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■オープニング本文 前回のリプレイを見る ● 荷車が、砂埃を巻き上げながら轍の上を走り抜けていった。 簾が作る影の端に、膝を抱えて一人の少年がうずくまっていた。留め袖姿の女を見送っていた呉服屋の店主が、顔をしかめてそれを見下ろす。 ただでさえ濃い肌の色は、日に焼けて更に黒味を増している。草履は擦り切れてひび割れた足が地につき、濡れた肌に張り付く作務衣はぼろきれ同然だ。髪は八方に伸びて異様に頭が大きく見え、体中から饐えたような汗の臭いが漂っていた。 「おい」 声が降ってくる。迷惑げな声を浴びせられるよりも早く、少年はのろのろと立ち上がった。 その背に、訝しげな声が掛けられた。 「逃げるこたないだろ。ちゃんと飯食わせてもらってんのかい」 少年が、ぽかんと口を開けて立ち止まった。 「随分な有り様じゃないか。お前、父ちゃんと母ちゃんは」 振り向いても、傾きだした日を背負って、顔は良く見えなかった。ただ、良い香りが風に乗って微かに漂ってくるばかりだ。 少年は、緩慢な動きで首を振った。 「母ちゃんは死んだ」 その声を聞き、女は意外そうに呟いた。 「何だ、娘っこか。父ちゃんは」 「病気で、母ちゃんに追っ払われた。移るからって」 「そうかい」 女は、少女の前で膝に手を付き、屈み込んだ。 まるで白磁のような、滑らかな肌。やや目付きはきついが、黒目がちで大きな瞳。紅の引かれたやや厚い唇からは匂い立つような色気があり、同性の少女でさえ胸が高鳴った。豊かな胸の谷間は、微かに浮かんだ汗で輝いていた。 「ったく、色は黒いわ、愛想は無いわ。女に見えやしないじゃないか」 言葉は悪いが、女の声は楽しそうに笑っていた。伸び放題の髪を掻き分けて頭を鷲掴みにし、女が笑顔で少女の顔を覗き込む。 「丁度いい、今ちっと手が足りないんだ。あんたみたいに苦労してる女達に、ちっとでも楽な生活をさせてやりたくてね。手伝いな」 少女は、瞬きを繰り返した。 「でも、邪魔になったらいけないから」 「何が」 「私が」 女は、少女の頭を右手で掴んだまま、軽く左の掌を頬に当てた。 「馬鹿かあんたは。あたしが要るっつってんだ」 「でも、みんな邪魔って言うし」 「そうかいそうかい。じゃあ尚のことあたしんとこに来な。みんなが邪魔扱いする、あたしが手伝いに使う。八方丸く収まるじゃないか。良かったよかった」 女は言い、少女の襟首を掴んだ。 途端、音がして作務衣の襟が裂ける。 「何だこりゃ。おい」 目の前の呉服屋に、女が声を掛ける。 「はいはい。ああ、これは真朱さま」 「こいつの小袖を二、三、用立てておくれ。あと急場凌ぎに作務衣を一つ見繕いな。出来合いのがあんだろ」 揉み手で出てきた店主は、真朱の隣で立ちつくしている子供を見て、呆気に取られた。二人の顔を見比べ、何度も瞬きを繰り返す。 「この子のですか」 「何か文句あんのかい」 「や、そんな、いえ、滅相もない」 真朱は袂から出した小判を店の机に放り、店主の並べ始めた反物を一つ掴んだ。 「生地はこいつがいいね。珊瑚色だ。ありゃ」 真朱は目を丸くし、次いで口許を綻ばせて、少女の頭を何度も叩いた。 「おい馬鹿、何泣いてんだい」 珊瑚は、涙の理由も解らず、ただ泣いていた。 ● 秋の虫が、木下闇の中で頻りに鳴いている。すっかり沈んでいた日が、上り始めていた。 既に、二の倉での戦闘から一日半ほど。殆ど寝ずに山中を歩いていた真朱は、開拓者達が川で水を汲んでいる間に木陰でまどろんでいた。 草履の鼻緒が、切れかかっている。普段なら滑らかな肌は荒れ、顔には憔悴の色が濃く表れ始めていた。 開拓者達は真朱を起こさないよう気を遣い、朝餉の支度に取りかかっている。が、突如真朱の身体が跳ね起きた。 低い笑い声が、聞こえてきたのだ。 「弥次郎かい」 真朱の長い指が、袂から符を抜いた。低い笑いが、ゆっくりと近付いてくる。 その声の主を見て、真朱は目を剥いた。 現れたのは、弥次郎よりも更に背の低い、桑染色の肌をした壮年の小男だった。 五体のどこを見ても、血染めの包帯と裂いた長着がきつく縛り付けてある。布の足りない所に焼け石でも押しつけたか、開いた傷口は醜く焼けただれていた。 血を失いすぎて顔面は土気色だ。赤子のように首は据わらず、足取りも頼りない。 