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■オープニング本文 前回のリプレイを見る ● 「おう、何てえざまだい」 微かに、男の目が開いた。 夕刻の、三倉の町。薄暗い日陰の路地裏で、一人の男が筵も敷かず地べたに転がっていた。 桑染色の肌はあちらこちらが気泡のように膨れ上がり、背中はいびつに曲がり、呼吸は短く浅い。頬の肉は削げ落ち、手足は枯れ木のようだ。誰が見ても、一目で虫の息と解る。 経てきた年の深みを感じさせる皺だらけの顔が、気遣わしげに眉をひそめて男の顔を覗き込んでいた。白髪から覗いた狐耳を覆う毛にも、白いものが混じりだしている。 「へへ、旦那」 男は蚊の鳴くような声を発した。 「ご覧の通り、前世の行いが、悪かったと、見えやして。移りやすぜ、他所へお行きなせえ」 「馬鹿言うんじゃねえ、死にかけてんじゃねえか」 老神威人は男の胸倉を掴み上げて肩を貸す。 男は、浅い呼吸に声を混じらせるように囁く。 「このまま、死なせて、くれやせんかね。これ以上、苦しむのぁ、ご免被りてえんで」 「寝言は寝て言えってんだ」 老神威人はぴしゃりと言い、男を引きずって暗い裏路地を歩き出した。 「旦那、移りやすから。お気持ちだけで、十分でさあ」 「気持ちを受けるんなら、ついでに手当も受けてくんねえ。目の前で死にかけてる人間を見捨てたんじゃあ、永徳の名折れってもんだ」 「お人好しなこって」 男は荒い息をつきながら、引きずられるようにして暗い路地から表通りへと歩いていく。 「おう、家族も面倒見ちゃくんねえのかい」 「へえ。業病と、わかった途端、女房に、追い出されやして」 「そいつぁ災難だったねえ。悪妻は百年の何とやらだ」 陽の射さない裏路地から、老神威人は表通りへと歩み出た。 「そこの鯔背な兄さん、岸田の屋敷に医者を呼んでくんねえ。重病人だ、町一番の医者にな、用意できるどんな薬も持って来いっつっといてくんな。それから巫女だ。死神も尻っ端折りして逃げ帰っていくような巫女を呼んできてくんな、町にいなきゃ隣町に狼煙だ」 横手から町を貫く冬の夕陽に、男は目を閉じた。 ● 「おう、何てえざまだい」 微かに、蜘蛛助の目が開いた。 「へへ、旦那」 仰向けに転がったまま、蜘蛛助が微かに笑う。 「旦那に拾われた時の夢を見やしてねえ。せっかくいい心持ちだったんですがね」 「馬鹿言うんじゃねえ、死にかけてんじゃねえか」 蜘蛛助の隣に屈み込んだ仁兵衛は、ひとまず蜘蛛助の呼吸が落ち着いている事を確かめて安堵の息をつく。 「皆さんはどっちへ行ったか解るかい」 「へえ、西の方へ。隠れ場所のそばに蜂の巣があったんで、そこで一匹蜂を捕まえやしてね」 身体を起こそうとした蜘蛛助の身体を、仁兵衛は慌てて押さえつけた。 「寝てろ、寝てろ。もうちっと詳しく、場所は解んねえか」 蜘蛛助はすまなそうに目を閉じる。 「申し訳ありやせん」 「そうか。なあに、きっと派手に一戦やらかしてんだろう。音を頼りに行きゃあっと言う間だ」 仁兵衛は蜘蛛助の口に符水を流し込んだ。 「ったく、あたしに預けた命だろうが。死んだらどうすんだ」 「へえ、お預けした命、ちっと手前のために使いてえ事情ができやして」 蜘蛛助は満足げに微笑む。 仁兵衛は白髪を掻き回し、空に向かって溜息をつく。 「そんならそうと、一言断りを入れやがれ」 「仰る通りで」 「この馬鹿野郎」 薄く笑みを浮かべる蜘蛛助の顔を、仁兵衛は苦笑しながら小突く。 「さ、旦那、せめてご案内くれえは」 蜘蛛助が上半身を起こそうとする。その頭を、仁兵衛が軽く殴った。 「だから寝てやがれってんだ。人の話を聞いてんのか」 「へえ」 蜘蛛助は申し訳なさそうに首を竦め、目だけで仁兵衛の隣に立つ人物を見た。 「あの、そちらの御仁はどちらさんで」 ● 「薬」 握り潰した鞘を投げ捨て、古屋の両手が打刀を振るった。 足下の枯葉が渦を巻いて舞い上がり、無数の不可視の刃が正面に立つ木を出鱈目に斬り刻む。幹の半ば程までを一撃で削り取られ、雷鳴の如き音を上げて木が倒れた。 「薬」 唸り、古屋が涎を垂らしながら一歩踏み出した。 「外道が」 護衛らしい男二人で左右を固めた影政を睨み付け、真朱は下がるどころか、指に挟んだ符を翳して歩き出す。 「お裁きを受けさせるまでもねえ。殺してやるよ」 真朱の指に挟まれた符が、薔薇の花弁にも似た色の炎と化して地面に落ちた。 「へ、お裁きと来たか。三倉は半自治が認められてんだ。