算術−誤算−
マスター名:村木 采
シナリオ形態: シリーズ
危険
難易度: やや難
参加人数: 6人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2012/08/22 20:24



■オープニング本文

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「ったく、人使いの荒い爺さんだぜ」
 永徳一家の志体持ち、菜奈が忍装束を脱ぎながら忌々しげに言う。
「菜奈、お前さんねえ、もうちっと恥じらいってもんを知らねえといけねえよ」
 仁兵衛は手元の紙に視線を落としながら眉をひそめる。部屋の真ん中で菜奈は一糸まとわぬ姿になり、ずだ袋から長着を取り出していた。
「そんなもん、親父の玉ん中に忘れてきちまった。こんなくそ暑い中、重っ苦しい忍装束なんざ一秒だって着てられるかい」
 菜奈は革帯を手早く締め、忍装束を荒っぽく丸めて袋の中に放り込んだ。
「それとも、あれかい。爺でも立つもん立つってんなら、相手してやるぜ」
「ど阿呆」
 紙を左手に持ったまま、仁兵衛の右手が文鎮を放り投げた。菜奈は易々とそれを躱し、文鎮は障子を突き破って庭へ消える。
「しかしまあ、おめえのお陰で大分助かった。真朱が持ってきた葉っぱも、種類は割れたしねえ」
 庭から聞こえてきた風螺の悲鳴を空気のように無視し、仁兵衛は頷く。
「後ぁ弥勒の帰りを待ちながら、薬の作り方を調べるかね。それから、竜三を呼んでくんねえ。藤野屋で、紙を買ってきてもらいてえ」
「竜三? 紙だあ?」
 着流し姿になった菜奈は素っ頓狂な声をあげた。弥勒と竜三もまた、永徳一家の志体持ちだ。竜三は、瀧華一家の縄張りに店を出す紙屋「藤野屋」の娘と恋人になっている。
「紙屋なんざ、この界隈にあんだろうがよ」
「いやいや。あたしの面が通る、瀧華の紙屋が要るんだ」
 仁兵衛は緩む口許を隠し、目尻に皺を寄せた。菜奈は呆れ顔を見せる。
「またろくでもねえ事を企んでやがるな」
「おうさ。一番大事な証拠を、開拓者の皆さんが押さえに行って下さるってんだ。算段に手抜かりなんざあっちゃいけねえだろう」
 仁兵衛の目尻の皺が深くなる。
 菜奈はつまらなそうに肩をそびやかす。
「で、瀧華の縄張りにゃ、行かなくていいのかよ」
 言われ、ふと仁兵衛は顔から表情を消した。
「あたしか竜三が行って、ちょちょいと片付けてやろうか。どうせ荒事だろ」
「行かなきゃなんねえ奴にゃ、言付けをしておいた」
「何だそりゃ」
 菜奈の言葉に、仁兵衛は答えない。障子越しに遠くを見つめ、ぼそりと呟いた。
「野郎があたしに言わねえってのぁ、余程の理由があんだろうよ」




 傾いた日の光が、横から三倉の町を貫いている。
 瀧華一家の縄張りには、ちょっとした騒ぎが起きつつあった。
「影政の威光を笠に着やがって」
「真朱さんの店に手を出したら、ただじゃ済まないよ」
 瀧華一家の縄張りに住む人々が、口々に怒鳴る。
「見せ物じゃねえぞ、散れ、散れ」
 だみ声を発し、男が肩に担いでいた鳶口を振り回して野次馬を追い払おうとした。
 が、男が振り上げた鳶口を、色の白い手が掴む。
「止せ」
「けどよ弥次郎さん」
「止せ」
 弥次郎と呼ばれたのは、身の丈五尺足らず、鎖帷子に野袴を履き、額を鉢金、鼻から下を黒い頭巾で隠した男だった。
 男が視線を向けると、野次馬達が一斉に一歩下がる。
「騒がせて相済まん。何も我々は真朱に喧嘩を売ろうというのではない。この店で麻薬を常用している者が居ると知り、検めに来た。昨今街に蔓延し始めた、梅香という禁制の薬だ」
「ばいか?」
