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■開拓者活動絵巻
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■オープニング本文 前回のリプレイを見る ● 半鐘が、聞く者の耳を引き裂こうとするかのように激しく打ち鳴らされている。 「東だ」 「風下だ」 口々に叫びながら、纏や梯子、掛矢を担いだ袢纏姿の男達が走っていく。漆黒の空を舐め取ろうとするかのように炎が立ち上がり、一刻前まで夜闇に包まれていた町は赤い光に照らし出されていた。 光と共に、低く重い掛矢の音、民家の倒壊する雷鳴の如き音、そして炎に攪拌される大気が上げる唸りが聞こえてくる。 「やばい、駆名さん達の長屋がある辺りだぞ」 「早く壊せ」 怒鳴り声が交錯する。火は風に煽られ、民家の端から町の外壁へと広がりつつある。既に火消し達は延焼を防ぐべく、外壁の一部を粉砕し始めている。池の水も凍る冷たい夜の空気が、今や火に炙られて生ぬるくさえなっていた。 「香伊那さんは逃げたのか、最近体調悪いって話だぞ」 「駆名さんが連れてるんじゃないのか」 「倒れるぞ、おい村田、こっち来い、こっちだ」 地響きと共に、町の外壁が崩れ落ちた。民家の壁が引き倒され、砕かれ、火元を中心、外壁を終点にした半円状に打ち壊しが進んでいる。 「佐藤ちゃん、駆名さんが水被って、あんたんとこの婆さん助けに行っちまったよ」 「誰か香伊那さん知らないか」 「馬鹿、ほ組の若いの、駆名さんが出てくるまでそこは壊すな、潰れちまう」 轟音と怒号が混じり合いながら、夜空へと散っていく。 ● 炭化した柱や壁材が、至る所で白煙を上げていた。まだ火は随所で燻っており、焼け跡に入ると、残った熱で汗が噴き出してくるほどだ。 顔中を煤と火傷で汚した細身の青年が、大きく伸びをした。 「火元は?」 「長屋の共同台所じゃねえかな。全く、誰の不始末だか解りゃしねえ」 顔を炭と火傷でいっぱいにした火消しが炭化した柱を蹴飛ばした。 「風下で起きた火だったから、まだ良かったよ。死人も出なかったしな」 「駆名さんのお陰でな。全く、無茶するぜ」 火消しが苦笑する。駆名と呼ばれた青年はくすぐったそうに笑った。 「俺は水遁が使えるからね、そこまで危険じゃないよ」 「水が出せたって、煙吸っちまったらお終いじゃねえか。うちの口やかましいごうつくばばあなんざ、放っておきゃ良かったのによ」 「心にも無い事を言わないの」 火の粉を被って所々に穴の空いた小紋を着た女性、香伊那が傍にあった木切れで火消しの頭を叩く。 「せっかく駆名ちゃんが火の中に飛び込んでくれたのに」 言いながらも、その顔色はどこか優れない。 「へいへい、まあ礼だきゃ言っとくよ。有り難うさん」 言葉とは裏腹に、僅かに目尻を光らせて火消しは洟を啜った。 「やあ、冷え込んできやがったな」 「強がっちゃって」 「けっ」 香伊那に茶化され、火消しは掌底で鼻を擦る。 「それで駆名さん、どうすんだこれから?」 「いやあ、変わらないよ。町を立て直す仕事が増えただけさ」 駆名はぼやき、頭を掻き回した。 「ご免な香伊那、もう少し苦労掛けてもいいか」 「やだ駆名ちゃん、何で駆名ちゃんが謝るの」 香伊那は少し青い顔で笑い、駆名の腕を取った。 「駆名ちゃんがいてくれたら十分。お金は幾らでも稼げばいいじゃない」 「おうおう、焼け跡だけにお熱いこって」 火消しは苦虫を噛み潰したような顔で言い残し、明後日の方角に歩いていく。 「ま、ここんとこ香伊那さんの体調も良くないようだし、大事にしてやんな。何かあったら言えよ」 「ありがとう」 背中で香伊那の礼を聞き流し、火消しはぶっきらぼうに手を振って遠ざかっていく。 駆名は嘆息した。 「まあ住む所はこれから探せばいいとして。金がなあ」 「あ、お金は大丈夫。殆ど甕に入れて、床下に埋めてあるの」 香伊那は青い顔を明るくし、焼け跡に足を踏み入れた。 「い、いつ」 「一年前から。だって駆名ちゃん、勢い余って全部人にあげちゃいそうなんだもん」 香伊那は細い指であちこちを差して焼け落ちた長屋の位置関係を確認し、白煙を上げる壁材の陰を覗き込んでいる。 駆名は勢い込んで壁材をどかした。 「ここか」 「うん。これぞ内助の功ってやつね。駆名ちゃん、大いに感謝したまえ」 香伊那は小さな胸を誇示するかのように思いきりふんぞり返った。 