許せない。だけど〜蓮
マスター名:鳥間あかよし
シナリオ形態: シリーズ
EX :危険 :相棒
難易度: 難しい
参加人数: 6人
サポート: 2人
リプレイ完成日時: 2014/12/06 03:16



■オープニング本文

前回のリプレイを見る


【運営部よりご連絡】
 こちらのシナリオですが、MSからのご要望もございましたこと、またシリーズのクライマックスとなる内容の為、PC各位の描写量を考慮し、11月7日にEXシナリオへの切り替えをおこなわせていただきます。
 お手数ではございますが、ご参加の際、現在提示されているシナリオへの参加料金に加え、EXシナリオ参加料金500SCをご用意頂ければ幸いです。

11月7日追記
 参加頂いたお客様宛に、上記の件に関するお知らせをお送りしております。
 ご確認頂き、お問い合わせフォームよりご返信頂けますと幸いです。
 再々、お手間を頂戴いたしまして、申し訳ございません。

●開拓者達の長い長い戦い

 ――ズン……。

 レンシークイが暴れている。重い衝撃が轟くたびに、浮島が揺れる。
 港に残った飛空船の中。天井の継ぎ目から、すし詰めになった人々に埃が落ちる。黒蓮鬼とその家族だ。誰かが呻いた。
 おうちに帰りたい。
 のっぺりした壁の陰気な狭い部屋は、だけどその子にとって住み慣れた自分の家。彼らは銀鋏を手に開拓者の無事を祈り始めた。

 ――ズン……。

 本院の一角で、呂は母と対面した。落日が壁の浮き彫りを赤く染め、誰もいない神殿へ濃い影を落としている。少女が顔をあげた。現れた素顔はなつかしいあの頃のまま、呂が目を見張る。
「……お母さん」
 ストールを押さえる手にだけ火傷の跡はあるが、地下湖に落ちたのが嘘のよう。
「本当にお母さんなの?」
 少女は控えめにうなずき、娘の名を呼んだ。震える声にもかんばせにも、隠しきれない喜びがにじんでいた。
「治ったんだね。生きてたんだね」
 二人の瞳に涙が幕を張る。
「この身になって、初めてわかったの。私は『私』、呂明結」
 先に踏み出したのはどちらだっただろうか。明燕は自分よりも小さくなってしまった母
を抱きしめた。柔肌から伝わってくるのは体温、生きている証。母と娘の鼓動が溶け合う。万感が明燕の胸で花開き、のどを強張らせた。
「……うれしい」
 傍らのやまいぬさんは、何はともあれと安堵の吐息をこぼした。
「よかったナ。明燕も母君、も……?」
 彼は眉を寄せた。
 柱の影から様子を伺っているのは、仲間達。包帯まみれの参と、褌で猿轡をかまされた牟多岐。明結達が娘の腕の中にいるはらからを、じったり睨みつけている。ずるい。一人だけ。私も。
「はいはい感動タイム終了だにょ」
「こちらの方々も明結さんなのでござる」
 倒れかけた明燕をやまいぬさんが支えた。
「何が起きたんだヨ!?」
「かくかくしかじか」
「……へェ、死者を複製しやがったのカ。何か出てくるだろうと思っちゃいたガ」
 ねこずきな人から経緯を聞き、やまいぬさんも気が遠くなりかけた。
「クイは大戦中期に開発されたんだっけカ? 後期は想像したくもねェな」
 呂が銀鋏を握りしめ、ゆらりと立ち上がる。
「起きたことは、仕方がないよね、うん。うふふ。天帝さま天帝さま呂に立ち向かう勇気を……」
「しっかりして。戚を継げるのは呂さんだけなんだ。レンシークイを封印してよ」
 まだ現実逃避気味な呂の頬をとんがり帽子の少女がぺしぺし叩いた。我に返った呂が青を通り越し土気色になる。
「今すぐ封印は無理」
「えっ、どうして」
「……私、教母さまほど修行積んでないから」
 沈黙が落ちた。
「ダメすぎる。さすが呂さんだ。もちろんここまで想定内だよ、本当なんだからっ」
 床を杖で音高く叩き、少女は帽子のふちをひっぱった。
 かえるのおひめさまが口元に人差し指を当てる。
「封印があてにならないなら、使えるのは精霊力の湖水ですの。カニさんが集積塔に並べたろうそくを消せば、また水が落ちてきて遺跡との通信が切れますの。そこで信徒の祈りを媒介する銀鋏をクイへ突き刺せば倍率どんかもしれないですの」
 彼女の隣で、少女も自分の手のひらを見つめる。
「湖水の中で放った精霊術、すごい威力だったよ。あれなら扉を割れると思う。集積塔から外円に湖水を流し込んで蓮の根をすべて焼ききればクイを倒せる」
 一本角を持つ修羅の青年は、腕組みをしたままぼそりと問うた。

「クイの自己蘇生と黒蓮鬼の治療は同じ札の表と裏です。レンシークイをどうしますか?」

「……倒すつもりでいたでござるよ。レンシークイは再生医療技術とやらを利用し、より多くの負の感情を集めようとしているでござる」
 桃色の髪が揺れる。彼は牟多岐を踏んづけたまま参を振り返った。血糊のついた包帯が見える。腕は訓練しだいだと、しらゆきひめが言っていた。杖が手放せないだろうとも。
 しらゆきも母親達を眺めていた。やがて目をそらし、袖の陰で扇子を握り締める。
「高度な技術は、刃物です。歪んだ知能のクイに行使させるのは危険です」
 けれど、と彼は言葉を濁した。死の概念をも超越するアヤカシは古の護大派にすれば頼もしい味方であっただろう。
「クイを作りあげた人々は、仲間を苦痛から救いたい一心だったのではないかと……」
 しらゆきの声が細る。聞いていたおひめさまもぎゅっと拳を握った。死者をも呼び起こす己が技量は精霊の賜物だ。
 クイは邪悪だが安易に封じれば傷や病に苦しむ黒蓮鬼を放置しなくてはならない。倒せば眷属ごと消滅する。彼らは願わずに居られなかった。
「せめて不可侵の取り決めを結べれば」