「煙草のように刻んで煙管に詰めて吸う薬だ。ここの女郎が、その仲立ちをしている疑いがある。梅のような香りのする煙草を吸っていた女郎がいなかったか」
 野次馬達が視線を交わし、何やら囁き合う。
「俄仕込みで芸事を始めてみようが、女郎は女郎。お前達町人のように真っ当に生きる事のできない、畜生同然の連中だ。それを取り締まるだけだ」
「いや、けどよ‥‥」
「薬の常習者を捕らえるだけだ、黙っていてもらえまいか。繰り返すが、薬と関係のない者や真朱に手を出そうというのではない」
 何となく顔を見合わせた野次馬達が、一人、また一人と口を噤む。
 鳶口を担いだ男が囁いた。
「流石弥次郎さんだ。で、中にゃ入らねえんで?」
 弥次郎は声を殺して答える。
「あの狼煙の意味が解らんからな。予定通り、酉三つまでは待つ。時刻になったら、ここは任せるぞ」




 騒ぎで窓を開けられない二階には、昼間の絡みつくような湿気がまだ残っていた。
「言いたい放題言ってくれるじゃないさ」
 嵌め殺しの格子窓の側に座った芸妓が、吐き捨てるように言う。
 姉貴分らしい芸妓が、振袖の襟元を開けて扇子で風を送りながら肩を竦めた。
「今のところ、店の前で騒いでるだけなんだ。商売にゃならないが、真朱姐さんが帰ってくるまではこのまま待つしかないね。用心棒の旦那がたもいるんだ。簡単にゃ入って来られないだろ」
「だと、いいんだけどさ」
「真朱姐さんの顔見りゃ、尻尾を巻いて逃げていくさ」
 姉貴分が、勢いよく鼻を鳴らす。
 年若い芸妓が、顔に浮かぶ汗をそっと手拭いで押さえた。
「葉っぱって、あれだろ。最近昼顔とか撫子とかが吸ってる」
「きっとね。だからやめとけっつったんだ、真朱姐さんに合わせる顔がないよ」
 忌々しげに言い、姉貴分が畳の上に寝転がる。
 その時だった。
「お姉さん! 大変だよ!」
 顔色を変え、息せき切って芸妓が階段を駆け上がってくる。
「今度は一体何だい」
「昼顔のやつが、何をとち狂ったのか、裏口を開けちまったんだよ! 侍が、店の中に」
「何だって」
 姉貴分が跳ね起き、廊下へ飛び出した。
 吹き抜けになった中庭前の廊下を、抜刀した男が歩いている。
「ちょっと、何をするのよ!」
 裏口のある南側から悲鳴が上がる。が、声はすぐにくぐもり、聞こえなくなった。
「弥次郎さん、こいつはこの場で頂いちまってもいいんで」
「後にしろ。目的を忘れるな」
 低く野太い声が、どこからともなく聞こえてくる。
 廊下に立つ男と芸妓の視線が重なった。男の口許が嬉しそうに歪み、芸妓は鳥肌の立った二の腕を反射的に押さえる。
「てめえら、ここが真朱姐さんの店と解って入って来てんだろうな」
 廊下へ飛び出した用心棒が、手にした刺又で男の右腕を柱へ押さえつけた。
「おじさん、後ろ!」
 震え声に合わせ、宙に浮かぶ銀色の鼬が鈍色の刃を放った。用心棒の背に斬りつけようとしていた男が頬に掠り傷を作り、二階の廊下に立つ少女を睨み上げる。
「この糞餓鬼」
 二階の廊下で足を震わせて立っているのは、紅梅色の小袖に身を包み、見習いの符を手にした珊瑚だった。
「珊瑚ちゃん、あんたはいけないよ!」
 血相を変えた芸妓が、珊瑚の手を掴む。
「でも、真朱さまのお店を、守らないと‥‥」
 手を振り払おうとする珊瑚の尻を、芸妓が思いきりはたく。
「馬鹿ったれ、そりゃあんたの仕事じゃないんだよ!」
「あんたに傷一つついてごらん、あたし達ゃ真っ裸にひん向かれておっ放りだされちまうよ」
 芸妓達は口々に叫び、一室だけ蔵戸のついた部屋に珊瑚を押し込んだ。
 六人いた用心棒は、既に二人斬り倒されている。芸妓達は狼狽え、助けを求めて、辺りを見回した。


■参加者一覧
柊沢 霞澄(ia0067
17歳・女・巫
鬼島貫徹(ia0694
45歳・男・サ