「するする、感謝する」 折り重なる柱や壁材を持ち上げ、放り投げながら、駆名は埋めた骨を掘り出す犬のように猛然と地面を目指す。 「まあでも、問題は‥‥」 その様子を見ながら、香伊那は青空を仰いだ。 「‥‥出しちゃったのよね‥‥招待状」 綺麗と言えるほどさっぱり燃え尽きた長屋から吐き出される煙が、冬の青空に細く立ち上り消えていった。 ● 「はて」 神楽の都、開拓者ギルド。半開きの扉には、「受理業務監査課」と達筆な字で書かれた木札が掛かっている。 「鳥が住んでいるに違いない」と言われるアフロ頭を掻き回し、職員のスティーブ・クレーギーは一枚の紙を見つめた。 本来彼に回ってくるべき、不受理とされた依頼用紙ではない。ただの手紙だ。 「‥‥春殿。現在掲示待ちの依頼に、箔羅の町からの依頼はあったでござろうか」 「あったわよ。祝言を挙げるそうね」 机に向かって細筆を走らせながら、春と呼ばれた女性は即答する。 「恐らくそれだと思うのでござるが、依頼人が火事で焼け出されたそうでござる」 「あら大変ね」 全く大変と思っていない口調で、春は答えた。 「依頼人は無事なのね」 「そのようでござる」 「依頼内容変更の手紙でも来たかしら」 「それが、不受理用紙に紛れてござった。祝言自体は行うものの、礼装でなく普段着で、気軽な会にしたいと」 「掲示待ちの用紙書き換えてきて」 一切筆を止める事無く、春は指示を出す。既に彼女の机は処理済みの紙で一杯になっていた。 「今回の依頼料はギルド負担。開拓者の業務に祝言の手伝いと、焼け出された人達の健康確認を追加しておいて。それからスティーブさんは使番に働きかけて、代官が見舞金と炊き出し、住居の世話をしてるか、確認取ってね」 喋りながらも、春の机に処理済みの書類が積み上げられていく。 「り、了解でござる」 スティーブは猛烈な速度で言われた事を紙に書き留め、部屋を飛び出していった。 部屋に一人残された春は、変わらず筆を動かしながら、ぼそりと呟いた。 「痣があったりして、ね」 |
■参加者一覧
柊沢 霞澄(ia0067)
17歳・女・巫
鬼島貫徹(ia0694)
45歳・男・サ
蘭 志狼(ia0805)
29歳・男・サ
すぐり(ia5374)
17歳・女・シ
ルエラ・ファールバルト(ia9645)
20歳・女・志
羽流矢(ib0428)
19歳・男・シ
ノルティア(ib0983)
10歳・女・騎
熾弦(ib7860)
17歳・女・巫 |
■リプレイ本文 ● 長着に袴を履いた駆名が肉の戻った頬に笑みを浮かべ、火鉢に翳した手を嬉しそうに擦り合わせた。 「本当に来てくれるとは、思わなかったよ」 僅かに赤い鼻を人差し指で擦り、羽流矢(ib0428)は微笑む。 「来るさ。ありがとう、呼んでくれて。覚えていてくれて」 「もっと早くにしようと思ってたんだけどな。商人と町民の橋渡しで忙しくて」 「本当、遅すぎる位だよ。でも、これ位男前に戻った方がいいな」 血色が良く、何より瞳に生気の溢れる駆名の顔を火鉢越しに覗き込み、羽流矢は白い歯を見せた。 「助け出された時、こんな感じだったもんな」 自分の頬を両手の先で押し縮めて見せる。 「そんなに痩せては‥‥」 「痩せていたぞ」 障子を開け、蘭志狼(ia0805)が鴨居を潜った。身の丈六尺を越えるその長身は、軽く首を竦めても高く結った白髪を鴨居に当ててしまう。 その長躯の向こうでは、庭の梅の枝が寒風に揺れていた。 「久しいな」 「蘭さん! お久しぶり」 簡素な胴巻を身に着けた志狼は軽く手を挙げて駆名に応えた。 「香伊那も泣き出そうというものだ」 志狼は懐かしそうに独りごち、障子を閉じた。吹き込んできた冷たい風が、止まる。 あとは羽織に袖を通すだけで会場に入れる駆名の姿を見て、志狼は目を細めた。 「そういえば、‥‥とても寒い日だったな」 「何が?」 不思議そうに問う羽流矢に応えず、 「いや。‥‥もう机や襖は全て取り払った。じきに追い出されるぞ」 志狼は顎にうっすらと残る傷跡をそっと撫でる。 「追い出される? 何で」 「すぐに解る」 志狼は笑ったが、どこか上の空だ。 銀色の瞳は、駆名の姿を通して遥か遠くを見ていた。 「‥‥香伊那とは全く似ていない、気位の高い女だったが‥‥それでも矢張り、似ていたのかもしれん」 傷跡を撫でる志狼の仕草を不思議そうに見ていた羽流矢が、ふと眉をひそめた。 「それ、青葉のおっさんと戦った時の傷じゃないか」 命を賭して立ち向かった死闘の数々を、彼もまた思い出したようだ。 「痛むのかい」 心配そうに駆名が声を掛ける。 