 二人は自分の閃きに口を閉ざした。
 仲間へ目配せを送ると、含みを持った視線が返ってくる。同じ考えへ至ったようだった。

●開拓者だけの知られざる話

 やまいぬさんが扉を閉めると、大広間に残っているのは古代人と開拓者ふたりだけになった。からくり騎士の刃が一閃し、牟多岐の縄がほどける。彼はいぶかしげにまばたきをした。相対したイッカクさんが口火を切る。
「私も彼女も、今のところ蓮肉喰いではありません。レンシークイは私達の行動を把握できない。よって、内々にお伺いしたいことがあります。護大派の古代人、牟多岐さん」
「ずばり聞きますの。レンシークイを飼いならす方法をご存知?」
 からくり騎士が分厚い報告書を開く。それを横目に彼女は続けた。
「……の見立てでは、護大派の兵器を世界派の末裔が管理するから、おかしなことになっているですの。クイにしてみれば、ここは敵地のど真ん中、獲物は逃げるどころか自分からやってくる入れ食い状態ですの、きゃあ」

 ――ズン……。

 衝撃が走り床が波打つ。揺れが引いた頃、牟多岐も打算のそろばんを弾き終わったようだった。
「何が望みです?」
「有体に言って」
 イッカクさんは薄い笑みを浮かべた。
「世界派がアヤカシを使役する、そういう方法です。陰陽術のように」
「あれは精霊力を酷使しているだけでね。まあいいでしょう」
 牟多岐は座りなおした。

「クイの知能を黒蓮鬼の誰かで上書きなさい」

 二人がすっと目を細める。かまわず牟多岐は続けた。
「まずクイを弱体化させる。銀鋏を突き立て精霊力の湖水を内側へ流し、クイが瀕死になるまで攻撃する」
「それから?」
「蘇生の瞬間を狙って名前を呼ぶんですよ。名は最初の『呪』だ。呼んだ相手の記憶が表層に来て意識を再構築するでしょう。ただね、自身がクイに変じていても食いしばれる人物でないと、発狂するでしょうよ。情けも信念もある自分を曲げない人物でしょうねえ、意固地なくらい、へへ」
 ふたりは銀の芽切り鋏を床へ並べた。
『呂戚史 春一五一四年入信』
『呂明結 春一四九五年入信』
『参梨那 春一五一四年入信』
『欧戚史 春一四九二年入信』

「無理なら無理だって言ってやりなさいねえ、へへ。あの子と、誰でしたっけ、猫族の子に」


■参加者一覧
六条 雪巳(ia0179
20歳・男・巫
ケロリーナ(ib2037
15歳・女・巫
神座亜紀(ib6736
12歳・女・魔
霧雁(ib6739
30歳・男・シ
中書令(ib9408
20歳・男・吟
呂 倭文(ic0228
20歳・男・泰


■リプレイ本文



●いつかの話

 昔々。
 気の遠くなるような昔々、あるところでは大人も子どもも絵本の中にしか青空を知りませんでした。大きな壁を挟んで昼も夜も流星が飛び交っていたからです。
 かくして、おとぎの世に根ざす因縁は。

 小さな練力の塊。覚醒したレンシークイが、集積塔で最初に認識したのはそのようなものだった。彼らは人間と名乗り、クイへ負の感情を集めるよう要求した。
 曰く、人間には二種類ある。味方と敵だ。クイは味方を増やし、敵を滅ぼさなくてはならない。味方は瘴気を、敵は精霊力を纏う。それだけの、しかし厳格な違いである。
『すべては護大のために』
 彼らは自らを護大派と称し、日々人間の挿し木や接木に精を出しながらクイの開花を待ちわびていた。クイが初めて実を付けたとき、彼らは護大へ感謝の祈りを捧げた。
 耳鳴りで敵をあぶり出し、撒けば恐れを知らぬ虹色の尖兵に、口にすれば人造魂魄になる。毒にも薬にもなるその実は、彼らが味方の勝利と無事を願い心血を注いだ丹薬だった。彼らはクイに溜まったデータを覗いては、改良に改良を重ねた。壁の標語にはこう書かれていた。
『世界派を許すな、これは生存競争である』
 すべてが順調に流れていたある時、『味方』が彼らの部屋へなだれこんできた。
「*吾***鬼変***了、去死*!」
 符が乱れ飛び銃弾が壁で跳ね返った。後には誰も残らなかった。クイは実を落とし虹蓮花へ変えて動かした。触手がにじり寄り、驚きと恐怖に引きつった表情をつぶさに観察し、怒りで歪んだまま凝り固まった顔筋を撫でる。負の感情に満ち満ちた亡骸を検分していると呻きがあがった。黒い眷属を宿した『味方』が、死にきれずもがいている。虹蓮の触手が黒蓮鬼を捕らえ、傷ついた『味方』へいつもそうするとおり、クイは瘴気を集め部品を作り始めた。
 鬼は泣きじゃくり自らを二度刺した。その瞬間発生した負の感情の値が、クイの中の記録を塗り替えた。クイは思考し、粗末な知能で仮説を立てた。

 高度な自由意志は、良質な絶望を生む。

●いまの話

 地震が巌坂を揺るがしていた。
 本院の奥の間で、陶器の壷が棚からなだれ落ちた。永遠に青いと詠われる蓮の実は、落ち着く場所を求めて転がりだす。やがて一粒の蓮の実が廊下へ至った。気まぐれな地震に身を任せ、ころころ進む翡翠丹。白 倭文(ic0228)が、それに踵を乗せて止めた。
 隣にいる呂を眺める。七人の明結達が、地震に怯えて呂と雪蓮にすがりついていた。
(「アヤカシは討つものだ。瘴気は人体を蝕み、奴らが人を喰らうことに変わりは無い。黒蓮鬼も結局は……我達へ害をもたらす為の能力だ」)
 倭文は四角く切り取られた夕暮れを見上げた。茜の空に飛空船がいくつも浮いている。
(「それでもいいと叫ぶ人々が居る」)
 黒蓮鬼の最大の脅威は、人と同じ心を持つことだと、倭文達は気づいていた。
(「明燕は……巌坂の人々は黒蓮鬼との共存を望んでいる。そして虹蓮だけを追いかけて、クイの存在から目を背けている。今のままじゃ、同じことのくりかえしだ」)
 倭文の踵が蓮の実を踏み潰す。
 彼の足元から薄く立ち昇った瘴気を、六条 雪巳(ia0179)は見逃さなかった。