「勝ったぜ、賭けによ」 足跡を残す事を嫌ったのか、杖さえつかず、木の根の上を渡り、散々あちこちに蹴躓きながら、男は笑った。 警戒だけは解かず、真朱が男に声を掛けた。 「あんた、まさか蜘蛛助かい」 「へえ、どうも姐さん。お初に、お目にかかりやす」 男、蜘蛛助は中腰になり、ゆっくりと前のめりにその場へ崩れ落ちた。 色を失って駆け寄る真朱の顔を見上げ、蜘蛛助は安心したように笑みを浮かべる。 「この通り、足跡も、血の跡も、残してやせん」 「無茶苦茶な野郎だね」 真朱は蜘蛛助の髪を鷲掴みにし、取り出した符水を無理矢理その口に流し込んだ。 「口はやに臭えし。珊瑚はどこだい」 「忍と、その配下に追いつかれちめえやして‥‥珊瑚は、木の洞に」 蚊の鳴くような声で囁きながら、蜘蛛助が腰に手を伸ばす。 「三人ばかりぶっ殺して、川に放り込みやしたがね‥‥上手えこと煙に巻いてきた筈でさあ。今頃ぁきっと、頓珍漢な所を探してやすよ」 真朱の口から流し込まれる符水を口の端から垂れ流し、蜘蛛助は咳き込んだ。 「場所は、こいつが知ってやす」 口から血を垂らしながら蜘蛛助が差し出したのは、耳障りな羽音を外に漏らす、胴乱だった。中に、蜂か虻でも入っているようだ。 真朱が胴乱を受け取ると、仰向けに転がった蜘蛛助が、短い手足を亀のようにばたつかせ、渾身の力を振り絞って寝返りを打つ。 「お願えしやす。どうか」 蜘蛛助は、地に頭を擦りつけた。 「どうか、あいつを守ってやっておくんなせえ」 「おい、何なんだいあんた。何でまたそんな」 蜘蛛助は答えず、ゆっくりと顔を、ついで胸を地につけ、失神した。 |
■参加者一覧
柊沢 霞澄(ia0067)
17歳・女・巫
鬼島貫徹(ia0694)
45歳・男・サ
十 水魚(ib5406)
16歳・女・砲
カルフ(ib9316)
23歳・女・魔
乾 炉火(ib9579)
44歳・男・シ
稲杜・空狐(ib9736)
12歳・女・陰 |
■リプレイ本文 ● 絹糸のような金髪の掛かる狩衣の袖が、蜘蛛助の身体をそっと支えた。 「何故、これほどまで珊瑚の事を‥‥?」 人の声を聞きつけていち早く真朱の元へ駆け戻っていた稲杜空狐(ib9736)だった。 蜘蛛助の身体から、光が沸き上がった。光は波紋のように空中へ広がり、花とも見える形を描く。ぼろ切れと包帯の間に見える醜くただれた火傷が、跡は残しながらも人間らしい肌に戻っていった。 銀髪に黒い魔法帽を乗せ小走りに駆けてきた柊沢霞澄(ia0067)が、応急の手当てに術を使ったのだ。 「何やら事情がある気がしますが‥‥」 「でも、答えを得るには情報が少なすぎますですね」 空狐が、手早く血で固まった包帯を外し、新しい包帯を巻いていく。 「どうするかね。こいつを背負って行く訳にゃいかないだろ」 太腿の包帯を替えながら、真朱が思案顔を見せる。 暫し考えた後、霞澄が悲痛な顔で呟いた。 「残すのは心苦しいですが、今回は珊瑚さんの救出を優先しましょう‥‥」 三人がかりの治療は、あっと言う間に終わった。 背が低いとは言え背骨が歪んでいるだけで、体重は人並み近くある蜘蛛助の身体を、鎧袖に守られた太い腕が抱え上げる。 「生きていれば帰りにでも拾っていけば良いだろう」 当世具足の腰に細剣を帯び、額に鉢金を巻いた男、鬼島貫徹(ia0694)だった。岩が入り組んだ水辺の一帯へ蜘蛛助を運び、無造作に横たえる。 「ここで蜘蛛助さんを死なせる訳には行きませんし。見つからない様にしなくては」 朝日に黄金色の耳を輝かせ、十水魚(ib5406)が枯葉をかき集めると、横たわる蜘蛛助の上に散らした。 その小袖と黄金色の尾には、棘の付いた木の実が幾つも張り付いている。 燃えていた枯れ木を川に差して消火し、適当な地面の窪みにそれを放り込んでいく。残った灰は草鞋の底で掃き落とし、土を被せ、更に木の葉を掛けて跡を隠す。 「蜘蛛助さんがここまでしたのですから。必ず珊瑚さんを助けますわ」 「くそ、あの時上流の方探してりゃ‥‥」 乾炉火(ib9579)は歯噛みをし、朝餉のために川の水を漉していた長手拭いを固く絞って口に巻く。 「後悔は後だ、今度こそ珊瑚の嬢ちゃんを助けださねぇと」 軽く首を振るい、炉火は朝餉の支度の痕跡が残っていないか入念に確かめる。 と、身支度を終えたカルフ(ib9316)が草履を二足、真朱の前に差し出した。 「ここからは休みなしの行軍が予想されます。