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■オープニング本文 前回のリプレイを見る その男が清月掬(きよつき・むすび)を訪ねてきたのは、まだ夜も明けやらぬ頃だった。住人がまだ寝ているかも知れない、という気遣いの欠片も感じさせない、ドンドンドンッ! と門扉を叩くけたたましい音に、だが起きていた木原高晃(きはら・たかあきら)は本気で脱力してのろのろと門へ向かう。 きし、と忍ぶ様に小さく床が鳴る音がした。そちらへ視線を向けると、こちらは間違いなく叩き起こされた伊良歌(いらか)が少しだけ眠たそうな顔で、伺うように高晃を見る。 来客だ、と小さく告げたら納得の眼差しになり、私も行きます、と吐息のように囁いた。素早く身なりを整える。 試しが終わり、少女を預けて神楽に帰っていた高晃が掬に呼びつけられたのは昨日のこと。その理由が「ちょっと来客があるから二胡(にこ)、出迎えておいておくれ」なのだから殺意すら覚えたが、昔から掬に逆らってろくな目に合った試しはない。 そんなわけで高晃は夜通し、いつ来るとも知れない来客に備えて不寝番をしていたのだ。 門扉を叩く音は続いている。この騒々しさでも誰も起きてこないのはさすがだと感心しながら、伊良歌を伴って表に出、門を開けた。 そうして、そこにいた人物にうんざりした顔になった高晃をきっぱり無視して、その男は無精髭だらけの顔に面白そうな色を浮かべた。 「お、なんだ。お前さん、まだ掬んとこでこき使われてたんか?」 「んな訳あるか。御師に呼びつけられたんだ」 「ほほぅ、感心、感心。弟子たるもの、師は大事に敬えよ、うん? 小生のことも遠慮なく敬って良いからな」 「金を積まれても断る」 「ぁ、あの‥‥木原さん‥‥」 2人のやりとりに、目を白黒させた伊良歌が遠慮がちに高晃の着物の袖を引いた。眼差しだけで、この男が掬の言っていた来客なのか、と確認する。 目敏く気付いた男が、ほぉぉ、とますます面白そうに顔を歪めた。 「この細っこいのがあれか、掬が文を寄越した娘か?」 「その文は知らないが多分‥‥。伊良歌、この迷惑なのは御師の友人で‥‥」 そう説明しかけて、ふと言葉を止める。だがどうせ隠したって、後で掬が楽しそうにばらすに決まってるのだ。 そう、思い直して高晃は、飲み込みかけた言葉を口にする。 「‥‥御師の友人で、変態趣味が高じて四六時中アヤカシを追っかけ回してる、志鳥夕暮(しどり・ゆうぐれ)という変人だ」 「‥‥‥ッ」 「これ、アヤカシ研究は高尚な学問だぞ。お嬢ちゃん、何なら遠慮なく小生を師と‥‥」 「ひ‥‥ッ、いやぁ‥‥ッ!!」 紹介を受け、夕暮なりに好意的に握手の手を差し伸べた瞬間、蒼白になった伊良歌が悲鳴を上げて屋敷の中へと逃げ込んだ。残された夕暮と高晃は、そろそろ夜が明けようとする門前で顔を見合わせる。 「ふぅむ‥‥こりゃ、文で読んだ以上に面白い娘っ子だな」 「あんたはそう言うと思った‥‥」 そうして心から面白そうな顔でニカッと笑った夕暮に、がっくりと高晃は肩を落とした。あの掬の友人を名乗れるこの男が、まっとうな神経の持ち主であるわけはないのだった。 ◆ そう、と掬は楽しそうにくすくす笑った。 「それは私も見てみたかったね。二胡に任せず、たまには私も出迎えてみるのだったよ」 「うむ。実に面白いものを見せてもらった」 「ぁ、あの‥‥本当にすみません‥‥」 笑顔で話す男2人に、肩を小さくした伊良歌がか細い声で謝る。アヤカシ研究と聞いて一度は逃げ出したものの、お客様に大変失礼な事をしたと気付いて何とか気を取り直し自室から出てきた少女は、以来、こうして謝りっぱなしだった。 