親分があのざまで、今、誰が俺を裁けるもんかよ」 影政は哄笑を上げた。 「そもそも、俺が手前の才覚で手に入れた金と縄張りで、ろくに金も払おうとしねえ奴を守る理由がどこにある。女郎が女郎の仕事もしねえで遊びにうつつを抜かしてやがる方が、よっぽど筋の通らねえ話だろうが」 「違います」 珊瑚が、震えながらも影政の顔を睨み付ける。 「お店のみんなは、普通に生きたいだけなんです。だれも、好きこのんでお店にきたわけじゃないのに」 「あらあら。お嬢ちゃん、一丁前の口を利くじゃない」 鼻に掛かった声が、笑みを含んで珊瑚に掛けられた。 あちこちの破れた小袖を身に纏い、大弓を握った菊池が、木立の間から顔を出した。 「あたし達の役にも立てなければお金も払えない奴が、何夢見てんのよ。人買いに売り払ってお金に換える所を、お情けで置いてやってるのにさ」 珊瑚が息を呑み、一歩後退る。 菊池は後ろに、三人の男を連れていた。影政。古屋。菊池。護衛二人。 影政は低く笑い、指輪を填めた両手を胸の前で向かい合わせた。 「人の世ってのはな、損か得かの算術で成り立ってんだ。損にしかならねえ奴のために手前の得を吐き出す奴が、この世にいるかよ」 「真朱さまは、一人ぼっちの私を」 「影政。あんた、口喧嘩でもしに来たのかい」 珊瑚の叫びを、真朱の静かな呟きが遮った。 真朱の荒れた唇から、誰にも聞き取れない囁き声が漏れる。地に燃え落ちた符が、炎と同色の霧となって辺りに広がっていく。 その足下の地面が、僅かに蠢いた。 「珊瑚、下がってな。十丈四方にいたら、死ぬよ」 「心配しなくても、あんたと珊瑚は殺さないわよ。もっとも、連れの連中はここで山の肥やしになってもらうけど」 菊池が喉の奥で低く笑い、影政の両手の間に、渦巻く黒雲が生まれた。 十丈四方、という言葉一つで真朱の意図に気づいた珊瑚が、血相を変えて後退る。 「昔の人間は、なるほどよく言ったもんだね」 地面の下から、土気色の指が突き出した。 「馬鹿は死ななきゃ治らないってやつだ」 真朱の全身から、瘴気が炎の如く立ち上った。 |
■参加者一覧
柊沢 霞澄(ia0067)
17歳・女・巫
鬼島貫徹(ia0694)
45歳・男・サ
十 水魚(ib5406)
16歳・女・砲
カルフ(ib9316)
23歳・女・魔
乾 炉火(ib9579)
44歳・男・シ
稲杜・空狐(ib9736)
12歳・女・陰 |
■リプレイ本文 ――(それなのですが。真朱さん) 小柄な身体に六尺近いトネリコの杖、そして身体の半分ほどをも覆い隠す大盾を持ったカルフがそっと真朱の側に寄り、背伸びをして何やら耳打ちを始めた。 一度、二度。真朱がカルフの言葉を聞いて頷き、その口許に会心の笑みが浮かぶ。 (あんた。天才じゃないか。やっとくれ)――(誤算) ● 「おいおいおい!」 短銃の火打宝珠を起動していた乾炉火(ib9579)が顔に巻いた手拭いの下でくぐもった声を上げ、左手に持っていた白球を放り出して逃げ出す。 「身内の為に怒れる辺りは嫌いではないですけど‥‥」 長銃を構える暇もなく、厚司織の上に小袖を着込んだ黒髪の神威人、十水魚(ib5406)は黄金色の尾と耳に枯葉をつけながら、地面を転がって手近な窪みの中へ飛び込む。 そんな中、 「真朱!」 青白い炎を灯す符を握った紅白の狐面が叫んだ。 水干に身を包んだ金毛のエルフ、稲杜空狐(ib9736)だった。真朱が我に返り、式の発動を一刹那躊躇う。 だが、続く空狐の叫びは、彼女の予想を遥かに上回っていた。 「珊瑚はクーコが護るです。ぶちかましちゃえーなのですよっ」 「よく言った」 真朱は凄絶な笑みを浮かべ、打ち合わせた両手を大きく開いた。 地面から、土で汚れた女の顔と上半身が現れる。血走った目が辺りを見回し、お歯黒の残った口が大きく開いた。 「やばい、下がれ!」 空狐の放っていた毒蟲をはね除けた影政が舌打ちを漏らし、後方へ跳ぶ。動き出しかけた用心棒達が、一斉に東へと走り出す。 山々に、耳をつんざくような絶叫が木霊した。 草花が瞬く間に萎れ、木々の幹にひびが入る。落ちた枯葉が浮かび上がり、砕け散っていく。 逃げ遅れた弓術士が地面に手足をつき、口から夥しい量の血を吐いた。 「こ、この女」 弓を引いていた菊池は悲恋姫から逃げ遅れ、口と鼻から血を流しながら、這いずって距離を取る。 「あのすぐに手が出てしまう所を、どうにかして欲しいですわね」 冷たい汗をかきながら、水魚が伏射の姿勢で長銃を構える。 