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■オープニング本文 前回のリプレイを見る ● 「離して下さい、離して」 「ちいと静かにしてくんな」 背の曲がった小柄な男が、肩に担いだ振袖姿の少女の背を叩く。 「真朱さまが、店を出てはいけないとおっしゃったんです」 「影政に狙われたんじゃ、あすこはもう駄目だ」 言いながら、男は荷車の陰へ飛び込んだ。 足音が近付き、そして通り過ぎていく。 「屋敷に行く道は全部抑えてやがんな。どうにかこれを引っぺがしてえが」 男は、やに臭い息を吐いた。 「狼煙じゃ、どれだけ釣り出せるか怪しいもんだ。こいつらが全員でおん出て来なけりゃならねえような‥‥」 その声を聞き、珊瑚はふと眉をひそめた。 「あの、おじさん、ひょっとして」 男の手が、強引にその続きを封じた。 足音が二つ、近付いてくる。 「誰だ」 生暖かく汗臭い男の手が、珊瑚の口を覆っている。 「仕方あんめえな」 男は口の中で囁き、竹筒のついた小柄を懐から取り出す。 珊瑚の目が恐怖に見開かれた。 ● 仁兵衛が、襖を開けて部屋へ現れた。 「ホトケが見つかった」 落ち着きなく指先で畳を叩いていた真朱が、弾かれるように顔を上げる。 「ああ、珊瑚さんじゃねえよ。影政の私兵だ」 「驚かせるんじゃないよ」 真朱は安堵から肩を落とし、大きく息をついた。 「町の衆が、物音と話し声を聞いてたそうだ。小さな刃物で、首筋をざっくり。殺ったのぁ、あたしのよく知る野郎だろう」 仁兵衛は、町人から聞いたという物音の一部始終を真朱に話した。 「で、誰なんだい、その野郎ってのぁ」 「蜘蛛助ってえ、あたしの右腕だ。一昔前から情報屋として動き回ってる。ここ数日連絡が取れなかったんで、言付けだけ残しておいた」 「何て」 「仲買人は捕まえたが、二重尾行がついてた所を見ると敵の泳がせた囮かも知れねえ。万一に備えとけ、とねえ。実際に店が襲われて、あんたの急所を守ろうとしたんだろうよ」 「なら、何であんたの所に珊瑚を連れて来ないんだい」 刺すような真朱の視線を、平然と仁兵衛は受け止めた。 「道はどこも影政の私兵が塞いでる。子連れじゃ強行突破もできねえ、街中に延々潜んでもいられねえ。となりゃあ、町を出るより他はあんめえ」 仁兵衛は湯呑みに手を伸ばした。 「現に、この界隈から影政の私兵が減った。敵も蜘蛛助が町にいねえと察し」 「捕まったんじゃないだろうね」 真朱が苛立たしげに仁兵衛の言葉を遮る。 「捕まったなら、影政があんたを脅しに掛かってんだろう」 「どうだか。それにあんたは麻薬の事を知らなかったじゃないか。何で芸妓の内通まで警告してた奴が、麻薬の事をあんたに報告してないんだい」 「そればっかりは、本人に聞いてみなけりゃあわからねえこった。何かもっと大事なことでもあったんじゃあねえかい」 仁兵衛は何を疑う様子もなく、膝に頬杖をつく。 「裏切ったんじゃないだろうね」 「もし奴が裏切って珊瑚さんに傷一つでもつけたら、あたしを生きたまま八つ裂きにしな」 仁兵衛はさらりと言い、真朱の顔を下から覗き込んだ。 「いいかい。梅香は、湿気の多い日当たりの良くねえ所で育てた青梅草の葉を発酵させたあと、陰干しにして作る。途中で日を当てちゃあなんねえ」 「何の話だい」 真朱が訝しむ。構わず仁兵衛は続けた。 「こんなもんを、一体どこで作って、町に運び入れてんだろうねえ」 「小松原が吐いた、趙って野郎が三倉に運んでるんだろ」 「どっこい、菜奈に調べさせたが、辺りの町にゃ薬の影も形も無いんだねえ、これが」 真朱は仁兵衛の顔を凝視した。 