 ――ズン……。

 雨戸を閉め終わると、雪巳は明結へ手を伸ばし、ほどけそうなストールを結んでやった。地震の騒音の合間は、重苦しい沈黙で塗りつぶされている。扉を隔てた先では、仲間と護大派の腹の探りあいが続いていた。
 狛犬のように胸をそらしているジミーと並び、霧雁(ib6739)は腕を組み万一の事態に備えていた。
(「作戦が漏れたなら、クイは自衛のため眷属の量産を始めるはず。この地震はクイの興味が外へ向いている証左でござろう」)
 定期的な揺れよりも、霧雁は仲間の身が気にかかった。参が彼の腕をつつく。
「あの牟多岐とかいう奴、信用できるにょ?」
 傍耳を立てているであろうクイを意識し、霧雁は参の手をつかみ視線をあさってへ向ける。背を向けたまま、霧雁は字を綴った。
『蟹男さんは一貫してアヤカシに好意的で』

 ――ズン……。

 重い衝撃に床板がたわんだ。
 クイの興味が外に向いたままと感じ取り、霧雁は再び指を動かした。
『討伐せずに済む方法を持ちかけたら、話に乗ってきたでござる』

 茜差す神殿内で、中書令(ib9408)は長いため息をついた。
「人柱を立てろというのですね」
 護大派は、隻腕で顎を撫でながら答えた。
「瘴気は扱えない、専門知識もない、でも黒蓮鬼は惜しいからクイを生かしておきたい、そんな連中の言う事を真に受けるなら、管理の仕方を変えなきゃならんね、そうでしょう?」
(「いちいち癇に障る……」)
 中書令は膝に置いた拳を握り、怒りを抑えた。鼎は、まばたきひとつせず牟多岐の動きを解析している。無遠慮な視線を受け牟多岐は、うっとおしげに首をすくめた。
「アナタ方がもふらを取って食ったりしないように、アタシらはアヤカシを護大の子と尊ぶ」
 だから協力してやっているのだ劣等種どもめと、牟多岐は語った。鼎が小声で中書令へ報告する。
(「虚勢です、主人様。数も力もこちらが有利、彼奴の手札は情報しかありません」)
(「……そうでしょうね」)
 時間をかけて、そして確実に、中書令たちは外堀を埋めていったのだから。
 エクターの膝に座っていたケロリーナ(ib2037)が、ゆっくりと頭を振りながら口を開いた。
「チャンスは一度きり、瀕死のクイが自己蘇生能力を発動させた時。その瞬間を狙って名前の呪を与え、制御下に置くですのね」
 そうですと答える牟多岐に対し、彼女は問うた。
「クイの限界値をお聞きしますの。何を目安にすればいいですの?」
「そこまでは知らないね」
 ついで中書令の刃物のような目線が牟多岐をねめつけた。
「お伺いしたい、制御後のクイならば特殊な混乱を停止させることが可能でしょうか」
 あぐらのまま、牟多岐は姿勢を崩した。
「できるんじゃないですかねえ」
 前のめりになった中書令に、牟多岐が頭をかいた。解析結果を思い出しているのか薄く唸っている。
「クイ側から眷属の機能に制限をかけるくらいはできるでしょうよ」
「眷属の活動停止も?」
「たぶんね」
 ケロリーナがエメラルドの瞳をきらめかせた。
「だったら、クイにお願いして虹蓮花を止めてもらえば、一蓮教のお人は虹蓮を刈る宿命から解放されるですの!」
 牟多岐が鼻を鳴らした。くぐもった笑いが腹を抱えての大笑に変わる。小男は床に並んだ銀鋏を指差した。
「うまくいけば、ね」
「いきます。私達はそのために集ったのです」
 中書令の手が鋏を取り上げた。
 ケロリーナが部屋の祭壇までとことこ歩いていき、祭具を手に取った。大振りな銀の芽切鋏だ。真新しい刃が地平を舐める夕日を反射した。
「今日が『勝利の日』ですの」

 ――ズン……。

 横揺れが主人の足元をすくう。雪那は咄嗟に神座亜紀(ib6736)の薄い肩を支えた。
(「もし某のコアが別の器へ移し変えられたとしても。最初に考える事はきっと、お嬢様のために何ができるかだろう」)
「なに笑ってるの? こんな状況なのに」
「何が起ころうと、某のやることは変わらないのだと気づきました」
 苦笑するように頬を緩める相棒に、亜紀は瞳をしばたかせた。
「当てにしてるよ、雪那」
「委細かしこまりました、お嬢様」
 主従は同時に振り返った。
 靴音が近づいてくる。山茶花の冠で飾った花漣(ic1216)と、戦装束に身を包んだ十野間 月与(ib0343)が姿を現した。
「亜紀、雪にぃ! 心配したのデス!」
 亜紀へ抱きつき一方的に無事を喜ぶと、花漣は雪那の身体検査を始め、大真面目に言った。
「無傷で勝利とは、さすが雪にぃなのデス」
「これからだ」
「わ、わかってマス。軽いジョークデース。だって亜紀とミーの頼れる兄が居るから大丈夫なのデス」
 自信満々に言う花漣の後ろで睡蓮が優雅に頭を下げた。
「加勢に参りました」
 月与はそっと呂の手を取ると微笑んで見せた。艶のある美貌に心痛が浮かんでいる。
「呂さん……こんなになるまで黙ってるだなんて……水臭いよ」
「月与さん」
 ありがとう、そう顔を伏せて返す呂に月与は微笑を深めた。
「いつか言ったよね。あなたにお役目があるように、あたいも心に決めてる事があるんだ」
 夢から覚めたようにまばたきした呂が月与の手を握り返した。紫水晶の瞳に信頼が浮かんでいる。
「……頼りにしてます」
「こちらは任せて、悔いないよう精一杯やっておいで」
 背後で扉が開いた。厳しい顔の中書令と、すました様子のケロリーナが歩み出る。警戒を続ける鼎の肩を睡蓮が叩き後を引き継ぐ。観音開きの扉が閉じられ、女剣士と古代人の姿を隠す。
 太刀を抜き放ち、月与は牟多岐に対峙した。当てが外れたのか渋面を作る相手へ、月与は切っ先を突きつけた。
「降伏しなさい、儀の下での戦いは終わったんだ」
 牟多岐が目をすがめる。
「アタシャまだ戦えますよ。おふざけじゃあない」

