堕旗 〜消え去った男〜
マスター名:白河ゆう 
シナリオ形態: シリーズ
相棒
難易度: やや難
参加人数: 8人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2012/08/13 23:51



■オープニング本文

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 それは仁生へと戻る旅路の途中であった。
 日除けの笠に護身の刀を帯びた大小の影。身軽な最小限の着替えや糧食を包んだ風呂敷を手に提げて、急ぐでもないが足腰の鍛えを意識した調子で進む。

 神楽の都で働く事を覚え世界の広さを学び、未来の見据え方を自分の中で固められただろうか。
 日常の延長でありながら非日常。平穏無事でありながらそれは刺激に満ちていた。自分の身の丈という物を意識させられた。
 旗乃宮 在由(はたのみや ありよし)の瞳は惑いが拭い去られたかのようにこの時は澄んでいた。
 頼りなげな幼さには変わりないが、それでも目を逸らさずに見なければならないこれからを彼なりに想い。逃げ続けても自分は何者にもなれないと我が足を前に向ける事を決し。
 兄、在真(ありまさ)もまた、自分の足らぬ物を鍛えようとし。
 道場を継げる者になろうと、鍛錬の楽しさを会得し。一門にまだ半人前と思われていようとも、いずれはという思いを胸に抱き。

 ――在由を後継と立て、俺はそれを支える太い柱になる。その為にも今戻るんだ。

 ――兄上にも一門にも誇りに思って貰える、私は立派な後継を目指します。そしていつか、あの方々と同じ高さで世界を見てみたい。

 麗らかな水景の中、開拓者から聞いた生い立ち。それに比べて。
 自分達はまだこれから幾らでも努力によって家族の在りし日を取り戻せるのだ。皆、生きて−ーいるのだから。
 母は、母なりに自分達を愛してくれている。過去の罪はもう悔いているではないか。頑なに先へ進む事を拒んでいるのは自分の方。
 父については――拒絶されているのだろうか。父は何を望んでいるのだろうか。
 答えてくれぬとも、学び続ければ識る日が来るだろうか。
 父のやり方が納得いかぬなら、自分達は別の道を新たに拓けばいい。
 彼らは教えてくれた。様々な世界を。自分達を覆っていた雲が頭上のほんの僅かでしかない事を。
 この地、海の向こう、空の向こう、戦い続ける事に比べて、どれだけ小さな事に悩んでいたか。

 意気揚々と、とは異なる何かが胸を満たしていた。
 それよりももっと。心の中に強い芯ができた。
 帰ったら父に母に堂々と構えよう。
 そう考えていた矢先の暗雲。

 ◆

 神楽の都に知らせは届いた。
 通り掛かった旅商から街道筋の番屋を通して通報があったのだ。
 幸い早い発見によって一命は取り留めた。
 が、負った傷は深く。意識も一度は戻ったがまた昏睡し。
 衣服を残して持ち物は路銀も含め全て奪われていた。
 辻強盗の仕業だろうか。

 被害者の特徴は、先にギルドに依頼した者達と酷似している。
 旗乃宮 在真と在由の兄弟に違いないと関係者に知らせが回った。

 ◆

 兄弟の血を吸って妖しき輝きを増した珠を唇へと運ぶ。
 甘美な味がする。
 それは宝珠にも似た、しかし瘴気より構築されたモノ。
(真名様……)
 青柳 上総(あおやぎ かずさ)は幻影に酔いしれていた。
 人の心、自分の心だと思っている思考は既に彼であって彼ではない。
 珠が彼を支配していた。噛み砕き呑み下し、一体となる。
 力が満ちる。今の自分なら欲しいモノ全てを手にできる気がする。
 次は――真名様の骨を喰らおうか。更に力を増せるであろう。
 邪魔者は全て血に染めなければならない。
 全てを。喰らい尽くす。

 ◆

 兄弟は夢を見ていた。開拓者と桜の下で母を想った里。
 枯れた桜が里の死者達と踊る。上総が高らかに笑っている。
「お前達に用はない。在実も冬華も要らない。この世界には私と真名様さえ居ればいいのだ――」


