【西の森】憤怒
マスター名:西尾厚哉
シナリオ形態: シリーズ
EX :相棒
難易度: 難しい
参加人数: 9人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2014/06/20 19:20



■オープニング本文

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 ヴォルフの騎士団が駆けつけ、傷ついた開拓者達の手当てを始める。
「白阿傍鬼…。厄介ですな」
 ドゥヴェの話を聞いてゲルマン騎士団長が顔を曇らせた。
「呪詛は超強力、呪詛侵蝕も兼ね備えると聞きます。阿傍鬼と違い、抵抗能力もありますぞ」
「でも行かねば」
 ドゥヴェは答えた。ゲルマンも頷く。
「小鬼もそれほど多ければ脅威。包帯の類の他にあるだけ医療品を集めます。お持ちになられるが良い」
 ゲルマンは騎士のひとりに指示を出す。
 しかし、その部下の龍が戻って来た時、ドゥヴェが呆然とする。
 トゥリーが来たからだ。
 トゥリーの表情は親衛隊特有の黒い兜の下でよく見えないが、ドゥヴェは彼女が近づくのを見て数歩後ずさりした。
 そして

――― ビシッ…!

 鋭い音と共にトゥリーの平手がドゥヴェの頬に飛ぶ。
 その場にいた全員の目が2人に向き、思わず口を開きかけたゲルマンは思い直してぎゅっと口を引き結ぶ。
「ドゥヴェ。その命をもって姫様を必ずやお救いし、己が幕引きとするが良い」
 ドゥヴェは唇を震わせながら親衛隊長の顔を見る。
「…はい…」
 そう答え、俯いた。
 沈痛な面持ちで2人を見ながら、部下が医薬品の袋をゲルマンに差し出す。
 ゲルマンはそれを無言で受け取った。
 やむをえまい。
 ゲルマンは考える。
 私とて、万が一部下が主の御身を危険に晒したなら、同じように言ったであろう。
 そして自らも引責するだろう。
 親衛隊のトップであるトゥリーも同じことを考えているはずだ。
 ゲルマンは息を吐いた後、目を逸らしてふと視線を止めた。
 狼だ。
 見たこともないほど大きな狼。
 ケモノ?
 狼は暫くじっとこちらを見つめたあと、静かに去って行った。



――― ぽつ…っ

 冷たい雫が頬に落ち、レナ・マゼーパ(iz0102)は目を開いた。
 真っ暗だ。何も見えない。
 身じろぎすると、腕に鈍い痛みが走った。
「う…」
 小さく声を漏らした時、誰かが傍に来るのを感じた。
「姫様、どこが痛みますか」
 アジンナの声だ。
「ここは…どこなの」
「神風恩寵を使います。どこが痛みますか」
「たいしたことはない…。大丈夫よ。みんなは?」
「姫様、落ち着いてお聞きください」
「…」
「私達は捕えられています。でも、私は開拓者が呼子笛を吹くのを聞きました。それが届いていれば助けが来るはずです」
「他にも誰かが掴まっているのか?」
「暗いので…はっきりとはわかりません」
「…」
 ふと顔をあげた。何かが来る気配がする。

――― ズシャリ… ……ズシャリ……

 重い足音。

「姫様、私は必ず姫様をお守りします」
 アジンナが口早に言った。

――― ズシャリ…

「何があっても騒がれませぬよう。いいですか。私を信じてく…」
「…アジンナ?」
 声が途切れてレナは咄嗟に暗闇に手を伸ばしたが、それは虚しく空をきった。

――― ウォオオオゥ…

 空気を震わせる低い呻き。
 思わず口を押えた。
 臭いがする…何の臭い…

――― ズシャリ… ……ズシャリ……

 音が少し遠退く。

「ミノタウロスよ」
 アジンナの声が聞こえた。
 ミノタウロス? レナは暗闇に目を見開く。
「お前ほどならせめて灯りを作るくらいの知恵はあるだろう? 獲物をしかと見たくはないか?」

――― ウォオオオゥ…

「おや、それともそんな上等さは持ち合わせぬ輩であったか」

――― ウォオ…

 キィキィと嫌な啼き声が聞こえる。
 そして小さな火が燃え上がる。

「……!」

 レナは声をあげまいと手で口を必死に押さえた。
 灯りに浮かぶ白阿傍鬼に掴まれたアジンナ。ぐるりと取り巻く小鬼の群れ。
『姫様』
 アジンナが決意を込めた視線を向ける。
 灯りがついた。
 脱出方法を考えるのだ。




【目標】
 レナ皇女とアジンナ、囚われた開拓者の救出
 囚われた側は脱出方法の試み
 レナ皇女と開拓者2名を救出した時点で普通判定。怪我の有無は問わず
 アジンナの生死は問わず。彼女を含む救出で成功判定
 全員を救出し、敵を討伐できた時点で大成功判定

【敵情報】
 ◎ホワイトミノタウロス(白阿傍鬼)
  阿傍鬼よりも能力が高く、色が白い以外見た目は阿傍鬼と同じ
  牛の頭に筋骨隆々の強靭な肉体
  人語は話せないが解する
  肉弾戦や武器による攻撃のほかに呪詛などの特殊能力もあり、それも阿傍鬼より強力
  獲物をいたぶり、女性を慰みものにしようとします。

 ◎手下の鬼
  小鬼(投石攻撃型、弓攻撃型含む)、ゴブリンスノウ、猿鬼、赤小鬼、羽猿などさまざま
 
【救出側】
 生命値、練力は現在の回復値で行動
 開拓者装備は同じもの、スキルは前回のものがアクティブ条件
 連れる相棒も同じ、相棒のスキルも同じ
 ヴォルフ騎士団より医療品各種供出あり(高級包帯、ゼムゼム水、安定丸、甘露水など)