 倭文が巌坂のパンフレットを広げた。皆がそれに視線を集めているうちに、ケロリーナはさっそく相棒たちを手招きし、こっそりと連絡して回る。
 明結達を呼び寄せ、雪巳が帽子とストールを話題に彼女たちの耳目を集める。自分の紫の飾り布や装飾の由来を語ると、彼女たちの緊張がほぐれ、たわいもないおしゃべりの花が咲いた。
(「クイに作戦が漏れては失敗です……ここが一番重要かもしれませんね。上手く伝わるかは一か八かですけれど、仲間の信じる作戦です、私も信じましょう」)
 後ろにまわした掌に中書令が概略を書く。体の強張りを明結達に悟られないよう、雪巳は興味のない振りを通した。
 きょとんとしている花漣の腕を引っ張り、亜紀は彼女の背に指を滑らせた。
『黒蓮花を通してボク達の視聴覚情報がクイへ送られているんだ。だけど奴との対決には蓮肉喰いが欠かせない。だからボク達は奴を出し抜くための算段をしているところ』
 口を開こうとする花漣を押しとめ、亜紀は自分の掌を指で叩いた。とまどいながら花漣が手を重ねる。
『黒蓮? 蓮肉喰いって何デスカ?』
『説明するね。花漣に大事なお願いがあるんだ』
 霧雁は、隣り合った参の背へ指先を置こうとしてためらった。精霊力はとうに散っていたけれど、明結の手を焼いた感触が生々しく蘇ったから。針を落とすように指を背に置き、何事も無いと確認して内心安堵の息をこぼす。
『戦いが始まれば、遺跡内は危険でござる。梨那さんには外で皆さんの護衛をお願いするでござる』
 神妙にしている参の背中に、霧雁はしつこく書き連ねた。
『しかし無理はなさらぬよう、無理はなさらぬように。運以外のすべては、拙者達が引き受けるでござる』
 意思疎通のもどかしさに霧雁は眉をしかめた。心配ばかりが増していく。くるりと参がふりかえり、気づいた時には霧雁は抱きつかれていた。彼の背に参の指先が走る。
『そっちもにぇ』
 一瞬のぬくもりを霧雁に残すと、参は銃を抜き舌を出した。霧雁はマスクの下に笑みを隠す。
 戚を継いだ女は閻魔帳を胸に抱き、不安げにうつむいている。倭文はそっぽを向いたまま彼女の背に字を書いた。
『明燕。鈴、片方渡しとく。無くすなよ。母君達と梨那殿と外で待機、あとこの戦布は』
 倭文は顔を寄せ、明燕のうなじに食いついた。
「ひぎゃっ!」
「首だの急所に巻いとけ。念の為ナ」
 噛み痕が残るまでしっかり牙を立てると、倭文は明燕へ鋼線の織りこまれた戦布を巻いた。 
『信者らと祈りを頼むゼ、戚夫人。そう深刻ぶるなよ。高尚じゃなくても晩飯でも何でも。アンタ達の思う事、好きに願っててくれ』
 まだ少し牙がうずいたが、倭文は柔らかい体を手放した。

 ――ズン……。

 中書令は、奥の間で埃をかぶった閻魔帳を探し当てた。封印の間までとって返すと、花漣が明結達を港まで運んでいる最中だった。
 エクターが四本の銀鋏を捧げ持っていた。仲間がするように、彼もすれ違いざまにこれと定めた一本に触れる。エクターは主の前で選ばれた鋏を開いた。銀の表には『欧戚史』と刻まれている。主が深くうなずき、エクターは倭文と霧雁へ銀鋏を託した。
「……手練れが片棒じゃ手間取れねェな」
「ではコツを伝授いたそう。殺意は隠し持つものでござる」
 押し殺した笑いが上がる。倭文は背後の明燕達へ向けて軽く利き手を上げた。
「じゃ、行ってくるから、ちょっと待ってろ」
 軽口を叩き、開拓者は駆け出した。

 ――ズン……。

 港の飛空船には古いタラップがかけられたままだった。
 年季の入った木製の橋だけが、黒蓮鬼の乗った船と巌坂をつないでいる。花漣とケロリーナが船へ渡り扉を叩く。
「開けてくださいですのー。皆さんにお願いがあってきましたの」
 内側で錠が動く気配がした。重い扉を開け、二人は船室をのぞく。人々が身を寄せ合い息をひそめていた。花漣が微笑みかける。巌坂の夜にひまわりが咲いた。
「亜紀が言ってマシタ。皆さんの鋏にはよわーい術がこめられてマス。特定の単語に反応して、祈りを封印の間に送ってますデース」
 ケロリーナが自分の芽切鋏を取り出した。胸元で握り、彼女は句を唱える。
「天帝さま天帝さま」
 刃が露に濡れる。澄んだ雫が刃先から滴り、虚空へ消えた。ケロリーナはその鋏を信徒へ渡す。
「思いを込めてほしいですの。巌坂のお人が貯めるだけだった祈りを、けろりーな達が力に変えるですの」
 だから、と花漣が一息置いた。
「黒蓮鬼と共存したいと願ってクダサイ。亜紀たちは、クイを滅ぼしに来たのじゃないデス。その先にある扉を開きに来たのデス。亜紀たちを信じてクダサイ」