■参加者一覧
菊池 志郎(ia5584
23歳・男・シ
和奏(ia8807
17歳・男・志
月代 憐慈(ia9157
22歳・男・陰
明夜珠 更紗(ia9606
23歳・女・弓
ベアトリクス・アルギル(ib0017
21歳・女・騎
繊月 朔(ib3416
15歳・女・巫
緋那岐(ib5664
17歳・男・陰
ゼス=R=御凪(ib8732
23歳・女・砲


■リプレイ本文

「知り合ったばかりでお別れなんて、そんなのは悲し過ぎます。どうか、目を……目を開けてください!」
 懇願の声を上げる菊池 志郎(ia5584)。室内に漂う香木の煙はもう薄れていた。
 精霊の力を幾ら注いでも、在真は身じろぎひとつしない。怪我はもう存分に癒し尽くされたというのに。
 消え去った傷跡から広がる黒きひび割れのような斑紋。
「この斑紋は、運び込まれた頃からあったのですか」
 尽くす手はないと開拓者が来るなりあからさまな安堵を見せて後ろに下がっていた辻医者が、首を横に振る。
「ここまでひどくはなかったが、貴方達が来てからは進んでないように…思う」
 自信なさげな答え。アヤカシにやられた者を診る機会も無かったなら戸惑うばかりか。そうでなくとも特異だが。
 症状が止まっている様子から、通常の瘴気汚染とは異なるようにも思えるが。表皮の下の血管に沿い毒に似た廻り方。
 だが全ての傷ではない。腕や脚に負った一部の傷のみ。まるで其処だけに刺青でも施したかのよう。
 瘴気の反応は薄れた煙よりも弱々しかった。魔の森に漂う気に比べれば無も同然な微か。
「在由さん、在由さん……」
 つい暦も先頃までは一緒に働いていた手を握り、呼び掛け続ける繊月 朔(ib3416)。
 看病している間にも共に駆けつけた仲間が幾人聞き込みに回っている。何か手掛かりが掴めたらいいのだが。
「ただの強盗って線じゃなさそうだよな、斬り口が愉快犯じみている。心得がある奴がわざと急所を外して甚振ったみたいな」
 手口への嫌悪を眉間に寄せて記憶の海を探る月代 憐慈(ia9157)。幅広い知識の中には人道を外れた輩の犯した罪を克明に記録した書物も含まれる。
 医学の専門的な知識を要する訳でなし、せいぜい知っておいて損は無いという程度の気持ちで紐解いた類だが。
(ご乱心の武家さんが夜な夜なお試し斬りしてお縄になったとかいう事案に似てない事もないな、ありゃ毒なんて使わなかったが)
「和奏さんよ、あんた刀の遣い手としてどう見る?」
 刀傷である事は誰の目から見ても間違いない。問われた和奏(ia8807)は座したまま空の手を抜き、犯人の捌きを推測する。
「こちらの、在真さんですか。彼が武器を持っていたと考えるならば腹から胸に掛けての傷は不意を突いた低い姿勢からの抜刀……」
「護身の刀は一振り腰に佩いてたはずだ。在由も荷物にはあった、よな?」
「ええ、神楽に居る時は家に置きっぱなしでしたけど。茶屋働きでは必要ありませんしね」
 朔が顔も上げずに答えた。その視線はずっと伏したまま動かぬ少年に注がれている。
(在由は動けないままやられたとしても不思議はないしなぁ)
 ぶるぶる震えるだけで血と尿に汚れ蹲っていた夜の情景が蘇る。彼にとってはあれ以来の実戦か。鍛錬とは全く違うからな、こういうのは。
「喉を斬られていないのが不思議ですね。いえやられていたら助かってなかったと思いますが。腕や脚を執拗に斬り、相当悲鳴を上げたでしょうこれは」
 在真の腕の傷の幾つかが気になる。これは守る側も攻める側も基本の型通りに構えた場合に、有り得るとも。そうでないとも。

