【梨園】血の縁
マスター名:桜紫苑
シナリオ形態: シリーズ
相棒
難易度: 普通
参加人数: 7人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2011/02/13 22:59



■オープニング本文

前回のリプレイを見る


●変化
 困ったものだと他人事のように呟いた兄弟子に、揚羽はきつい眼差しを向けた。
「あの木は、澤村の庭で遊んだ経験を持つ子供なら、誰だって知っている。子供でも登りやすく、枝は太い。茂る葉はサボって遊ぶ子供を大人達の目から隠してくれる」
 うん、そうだったね。
 澤村龍之介は苦笑した。
「私達も、よく遊んだね。秘密の基地を作ろうと端材や藁を上げて、後で危ない事をしちゃいけないと菊松に怒られた」
「兄さん、そういう昔話をしているんじゃあなくて」
 揚羽が視線を向けるのは、開拓者達が発見した包みだ。
 その中に、骨になりかけた猫の生首と螺鈿細工の小さな陶器が入っていた。
 生首は既に土に返してやり、今は小さな陶器が残っているだけだ。
「中に入っていた練り薬は、やはり毒だったよ。さて、一体誰の仕業だろうね」
 心ここに在らずといった風情の龍之介は、物憂い溜息をつくと視線を庭に向けた。
 龍之介を贔屓にする女性達がいれば、歓喜の悲鳴をあげるところだ。
 だが、ここにいるのは互いに裏も表も知り尽くした兄弟同然の従弟のみ。
「もう、止めにしようか、揚羽」
「兄さん?」
 不意に漏らされた言葉に、揚羽が聞き返す。
「止めにしよう。こうしていても菊松は戻らない。松也は‥‥松也を連れ去った者の望みが叶えば、無事に戻って来るんじゃないかと思うんだ」
 予想だにしていなかった龍之介の言葉に、揚羽は激高して詰め寄ると、その襟首を掴む。
「何言ってるんですか、兄さん! 正気ですか!?」
「正気だよ。ただ、心配があるとすれば、お前の事だ。付け届けも怪しい男の事も、毒の事も解決していない。でも、お前なら、何があっても乗り越えてくれる気がするよ」
 力無く笑う龍之介に、揚羽は信じられないものを見るように目を見開いた。
「兄さん‥‥脅しに屈しろと?」
「屈しろとは言っていない。自分の身に降りかかる火の粉は遠慮無く払っておやり。ただ、事を荒立てるのは止めにしようと言っているんだよ」
 事に対する龍之介の態度の変化に、揚羽は戸惑った。
 だが、付き合いの長さは伊達ではない。
「何を隠しているんですか」
「何も?」
 駄目もとで入れた探りも、にっこり鉄壁の笑顔で躱される。
 こうなれば、テコでも動かす事が出来ないのが龍之介だ。
「分かりました。では、こちらはこちらで好きにやります!」
 びしゃりと閉められた障子に、龍之介はやれやれと息を吐く。
 ああなったら、誰にも止められない。
「でもね、揚羽。私は澤村の次期として澤村の全てを守る義務があるんだよ。松也もお前も含めてね‥‥」
 そう呟くと、龍之介は再び庭へと目を向けた。

●意気込み
「ったく、ひどい目に遭った」
「お帰り〜」
 笑って手を振った受付嬢をぎろりと睨みつけて、椅子に座る。どうやら、彼はかなりご機嫌斜めのようだ。
 さもあらん。いきなり拉致されたかと思えば、楼港の楼閣で監禁されて延々と内職させられていたのだから。
「あ、そうだ。一足違いだったね。今、歌舞伎の澤村家から依頼が届いたんだよ」
「あん?」
 歌舞伎の澤村家の依頼は、ここしばらく輝蝶が関わっていた事件だ。
「こないだ、ようやく猫の生首が見つかったよな。で?」
「聞いて驚け! 今回の依頼人は、龍之介さんじゃなくて揚羽さんなのだ!!」
「‥‥‥‥」
 冷たい眼差しを受けて、受付嬢ははてと首を傾げる。
「‥‥驚かないの?」
「龍之介だろうが、揚羽だろうが、どっちも同じじゃね?」
 そうか。一般人の反応はそんなものか。
 こっそり澤村贔屓だった受付嬢は新しい知識を手に入れた!
「あんたの認識はどうでもいいけど、依頼ってどんな?」
「揚羽さんの代理の人が来て、松也の捜索と、揚羽を狙って来た男の身元を特定して欲しいって。で、今回から澤村本邸じゃなくて、揚羽さんの別邸を拠点になるそうよ。本邸への出入りは今まで通りだけど、相談とかそれぞれの報告とかは別邸で‥‥って、どういう事なのかしらね?」
「さあ?」
 面白くなさそうに、輝蝶が卓に片肘をつく。
「あと、龍之介さんはこれまでのような協力はしてくれないかもしれないって」
 ふぅん、と相槌をひとつ。
 輝蝶は投げやりに呟いた。
「澤村の事情が変わったって事だろ。龍之介が何らかの手がかりを掴んだと考えるのが妥当か。協力しないと言うなら、簡単に吐くとは思えないが」
「うーん、ちょっと厳しくなったわね」
 人前に姿を現さない揚羽が協力者では、何かあった時に融通がきかない。
「ともかく、やるしかないだろ。仕切り直しにゃ丁度いいさ」
 肩を竦めると、輝蝶はさらさらと依頼受諾の署名を入れる。
 縺れに縺れた糸の端を今度こそ掴む為に。


