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■オープニング本文 前回のリプレイを見る ● 二つある櫓の片方は屍龍の瘴気弾を受けて崩壊しており、焙烙玉も光広の火薬玉も尽きていた。 残る櫓からの散発的な射撃では虫達を追い払えない。門は蟷螂の鎌、蟹の鋏、そして屍龍の瘴気弾によって破壊されている。 表から扉ごと閂を破壊された西門は開け放たれ、侍達と虫達、そして屍人の入り交じる乱戦に入っていた。 「動いたぞ」 櫓に二人だけ残った侍の片方が、東の空を指して怒鳴った。 雪喰虫の雲が、だらしなく広がり始めていた。風に乗り、或いは魔の森の瘴気に引かれて。 だがその雲の一端が俄に行列をなし、東門目掛けて押し寄せつつあった。櫓の侍は狼煙銃を掴み、紺色の空目掛けて引き金を引く。門を突破されて打ち上げた狼煙銃の赤い煙に、白い煙が混じった。 残る弓使いは五人、侍は十五人。 村の巫女が神風恩寵を一人一人に掛けているが、まるで手が足りていない。侍達は浮き足立ち、逃げ場所を求めて後方の村を窺い始めている。 辺りには矢を射込まれ、火薬で吹き飛ばされ、切り捨てられた百足が岩盤に転がっている。そこから立ち上る瘴気が、風に吹かれたかの如く吸い寄せられだした。 兜の下で干からびた皮の張り付く顎を動かし、広高は吼えた。 「負けぬ!」 篝火を反射して輝く刀が振るわれ、集められた瘴気が刃となって突進した。練力でなく瘴気を放つ戦塵烈波は侍の全身に絡みついて血の花を咲かせ、その身体を鞠の様に後方へと吹き飛ばす。 「広高! 止めぬか」 その隙を狙い、老鍛冶が斧を振り下ろした。その刃が触れるや、雪崩の如く岩盤がめくれ上がり広高へ襲い掛かる。 広高はその地断撃を全身で受け止めると、一足跳びに老鍛冶への距離を詰めて刀を振り下ろした。受け流そうとする斧の柄を斜めに両断し、その刃は胴巻を叩き割る。 そこへ飛来する矢を兜の錣で受け止め、広高は櫓の上の弓使いを見上げた。 その時だった。 「伏せろ!」 隣の侍が声を上げるよりも早く、柿色の巨大な影が広高の身体に激突した。恐るべき質量に全く抗えず、広高は半開きになった門へと轟音を立てて叩きつけられる。 侍達はおろか、虫や屍人達までもが、突然の轟音に戦いの手を止めていた。 事態が飲み込めず、弓使いが瞬きをする。 広高に襲い掛かったのは、痩せ細り、肋の浮き上がった一頭の老龍だった。 「おい! おい、上!」 櫓の侍が声を上げる。 その指差す先、門の上空には、三頭の龍が羽ばたいていた。一町程の距離にまで近付いた雪喰虫の群れは、この龍達を目指していた。 雪喰虫に恐れをなした侍達は、逃げ腰になったまま動きを止め呆然と門前の巨体を見つめている。 巨大な牙を、広高は太刀で受け止めていた。老龍は牙で広高の太刀と鍔迫り合いを繰り広げながら、重く暗い唸り声を上げる。 白濁した右目。半ばで折れ、或いは抜け落ちた牙。くすんだ柿色の鱗は所々で抜け落ち、痩せ衰えた肉は骨の回りに幾許か付いているばかりだ。 だがそれでもなお、その体躯はただの炎龍よりも一回り以上大きい。 胴巻を割られ、地に倒れた老鍛冶が、顔を上げてその巨大な体躯を見上げた。 「お主‥‥姫百合か?」 老龍は、意志の輝きを保つ左目で広高をはったと睨み付けた。 (空に舞う事も儘ならず、このまま森の奥深くで朽ちていくばかりと思っていたが) 侍達は、確かにその「声」を聞いた。 龍が、喋っている。いや、その喉から発せられているのは、重く低い唸り声だけだ。声ならざる声が、東門を守る侍達の脳内に直接響いていた。 (流石に捨て置けぬと思うて来てみれば、まさか貴様と再び見えようとは) 「老いた龍よ。この俺を邪魔立てするか」 広高の下顎骨が動く。 (我の事すら解らぬか。貴様、己が何をしているか解っているのか) 痩せ衰えた炎龍は、空気を震わせぬ声を広高に浴びせた。 「たとえ龍が相手だとて、俺が負ける訳にはいかん。俺が膝を屈する事は、力無き者が寄る辺を失う事に同じ」 (その刀を誰に向けているか、判らぬか!) 脳髄に響く怒号に、戦場にいる侍達が、否、虫達までもが、身体を震わせた。目前にまで迫った雪喰虫の群れが、風に吹かれたかのように一瞬押し戻される。 刀身を咥えた口から業火が噴き出し、広高の全身を包み込んだ。 (最後まで残った妄念がそれか。貴様の心性、今や知れたわ!) 広高の鎧兜が赤熱し、威し糸が焼け落ちた。 漸く牙から逃れた刀が、姫百合の喉に立て続けに突き込まれる。