こちらを」 色鮮やかな布を重ねた外套に目に沁みるような赤いとんがり帽子、両目を隠す薄手の眼帯。身の丈四尺強の、まさに小さな魔法使いといった風体だ。 「珊瑚さんも、窓から出たのでは履物が無いでしょう」 「助かるよ。身一つで来ちまったんでね」 真朱はカルフの金色の頭を軽く叩き、受け取った白い草履に足を通す。 鬼島が、木の枝に掛けてあったジルベリア製のサーコートを勢いよく背に回して羽織った。 「流石に朝晩は多少涼しくなってきたか」 川面を越えてくる涼風を受けて大欠伸をすると、預かった胴乱の口を開ける。 足に花粉の玉をつけた土色の蜂は、暫し狼狽えるようにして胴乱の蓋を這っていたが、やがて微かな羽音を立てて宙へ舞い上がる。 迷うでもなく、急くでもなく、朝の湿った風に茶筅髷を揺らしながら、大盾を構えた鬼島はその後を追ってぶらりと歩き出した。 ● 厚く葉が重なった木の下で、火が熾きていた。煙は無数の葉に散らされて薄く広がり、木々の上では殆ど見えなくなっている。 大欠伸をしながら火に枯れ木をくべていた男が、はたと顔を上げた。 寝ぼけ眼で煙管をふかし、鍋に山菜を入れていた目の前の男の首を、鬼島のリベレイターソードが後背から一撃で突き抜いた。男は鍋の上へ倒れ込み、噴き出した血と鍋の中身が灰を舞い上げる。 枯れ木をくべていた男が、側に立てかけた弓へ駆け寄ろうとする。その身体を中心とした辺り一帯が、突如白い霧に覆い尽くされた。 視界を失った男の指先が弓を弾き、乾いた音が霧の中に響く。 その音を引き金としたかのように、硬く済んだ音を立てて霧が凍て付いた。一瞬で体温を奪われた男が膝をつき、更に霧の中を桔梗色の光が薙ぎ払う。 聖者を迎える海の如く二つに裂けた霧の間には、全身を白い霜に覆われて気を失った男が転がっていた。 鬼島、カルフ、そして真朱の三人がそれぞれ前方と左右の敵影を確認し、戦闘態勢を解く。 真朱が、ちらりと後方を見た。 「撃つのは、仕方ない時にしとくれよ」 「勿論ですわ。無駄に敵を集める訳には行きませんわね」 後から慎重な足取りで近付いてきたのは、水魚だった。その更に後方から微かな羽音が近付き、白いローブを纏った霞澄の銀髪、鉢金を巻いた炉火の青い頭、そしてその上から覗く空狐の金髪が現れた。 空狐が蜂の視認に集中し、身軽な炉火が彼女をおぶって足下に集中しているのだ。 「そこ、木の枝が張り出してますわ。空狐さんをぶつけてしまわないように‥‥」 「おう」 蜘蛛助に倣って裸の木の根を選んで歩きながら、炉火は空狐を背負い直した。 周囲の安全を確認し、カルフは小さな口を手で覆い何やら考え事を始めた。 「カルフさん‥‥行きましょう」 霞澄に促され、カルフは一つ頷くと、開けた空間から出る際に軽く跳躍し、深く地面に足跡を刻む。 そして腰の短剣を引き抜き、その鍔にそっと唇を触れた。 途端、赤みがかった宝珠が妖しい煌めきを放った、辺りの大気に含まれていた水分が渦を巻き、その足下へと吸い込まれていく。 「なるほど‥‥」 微笑む霞澄に頷き返し、カルフは更にもう一度地面へと氷霧を封じ込めると、踵を返して真朱達を追った。 ● 炉火の耳が動いた。 不吉な弓音が聞こえてくる。 「北だ」 炉火の鋭い声に誰よりも早く反応し、最前列を歩いていた鬼島が動いた。右手へ目を向け、大盾を構えて炉火の前へ飛び出す。 炉火は、空狐を背負ったまま木陰に身を寄せた。途端、狙いを定めているとは思えない乱射が辺りに降り注ぐ。 「稲杜、ちぃと動くぞ。舌噛むなよ」 「大丈夫です」 背負われた空狐は、弦音と近付いてくる風切り音に目を閉じそうになりながらも、歯を食いしばって目を見開き、蜂の行く手をしっかりと追っている。 反撃の口火を切ったのは、水魚だった。弓術士との距離を見るや、迷わず肩に担いだマスケット「クルマルス」を反転させて肩に当て、引き金を絞る。 爆音と共に、銃口が炎と白煙を噴いた。銃弾は数枚の木の葉と二本の小枝を貫き、弾速を落として僅かに落下しながら、弓術士の右腰に突き刺さった。 鬼島が、大盾で乱れ飛んでくる矢を叩き落としながら猛然と突進を始める。飛来する矢の多くが、熊か大猪のように足音を立てて近付いてくる鬼島を狙いだした。 が、乱射される矢の一条が、炉火の手ごと空狐の太腿を貫いた。空狐は小さく悲鳴を上げ、激しく身を捩る。 「空狐さん、落ち着いて‥‥」 すぐさま霞澄が二人に駆け寄り、突き刺さった矢を引き抜いた。出血が激しい。