ふぅ、と高晃は大きな溜息を吐く。そうしてうんざりした眼差しを向けると、2人は澄ました顔でこちらを見つめ返してくる。 だが一応、本題を始めよう、という気はあったらしい。 「さて、伊良歌。陰陽師になるならまずはその、アヤカシに関わるものにとにかく怯えるクセを何とかしなければならないね」 「は、はい‥‥」 「お前には、なぜアヤカシが恐ろしく感じられるのか、その理由がわかるかな?」 「それは‥‥」 掬の言葉に伊良歌が口を開きかけ、だがきゅっと眉を寄せて口を閉ざす。それを察した高晃は、ずい、と膝を進めて話の間に割って入った。 「御師。伊良歌は目の前でアヤカシに妹を喰われたんだ――前にも話しただろ」 力があったはずなのに、アヤカシに怯えて見殺しにした妹の存在。それは彼女が開拓者を目指すきっかけになったと同時に、今なお癒えぬトラウマになっていることも事実で。 けれども高晃の言葉に、掬はひょいと肩を竦めた。竦め、確かに、と言葉を繋いだ。 「その話は聞いたけれども。ならば妹の仇と、怒りを奮い立たせても良いのじゃないかな?」 「‥‥それは」 「私には、ただ訳も解らず闇雲にアヤカシを恐れているだけに見えるよ」 そこで掬は一旦言葉を切って、ふ、と伊良歌に向かって微笑んだ。 「間違えてはいけないよ。私はアヤカシを恐れてはいけない、と言っているのではない――アヤカシは本来、恐ろしくて、理不尽なものだ」 「理不尽‥‥」 「そう。アヤカシはただ理不尽に現れ、人々を恐怖に陥れ、喰らい、殺す。だからその理不尽を闇雲に恐れ、怯えるのは当たり前の事だろう」 「はい‥‥」 「けれども陰陽師になるのなら、理不尽を理不尽のまま許してはいけない。だから伊良歌、なぜアヤカシが恐ろしいのか、まずはそれを考えておいで」 「なぜ‥‥恐ろしいのか‥‥?」 「そう。なぜ、どこが恐ろしいのか。この夕暮と一緒に、裏山の大蜘蛛でも観察しておいで――形なき恐怖はただ身を竦ませるだけでも、形ある恐怖は人を動かす力にもなるものだよ」 当たり前の顔で微笑んだ掬から、夕暮の髯もじゃの顔へと伊良歌は視線を移した。青白くなったのは、アヤカシをじっくり観察しなければならない、という事実を噛み締めたからだろう。 けれどもやがて、伊良歌は夕暮の前に手をついた。 「よろしく、お願いします‥‥私は本当に‥‥考えも、何もかも、至らない事ばかりですけれど‥‥」 「うむ。何、慣れればアヤカシの1匹や2匹、可愛いものだ」 「夕暮、お前のその感性は実に阿呆だと私は思うよ。それに伊良歌――間違えてはいけないよ。未熟なお前が至らないのは当たり前だろう?」 「ぁ‥‥」 「至らぬ事に気付いたのなら、至る為にどうすれば良いか、死に物狂いで考えなさい――でなければお前がこの清月掬の弟子となる意味はない」 「は、い‥‥」 「でも。お前が私の弟子で居続ける限り、何度お前が至らぬ頭で至らぬ答えを導いても、私が至らぬお前を正してあげるよ?」 「‥‥はい」 相変わらず穏やかにさらっと酷い事を言う掬の、暖かな言葉に伊良歌はこくりと小さく頷いた。頷き、照れたように顔を伏せて、ありがとうございます、と小さく小さく呟いた。 |
■参加者一覧
玖堂 柚李葉(ia0859)
20歳・女・巫
玖堂 羽郁(ia0862)
22歳・男・サ
氷(ia1083)
29歳・男・陰
滋藤 柾鷹(ia9130)
27歳・男・サ
霧先 時雨(ia9845)
24歳・女・志
五十君 晴臣(ib1730)
21歳・男・陰
ルティス・ブラウナー(ib2056)
17歳・女・騎 |