十 水魚(ib5406
16歳・女・砲
カルフ(ib9316
23歳・女・魔
乾 炉火(ib9579
44歳・男・シ
稲杜・空狐(ib9736
12歳・女・陰


■リプレイ本文


 店の裏口。まばらながらも集まりだした野次馬達の背に、高笑いが浴びせかけられた。
「なんだ。引越し準備の最中か」
 笑声に驚いた人々が、一斉に道を開ける。夕陽を浴び燦然と輝く金色の鎧が、離れの前に立った。大小を腰に差した茶筅髷の男、鬼島貫徹(ia0694)だ。
「流石に引っ越しってこたぁねぇと思うが」
 苦笑し、二尺近い長煙管を咥えた青い髪の中年男、乾炉火(ib9579)が火皿の灰を溝に捨てる。
 巫女装束の上にジルベリアの祈祷服を重ねた市女笠の少女、柊沢霞澄(ia0067)が慎重に裏口を耳を近づけ、中の様子を窺った。
「このタイミングで店を襲ったのはやはり真朱さんの弱みを握る為でしょうか‥‥」
「真朱、心配だとは思うですが落ち着いてください、なのですよ」
 側頭部に狐の面を着け、狩衣の上に羽衣を羽織った金髪の少女、稲杜空狐(ib9736)が真朱の長着の袂を引いた。
 眦を吊り上げていた真朱は、すぐに表情を緩めて空狐の頭に手を置いた。
「そうだったね。危ないとこだ」
 金色の頭を撫でられ、空狐は嬉しそうに頷く。
「あたしは悲恋姫しか攻撃する方法がない。馬鹿共の相手は任せていいんだね」
「もちろんなのです」
 空狐は勢いよく頷き、口許を綻ばせると、鬼島の入っていった離れの裏口へと向かう。
「瀧華の連中を追い払うのは勿論ですけど、その後も視野に入れないと、面倒になりますわね」
 夕陽に映える黄金色の獣耳と尾を生やし、小袖に身を包んだ神威人、十水魚(ib5406)が飛竜の装飾が施された短銃を抜く。
 と、
「それなのですが。真朱さん」
 小柄な身体に六尺近いトネリコの杖、そして身体の半分ほどをも覆い隠す大盾を持った金髪の少女カルフ(ib9316)が、そっと真朱の側に寄り、背伸びをして何やら耳打ちを始めた。
 一度、二度。真朱がカルフの言葉を聞いて頷き、その口許に会心の笑みが浮かぶ。
「あんた。天才じゃないか。やっとくれ」
 真朱に背を叩かれ、カルフは痛みに顔を歪めながら苦笑する。
「薬に手を出している芸妓の部屋は」
「離れの二階だ。北東側に大体固まってる」
「離れですか」
 カルフが意外そうに問い返した。
「芸妓は客が来てから空いてる部屋に行くからね」
「だとしたら、敵が離れに行かないのは腑に落ちませんわね」
 渡り廊下の屋根へ、私兵の忍が上がった。壁の陰に隠れながら、水魚が呟く。
「薬を使っている証拠となれば、生活している離れを真っ先に押さえるでしょうし」
「薬なんざ、建前だろうさ」
 真朱が吐き捨てるようにして言った。
「いずれにしても今は相手の思惑通りに事を運ばせない事が肝要でしょう‥‥」
 裏口に張り付いた霞澄が、離れの裏口へ消えていく真朱に頷き掛ける。
「珊瑚さんも舞妓さん達も私達が守ります‥‥」
 離れの裏口から顔を出した真朱が、小さく笑みを浮かべて頷いた。
「頼んだよ」




 西日を遮る店の影に、怪鳥の如く炉火の外套と小袖が舞い上がった。渡り廊下の上で、二人の忍が腰の忍刀を抜き放つ。
 轟音が響き、抜刀して空いた鎧の薄い右腋下を、夕陽よりも赤い火球が完璧に撃ち抜いた。
「敵は二階を目指しているみたいですわね」
 離れの裏口前で水魚が短銃を回転させ、瞬き一つする間に弾丸と練力を銃口に流し込んだ。
 炉火が七尺の板塀を足場に、渡り廊下の屋根へと飛び移る。
 右脇を撃ち抜かれた忍が、炉火の長煙管を左手の忍刀で受け止める。がら空きになった左脇に、炉火が右膝を叩き込んだ。右脇に力の入らない忍は為す術もなく屋根から転げ落ちる。