大腿骨も砕けているだろう。空狐は激痛のあまり涙を流し、炉火の背で暴れている。 呼子笛の音に合わせて放たれた矢が、水魚の右上腕を射抜いた。 だが水魚は敵から目を切らず、手の感覚だけで白煙を上げる銃口を引き寄せ、練力ごと弾を流し込むと、敵の逃げ込んだ木陰へと狙いをつけた。 「敵は一人だけですわ。鬼島さんも、先へ」 木陰を飛び出した弓術士目掛け、水魚が引き金を絞った。放たれた銃弾は運悪く木の幹を掠め、地面に突き刺さる。 「稲杜、目を切るな」 矢に中手骨を砕かれながら、意地でも蜂を目で追い続ける炉火が叫ぶ。 「はい」 空狐は白い狩衣の袂で涙を拭き、顔を上げた。蜂は、既に三丈先へ行っている。炉火と弓術士の間には、鬼島が盾を翳して立ち塞がっていた。 霞澄の握る金色の霊杖から、光の花束が三つ飛んだ。一つは空狐の、一つは炉火の、もう一つは水魚の傷を、瞬く間に完治させる。 水魚の呼吸が、深くなった。全身の練力を、銃把の触れる肩へ集める。肩甲骨から漏れ出した練力が弧を描き、クルマルスの銃口へ集まっていく。 敵の隠れた木の左側に、布きれが見えた。反射的に水魚は木の右六尺に狙いを定め、迷わず引き金を絞る。 見えた布きれは、袴だ。爆音と共に放たれた銃弾を吸い込み、練力の塊が巨大な火球となって驀進を始めた。 その進路で待ち合わせていたかのように、木の右側へ弓術士が飛び出す。驚愕の表情で、弓術士が火球を見る。 重く鈍い破裂音と共に、弓術士の身体が炎に撒かれながら吹き飛んだ。 「長居は無用ですわ」 クルマルスを再び肩に担ぎ、水魚は立ちつくすカルフとすれ違った。 「カルフさん、急ぎませんと」 「はい」 何を思ったか、カルフは短剣で自らの腕に傷をつけていた。溢れ出す血を水筒に取り、ついでに辺りへ撒き散らす。 「私達が血の跡を追っていると敵に思わせる工作に」 言いながら、自らの血痕のすぐ側に空中の水分を凍て付かせて凝集させ、地下に封じ込める。 その作業が終わると、二人は十丈ほど離れた仲間達を追って走り出した。 ● 一行の進んできた道から、遠く悲鳴が聞こえてくる。通りすがりに設置してきたカルフのフロストマインと空狐の地縛霊が牙を剥いたのだ。 敵の呼子笛は、寧ろ仇になっていた。それを聞いて近付いてくる事は、マインと地縛霊が仕込まれた危険地帯に入り込む事を意味する。 マインと地縛霊に掛かった仲間の悲鳴を聞き、またそこへ私兵が近寄ってくる。 加えて、手掛かりの残っている場所に罠が仕掛けられていることで、カルフが自分の血を垂らしただけの場所にさえ警戒せざるを得なかった。 進軍は遅れる一方、仲間は集まってくる一方、被害は増す一方だ。 「後方の敵は引き離したな」 一行を先導する鬼島が、平坦で安定した木の根を選んで歩きつつ不敵に口許を歪める。 向こうが透けて見えるとはいえ、眼帯のお陰で幾度か躓き、蜂を見失っていたカルフが疲労の色を見せながら頷いた。 後を続く炉火と真朱、霞澄、水魚が、僅かに荒くなり始めた息をつきながらそれに続く。 既に、蜂を追い始めて四半刻。銃声に驚いては時折軌道を変え、通り道に花を見つけてはそこで花粉を集めながらも、蜂は大まかに西へと向かっているようだった。 流石に目が疲れてきたか、空狐は霞澄に蜂の視認を任せ、目の周りを揉みほぐしている。 「だが、少ない割に妙に正確な襲撃が気になる」 鬼島が呟く。 一行は、あの後更に一度の襲撃を撃退していた。 「追い上げて来たなら後方から、こちらから近付いていったのなら前方から来るだろうが、狙い澄ましたかのように、横手からの襲撃が二度だ」 蜂が、木漏れ日の中に咲く花に留まった。 一行が考え込む。 「‥‥これは、泳がされてますわね」 首を回すふりをして、水魚がそれとなく辺りを見回した。 「固まって動いていれば、少々勘が働く相手なら、こちらが手掛かりを得ている事に気づくでしょうし」 瞬間、「クルマルス」の銃声もかくやという大音声が辺りを揺らした。 水魚と空狐が髪と毛を逆立てて飛び上がり、岩清水を飲んでいた炉火が竹筒を取り落とす。 鬼島が大きく口を開け、雷鳴の如き大喝を発したのだ。花に留まり、花粉を集めていた蜂が、再び宙へ舞い上がる。 「な、何やってんだ、鬼島」 唖然としている炉火に、 「出てきたぞ」 鬼島が顎をしゃくって見せる。その視線の先には、仰天して足を滑らせ、無様な恰好で鬼島を見つめる三人のシノビがいた。 うち一人は、見覚えのある男だった。