■リプレイ本文 日頃は静かな清月家の縁側は、今日は多くの人で溢れていた。その1人である玖堂 羽郁(ia0862)は、伊良歌にニコッと笑いかける。 「君が、伊良歌ちゃん? よろしくな」 「ぁ‥‥」 慌ててぺこりと頭を下げてから、少し不思議そうに少女は羽郁を見上げた。そうして悩むように視線を揺らした少女に、きっと自分と顔がそっくりの姉の事を思い出したのだろう、と苦笑する。 彼の双子の姉はかつて、伊良歌探索の依頼を受けた事がある。その少女が陰陽師を目指す事を心配していた姉の代わりに羽郁が力になろう、とやってきたのだ。 頑張ろうな、とぽふぽふ頭を撫でた羽郁に、はい、と伊良歌は小さく頷く。そんな2人のやり取りを微笑ましく眺めながら、佐伯 柚李葉(ia0859)は夕暮にぺこりと頭を下げた。 「志鳥先生、初めまして」 「うむ。なんなら師と敬っても」 胸を張った夕暮に「変態で十分だ」と高晃が突っ込みを入れる。だが夕暮はどこ吹く風と言う風情で、うーん、と氷(ia1083)はぽりぽり頬を掻いた。 アヤカシ研究家には前にも会った事があるが、どうもその人物とは熱意の向かう先が違うようだ。とはいえまぁ、人に迷惑さえかけなければ後は個人の趣向だし、と大欠伸をしかけてふと、じりじり夕暮から距離を取る伊良歌に気がついた。 「伊良歌ちゃん? このおっちゃんがアヤカシなわけじゃないんだから。変人なのは間違いなくても」 「‥‥というか。なんでこう、木原さんの周りには、その‥‥個性的な方が多いんでしょう」 苦笑しながら失礼に突っ込んだ氷の言葉を、訂正しかけたルティス・ブラウナー(ib2056)は、上手い表現が見つからず言葉を濁す。何しろアヤカシを観察してこいと言う突拍子のなさに、この夕暮だ。 小さくため息を吐いたルティスに、まったく苦労してるなぁ、とのんびり氷が同意した。だが、どうかしらね、と霧先 時雨(ia9845)はクスクス笑う。 「やっぱり面倒見良いわよね、あのお師匠さん♪ ここさえ乗り越えれば、動機は強いんだから、良い開拓者になるんじゃないかと思うし‥‥ッと、居た居た」 言いながら軒下を覗いていた時雨は、指先で何かを摘んで顔を出した。もぞもぞ小さな足を蠢かせて居るのは蜘蛛。アヤカシではない、本物の蜘蛛だ。 幾らなんでも、いきなりアヤカシを見に行くのは乱暴だ。だからまずは身近な蜘蛛から観察してみよう、と考えたのだ。 ただの蜘蛛でも、苦手な人は居る。それはきっと、八本足と言う姿や、人とは異なる身体の作りや、そんなものではないだろうか。ならばそういう人達は、人と違うものだから、良く解らないものだから怖い。と怯えているのに過ぎないのでは、と思うのだ。 時雨の言葉に、そうですね、と伊良歌はこっくり頷いた。 「村にも、苦手な人は居ましたし‥‥」 「伊良歌さん平気なんだ‥‥」 時雨の指先を見ながら柚李葉は呟く。彼女自身は、見ているだけならともかく蜘蛛も虫もちょっと気持ち悪くて苦手で、触るのも遠慮したい。 私は別に‥‥と呟く伊良歌の横顔を見つめ、滋藤 柾鷹(ia9130)は初めて会った時の頼りない眼差しを思い起こした。そうして目の前の少女と見比べる。 正直、彼女は陰陽師を本当に諦めると思っていた。だから彼女が諦めなかったのは柾鷹には意外で――ならば惜しみなく協力してやろう、と思う。 やる事は確かに突拍子もないし無茶苦茶だが、掬はなかなか良い師のようだ。それに夕暮も見るからに変わっているが、研究家ならば開拓者よりもアヤカシに詳しい部分もあるだろう。 「志鳥殿に面白き所、良き所、色々語って頂く事で何か参考となるだろう」 「そうだね。