■参加者一覧
滋藤 御門(ia0167
17歳・男・陰
六条 雪巳(ia0179
20歳・男・巫
橘 天花(ia1196
15歳・女・巫
時任 一真(ia1316
41歳・男・サ
沢村楓(ia5437
17歳・女・志
紅 舞華(ia9612
24歳・女・シ
狐火(ib0233
22歳・男・シ


■リプレイ本文

●疑惑
 天儀歌舞伎の名門、澤村家で起きた数々の事件。
 その解決の為にと開拓者ギルドに依頼を出したのは、澤村本家の次期当主であり、看板役者の澤村龍之介。開拓者への情報提供を始めとして、色々と便宜をはかっていた彼が、何の解決も見ないままに調査を打ち切ると言い出したのだが‥‥。
「脅されたか、何かに気付いたか‥‥」
 紅舞華(ia9612)の呟きに、時任一真(ia1316)は肩を竦めた。龍之介が態度を変えた理由は何であれ、松也は未だ囚われたまま、人が1人死んでいるという事実は変わらない。そしてまた、立女形の揚羽の身に危険が及ぶ可能性も高い。
 調査打ち切りと言われて、はいそうですかと引き下がる事など出来ない。
 ならば自分がと依頼を出した揚羽の気持ちはよく分かる。
「ま、依頼がないのに調査は続行出来ないしね」
「確かに‥‥」
 苦笑した六条雪巳(ia0179)は髪を染めて女物の袿を手にしている。今は、彼がこの別邸の主、「揚羽」だ。
 ここを知る者はごく限られている。使用人もおらず、たまに庭師が出入りするだけの別邸は、誰にも聞かれたくない話をするのにうってつけの場所だった。
「で、当の揚羽は相変わらず、と」
 部屋の隅でごろりと横になっている輝蝶に目を遣って、沢村楓(ia5437)は眉間に皺を寄せた。
 心の中、釈然としないものが蟠っていて、妙に気持ち悪い。
 事件に直接関係ない事かもしれない。
 けれど、楓と同じ疑惑は、仲間の内にも広がっているようだ。
「舞、恋人だろうが。何か聞き出せないのか」
 こそりと舞華の耳元に囁けば、彼女は口元を引き攣らせた。
「恋人は「揚羽」の時だけだ。つまり、今は雪巳の恋人という事で、輝蝶の恋人と言うわけでは」
「舞華さん、そんなに熱く告白されたら照れてしまいます」
 頬を染めて見せた雪巳に、舞華はぐっと拳を握る。
「‥‥雪巳、いっそこのまま役者になるというのはどうだ」
「それもいいですね」
 にこやかに返されて、舞華は遣り場のない気持ちを抑えるべく、心の内で数を数えた。
「えっ、舞華さんと雪巳さんはお付き合いをなさっているのですかっ!?」
 来たぞ。
 その場にいた誰もが、ほぼ同時にそう思った。‥‥に違いない。
 天然無敵流免許皆伝‥‥とは誰の言葉だったか、ともかく、時に純真さは敵味方関係なく打撃を与える武器になる事を彼らに知らしめた少女、橘天花(ia1196)が目を輝かせて舞華と雪巳を見つめていた。
 まずい、とこれまた同時に思ったのだろう。
 舞華と雪巳が誤解を解く為に動き出す。
「天花、違うんだ」
「そうです、天花さん。舞華さんは私ではなく輝蝶さんの恋人さんになるんです」
「‥‥っ」
 しれっと告げて、雪巳は袿を舞華に差し出した。
 確かに、この後、揚羽の代役は輝蝶の番だが‥‥。
「私としては残念なのですが。あ、そろそろ龍之介さんとのお約束の時間です。後はお任せしますね、輝蝶さん、舞華さん」
「も、もうそんな時間か」
 巻き込まれては面倒と、楓が腰を上げた。
「俺も、あっちの仕事に戻らないとね」
 一真もそそくさと部屋を出て行く。   
「‥‥‥‥‥」
 残されたのは、渡された袿を手に呆然となる舞華と、彼女に期待と憧れのこもった眼差しを向ける天花、そして、騒動も知らずに眠りこける輝蝶であった。
 その後、部屋を出て来た舞華が過酷な戦場から生還した兵のごとく、焦燥しきった様子だった理由は推して然るべし。