 振動が腹に響き、橋脚がこそげていく。奇妙なほど青い地下湖の、風もないのにそよぐ黒蓮の下に、何が眠るかを誰もが知っていた。湖へ桜の枝を捧げた中書令が、鼎と共に身を翻し水面へ没した。黒い蓮花が隠すように波紋を包む。
 亜紀達四人はそのまま走りぬけ、虹色の扉へ飛びこんだ。
 膜を通り抜ける感触が全身を包んだ。ぐにゃりと歪んだ視界が一転し、蓮の根に牛耳られた集積塔が広がる。壁がたわみ、ひしぎ、太い金属の梁が折れる音が聞こえた。
 ぶよぶよした奇形の魚が、壁へ体躯を打ち付けている。目玉の代わりに蓮の花を生やした出目金だった。鰭から滴った粘液が泡立ち、虹色の蓮花に変わる。
 出目金が尾を蠢かせ頭部を廻らせた。蓮の両眼が侵入者を捕らえる。出目金の鱗と壁を覆うパネルとに、四人の姿が映る。倭文が叫んだ。
「よォ、レンシークイ。来たゼ。腹括って、勝負ダ!」
 鏡像の音声が重なり塔にこだまする。

 ケロリーナの銀鋏へ、子どもを抱えた老婆がまっさきに手を伸ばした。言葉にならない思いを込め、隣へ回す。けれど老婆の子どもは、怖々と手を伸べたり引いたりしていた。やがて顔をそらす。ケロリーナが隣に座った。
「緩和棟の子ですの?」
 ややあって、子どもは泣きそうな顔でうなずいた。ケロリーナはにっこり笑い、刃を持つとその子へ銀鋏を差し出した。
「けろりーなたちが居るから、一緒においで、ですの」
 黒蓮鬼の表情が緩み、銀鋏を受け取る。

 クイは虹色の眷属からの打電と記録を照合し結論を下した。『味方』の誤作動が始まった。長い長い飢餓の時代を経たクイは飽食を求めて鰭を揺らす。腹を波打たせ高周波の咆哮を上げた。濁った衝撃波が塔の全面を奔る。
 亜紀は盾の影に身を隠し歯を食いしばった。鼓膜に錐をねじ込まれたようだ。身を支えるべき床が波打ち衝撃波が襲う。吹き飛ばされそうな亜紀をジミーが後ろから支えた。
「踏ん張りどころだぜ嬢ちゃん!」
「わかってる! 雪那、ボクはいいからろうそくを消して!」
 押し寄せる波の瀬戸際を見極め、雪那は壁沿いを走った。蓮の根の隙間で揺らめいている古代人の蝋燭を、雪那の手刀が薙ぐ。
 クイから溶け出した粘液が、ぞるりと球状に固まった。砲弾は侵入者へ向けて弓なりの軌道を描くと破裂し、爆風から瘴気弾が散らばる。
 弾丸飛雨の猛威が倭文を襲う直前、雪蓮が迷い無く床を蹴り災厄を祓うため身を差し出す。からくりの全身に亀裂が入った。受身を取る間もなく床へ激突しかけた雪蓮の腕を、倭文が掴み掬いあげる。宙で一回転した雪蓮は音も無く着地した。
「灯有り、残り五」
 直後、背後から光弾が飛んだ。一筋の清い軌跡が瘴気の渦をうがつ。クイの鰭をかすめた煌きが赤い蝋燭を粉砕する。雪蓮が欠けた目蓋でまばたきをし、訂正した。
「……四」
 虹色の扉を背に、雪巳が青銀の燐光を帯び扇を広げていた。清凛な作法で白霊へ加護を請い願えば、彼の舞からこぼれた粒子が光弾に収束する。
「乾く者へ水を与え、痛悩を掃い傷病を癒さんと願う。あざなえる禍福を越えてなお他者を思いやるのは人の尊い心根、差し伸べる手は魂に咲く花です」
 雪巳は扇を閉じ、クイへ突きつけた。
「レンシークイ、貴方はそれを盗んでいく。花盗人は許せません」
 縦に鋭く扇を振り下ろす。霊弾が飛翔した。漂う瘴気が切り裂かれ、燭台の砕け散る音が立つ。三、そう雪蓮が呟く。
 亜紀が汗をぬぐう。期待をこめて盾の影から集積塔の天を見上げた。闇に包まれた奥から星が降り落ちてくる。光る水が糸のように集積塔の天と地を繋ぐ。周りの蓮の根が焼け落ちていく。クイの鱗に星がまとわりついた時、肉の焦げる匂いが微かに漂った。

 蓮のカーテンを掻き分け、中書令は常世の花園へたどり着いた。翡翠丹の苗床に志願した骸の数々が青の底にたゆたっている。
「どうしても貴方がたにはこの歌を捧げたかった。誰が何と言おうと貴方がたは、この歌そのものです」
 青山の名を持つ琵琶が賛美歌を奏ではじめた。泥にまみれ信義を貫く名も無き人々のため中書令は歩いていく。無数の屍に覆われた園へ余すところ無く歌を届けるために。
 鼎が裾をつかんだ。中書令は集中を解く。不思議な光景だった。宝石の照り返しでも刺繍のきらめきでもない輝きが、彼らの足元から生まれていく。
「ここからは私めが先に参ります」
 警戒を解かない鼎に対し、中書令は静かに首を振った。
「案ずることはありません鼎。これは……涙です」
 祈りと共に中書令は吟じた。彼の目元からもほろりと星がこぼれて溶けた。
「貴方がたの尊い心を忘れません。幽篁の裏に独り坐す時も、琵琶を弾き復た長嘯す時も」
 輝きが深まっていく。天の川を歩けたなら、彼と同じ景色を見れたかもしれない。