志狼は首を振って物思いを断ち切った。 「しかし、大変だったようだな。怪我人は無いのだな」 「お陰様で。火消しが少し火傷をしたくらいさ」 駆名の言葉に、廊下の先から低い笑い声が応えた。 「新婚たるもの、燃え盛る愛の炎で長屋の十棟や二十棟焼き払ってこそ本物」 足音が近付き、そして障子が勢いよく開く。 羽織袴の胸に紺碧の勾玉を下げた茶筅髷の男、鬼島貫徹(ia0694)がそこには立っていた。 「鬼島さん、お久しぶり」 駆名が顔を輝かせた。 「無沙汰をしたが、大事なくやっているようだな。結構結構」 立ち上がろうとする駆名を制して鬼島は屈み込み、その肩に手を置いた。 その目は、半ば殺気さえ感じるほどに真剣だ。 「駆名、せっかくの祝言だ。俺の経験から、一つ教えておく」 高笑いとは対照的な様子に面食らいながらも、駆名は居住まいを正して頷いた。 「良いか。女房の言うことを素直にはいはい聞いていれば、大概夫婦生活は上手くいくものだ」 志狼が口を真一文字に引き結んで笑いを噛み殺し、羽流矢が派手に吹き出した。 「努々忘れるな。踵落としが飛んでくるぞ」 「お‥‥重いな‥‥」 羽流矢の明るい笑い声が、寄合所に響き渡った。 ● 「実はな、祝言なんはじめてやねん」 忍装束のすぐり(ia5374)は、鼻歌でも始めそうな様子で香伊那の髪に椿油を擦り込む。腰にまで届く濡羽色の髪が、さらさらと肩から流れ落ちた。 彼女達が道中と町で受け取ってきた祝いの手紙の山を前に、香伊那が申し訳なさそうにうなだれた。 「ごめんなさい、まさか衣装まで用意してくれるなんて、全然思ってなくて‥‥」 「いいえ。お呼び頂きありがとうございました‥‥」 こちらは慶事の準備や着付けはお手のもの、柊沢霞澄(ia0067)だ。すっかり着慣れた精霊の衣の袖をたすきで絞り、手際良く香伊那の青白い顔に白粉をはたいていく。体調が優れないとの話は本当のようだ。 が、ふとその手が止まった。 「どうしたの?」 聞かれ、霞澄は口元をほころばせた。 「何を言いたいか忘れてしまうくらい、嬉しいです‥‥」 「嬉しいのは、私だって‥‥」 言いながら、香伊那はしきりに瞬きを繰り返す。既に、目が少し赤い。 「まだ泣いてしまうには早いわね」 銀髪を後頭部に高く結い上げた熾弦(ib7860)が、すぐりの反対側から鬢を整えながら微笑む。 その額からは、彼女の出自を示す黒い角が二本伸びている。 「ん、‥‥そうよね」 「そうよ」 首を動かした拍子に、千羽鶴を模した飾り簪が、小さな金属音を立てる。 「熾弦さんも、ありがとう」 「いいえ。助けがほしい人の助けになるのは、好きだから」 香伊那の右の鬢を整えた熾弦は、いよいよ髷を結いにかかる。 「お邪魔させてもらうのは少し気が引けたんだけど‥‥慶事なら、やれる事もあると思って」 「うん。本当に、ありがと」 香伊那は時折立ち上がり、時折座り、首を傾げ、顎を引き、三人にされるがままになっていた。 と、襖がそっと開き、ノルティア(ib0983)の緑色の瞳が覗いた。 「ノルティアちゃん?」 香伊那の顔がぱっと輝いた。 「こ、この度は‥‥結婚。おめでと、ございます」 おずおずと、ノルティアが頭を下げる。 「うん、ありがと。来てくれたのね、嬉しい‥‥やだ」 香伊那が指先で目尻を擦り、笑った。 「何か、泣き虫になったみたい」 「‥‥どう、したの?」 かくり、とノルティアの首が傾げられる。 「だって‥‥嬉しいんだもん」 と、ノルティアの頭の上に、燃えるような紅赤の髪と空色の瞳が現れた。 「この度は、本当におめでとうございます」 胸鎧の上から外套を羽織った女志士、ルエラ・ファールバルト(ia9645)だ。 「ルエラさんも。呼ぶのが遅くなってごめんなさい」 「とんでもありません」 ルエラは微笑む。 「式場の設営は終わったようですから、着替えが終わりましたら、お隣の家へいらして下さい」 ルエラの言葉に、すぐりがきょとんとした。 「控えの間、ここやないの?」 ノルティアが口籠もり、ルエラは目を泳がせた。 「少々‥‥お二人を甘く見ていたと言いますか」 「それじゃ‥‥準備、ある。から。焦げちゃうし」 「準備? 焦げ? ‥‥あの、うん」 ノルティアの言う「準備」の正体が解らない香伊那は、わけが分からないまま頷く。 銀色の大きな目を瞬かせ、霞澄が小首を傾げた。 「‥‥? それだけを仰りにいらしたのですか‥‥?」 「うん。花嫁、姿‥‥みんなより、先に、見ておこ‥‥て」 ノルティアは眩しそうに香伊那を見上げ、羨ましそうに目を細めた。 