だが、分厚い刀身と猪首になった鋒は、痩せ衰えた老龍の鱗を貫き切れない。 (自らの刀が突きに適さぬ事すら忘れるまでに、錆びたか!) 鮮血を撒き散らしながら、姫百合の顎が限界まで開かれた。山吹色の業火が広高の身体を包み込み、吹き飛ばす。 (人の子らよ。今や時は英雄の時代に非ず。我らの時代に非ず) 東門へと到達した雪喰虫の一群が姫百合の身体に近付こうと試み、子龍達の炎で焼き払われた。 炎は吐き出される度に密集する虫から虫へと僅かに燃え広がり、近付こうとする 枯れ木のように火に包まれる雪喰虫を左目で一瞥し、姫百合は重く暗い咆哮をあげる。 (なれど、この愚者の始末は引き受けた。我らの残した物の始末は、我らがつけるのが道理) 同時に、姫百合の胸が真っ二つに裂け、鮮血がほとばしった。 「負けぬ。俺は負けぬ」 太刀を振り下ろした姿勢で、広高が吼えた。姫百合の前肢が折れ、その胴が地に触れる。 牙の欠けた口から吐き出される炎をかいくぐり、村へと流れ着いた雪喰虫の群れがその身体に取り付き始めた。姫百合は怒りの咆哮を上げ、地響きを立て広高へと突進する。 「皆、姫百合を‥‥! 姫百合についた虫を‥‥」 腹から夥しい血を流しながら、老鍛冶が掠れ声で叫んだ。 その時、哄笑が門前に響いた。 「生きていたか。姫百合」 開拓者の築かせたバリケードの上に、白い水干を纏った子供の姿が屈み込んでいた。 姫百合の左目が怒りに燃え、その首が再び持ち上がる。 (馬手!) 「老骨に鞭打って、我が元へ心玉を運んで来ようとはな」 燃えるかの如き視線を微風のように受け流し、馬手はせせら笑った。 「人間どもよ。その龍が首に着けた宝珠を我に差し出せ。さすれば、最早この村に用は無い。虫共を退かせようではないか」 (心玉を、だと) 広高と押し合いながら、姫百合が唸り声を上げる。 馬手は首を傾げ、嬲る様な視線を侍達へ投げ掛けた。 「開拓者共が来れば、貴様等に命懸けで戦う他の選択肢は無かろう。だが、今宝珠を取り上げれば全員の命が助かる。やるなら今ぞ」 侍達は顔を見合わせ、雪喰虫に覆われ白い塊となった姫百合を見る。 老鍛冶が力無い叫び声を上げた。 「馬鹿たれども。アヤカシが‥‥約束なぞ」 「どうした。村を滅ぼした後のんびりと宝珠を探しても儂は構わんのだぞ」 馬手の声を受け、互いの様子を窺い合っていた侍達は、一人、また一人と、戸惑いがちに一歩を踏み出した。 |
■参加者一覧
柊沢 霞澄(ia0067)
17歳・女・巫
ジルベール・ダリエ(ia9952)
27歳・男・志
アルクトゥルス(ib0016)
20歳・女・騎
十 砂魚(ib5408)
16歳・女・砲
ウルシュテッド(ib5445)
27歳・男・シ
熾弦(ib7860)
17歳・女・巫 |
■リプレイ本文 ● 「俺達だけで西門守るのかよ」 西門に向かう侍達は、苦笑を浮かべた。 「ま、東門を破られりゃ、俺達の後ろが危ねえわけだからな。何かあったら来てくれよ?」 「無論だ。櫓での監視を厳にしてくれ。狼煙銃は渡しておく」 右手に忍刀を抜き、既に臨戦態勢を整えたウルシュテッド(ib5445)が、狼煙銃を侍の一人に手渡した。 どこで外してきたものか、その顔を隠すマスクは無い。彫りの深い端正な顔が今ははっきりと見える。 「篝火を消すなよ、狼煙が見えなくなる」 「おう」 侍は、不安を隠しきれない様子でウルシュテッドの背後を見やった。 「しかし、頭数が減った上に俺達だけじゃなあ‥‥」 そこには、西門の中から選び出された五人を前に早口で作戦を指示する開拓者の姿があった。 豊かな銀髪の上に黒い帽子を乗せながら、巫女袴の少女、柊沢霞澄(ia0067)が七尺近い金色の霊杖、カドゥケウスを脇に抱いている。 「皆さんには、避難所近くでの百足アヤカシへの対応と、西門の防衛に当たって頂きたく‥‥」 『応!』 五名の侍が一斉に声を上げる。戦意の源である巫女が近くにいるとあって、こちらは至って意気軒昂だ。 「まあ、門を突破されるまでは櫓から岩でも落とすほかねえし、こっちに大人数が残ってても仕方ねえんだが」 西門防衛に回る侍がぼやく。 「残った皆さんは3人ずつ組を作り、2〜3組ずつ状況に合わせて動いて下さい‥‥咆哮を使う際は、門外のアヤカシを刺激しないよう気をつけて‥‥」 「‥‥そうか。わざわざ虫を呼び寄せちまうもんな」 すっかり失念していたらしい侍は頭を掻いた。 今ひとつ自信が感じられない侍達を順繰りに見て、霞澄は不安げに眉をひそめる。 「無理はしないで下さいね‥‥?」 