「聞こえてるよ、水魚」 振り返らず、しかし笑みを含んだ声で真朱が声を掛けた。 「悪いが、こいつぁ性分でね」 「本当に悪いと思ってるなら、直してほしいですわ」 「考えとくよ」 真朱の手で、符が一枚握り潰される。 直後、炉火の投げ出していた白球が炸裂した。着火が終わっていたのだ。菊池は悲鳴を上げ、全身に突き刺さった鉄菱を払い落とす。 「こないだ面白ぇこと言ってたな。姉ちゃんの尻を追い回すには早いんだっけか?」 「この‥‥」 白い歯を見せ中指を立てている炉火の顔を、菊池が怒りに燃えた目で睨み付ける。 強弓から放たれた矢は、しかし地面から突如沸き上がった黒雲に弾き飛ばされ、茂みへと消えた。 「稲杜さん、珊瑚さんをお願いします」 四尺強の身体を真っ赤なローブに包み、同色のとんがり帽子を被ったカルフ(ib9316)が、文字通りの鉄壁を真朱と影政達の間に打ち立てたのだ。 次いで真朱が、影政達と自分の間を塞ぐようにして、光沢のない漆黒の壁を打ち立てる。進路を遮られ、東から迂回してきた槍持ちの用心棒が立ち往生した。 「さあこっちに来な。いい声で啼く女は好きだろ」 真朱が壁越しに叫んだ。 ――蜂が、木漏れ日の中に咲く花に留まった。 一行が考え込む。 (‥‥これは、泳がされてますわね) 首を回すふりをして、水魚がそれとなく辺りを見回した。 (固まって動いていれば、少々勘が働く相手なら、こちらが手掛かりを得ている事に気づくでしょうし)――(一念) ● 焙烙玉を放った炉火目掛け、古屋が疾駆する。 カルフの手に握られた短剣が赤い輝きを放ち、同色の光が古屋の眼前を横切った。 「前に誰か居てくれると、やり易いのですけど。ままならないですわね」 水魚はぼやきながらも、鉄壁を越えて聞こえてくる音を頼りに愛銃「クルマルス」を構えた。両手から銃把へ流れ込む練力が、銃身を伝って銃口へと集まっていく。 カルフの打ち立てた鉄壁のすぐ裏へ、一足飛びに足音が近付く。水魚は左目を閉じ、右目とクルマルスのフロントサイト、鉄壁の左端を一直線に並べた。 足音が、向かって右へ動く。 逆を突いてくることも、早駆を使わずに出てくることも無い。今鉄壁の裏で足を止めれば、悲恋姫の効果範囲にとどまることになる。一刻も早く乱戦に持ち込むことが、前衛を備えている敵にとって最も有利になる。 考えるよりも速く、水魚のクルマルスが火を噴いた。銃身を包み込んでいた練力が弾丸の軌道を包む炎の螺旋となり、誰もいない空間へと襲い掛かる。 弾丸と炎が無為に木の幹へ激突しようとした瞬間、鉄壁の陰から人影が飛び出した。驚愕の表情で走り出てきた忍は止まりきれず、炎の中に頭から突っ込んでいく。 クルマルスの発した轟音が、次いで吹き飛ばされた忍の身体が、木の幹を揺らした。 右前腕を炭化させた忍の視界に、銃口の前で膨れ上がりつつある火球の光が映る。 目を切っていた一秒の間に、水魚は装弾を終えていた。 クルマルスの銃声と共に、大地が震えた。水魚の視界が白く塗り潰され、全身の感覚が無くなる。後頭部に、背中に何かが触れる。誰かが、悲鳴を上げている。 悲鳴の主がまさに自分であることに気付いたのは、胸から地面に叩きつけられた後だった。 「ちっ、一人だけか」 真朱の結界呪符が極大の雷撃に消し飛ばされ、その向こうに影政の姿が見えていた。視界が遮られたのに乗じ、前方へと出てきていたらしい。樹枝状の電紋が浮かび、殆ど感覚の無くなった手足を必死に動かして、水魚が影政の射程から逃れる。 同時に、鉄壁の陰から刀を握った用心棒が飛び出した。水魚が、痺れてまともに動かない手で銃を構え直す。 その前に立ち塞がる、赤い人影があった。 カルフだ。短剣の柄に填め込まれた宝珠を額に当てるや、水魚の肌に浮かび上がった電紋が消えていく。 用心棒が、飛び込みざまカルフのとんがり帽子目掛けて打ち込んだ。カルフは身体の半分以上を覆い隠すベイルを翳してその一撃を受け止める。物打ちがベイルの端に食い込み、鋒がカルフの額を割った。 だがカルフは退きも守りもせず、明後日の方角に向けて短剣を振るう。 返す刀がベイルを越え、カルフの下腹部を裂いた。 「カルフさん」 まだ手元の覚束ない水魚のクルマルスが火を噴き、用心棒の身体が紙切れのように宙を舞う。 血の一滴も流さず背中から地面に激突した用心棒は、どこにも銃弾が突き刺さっていない身体を、訝しげに確かめた。 「ご無事ですか」 叫ぶカルフの踝を、電光の如く飛来した菊池の矢が射抜いた。