「じゃ、準備‥‥戻る。から。また、‥‥後で」 二人は微笑むと、再び襖を閉じた。 「‥‥はい、できあがり」 熾弦が香伊那に角隠しを被らせ、一歩離れて白無垢姿を頭から爪先まで眺める。 「うん、うん。きれい! ほんま、綺麗やよ」 「とてもお似合いですよ‥‥」 すぐりと霞澄が、満足げに微笑む。 「‥‥そう? 何だか、落ち着かないな」 香伊那は額に手を当てて眉根を寄せ、長く息を吐いた。 「お加減が宜しくないそうですが‥‥」 「うん、最近‥‥ちょっとね、あのその‥‥ちょっとだけ気持ち悪かったりとかね」 必ずしも憂いばかりではない表情で、霞澄が香伊那の身体を支える。 「あの‥‥ひょっとしておめでたではないかと思うのですが‥‥?」 途端、香伊那の白かった顔に血が上り始める。 「‥‥そうなん、香伊那?」 すぐりは屈み込み、そっと彼女の腹に手を触れた。 もじもじとしている香伊那の顔を真っ直ぐに見つめ、花の開くように笑う。 「や、やっぱり、そう思う?」 香伊那は頬を染める。 「駆名には、まだ‥‥言えてへんのやね?」 「ううん、言えてないっていうかね‥‥その。あの。うん。言えてないんだけど。身に覚えは、あるんだけど」 香伊那の顔はどんどん赤くなっていく。 「その‥‥ほら、私ずっと、十年くらい、駆名ちゃんを待ってたでしょ?」 すぐりの手が角隠しの下に伸び、香伊那の額を撫でた。 「駆名にまた何かあったら‥‥て、心配なん?」 「ううん、危ないことしてないから、大丈夫だと思うんだけど。駆名ちゃんを待ってる時にね、心配で‥‥その、ほら、止まっちゃう事が多くて。あるでしょ、そういうの」 熾弦が、顔をしかめた。 「それ、あまり良くないわね。ちゃんとお医者さんに診てもらった?」 「うん‥‥」 香伊那は顔を赤らめたまま、頭を掻く。 「それで、最近忙しかったからまた止まっちゃったかなって思ってて、でもやっぱり言っておこうかなって機会を待ってたら、火事とかあって、今に‥‥」 すぐりが、小首を傾げた。 「なら、祝言で言わはったら?」 「だだだだめだめだめだめ!」 香伊那は子供のように腕を縦に振り回した。 その顔は、今にも火を噴かんばかりだ。 「そんな、よよよよ嫁入り前に、こここどこど‥‥」 「もう嫁入りしてはったようなもんやないの」 「だめ! はずかしい! ね、駆名ちゃんには、自分でちゃんと言うから。みんなの前でだけは、堪忍して」 赤い顔で代わる代わる、三人にすがりつく。 霞澄と熾弦が、困ったように笑った。 「私は、もちろん構いませんが‥‥」 「まあ私も、告げ口するような趣味はないけど」 「うちも構へんけど。大胆なんか、慎ましやかなんか、解らんお人やね、もう」 人差し指で真っ赤になった香伊那の額をつつき、すぐりは彼女の前に屈み込む。 「ようけ笑うて、幸せな子を産んであげて」 ● 「おい誰か座布団借りてこい。無けりゃ風呂敷だ」 「先週炊き出しに使ってた鍋あんだろ、あれ持ってこい」 二人の祝言と聞いて、箔羅の人々が黙っていよう筈がない。人が人を呼び、寄合所には想定の四倍近い人数が押し掛けていた。 大広間に入りきらない人々を収容するべく、襖は控えの間のそれまで全て外されている。志狼の言う通り新郎新婦は追い出され、隣家に控えていた。 羽流矢の発案で折角作られた具沢山の鶏団子鍋は、申し訳程度に具が入ったすまし汁のようになっている。 「太一、うちの樽酒を持ってきなさい。駆名さんの祝言に酒が足りないなんてえ事じゃいけませんよ。ちゃんとうちの屋号が入ってるやつをね」 「どうせ客居なくて暇ぶっこいてんだ、茜屋の主人引っ張ってこい。不味い蕎麦でも無えよりゃましだ」 「うちの蕎麦が不味いだって」 様々に声が飛び交い、会場はいつまで経っても落ち着く様子がない。 しかし、 「さて」 朗々たる一声が行き渡り、座は時が止まったかのように静まりかえった。 「未だ準備の整わぬ所ではあるが、不足無きよう取り計らうゆえ、暫時待ってもらいたい」 それまで片胡座をかいて頬杖をついていた鬼島が、立ち上がっていた。 「本日は、大安吉日。未だ風は冷たけれども陽射しは暖かく、若き二人の新たな門出を祝すに相応しい一日となった事、まずは喜びたいと思う。本日司会進行を務めさせて頂く。鬼島貫徹」 拍手が寄合所に響く。鬼島は一度言葉を切り、軽く咳払いをもらした。 「そしてそれ以上に、かくも多くの人々が足を運んでくれた事、これを心より喜びたい。この一事だけで、両名の明るい未来は約されたも同然」 ひときわ大きな拍手が響き渡った。