「心配すんな、無理だけはしねえ」 誰かの声と共に、侍達の中へ失笑が広がる。 と、そこへ人頭大の白球が放り投げられた。 「差し入れや」 投げたのは、六尺超の長身を黒く長い外套で隠し、その腰に三尺半を越える長刀を佩いたジルベリアの青年だった。 谷へ行き、東門の防衛に回った開拓者の中にはなかった顔だ。 「‥‥焙烙玉じゃねえか」 「開拓者の代わりにはならんかも知れんけど、大事に使ってや」 青年、ジルベール(ia9952)は口元に穏やかな笑みを浮かべた。 「ジル」 親交のあるウルシュテッドが目を丸くする。 「よりにもよって、何でこんな所に」 「や、雲雀さんとテッドさんが来てるて聞いてな。手に入れた重邦さんの刀見せに来たんやけど‥‥」 ジルベールは紅樺色の塗鞘を左手指で叩いた。 万商店に並び始めたばかりの、雲雀の父親が鍛えた刀。「重邦古釣瓶」だ。 「それどころやなさそうやなあ」 群れからはぐれた雪喰虫を空中で掴み、握り潰して、ジルベールは苦笑する。 「幸運を得たのはお前だったか‥‥あの子らが喜びそうだ」 喫驚から立ち直ったウルシュテッドは、満面に喜びの笑みを浮かべてジルベールの肩を叩いた。 「ジル、巻き込まれついでに一仕事頼むぜ」 「まあ、状況が状況やからなあ。頼まれなしゃあないわ」 言葉こそぼやいていたが、青い目を片方瞑って見せるジルベールの表情は飽くまでも明るい。 「さあ。弓手は討ったけど、首級3体のうち1体を倒したに過ぎないわ」 銀髪に淡い翡翠色の髪飾りを差しながら、熾弦(ib7860)は高下駄を鳴らして踵を返した。 「早く東へ向かいましょう」 先頭を切る熾弦に続き開拓者達が、それを追って五人の侍が頷き合う。 その中にあってただ一人、霞澄の視線だけが、村の中央にある大きな家々を眺めていた。 仲間達が、東へとかけ出す。侍達は、焙烙玉を抱えて西へ。 重邦の子二人がいる筈の方角を見ながら、霞澄は小さく呟いた。 「光広さん、お気づきになられたのですね‥‥」 ● 侍達が、恐る恐る姫百合へ近付いていく。 (人の子らよ。汝らの心弱きを責めはせぬ) 近付こうとする侍達へ姫百合の「声」が言う。 広高の刀を牙に食い込ませながら、雪喰虫にたかられて白い塊となりつつある姫百合が、篝火の明かりから離れてじわりと岩場へ近付いた。 (なれど、近付く者あらば一人残らず焼き捨てるぞ) その重い唸り声が、侍達の足を止めた。 姫百合の鱗の隙間に雪喰虫がたかり、次々とその針を突き刺していく。姫百合が遠雷の如き呻きを上げ、その後肢が膨れあがった。 「負けぬ。誰が相手だろうが、俺は負けてはならんのだ」 道の端へと追い込まれていた広高の身体に、瘴気が吸い込まれていく。 限界まで反り返っていた胴が僅かに持ち直し、地を滑っていた足が踏みとどまった。 「人間ども。良いのか? 宝珠を渡さず、枕を並べて討ち死にしても」 笑みを含んだ馬手の声が、侍達に浴びせられる。 その語尾に被せるようにして、大音声が轟き渡った。 「乗せられるなぁっ!」 暗闇の中、白銀の鎧とサーコートが篝火の赤い光に照らされている。十字架のあしらわれた盾を左手に提げ、同田貫を右肩に担いだ女騎士、アルクトゥルス(ib0016)だ。 馬手が舌打ちを漏らした瞬間、真紅の火球が回転しながら夜の空気を斬り裂いた。 一刹那遅れ、家々の鉄扉を振るわせる轟音が響き渡る。上空で龍達に近付いては焼き払われている雪喰虫の群れが大きく揺らいだ。 「あれが噂の姫百合。何だか、旗色が悪いみたいですの」 十砂魚(ib5408)の小さな手が、白煙と共に精霊力の残渣を吐き出す銃口に弾丸だけを放り込んだ。発射音を直接拾わないよう伏せていた狐耳が、ひょっこりと元に戻る。 火球は屍龍の骨盤を削り、左後肢の踵を炭化させて粉砕していた。通り抜けた火球は岩盤で砕け散り、辺りに火炎と風を撒き散らす。 屍龍が音無き咆哮を上げ、口の中に紫色の瘴気を溜め始めた。侍達は顔色を変えて獲物を構え、潮が引くように門の内側へと後じさっていく。 その様子を見て、右目にかかる黒髪を指で払いながら、砂魚が口を尖らせた。 「侍さんたち、馬手に妙な事を吹き込まれたみたいですの」 「だな。心玉を手に入れれば村は用無しと言い放ったのと同じ口で、何を抜かすかと思えば」 アルクトゥルスは、おろおろと立ちつくす侍の首根っこを掴み、後方へと引きずり倒した。 「普段なら聞く耳なんて持たないのでしょうけど、弱気になっている今なら、心が揺らいでも仕方ないですの」 砂魚は手首を支点として銃身を一回転させ、右目とフロントサイト、屍龍の右大腿骨を一直線上に並べる。 