【拘束側】
 生命値、練力は同じく現在の回復値
 スキルは同じものがアクティブ
 装備は同じ。武器は奪い取られている
 無数の手下小鬼共に取り囲まれて見張られている
 相棒は共にいる。(鬼の目に触れぬよう管、宝珠内などに隠されている状態)

【その他】
 捕らわれた側は恐らく地下にて拘束。縛られているなどの制限はない
 アジンナは騎士。巫女のスキル「神風恩寵」を持ち、それ以外は「グレイヴソード」「スィエーヴィル・シルト」がアクティブ
 現在までに地下に通じると思われる場所は3つ
 ストーンウォールで閉じた洞窟、小鬼が入った穴、崩れた岩塔のあとの穴
 地下内で繋がっている可能性まで考えると地下路は山森全体に及ぶ可能性はある


■参加者一覧
酒々井 統真(ia0893
19歳・男・泰
叢雲・なりな(ia7729
13歳・女・シ
リューリャ・ドラッケン(ia8037
22歳・男・騎
フレイア(ib0257
28歳・女・魔
ハッド(ib0295
17歳・男・騎
真名(ib1222
17歳・女・陰
叢雲 怜(ib5488
10歳・男・砲
クロウ・カルガギラ(ib6817
19歳・男・砂
イルファーン・ラナウト(ic0742
32歳・男・砲


■リプレイ本文

 灯りがついて、レナ・マゼーパ(iz0102)は少し離れた場所にいたフレイア(ib0257)と真名(ib1222)の姿を見つけた。
 目が合って彼女達が駆け寄る。
 飛びかかろうとした小鬼は白阿傍鬼が俺の獲物に触るなというように吠えて一喝した。
「フレイア!」
「姫様!」
 思わず抱き合った。
 大きな岩部屋。壁にも、高いドームのような天井にもびっしりと小鬼。
 縛られてはいないし、白阿傍鬼も小鬼には一定距離近づかせない。
 でも、武器は全て奪い取られていた。真名は陰陽外套を、フレイアは魔法帽もない。
「出入り口はどこ。ないはずないのに」
 真名が視線を巡らせる。なのに壁には穴ひとつ見られない。
「入ってから岩でまた閉じたのかしら…」
 フレイアが言う。
 中央にある岩を椅子代わりにしている白阿傍鬼に掴まれたアジンナは兜を弾き飛ばされ、黒いコートと騎士装束も半分破り取られていた。
 長い爪が彼女の皮膚に傷をつけ、血が流れるたびに白阿傍鬼は興味を覚えて長い舌で舐めた。
 アジンナは顔色一つ変えず、白阿傍鬼の視線がレナ達に向くと
「おい、獲物はこっちだ。よそ見をするな」
 と、白阿傍鬼の意識を自分に戻した。
「クソ牛…」
 レナの口から荒い言葉が漏れる。
「姫様、フレイアの呼子笛は届いてる。皆、きっと向かってるわ」
 真名が囁いた。焦ってはいけない。落ち着いて突破口を見つけるのだ。


 地上組は慌ただしく互いの行動を把握し、ヴォルフの用意した医療品を分ける。
 崩れた岩塔のあとにぽっかりと空いた穴に陽動班。
 酒々井 統真(ia0893)、竜哉(ia8037)、叢雲 怜(ib5488)、イルファーン・ラナウト(ic0742)の4名。
 救出班はフレイアがストーンウォールで閉じた崖の穴へ。
 こちらは叢雲・なりな(ia7729)、ハッド(ib0295)、クロウ・カルガギラ(ib6817)の3名。
「雪白、頼んだぞ」
 統真の声に雪白は頷き、イルファーンを見上げた。
 雪白は統真と離れて救出班に入るが、彼女の使命はケモノ達との接触もある。
 これからリナトとイチゴーにも話をしに行く。それはイルファーンがやろうとしていたことだったが、リナトを現場に呼ぶのは難しかったのだ。
「自分で…頭ぁ下げて頼みたかったが…」
 イルファーンは言ったが雪白は分かってるよというように彼の大きな手を両手で握った。
「イルファーンさんだけじゃない。皆の気持ちだから」
 騎士の龍に乗せてもらい、雪白が飛び立つ。
 それを見送ってトゥリーが部下に目を向けた。
「ドゥヴェ。お前はクロウ殿と同じ班に」
 不意に名が出てクロウが顔を向け、ドゥヴェは小さく息を呑む。
「ドゥヴェさんは陽動班だ」
 クロウは口を開いた。いつもは優しい彼の青い瞳が厳しい光を湛えて親衛隊2人を見る。
 何かあればクロウ、クロウと自分と行動を共にしてきたドゥヴェをこちらに向けるトゥリーの意図。容認できない。最後だから?
「姫さんの心も守ってやってくれよ。それも貴方達の使命だ」
 兜の下に半分隠れたトゥリーは表情を変えなかったが、彼女は暫くクロウを見つめて何も言わずに背を向けた。
「貴方達が死んだら姫さんが傷つく。姫さんだけじゃない、俺達も同じだよ。命を大事にしてもらいたい」
 クロウは残ったドゥヴェに言う。ドゥヴェは目を伏せた。
「救出班はシノビのなりなの先導に頼る部分が大きい」
 竜哉が近づく。
「彼女の負担のこともあるし、小鬼共を片付けてしまえば姫様までは最短ルートだ。親衛隊の力は必要なんだよ」
「超越聴覚を使ってく。陽動班は何か掴んだら2回手を叩いて? 聞き取るよ」
 なりなが言った。
「レナんとアジンナは香水をつけてないか。香りで辿れるかと思うたが」
 グラムの刃を確認し、鞘に納めながらハッドが尋ねる。
「我らは任務の際に香水をつけませぬ。ただ、姫様の衣服は香を収めますゆえ、近づけばもしかしたら」
 ドゥヴェは答える。ハッドは頷いた。
「それと火縄があるかの」
「小屋にいくつかカンテラがあったように。持って来ます」
 会話を聞いていた騎士が答えた。
「ああ、じゃあ、風呂の準備も頼むわ」
 つけていた水晶の瞳を指でついと押さえて言う竜哉の声に騎士は「え?」と彼の顔を見る。
「迎えに行ってる間に、姫さん達のさ」
 合点がいった騎士は頷いて龍に乗って飛び立った。
「よし、行こう。流!」
 なりなが声を張りあげた途端、怜が彼女の手を引いて何も言わずぎゅっと抱きしめた。
 すぐに離れて姫鶴に。
「大丈夫よ、怜」
 なりなは小さく答え
「待ってててね、お姉ちゃん。すぐに助けに行くから!」
「光鷹、行け。頼むぞ」
 竜哉の声に迅鷹も飛び立つ。光鷹はタイミングを知らせる声となる。
「トゥリー」
 シャールクに指示を出し、声をかけたイルファーンにトゥリーは視線を向ける。
「死ぬとか引責とか、そんな逃げをするな。あいつの未来はこれからも続く。見捨てるんじゃねえ」
「残念だが、イルファーン」
 トゥリーは答えた。
「その言葉は今アジンナには届かぬ。誰一人失いたくない気持ちは…私も同じだ。でも私達の人生は姫様あってのこと。そのための12人なのよ」
「レナは替えの利く12人とは思ってないぞ」
 イルファーンがそう言うとトゥリーはやはりさっきと同じように無言で背を向けた。
 