鬼島は満足げに一つ頷く。 「では、まず本日の主役を迎えたい。まずは新郎、駆名。先導するは、翡翠の守り、香伊那の命の危機を救った一人。騎士ノルティア」 拍手が起こり、庭に面する障子がそっと開けられた。 まず入ってきたのは、フリルシャツと暗緑色のスカートを着た銀髪の少女、ノルティアだった。瞳の色から髪飾りまで白と緑色で統一された姿に、胸の青珊瑚が一際美しい。 感嘆の声の中、髪を紐で縛り月白の羽織と紫黒の袴に身を包んだ駆名が、ゆっくりと鴨居を潜った。 「お嬢ちゃん、がんばれ」 誰かが囁く。好奇や憧れの混じった視線の雨が恥ずかしいのか、ノルティアはほんのりと頬を染め、駆名を先導して拍手の中を歩き出した。 足を止めたノルティアの前を通り、畳を重ねた雛壇へと上がった駆名が一礼を送ると、拍手は更に大きくなった。 「次いで新婦、香伊那。先導するは、町で駆名を待っている折から香伊那を守っていた優しく疾き忍。羽流矢」 駆名の通ってきた一帯から拍手が上がる。 だが香伊那の入場してくる側は、妙に静かだ。感嘆の声ばかりが上がり、香伊那の姿が見えない者達は、何ごとかと一斉に雛壇へ寄ってくる。 忍刀を提げ、黒い忍装束に生々しい傷の付いた脚絆。絵巻物の中から抜け出てきたかのような羽流矢が、片膝をついて障子を閉じている。 白い両手を腿の前に揃えて俯き、白無垢姿の香伊那は羽流矢の先導を待っている。障子越しの陽光と行灯の光しか無い部屋の中にあって、その姿は光を放っているかのようだ。 感嘆の声ばかりが会場に満ちる中、ようやく会場中から改めて拍手が沸き起こる。 「顔色が優れんようだが」 胴巻の上に大紋を羽織った志狼が、胡座をかいた膝に頬杖をつき、口の中で呟いた。 「緊張しているのか」 「何。まりっじぶるーという奴だろう」 拍手の音に混じり、鬼島は事も無げに囁く。 熾弦は僅かに身体を傾かせ、すぐりは笑いを噛み殺し、端に座った霞澄は視線を泳がせた。 羽流矢の先導に従い、香伊那は足一つ分も無い小さな歩幅で、畳の上を静かに歩いていく。纏う空気は凜と冴え渡り、まるで香り立つかのようだ。 雛壇へ上がった香伊那は、雪が舞い落ちるかのようにそっと腰を下ろした。ぽかんとしている駆名へ、ちらりと視線を向ける。 「変?」 「ば、馬鹿」 どぎまぎする駆名を見て、香伊那は嬉しそうに口元をほころばせた。 拍手の音を両手を挙げて制し、鬼島は深く頷く。 「ではまずここまでの経緯を、しかと皆に知っておいてもらおうと思う。が、これは香伊那との付き合いがより長い者に場を譲りたい」 鬼島は含み笑いを漏らし、きょとんとしているルエラを手で差した。 「こちらも羽流矢、そしてノルティア同様、香伊那が町に留まっていた折から彼女を助けていた。香伊那の危機を知り駆け付けた紅赤の志士、ルエラ・ファールバルト」 感嘆の声と共に、再び拍手が起こる。全く聞いていなかったルエラは珍しく狼狽したが、鬼島に手で催促され、腹を括って立ち上がった。 「‥‥では、不肖の身ながら、精一杯務めさせて頂きます」 胸に掛かる紅赤の髪をはらりと背へ流したルエラは、香伊那の生い立ちから話し始める。 「香伊那さんのお母様が奇病を召された頃から、お二人の縁は始まります‥‥」 病気が移ると言われても、構わず香伊那の家に遊びに来ていた駆名。 開拓者になると言って家を飛び出し、開拓者になり、箔羅で戦っていた駆名の十年。 そして、その帰りをひたすら待っていた、香伊那の十年。 名家のどら息子にちょっかいを掛けられながらも、香伊那の心が頑として動かなかった下りでは、感嘆と拍手、野次が沸き上がった。 ルエラの名調子は駆名の手掛かりを得た香伊那が箔羅の町へ飛び込む下りへと差し掛かる。 俯きがちに聞いていた駆名と香伊那の視線が、何となく空中で重なった。 暫くそうして見つめ合った後、 「‥‥ん?」 「なあに?」 尋ね合い、互いに視線を逸らしてしまう。その口元は、幸せそうに緩んでいた。 「‥‥そして立ち上がった皆様の前にはシノビ達も抗いきれず、駆名さんと、十年、いえ、それ以上に彼を思い続け、待ち続けていた香伊那さんは、駆名さんの無事な顔を見る事ができたわけです」 歓声と拍手が沸き上がる。 続いてルエラが懐から正絹の包みを取り出し、香伊那の手に握らせた。 「香伊那さん、駆名さん、この度はご結婚おめでとうございます」 ルエラに目で催促され、香伊那が包みを開ける。それは、彼女の手に納まる程度の財布だった。口を開くと、幸運の象徴である白蛇が描かれている。 