●澤村の内情
 これまでの資料を整理し直していた滋藤御門(ia0167)は、こめかみを押さえて息を吐いた。
 楽屋荒らしに毒が仕込まれた簪、猫の生首に菊松の不審死、松也の失踪、見つかった猫の首と毒の入った容器。
 この全てに関わる事が出来た人物を絞り込もうとしたのだが、該当する者があまりに多過ぎて、心が折れそうだ。
 さすがは澤村一門というべきだろうか。
「お疲れ様です」
 湯気の立つ湯呑を卓の上に置くと、狐火(ib0233)は御門の様子に全てを悟ったように頷いた。
「歌舞伎の一門は親類縁者が多いですしね」
「本当に。興行や何かの行事の時には、そのほとんどが一堂に会する。そのもてなしや、采配を切り盛りする本家の女性は大変でしょうね」
 同情を込めた御門の言葉に、狐火も同意する。
 何度か現場を見た事もあるが、あれは戦場の救護所にも匹敵する忙しさだ。
「まあ、もっとも、今の澤村には本当の意味での「本家の女性」はいませんけどね」
 先ほどまで広げていた澤村の家系図が記された書物に手を置いて、御門は小さく笑んだ。
 現澤村当主の妻、つまり澤村一門を裏で切り盛りすべき女性は十何年も前に亡くなっている。流行り病と言われているが、狐火が古参の使用人達から聞き出した話では、夫の女遊びに心を病み、病がちになって、ついには帰らぬ人となったらしい。
 本家筋と呼ばれる当主の兄弟の妻達も、それぞれ不幸に遭い、今は分家に嫁いだ当主の妹が全てを執り仕切っている。
 龍之介が妻を娶るまで、本当の意味での澤村の女主人は不在というわけだ。
「龍之介さんのお嫁さんになる人は大変ですね」
 余程出来た人か、そんな事など障害にならないぐらい龍之介を想っているか、もしくはその務めを良く理解している者か。
 龍之介の妻となる女性に同情しつつ、御門は家系図を捲った。
「澤村一門と言っても、別の流派から嫁いで来た人や、芸養子になった人も多いのですね」
「一門の縦の繋がりはとても強いようですが、他一門との横の繋がりも広い。歌舞伎の名家の間には、何かしらの繋がりがあるみたいですよ」
 互いに切磋琢磨して、家の芸を磨いているのだろう。
「‥‥という事は」
 そこまで考えて、ふと気付く。
「澤村の庭で遊んだ事がある者は‥‥」
「ええ、澤村の家に生まれた者だけでなく、本家で稽古をした事がある子供達の全て、になりますね」
 あああ。
 御門は頭を抱えた。
 一体、どこまで調査対象が増えるのだろう。
「困りますよね」
 狐火の声にも、いつになく疲れが滲んでいるようだった。