 発見者の旅商は既に去った後で尋ねる事はできなかったが、彼が取り乱し語ったあらましは番屋の役人が几帳面に残していた。
 若い男と子供の絶叫を聞き怖気づいた旅商が彼らの倒れている元へ着いたのは、静寂が辺りを再び包みだしてから。
 犯人は既に去り、血溜まりの中に子供を庇うように男が重なって路地に倒れていた。通報により被害者は運ばれ現場の検分も行なわれた。
「その時既に二人の所持品は無かった、と。事件の前に彼らを見掛けた者の証言は?ああ、もういい。自分でその辺で聞く」
 手帳に書き写しながら、役人に書かれてない部分はどうしたと尋ねるが埒が明かぬと打ち切った明夜珠 更紗(ia9606)。
 怨恨で片付けて他所へ回したがってる様子があからさまに感じられる。身元が知れて、それこそ北面の志士同士の内輪揉めという色眼鏡で見ている。
 身を隠す必要も無い旅路だ。行き交う人々は去ろうとも、二人の足跡は宿場筋の働き者達の記憶にまだ新しく残っていたが。有益な情報は無い。

「しっかりしろ。俺の事は見えているか?桜……?ああ、あの時お前と一緒に」
 起き上がれる程に回復し意識を取り戻したものの瞳は夢うつつ。肩を掴むゼス=M=ヘロージオ(ib8732)の事も判っているかどうか。
 紋様に蝕まれた利き腕は肩を落とし弛緩したまま。布団にそのまま倒れてしまいそうな身体を支え、頬を寄せて彼のうわ言を聞き取る。
「……かずさ?青柳 上総の事か?おまえ達の道場に居た」
 是とも否とも言わぬ。在由も在真も此処ではない世界しか見ていない。
 桜の木、母上、墓。枯れてしまった。卒塔婆。いえ、私達の刀。上総、俺の服を着て何をしている。
 二人の心はあの墓参りの村に囚われている。
「向かうとしたら、あの場所しかありません。二人を襲ったのは上総さんなのでしょうか」
 ベアトリクス・アルギル(ib0017)も自信が無かった。手掛かりは無いに等しい。見当違いなのかもしれない。
 人をこのような幻影に捉え続けるのは一時的ならともかく出来るはずがない。ならアヤカシの力か。彼はアヤカシと関わっているのか。
 アヤカシは、二人を呼んでいる?何の為に?
 内なる怒りが沸々と込み上げる緋那岐(ib5664)。端然と座しているが、知り合いをこのような目に遭わされて平気ではいられない。
(許さねぇ……何でここまで滅茶苦茶にされなきゃいけないんだよ)
 別世界を視る瞳に映る自分の顔を覗き、額をこつりと合わせるゼス。彼が誓う時に見せる仕草。信頼の証。
「在真、聞こえるか。聞こえなくてもいい俺の独り言だ。俺はお前の心に語りかける」
 お前達を斬った者は俺達に任せろ。そしてお前は弟を守れるよう回復に努めろ。真に弟を守れるのはお前だけだ。……いいな?
「……行こう」

●人の為れ果て
「今回の相手は完全にアヤカシのようですね……みなさん気をつけてくださいね」
 志郎と交互に瘴気を探っていた朔。濃厚なひとつの反応。既に人里の中。向かうは墓地。
 張り詰めた気配に何事かと問う人々に柔和に答える志郎の言葉は、必要以上の不安へは掻き立てないよう配慮されていた。
 瘴気は一点から動く気配が無い。こちらの動きに気付いていないなら、里を平穏なままに保ち油断させておきたい。
 巻き込まないよう、そちらに危険な気配があるみたいだから近付かないでと。
 俺達は調査に来た開拓者ですから。すぐ危険は取り除いてきますからね。大丈夫。