 アジンナの足元に小さな血溜まりができている。
 フレイアが気づかれぬようレ・リカルを放つのだが、白阿傍鬼は次々と彼女の体に傷をつける。血の色に口元から嬉しそうに涎が伸びる。
 レナの口から微かに漏れた呻き声に反応して白阿傍鬼がちらりと顔を向けた。
「ミノタウロス、獲物はこちらだ」
 すぐにアジンナが言う。でも、もう声に気力がない。
「動くか」
 真名が小さく呟いた。
「ナハトを?」
 周囲に視線を巡らせながらフレイアが尋ねる。
「いえ…これだけ小鬼の目があるんじゃ姿が消えると騒がれる。逆に注意を引きつけるわ」
「姫様」
 レナはフレイアを振り向いた。
「真名さんが出ます。白牛がアジンナさんを離したら一気に引き戻しますから」
 レナが頷き、真名は飛び出した。
「この卑怯者! 低能白猿! やめなさいよ!」
「ウモゥ?」
 アジンナから目を離し、白阿傍鬼がこちらを見る。
 恐怖に真名は息を呑む。もちろんそれは芝居だ。こんな奴、憎いだけで怖くはない。
「い、いつまでも意地汚く同じ獲物を持っているんじゃないわ」
 たん! と足を踏み出した時、真名の足のグングル、エイコーンが軽やかな音を放った。
「でも、その愚鈍な体で私を捕まえるのは無理ね」
 たん! シャラン!
「ウモーーゥ!」
 白阿傍鬼が唸り声をあげて手を伸ばす。それをするりとかわして真名は黒髪を妖艶にかきあげてみせた。
「ほらね、やっぱりだめよ」
「モーウ! ウモオオ!」
 涎を飛び散らせて白阿傍鬼は声をあげた。燃えてきたらしい。アジンナを乱暴に放り投げると本気を出してきた。
 ザッと倒れ込んだアジンナにフレイアが駆け寄る。小鬼が声をあげて襲いかかろうとしたが、レナが蹴り飛ばしてふたりで急いで連れ戻る。
「アジンナ!」
 レナは外套を脱ぐと露わになってしまったアジンナの身をくるむ。
「姫様…お怪我はございませんか…」
 アジンナが呟いた。レナは呻き声をあげて彼女の体をかき抱いた。冷たく冷え切ったアジンナの体。
「死なないで…」
 レナは悲痛な声をあげる。
 フレイアはアジンナに何度目かのレ・リカルを付与し、再び周囲に目を凝らす。
 逃げ回って探索する真名の体力もそのうち限界が来る。
 その前に助けが来なければ強攻に脱出を試みねばなるまい。それでも、せめて逃げ道だけでも特定していなければ。
「姫様、片目を隠して暗闇に慣れるようにしておいてください」
 フレイアの言葉にレナは目を向ける。
「フレイア…貴方はどうしていつも落ち着いていられるの?」
 フレイアはレナに小さく笑みを浮かべてみせた。
「信じているからです。自分も、そして仲間も」
 レナは薄明かりに照らされる彼女の美しい顔を見つめた。

 光鷹が鋭く啼いて戻って来た。
 救出班が崖の洞窟に入ったのだ。
「行くぞ!」
 騎士の龍が押さえる縄を伝い、次々に穴に降りる。
 穴は深かった。どこかで水の音がする。
 どれほどの距離があり足場が悪くても2時間以内の想定。それ以上に遠い場所の移動は真名とフレイアならどこかで脱出するはずだ。ましてや相棒もいる。
「空気の流れがあるんだぜよ」
 怜が顔を巡らせた。トゥリーがカンテラを点ける。
「あった、ここだ」
 統真は人ひとりが身を屈めて入れそうな横穴を見つけた。
「奥が…広がっていそうだな」
 カンテラを翳してトゥリーが言う。
「行こう」
 統真は言った。