私個人としてもその話は興味あるし‥‥伊良歌にとっても、お師匠さんは良い人を呼んでくれたと思うな」 こく、と五十君 晴臣(ib1730)は頷いて夕暮を見る。伊良歌のアヤカシへの恐怖や、そもアヤカシというものの、一端なりとも理解するにはアヤカシの恐ろしい部分だけでなく、面白い一面に触れるのも良いだろう。とはいえ今の伊良歌にとっては、それを最後まで逃げ出さずに聞けるかどうか、という所から修行になりそうだけれど。 ねえ、と時雨が指先に摘んだ蜘蛛を手の平に放しながら、夕暮を呼んだ。 「アヤカシ愛好家‥‥もとい、研究家としてはどう? 蜘蛛以上に人間とアヤカシは異なるけれど――あなたはアヤカシの何に惹かれるのかしらね」 「小生はそも、アヤカシが人と異なるが故、惹かれるが」 「ふぅん。じゃあ、アヤカシと他を分ける物って何かしらね?」 「小生は発生の違いと考えて居る」 時雨の言葉に、ニヤリと笑って話し始めた夕暮に、高晃が肩を竦めた。クス、と笑って柚李葉はぎゅっと羽郁の着物を握り、時雨の手の上の蜘蛛を見つめる。 やっぱり気持ち悪いけれども、でもアレは生きているものだ。だがアヤカシは生きてないし――それを見た時に浮かぶ感情は、恐怖、とも少し違う。まるで心のどこかが張り詰めて警鐘を鳴らしているような、胸が冷たくなるような。 だが、アヤカシは瘴気から生じるのはもふらさまが精霊力から生じるのに似ているとか、語る夕暮はまるで玩具を見つけた子供のようで。聞いてる伊良歌はもう真っ青だ。 ぽむ、と氷がそんな伊良歌の肩を、生暖かい同情の眼差しで叩いた。 「伊良歌ちゃん。この後は夕暮サンの研究場に行くからね。『見る』のと『観察する』のは違うもんだから、いちおー気に留めとくよーに」 「は、はい‥‥」 「‥‥ちょっとぐらい、アヤカシが怖くなくなりそう、かな?」 声をかけた晴臣を振り返った少女は、泣きそうな顔で「頑張ります」と呟く。そんな妹分に、あれは目指さなくていいから、と苦笑したのだった。 ◆ 目的の大蜘蛛は裏山の奥にいる。ゆえに夕暮を先頭に立てて、開拓者達は山へと足を踏み入れた。 夕暮自身も無茶をしないよう警戒しつつ、ルティスや羽郁は辺りに気を配る。大蜘蛛が町の傍まで来る事はめったに無いが、絶対ではないらしい。だからいつアヤカシが出てきても対処出来るように。本来の目的はアヤカシ観察だしね、と氷も人魂で警戒する。 でも、と柚李葉が首を傾げながら、高晃と夕暮を見上げた。 「掬さんはこんなに近くにアヤカシの棲家があるのに、どうしてそのままにしておくんでしょう? それに、そうやって奥地で生きているアヤカシは何を食べて生きて‥‥ううん、人間を食べなくても良いんでしょうか」 「アヤカシとて人を喰らわねば存在出来ないわけではない」 それは知って居るな? と眼差しを投げられて、こくこくと頷いた。アヤカシは人を喰わなくても存在出来るが、非常な飢餓感を覚える事は開拓者であれば大抵知っている。そして飢餓の苦痛に耐え難くなった時、アヤカシは人を喰らいたい本能に突き動かされる――それはこの山の大蜘蛛も変わらない。 ならば根絶するのが自然な事のように思うのだが、なぜ掬はそうしないのか。そう、眼差しを向けると高晃は、昔は何度も退治したらしいけどな、とぽりぽり頭を掻いた。ちら、と夕暮に視線を向けると、さてな、と肩を竦める。 「掬の考えは小難しくて小生には判らん。アヤカシはどこにでも限りなく現れ、人の身で防ぐ術など無い。とか言って居ったか‥‥お、そろそろ出そうだぞ!」 首を捻りながらそう言った夕暮は、次の瞬間少年のように目を輝かせ、ほれ、と森の木々の1つを指し示した。