秤釣り合う日―暁闇―
マスター名:村木 采
シナリオ形態: シリーズ
EX :危険
難易度: やや難
参加人数: 6人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2011/10/04 21:17



■開拓者活動絵巻
1

奈緒






1

■オープニング本文

前回のリプレイを見る



 夜明けを思わせる妖しい若紫の光が、ゆっくりと螺旋を描きながら夜空へと吸い込まれていく。
 葉擦れとは異なる木々のざわめきが一直線に近付き、漆黒の人影が、巨大な鳥居の前に降り立った。
「蘭ノ介さん」
 静かな声が、その横顔に掛けられる。
「終わったか」
「はい」
 蘭ノ介よりも僅かに背が低く、僅かにほっそりとした人影が、木立の闇から析出されるかのように進み出た。
 光はますます強くなり、二人の後ろに紫黒の影を作り出す。
「和田達は、開拓者達に勝てるでしょうか」
「無理だろうな」
 淡々と蘭ノ介は答える。
「あの開拓者達、相当な腕利きだ」
「裕貴! 蘭ノ介さん!」
 荒い息をつきながら、高い声が叫んだ。蘭ノ介と裕貴が振り向く。
「もうやめてよ!」
 そこに立っていたのは、纏助だった。一人里を離れ、蘭ノ介の後をつけていたのだ。
 纏助は、顔を真っ赤にして怒鳴る。
 進み出ようとする裕貴を片手で制し、蘭ノ介は駆け寄ってきた纏助を見下ろした。
「何で、こんなことするんだよ!」
「何で、か」
 忍装束の裾を掴み、その腹を両拳で叩き始めた纏助の髪を、やおら蘭ノ介は鷲掴みにした。
「お前に理解できるかどうかは知らんが‥‥、教えておいてやる」
 蘭ノ介は顔を纏助に近づけ、表情一つ動かさずに言った。
「俺にとって、裕貴にとって、裕美は世界の全てだった。あれから二年間。俺達の生の一瞬一瞬は、全てを失う記憶をひたすらなぞるだけのものだった。俺達とは関係の無い人間が、良かった良かったと胸を撫で下ろし、笑っているのを、見せつけられるばかりの時間だった」
 頭皮が千切れそうな痛み。纏助の足が地を離れる。
 能面のようだった蘭ノ介の顔に、暗く重く激しい感情が揺らぎ始める。
「目の前で平和を楽しむ他人を見て、愛する者は居ないと、ひたすら再確認させられる時間だ。宙づりの硝子玉の中に閉じこめられたようなものだ。幸福とは硝子の外にあるもので、決して触れられはしない。硝子を砕けば、地上に墜落し死ぬ他はない。俺達のように世界の全てを奪われた者とは、緩慢であれ急激であれ、破滅を強いられた者だ」
 蘭ノ介の目は血走り、その身体は怒りの余り小刻みに震えていた。
 纏助は、恐怖のあまり息を呑んだ。
 彼の怒りを体現するかの如く、空が、大気が、唸りを上げた。
「理不尽に命を奪われた者は、愛する者を奪われた者は、ただ諦めろというのか! 赤の他人の平和のために! 大義名分を掲げて戦いから逃げ、のうのうと平和にまどろむ者達のために! 俺達は、ただ一つこれと思い定めたものを捨てて、忘れて、唾棄すべき者共と肩を並べて、下卑た笑いを浮かべていろというのか!」
「そんなの‥‥」
 涙声で言おうとした纏助の喉に、蘭ノ介の指が食い込む。
「俺は忘れない! 俺が裕美を忘れ、捨てる事は、俺が俺を、裕貴を捨てる事だ! 殺す事だ! 捨てるものか! 諦めるものか! 殺すものか! 俺は裕貴を捨てない! 殺さない! 裕貴を殺すくらいなら、世界を殺す! 俺の秤は、世界よりも、俺を選ぶ! 裕貴を選ぶ!」
「蘭兄さん!」
 三人の姿が突如掻き消えた。呼吸一つの間さえなく、彼らの空間を脚甲に覆われた灰色の足が踏み潰す。