「ではこの辺りで説明を結ばせて頂き、お二人、並びにご参列下さいました皆様の末永いご多幸をお祈り申し上げ、司会の鬼島さんへと襷を繋がせて頂きたく存じます」 即興にも関わらず、淀みなく、一語たりとも忌み言葉を交えることなく、ルエラは二人の紹介を終えてた。 割れんばかりの拍手が巻き起こる。 止まない拍手の中、二人の視線が再び重なり合う。 「‥‥何だよ?」 「なあに?」 途端、 「二人だけの世界に浸るんなら、祝言の後にしとけよ」 遠慮のない野次にやんやの喝采が沸き上がる。 いつの間に進み出ていたのか、年端も行かない子供が二人、香伊那達の前に花束を差し出していた。二人の顔が火を噴く。 祝言がよく解らない子供達は新郎新婦に花束と勢いの良い一礼送り、顔を赤くして照れ笑いを浮かべ、逃げるように廊下へと走り出てしまった。 障子越しに漏れ聞こえてくる、子供達を褒める声に口元を緩ませながら、鬼島は頷く。 「では、三三九度へと移ろうかと思う。これを務めるは、我ら一同と香伊那の命を陰より日向より守っていた慈愛の聖女、巫女の柊沢霞澄。そして修羅の隠れ里で神事や祭事を務めていた戦巫女、熾弦」 霞澄と熾弦が緩やかに立ち上がり、霞澄が二人の前へ、熾弦が棚の前へ、しずしずと歩み出る。 朱塗りの三方に重ねられた小杯を熾弦が取り上げ、二人の前へ置いて下がる。次いで銀製のひさげを捧げ持った霞澄が進み出、杯に小さく二度、やや長く一度、神酒を注いだ。 志狼は目を細め、口の中で囁く。 「俺の得られなかったものを、駆名と香伊那は手に入れてくれるだろうか‥‥」 その太腿を、そっと抓る手があった。 「もう。当たり前やないの」 すぐりだった。 香伊那が、駆名に続いて三口に分け神酒を飲み干している。 「そうだな」 その姿を見やり、志狼は目を細めて頷いた。 「当たり前だな‥‥」 ● 会場が、奇妙なざわめきに包まれていた。 ルエラと熾弦、そしてノルティアが、苦笑いを浮かべてジルベリアのウェディングケーキを切り分けていた。 が、その大きさが尋常ではない。 「粉屋の方が、予想外に沢山持ってきてくれたものですから‥‥」 「‥‥割合、あってれば‥だいじょぶ、かな‥‥て」 ケーキを作っていた二人が、引きつり笑いを浮かべる。 「‥‥ちょと。おっきい、すぎた」 三段に積み重ねられたそれは、床に置いてもノルティアの頭まで届くほどだ。ルエラや熾弦達が近所の人々を集めたのは、幸いだった。 見た目に似合わず甘党の志狼が、やや大きめの一切れを角皿に乗せて会場を見回す。 「主賓はどうした」 「ケーキに入刀した後、お色直しに行ってるけど。もう、戻ってきても良い頃じゃない?」 熾弦の声を掻き消すかのように、会場が一斉に沸いた。 香伊那が髪を解き、黒いバラージドレスを身に纏って登場したのだ。やんやと声を上げる男達の脇や尻を、女房達が強烈につねり上げている。 質感の無い胸元はいかんともし難いが、それなりにくびれた腰が顕わになり、スカートに入った幾つもの深いスリットからは、滑白い足が太腿まで覗いていた。 「ちょ、ちょっと‥‥大胆すぎないかな」 「とてもお似合いですよ‥‥」 微笑み、霞澄が障子を閉じる。 悲鳴と歓声が飛び交う会場の中、白い丸皿二枚に大きく切り分けたケーキとジルベリアのフォークを乗せたノルティアが、二人へと小走りに近寄った。 「ケーキ。食べるときは、まず‥‥二人が」 「ありがとう」 恥ずかしそうに素肌を隠している香伊那に代わり、水色の生地に桜の花弁が刺繍された華やかな羽織に着替えた駆名が皿を受け取る。 「あーん、て。食べるん、だって」 ノルティアが、天使の笑顔を浮かべた。 「えっ」 二人の顔が、ひきつる。 「‥‥食べるんだって」 ノルティアの翡翠色の瞳が、期待に充ち満ちて二人を見上げている。 「駆名、許す、やれ」 「香伊那ちゃん、食べさせてあげなさいよ」 二人は皿を持ったまま、もじもじと互いの顔、そしてケーキを見比べている。 「食べる‥‥ん、だって」 ノルティアの翡翠の瞳が、不安げに少し潤む。 「う、うん、食べるのね、大丈夫」 視線の破壊力に破れた香伊那は慌てて笑顔を見せ、いそいそとケーキにフォークを入れた。 「おっ」 「おおっ」 一同が、駆名に合わせて一斉に口を開く。香伊那のフォークに刺さった一切れを、駆名は赤くなりつつ、頬張った。 男達が一斉に囃し立てる。 ケーキの甘さを味わう余裕もなく、ノルティアの視線を感じながら、今度は駆名が慣れない手つきでフォークを使う。 