骨を砕かれ、足を地面に縫い止められたカルフが小さく悲鳴を上げ、倒れ込む。 「助かった」 カルフは、古屋を相手取っている炉火の怪我を癒していたようだ。炉火が怒鳴り返してくる。 好機とばかりに用心棒が立ち上がり、取り落とした刀を拾った。矢を抜こうと歯を食いしばっているカルフに向けて駆け出し、再び不可視の銃撃に胸を強打され、もんどり打って地に転がる。 「く、空撃砲か」 遠くから、軽い足音が近付いてくる。否、もう一つ、重い足音も。 忍を撃ち倒した強弾撃ばかりを警戒していた用心棒は、水魚の攻撃の正体と、それによって貴重な時間を浪費させられていた事に漸く気付いた。 ――小さな影が、斬り結ぶ鬼島と志士の脇を通り抜けた。 (‥‥普通の子供が巻き込まれるのは間違ってるわ‥‥だから) 空狐が、階段目掛け走り出したのだ。だが、まだ階段には志士が一人残っている。 (危ない、空狐) 真朱が叫んだ。 志士が階段の壁に足を叩きつけて道をふさぎ、刀を振りかぶる。 (‥‥珊瑚は絶対に守ってみせるのですっ!) 身体を小さく縮こまらせ、空狐は目を閉じて刃の下に飛び込んだ――(誤算) ● 「空狐さん」 珊瑚が、自分を庇うようにして立ち前方を睨んでいる空狐の袖を引いた。 忍が一人、鉄壁を迂回して突進してくる。 空狐は珊瑚の手を引き、下がるどころか影政のいる方角に進み始めた。 出鱈目に漆黒の結界呪符を打ち立てながら、真朱が怒鳴る。 「空狐、任せたよ」 「勿論なのです」 空狐が叫び返す。 珊瑚が、見習いの符をきつく握り締める。符はあっという間に蒸発して見えなくなり、不可視の刃となって、上方の葉陰へ消えた。 注意を上に逸らした忍が、短く悲鳴を上げた。空狐達は、撒いておいた撒菱を間に挟むよう動いていたのだった。忍の足を、撒菱が甲まで貫いている。 片足を持ち上げ、撒菱を引き抜く忍の頭に、今度は珊瑚の斬撃符が切り落とした木の枝が落ちかかった。仰天した忍は別の撒菱を踵で踏み付け、体勢を崩して尻餅までつく。 その首に、薄く透き通る青白い手が触れた。 「本当に強いというのは、自分が苦しい時、他の誰かに水を薦められる事‥‥」 いつの間に現れたのか、青白い肌に死装束に包んだ女が、忍の背にすがりついていた。血の気の無い透き通る唇がゆっくりと開き、忍の耳朶へと近付いていく。 女の肌と同色に燃え上がる符が空狐の手を離れ、木立を渡る風に舞った。 「貴方達は死ぬまで理解出来ないでしょうけどね」 渾身の瘴気を込めた死の呪詛が、忍の耳から脳内へと注ぎ込まれていく。夥しい瘴気に冒され全身の肌を紫色に変色させながらも、忍は撒菱を足に刺したまま立ち上がった。 細首目掛け、忍刀が突き下ろされる。空狐が咄嗟に後方へと面を転がる。鋒が柔らかい頬を裂き、水干ごと胸を浅く斬った。血を流しながら空狐が更に下がる。忍が足を上げ、今度こそ刺さった撒菱を抜いて捨てた。 刹那、水干の袂をはためかせて地に降り立った空狐の瞳が横を向く。 「霞澄、今なのです!」 反射的に忍が防御態勢を取った。撒菱は抜いている。足は容易に動く。「カスミ」が来るのと逆の方向に、撒菱はない。忍が、空狐の視線と反対方向へと飛び退った。 開拓者達の術や剣戟の音だけが、三人の間に満ちる。 撒菱に気を取られ、空狐のはったりに掛かったのだと忍が気付くよりも早く、忍の肩に呪声の式が手を掛けた。 死の予感に心臓を鷲掴みにされた忍が絶望の声を上げ、透き通った女の式がその耳に唇を近づけていく。 ――流れる血も気にせず、炉火は遮二無二忍に組み付く。 その口から漏れる甘酸っぱい香りが、炉火の癇に障った。 (火事場のクソ力見せてやんよ!) 全神経を、触覚に集中する。 相手の考えることが、身体の動きが、手に取るように解る――(一念) ● 「俺かよ」 心臓の竦み上がるような思いで、炉火は突進してくる古屋を見据えた。後ろには、水魚とカルフがいる。 突き出された鋒を、後方に跳んで躱す。鋒が容易く忍者鎧の隙間を貫き通し、一寸ほど肩突き刺さった。 引き戻された刀が鎧の胸甲を砕く。鋒が僅かに炉火の肋骨を削り、引き戻されていく。 「これ、ひょっとして」 案外大丈夫なんじゃねぇか。呟こうとした刹那、寸分違わず胸甲の穴を鋒で深々と貫き通され、炉火は喉から上がってくる大量の血を吐き出しながら地面に転がった。 深い。肺がやられたかも知れない。 「おい古屋、お前の‥‥欲しがってるのは、こいつだろ」 咳き込むのを堪え、炉火は懐から取り出した円錐状の香を放り投げた。 だがその梅花香に、古屋は見向きすらしない。