「てことは」 「他でもねえ、この町で作られてるってこった」 一瞬の沈黙。 「山か」 真朱が人差し指を下唇に当てて呟いた。 「あたしなら、薬を作ってる畑なり何なりで騒ぎを起こして、私兵を町から引きずり出す」 荒々しい足音が、廊下から近付いてくる。 「蜘蛛助が梅香を山で作ってると知ってたかどうか、こいつぁ今確かめようがねえ。だが、調べてみる価値はあるんじゃねえかい」 足音は部屋の前で止まり、殆ど半裸にまで長着を着崩した菜奈が襖を引き開けた。 「おい糞爺。藤野屋が来たぜ」 「今行く」 仁兵衛は頷き、腰を上げた。 「ったく、人を敵の縄張りの中に呼び出してまでこき使いやがって」 菜奈はぼやき、襖を閉じながら付け加えた。 「ああ、山の中で煙が上がってんぜ。何かあったんじゃねえか」 仁兵衛と真朱が、顔を見合わせた。 ● 「早くしろ! 岸田と真朱が来るぞ!」 「手の空いてる奴、空の倉壊せ!」 「爺と餓鬼、早く見つけろ! もう遠くに行っちまうぞ!」 森の中にぽっかりと開けた空間を、怒号が飛び交っている。 「どうなってんだい、こりゃ」 そこは十年前に廃棄された、二の倉と呼ばれる廃倉庫群だった。それが今、赤い炎と黒い煙を上げている。 「爺と餓鬼を追うってことは、もう蜘蛛助と珊瑚は山の中、か」 真朱は舌打ちを漏らす。仁兵衛は、蜘蛛助が戻ってきた時に備えて町に残っている。 時折見える人影は、すぐ側の川で水を汲んでは火に投じ、まだ火勢の弱い蔵から何かを運び出していた。 「旦那、駄目だ! 川で血痕が途切れてやがる」 「弥次郎には上流、菊池には下流を探させろ」 真朱に聞き覚えのある声が怒鳴る。真朱の心臓が、物騒な鼓動を始めた。 発せられた殺気に気付いたか、声の主が風に煽られながら振り向く。 細く整えられた黒い眉。根元が黒くなった、金色に染められた髪。 「ちっ、存外早く来やがったな」 影政だった。真朱を認めるや勢いよく鼻を鳴らし、顎をしゃくる。 「岸田は留守番か?」 「てめえ如き、あたし一人で叩き殺してやるよ」 「あの爺が留守番てこたあ、まだ町に余程の用事があるか」 影政が、炎上する倉の陰で笑った。 真朱が取り出した符を口に咥え、くぐもった声を発する。 「この一件、親分はご存知なんだろうね」 「おう、ご存知もご存知、百も承知だ」 影政は狂笑を上げた。 「ご自分も良い心持ちになってな」 真朱が眦を裂き、口に咥えた符を引き千切った。符の裂け目から渦を巻いて湧き上がった霧が、見る間に氷の鱗を纏った巨大な一頭の竜になる。 「おう、怖え怖え。おい古屋、趙」 影政は笑いながら、倉の陰へと逃げ込んだ。 「てめえも親分も、解らねえ奴だ。人の食い物にしかなれねえような連中を、何で自力で生きていける俺達が守ってやらなきゃなんねえんだ」 影政と入れ違いに、鎧姿の壮年の男と旗袍に身を包んだ男が姿を現す。 「真朱は、女郎を手なずけるのに要る。残しとけ」 「承知」 古屋が頷き、段平を抜いた。刃長が四尺はある、異形の大段平だ。 消火に当たっていた男達も、既に獲物を持ち替えている。 影政の声が遠ざかりながら叫んだ。 「足手まといにしかならねえ、何の得にもなりゃしねえような連中が、一家に守ってほしいってのか? 男相手に汚え股ぐら開いて日銭を稼ぐだけの女郎が思い上がって金を渋りやがるから、金の払い方を教えてやったんだ。感謝しやがれ」 |
■参加者一覧
柊沢 霞澄(ia0067)
17歳・女・巫
鬼島貫徹(ia0694)
45歳・男・サ
十 水魚(ib5406)
16歳・女・砲
カルフ(ib9316)
23歳・女・魔
乾 炉火(ib9579)
44歳・男・シ