 集積塔の底を覆う蓮の根を渡り、倭文はクイの背後の蝋燭を目指した。根の合間から、虹色の茎が伸び上がり蓮が花開く。足をとられる前に倭文はそれを飛び越えた。触手が伸び彼を追うが、倭文は相手にせず、飛び石を蹴るように身をかわしクイへ近づいていく。目標を逃した花弁が回転し標的を再探知した。花弁の回転が速まり、虹蓮が唸りをあげ倭文の背へ突進する。
「アイシスケイラル!」
 白皙の矢が弾道を遮り、虹蓮を巻き込んで炸裂した。氷の欠片が飛び散る。二の矢が更なる破裂音を立てた。
(「二人の邪魔はさせない……!」)
 亜紀の周囲に氷塊が浮いていた。金の錫杖が湖水を吸い上げ、スノードロップが開く。視界一面を仮想射程に織りこんだ力ある文言が錫杖に絡み付いている。反応速度を最優先し亜紀は最短の詠唱と気力で魔法を制御していた。氷結の援護射撃の先はクイの注意を引きつけている倭文、そして。
 クイは、それを感知できなかった。色という色が抜け落ち、時の流れから切り離された永い瞬間を。クイへ向かい来る双剣使いの影で、夜の底に忍び肉薄する存在を。クイは、下腹に衝撃を感じた。未知の感触が脂肪の装甲に捻じ込まれ、じわじわと広がっていく。警報が鳴り響き、クイの知能であぶくのように生じた言霊が塔のモニターを埋め尽くす。
『混線』。
 鱗を割き、銀鋏が突き立てられていた。
「……これは戚夫人の分」
 冷えきった明確な殺意を持って、霧雁は二本目の芽切鋏を振りかざした。クイが遠吠えせんと胸をそらす。
「クイ、目ェ離すなよ!」
 前方から熱い刺激が入る。霧雁の抱く黒蓮からの情報とぶつかり、クイの意識は一瞬音声の解析に差し向けられた。
 ぶづん。
 衝撃がクイの背に走り骨にまで到る。
「これは梨那さんの分でござる」
 粘液まみれの黒鱗へ、霧雁が鋏を突き立てていた。無数の単語がクイの表面を覆っていく。『侵食』『精霊力』『妨害』。

 呂と参が甲板の手すりに身を預け、本院を見上げていた。灯りを点す者もなく巌坂は闇に沈んでいる。町の人々の乗った飛空船が惑星のように暗い空を巡っていた。すべての飛空船を回り終えた花漣が、ケロリーナを乗せて本院へ飛んでいく。彼女の手元の光が、ほうき星のように長い尾を引いていた。
 呂が歌うように口ずさみ、頬杖をついたまま参は顔を向けた。
「……る交信可能な存在の数かける友好が形成される速さかける魂魄を有する物体の割合かける……」
「幸福量の方程式?」
「うん」
 それってさ、と梨那は口を開いた。
「いくつになるの?」
 夜風が二人の髪を揺らす。明燕が首を振る。
「わからない。わからなくなった。外の人を計算に入れなければ、世界の幸福量は確かに一定だったのに。今はもう……雪巳さんが、ケロリーナさんが、亜紀さんが、霧雁さんが、中書令さんが、倭文さんが、無事でありますようにって、それしか考えられない」
 モノクルの下に雫が溜まっていた。梨那が両手を組み、瞼を閉じる。
「天帝さま天帝さま。アイツらをお守りくださいにょ」
 明燕はぽかんとした。
「どうしたの、梨ちゃんがお祈りなんて」
「どうしたもこうしたもにぇーにょ、理屈は知んにぇーけど、こうするとアイツらの助けになるって探偵さんと花漣さんが言ってたじゃん」
 薄目を開け、梨那は言った。
「祈ろうよ明ちゃん。託したんだ、信じよう」
 そうだねと、静かに呂は答え、暗い空を柔らかな瞳で仰ぎ見た。
「梨ちゃん、朝が来たら走っていこう」