「おのれ!」
 残る忍が横薙ぎの一太刀を見舞う。炉火は屋根に右手をついて屈み込み、鋒に額を裂かれながらも、忍の右膝に左の突き蹴りを叩き込んだ。
 異様な刀の振りの速さ、そして腕力だ。振り下ろす刀は、煙管で受け止めても腕に食い込んだ。咄嗟に、額から小鼻の脇を通って口に入った血を忍の目に噴きかける。
 裏口前で霞澄の放り上げた金色の花束が夕陽を浴びて砕け散り、炉火の傷を瞬く間に完治させた。
 刹那、渡り廊下の下で戸口が開いた。
 忍が転落する音に驚き、志士が開け放ったのだ。渡り廊下を傲然と歩く鬼島が、その眼前に立つ。
「何だ貴様! 今この店は」
 鬼島は突きつけられた刀を短剣「左手」で押し退け、刀「覇閃」の柄頭を志士の顔面に叩き込んだ。
「祭に乗り遅れずに済んだわ」
「貴様!」
 鼻を砕かれながらも、志士が刀を下段から斬り上げる。
 「左手」で子供の拳でも止めるかのように刃を受け止め、鬼島は目を細めた。その視線は志士を越え、店の中の注視している。
 絶叫が響いた。
「あれに見える柱の花生け、悠門の青磁と見る。他に金でどうにもならない物があっておかしくない」
 鬼島が、崩れ落ちた志士の襟首を掴んで外庭へ放り出す。志士の左腿からは、夥しい量の血が地面へと流れ出していた。
「稲杜、どうだ」
 鬼島に声を掛けられ、すぐ後ろについて歩いていた空狐がそっと目を閉じる。
 途端、日暮れ時の板塀に止まっていた蜥蜴が、目に沁みるような純白の身体をそっともたげた。
「カルフと真朱が、裏口から入ったのです」
「良し。では行くか」
 鬼島は躊躇も恐れもなく、戸口を潜った。




 裏口を開けて北西の階段へ向かった霞澄は、すぐ側で起きた物音に気付くと足を止め、迷わず襖を引き開けた。
 腹から夥しい血を流して倒れ伏す用心棒と、半裸で手足を縛られた芸妓が転がされている。
「もう大丈夫です‥‥」
 部屋に私兵がいない事を確かめ、霞澄は二人に駆け寄った。
 手の中に生み出した精霊力を束ねて用心棒の身体にそっと落とし、芸妓を助け起こす。カルフが部屋に滑り込み、中の臭いに鼻を鳴らすと、懐から何やら取り出して部屋の隅に屈み込んだ。
「姐さん、許しとくれ‥‥金を‥‥金をくれるって言うから」
 厳しい顔で部屋へ入ってきた真朱に、縄を解かれた芸妓が這い寄っていく。
「最近葉っぱを吸えなくて、芸も、お金も‥‥こんな事になるなんて、思わなかったんだよ」
「元凶を絶つためとは言え、あんた達をすぐに止めなかったのは、あたしの判断だ。ちゃんと、あたしが最後まで責任持って面倒見てやるさ」
 霞澄は、真朱にすがりつく芸妓の様子に眉をひそめた。志体のある真朱でさえ、その手を剥がすのに手間を要している。
 霞澄の脳裏に閃く考えがあった。山中で、弓術士の技を使ったとはいえベイルの防御をも貫いた矢の数々。つい先刻渡り廊下の上に見えた忍の腕力も、考えてみれば妙だ。
「真朱さん‥‥ひょっとして、この薬は‥‥」
 その時、重い音を立てて黒い影が中庭へと落下した。霞澄が一人廊下へ飛び出すと、野袴と長着の中に鎖帷子を着込んだ男が中庭に転がっている。
「フハハ、どうだ? そこらのシノビより余程上手いものだろう」
 中庭を挟んで反対側、東の廊下で鬼島が高笑いを上げた。
 柱から手すりをよじ登って廊下へ上がろうとしていた忍の横面に、鬼島が苦無「鍋木」を投じたのだ。
 物音に驚いたか、北側の部屋から飛び出してきた志士が鬼島と空狐を見て目を剥く。
「貴様!」
 中庭に落ちた忍が、懐から苦無を打った。腰に戻されていた鬼島の「左手」がそれを弾き、出小手を打とうとした志士の刀をも受け止める。