素人目には解らないが、変態、いや研究家の目には何かが違うらしい。 夕暮に従って足を進めると、やがて氷の人魂が蜘蛛らしき陰影を捕えた。その言葉にビクリと肩を揺らした伊良歌に、大丈夫、と晴臣が微笑む。 「何かあっても皆が居るから。今はまだ私達に甘えてていいんだ。私達はその為にいるんだから」 「私も、なぜ怖いか意識したことはないので‥‥一緒に考えましょう」 震える伊良歌の手を握り、ルティスもまだ見えぬアヤカシを探すように視線を凝らす。あまり風上には回らない方が良いだろうと、慎重に場所を選んだ。 夕暮は意外にも冷静にアヤカシから見つかり難い場所を選び、じっと息を潜める。万が一戦闘になった場合はいつでも飛び出せるよう、最低限の体勢は整え、柾鷹は伊良歌を振り返った。 「目を逸らさずにちゃんと見るのだぞ。そして、どこが怖いのか良く考えよ――自分の内にしか答えはない」 「そうだね。何を自分が恐れているかを理解しなきゃ、対処も考えられないし」 言い聞かせるような言葉に、晴臣も頷く。敵を知り、己を知れば百戦危うからず、という。アヤカシの何が恐怖を呼び起こすのか、解らない限り恐怖を克服する事は出来ない。 だねぇ、と氷ものんびり同意した。アヤカシについても、自分自身についても伊良歌はまだ解らないのだ。こうしてアヤカシを見つめ、自分自身を見つめ直す事で、アヤカシへのトラウマを克服するきっかけを掴めれば良いのだが―― 「その為にも観察、だね。大丈夫、あれはただの蜘蛛あれはただの蜘蛛‥‥」 「‥‥あの、氷さん?」 すっ、と伊良歌の背後に回ってぼそぼそ呟き始めた男に、羽郁が遠慮がちに声をかけた。はっきり言って怪しすぎる光景だ。 その間も大蜘蛛は木々に張り巡らせた巨大な巣の上で、じっと蹲っていた。先ほど観察した蜘蛛と似ているが、遠目にもはっきりと解る牙が生々しい。 「虫が怖くないのなら。虫とどこが違うか、まずは見比べてみましょう?」 「は、い‥‥」 息を押し殺して囁いた柚李葉に、頷き伊良歌はルティスの手をぎゅっとますます強く握る。そうして今にも閉じてしまいそうな瞼を必死に開けて大蜘蛛を見つめる。 まず、と夕暮が言った。 「注目すべきは牙だ。アヤカシは必ず人を喰らうための器官を持っておる。小生の見た限りでは、知能の低い物ほど傍目にも顕著だな」 「絶対、って訳じゃないけれどね」 「うむ。小生もすべてのアヤカシに精通しておるわけではないぞ」 真剣な顔で頷く夕暮に、晴臣は少し苦笑した。彼の言葉の響きが酷く、残念そうだったので。 牙、と呟いて伊良歌は眼差しを揺らし、ビクリと目を閉じた。いけないと言い聞かせて目を開くが、またすぐに閉じてしまう。 カチカチと、歯が鳴る音がした。 「ねえ、どう怖いの?」 「‥‥ッ」 「牙が恐ろしいのか?」 「血、が」 血? 開拓者達は目を瞬かせた。大蜘蛛は変わらず巣の上に蹲ったままで、血などどこにもない。けれども伊良歌はもう一度、血が、と呟いた。 牙は、血を思い出させる。伊呂波があの日流した血。噛み裂かれた躯。虚ろな眼差し。次は伊良歌を引き裂こうと、血に濡れた牙が迫ってくる。 いや、と無意識に声を上げる。殺される。死にたくない。怖い。なんで。動かない妹。泣き声。助けてお姉ちゃん。沸き上がって来る幾つもの欠片がぐるぐる回る。 「確かに」 不意に、耳の中に声が滑り込んできた。男の人の声。あの日には無かった声。戸惑うように振り返った少女に、羽郁は勤めて明るく笑った。 「俺も、アイツらに負けたら死に至る、ってトコ、怖いかな。初めて遭遇したヤツはどんな攻撃してくるか解らないのも怖いし」 「そうですね。