今度は女達が一斉に声を挙げる中、香伊那の口へとケーキが差し入れられた。 「‥‥こんな感じ?」 「よく、でき‥‥ました」 ノルティアはけろりと微笑み、元の座布団へと戻ってケーキを頬張り始めた。 狐に摘まれた様な顔で、新郎新婦が顔を見合わせる。 と、鬼島が大きく一つ、手を打ち鳴らした。 「さて、新郎新婦の色直しも済んだ。ここで悪しきものを祓うべく、剣舞の披露をしたく思う。雛壇の前を開け、離れた者も見えるよう身体を低くしてもらいたい」 その声に従い、見る間に会場の見通しが良くなった。 「舞うは猛き守護者、蘭志狼。望月一派の鬼組首領、青葉鉄造を一騎打ちにて討ち果たせし侍」 一同がざわめく。 「青葉って、あの青葉かい」 「そんなこと、できるの」 囁き合う人々の間を縫って、志狼が進み出た。 「この佳き日に立ち会える事を、喜ばしく思う」 志狼の一声で、座が水を打ったように静まりかえる。 静寂の中、大紋の発する衣擦れと胴巻の発する金属音がいやに大きく響いた。 唇を真一文字に引き結び、暫し言葉を探していた志狼だったが、 「‥‥他に言うべき言葉が見つからんな」 口の端に苦笑を浮かべ、熾弦に借り受けた霊剣「荒魂」を抜き放つと、大きく一つ逆袈裟に打ち振るう。 「無粋者ゆえ、このような贈り物しかできんが‥‥笑納頂きたい」 顔を上げ、天井の高さをいっぱいに使って、唐竹割りに刀を振り下ろす。刀を肩に担ぐ。 その動きを見て、鬼島の表情が僅かに動いた。 左拳が前へ翳され、上半身が大きく反る。反動をつけた渾身の切り下ろしが、鋭い音を立てて風を切る。気の弱い者達は、その音だけで首を竦ませた。 いわゆる剣舞とは違い、華やかさはない。簡潔で素朴、それ故に力強く剛毅。 小さな手を合わせて記憶の糸を手繰っていたノルティアが、ふと息を呑んだ。 鬼島だ。志狼の剣舞は、鬼島が老望月と繰り広げた死闘を、なぞっている。 志狼が半身となり、輝く銀髪が弧を描く。 眦を決して虚空を睨むその先に、忍刀を逆手に握った老望月の、禍々しい笑みが見えるかのようだ。ノルティアは、思わずきつく拳を握り締めた。 宙に一瞬静止した銀髪が重力に捉えられ、緩やかに下へと降りていく。 髪が下へ向かって伸びきるその瞬間、障子が、天井が、畳が、柱が震えた。 それが志狼による気迫の一声と人々が理解するよりも早く、荒魂の刀身は黒い影となって障子越しの光に溶け、畳の半寸上で停止していた。 二秒前までその場に疑いなく滞留していた禍々しい空気は、今や霧消していた。同じ事を参列者も感じ取っていたのだろう、一斉に安堵の息が漏れる。 光の加減による七色の輝きが誰からも見て取れるよう、ゆるゆると角度を変えて刀身が持ち上げられた。 「先刻、大層な紹介をして貰ったが」 志狼は口角を上げた。 「俺なぞの働きでは及びもつかぬ、我ら一同の大立者がいる。とぼけた顔で司会を務めている男、抜山蓋世、鬼島貫徹。望月一族の影の首領を討ち果たした男だ」 一同が、一際大きくどよめく。 「何、大したことではない。それに今回の主賓は、この両名」 鬼島はすげなく言い、志狼の納刀を見届けると、 「さて、この舞いの後にて、邪なるもの、悪しきものはこの場には居られまい。ここらで一つ、皆に両名の結婚の承諾と、その立ち合いを願いたい。これを皆に願うは、香伊那を必ず駆名に会わせると約定し、それを言葉通り守って見せた忍。すぐり」 「そ、そこでうち?」 大きな目を丸くし、すぐりは自分を指差した。 「ここまで名が上がっていなかったのだ、予測していたろう」 当然といった顔の鬼島に急かされ、すぐりはしぶしぶ立ち上がる。 期待の目を一身に集め、困惑顔のまま人差し指で頬を掻いていたすぐりが、迷いつつ口を開く。 「ん、もう。まあ‥‥これは、二人だけで祝言挙げとるわけやのうて。ほら、ここにいるみんなで、お祝いするもんやんね? せやから、ええと‥‥承認と、立ち合いて言うたかて‥‥」 すぐりは助けを求めて鬼島を見るが、素知らぬ顔しか返ってこない。 だが、 「頑張って」 香伊那が小さく口の中で囁いた。 狼狽えていたすぐりはその一声で我に返り、彼女のお腹にちらりと視線を向ける。 「せやから、‥‥うん、拍手? でええよね? うん、ほな拍手で。二人の結婚を認めてくれはるお人は、みんな、拍手して」 いの一番に、梢が小さな手を叩き出した。 二人が一同を見回す間に、拍手は一気に広がり、割れんばかりとなり、万雷となる。 寄合所どころか、辺り一帯で拍手が起きているかのようだ。香伊那と駆名が目を潤ませ、きつく手を握り合った。 