小柄な身体に長刀を背負った鎖帷子の男、弥次郎だ。 「‥‥前から思ってたけど、あんたも大概無茶苦茶な男だね」 呆気に取られていた真朱が、久々に笑顔を浮かべた。 「先に行くよ」 「クハハ、任せておけ。残らず粉砕してそれで終わりだ」 鬼島は余裕の表情で笑いながら、リベレイターソードの柄頭に手をかける。 「あんたが言うと洒落にならないからおっかないね」 真朱は苦笑し、炉火と空狐に頷いてみせると、鬼島に背を向けて走り出した。 細身の直剣を抜き放ち、鬼島が大股にシノビ二人目掛けて突進する。 木立を貫いてくる朝日を受け、鬼島の右手で細身の剣が輝いた。 受け流そうと忍刀を翳したシノビの顔面に、硬く巨大な物質が激突する。その身体が唸り声と共に後方へと運ばれていった。 猛牛の突進もかくやという体当たりでシノビの身体を宙に浮かせた鬼島が、そのままの勢いで走っている。三つと数えるまでもなくシノビの背が木の幹に激突し、その口から胃液がこぼれ落ちた。 頼りない忍刀の反撃は、鬼島のゴーグルを掠め、頬を抉るだけに終わった。盾がシノビの身体を離れ、入れ替わりに銀光がシノビの口から延髄を貫いた。 木の幹にまで深々と刺さったリベレイターソードを抜こうとせず、鬼島が無造作に体を開いた。高々と跳躍していた忍の刀が、虚しく空を裂く。 丸太を振り回すかのような回し蹴りが、忍の脇に炸裂した。木の幹に挟まれて肋が肺に刺さったか、忍の口から血が溢れ出す。引き抜かれたリベレイターソードが、忍の心臓を突き通した。 弥次郎の左手が霞んだ。飛来する三枚の四方手裏剣を、まとめて大盾が叩き落とす。手裏剣を追って疾駆してきた弥次郎が、鞭の様な回し蹴りを鬼島の腿に叩き込んだ。 続けて振り下ろされる長刀に、リベレイターソードが触れた。長刀の鋒が描く直線は、歪み、曲線となり、弧を描いて、弾き上げられる。 長刀を巻き上げたリベレイターソードが、容赦なく弥次郎の心臓を突く。が、弥次郎は身を捩りながら進んで身を差し出し、脇を抉らせながら、鬼島の具足に組み付いた。 盾を持つ左腕を極め、裏に回りながら、渾身の力で地を蹴る。 二人の身体が、木の葉と共に宙へ舞い上がった。空中で弥次郎の右腕が鬼島の右脇を、左膝が両腿を押さえる。 派手な金属音を立て、二人の身体が鬼島の顔面を最下部にして地面へ激突した。と同時に、弥次郎が全力で地を蹴って後方へ離れる。 弥次郎の腕と首筋に、鳥肌が立っていた。 鬼島の剣気に、木々がざわめき、地に積もった枯葉が震えている。 「朝から空中散歩というのも悪くない」 起き上がった鬼島の顔には、泥がついているだけだ。鼻血一つ流していない。着地する寸前に剣気で弥次郎を圧して力を緩めさせ、身を捩って受け身を取ったのだ。 「化け物め」 その言葉が終わるよりも早く、鬼島の具足が弥次郎の眼前に肉薄した。弥次郎が体を開く。渾身の突きが僧帽筋を貫く。鬼島の胴を蹴り、弥次郎が後方へ跳ぶ。体を閉じたまま、鬼島が送り足でそれを追う。続く銀光は、虚しく空を貫いた。 弥次郎の足が膨れ上がり、渾身の力で地を蹴る。その小柄な身体が、一気に十丈の距離を駆け抜ける。 地面に残された足跡に、鮮血が落ちた。 鬼島が弥次郎に背を向け、リベレイターソードの血を振るい落として鞘に納める。 空を貫いた剣は、引き戻されながら弥次郎の首筋を一刀の下に斬り裂いていた。 血を噴き出しながら、早駆の慣性のままに弥次郎は二歩足を踏み出し、三歩目で体勢を崩して地面に倒れ伏した。 ● 日は着実に上り続け、森の中にも確かな光が射し始めている。 蜂が、花に留まった。殆ど後足は動かさずに前足を蠢かせ、必死に花粉を集めている。 「これはこれで、じれったいね」 真朱が苛々と草履で地面を踏みしめる。 蜂が留まったら留まったで、そこに立ちつくしている開拓者達は良い狙撃の的だ。 地形などお構いなしに飛ぶ蜂の動きを追うことばかりでなく、音の小さい弓での狙撃、そして尾行に気を払うことは一行の神経を極端に磨り減らしていた。 「追い立ててやったら、巣に戻ったりしないのかい」 「無理だな、気が済むまで花粉を集めさせておく他ねぇ。まあ鬼島が合流するまでの」 「乾さん」 水魚が声を上げ、炉火が口を噤んだ。 意地でも蜂から目を切らない空狐を除き、一行が水魚の視線の先を探る。 進行方向を向いて左側、一町ほど先から、朝の木漏れ日を受けて煌めくものが三つ、近付きつつあった。 