稲杜・空狐(ib9736)
12歳・女・陰 |
■リプレイ本文 ● 壁材があちこちで爆ぜ、火の粉が木々や地面に降り注いでいる。 「こんな所で栽培していたんですね。それとも、陰干しでしょうか」 十水魚(ib5406)の黄金色の獣耳が、風の具合で飛んできた火の粉に触れ、嫌がるように小刻みに震えた。 「資金集めだけでは物足りず、親分さんを薬漬けにして組を乗っ取るなんて。瀧華の侠客はやる事が一々下衆ですわね」 まだどこか幼さの残る顔を曇らせ、口を真一文字に引き結ぶ。 「仁義なんて無いんでしょうね、彼らには」 「真朱さん、結界呪符を」 水魚とさして背丈の変わらない金髪の少女、カルフ(ib9316)が声を掛けた。 「そこの道をふさいで下さい」 「任せな」 真朱の手を離れた符が空気でも入れられたかのように膨らみ、巨大な壁となって倉の間を遮断するように聳え立った。一手遅れて、雷と化した精霊力がその表面に触れて布を裂くような音を上げる。 「火元は南西、風は北向き。鉄甲と棍を持った私兵が四人、均等に分かれて近付いてきてるのです。被害が無いのは、手前」 白を基調とした狩衣の袂で口を抑え、尖った耳の上に紅白の狐の面を結んだエルフの少女、稲杜空狐(ib9736)が呟く。 上空から、青白く燃える符が降ってきた。空狐が人魂として放った道符の残骸だ。 「煙を吸うなよ」 忍者鎧に外套を羽織って輻射熱を遮っている乾炉火(ib9579)が、倉庫群の南から鋭く声を上げた。 「干してたのか保管してたのか解らねえが、出来上がったもんが燻されてるとやべぇ」 「梅の香りがしたら、危ないですわね」 水魚が厚司織の袖で口を抑えながら呟く。 「十分もこいつで燻製にされたら危ねぇと思っとけよ」 煙を吸い込まないよう長手拭いを口に巻きながら、炉火は短銃を抜く。 「『梅香』か。ったく、厄介な代物を作ってくれやがって‥‥」 ぼやく炉火の側で、黄金色に輝く粒子が宙を舞いだした。 七尺近い金色の杖から立ち上る粒子は見る間に凝集し、小さな光球となる。荒れ狂う精霊力は、犬猫程度なら蒸発させかねないほどだ。 「今までは三倉の町での勢力争いだと思っていましたから、積極的に介入するかどうか迷っていました‥‥」 柊沢霞澄(ia0067)の銀色の髪と瞳が、黒い魔法帽の下で光を浴び、金色に輝いている。 「が、主をも謀り自らの私腹を肥やそうとする行い、人道的にも許されるものではありません‥‥」 悲しげに、しかし決意を秘めた目を上げ、霞澄は倉の陰から顔を出した泰拳士をにらみ据えた。 「あまり人を傷つけたくはありませんが、‥‥この件に関しては躊躇せずに成敗させて頂きます」 光球が、大地を薙ぎ払う閃光と化した。 地面を深々と抉る光に泰拳士が紙の如く吹き飛ばされ、燃え始めた始めた倉に激突して動かなくなる。 一瞬、異様な沈黙が降りた。 「な‥‥何だ、ありゃ」 「馬鹿、顔出すな! 物陰から狙え!」 圧倒的すぎる精霊砲の一撃が私兵と侠客に与えた影響は甚大だった。倉の陰から撃ち出されていた雷や気弾が、ぴたりと止む。 「ご苦労」 風に煽られて陣羽織が揺れ、鬼島貫徹(ia0694)の歩みに合わせて胴巻が音を立てる。 身の丈六尺の大柄な身体を遥かに凌ぐ、八尺を上回る異形の大斧が、炎を反射して赤く輝いていた。 角の向こうから振り下ろされた白刃を易々と腕輪で受け止め、その手で侠客の顔面を鷲掴みにする。 「この大たわけが!」 雷鳴の如き一喝と共に、侠客の後頭部が倉の鎧戸を叩き割った。 笑みを含む古屋の声が響く。 「あの屑が許せんか」 「莫迦を抜かせ」 天を衝く異形の大斧を脇に残し、鬼島は前方へと身体を倒した。