 瞬間、鬼島が床も砕けよとばかりに猛然と踏み込んだ。撞木の如き重い膝蹴りに、志士の身体が一尺ほども宙へ浮く。
 直後、前屈みで着地した男の膝が折れた。
「お休みなさい、貴方も疲れているでしょう」
 歌うような調子で囁くのは、西の部屋から顔を出したカルフだった。そのトネリコの杖から、仄かな甘い香りのする霧が漂っている。
 次いで、空狐目掛けて飛び掛かろうとした忍の身体が青銀色の煌めきに包まれた。
 光の粒子は瞬時に志士の身体を押し包む氷の皮膜となり、その表皮を凍て付かせた。生きながらにして身体を冷凍されていく激痛に忍は体勢を崩し、顔から手すりに突っ込む。
 崩れ落ちる仲間を他所に、志士が受付へ飛び込んだ。
 遮る者がいなくなり鬼島と空狐が角を曲がった途端、階段からけたたましい音が響き渡った。余程緊張していたか、空狐が小さな手に握っていた符を取り落とす。
 階段で用心棒を斬り倒した志士の一人が、胴巻の背を撃たれて階段を転がり落ちたのだった。緩慢な動きで起き上がり、階上の仲間を呼ぶと、鬼島に向け構えを取る。
 銃撃は、離れの戸締まりをさせたあと店内へ飛び込んできた水魚のものだった。
 次いで水魚の支援を受けて表の忍二人を殴り倒してきた炉火が、二階の廊下に姿を現す。
「やれやれ、瀧華の連中は馬鹿力揃いかよ」
 ぼやく炉火は、額と胸から少なからぬ血を流していた。水魚による初手の狙撃が完璧に成功したとはいえ、楽な相手ではなかったようだ。霞澄が、すかさず光の花束を放り投げる。
 間髪入れず、幾つもの荒々しい足音が近付いてきた。志士が玄関を開けたのだ。鬼島の鎧に身を寄せ、空狐が身体を硬くする。
 だが、真っ先に廊下へ飛び出した男は突如立ちすくみ、悲鳴を上げた。
 床板の隙間から白い瘴気が立ち上り、容赦なくその喉笛に食らいついたのだ。志体の無い男は体内に瘴気を流し込まれたて白目を剥き、その場に崩れ落ちる。
「馬鹿、慎重に」
 倒れた男を叱責した志士が、顔を上げて仰天した。
 その全身を一呑みにしかねない巨大な龍の顔が、眼前で歯を打ち鳴らしていた。志体のない者達が悲鳴を上げて一目散に逃げ出し、志士が玄関と反対方向へ飛び退る。
 途端、その足下から地縛霊が伸び上がった。空狐は、符を取り落としたのではない。地縛霊を仕込んでいたのだ。
 地縛霊に捕らえられた志士が目を剥き、直後その膝が砕けた。中庭の手すりに両手を掛け、その瞼がゆっくりと閉じられていく。
 西の廊下から、トネリコの杖が伸びていた。ようやく表皮を解凍され手すりに手をかけた忍が、カルフの魔力で再び体表を凍らされ中庭に崩れ落ちる。
 その時、二階南側襖を開けて、頭巾で顔を隠した男が現れた。
「十人もいて、何をしている。早く珊瑚を見つけろ」
「それが、そこの蔵戸に籠もってて」
 低く叫ぶ男に、階下の志士がわめく。
 真朱が、弥次郎と呼ばれた男と、忌々しげに視線を交わした。
「用心棒かと思えば、貴様か。やはり実力を隠していたな」
 刹那、乾いた破裂音が響いた。
 狭い廊下では躱し切れず、弥次郎の肩に銃弾が食い込む。火を噴いたのは、炉火の短銃だった。
「炉火、そいつは菊池の同僚だ、飯綱落としを使うよ」
 真朱が鋭く叫ぶ。
 炉火が左手に掴んだ手すりを支点に片腕倒立し、斬り込んでくる打刀を躱した。勢いで格子状の手すりを跳び越え、その下端に足を掛ける。
 弥次郎は手すりの上で刀を払い、隙間から突き出して炉火に斬りつけた。が、廊下の狭さと手すりに邪魔され致命傷を与えられない。炉火は傷だらけになりながら階下へ叫んだ。
「おい、早く来てくれ。俺一人で長く相手出来るとは思えねぇ」
 途端、霞澄の愛束花が炉火の傷を完治させた。
「もう少しだけ頑張って下さい‥‥!」
「そりゃ、できる限り踏ん張るけどよ!」