木立の合間から覗き見える服装と無様な足音を見るに、シノビではない。光っているのは、鏃だろう。 愛銃を肩に当てた水魚の手に、小さな白い手が重ねられた。 「柊沢さん」 水魚が手の主、霞澄を見返す。 霞澄は小さく首を振った。 「折角後方の追っ手を引き離した所ですし‥‥。今回は一人でも珊瑚さんの所に辿りつかなければなりません‥‥」 囁くように言い、左手の水晶の盾を胸の前に翳す。 「真朱さん、稲杜さん、しばらくお任せします‥‥」 「まあ、あんたも鬼島も心配は要らないだろうけどさ。何かあったら承知しないよ」 霞澄は微笑んだ。 「私も後で合流しますから‥‥」 真朱は頷くと霞澄の背を叩き、炉火と水魚、カルフを促して走り始める。炉火の背に負われた空狐の唇が動いていたのを、霞澄の銀色の目が捉えた。 矢が一条、霞澄が身を隠している木に突き刺さる。 敵の弓術士三人は南方に散り、それぞれの死角を補い合う陣形を取っていた。最大射程はともかく、現実的に木々の間を縫って矢を射込めるのは、半町ほどが限界のようだ。 下生えを掻き分ける小さな音が、南東へと走り出した。 「来た道を戻ってるぞ」 南で弓を構えた男が、霞澄を逃すまいと走りながら声を掛ける。 一人が物音に耳を澄ませ、一人が走り、一人が弓を構えている。三人がそれぞれに交代で役割を請け負いながら、足音の駆け去っていった方向へと進んでいる。 「逃がすなよ。服装からして、術を四連射するって化け物だ。ここで仕留める」 一人が叫んだ。朝日が昇り、木立に金色の光が差し込んでくる。 が、朝日と思われた光は、五つ数えるよりも早く消えた。 同時に、木々の枝をへし折る猛烈な音と、人体が地面に激突する重い音が響く。仰天した弓術士二人は、互いが視認できる位置へと姿を現した。 倒れた弓術士の上半身にはくまなく打撲痕を残され、まるで巨人の足に踏み潰されたかようだ。 「何があった」 「解らん、いきなり光が見えた、それだけだ」 首を振る南西の弓術士の身体に、黄金色の光が幾条も突き刺さった。悲鳴が尾を曳き、その姿が木立の中へと運ばれて見えなくなる。 「に、逃げ」 消えた先から聞こえた声は、更なる光の濁流に掻き消されて聞こえなくなった。 南東に一人残った男が、ふと足下を見る。一枚の符が、青白い炎を上げて今まさに燃え尽きようとしていた。顔色を変えて振り向く。 弓術士が立っているのは、まさに先刻物音が駆け抜けていった場所だ。にも関わらず、人が通ったような跡は下生えのどこにも残されていない。 空狐の仕業だった。人魂が草を掻き分けていった音で、弓術士は霞澄が南東へ退いたと誤認させられ、精霊砲の射程内へと誘い込まれたのだ。 気付いた時には、最早遅かった。白を基調とした霞澄の祈祷服が、視界の奥で激しくはためいている。 命の危険を知った弓術士が斜面を駆け下りようと踵を返した瞬間、霞澄の杖にあしらわれた蛇の彫刻から黄金色の光球が浮かび上がった。 色を失い、弓術士が走り出した。霞澄が杖を地面に突き立てた途端、光球が放射状に花開く。 木陰に飛び込もうとする弓術士の身体を、無数の爪と化した黄金色の光条が食い破った。 ● 蜂が、急上昇した。 「あ」 見失いそうになり、慌てて空狐がきつく炉火の髪を引っ張る。 「炉火、上なのです」 「見えてる、見えてっから」 空狐に青い頭をぽかぽかと叩かれ、辟易しながら炉火が背負った空狐を下ろす。 「巣だ。近いぞ」 木の幹を噛み千切って掘った巣穴に、蜂が潜り込んでいく。見ていると、足に何も付いていない蜂が一匹、巣穴を飛び出していった。 「珊瑚。いるのかい、珊瑚」 真朱が、誰もいない空間へ遠慮がちに声を掛ける。 「珊瑚。あたしだよ」 「真朱」 炉火が、軽く手を挙げた。 「いたのかい」 「ある意味な」 炉火の目は、元来た方向を向いている。 いち早く事態を把握した水魚が、クルマルスを抱いて木の裏に張り付いた。 敵影だ。忍が三人、後を追ってきているのだった。距離は十丈強。まだこちらに気付いた様子が無い所を見ると、超越聴覚を使ってはいないようだ。 「稲杜、カルフ、まだ練力残ってるか」 「梵露丸を使えば、ブリザーストームかレ・リカルが一回は。それから撒菱が残っています」 「空狐は、斬撃符ならあと二回か三回は使えるのですよ」 ありったけの練力を振り絞ってマインと地縛霊を仕込んでいた二人は、疲労の色を隠しきれないまでも答えた。 