侠客が身構え、泰拳士二人がそこへ襲い掛かる。 緩慢に動き出した刃が、加速する。加速する。加速して、銀色の風となる。 鉄、肉、骨、木、全てを叩き潰す、出鱈目な音響が響いた。爆ぜるようにして、刀、鎧、血、そして人体の断片が吹き飛ぶ。 「暑い」 血塗れの左手を首にかけて骨を鳴らし、鬼島が血の海へと足を踏み出した。 出鱈目な重量の金属塊は、更に出鱈目な破壊を撒き散らしていた。 巻き込まれた志体の無い二人は、鎧ごと腹を両断されている。咄嗟に防御姿勢を取った泰拳士は楊枝のように棍をへし折られ、左肩と鎖骨を鎧ごと叩き潰されていた。後方に躱そうとした泰拳士は胸を断ち割られ、血を吐いてのたうっている。 「クソ暑い」 泰拳士二人の拳を受け、口の端を切って血を流しながら、鬼島が大喝する。 「芋でも焼いているのか知らんが、この時期に焚火などして燥ぐ阿呆共め」 古屋は額に汗を浮かべつつも笑みを浮かべ、武者震いをした。 「良き敵。行くぞ」 大段平を平正眼に構え、古屋が地を蹴った。 ● 緩やかに弧を描く弾丸が崩れた壁材の上を掠め、白鞘を手に走る男の右肘を撃ち抜いた。同時に、倉庫群の南東で断続的な軽い破裂音が響く。侠客と私兵が目を剥き、音のする方角を窺った。 「力だけとは言え、数が揃えば脅威ですわ」 金属製品を殆ど身に着けない水魚は木立に潜み、私兵の射程外から一方的な射撃を浴びせていた。 右手で愛銃を引き寄せ、左手で弾丸を銃口に投げ込み、指先から練力を流し込んで押し固め、銃身を前へ送って基部を肩に当てる。この間、僅かに一秒。獲物を求めて銃口を動かし、また一秒。狙いを定めて二秒。 轟音を上げて銃口が弾丸を吐き出し、別の侠客の右鎖骨を吹き飛ばす。 泰拳士が、倒れる侠客から上に視線を移した。 壁から上がる煙が、一部、異様な形に歪んでいる。 「狐‥‥」 煙の中に浮かぶ半透明の狐の姿が、掻き消えた。瞬間、泰拳士の左手指が三本、血と共に宙を舞う。 「珊瑚を助けるのです!」 倉庫の東端に張り付いていた空狐が、新たな符を取り出した。 「あの勘違いもはなはだしいクズ野郎に目にもの見せましょう!」 愛らしい童女の口から飛び出した威勢の良い啖呵に、真朱の厳しかった顔に驚きの色が浮かぶ。 それに気付いた空狐が、無理に笑顔を作った。 「‥‥なのですよ」 「だね。目にもの見せてやろうじゃないか」 真朱は金糸のような髪を撫で回し、顔を上げた。倉の上から、泰拳士が飛び降りてきたのだ。 空狐が白い歯を噛み締める。 「手伝いな、空狐」 怒鳴り、真朱が泰拳士目掛けて草履を飛ばした。瞬き一つの間に傘を開き、その視界を塞ぐ。 空狐の手を、道符が這い上がる。 「邪魔を‥‥」 傘を蹴り飛ばした泰拳士を、氷龍の吐息が押し包む。肩から跳び上がった空狐の符は、一匹の狐の姿を取った。 「するな!」 狐が風を舞って突進し、泰拳士の体に絡みついた。 一瞬の間隙を挟み、氷龍に凍らされた鎧の隙間から血が噴き上がる。 「いい子だ」 真朱は荒っぽく空狐の頭を叩く。 と、後方で異様な音が発せられた。 「危ねぇな」 炉火だった。二尺近い鉄製の長煙管で、後ろに回っていた志士の後頭部を思い切り殴りつけたのだ。 振り向きざま、志士の一閃が炉火の鼻を掠めた。仰向けに身体を反った炉火の煙管が、志士の軸足の膝を砕く。倒れながら突き上げる鋒を脇に受け、血飛沫を上げて炉火が左手をつく。 同時に、空狐の手から跳ね上がった符が、志士の脇を斬り裂いた。 炉火はそのまま片手で倒立して転倒を防ぎ、膝を割られ倒れ込んだ志士の腹に右足一本で着地する。ついでとばかりに、左足が志士の前歯を踏み砕いた。 