 炉火は手すりを蹴って竹に飛びつく。苦無を打とうと懐に手を伸ばした弥次郎の胸板を、光球が撃ち抜いた。
 霞澄の白霊弾だ。一発、二発。三発目を受けて文字通り吹き飛んだ弥次郎は、襖を後頭部で突き破り畳の上に転がった。
 木の砕ける音が、店中に響き渡る。
 開拓者達が、顔を見合わせた。
 弥次郎の立てた音ではない。二階の蔵戸のついた部屋から聞こえている。
 一瞬血相を変えた真朱は、ふと細い眉をひそめた。
 弥次郎は、ここにいる。そして弥次郎は、十人もいて、と口走った。
 渡り廊下に二人、中に六人。逃げ散った侠客達は除いても、表にいた二人を併せ、十人全員が視界内にいる。
「‥‥誰が、あたしの部屋にいやがる」
 真朱が呟く間に、小さな影が斬り結ぶ鬼島と志士の脇を通り抜けた。
「‥‥普通の子供が巻き込まれるのは間違ってるわ‥‥だから」
 空狐が、階段目掛け走り出したのだ。だが、まだ階段には志士が一人残っている。
「危ない、空狐」
 真朱が叫んだ。
 階上にいたため、一瞬空狐の正体を判じかねていた志士だったが、禿にしては上等にすぎる狩衣と薄衣から、彼女を敵と判断したようだった。階段の壁に足を叩きつけて道をふさぎ、刀を振りかぶる。
「‥‥珊瑚は絶対に守ってみせるのですっ!」
 身体を小さく縮こまらせ、空狐は目を閉じて刃の下に飛び込んだ。物打の遥か下、はばき元が空狐の肩口に食い込む。
 乾いた破裂音が響き、志士が目を剥いた。気力を振り絞り懐に飛び込んだ空狐が、志士の脇に押し当てた短銃の引き金を引いたのだ。咄嗟に伸ばした手は空を掴み、志士は階段を転げ落ちていく。炉火が、空狐が、蔵戸の前へ辿り着いた。
「珊瑚を取られるな」
 東の部屋で体勢を立て直した弥次郎が叫んだ。
「無理ですよ、もう頭数が」
「役立たずどもが」
 再び物音が響き、蔵戸の奥から人の気配が消えた。
 蔵戸が取り付けられているのは、北西の部屋だ。格子窓の外は、演芸場の屋根になっている。何者かが、演芸場の屋根から真朱の部屋へ侵入し、そして恐らく、珊瑚を連れて飛び出したのだ。
「使えない莫迦共が。もういい、失敗だ。退くぞ」
 その事実に気付いた弥次郎が、忌々しげに怒鳴って東の格子戸を突き破り、外へと飛び出した。
 閂が掛けられて開かない蔵戸の前で、炉火と空狐は呆然と立ちつくしていた。



「何だったんだよ、今二階の窓から人が飛び出して行ったぜ」
「女郎が麻薬を使ってるってな本当かい」
「嘘だよな、真朱さん」
 玄関前に集まった人々が、喚き立てている。
「あー、あのよ。落ち着いてくれ」
 青く染めた頭をがりがりと掻き回し、玄関から顔を出したのは炉火だった。
「その、梅の香りがするって麻薬。その香りって、もしかしてこれじゃねーの?」
 炉火は、手に持っていた磁器を野次馬達に見せた。
「‥‥香炉?」
 野次馬達が瞬きをする。
「ちっと嗅いでみ」
 物見高い野次馬の一人が、早速炉に鼻を近づけた。
「あ、梅の匂いがすんな」
 カルフが、力無く肩を落として呟く。
「これは梅花香というお香で、以前店の方に私が差し上げた物です」
 聞いた途端、野次馬達が顔を見合わせ、笑い出した。
「お香。そうか、お香かあ」
「そうだよな、真朱さんが麻薬なんて」
「俺ゃ最初っから信じてたけどな」
 野次馬が沸き上がる中、口許が緩むのを抑え、カルフが深々と頭を下げる。薄暮の薄闇の中、明るい金髪が肩から流れ落ちた。
「今回は紛らわしい名と香りのお香でお騒がせしました。以後贈り物には注意します」
「まあ、あの弥次郎だっけか。あいつも勘違いって事で、手打ちになったからよ」
 弥次郎の逃げ去った薄暮の空を見ながら、炉火が言う。
 店の中では、事態を把握できない真朱が呆然と座り込んでいた。