 最後のろうそくが芯を断たれた。
 天から滝のように湖水が落ち、急速に水位を上げていく。
 クイが怯み、上へ登ろうと体をくねらせた。短く舌打ちする倭文。異変がクイの巨体に響く。鳴り止まない警報にクイは後方へ注意を向けた。腹びれの影に明結の銀鋏が食い込んでいた。
 悲鳴に似た咆哮がクイから放たれた。衝撃波の狭間に立たされた倭文の体が床から浮き、壁へ吹き飛ばされる。体幹のバネで勢いをいなし、倭文はなめらかに宙で回転した。放物線を描く銀鋏を受け止め、クイを狙い壁を蹴る。
 明燕の銀鋏が尾の付け根に食い込む。背後からの奇襲を受けたクイが巨体をよろけさせた。背に乗った倭文は、粘液を足で掃い同時に双剣を抜き放つ。白狼の気が新緑の裾をはためかせた。
「飲み干してみろ、我がテメェの艱難辛苦だ!」
 ぞん。
 銀線が交差し、尾が断たれる。クイは床へ叩きつけられた。湖水が鱗を爛れさせ、もうもうと煙が上がる。巨体が波打つ。粘液を垂らして暴れまわるクイの、鋏の周りにだけ亀裂が走っていた。湖水が傷口へ染みとおっている。『緊急』『損傷率上昇』『戦闘続行』。
 クイの両眼が敵を探し、互い違いにきちきち動いた。空を裂く音が走る。蓮の花を模した目玉へ、漆黒の匕首が飛ぶ。吸い込まれるように花托へ根元まで刺さり、その軌跡を幻の羽が彩った。クイの視界が半分、光を失った。『損傷さらに大』『状況悪化』『対策』『可及的速やか』。眷属からの情報に飛びついたクイは、だが襲撃者を割り出せなかった。遠間では雪巳と亜紀がにじり寄る虹蓮花の相手をし、彼らの背を霧雁が守っている。
 クイにはわからないのだ。夜を抜け、霧雁が踏み込んだことなど。頬をかすめる虹蓮の触手をくぐり、霧雁は再びクイへ向かう。
(「拙者の手の内は読ませぬでござる」)
 投擲が最高の威力を発揮する位置を彼は知りぬいていた。早駆けの勢いを苦無に乗せ、残った目玉を狙い撃つ。自在な軌道を描いた匕首が眼球を貫いた。背後からまとわりつく触手が彼のわき腹を裂く。攻撃の手をつかみ、霧雁は湖水へ虹蓮を背負い投げした。水面が割れ、しぶきが上がる。
 どろどろになったクイの鱗の隙間を文字が流れ落ちていく。『機能低下』『防衛』『召喚』『戦力追加』。
 機械音がせり上がる。亜紀は、はっと息を呑み壁を向いた。同時にモニターの奥が割れ火を噴いた。裂け目から流れ出した湖水が黒蓮の根を灼いている。猛火へくべられた藁の如く蓮の根が解けていき、轟音に混じってかすかな悲鳴が亜紀へ届いた。
「……円陣、エレメンタル・サークルブラスト展開完了」
 亜紀の目元に涙が浮かぶ。
(「ごめんよ。ごめん、本当にごめん。だけど信じてくれる人が居るならボク達は決して負けないよ、巌坂の人達が望む未来、きっと掴んでみせるよ!」)
 左手で涙をはらい、彼女は葬送の呪を発動させた。
「デリタ・バウ=ラングル!」
 滝を中心に鎖が浮き上がった。輪の内側へ色とりどりの呪文が書きこまれていき、連環は灰色に染まっていく。雲間から天使の階段がこぼれた。鎖から放たれた光条が回転しながら八方を巡る。クイの背びれが、蓮の根が、撃たれた虹蓮花が、瘴気を焼き尽くされ灰の塊に変わった。押し寄せた湖水が灰を押し流していく。壁が音を立てて閉じた。
 雪巳は気を抜かず、けれど短く送りの言葉を呟いた。心の中で詫びながら。
(「見知った顔を倒すのは少し気が引けますが……ごめんなさい」)
 わき腹を抉られたクイが、往生際悪く鰭をばたつかせ暴れる。新たな虹蓮花が咲き、両肩から生まれた瘴気弾が敵味方の別なくばら撒かれる。
 すべての感情を克己し、霧雁は爆風から亜紀と雪巳を守るべく腕を広げた。ジミーが呪いの炎を飛ばしながら身を挺す。飛礫が四肢へ食い込み、彼らの体に紅が弾けた。長い紫布を翻し、雪巳は扇で空を薙いだ。冬空を走る稲妻のように閃癒が走り抜ける。瘴気が祓われ、血の穢れが消滅する。
 虹蓮の突進を受け流し、倭文は拳を握った。
(「あと一歩ダ……!」)
 分厚い鱗と脂肪の城壁は崩れつつあった。足を湖水に取られながらクイへ突進する。ぶれそうな切っ先を気力で定めた時、ふと意識が空へ向いた。反射的に、倭文はその場を飛びのく。闇を切り裂いて、銀鋏を握ったエクターと、古い閻魔帳を抱えた中書令が落ちてくる。
 大振りな銀の鋏が、クイの頭頂へ叩き込まれた。クイの全身を亀裂が覆う。エクターに抱かれていたケロリーナが、彼女の腕から飛び出す。くるりと振った薔薇の杖、浄化の炎のまんなかで蛙がウインクした。鉄槌が振り下ろされる。
「天帝さま天帝さま!」
 鋏が持ち手までめりこんだ。クイを覆う甲殻が割れ、中身がぶちまけられた。肉の苗床に、蓮花が蜘蛛の巣の如くまとわりついている。肉塊は水しぶきを撒き散らして転げまわる。再生する尾と湖水が反応し悪臭と蒸気が立ち昇った。焼け爛れたクイの表皮が蓮葉で覆われ、急激に硬化し鱗に変じていく。
 ケロリーナは額を押さえた。強烈な耳鳴りに視界が歪む。人々の祈りと己を戒める精霊力が内と外から彼女を守り、波にさらわれそうな意識を繋ぎとめる。
 よろめきを乗り越え、中書令が閻魔帳をめくった。魂を振るわせる歌に、代々の戚夫人の名を乗せて呼びかける。
「目覚めよすべての戚夫人よ! 時はしも真夜中、汝ら、かしこき乙女はいずこ? 起きて、ともし灯を取れ!」
 煉瓦をこすりあわせるような音が続くなか、中書令は見た。クイの額に腫が生じたのを。それがヒトだと直感的に悟り、中書令は楽の音を変えた。
「汝に栄えあれ。人と天使の舌をもちて、琵琶と笛を鳴らし聖人の輪へ至れよ、喜びのうちに。目覚めよと我らは呼ばわる。来たれ愛しき魂よ!」
 ぷぢ、と肉腫が弾け、中身がまろび出た。無数の肉塊が蓮の根のように絡み合い、辛うじてヒトの形を保っている。

 月与の太刀が黒い刃を跳ね上げた。刃が粉々に砕け、瘴気に戻る。牟多岐は塵からさらに刃を呼び出す、明らかに精彩を欠いたその動きに、月与はこらえきれず叫んだ。
「もうやめなよ! 護大は神じゃなかった、ただの現象だった。戦う理由なんか、どこにもない!」
「理由だと? そんなものは……」
 牟多岐が月与へ踏み込む。
「同胞が血と糞の詰まった袋になりゃ、何をするべきかは理解するんだ、人ならば誰でもな!」
 その胸から不穏な輝きがこぼれているのを月与は見て取った。太刀の切っ先が残光を宿し、扇のように軌跡が続く。逆袈裟に切り裂かれ旧世界から来た男は地へ崩れ落ちた。
「……護大すら信じられぬ新時代にのたうちまわれよ。この広い世界で、アナタ方だけが、アヤカシではないのだから」
 古代人が青い炎に包まれる。月与は首を振った。
「そうだよ、あんたは役者不足さ。因習の煮凝りみたいな、あんたじゃね」