その黒い瞳が、夜よりも深く暗く沈んだ。基部から流れ込む練力が火打宝珠の火花を極大化し、弾丸を包み込み、破壊の種子となって、残る屍龍の後肢を吹き飛ばす。 重い音を立て、屍龍の骨盤が地に落ちた。 怒りに燃える屍龍の口が轟然と瘴気弾を撃ちだし、その直撃を浴びた侍が地面に薙ぎ倒される。呼応して蟹が、蟷螂が、骨鎧が、一斉に東門へと動き出した。 「しっかりしいや」 虫達の先陣を切る蟹の脇を、銀光が滑り抜けた。 人の親指に当たる鋏の刃が斬り飛ばされて宙を舞い、地面に転がって重い響きを上げる。 「この人らとアヤカシの言うこと、どっちが信じられるんや?」 虫達の前に立ちはだかったのは、ジルベールだった。右足を軽く折って前傾し、外套の裾を前方に垂らしている。 だらりと下げたその右手には、刃長だけで三尺近い長刀が握られていた。 「新手か」 再び舌打ちを漏らした馬手の複眼が左右別々に動いた。ジルベールの青い目が、針の様に細められる。 篝火は南へと揺らいでいる。丈の長い外套から、篝火とは違う紅色の光の花弁が噴き出した。複眼を狙った光は風を裂き、咄嗟に顔を庇う右腕に食い込む。 外套の中に隠した左腕が、クロスボウを発射したのだ。 「味な真似を」 鎧虫が、右腕に突き立った矢を引き抜き、放り捨てる。 その前に立つ骨鎧の右肩が、吹き飛んだ。 早くも「クルマルス」の銃身は発射熱による陽炎を纏っている。そこに弾薬を流し込みながら、砂魚が細い肩を竦めた。 「私たちが虫程度に遅れをとると思われるなんて、心外ですの」 「それとも何か、お前等は私に斬られる最期をお望みかね」 アルクトゥルスの背には、冗談とは思えぬ殺気が纏われていた。 「け、けど」 「けども反吐もあるか。守られるか判らん約定を当てに敵に媚びを売って死ぬか、戦士の誇りを貫いて最後まで足掻いて死ぬか、さぁ選べ!」 骨鎧が振るう錆びた刀の軌道上に、同田貫の刀身が突き込まれる。赤茶色の刃の軌道を鎬で逸らしながら、同田貫の鋒が骨鎧の眉間に突き刺さり、兜を後方へと跳ね飛ばした。 篝火の赤い光の中、黒い影が尾を曳いてその脇を滑り抜ける。 「いいか広高、民は英雄なぞ欲さぬ!」 後肢を粉砕され、動けなくなった屍龍が瘴気弾を放った。黒い影は疾駆する勢いそのままに跳躍してそれを躱し、空中で印を結ぶ。 「人はお前が思う程弱くないぞ」 ウルシュテッドの跳躍する軌道から枝分かれするかのように、紅蓮の業火が屍龍の右前肢へと降り注いだ。 「俺は名を遺すばかりの英雄より、共に足掻き生き抜く戦友の道を選ぼう!」 (要らぬ世話を) 言いながらも喜びを隠しきれない姫百合目掛け、金色の光の花束が放り投げられる。 「ここでその身を犠牲にというのは馬手の思う壷だと‥‥」 霞澄はの霊杖「カドゥケウス」が作り出した精霊力の花束は、血を吸われつつある姫百合の身体に吸い込まれ、その傷跡を塞いでいく。 活力を取り戻した姫百合が顎に力を込め、途端、その牙が折れた。 広高の太刀「景則」が姫百合の上顎を斬り裂き、力の入れ場を失った姫百合は強かに顎を地面へ打ち付ける。道の端へ追いやられていた広高は地面を転がり、姫百合と立ち位置を入れ替えた。 結果、広高はアルクトゥルスの正面に立った。 「英雄とは死して志を導くもの、勇者とは生きて戦を率いるもの。勇者は死して英雄となり次の勇者の導きとなる」 アルクトゥルスは高々と同田貫を翳し、身に纏うクロークよりも更に赤い光をその刀身にまとわせた。 刀の柄を握る人差し指で広高を招き、高々と吼える。 「来いよ! 英雄の出来損ない!」 道の端を背負う姫百合へ斬りかかろうとしていた広高は、太刀「景則」を左車に構え直してアルクトゥルス目掛け走り出した。 逆袈裟の一太刀を、右手の同田貫が食い止める。盾で止めさせない、右側からの斬撃だ。鋒を下に向けた鍔迫り合いのまま広高はアルクトゥルスの胸甲に肩を叩きつけ、左腕の動きをも封じる。 押す広高に、食い止めるアルクトゥルス。睨み合う二人に近付こうとする骨鎧を、姫百合の炎が焼き払った。 ● 「やはり谷底の唸り声は、姫百合君の声だったのね」 銀髪が、たゆたう水草の如く広がり、宙に浮かび上がっている。開拓者を頼って近付こうとする侍達、その奥を熾弦の白い掌が指した。 「もう二度と喪わせるわけにはいかない、か」 桜色の唇が開き、人の身には聞こえない音が漏れる。銀髪をまとめる髪留めが、淡い緑の光を放つ。熾弦の掌が胸の前で天を指し、宙を握り潰す。 聞き取れない程の重低音が、侍達の後方で大気を激震させた。