「一番やばい侍から、囲んで、押し包め! 他はあとだ!」 倉庫群の西側。炎を背負って叫ぶ泰拳士の視界の端で、何かが動いた。 東側の気温が、一気に低下した。火の勢いが弱まり、白く輝く霧が辺りに立ちこめる。 氷霧の嵐が巻き起こった。二つ隣の倉から、一瞬で体温を奪われて動けなくなった侠客達の悲鳴が聞こえる。 「迂闊に動くと、思わぬ所から痛い目を見ますよ」 倉の傍で、カルフの色鮮やかなローブがはためいていた。火よりも赤いとんがり帽子に、両眼を覆う薄手の眼帯が異様だ。 その手に握られた短剣が、不吉な赤い煌めきを放つ。反射的に、泰拳士が地を蹴ってカルフへ襲い掛かった。 カルフが、左手のベイルを掲げて小さな身体を庇う。泰拳士は思いきり右肩を前に突き出すようにして宙で一回転し、全体重を掛けた踵をカルフの脳天に見舞った。 ベイルを乗り越え、カルフの赤い帽子を踵が踏み潰す。衝撃は小さかったが、脳を揺らされたカルフはたたらを踏んだ。 嵩にかかった泰拳士が、鉄甲を填めた両の拳を猛然とカルフに打ち込む。ベイルの陰に隠れ、カルフは覚束ない足で何とかその連撃を防ぐ。 反撃に出ようとカルフが短剣を握り締めた刹那、泰拳士の身体が桔梗色の霧に包まれた。 横手へ抜けていた真朱の、氷龍の符だ。四つ辻に誘い込まれて的になっていると気付いた泰拳士は、咄嗟に真朱の正面から飛び退く。 と、今度はその身体が地面から噴き上がる白い霧に押し包まれた。 「迂闊に動くなと言った筈ですが」 カルフが地面に仕込んだフロストマインに体温を奪い尽くされ、泰拳士の心臓が鼓動を止めた。 ● 「貴様、まさか梅香でも使ったか」 荒い息をつきながら、古屋が唸る。 既に兜は割れ、右の鎧袖は落ち、草摺も二枚が落ちていた。 三段突きを二度受けて全身から血を流しながら、鬼島が、殆ど唇を動かさずに呟く。 「麻薬をやっていようがやっていまいが、そんなものは何の関係もないのだ」 砕けた奥歯を吐き捨て、古屋が渾身の突きを鬼島の首に見舞った。顎を引いた鬼島の面頬が火花を上げ、紐が千切れて弾け飛ぶ。古屋の手は大段平を引き寄せ、次なる突きへと移っている。鬼島は身体を捩り、鋒が胴巻の大袖を貫いた。更なる突きが、鬼島の脇腹に突き刺さる。 しかしその刀身が深くねじ込まれるより早く、巨大な斧頭が動き出した。 古屋は咄嗟に刀を引き、後方へ跳ぶ。出鱈目な質量が出鱈目な殺意の塊となり、大段平を叩き折って、その身体を吹き飛ばした。 地面で受け身を取り、古屋が顔を上げる。 「才覚の有無も、突き詰めれば志体の有無すら関係ない」 鬼島はゆっくりと斧を脇に構えた。 「必要なのは、覚悟。死して尚、事を為し得ようとする鋼鉄の意志、それこそが力なのだ」 「死して尚、か」 古屋は地面に指を立てて半身を持ち上げた。 「俺には無い覚悟だな」 掴んだ土を鬼島に叩きつけ、古屋が背を見せて走り出す。左目に僅かに土を浴びただけで鬼島はそれを防いだが、それ以上古屋を追おうとはせずに踵を返した。 既に大半の侠客は倒れ、私兵も呻きを上げながら地面に転がっている。 その中、まだ戦いの手を止めていない人影があった。 霞澄が、厳しい目で正面を睨んでいる。足音が、横手から後方へと動いていく。眼前に立っているのは、赤龍の鱗を手に着けた泰拳士、趙だ。 足下には、薬を求めて藻掻き苦しむ侠客が転がっていた。解毒の術によって梅香を抜かれ、禁断症状が現れたのだ。 先に動いたのは霞澄だった。右手に握った杖「カドゥケウス」を前へ翳し、全身に金色の光を纏う。 趙が弾丸の如く低空を駆け、全体重を右拳に乗せ、防御態勢の整っていない霞澄の鳩尾に叩き込んだ。 人体が、宙を舞った。 