 ケロリーナが目玉を杖で殴りつけ声を上げた。
「戚夫人!」
「欧戚史ー! 貴女は欧戚史! 欧戚史! 欧戚史!」
「ババア目ぇ覚ませ!」
 無我夢中で叫び続ける霧雁の隣で、ジミーも血相を変える。確信を込めて、ケロリーナは再生を続ける出目金を睨みつけた。
(「理力ある巫女ならばその能力を複製するって言ってましたの。複製が真なら、きっと大丈夫ですの」)
 肉塊から両腕が分化し、五指を形作る。ぎちぎちと重なりゆく鱗に囲まれ、それは身を起こした。赤黒いぬめりが内へ引き、白い肌が現れ、髪を振り乱した女に変わる。うつろだった両眼に光が灯り、視線がさっと塔を横切った。
「こ、れ……は?」
 かすれた声を喉からこぼし、女は手負いの獣のように短い呼吸をくりかえした。鰭を踏み台に倭文が額までよじ登る。粘液に混じった濃い瘴気が倭文の肌を焦がしたが、気にも留めず彼は女を支えた。
「起きてくれ戚夫人……! アンタは、アンタだ。だから頼みがある、夫人。守ってきた者達の未来への願い、叶えてやってくれ!」
 亜紀が雪那の肩を踏み後に続く。
「欧戚史! 信じてるよ、この水には巌坂の人たちの祈りが届いてるって。夫人ならきっと答えてくれる筈だよ!」
 雪巳が踏み出した。
「欧戚史……戚夫人。自分達を『弱い』と仰った貴女に力を与える事……それが吉と出るのか凶と出るのか、まだ判りませんけれど」
 額に生まれた女を見上げ、クイの鼻面へ手をかける。
「これまでの懊悩を知る貴女なら、巌坂を思う貴女なら、きっと」
 虫が食うように集積塔を覆うモニターが活動を停めていく。
 灯が落ちた後の真っ暗闇で、降り注ぐ湖水だけがぼんやり光っていた。やがて闇の右手に影絵が生じた。巌坂で生まれ育った人々の、時代も背景もわからない切れ切れの記録だった。目を背けたくなる過去が積み上げられ、悲しみを飲み込むだけの黄ばんだ画へ新たな声が重なる。

『純然たる医療行為です。はい、おしまい。口も減らないようですし問題ありません……良かった』

『呂さんが泥沼にはまっているようで、拙者達はいてもたってもいられないのでござるよ』

『人の抱えられる分は決まってる。分けて良いんだよ!』

『……私に課せられた試練なら、自身の手で乗り越えます。大切な仲間に背負わせる艱難辛苦など、私は持ち合わせておりませんから』

『護大の心臓はけろりーなたちがおさえましたの。今こそ古き理を打ち破って新しい世界をみるときですの!』

『大切だったんですよね。これまで送られた仲間達が。もう心を閉ざさないで下さい。私達が受け止める。違う形でも、護るべきものを護れる事を示します。だから。泣いていいんですよ。ここは天儀ですから』

『だけど……君は人の愛や優しさを理解できないんだね。それが揃って初めて人は人足りえるのに。大切な要素の欠けた君は何を造っても不完全だよ。それが……哀れでならない』

 いつしか塔へは夜明けの光が差し込んでいた。壁面は巌坂の風景で彩られ、嵐の海を越えた先から太陽が金色のヴェールを広げていた。レンシークイ、かつてそう呼ばれていたアヤカシは、その額に一人の女を生やしていた。黒髪を体に巻きつけ、静かに瞑目している。
 まぶたが開いた。モニターに彼女の理智の光を宿したまなざしが映る。

「呼んだか?」

 欧戚史……。
 亜紀の感嘆は声にならなかった。安堵が堰を切り、大粒の涙がぼろぼろこぼれる。鱗をつかんでいた手から力が抜け、小さな体は転がり落ちた。雪那がそれを受け止め、大切そうに抱きかかえる。
「……おつかれさまです。ごゆっくりお休みくださいお嬢様」
 倭文は上着を脱ぎ、夫人の肩へかけると下へ飛び降りた。
「アイツの願いは聴いた。腹も括った。……賭けさせてもらうゼ、欧殿」
 足を引きずりながら、霧雁は出目金へ背を向けた。行き先をたずねられ、霧雁はマスクをはずした。
「湖水の流入を調節できるか調べてくるでござる。欧さんごと完全消滅してしまっては元も子もないでござるからな」
 雪巳が袖で口元を隠し笑みをこぼした。
「またケロリーナさんの蒼浄焔戈を受けなくてはいけませんね」
 当の彼女は大きく息を吐き、段差の上で横になると足をじたばたさせた。
「う〜くらくらしますの。欧おばさま、耳鳴りを止めて欲しいですの」
 欧が息を呑んだ。
「できるのか、そんなことが。……しばし待て」
 眉間にしわを寄せたまま、欧は瞼を閉じる。
 出目金の全身で、古泰語に似た文字列が花火のように弾けた。空気が軽くなる。自身の能力に欧自身が驚いているようだった。耳鳴りの脅威が消え去り、中書令も気を緩めて腰掛けた。
「お加減はいかがですか」
 心配そうに見上げる中書令に、欧も向き直った。
「……驚いたが、まあ、それだけだ。もとより黒蓮鬼との共存に捧げた一生」
 言葉を切り、欧は薄く笑った。
「いや、強がりはよそう。そなたらの声援が命綱だった。今も歴代の戚夫人が私の負荷を散らしてくれている」
「如何に強靭な心でも一人だけでは荷が重過ぎます。故に名であり過去より未来に受け継がれる志でもある全ての『戚』が上書きの呪となることに賭けました」
 恐縮する中書令の隣からケロリーナがぴょこんと顔を出した。
「欧おばさま、虹蓮花を止めてくださいですの」
 出目金の鱗に意味不明の数式が縦横無尽に並んだ。『活動停止』の四文字が出目金の腹にでかでかと映る。小さく拍手をするケロリーナに続き、中書令は顔をあげた。
「……黒蓮鬼の不老不死を消すことはできますか」
 花火のように文字が散らばった。やがて欧は悲しげに首を振った。
「不老不死は不治の病だ」
 そうですか、とだけ中書令は呟いた。
「では私達は戦いを伝承へ残しましょう。いつか、クイを創造したほどの技術がありふれたものに変わる時、黒蓮鬼が寿命を取り戻す日を夢見て、魂の在り処を謳いましょう」
 欧が微笑する。出目金の巨躯が湖水から離れた。
「願わくば、吉報をもたらすのがそなたらの子孫であらんことを」