 崖の洞窟はローザ討伐時に入った時の縦穴が半分埋まった状態だった。
 それ以外は行き止まりに見える。しかし、どこかに通路があるはずだ。
 ハッドの持つカンテラの灯りを頼りに、なりなが視線を巡らせる。
 クロウは壁に顔を近づけて僅かな空気の動きを感じ取ろうと目を閉じた。
「なりなさん」
 顔をあげてなりなを呼び、壁の一角に指差す。なりなは壁に耳を押しつけた。
「…反響音がするね…向こうは空洞なんだ…」
「下がっておれ」
 ハッドがカンテラをクロウに渡し、雷槍を手にとる。
「銃はこの地盤ではちと怖いしの。何度か突けばうまく崩れるかもしれん」
「他が崩れたら退避だぞ」
 クロウは言った。
「大丈夫じゃ」
 ハッドは答え、雷槍を放つ。
 
 ガッ…
 ガッ…

 3度目で人の頭ほどの穴が空いた。なりなが忍刀で突くと更に穴が大きくなる。
「これくらいなら入れるよね。行こう」
 先に穴に入り込もうとしたなりなが、ふと動きを止めた。
「どうした?」
 クロウが尋ねる。
「…狼の声が聞こえたような…」
「雪白んかの…?」
 ハッドが後ろを振り返って言う。
「よき結果を信じようぞ」
 2人は頷いて穴に向かった。


 雪白はイチゴーの背に乗って森の中を移動していた。
 リナトもイチゴーも快諾してくれた。
 背に乗れと言われてイチゴーと出発したものの…遅い。イチゴー、歩くのがとても遅い。
「ねえ、あのさ、もっと早く…」
「無理もふ」
 雪白の訴えは却下されてしまう。そこは早い。
 自分で移動しようかな、と考えた時、ふいにイチゴーが「突進」を発動した。
「え? あ? きゃーっ!」
 当然、背にいた雪白は放り出される。
 どさっ、と何かにぶつかり落ちた雪白は、転がったイチゴーが毛むくじゃらの足に「ふん!」と止められるのを見た。
 …熊だ。
 そして顔をあげて目を見開いた。
「小娘、小狐ハ、ドウシタ」
 狼…
「…フマクトは…地下」
 雪白が答えると、狼はふんと鼻を鳴らした。
「モウ一匹ノ小狐ハ」
「紅印も…地下だよ」
 狼は黙っている。
「白阿傍鬼と鬼がたくさん。ボクらのせいだよね? 君達の怒りはもっともだよ。だからやっつける。今、みんなで向かってる。ボクらは森を良くしたいんだ。だから…」
「ガウウウッ!」
 ふいに狼が吠え、大きな口が雪白に向かった。
 咄嗟に身構えて目を閉じた雪白は、咥えられたと思った途端、空中に放り出されるのを感じた。
 やっぱり狼はボクらに心を許してくれない…
 そう思った時、ほふんと体に伝わる感触に怖々目を開いてみる。
 少し硬い毛が手に触れた。
 狼の背…
 既に狼は歩き出していた。
「あ! イチゴー?」
「アレハ、ムコウダ。歩クノガ遅イ」
 見ればイチゴーは熊に乗せられドヤ顔をしていた。
「小娘、名ハ」
「ボク? 雪白…貴方は?」
 答えず、狼の足取りが少し速くなった。
「我ラノ仲間トアヤカシノ区別ガツクカ」
「うん…大丈夫だと思う。喋れるヒトいる? ボクの主人は統真というんだ」
「勘違イスルナ。人間ノタメデハナイ。ダガ、統真。心得タ」
 雪白は狼の頭頂部から背にかけてたてがみのように走る雪のような白い線を見た。
「貴方のこと、スノウと呼んでもいい?」
 狼は何も言わなかった。ただ、その足が更に速くなる。
「有難う…スノウ」
 雪白は滑り落ちないよう、彼の毛をぎゅっと握った。

「どっちだ」
 分岐した穴を照らして統真が言った。ドゥヴェが前に出る。
「出て来い! 女はこっちにもいるぞ!」
「ミノタウロス!」
 トゥリーも声をあげる。

「ギィエエイ!」

 遠くで声がした。だが、どちらからか分からない。近づいて来る気配もない。
「レナ!」
 イルファーンの声も木霊して消えた。
「向こうも誘き寄せてやがるか…」
 統真が呟く。
「待て。何か来る」
 竜哉がふと気配を感じて耳を澄ませた。一緒にいた光鷹も緊張している。
 統真が分岐した穴の向こうに顔を向け身構えた。
「違う…後ろだ!」
 竜哉がソードウィップを抜いた。

――― カサササ…

 地を擦る音が近づく。一体何が。
 ドゥヴェの弓、怜とイルファーン、トゥリーの銃口も音に向く。

――― カサッ

 音が止まった。暗闇の向こうで小さな光が二つ。
 それが次々に増えた。
 暗がりに光る無数の目がじっとこちらを見た。
 撃つか? 皆がそう考えた時、ふいに二つの目が空中に浮いた。
 それだけが近づいて来る。
 近づいて灯りに入って初めて分かった。浮いたのではない。やたらと体が大きい鼠だった。
「トマ!」
「喋った!」
 怜が叫ぶ。
「ケモノ?」
 竜哉が目を細める。
「トマ! トマ! スズッ!」
 あ、と閃いて統真が前に出た。
「雪白か?」
「トマ! トトトッ!」
「落ち着いて喋るんだぜよ」
 怜が言うと
「鼠だからな…」
 竜哉が呟いた。
「エンゴエンゴトマスズトマエンゴ、ハアハアハア…」
「援護してくれるのか。雪白が狼に会ったんだな」
 統真の言葉に鼠は息を切らしてせわしなく頷いた。
 願ってもない。皆が頷き返すのを見て統真は鼠に言う。
「頼むよ。早く助け出したいんだ」
「エンゴエンゴ、ゴゴー!」
 一気に鼠の群れが走り出した。全員がそれに続く。
「なりなー! 援護が来たんだぜよー!」
 怜が声を張り上げた。聞こえるかどうか分からない。声は恐らくまだいくつもの岩壁を介すのだろう。