鼓膜が拾いきれずとも、家の壁が、骨が、肌が、肉が、その暗く重い振動を受けて震えている。 「皆。この程度、絶望には当たらない」 星が瞬いているであろう夜空では、雪喰虫の雲が大きくなりつつある。こうしている間にも、村を包囲している虫は岩山を這い上がってきている。村への増援は望めず、戦える者も着実に数を減らしつるある。 その状況下にあってなお、熾弦は穏やかに微笑んでいた。 「この程度で折れる心だったら、冥越の中で人々の心を支え続ける事など、出来なかったもの」 振り向いた侍達が目にしたのは、彼らの背目掛けて瘴気弾を発射しようとした屍龍が、不可視の巨人の手で上方から圧迫され、もがいている姿だった。 屍龍の肋骨が、骨盤が、前腕骨が、ひしゃげ、歪み、ひび割れる。 ひび割れて落ちた骨の破片に、一つ、人頭大の白球が混じった。 辺りに、仄かな梅の芳香が漂う。 霧にも見える残光を残し、斜面を転がって近付いていった白球が、突如爆音と共に弾け飛んだ。 精霊力を注ぎ込まれた、ジルベールの焙烙玉だ。両の後肢を砕かれて動けなくなった屍龍の尾が、鉄菱と爆炎、そして荒れ狂う精霊力に蹂躙され、半ばから砕け散る。 爆炎の収まりきらぬ内に、東門の周囲へ展開する侍達の耳へ、幾重にも重なる鈴の音が届いた。 声色に僅かな幼さを残しながら、初雪の溶けるが如く耳へ染み込んでくる可憐な声が、静かな唄を紡いでいる。 途端、侍達の肌から鎧を通して金色の光の粒子が立ち上り、それぞれの傷口へと集まり始めた。 「唄いましょう、精霊達へ‥‥そして人の心に届くよう‥‥戦いで傷ついた体を精霊達が癒してくれるように。折れそうな心を繋いでくれるように‥‥」 自らの身体に違和感を抱いた侍達は自分の傷口を確かめ、驚きの声をあげる。 「‥‥あ、あれ? 痛くない」 「骨、見えてたよな?」 「私達がいる限り、皆の心を折らせたりはしません‥‥」 霞澄が、薄く微笑んだ。 「妄執に捕らわれた広高さんと、まだ底が見えない馬手童子‥‥容易ならない相手ですが、ここにいる皆で力を合わせましょう‥‥」 「ふん」 馬手の複眼は、瞬時に周辺の状況を見て取っていた。広高を守る骨鎧と屍龍を除けば、馬手の手駒となるアヤカシは十体前後。敵は銀髪の巫女二人に白銀の騎士が一人、長銃を抱えた神威人の少女。そして、並び立つジルベリアの美丈夫二名。 「見知らぬ顔が一つあるが、一人足りぬな」 「援軍は俺だけとは限らへんのとちゃう?」 焙烙玉を放り投げて身軽になったジルベールが、薄く意味ありげな笑みを浮かべた。 探り合う一人と一体の視線が、空中で交錯する。 「‥‥一つ聞いてもええか」 馬手は、全く情報の無いジルベールの顔を穴の空く程見つめている。 「何で心玉を欲しがるんや」 「それは、俺も聞きたいな」 ウルシュテッドが同調する。 その目が馬手の後方とちらりと見やり、そして隣に立つジルベールに聞かせるよう呟いた。 「ジル。後ろに回った彼女が」 「‥‥嘘が下手よの」 つまらなそうに鼻を鳴らした馬手の姿が、突如としてウルシュテッドの視界の中で巨大化した。 否、馬手が一足で近付いてきたのだ。草鞋に包まれた右足がウルシュテッドの左頬に襲い掛かった。受け止められた右足甲を力点として反転し、左踵が側頭部を狙う。 右手の忍刀が踵を受け止めた途端、ウルシュテッドの胴に鎧虫が食らいついた。 ウルシュテッドの身体は鎧虫に押されて後方へと運ばれ、岩造りの家の壁を打ち砕いた。 援護に入ろうとしたジルベールが、後方に弾き飛ばされて体勢を立て直している。鎧虫はウルシュテッドを吹き飛ばし、弧を描いて戻りながらジルベールをも払いのけていた。 「後ろに回っているなら、何も言わず背を狙わせるもの。増援が一人でないなら、一人と思わせたまま隙をつくもの」 馬手は複雑に波打つ鎧虫を袂に戻し、瘴気を纏わせた右手を顔の前に翳した。 「ハッタリで退かせたいか。侍共を守りながら、広高と儂を同時に相手をしたくはなかろうな。その程度には、虫共も侍の頭数を減らしたのだな」 ウルシュテッドも、ジルベールも、その表情に何ら変化は無い。今視線を切る事は、馬手の推測が的を射ていると認める事になる。 だが、馬手の鎧虫はそんな事などお構いなしに、ウルシュテッドの喉笛目掛けて襲い掛かった。 「増幅器にしかならぬ模造品に勝った程度で図に乗るな」 ウルシュテッドの長身がたわみ、猫のように宙を舞う。 「やる気か」 鎧虫がその足の下を薙ぎ払い、今度はジルベールの太刀に絡みつくようにして持ち主の首に噛みつこうとする。地に足を下ろしたウルシュテッドの左手が馬手の袖に伸びる。