横薙ぎに払った打刀が、鉢金を割って額を真一文字に裂いた。 長銃に弾丸を装填しながら、水魚が叫ぶ。 「乾さん、火を点けなくては」 炉火は言葉にならない絶望の声を上げた。 尻餅をついた姿勢で後退っていると、更に喉からこみ上げてくる血塊が口から溢れ出す。 古屋が右手一本で大きく刀を振り上げた。 刹那、炉火の身体を光の粒子が包み隠した。振り下ろされた打刀が、身を捩った炉火の懐に当たって微かな音を立て、地面に突き刺さる。 「こんなもんも、持っといてみるもんだな」 懐に入れてあった水晶の賽子の存在を思い出しながら、炉火が必死で地面を転がる。 「ご無事ですか」 叫んだのは、魔術で炉火の傷を瞬く間に癒したカルフだった。 「助かった」 叫び返し、体勢を立て直した炉火は右手を大きく横薙ぎに振るった。辺りを白銀の閃光が包み、古屋の腹に七尺はあろうという十字型の光が突き刺さる。 が、目を血走らせた古屋の動きは全く揺るがない。目にも止まらぬ古屋の打ち込みを、炉火は喧嘩煙管で受け止めた。指を切り落とそうと刃を滑らせる動きに合わせて身体を回転させ、刀をいなす。が、刀はすぐさま翻り、炉火の胸を深々と斬り裂いた。 立て続けに、カルフの癒しの光が投げ掛けられる。カルフは初手でアイアンウォールを打ち立てたきり、仲間の回復以外に手が回らないようだ。 横手から突き出してくる用心棒の槍が、炉火の太腿を裂いた。古屋が両手で打刀を振り上げ、炉火が咄嗟に槍使いへしがみつく。 渾身の力で腰を掴んで体を入れ替えた途端、古屋の刀が槍使いの肩を斬り裂いた。 「こ、この役立たず、何を」 怒鳴った槍使いは、正気を失った古屋の顔を見て、自分が虎の尾を踏んだと気付いたらしい。炉火の胸倉を掴み上げ、古屋の方へ引きずり出そうとする。炉火は炉火で地面に足を踏ん張り、全体重を掛けて男を古屋の方へ押しやろうとする。 古屋の渾身の一太刀が、槍使いの腿裏と炉火の右脛を、半ばまで斬り裂いた。 「人には想いや意志ってのがあんだよ」 用心棒の肘に頬骨を砕かれながらも、炉火が吼える。 砕かれた頬に用心棒の手が掛かり、激痛の余り炉火の手の力が緩んだかに見えた。 刹那、用心棒の背中が血を噴いた。 炉火の左手から、白煙が立ち上っている。 「それらが溢れた人の世は、算術なんかで計れるもんじゃねぇ!」 炉火の足が用心棒の腹を蹴飛ばし、古屋の刀がその頸椎を両断する。 白煙の立ち上る短銃を握り締め、炉火が必死に後方へと転がった。 その視界に、金色の光が射した。 ――(今までは三倉の町での勢力争いだと思っていましたから、積極的に介入するかどうか迷っていました‥‥) 霞澄の銀色の髪と瞳が、黒い魔法帽の下で光を浴び、金色に輝いている。 (が、主をも謀り自らの私腹を肥やそうとする行い、人道的にも許されるものではありません‥‥) 悲しげに、しかし決意を秘めた目を上げ、霞澄は倉の陰から顔を出した泰拳士をにらみ据えた。 (あまり人を傷つけたくはありませんが、‥‥この件に関しては躊躇せずに成敗させて頂きます) 光球が、大地を薙ぎ払う閃光と化した――(炎) ● 古屋の身体が黄金色の光の奔流に呑み込まれ、三丈ほども吹き飛んだ。 「よう‥‥遅かったじゃねえか」 仰向けに転がったまま、炉火が顔を歪めて笑う。 「遅くなりまして申し訳ありません‥‥」 肩で息をしながら白く小さな手を太腿の前で合わせ、薄桜色の神衣にジルベリアの祈祷服を羽織った柊沢霞澄(ia0067)がお辞儀をした。ずり落ちかけた魔法帽を慌てて手で押さえ、七丈近い黄金色の霊杖を握り直す。 霊杖が高々と振り上げられ、その先端から噴き出した光の粒子が空中で無数の小さな花となった。 花の雨は身体を起こした炉火の身体へと降り注ぎ、傷の全てを跡形もなく癒しきる。 次いで、腹と額から夥しい血を流しているカルフの身体が光の花に覆われ、骨まで見えていた傷口を白い肌が塞いだ。 「旦那、あいつよ! 弥次郎が言ってた」 叫びながら菊池がカルフの打ち立てた鉄壁の脇から顔を出した。瞬間、その身体が青白い輝きに包まれる。 輝きは、地面から噴き上げていた。呼気すら凍て付かせる氷霧が、悲恋姫と焙烙玉で傷ついた菊池の身体を地面に薙ぎ倒した。 いつの間にか、仲間達の傷を癒す合間を縫ってカルフが氷霧を地面に封印していたのだ。 「貴方に敗因があるとしたら貴方自身よ、影政」 空狐の手で熱の無い炎を上げて燃え落ちた符が、蛇のように地を滑って用心棒に絡みつく。 青白い炎が見る間に人の姿となり、用心棒の耳に呪詛の叫びを流し込んだ。