 なりな達のほうは足元が悪かった。
 降りる感じだったから相当地下に潜っただろう。
 岩がかなり水を含んでいて滑りやすく脆い。
 怪しげな場所はなりなが忍眼を使ったが、この道の悪さが充分罠だった。
「お姉ちゃんの声が聞こえる。挑発してる」
 囁く彼女の声にクロウが顔を向けた。
「聞こえるのか?」
 なりなは頷いた。顔に苦痛が浮かぶ。彼女には真名が何をしているのか分かるのだろう。
「陽動班の音は何も聞こえない。お姉ちゃん達にはたぶんこっちが近いんだ。みんな生きてる。お姉ちゃんがそういうこと言ってる。あたし達に伝えてるんだ」
 しかし、カンテラを照らしてもずっと暗がりが続いているばかりだ。
 ふと、自分を呼ぶ怜の声が聞こえた気がした。これは本物なの? 気のせい?
 次の声は本当に聞こえた。
「なりなさーん!」
 小さな声。なりなは顔をあげた。
「雪白だ!」
 呼び返したいが音は出せない。雪白、あたし達はここよ。
「足は止められん。進むぞ」
 ハッドがカンテラの灯りを大きく回し始めた。これを頼りに雪白が来ることを願うしかない。
 更に十数分して、ようやく雪白が合流した。
「スノウに会ったよ。援護してくれた」
「スノウ?」
 クロウが尋ねる。
「狼だよ」
 雪白は息を切らして懐に手を入れた。再び手を出した時、その中にいるものに皆で目を丸くする。
 鼠だ。
「この子が案内をしてくれる」
 雪白が地面に放すと、鼠は小さく啼いて走り出した。
「ま、待って!」
 なりなが慌てる。
「追うぞ!」
 ハッドが小さく叫んだ。

「さあ、こっちよ、こっち。他の3人より私の方が遙かに遊び甲斐があるでしょ、バカ牛さん!」
 真名は身を翻し、岩壁の一角を指差した。武器があった。岩陰に隠れている。
 しかし次の瞬間、真名の足が白阿傍鬼に掴まれた。
「!」
 真名は地面に引き倒される。次の掴み手で彼女の腕から鮮血が飛び散った。
「やめろ!」
「姫様!」
 フレイアが叫んだ時にはレナが身を躍り出していた。
「その小汚い手を離せ! クソ牛! よくも…よくも私の大事な人達を…!」
「姫様、だめです!」
 真名が小さく叫ぶ。
 白阿傍鬼は真名から手を離すと、興味深げにレナに近づく。
 レナはそれに合わせて数歩後ずさりした。
「馬鹿牛! 獲物はこっちよ!」
 真名が立ち上がる。それを小鬼が嘲笑うような声で邪魔をする。
 伸びた手からすんでのところでレナは逃れた。
 でも、丸腰のレナは白阿傍鬼の格好の獲物になってしまう。
「フマクト!」
「紅印!」
 猶予なし。真名とフレイアが同時に叫んだ。
 ナハトミラージュで真名は武器の場所に走る。
 フマクトが飯綱雷撃で火を消した。鬼達が騒ぎ、嫌な声が響く。
 喧騒に紛れて身を翻そうとしたレナは頭に伝わった衝撃に凍り付いた。
 髪を掴まれた! まずい。長く編んだ三つ編みがぎりりと引き寄せられる。
「鬼共! こっちだ!」
 小さく声が聞こえた。あれは…ドゥヴェ…?
 風が声の方に動く。鬼共が反応して向かっている。
「ドゥヴェ…! …つっ…」
 ぐいと引かれて部屋の中央に引きずり戻された。
 痛い! 頭の皮が剥がれてしまいそうだ!

「ココッココココココッ!」
 鼠が岩壁をカリカリと引っ掻く。とはいえ所詮鼠。技を使うアヤカシ鼠ならまだしも。
「この向こうにいるのか!?」
 統真が拳を当て、体当たりをしてみるがびくともしない。一枚岩ではないからどこかを崩せば崩れるのかもしれないが。
「出たっ!」
 怜がどこからか姿を現した羽猿を撃った。
「あそこだ!」
 かなり高い場所に穴が空いている。鬼の顔が見え隠れするが一気に出ようとするから出られないらしい。
「レナ!」
 イルファーンが声を張り上げた。無論、返事は聞こえない。
「おっちゃん、銃で崩そう!」
 怜が言った。
「全部が崩れるような場所だったら阿傍鬼だって危ないんだぜよ。俺、奴は自分の安全は確保してるって思う。一枚岩じゃないんだ。繋ぎ目狙えば跳ね返らずに崩せるかも。おっちゃんの銃なら威力もあるし!」
「一理ある」
 竜哉が答えた。イルファーンと怜、トゥリーが銃を構えた。皆が身を後ろに下げる。
「流れ玉気ぃつけろよ」
「壁の向こうは鬼まみれだ。崩れたら一気に行くぞ」
 竜哉は光鷹と同化する。
「おっちゃん!」
「5秒後砕く!」
 イルファーンは大声で怒鳴った。
 なりな、声を拾え。レナ、離れた場所にいてくれ!