炉火は一瞬考え込み、 「珊瑚と面識のある稲杜は、真朱と一緒に珊瑚を探してくれ。カルフもだ、回復が必要になるかも知れねぇ」 「ですが」 首を振るカルフに、水魚が微笑んだ。 「二人いれば、あっと言う間ですわ」 クルマルスの銃口から、人頭大の巨大な火球が回転しながら撃ち出された。 銃声と殆ど同時に届いた火球が、一人のシノビの左手を一撃で炭化させる。取り落とした苦無が濡れた落ち葉に触れ、水分を蒸発させた。 「後ろから聞こえた悲鳴の数を考えりゃ、もう敵は殆ど残ってねぇ筈だ」 炉火が左手で空中に印を切り、右中指で天を指した。左手を失った男の足下から間欠泉の如く水が吹き上がり、その身体が激しく錐もみをしながら地面に転がる。 一瞬で平衡感覚を奪われ、頼りない足取りで立ち上がったその膝を、水魚の銃弾が粉砕した。 残る仲間が、即座に反撃に移った。一人が早駆で十丈の距離を一瞬にして詰め、斜面を駆け上がる勢いそのままに跳躍する。振り下ろす忍刀を喧嘩煙管が受け止めきれず、鋒が炉火の額を裂いた。行き過ぎた刀が翻り、忍者鎧が硬い音を立て血に染まる。 「死ぬんじゃないよ」 「縁起でもねぇな。一分もありゃ追いつく」 喧嘩煙管が忍の前頭部を直撃する。頭蓋骨が陥没していておかしくない手応えを感じながら、炉火は後方へ跳んだ。まるで衝撃も痛みも感じていないかのように、忍刀が炉火の膝と脇腹を裂く。 仲間が撃たれている間に距離を詰めた忍が、異様な強力で水魚の腹を蹴飛ばす。うずくまった所へ振り下ろされた忍刀を、水魚は辛うじて地に転がって避けた。 「十!」 煙管で忍刀と鍔迫り合いを繰り広げ、膝蹴りと頭突きを応酬しながら、血に濡れた炉火の左手が、後ろに回る。 「大丈夫ですわ」 地を転がった拍子に噛み切ったか、唇から血を垂らしながら水魚は答えた。嵩に掛かって斬り込んでくる忍刀を天貫の腕輪で受け止め、クルマルスの銃口を引き寄せる。切り返す刀に右前腕を斬り裂かれながらも、銃口に弾丸と練力を流し込む。 刹那、忍の背後で乾いた破裂音が乱発した。仰天して跳び上がった忍が横に跳び、背後を伺う。 破裂音の正体は、短銃の火縄で着火した炉火の爆竹だった。 一瞬早く我に返った水魚が銃口と銃把を反転させ、忍の胴に銃口を押しつけるや、迷わず引き金を引く。 爆音と共に、忍が一丈ほども後方へ吹き飛ばされた。 それを見届ける暇もなく、忍の強力に弾き飛ばされた炉火が、投げつけられた手裏剣三枚を残らず身体に浴びた。 「野郎」 流れる血も気にせず、炉火は遮二無二忍に組み付く。 その口から漏れる甘酸っぱい香りが、炉火の癇に障った。 「火事場のクソ力見せてやんよ!」 全神経を、触覚に集中する。 相手の考えることが、身体の動きが、手に取るように解る。重心は右足の真上。強く押し込み、押し返す所を引いて延髄を裂くつもりだ。炉火は左手を腰に回すと左足一本で立ち、右腰を相手の右腰に押しつける。さりげなく、右足が敵の左踵の後ろに触れる。 シノビが、突如身体の力を抜いた。勢い余って炉火の身体がつんのめる。同時に、炉火の右足が忍の右踵を刈った。 完璧な大外刈りが決まり、炉火の右手首が忍の後頭部を地面に叩きつけた。間髪入れず、右手の喧嘩煙管を全力で振り下ろす。受け止める忍刀は間に合わず、シノビの前歯が砕け散った。 もう一撃。炉火が振り上げた煙管に反応し、シノビが防御姿勢を取る。 「馬鹿が」 腰に回していた炉火の左手は、既に短銃の火蓋を切っていた。 乾いた破裂音と共に、銃弾が忍の腹を撃ち抜いた。 ● 大きく地面が抉れて周囲から死角となった場所で、振袖姿の少女が木の根に腰掛け、膝を抱えてうずくまっていた。 「こんこん」 狐の鳴き真似が、その頭に浴びせられる。弾かれたように顔を上げた珊瑚の前には、紅白の狐の面があった。息を呑み、悲鳴を上げようとした珊瑚に、穏やかな声が掛けられる。 「空狐なのですよ」 そっと狐の面が横にずれ、空狐の赤い瞳が細められた。 「空狐さん」 「お待たせしてごめんなさいですよ」 空狐が、屈託のない笑顔を浮かべた。その後ろに、真朱が姿を見せる。 「何だい、案外元気そうじゃないか」 「真朱さま」 「全く、この馬鹿、心配掛けやがって」 真朱が目の下に隈を作った顔で笑い、珊瑚の頭を鷲掴みにして立ち上がらせた。珊瑚の顔に徐々に理解の色が広がり、見る間にその目に涙が盛り上がっていく。 「手伝わせようとして拾ったのが、逆に手掛けてりゃ世話無いよ」 僅かに濡れた声で毒づきながら、真朱の手が力強く珊瑚を抱き寄せた。 