空狐は堅く拳を握り締め、影政をはったと睨み付ける。 「力に溺れ引き際を見失った愚か者‥‥世間知らずのお坊ちゃん風情が必死に生きてる人間をバカにするんじゃないわ!」 「ほざけ、糞餓鬼が」 影政は顔を赤くして怒鳴り、両手を組み合わせた。 「私は巫女ですから‥‥成敗は鬼島さんにお任せしたいのですが‥‥」 霞澄の視線が左右に走り、仲間の様子を窺う。 「そうも言っていられないでしょうか‥‥」 大きく両足を開いた影政の手に光が宿る。乾いた放電音を発してその全身が熱狂的な破壊力を帯びた紫電を纏い、染められた金髪が逆立った。 細い足を揃えて背筋を伸ばし、霞澄が杖を握った拳を差し出す。七尺近い霊杖が黄金色の輝きを発し、霞澄の銀髪に暖かい輝きが宿った。 「くたばりやがれ」 影政が絶叫し、全身に帯びた紫電を残らず両手に引き寄せるや、霞澄目掛けて幅一丈を超える極大の雷を放った。 悲しげに目を伏せた霞澄の霊杖から、獣の形をした無数の光が影政目掛け怒濤の如く押し寄せる。 光と雷が激突し、辺り一帯の大気目掛け放電が始まった。 地面を無数の紫電が這い回り、その通り道となった地面の枯葉が弾け飛ぶ。極大の雷は無数の光の獣を呑み込み、霞澄の身体に襲い掛かった。 漆黒の魔法帽が吹き飛び、水晶の仮面が外れて地面に転がる。霞澄の細い筋肉が痙攣し、細い膝が地に突きそうになる。 だが影政は、その程度では済まなかった。雷の中央を食い破った光の獣が次から次へと食らいつき、その身体を宙へと打ち上げていく。 木々の枝葉を背中でへし折りながら、影政が地面に墜落する。その胸に、腹に、顔に、更なる無数の光弾が襲い掛かった。 ――(麻薬をやっていようがやっていまいが、そんなものは何の関係もないのだ) 古屋は咄嗟に刀を引き、後方へ跳ぶ。出鱈目な質量が出鱈目な殺意の塊となり、大段平を叩き折って、その身体を吹き飛ばした。 地面で受け身を取り、古屋が顔を上げる。 (才覚の有無も、突き詰めれば志体の有無すら関係ない) 鬼島はゆっくりと斧を脇に構えた。 (必要なのは、覚悟。死して尚、事を為し得ようとする鋼鉄の意志、それこそが力なのだ)――(炎) ● 木立を揺らす秋風が、茶筅髷に当たる。女のものらしい絶叫。剣戟の音。山肌を震わせる稲妻の音。その足が向かうべき先は明らかだった。 「珊瑚、稲杜、退け」 大音声を浴びせられ、血相を変えた珊瑚が空狐に抱きついて地面へ伏せた。 全力で走ってきた勢いそのままに、左肩から前方へ倒れ込む。体を開き、前に出した左足を前方に滑らせる。右肩に担いだ八尺を越える異形の大斧が、引きずり出されるようにして動き出した。 唸りを上げる殺意の銀光が、森の大気を真っ二つに断ち割った。 折れ飛んだ刀が木の幹に突き刺さり、鉄鎧ごと腹を割られた用心棒が、腑をこぼして膝をつき、倒れ伏す。 「フーハハハ! どいつもこいつも辛気臭い顔をしおって」 爛々と光る瞳で仲間達の顔を見回し、鬼島貫徹(ia0694)が哄笑を上げた。 傷こそカルフと霞澄の術で癒されているが、鎧や服にできた焦げ跡や血染めの裂け跡を見るだけでも、いかに激しい攻撃を彼らが耐え抜いて来たかは容易に窺い知れる。 「だが――――良くやった」 大斧が肉片と血を撒き散らしながら、鬼島の右肩に担ぎ直される。 「前衛無しで、攻防バランスの取れたこの連中を相手取るのは至難の業だっただろう」 「四十年かそこらの人生で、一番長い数十秒だったぜ」 炉火は苦笑した。 影政は、異形の大斧と特徴的な茶筅髷を見て目を剥く。 「て、てめえ、二の倉で見た時ゃまさかと思ったが、橋で暴れ回ってた‥‥!」 「久しいな。貴様をここまで放置してきた甲斐は十分にあった」 鬼島はふてぶてしい笑みを浮かべ、大股に影政へと歩み寄っていく。 「この自分の名を天下に広める為の餌として相応しい」 「古屋、奴を殺れ! 薬なら幾らでもくれてやる!」 影政が怒鳴る。 古屋の全身から、紅色の光が炎の如く立ち上った。赤い目からは、もはや血さえ流れ出し始めている。口からは血の泡を吹き、毛穴からも血が滲んでいた。 「ここから始まる勝利は」 言いつつ無造作に薙ぎ払う斧頭の内側に、猛然と古屋が飛び込んだ。稲妻の如き突きが鬼島の喉を狙う。が、圧倒的な重量と遠心力の掛かる斧の柄が古屋の身体を横に薙ぎ倒し、刀の鋒は鬼島の鎖骨を削った。 草履を地面に食い込ませ、恐るべき重量の鉄塊を鬼島が上段に振り上げる。受け身を取った古屋が逆袈裟に刀を斬り上げながら後退した。