「行き止まりだ」
 なりなが目の前の岩壁を叩く。そしてあちこちに耳を押しつける。
 組んだ岩の隙間から漏れる音が聞こえる。
「何が起こってるの、お姉ちゃん! 姫様!」
 なりなが顔を引き攣らせて小さく叫んだ。
「どうしたんだ、なりな!」
 クロウが彼女の顔を覗き込む。
「すごい騒ぎになってる。お姉ちゃん達が反撃したのかも。早く行かなきゃ!」
「雷槍でまた崩すか」
 ハッドが槍を抜いた。
「でも、壁際に真名さん達がいたら」
 と、クロウ。
「あたし、お姉ちゃん達を信じる。紅印かフマクトが出てるはず…!」
 なりなは岩に手をついて声を張り上げた。
「お姉ちゃん! 壁崩す! 離れて!」
 早耳使って! お願い!
 その時彼女は別の音を拾った。
「5秒後崩す!」
「クロウ!!」
 なりなは振り返って叫んだ。
「岩、撃って! イルファーン達が反対側から崩す!」
「…!」
 素早く身を翻す。
「よし、行け!」
 ハッドも雷槍を構えた。

「フレイア!」
 真名が武器を奪還して来た。
 アジンナに覆い被さって鬼から守っていたフレイアは千早を手にするなりデリタ・バウ=ラングルを放つ。
「ウギャアアア!」
 小鬼のすさまじい声が響いた。

 …3

「フレイア! 声がする! 助けが来てる! 壁から離れてっ!」
 早耳を使ったフマクトが主に叫んだ。

 …2

 真名とフレイアが2人でアジンナを抱える。

 …1

――― ドゥゥゥッ

 左右同時に岩壁が崩れた。
「紅印! 九尾炎!」
 真名の叫びと共に紅印が動く。
 クロウの閃光練弾。
「姫様、ご容赦を!」
 ドゥヴェの声が聞こえたと思った途端、レナの体に自由が戻った。
 彼女の矢がレナの毛先と白阿傍鬼の手を射抜いたのだ。
 気持ち的には敵の手だけを射抜くつもりだっただろうが仕方がない。
 勢い余って倒れ込んだレナの目に再び放たれた閃光練弾の光の中で誰かの靴先が一瞬映る。

 トンッ…!

 いくつもの影が自分を飛び越える。
 響く銃声、鬼の叫び声。
 声がしたほうにのみ集まっていた鬼達は背後からも攻撃を仕掛けられて逃げ惑う。
「姫様!」
 早駆で助けに来たなりなの声がした。
 彼女の手を借りて身を起こし、振り返ったレナは目を見張った。


 光鷹と同化した竜哉の大太刀とハッドのグラムが首元左右から。
 イルファーンの崩落は顎の下。
 怜の魔弾はぴたりと額に。
 クロウのネルガルはこめかみに。
 統真の拳は後頭部。
 カンテラの薄明かりの中、白阿傍鬼はそれぞれの武器で押さえつけられ動けずに固まっていた。
「ぴくとも」
 竜哉。
「動くな」
 イルファーン。
 ハッドがにやりと笑う。
「外で相棒達が戦ってる…逃げた奴らと。聞こえるわ」
 なりなが言った。
「姫様!」
 トゥリーとドゥヴェが来る。
「私はいい。アジンナを」
 レナの言葉にトゥリーがドゥヴェに目で合図した。
「姫様、脱出を」
 なりなが言ったがレナはかぶりを振った。
「奴の最期を見届ける」
「ウモウ…」
 白阿傍鬼が唸る。
「動くなと言っただろうが」
 竜哉が淡々と言う。
「声も一切出すな。その時点で終わりだと思え」
 白阿傍鬼の口からだらしなく涎が落ちた。
「いい気味だわ」
 真名がつかつかと近づいた。
「女性をこんな目に遭わせるからだわ、この助平鬼。私達は仲間が必ず来るって信じてた。お前のように部下の鬼共すら信じられない奴はこういう目に遭うのよ。ご覧、手下など一匹もいない」
 真名の足先がぐりぐりと白阿傍鬼の脇腹を突く。
 次に彼女は白阿傍鬼の耳をぐいと引っ張った。
「お分かり? 低能な白猿さん」
「ウモオオゥ!」
 怒ったらしい。だが、みんなのほうがずっと怒っている。
「ぴくとも」
 竜哉。
「動くなと」
 クロウ。
「言っただろうがああ!」
 どかっ!
 イルファーンが蹴り飛ばす。よろめいた後に再び同じように武器が突きつけられる。
「ウモ…」
「お薬いろいろあったよね。ま、帰れればいいか。俺、「嵬」祇々季鬼穿弾でいくんだぜよ」
 怜が言う。
「俺はブレイクショットで」
 イルファーン。
「我輩は聖堂騎士剣でな」
 ハッド。
「斬神(M)」
 竜哉。
 レナがなりなの顔を見た。ねえ、相手は動けないよね?
「リベンジよ」
 なりなは当然と言わんばかりに答える。
「動くなよ」
 竜哉。
「動いてはならぬぞ」
 ハッド、足でぐりぐりぐり…
「ウガアアアア!」
 白阿傍鬼の怒りが頂点に達した。
 約束通り、至近距離での交互の総攻撃。
 ぽんと飛んだ首を残し体はあっという間に瘴気と化した。
 落ちて来た頭をフレイアが「はいっ!」と蹴り飛ばし、

 シャラン…!