瞬時に巻き戻る鎧虫の頭がジルベールの横面を張り、ウルシュテッドの肩を薙ぎ払った。 しかし鞠が坂を転がるようにジルベールは前方下へ加速し、馬手とすれ違いざま鎧虫の付け根に太刀を走らせる。鎧虫が突如波打ち、太刀の軌道を逸らす。古釣瓶の異名を取る太刀の鋒が、馬手の右頬を斬り裂く。 「馬手よ、お前が『戦う意志を攻める』なら、猶折れぬ不屈の意志で討ち果たすまで!」 肩を払われたウルシュテッドが右足を支点に反転し、肩の裏で馬手に体当たりを掛ける。宙に泳ぐ水干の袖を左手が掴み、その陰から逆手に握った忍刀が首へと襲い掛かる。鎧虫が袖を引きちぎってウルシュテッドの肩に食らいつき、忍刀ごと振り回してその場の地面に叩きつける。その隙にジルベールが、踏み込まない。 乾いた破裂音が響き、鎧虫の支点となった馬手の身体が地面に薙ぎ倒された。 「足下がお留守ですの」 砂魚の空撃砲だった。踏み込まないジルベールの真意は、射線の確保にこそあったのだ。 「流石や、砂魚さん!」 追撃するジルベールの太刀は鎧虫の根元に生えた鉄板の如き鱗を叩き割るが、切断には至らない。鎧虫が地面に牙を突き立て、馬手本体を振り回してジルベールの身体を弾き飛ばした。途端、更なる空撃砲が鎧虫を強かに打ち据え、馬手は無人の家の屋根に降り立つ。 「全く、どっちが本体やねん」 眉の上が切れ、夥しい出血に片目の視界を奪われたジルベールが舌打ちを漏らした。 ジルベールとウルシュテッド、精鋭と言って良い歴戦の猛者二人に砂魚の支援があってさえ、痛手こそ受けないものの有効打が与えられない。 単調な動きしかしていなかった弓手の鎧虫とは、訳が違う。身体の一部として鎧虫を使うのではなく、本体が右を向きながら鎧虫が左を狙う、別々の頭脳を持っているとしか思えない複雑な動きをするのだ。 噛みつきと薙ぎ払い、頭突きを行う鎧虫。体術を主体とする本体。どちらも最大で四連撃までを可能とし、どちらかが激しい動きをすると、残る側の動きが鈍くなるようだ。 ジルベールが、左上腕で目に入る血を拭った。 が、その好機にも馬手は攻めない。その視線は、屍龍と骨鎧達が戦っている侍の方向を向いていた。 「誰かが英雄になるのなら、誰もが英雄になれるはず‥‥私が、修羅の里で絶望に堕ちなかった理由、示しましょう」 熾弦の身体を中心とした一体に、風が出鱈目に吹き始めていた。 銀髪を留める髪飾りから漏れ出す翡翠色の光が、埃を巻き上げる風に溶けて色を付けていく。 「私が折れないのは強いからじゃない。皆が一緒に戦ってくれると信じられるから」 熾弦の口から、歌声が滑り出した。 成熟した大人の深みと、どこかもの悲しさを覚えさせるごく僅かな掠れ。朗々たる熾弦の歌声が、辺りを駆け回る緑色の精霊力を従えて辺りの侍の身体に吸い込まれていく。 「‥‥うお、何だこれ?」 「何か凄えぞ」 東門の侍達が、目を丸くして自らの両手を、武器を見つめた。 自ずと丹田に力が入る。背筋が伸びる。視界が広がる。肩が軽くなる。騎士の魂が、侍達の耳でなく腹に染み込んでいく。 「姫百合君を生かし、広高君を眠らせ、馬手に破るには開拓者だけじゃない、皆の力がいる‥‥支えるわ。だから立ち上がって、支えてね?」 侍達が、顔を上げた。 「‥‥そう言われちゃ、まあ‥‥」 「よくよく考えてみりゃ、目の前にゃ高額の賞金首がいるわけだしな」 「雑魚共の賞金だろうが、チリツモだ」 熾弦の歌に背中を蹴立てられ、俄然目の色を変えた侍達が骨鎧をじわじわと押し返し始めた。 更に、硬い音が後方で響いた。 「しけた面してやがんな、おい!」 西門から駆け付けた侍だった。石突きで岩盤を叩いた槍が、篝火を受けてぎらりと光る。 「てめえら、心配するこたあねえ。こっちにゃ、はらわた飛び出してても一発で治してくれる巫女様がついてんだ」 侍は呵々大笑し、槍を大上段に構えた。 東門を駆け抜け、五人が屍人の群れへと襲い掛かる。 「ここからは、死なねえ限り稼ぎ放題だ」 「酒池肉林が待ってんぞ」 「俺ぁ人妖が当たるまで籤引きまくる」 弓手率いる虫との戦いでコツを掴んだか、多対一を守ってのし掛かりを封じる事で、西門を越えてきた百足を効率的に駆除していく。 骨の一本や二本折られても数秒で治してもらえると知り、西門の侍達は恐れ知らずの強兵と化していた。 砂魚の「クルマルス」が、再び破裂音を発する。が、三度目の空撃砲は鎧虫に叩き落とされ、姿勢を崩すには至らない。が、馬手の白い水干は屋根の上から消え、東門の櫓へと飛び移っていた。 「危ない‥‥!」 