 夏の盛りだというのに枝に連なったまま葉も緑を失い朽ちた桜。その袂。
「鬼道へと堕ちたか、青柳!」
 逃げ場を断つ布陣に頷き、更紗が墓を暴き骨を喰らう男の背中へ厳しい声音を投げかけた。
 恍惚を浮かべていた顔が表情を落として、振り返るなり憎しみに溢れた声を返した。
「邪魔だ。貴様らも私の血肉となりたいのか」
 転がる骨。問答無用の跳躍と抜刀。ベアトリクスの突き出した槍が刃を流し受ける。返しの薙ぎが朔の外套を掠める。
「上総さん……ではないですね。そうであったものとでも言うべきでしょうか」
 振るわれる霊刀。刃を持たぬが精霊の力が澄んだ切れ味を発揮する『カミナギ』の名を持つ品。
「私をただの巫女と思わないで下さいね。成敗させて戴きます」
「その姿でこれ以上、罪を重ねさせる訳にはいきません」
 アヤカシならば一片の呵責も無い。速やかに討伐するのみ。
 だが、人であった身体を好き勝手に使われるのは、やはり許せない。
 長大な騎兵槍を突き込んだベアトリクスの攻撃を避け、再び跳ぶように後退する男。
 囲むは手練の開拓者。呪縛を打たれ、矢継ぎ早の息の合った攻撃に晒され。剣の腕に覚えがある男が一人あがいた所で知れていた。
 歪んだ唇から咆哮にも似た奇声を発し、男の身体が変化する。
 在真や在由の腕や脚にあったのと同じ黒いひび割れた斑紋が、男の肌を速やかに覆い。
 全身が漆黒に包まれるまで、ひとつ呼吸をする間も無かった。ひび割れは次々と繋がり固まり、硬質の人型を模した別の生き物へと。
「それが本当の姿ですか。聖なる炎で焼き尽くしてあげますよ!」
 清浄なる炎が足元よりアヤカシの身体を駆け上る。炎の姿をしているが、衣服は燃え上がらぬ。
 見覚えがある。在真が舟遊びの時に着ていた服だ。奪い取った荷物に入っていた物であろうか。
 ゼスの放った弾丸がアヤカシの死角より飛び込み、腕より突き出た硬質の剣一塊を砕く。
 振るわれる拳を阻む黒い壁。緋那岐の術だ。
「ちと、動きが速くなったかな、気をつけろよみんな。……白狐、その牙で奴を砕け!」

 人の姿を捨てても尚、開拓者の力が勝っていた。
 突如と場違いな哄笑。アヤカシではなく上総の声。突き出した両腕から増す禍々しい瘴気。目に見える渦。
「お前達に何が判る。私はこのような力だってどうでもよかったのだ。私も滅びたって構わない。真名様さえ、真名様さえいれば!真名様の居ない天儀など滅びてしまえばいい!」
「その言葉はそのまま返すよ。お前が真名さんの何を知っている!?真名さんはこんなことを望むような人なのか!」
 声を荒げる憐慈。こんなのは柄ではないが、怒鳴りでもしないと奴の耳に入らないかもしれない。
 いや、先頃から続く事態の不明瞭に対するむかっ腹も手伝っているか。こいつにぶつけたところで仕方ないんだろうが。
 そうだ、その腕を俺に向けろ。
「貴様も真名様を私から奪うのか!」
 ああ、そう来るか。期待は端からしてはいないが失望が一瞬過ぎる。刹那、爆ぜる風と衝撃に身体が浮き、したたかに地面へと叩き付けられる。
 同時に放たれたゼスの銃弾は、軌道を逸らすには至らなかった。またもアヤカシの硬質の一部が砕けただけ。
「……今、その歪んだ幻想から解放してやる」
 癒しの光を浴びて、膝を付いた姿勢で練気を流し込んだ矢を放つ更紗。破片が掠めた頬を流れる血が膝にぽたりと落ちる。
 凄まじい力が辺りの長閑だった景色を破壊していた。後方も一体どうなっているか、これが人里の方角に向けられていたら……。
 とどめの一撃となった和奏の刃撃は、上総の姿を留めたアヤカシが初めに斬りつけた動きと似ていた。決定的に異なるのは澄み切った心。
 人間の嗚咽に似た音を発し、膝を付くアヤカシ。黒い外殻が崩れ、再び人の姿に戻ってゆく。
 志郎が歩み寄り差し伸べた魔杖。触れてみたい、その心を知りたい、ただそれだけだった。
 上総だったモノの手が縋りつくように掴む。宝珠が見せる星空の瞬きは彼の視界に映っただろうか。
 指が解け、地面に落ちた。
 安らかに逝けとは微塵も思わない。彼にまだ人の心が欠片でも残っていたなら、何を最期に望むのか。
(この女性が真名様ですか。娘時代でしょうか……)
 結局浅はかで腹立たしいだけなのかもしれなかった。高位の精霊を呼び出してまで視るような事ではない。
 大勢の門下生に敬意を払われ、主として座する視線。寄り添う妻との温かな家庭。そこには在真も在由も居ない。
(貴方は幼馴染であり仕える主であった旗乃宮氏の位置が欲しかっただけ。在真も在由も彼らの父に由来する全ての否定したいのですか)