肋骨を折られたか、身体を屈めているのは、霞澄だ。 光の奔流に呑み込まれた趙は、そんなものでは済まなかった。倉の角に激突して跳ね返り、血反吐を吐きながら地面に叩きつけられる。 「‥‥私も、少し怒っているようです‥‥」 体を開いた霞澄の傍を、白刃が通り過ぎた。後ろから、侠客が近付いていたのだ。 身体を屈めて取り出した白球を、霞澄が侠客の懐に入れ、その背を杖で突きとばす。 「ん」 何が起きたか解らない侠客は、懐から玉を取り出す。 趙が絶叫した。 「馬鹿、馬鹿」 白球は、導火線を下に向けた焙烙玉だった。 「おい、忘れもんだぜ」 声と共に放り投げられた白球が、侠客の後ろに落ちる。火の点いていない倉の上から、炉火が新たに焙烙玉を投げたのだ。 侠客の懐で炸裂した焙烙玉が、炉火の焙烙玉に誘爆した。二箇所から弾け飛ぶ鉄菱が空中でぶつかり合い、無数の金属音と火花を散らす。 「残りは鬼島とカルフが引き受けてる。行くぞ」 「もう少しだけ‥‥。証拠の保全もあります、可能な限り消火と、敵の捕縛をしてから‥‥」 「解った。水魚と先に行くぜ」 「すぐに追いつきます‥‥」 霞澄と頷き合うと、炉火は木立の中から残らず侠客を薙ぎ倒した水魚と合流し、森の中へと消えた。 「仁兵衛のところの下男と聞くが、本当に大丈夫か」 霞澄の愛束花で傷を癒されながら、鬼島が動かなくなった趙を見下ろす。 「下男では、なかったと思いますが‥‥」 厳しかった表情を和らげ、霞澄が息をついた。 「腰を抜かしてその辺に隠れているのではあるまいな」 鬼島がどこまで本気か解らない表情で言い、発火していない倉の延焼を防ぐため、斧を振り下ろし始めた。 ● 「血痕って事は手負いか。そう遠くはねぇ筈だが‥‥」 霞澄の愛束花で傷を癒された炉火が、川辺の地面を注視している。耳は辺りの音を丹念に拾っていた。 と、その目が川原に咲く一輪の花に止まった。 花に一匹、泥の色をした地味な虫が留まっている。群れ一つ一つの規模は小さいが、縄張りは三里四方にもなると言われる、蜂だ。 不思議そうな顔で、傷一つ負っていない水魚が覗き込んでくる。 「や、珍しい蜂がいるなと思ってよ。また随分花粉を貯め込んでやがる」 蜂は、雑多な花の花粉で丸々と膨らんだ足をぶら下げ、ゆっくりと舞い上がる。その泥色の体は、四丈も離れると影に紛れて見えなくなった。 炉火が弾かれたように顔を上げた。 「声がする」 「珊瑚さんですか」 炉火の視線の先、下流方向に目を凝らす。 「いや。この鼻に掛かった声は」 半ばうんざりした表情を見せていた炉火だったが、すぐに顔色を変えた。 「隠れろ!」 まず水魚が、続いて炉火が、手近な岩陰に隠れる。飛来した矢が岩に当たって急激に軌道を変え、地面に突き刺さった。 「わざわざ追っかけて来たってわけ?」 川下で長弓を構えた菊池が鼻に掛かった笑い声を漏らした。 岩陰に隠れた炉火と水魚が、視線を交わす。 「向こうに居た連中は片付きましたし、残っているのは、貴方一人だけですわ」 水魚が、さも当然のように声を掛ける。炉火が聞いても何ら違和感を抱かせないはったりだった。 だが、 「あら。私の配下は、辺りで捜索に当たってるけど。そっちも、あの忌々しい爺を見つけてないのかしらね」 菊池は鼻で笑う。 炉火が岩陰で、口許を緩めた。 そっちも、ね。水魚の目が、炉火の唇を読み、小さく頷く。 「あっちが片付いたってのは本当みたいね。古屋がいても負けるなんて、趙も使えないわ」 菊池は暫し思案している様子だったが、やがてその足音が遠ざかり始めた。 「ま、いいわ。今はまだお互いに消耗したくないでしょ。行かせてあげる」 |