悲鳴にも似た霞澄の叫びに反応できたのは、雲雀達に助けられた弓使いだけだった。残る侍は鎧虫に薙ぎ倒され、櫓の手すりを破壊して地面に叩きつけられる。櫓を飛び降りた弓使いも、肩から地面に落ちて呻きを上げていた。 「どうやら、貴様等が居る間は落ち着いて食事ができぬようじゃの」 その目は、門前で戦う広高へと向いていた。 ● 膂力と精密さを併せ持つ広高の剣は、アルクトゥルスの想像を上回っていた。 アルクトゥルスの一太刀を鎬で外す、その動きが振り上げと踏み込みを兼ねている。最小限の動きで肩口への斬り込みに繋がる。盾が辛うじてその刃を受け止める。 「他人の因縁に首を突っ込むのは」 広高の渾身の体当たりが、アルクトゥルスの体を開かせる。空いた左脇に三日月蹴りが入る。 左足を後方へ引きながら突き出したアルクトゥルスの同田貫が、更に踏み込もうとした広高の脇を削る。広高は身体を捩って突きの軌道から逃れ、更に踏み込もうとする。 「野暮だし趣味じゃないんだ、が!」 前方に残したアルクトゥルスの右足が地に食らいつき、突き出された同田貫が力任せに広高の胴を薙ぐ。胴巻の錆びた鉄板が、刃に削られ火花を散らす。 「逝き迷った英雄の成り損ないの水先案内しようにも」 体勢を崩した広高の太刀に左手の盾を叩きつけ、がらあきの胴に同田貫を叩き込む。再び火花が散る。 「互いに本懐果せず仕舞いじゃ心残りが過ぎるだろうよ」 どちらの攻撃も、一撃で致命傷を与えるには遠い。だが、十合ほど斬り結んだところで、アルクトゥルスは自身の不利を悟った。 生身の状態ならどうだったかは判らない。だが、アヤカシとなりその強い妄執に突き動かされる広高は、アルクトゥルスに比べ遥かに打たれ強い。少しずつ体力を削り合う勝負では、勝ち目が薄い。 全身に傷を負いながらアルクトゥルスが僅かに逡巡した刹那、刀を左車に構えたまま広高が大きく踏み込んだ。互いの身体が刀の間合いの更に内側へ入る。 反射的に掲げられた左の盾を、広高の右膝が蹴り上げた。盾を掲げる力そのままに、盾が上方へと弾かれる。 「しまっ‥‥」 右足を地面へと振り下ろしながら、広高の両手が渾身の力で太刀を奔らせた。 地面に、大輪の血の花が咲いた。 タイ捨剣による一太刀は鎧の継ぎ目を叩き割り、白い肌に食い込み、肉を斬り裂き、肋骨を一本砕いていた。アルクトゥルスは血飛沫を上げながら後方へ倒れ込み、地面で一回転して立ち上がろうとする。 が、右手に力が入らない。広高は彼女を追って地を蹴り、刀を振り上げている。立たなければ。盾で防がねば。右脇を斬られた。立つには左手を使わねば。だが左の盾で広高の追撃を防がねば。 広高が、刀を振り下ろす。アルクトゥルスは左手で地を跳ねて横へ転がり、辛うじて止めの一太刀を逃れた。手を使わず首と腹筋・背筋の力で立ち上がろうとし、脇腹の激痛に耐えかねて地に転がる。 だが、追撃は来ない。 顔を歪めて目を開いたアルクトゥルスの眼前で、広高は山吹色の炎に包まれていた。 まとわりつく雪喰虫の群れを焼き払っていた姫百合が、その炎で広高を薙ぎ払ったのだ。 (小虫共の相手をしている場合ではなさそうだな) 姫百合も、戦塵烈波で斬られた胸元から、未だ少なからぬ血を流している。そこへ群がる雪喰虫は、既に赤く染まっていた。 だが傷の痛みなど微塵も感じさせず、姫百合は嬉しそうに鼻を鳴らした。 (その戦い方、勇敢さ、広高を彷彿とさせる。無茶をする所もな) 笑みを含んだ声が、アルクトゥルスの頭に響く。 「姫百合さん、アルクトゥルスさん‥‥!」 雪喰虫と、それらが焼かれる炎で橙色に霞む上空に、金色の花束が二つ放り上げられた。花は姫百合とアルクトゥルスの頭に触れ、それぞれの胸と脇腹から流れる血が、ぴたりと止まる。 「英雄の時代が終わりだってんなら、幕を引くなり後に続く者は必要だろうさ」 霞澄の愛束花だ。そう認識するよりも早く、地を転がって火を消す広高目掛け、アルクトゥルスは弾かれた様に駆け出した。 火も消えきらぬ間に、猛然と突進するアルクトゥルスに気付いた広高は膝立ちになり、太刀を左車に構える。右膝を狙う横薙ぎの一太刀をアルクトゥルスは避けず、全力で右足を踏み出した。物打ちでなく、遠心力の加わらないはばき元が脚甲に食い込む。赤い面頬の奥で、アルクトゥルスの口元がにやりと笑った。 稲妻の如く銀光が振り下ろされ、首を竦めた広高の兜が地面に転がる。浅い。返す刀が、後方へ跳ぶ広高の顎を両断した。 追撃をしようとアルクトゥルスが踏み込みかけた瞬間、世界が軋みを上げた。 「‥‥広高君。