解らないものは――理解出来ないものは、どう対処して良いか解らないから‥‥」 ルティスも頷く。どうにかしなければいけないのに、どうして良いか解らない。それは例えば、首元に匕首を突きつけられるのとは全く違う恐怖だ。 ふむ、と柾鷹が唸った。 「姿かたちへの恐怖や、人を喰らうという習性への嫌悪や‥‥お主はまだアヤカシに抗う術を知らぬから、余計に怖いのかも知れんな」 「でも。解らないから怖いのと、解らないから知りたくてワクワクするのと‥‥分かれ目は何処なのかな‥‥?」 「牙が怖い。ってのも1つの恐怖の形よね。その調子で、どんどん怖い所、解体しちゃいましょ」 柚李葉も首をかしげて言ったのに、ぽん、と伊良歌の肩を叩いて時雨が笑う。どんどん分解していって、欠片になれば向き合うのも容易いだろう。 伊良歌は小さく、すみません、と呟いた。大丈夫です、とルティスは首を振り――ふと、問いかける。「アヤカシって、何なんでしょうね?」と。 「アヤカシは、どこから来て、何のために存在してるんでしょうね」 「ぇ‥‥」 「私は。アヤカシは、この世界の『毒』から生まれてる。そう思ってるんです」 毒、と呟いた少女に、頷く。人の持つ憎しみや恨みといった諸々の負の感情――心の毒とでも呼ぶべきもの。それが瘴気となり、アヤカシを生み出しているのでは、と思えるのだ。 だからアヤカシは人を喰らうのではないか、人の心から生まれたが故に。そんなルティスの言葉に、そうさな、と夕暮が相槌を打った。そうして不意に、真剣な口調で呟く。 「なぜアヤカシが存在するか、小生も知りたい所だ。あやつらの多くは世の生き物を模しておる。まるで必死で世に混ざろうとするかのような、いじましさを感じはせんか?」 そう、夕暮はニカッと笑った。そうして先ほどの真剣な口調が嘘のように、バシバシと俄か弟子達の背中を叩く。 「ほれ! しっかり観察しろよ!」 「ああ‥‥伊良歌、どう? ちょっとは掴めた?」 「ぇ、ぇと‥‥」 晴臣に尋ねられて、伊良歌は慌てて大蜘蛛へと向き直った。牙は怖い。大きな口は頭から飲み込まれそう。鋭い爪を持つ足は貫かれそうな心地がする。幾つもある瞳は何を映しているのか解らない。同じ空気を通して伝わる緊張感は、伊良歌の身を竦ませる――柚李葉の加護結界に守られていても。 でも。 「恐怖ってのは、人の自己防衛本能の感情だよ。自分を守る為の感情だ。だから、それを払拭する為にはどうしたら良いか、そこに選択肢が生まれる筈だよ」 「アヤカシを知る事は、恐怖心の克服に繋がるんじゃないかな? って思います。陰陽師って特に『アヤカシを知る』事が重要な職ですし」 そう、羽郁やルティスが言うから、怖くても良いのだろう。この恐怖が本当に克服出来るのかなんて解らないけれども、この人達の元に至る為にきっと、恐怖を数え上げるのは大切な事なのだ。 だから必死にアヤカシを見つめる伊良歌の頭をぽふり、と晴臣は撫でる。 「初めを思えば大分進歩があったと思うし、この調子で頑張っていこう」 「そうだ。お主は少しずつではあるが成長している。自分には出来ると自信を持ち、変わった自分の姿を思い描け。そして願い、叶える力を得る努力をせよ」 心の中にしっかりと理想を思い描けば、そこに辿り着く為の手段も見えてくるだろう。それはやがて陰陽師を目指し、開拓者を目指すに当たってもきっと、重要なはずだ。 はい、と伊良歌が頷く。そんな少女に目を細め、ふと時雨は首を傾げた。 (‥‥自分ってものがよくわからない時は‥‥自分が、怖くなるのかしら‥‥?) 帰ったら掬にでも聞いてみようか。案外、当たり前のように答えが返って来そうな気がした。 |