斧頭が空を切り、味噌に包丁でも刺すかのように一尺程も刃を地へ食い込ませる。 薬の副作用が限界に達したか、古屋が人のものとは思えぬ絶叫を上げた。 「‥‥全てお前たちが手繰り寄せた必然」 濡れた土と枯葉のついた刃を振り上げ、鬼島が大斧を大上段に構えた。 稲妻よりも速く、紅色の残光を曳く突きが鬼島の喉元を狙う。鬼島は身を捩り、左肩でその鋒を受けた。上腕の筋肉が抉り取られ、血が噴き上がる。 鬼島の全身を駆け巡っていた練力が両肩から斧へと駆け上がった。が、古屋の攻撃は終わっていない。飛燕の如く翻った鋒が、鬼島の右目を襲う。睫毛に鋒の触れる感触に鳥肌を立てながら、鬼島が顔を上げて面頬でその突きを受け流す。火花が飛び散り、右側の視界が奪われる。 がら空きになった顎から脳髄を貫き通そうと、三度目の突きが襲い掛かった。 「鬼島!」 真朱が絶叫した。 血飛沫が上がる。 鬼島の左手が、殆ど親指を落とされようかという所まで刃を肉に食い込ませ、刀を握っていた。 飛び退こうとする古屋を、左手が逃がさない。正気を失った古屋に、刀を離す発想が無い。刀を握ったまま、古屋の身体だけが、斧の間合いに退いて止まる。 右の草履が高々と掲げられ、左の草履が深々と地面を抉り抜いた。 右手一本で大上段に掲げられた斧から練力が溢れ出し、天を衝く柱となる。高々と掲げられた草履が、全体重を掛けて前方へ踏み込む。 全身の筋力と体重を掛けた異形の大斧が、銀色の瀑布と化した。 「あ‥‥あ」 影政が、へたり込んだ。 全身を返り血に染めた鬼島が、ゆっくりと顔を向ける。その眼前には、頭頂から胸、鳩尾、右腰を通り、右太腿までを真っ二つに両断され、一撃で絶命した古屋が転がっていた。 「て、てめえら、俺達瀧華一家は、武天の名代として三倉の自治を任されてんだ」 最早、まともに身体を起こせる私兵はいない。近付いてくる開拓者に、影政は喚き立てた。 「俺を殺したら、代官が黙っちゃ」 「さて、そう上手く行くかねえ」 からかうような、心底から愉快そうな声がそれを遮った。 「岸田‥‥と‥‥てめえは」 聞き覚えのある声に振り向いた影政は、訝しげに眉根を寄せた。 杖を手にした仁兵衛と、紋付羽織に陣笠の男が、影政の背後に立っている。 陣笠と羽織にあしらわれた雪待ち笹の家紋を見て、影政の目が見開かれた。 「‥‥まさか、か、可部‥‥様」 「ふむ。このような辺境にも、某の名は知られておるか」 可部と呼ばれた男は悠然と進み出た。 「誰なのです」 空狐が訝しげに真朱の顔を見上げる。 「可部芳治。武天の使番さ。目付直属で、武天領の監査をしてる」 真朱が空狐に囁く。 「‥‥おいおい、可部様よ」 仰天していた影政は早くも我に返り、ふてぶてしい顔を作っていた。 「三倉は、侠客の自治が認められてた筈だ。武天は干渉しねえ約定じゃねえか」 「どの口がほざくか」 可部は眦を決して大喝した。 「密造したご禁制の品を自治領外へ流通させようとする貴様の企み、既に露見しておるわ」 紋付きの懐から取り出された証文が、影政の眼前に突きつけられた。 「近隣の町々より届け出されたるこの証文、貴様の使っていた紙、落款に相違あるまい」 心底覚えのない糾弾に、影政は唖然とした。 そこに記されている文言と落款が、その両目を磁力のように引きつけている。 「知らねえ‥‥知らねえぞ」 うわごとのように呟いていた影政が、何かに気付いて絶叫した。 「岸田、てめえ、作りやがったな」 「おう、無えなら作りゃいいってのがあたしのやり方でねえ」 鼻でせせら笑う仁兵衛に飛び掛かる影政の足を、炉火の左足が薙ぎ払った。地面に突っ伏した所へのし掛かり、左腕を掴んで肩を極める。 真朱が影政の手に縄を掛ける。 「この性悪爺。紙屋を呼んだのぁ、そういうことかい」 「こいつが買い付けてる紙、落款。紙屋が誰より知ってんだろう」 仁兵衛が当然のように答える。 霞澄と空狐が影政の口に猿ぐつわを噛ませ、地面に転がった息のある面々を荒縄で繋いでいく。 可部は満足げに笑うと、一同を見わたした。 「さて、開拓者ギルドの面々と見受けるが」 「いかにも」 霞澄に癒された左手の動きを確かめながら、鬼島が頷く。 「よくぞ麻薬製造の現場を押さえてくれた。あの証文だけでは某も動けなんだ」 可部は白い歯を見せて笑いかけた。 「此度の働き、実に見事。岸田翁の屋敷で二、三話を聞かせてもらえまいか。この戯け者を罰するためにな」 ● 窓から吹き込む秋風に黄金色の耳を撫でられながら、水魚がぼんやりと呟いた。 