貴方は英雄たらんとし、しかしそうあり続けることはできなかった」 門前の道に落ちていた小石が、重力と振動で道から斜面へと転がり落ち、辺りの石を巻き込んでいく。岩がひび割れ、崩れ落ち、岩山の斜面には岩雪崩が起き始めていた。 重力の爆音だ。熾弦の全身から立ち上る緑色の光は、今や大きく両手を広げる有角の女性の姿を象っていた。 「それは力及ばず倒れたからではない。寄る辺になるだけでは駄目。たった一人で支えきれるほど人々の命、心、未来は軽くない。勇気を与え、そして共に立たなければいけなかった‥‥」 光によって象られた女性の姿は、開いた両手をそっと前方へ翳す。門の前の重力が更に増し、火を消して立ち上がろうとした広高の頭が異様な角度に曲がる。下顎骨が大きく開かれ、広高は絶叫を上げた。 その虚ろな眼窩に、光が灯った。 熾弦のそれではない、金色の光が門の前を包んでいる。 痛ましげに両目を閉じた霞澄が、叫んだ。 「死してなお使役される者達に、永久の眠りを‥‥!」 何も持っていない小さな両手は天地を指差し、金色の杖はその前で宙に浮いている。 杖の発する光が、翡翠色の力場に突き刺さった。一条。二条。三条。光は束ねられ、強め合い、洪水となる。 打ち倒され動かなくなった骨鎧の瘴気が、湯に落ちた氷のように溶け消えていく。光の圧力に耐えきれず、広高が一歩、二歩、下がる。 「負けぬ! 誰が敵であろうともだ‥‥!」 吼えながら、広高が光の圧力に逆らって一歩踏み出そうとする。が、その足が地につくよりも早く、瀑布もかくやという光の波濤がその身体を吹き飛ばした。 舞い上がった古兜が、岩山を転がり落ちていった。 ● (広高) 名を呼ばれ、うつ伏せに倒れた広高の頭蓋骨が横を向いた。 未だ雪喰虫にたかられ、あちらこちらから血を流しながらも、震える首をもたげて姫百合が広高を見下ろしている。 「‥‥姫百合? 随分と、‥‥老いぼれたな」 呼吸を必要としなくなった身体は、声を発する為だけに息を吸い、吐いている。 「ともあれ、‥‥生きていたのだな。良かった」 「広高」 斧を杖代わりに、覚束ない足取りで老鍛冶が近寄る。広高の虚ろな眼窩が、その顔の方向へはっきりと向いた。 「‥‥お前まで、どうした‥‥? すっかり、老人の‥‥様だ」 骨と鎧だけになった広高の手が地を掴み、その胴が持ち上がった。 太刀を杖とし、その干からびた顔が前を向く。 「どれ‥‥一つ、俺が‥‥お前達の‥‥分まで」 「英雄かて一人では踏ん張られへん」 門の上に立つ馬手を睨み上げたまま、ジルベールが呟く。 「支え合う仲間がおる人間はあんたより強いで」 辺りで、乾いた音が響き始めた。 広高の力が失われ、それに付き従う骨鎧が崩れ落ちているのだ。 「‥‥ああ‥‥そうか。お前達が、後の世の‥‥迷惑を、掛けたな‥‥」 鼓膜も失われた耳は、瘴気の揺らぎすら拾えなくなっていく。 馬手と睨み合いながらも、ジルベールは穏やかな声を掛けた。 「もう頑張らんでええ。皆大丈夫や」 「ああ‥‥その、ようだな‥‥」 太刀に寄りかかる両腕の骨から、少しずつ力が抜けていく。 その様を見下ろし、荒い息をつきながらアルクトゥルスが声を掛けた。 「もう逝け。建前でもお題目でも、その英雄たらんとした志は拾ってやるから」 「そう、しよう‥‥俺は死んだ。死んでいた」 太刀「景則」の鋒が岩盤を削った。 分厚い刀身が、広高の身体を支える。 「後の世の者達よ。‥‥死んでいたのだ。とうの昔に。英雄なぞ‥‥」 膝は、つかない。刀を杖にした姿勢のまま、広高は動きを止めた。 刹那、 「来るぞ!」 いち早く反応したウルシュテッドが叫ぶ。 同時に、広高の身体が黒い影に呑み込まれた。 「存外使えぬ奴よ」 馬手の鎧虫だった。瞬き一つする間に広高の身体を丸呑みにし、おぞましい異音を発しながら馬手の袂へと戻っていく。 「貴様に貸し与えた瘴気、返してもらうぞ」 鎧虫の口が開き、広高の錆びた鎧が岩肌に放り捨てられた。 次いで出てきた刀は、馬手の右手に掴み取られる。 「物のついでよ。この刀は貰っておく。心玉は貴様等が虫に呑まれた後、ゆっくりと探すこととしよう」 破裂音と共に、人形を指で弾いたかの如く馬手の身体が回転する。 砂魚の空撃砲だ。 「逃がしませんの」 だが馬手は空中で回転しながら鎧虫を伸ばし、家の庇を支点に東門の上へと飛び移った。高々と跳躍し、更なる空撃砲を躱す。 「貴様等の腕は認めてやろう。だが、それでもなお、儂の勝ちだ」 馬手の身体は闇に溶け、岩を蹴落としながら森の奥へと消えていった。 |