「お、何とか承認に間に合ったかな」 両手に近所で借りてきた座布団を抱え、足で障子を開けた羽流矢が指先で拍手に加わる。 「羽流矢さん? どうしたの、その座布団」 「ま、折角盛り上がった所だし、余興と思ってさ」 羽流矢は笑い、借りてきた座布団を一所に重ねると、懐から取り出したもふらさまのぬいぐるみを上に乗せた。じきに拍手が止み、何ごとが始まるのかと人々が雛壇の回りに集まってくる。 「宴と来たら、余興がつきものだろ」 一つ深呼吸をし、羽流矢が中腰で最上段の座布団に手を伸ばした。 「よ、待ってました」 そこへ絶妙の間で、火消し装束の男が声を掛ける。 羽流矢の手が閃いた。ぬいぐるみは高々と宙を舞い、最上部の座布団がくるりと反転する。 落ちてきたぬいぐるみは尻から座布団に落ち、そして、そのまま畳へと転がり落ちてしまった。 「おいおいおい、縁起でもねえ」 落胆の声と失笑が重なる。 が、 「判ってないわね。これをやってるのは、羽流矢君一人。座布団の上に乗ってるのも、ぬいぐるみが一つ。一人きり、一つきりじゃだめってこと」 熾弦が当然とばかりに言う。 顔色を変えていた羽流矢は熾弦に目で礼を送るが、熾弦は素知らぬ振りだ。が、その口元が微かに綻んでいる。 「さ、ここからが本番だ」 羽流矢は気を取り直し、もう一つのぬいぐるみを座布団に乗せた。 軽く手招きをし、居心地悪そうにしている竜真を呼ぶ。 「え、俺?」 「そう。みんな、この竜真が香伊那さんの危ない所にいの一番で駆け付けたんだ。こいつも立派な志体持ちでさ」 一同がどよめいた。狼狽える竜真の背を、そっと梢が押す。 羽流矢は竜真に何やら耳打ちをし、風呂敷を取り出した。三六の畳ではない、正方形をした半畳の畳の上にそれを敷く。 竜真が、つがいになったぬいぐるみを乗せたまま、座布団を風呂敷の上に置く。ついでに、隣の畳を僅かに浮かせてずらした。 羽流矢の、明るい茶色の目が細められた。 「行くぞ」 竜真の手が、風呂敷の両端を持って渾身の力で引き抜く。羽流矢の手が、竜真の作った畳のすき間に突き込まれる。爪が床板を擦って高い音を立る。親指の腹が半畳の畳を横から押す。 横にずれ始めた畳は、竜真の風呂敷抜きで微かに浮いた座布団の下面すれすれを動いていく。が、隣の畳に乗り上げていくにつれ、少しずつ角度がついていく。 羽流矢の手と共に畳は半円を描き、座布団の下から引き抜かれた。 角度のついた畳に押され、座布団の塔が傾く。 横へずれ始めた座布団は、果たして板敷きに着地し、それ以上傾きを増すことなく静止した。つがいのぬいぐるみは、見事座布団の上に踏みとどまっている。 いつの間に仕込んであったのか、畳の下に置かれていた紙吹雪が、畳に跳ね上げられて横へと舞っていた。 「さっきまでは、天井が板、床が畳。今は天井が畳、床が板」 羽流矢の引き抜いた畳は表裏逆になり、ぬいぐるみの上に翳されていた。 「天地がひっくり返っても嫁さん離すなよ」 この日一番の拍手喝采が沸き上がる。 羽流矢は大きく息を吐くと顔をあげ、新郎新婦に向けて白い歯を見せた。 「幸せになっ」 香伊那は目に滲む涙を手の甲で拭い、声を出す事も出来ずに頷く。駆名がそっとその背を叩いた。 「結婚おめでとう。心からおめでとう」 羽流矢は安堵の息を吐きながら畳を置き、隠しに入れてあった桐の箱を香伊那に差し出す。 「これ、俺からな」 「ありがと‥‥やだ、もう‥‥泣いちゃう‥‥」 堪える程に溢れる涙を持て余し、香伊那は手を出せない。 「お二人に精霊のご加護がありますよう‥‥」 霞澄が珊瑚色の唇を綻ばせ、そっと目を閉じた。 人差し指で目尻の涙を拭っているすぐりに気付き、志狼はちらりと横を見る。 「泣いているのか」 「‥‥ええの。二人と、みんなが眩しゅうて」 香伊那に代わり、目尻に涙を溜めた駆名が、羽流矢の差し出す桐の箱を受け取る。 指では涙が拭いきれなくなり、すぐりは掌で目をこすった。 「ほんまに、ええご縁もろた」 「ここまで色々あったふたりだからこそ、これからは毎日が輝かしいものであって良い」 鬼島の声に重なるようにして、誰からともなく乾杯の声が上がった。ノルティアとルエラが丹誠込めて作ったケーキは、瞬く間に無くなっていく。 「ただ、そう願う」 羽流矢の入ってきた障子の隙間から、綻び始めた紅梅の硬い芽が見える。 ノルティアは小さな手を組み合わせ、静かに目を閉じた。 「これからも‥‥二人、と皆に。沢山の、幸せ。ありますように」 春はもう、すぐそこだ。 |