 グングルの音と共に真名のレイラが飛び上る彼女の動きに合わせてふわりと舞う。

 ビシッ…!

 最後の一打で消えた。
「決まったっ」
 タン、と着地した真名がぐっと拳を握った。
「失礼いたしました。私としたことが蹴りなどと」
 コホン、と、咳払いをしつつフレイア。
「気持ちいいン」
 ハッドが満足そうに笑った。
「トマ、トマ、ダシュツ、ダシュ、ダシュ」
 鼠が言う。
「岩に刺激与えちまったみてえだ。危険だ。出るぞ」
 統真の声に全員が脱出を開始した。

 塔側の穴から脱出する。
 全員が出たところで低い響きが聞こえた。遠く離れた場所で地崩れが起こり、穴から風が吹き出す。中が崩れたのだろう。
「姫様」
 ドゥヴェがレナの前にひざまづく。
「ご無事で何よりでございます。申し訳ございませんでした…」
「なぜ謝るの? 其方は助けに来てくれたではないか」
 そう答えたレナはトゥリーが近づいて来るのを見る。
 頭を垂れたままのドゥヴェに目を戻した。
「ドゥヴェ、顔をあげて」
「…」
「ドゥヴェ」
 レナは身を屈めると無理矢理彼女の顎を持ち上げた。微かに赤く腫れた頬が見えた。
 嘆息し頭を振る。
「ドゥヴェ。アジンナが回復したら3人で私の護衛を。必ずトゥリーと其方とアジンナで。良いな」
 最後の言葉はトゥリーに向いた。トゥリーはひざまづいた。
「御意」
「レナ、シャールクに乗れ」
 イルファーンの声にレナは頷いて立ち上がり、踵を返した。
 レナが立ち去ってもドゥヴェは立ち上がれなかった。
 トゥリーはドゥヴェを見つめたあと自分の龍に向かう。
「ドゥヴェさん」
 クロウが声をかけた。
「帰ろう。プラティンにどうぞ」
 ドゥヴェはやはりそのまま。クロウは彼女の顔を覗き込む。
 頬に一筋流れていた涙を指で拭ってやった。
「ドゥヴェさんらしくないよ」
「…もう、皆の顔は見れないと」
 ぽろんと再び涙が落ちる。
「レナさんがそんなことするはずないだろ。俺達だってわかってたよ」
 ドゥヴェの目から更に涙が流れる。
「少し落ち着いてから帰るか。付き合うよ」
 クロウは両腕を広げた。
「俺で良ければ遠慮なく」
 小さな声で泣き出したドゥヴェを受け止めて、クロウは彼女を抱きしめてやった。

 流がこちら側に戻って来た。
「姫様、流に…」
 言いかけたなりなはレナがシャールクに乗るのを見た。
「お姉ちゃんはおっちゃんに任せよ? 俺もぎゅってしたかったけど」
 怜が笑って言った。なりなも笑う。
「そうだね。じゃ、あたし真名お姉ちゃんを…」
 言いかけたなりなを怜はぎゅっと抱きしめた。
「お疲れ様、なりな」
「うん。れ…」
 『怜もね』と言いかけたその言葉は熱いキスの奥に消える。
「ほれ、そこっ! 帰るのであるぞ!」
 てつくず弐号を呼び出してハッドが言い、
「そうそう、帰ってから思う存分にね。竜哉がお風呂頼んでたじゃない? お風呂、お風呂っ」
 真名が流に乗って言った。

 拠点小屋に戻った頃には日が暮れていた。
 アジンナは体を温めて少し元気を取り戻す。
 真名はさほど深くない傷だったので、手当てを受けたあと女達が用意してくれた料理に早速唐辛子を投入していた。
「ええっ、こんなに辛味をっ?」
 女達の仰天する声が響く。
「これが美味しいのよ」
 と、真名。
 最初に湯浴みをさせてもらったレナはひざ掛け用の毛布を借りて肩にかけ、小屋の外に出ようとして狼の姿を見た。それを告げると、雪白が飛び出した。
「スノーウ!」
「ガウゥ!」
 狼が呼応した。スノウという名がついたのか。レナは思う。
「リナトさん、スノウが来た。統真!」
 呼ばれて2人が外に出る。
「うわ、大きい…」
 リナトが怯えた声を出した。
「約束したんだ。リナトさん、お願い」
 雪白が言う。
「スノーウ! リナトさんと統真だよー! 今行くー!」
「お、狼と喋ったことないんだけど…」
「俺も一緒に行くよ。大丈夫だ」
 統真に促され、リナトは頷いた。
 イチゴーも姿を見せて、もそもそと近づいて行く。
 毛布できゅっと身を包んでレナはそれを見送った。
「一緒に行きたいんじゃねえのか? コートを取って来ようか」
 後ろで声がした。イルファーンだ。
 レナはかぶりを振った。
「ここはリナトの地よ。任せるわ」
「じゃあ、ほれ」
 イルファーンは持っていたグラスをレナに渡す。
「蜜酒を用意してくれていた。怜も技を使ったから少し舐めさせた。まあ、なりなが最高の元気薬だろうが」
 レナは笑って一口飲んだ。甘い味が広がる。
 そして再び狼に目を向ける。リナトが礼儀正しく狼に礼をしているのが見えた。
 イチゴーは伏せをしている。
「彼らと共存できれば、そうそうアヤカシに怯えることもないだろう。これで工事も進むわ。いろいろ世話をかけてすまな…」
 イルファーンが何も言わず小屋に向かうので、レナは口を噤む。
 それに気づいてイルファーンが振り向いた。
「酒。お前にグラス渡しちまったから」
 レナは頷く。
「別に断らずとも」
 イルファーンは「うーん」というように視線を泳がせると、また戻って来てレナの手からグラスを取り、中身を一気に飲み干してグラスを足元に置いた。
「酒はこれでいい」
 レナは不思議そうにイルファーンを見上げた。
「レナ」
「なに?」
「真正面から何と聞かれると言いづらい」
「…?」
 怪訝な顔をしたレナは次の瞬間、仰天した。
 逞しい腕に抱きすくめられていた。
「レナ、すまねえな。俺はもう自分を誤魔化さねえから」
「…」
 イルファーンの低い声が耳のすぐ傍だけでなく、体を通して聞こえてくる。
「お前は失いたかねえ。お前は俺にとって大事な女だ」
 ぼっと顔に血が昇った。
 ただ…
「うく…」
 腕、強い。
「イル、ファーン…苦し…」
「あ、すまん」
 緩めてもらってふうと息を吐く。
「ブリャニキだけじゃなくて、もっとちゃんと食え。お前抱くといつも折れそうな気がする。」
「…」
「あ、いや…」
 妙なことを口走ってしまった。
「イルファーン、匂い袋か香水をつけている?」
 いきなり聞かれてイルファーンは怪訝な顔をした。
「近づくと時々香りがする。スパイス…シナモンかな…」
 レナが目を閉じてクンクンと顔を寄せて来た。
「そりゃたぶん水タバコ…」
 なんて無防備な。この状態で顔を寄せてくるとは。
 予定外予想外…いや、想定内。
 もらった。
 目の前の柔らかい感触。さっき口にした蜜酒の味と共に。
 毛布が滑り落ちた。
 慈しむように彼女の体を腕で囲い込む。
 唇が離れたあと、レナはじっとイルファーンの口元を見つめた。
「髭って意外と柔らかいのね…もっとちくちくするかと思った」
「ふ」
 笑いを堪えるイルファーン。
 レナは彼の胸に耳を押しつけた。
「イルファーンの胸の音が聞こえる。…生きてる音だ」
 かけがえのない命を2人で抱きしめ合った。

