのでは」
 決して目を合わせようとはしないのだが、彼は彼なりに思うところがあったのだろう。それを察したマチェクは、彼の提案を素直に受け入れるのだった。


 ユーリーとマーヴェル、二人の墓を見つめる事も出来る大樹を背もたれにして座るマチェクの隣で、ファリルローゼは問う。
「傭兵団には巫女や陰陽師‥‥治癒術を使える仲間はいないのか?」
 だから傷の回復まで時間が掛かっているのだろうかと考える彼女に、マチェクは「いるよ」と返す。
「ただ、フェイカーに負わされたこの傷は時間が許す限りは残しておきたくてね」
「そうか‥‥」
 何となくだが、マチェクが術で傷を癒さない理由は判る気がした。平気なフリをしていても彼だって、‥‥違う。
 誰よりも辛いものを背負ったのは、彼だ。
「‥‥すまなかった」
 言えばマチェク困ったように笑うのを見て、ファリルローゼは堪らなくなった。
「‥‥彼らに餞の涙は贈ったか?」
 涙と言われて驚いた顔をして見せたマチェクは、次いで苦い笑みを零す。
「俺が泣くと思うかい? 涙なんてものは久しく忘れ、て‥‥」
 不意に。
 本当に唐突に、ファリルローゼがマチェクの額に口付けた。
 微かに触れるだけではあったけれど、突然のキスにさすがのマチェクも咄嗟の反応が出来ずにいれば、彼女は切なそうに微笑う。
「‥‥素直になれるお呪いだ‥‥君は、案外不器用だからな」
 その言葉が。
 触れた温もりが。
「‥‥どうしてかな‥‥」
「え‥‥?」
「いや‥‥」
 マチェクは普段のように笑おうとして、‥‥失敗した。
 彼の中で何かが崩れたのは明らかで、それを成した彼女は、まるで氷に覆われた花すら揺らす風光――。
「ロゼ‥‥一つだけ頼みがあるんだが」
「頼み?」
「‥‥スターシャ、と‥‥呼んでくれないか」
「スターシャ‥‥?」
「ああ‥‥」
「‥‥!」
 震えた応えにファリルローゼの目頭もまた熱を帯び。
「‥‥っ‥‥スターシャ‥‥っ」
 抱き締めれば、彼は何も言わなかった。
 だからファリルローゼも何も言わない。
 生きてくれている事への感謝も、想いも、今は言葉にしてはいけないと思った。だからその名を繰り返して抱き締め続けた。
「スターシャ‥‥」
 不器用な彼が家族のため、心のままに泣けるよう祈る。
 せめて今だけは、と。
(もう誰も失わせはしない‥‥!)
 胸に秘めた約束を、今度こそ果たすから――‥‥。