珊瑚は小さくしゃくりあげ始めた。 「ごめんなさい、真朱さま、ごめんなさい、お店が」 「店なんざ、とっくに片付いてみんな仕事始めてるさ」 「心配もおかけして、こんな所まで」 「おう、散々歩き回ったさ。くっく、影政の馬鹿もね」 真朱は目を赤くして笑う。 「ったく、帰ったら目一杯働かせてやるからね」 「無事だったようで、何よりですわ」 あっさりと忍を片付けた水魚が、木立の間から顔を出した。 血塗れの身体に止血剤を振りかけながら、炉火が続く。 その手が、懐から小さな瓢箪を取り出した。 「腹減ってんだろ。山ん中じゃ、大したもんも食えなかったろうしな」 中には粘性の高いものが入っているようだ。恐る恐る受け取った珊瑚が栓を抜き掌の上で逆さにすると、琥珀色の液体が尾を引いて流れ出てきた。麦芽水飴だ。 「甘いもんは疲労にも精神安定にもいいからな。大丈夫そうなら喰っときな」 「悪いね、気を遣わせちまって」 思わぬ貰い物に狼狽えて顔を見上げる珊瑚に、真朱は頷いて見せる。 珊瑚は空狐と顔を見合わせ、そっと瓢箪の口を差し出した。 「‥‥あの、空狐さん、よかったら一緒に」 予想もしなかった言葉に、空狐は赤い目を瞬かせた。 真朱は肌の荒れた顔に笑みを浮かべ、空狐の金色の頭に手を乗せる。 「貰ってやっとくれ」 言われ、空狐は嬉しそうに手を差し出した。 「それから珊瑚、こいつを履いときな。カルフにも礼を言うんだよ」 真朱の手が、珊瑚の頭に白い羽草履を乗せた。 珊瑚はのろのろと草履に足を通し、また顔を覆って泣きだした。 「ありがとうございます。あの、ほんとうに」 真朱にすがりついて泣きじゃくる珊瑚に、カルフが微笑んだ。 「お礼なら、蜘蛛助さんにおっしゃって下さいね」 言われて、珊瑚は涙と鼻水に濡れた顔を真朱の服から離した。 「蜘蛛助さん。蜘蛛助さんは、いないんですか」 「ちゃんと、人目のつかない所に隠れてるのですよ。珊瑚のことを知らせるために、大怪我までして空狐達の所へ来たのです」 言われ、珊瑚は更に激しく泣き始める。 「しかし解せないのは、あいつの執念だよ。珊瑚、あんたあいつの事を知らないのかい」 問われても、珊瑚は泣きながら頷くばかりで答えられない。 「知ってんのかい、知らないのかい。どっちなんだい」 重ねて問われ、珊瑚は手の甲で目をこすりながら、涙声を発した。 「真朱さま、あの人なんです。このあいだ、町で私に声を掛けてきた、背の低い‥‥」 「声を掛けてきたって」 真朱は暫し考え込み、やがて指を鳴らした。 「そんな事言ってたね」 「知らない人に、ついていくなって、言われてたから‥‥真朱さまのお店で働いてますって、言って、逃げてきちゃったんです」 「ふうん」 真朱は唸る。 それきり口を閉ざした珊瑚を、真朱がまじまじと見た。 「何だ、それだけかい」 珊瑚はしゃくり上げながら頷く。 その時だった。炉火が腰の短銃を抜き、水魚が長銃の装弾を始める。 獣のような唸り声。珊瑚と空狐、カルフを咄嗟に後ろへ隠し、真朱が袂から符を抜いた。 「なんだ、こりゃ」 木立の間からゆっくりと歩み寄ってくる影を見て、炉火が顔を歪める。 現れたのは、古屋だった。いや、正しくは、古屋であった男だった。全身の筋肉が異様なほどに隆起し、白目は一分の隙間もないほどに血走り、口からは涎を垂らしている。 「よう、真朱じゃねえか。先に珊瑚を見つけちまったか」 古屋の隣に姿を現したのは、打刀と槍を手にした用心棒二人に守られた影政だった。 「一歩、いや二歩も三歩も遅れちまったか。一々忌々しい野郎共だ」 真新しい羽草履を履き、すっかり目を赤く泣き腫らした珊瑚を見て、影政は舌打ちを漏らす。 「おい古屋。あいつらを片付けたら、欲しい物をくれてやるぜ」 古屋は塗られた漆が割れる程に握り締めた鞘から、打刀を抜き放った。 「てめえ、自分の部下に何しやがった」 「なに、勝ち目が無いんで抜けるとかほざきやがってな」 炉火の問いに、影政は下卑た笑いを浮かべた。 「なら傷の手当てくらいしていけっつって、たっぷりと痛み止めと飲ませてやった」 水魚が唇を噛み、地毛の黒髪が下から生え始めた金髪を睨む。 「梅香ですわね」 「おう、効率良く梅香を効かせる方法を試しててな。まだ動物でしかやった事は無かったが、こうも上手くいくたぁな」 音を立てて、古屋の左手に握り締められた鞘の鯉口が砕け散った。 |