「えーと…」
 リナトは困ったように統真の顔を見た。
「…ここで戻るのはまずいですよね…」
「うーん」
 統真は頭を掻く。
「なんだか…ユリアの顔を見たくなっちゃった」
 リナトが笑って言った。
 抱き合う2人のシルエット。
 「うきゅーん」と雪白が統真にくっつき、イチゴーはふわーっと欠伸をする。
 その反対側、小屋の扉の奥では皆がびたりと窓に貼りついていた。
「レナん…我輩が上書きの予定だったのに…」
 と、ハッド。
「こうなれば上書きの上書きを狙うのじゃ」
「そんなあなたに真名特製スープをどうぞ」
 真名が真っ赤なスープを持って来る。
 ぶぅ、と膨れつつハッドは一口飲んで
「お、ウマい」
 彼は辛いものに強いらしい。
「でもこれでバレク君への恨みは晴れたんじゃない?」
 フレイアが笑う。
「成敗するとか言うなよ」
 竜哉が親衛隊に目を向ける。
「何のことでございましょう」
 トゥリーが銃を慌てて腰に納めてうそぶいた。
「クロウ」
 ひそひそと囁かれてクロウがドゥヴェに顔を向けた。
「お前は年上の女性をどう思う」
「え?」
 クロウは目を丸くする。
「冗談だよ」
 ドゥヴェは小さく笑った。
「おっちゃん、頑張るんだぜよ」
 怜がそう言ってなりなにキスをした。

 白阿傍鬼は開拓者達の手により葬り去られた。
 地上から逃げおおせた小鬼達もたくさんいたが、再び戻るのは至難の技だ。
 なぜなら、ケモノ達との協定を結ぶことに成功したからだ。
 狼、スノウは、雑魚程度ならば追い払うことと、大きな敵ならば即座に伝えると言った。
 リナトは早急な相棒養成所建設と共に彼らの住処を守る約束をした。もちろん相棒達の躾も。
「人間ハ好キデハナイガ…雪白ノ友ナレバ。小狐ハ無事カ」
「フマクトと紅印? 無事だよ。呼んで来ようか?」
 雪白が答えると狼は小さく唸った。
「オ前、我ラト帰ルカ」
 スノウは雪白がかなり気に入ったらしい。
「ありがとう。でもボクは統真と一緒がいいんだ」
 雪白は答えた。
「フマクト。紅印。統真ト、リナト」
 背を向けながらスノウは言った。
「我ラ全部ニ名ナドツケルナヨ。破綻スル」
「心配しなくても無理そうだ。彼らにもよろしく伝えてくれるか」
 鼠達を思い出して統真が言った。狼はゆっくりと森に帰って行った。

 レナ皇女は数名に月長石褒章を贈り、僅かながらの物品と共に開拓者に感謝を示す。
 西の森は工事を再開し、ヴォルフ騎士団は完成までの常駐と龍の導入のための支援を申し出た。うまくいけば夏前に完成するだろう。
 スィーラの自分の部屋でレナは船の手続きの最終段階を確認し、開拓者達の顔をひとりひとり思い浮かべた。
 私はとても大事なことを忘れていたのかもしれない。
 私はひとりで生きているんじゃない。
 いろんな人に生かしてもらっているんだわ…
 相棒養成所ができたらそのあとどうしよう、と思っていたけれど、何となく分かりかけてきたかもしれない。
 与えてもらっているこの命を使う方法はきっとある。
 書類をぱたりと閉じて、レナは暫く窓の外を見つめ、そして部屋の灯りを消した。