●継ぐということ
 御門と狐火が途方に暮れている頃、雪巳と楓は龍之介と面会を果たしていた。
「お忙しいところ、時間を取って頂きましてありがとうございます」
 丁寧に頭を下げた雪巳に、龍之介は仮面のような笑みで労いの言葉を返す。
「いえいえ、お仕事ご苦労様です。この度は揚羽がご迷惑をおかけして申し訳ありません」
 まるで他人事だ。
「その後、松也君の身柄について犯人からの要求とかはありましたか」
「残念ながら何もございません」
 真っ直ぐに目を見て問うた楓にも、龍之介は一片の動揺も見せずに応える。手の平を返したのは事情あっての事という皆の推測が正しければ、罪悪感なり、何なり反応が返ると思っていたが、さすがは役者と言うべきか。
「龍之介殿もご心労、大丈夫だろうか」
「大丈夫です。ご心配ありがとうございます」
 と微笑まれては、継ぐ言葉も失おうというもの。口元を引き攣らせた楓に代わって、雪巳が口を開いた。
「揚羽さんの代役を務め、揚羽さんをお守りするにあたって、龍之介さんにお聞きしたい事があるのですが」
「何でしょう」
「犯人達の言う「揚羽」とは、揚羽さんご本人の事なのでしょうか。それとも「揚羽」という名跡の事なのでしょうか。龍之介さんはどう思われますか?」
 龍之介の表情の僅かな変化も見逃すまいと見つめる雪巳に、龍之介は笑みを深めてみせる。
「澤村の名跡は世襲制です。他の一門では芸の優れた者が継ぐ事もあるようですが、澤村は親の名を子が継ぎ、そのまた子が名を継ぐのです。ですから、「揚羽」の名が欲しくとも、それは無理な話ですね」
「「揚羽」を名乗れるのは、揚羽さん1人という事ですか」
 龍之介は頷いた。
「ただ、揚羽にはまだ名を継ぐ子がおりません。万が一、揚羽が命を落とす事になれば、揚羽に近しい血の者が選ばれる場合があります」
 では、犯人は何の為に「揚羽」を襲ったのだろうか。
「参考までに、教えて下さい。揚羽さんに何かあった時、誰が「揚羽」の名を継ぐ事になるのでしょうか」
「そうですね‥‥。血の近さで言うなれば、私も松也も候補にあがるでしょうが、私は既に「龍之介」を継いでいますし、澤村の当主の名跡を継ぐ事が決定しております。松也も、継ぐべき名跡は決まっています」
 可能性を示唆しながらも、あり得ないと否定する龍之介の真意を測りかねて、雪巳は眉を寄せた。
「という事は、揚羽自身が目的の可能性が高い、と。雪巳、代役の時はますます気を抜けないな。ところで」
 す、と楓は一本の扇子を龍之介の前に差し出した。
「揚羽の名入りの扇子が出回っているようだが。これは‥‥」
 扇子を手に取り、扇面に書かれた揚羽の署名に目を留めて、龍之介は息を吐き出した。
「よくある事です。厳しくしなければ、また同じような事が繰り返される。私の方で流通経路等を調べさせて、相応の報いを受けて頂きましょう」
 扇子を袂にしまって、何食わぬ顔で「よくある事」にしてしまった男に、何故か楓が狼狽する。
 そんな楓の様子を怪訝に思いつつも、雪巳は時間を割いて面会に応じてくれた事への礼を述べた。そのまま楓と共に部屋を出掛けて、ふと思い出したように龍之介を振り返る。
「そういえば龍之介さん、この一連の事件は最初から澤村内部の犯行である事は分かっていた事だと思うのですが、今になって手を引かれたのは何故ですか?」
 それは、龍之介にとっても不意打ちの問いだったのだろう。
 それまで崩れる事のなかった仮面から龍之介本人の表情が覗いた。
「もしや、龍之介さんは犯人をご存じなのではありませんか?」
 畳みかけるように問うた雪巳に、龍之介はすぐに仮面を被り、笑顔ではぐらかしたのだった。