●遺された負
 荒らされた墓を黙々と修復するベアトリクス。終わり安全を確かめてより真相を告げられた村人達も集まって手伝う。
「生前の罪を考えれば、真名さんの傍に葬る訳には行きませんが……この方もどうか供養してあげて下さい」
 野辺送りに付した上総の亡骸。遺品は悪念に毀れた彼の佩刀一振り。共に埋めてやった。
 苦しみ続けた末にアヤカシに利用までされて。せめてこれからは安らかに休んで欲しいと。
 澄んだ心でこの刀を携えていた頃の貴方自身を想い出してください。貴方が学んだ剣は大事な人を守る為だったのじゃないですか。

 朽ちた桜は跡形もなく消えていた。あれは何だったのだろう。死者を想う象徴もアヤカシは喰らっていったのか。

 数日後。
 まだ宿場で療養を続ける兄弟から離れて、憐慈は単身、旗乃宮家を訪れて当主に面談を申し入れていた。
 通された日、冬華は不在だった。知己に護衛を頼り、息子達の元へ急ぎ駆けつけている。
 今頃はもう合流しているだろうか。帰りはまだ兄弟の傍に添っているはずの仲間達が一緒に来る事になろう。
「このような顛末になった訳だが。あの時青柳と二人で話し合った時の事はやはり教えては戴けないんだろうか」
 青柳がアヤカシに堕ちて、その結果に俺の知己が巻き込まれた以上、その事態を招いた原因が何処にあるのか俺はそれが知りたい。
 息子達が生死の境を彷徨った事よりも、上総の堕ちた最期を告げた時に動揺を見せた在実に更に怒りを覚えた。
「死地を探すという言葉を許した。しかし私は上総の死を願わなかった。私にとっては真名と三人で笑っていた時代が……」
 旗乃宮と一切関わりのない場所で、何処かで生きていてくれたらいい。まさかアヤカシに。
「今は?在真や在由は?それよりも己の過去が何よりも大切だっていうのか。何の為にギルドに手紙を出したんだ!?」
 答えが無い。結局この男は、自分自身で何も決められないのか。諾々と流されるままに全てを放棄しているのか。
「後継が済んだら、私こそ此処を去るべきなのかもしれないな」
「はぁっ、あんたもアヤカシに付け込まれて同じ轍を踏むだけだろうが。青柳と同じじゃねぇか!」
 立ち上がり握り締めた拳が在実の頬を打っていた。無言で両手を膝に置いたまま畳の目を見つめる在実を憐慈も無言のまま見下ろす。
「今日はこれでお引取り願えないだろうか」
「そうさせて貰う。殴った非礼は謝るが、あんたがそんな状態じゃ在真と在由にいい影響はないぜ。……考えてくれ」

 上総がアヤカシと接触した経緯は謎のままだった。だが何処かでアヤカシと心を共鳴させてしまったのだろう。
 神楽の都で見掛けた時、彼は人だったのだろうか。当人が世を去ってしまった現在、それは誰にも判らない。

 兄弟は本復し瘴気による黒き紋様も消え去ったが、それと引き換えに肢の力が失われた。
 看病していた者の証言と開拓者の記憶を重ねると、時はアヤカシが崩れ去った時と一致していた。
 慎重な歩行や襖戸を開け閉めする程度の動作は可能というが、刀程度の重さを維持するのも困難。俊敏な動作は筋が悲鳴を上げる。
 旗乃宮流を継ぐ決意をした兄弟には、困難な壁が立ちはだかっていた。