「瀧華も、終わりですわね」 銀髪を風に踊らせ、疲労の色を隠せない霞澄が頷く。 霞澄にカルフ、それに薬の知識のある炉火は真朱に乞われ、芸妓達の禁断症状がある程度落ち着くまで仁兵衛の屋敷で彼女たちの世話をしていた。 梅香の中毒者に、命に関わるほどの症状を見せる者はなかった。が、瀧華一家の親分、琢郎が真っ当に仕事ができるようになるには相応の時間を要するようだ。 影政は、斬首を言い渡された白州で暴れ、斬り殺された。全身に矢を射込まれ、なます斬りにされての壮絶な最期だったという。 仁兵衛の策略で濡れ衣を着せられた末の死に様を聞き、開拓者達の反応は様々だった。 ただ、 「彼のこれまでがどんなものか知らない、けど女を見下し必死に生きる事を嘲笑う影政を私は許さない」 空狐だけが、ぼそりとそう言った。 町の自治権を半ば買っていた瀧華一家は、統治能力を失った。以後三倉は、永徳一家を代官として武天の管理下に置かれる見込みだ。 芸妓屋は、鬼島が気を利かせて傷付けずにおいた調度品の類を売り払い、両隣の土地を買ったらしい。近々離れを取り壊して店を増築し、望んだ女郎は誰でも芸妓として受け入れる態勢を整えるのだという。 「御出立の準備、整いやした。あとは皆さんのおよろしい時に」 すっかり傷の癒えた蜘蛛助が、襖を開けて傷跡の増えた顔を見せる。 「仁兵衛さんにはお世話になりました‥‥」 仮面の紐を直し、神衣や祈祷服もすっかり繕い直した霞澄が、仁兵衛に頭を下げる。仁兵衛は勢いよく片手を振って笑った。 「いやいや、こちらこそ、とんだお手数をお掛けしちまいまして」 「真朱さんと珊瑚さんには、これからもお達者でとお伝え下さい‥‥」 「ええ、そりゃあもう‥‥いや、そういえば」 仁兵衛は軽く手を打ち合わせると、蜘蛛助に顔を向けた。 「おう蜘蛛助。もう怪我は治ったんだねえ」 「へえ、お陰さんで」 頷く蜘蛛助へ、仁兵衛は無造作に告げた。 「そうかい。じゃあ、おめえは首だ」 「へ」 蜘蛛助が、そして出立の準備を整えた開拓者達が、訝しげに仁兵衛の顔を見る。 「く‥‥首って、そりゃどういうことですかい」 「おめえ、麻薬の事はいつ知った」 「つい最近のこって」 蜘蛛助は気まずそうに答える。 「姐さんに可愛がってもらってる珊瑚‥‥てえ嬢ちゃんを、影政が狙ってると知ったのが先で」 空狐が小首を傾げ、大きな赤い目で蜘蛛助の顔を下から覗き込んだ。 「前から思っていたのですが‥‥蜘蛛助はもしかして珊瑚の‥‥」 「手前の子供の事なら、そりゃあ必死にもなるわな」 刀傷の残る喧嘩煙管をふかしながら、炉火が意地の悪い笑みを口許に浮かべる。 「麻薬の事に気付かねぇのも無理はねぇ」 蜘蛛助は口籠もり、頬を掻く。 「‥‥参りやしたね、こいつぁどうも」 「蜘蛛助さんの、珊瑚さんに対する想いは‥‥やはり親の情だったのですね‥‥」 霞澄が微笑む。 仁兵衛は底意地の悪い笑みを浮かべた。 「そういうわけだ。首になったおめえを、真朱が店に住み込みで使ってくれるとよ」 「げっ」 「真朱と珊瑚さんにゃ、おめえから宜しく伝えるんだ」 蜘蛛助は絶句した。 「立ち入るのは失礼とは思いますが、お二人がお互い理解しあって頂ければ私も少し嬉しいです‥‥」 霞澄が銀色の目を細め、口許を綻ばせた。 「ちゃんと名乗り出てやんねえか。病気の跡を見て、あれこれ言う奴もあんだろうが」 蜘蛛助は桑染色の肌を赤くしたり青くしたりしながら、壊れた操り人形のように手と顔を動かしだす。 「や、や、病気のことも、無えたあ言いやせんよ。ただ、何ですね、あれだ。その、五十路近くにできた子供に‥‥今更、照れ臭えじゃねえですかい。まずはその、もうちっと慣れて‥‥」 蜘蛛助の、頭をかく手が荒っぽくなっていく。仁兵衛は底意地の悪い笑みを浮かべ、開拓者達を見回した。 「そういうわけなんで。すいませんがねえ、最後にこの野郎を真朱の店に放り込んで来ちゃくれませんかい」 蜘蛛助が逃げ出そうとするより早く、鬼島の大きな手がその襟首を捕まえた。 「よっしゃ」 炉火が腕まくりをしてその両足を掴み、空狐が勇んで右手を、カルフが素早く左手を掴む。 「荷物は私が持ちますわね」 霞澄と水魚が一行の荷物を集め、ついでに畳に転がった蜘蛛助の巾着を拾う。 「だ、旦那、殺生だ、あんまりだ」 「やかましいや、あたしからの餞別だ。皆さん、一つよろしくお願いしまさあ」 仁兵衛が手を打ち鳴らすや、開拓者達は蜘蛛助の身体を担ぎ上げ、勢いよく玄関目掛け階段を下り始めた。 |