●動揺
 竹箒を担いで、一真は庭に視線を走らせた。
 どこもかしこも手入れが行き届いている。奥の庭が澤村に関わりのある人々しか入れず、子供達が遊ぶ庭ならば、この庭は客をもてなす為に整えられた庭だ。
「さてと。彼はどこかな」
 龍之介と言い争っていた柳弥という少年。
 分家の子で、松也と年の頃は同じだと、後の調べで分かった。分家にも色々あるが、彼は本家に近しい分家の跡取りだ。
「本家の子の松也くんに競争心を持っていてもおかしくはない、か。‥‥ん?」
 どこからか声が聞こえる。
 子供特有の、少し高い声だ。
「わあ、やっぱり素敵です!」
「‥‥今の声は」
 声を頼りに、一真はそっと茂みを掻き分けた。彼の予想通り、そこには揚羽の世話係見習いの梅松の姿をした天花がいる。そして、彼女の前で扇子を閉じたのは、一真が探していた柳弥だ。
「‥‥これぐらいで大袈裟」
 膨れっ面でそっぽを向いた柳弥だが、一真の位置から見れば、照れている様子がはっきりと分かる。
「子供の頃から毎日稽古しているんだ。これぐらい舞えて当然だろ」
「毎日、ですか?」
「うん。澤村の子供は歩けるようなるかならないかの頃から、毎日‥‥病の時でも、家族が亡くなった日でも欠かさず稽古してる」
ーーこれはこれは。
 子供には子供の相手が一番らしい。
 砕けた口調で天花に語る柳弥に、一真はその場で様子を窺う事にした。ちらりと視線を向けて来た天花には気づかれたようだが、柳弥は閉じた扇子をもう一度開いて、ぽんと放り投げた。
 ひらひらと風に舞いながら落ちて来る扇子の動きを見る事もなく、彼は背中に回した手で受け止めてみせた。
「凄いです!」
「これも毎日の稽古の成果ってわけ。‥‥あ」
 扇子を取った手に細く赤い筋が走っている。
「お怪我をなさったのですか?」
「新しい扇子だから、まだ馴染んでないんだ」
 傷を舐めようとした柳弥の手を、天花はがしりと掴む。
「なに?」
「駄目です。ちゃんと手当をしないと」
 袂から取り出した小さな容れ物を開けて中の練り薬を指で掬った。
 だが、薬をつけようとしたその手を、柳弥が振り払う。
「どうかしましたか?」
「な‥‥なんでもない! もう行けよ! 揚羽兄さんが小屋に行く時間だろ!」
 その剣幕に押されるように、天花は後退った。そして、そのまま駆け去って行く。
 一真と軽く頷き合って。
「あーあ、小さい子を驚かせちゃいけませんねー」
 わざと葉を揺らして、一真は柳弥の前に立つ。
 天花が取り出した薬は、猫の生首と一緒に隠されていた毒が入った螺鈿細工の容れ物に入っていた。それを見た瞬間、変わった柳弥の顔色を、一真は見逃さなかった。
「な、なんだよ、お前」
「何って、お屋敷に雇われてる者ですよ。この辺りの掃除が担当でね」
 膝を屈めて、柳弥の顔を覗き込むと一真は小声で告げる。柳弥を追い詰める為の言葉を。
「だから、たまに珍しいものを見る事もあるんですよ。例えば、君が若旦那と言い争っているところとか」
 柳弥の表情がみるみる強張って行く。
「なにが‥‥目的だよ。金か?」
 こんな少年が、真っ先に思いつく言葉がこれか。
 一真は内心溜息をついた。
「別に、だからどうして欲しいなんて言いませんけど、ね。ただ‥‥まあ、興味はあるかな。君が、澤村の立女形を嫌っている理由とか」
「嫌ってなんか!」
 咄嗟に言い返して、柳弥は我に返ったようだ。すぐに口を閉ざしてしまう。
「嫌ってない? じゃあ、何故あんな事を?」
「お前には関係ない!」
 そう叫んで、柳弥は踵を返した。
「逃げられましたね」
「狐火」
 いつからそこにいたのか。仲間の顔を見つけて、一真は肩を竦めてみせる。
「何か聞き出せたらと思ったんだけどね」
「十分だろう。彼は螺鈿の容れ物に反応した。そして、揚羽を嫌ってはいないらしい」
 ただ、と狐火が口元を引き上げる。
 彼がこんな表情を見せた時には、何かある。
 一真も浮かべていた笑みを消す。
「彼は、現澤村当主の妹の嫁ぎ先の分家に引き取られた子らしい」
「‥‥複雑だな」
「その辺りに、何かあるのかもしれませんねぇ」
 それじゃ、と軽く手を振って去って行く狐火に、一真も己に課せられた仕事ーー庭掃除に戻って行った。

●そして
 揚羽として小屋に向かっていた雪巳が襲われたのは、その数刻後の事だった。
 周囲についていた舞華や楓の活躍で、雪巳も周囲の者達も無事だった。
 当然のように、狐火が襲って来た男を尾行し、残りの者達は揚羽の別邸でその報告を待つ。
「ま、揚羽が無事だったんなら、仕事をしなくちゃいけないだろ」
 予想されていた襲撃。だからこそ、仲間達は迅速に動けた。
 だが、揚羽が無事ならば、この後の舞台に立たなければならない‥‥という事はすっかり頭から抜け落ちていた。
「揚羽さんご本人は!?」
「とっくに小屋だろ。俺が行って来る。何か分かったら、後で教えてくれ」
 女物の袿を被った輝蝶が慌てた素振りで別邸から出て行く。時間的にはギリギリ。彼が急ぐ気持ちも分かる。
 ーーそう思って見送った輝蝶が、小屋に現れなかったと知らされたのは、更に数刻後の話。