 低い姿勢のまま枯葉の上を滑り、纏助を抱き上げた裕貴が細く呼気を吐いた。
「あ‥‥あ‥‥」
 裕貴の腕の中で、纏助は激しく震えだす。
 木の幹を蹴って猫のように着地した蘭ノ介は、眉一つ動かさず、眼前に「それ」を鼻を鳴らした。
 その身の丈は、辺り一帯の木々に迫るほどだ。首無しに胸から直接生えた頭には、正面に憤怒、左後ろに怨嗟、右後ろに恐怖の形相を浮かべた顔が付いている。
 筋肉の盛り上がった肩には手甲と一体化した三対の腕が生え、やはり身体と一体化した鎧の胴には、憎悪の形相を浮かべた鬼面が付いていた。
 三対の腕は、左二本で弓矢、右二本で槍、左一本で金砕棒、そして右一本で白い瘴気を纏った野太刀を握っている。
「あんた達‥‥こんな化け物‥‥」
 腕の中で震える纏助を、裕貴が見下ろす。
「愛や観念はね、纏助」
 その目は、氷のように冷たかった。
「時としてどんなアヤカシよりも人を殺戮するのですよ」
 秤妖の頭部で正面を向く憤怒の形相が口を開いた。
 大気が、辺りの景色ごと歪む。
 不可視の手で薙ぎ払われたかの如く、その咆哮が辺り一帯の木が大きく揺らし、地が震わせた。瘴気を浴びた葉という葉、草という草が、時の進みを爆発的に早めたかのごとく萎れ出す。
 纏助は絶叫し、死に物狂いで暴れ出した。裕貴が腕の力を緩めるや、地面へと飛び降り、股間を濡らしながら駆け出す。
 二人には目もくれず、蘭ノ介は秤妖を見上げた。
「裕美の命を吸ったアヤカシだ。これで小鬼でも出てきたなら、誰も報われん」
 蘭ノ介の手が霞み、秤妖の脇に苦無が突き刺さった。
 痛みに秤妖は怒りの声を上げ、その怨嗟の形相の目が蘭ノ介を捉える。二本の左腕が、弓矢を引き絞った。
「自然治癒するか」
 蘭ノ介の肩が、小刻みに震える。その姿が木の陰に隠れるのと、放たれた矢の突き刺さった地面が爆ぜるのとが、全く同時だった。
 髪を掻き上げた蘭ノ介が狂笑を上げる。秤妖の怨嗟の口に瘴気が溜まり、白い冷気へと姿を変えた。
 爆発的な勢いで噴射された冷気は、十丈の距離を瞬き一つの間に跨ぎ、蘭ノ介の居た空間を純白の氷で覆い尽くす。
 それをも躱した蘭ノ介を追い、その背後に生えた木楢の木が宙に浮き、波濤にも似た音を立てて地に倒れた。
「秤妖! 平和にまどろみ、戦いを逃れ、無一物の分際で守るべきものがあるかの如く錯覚している莫迦共を、好きなだけ食うがいい! 十分に人を喰い、軍が動き、貴様が弱った所で、俺達がとどめをくれてやる!」
 視界に入った黒い人影目掛けて、紫電が吐き出された。
 電撃は冷気の倍近い距離を貫き、下生えを根こそぎ薙ぎ払い、細木を薙ぎ倒し、木々の幹を引き裂く。
 蘭ノ介と裕貴は高々と跳躍し、木々の葉陰へと消えていた。
 裕貴の穏やかな声が、囁いた。
「蘭兄さん。行きましょう、芙蓉を手土産に、姉さんの元へ」


■参加者一覧
柚月(ia0063
15歳・男・巫
柊沢 霞澄(ia0067
17歳・女・巫
鬼島貫徹(ia0694
45歳・男・サ
皇 りょう(ia1673
24歳・女・志
ディディエ ベルトラン(ib3404
27歳・男・魔
雪刃(ib5814
20歳・女・サ


■リプレイ本文


――(‥‥自分を必要としてくれる場所、か)
 りょうは気を取り直したように顔を上げ、雪刃に目で合図を送って走り出した。
(それが破滅への道だとしても、本人が幸福だとしたら‥‥)――(襲撃)
 
 折からの風に、炎が煽られる。黒い衣が、緋色袴が、はためく。
 柚月(ia0063)は、優に身の丈が三倍を越す秤妖を見上げた。質量なら彼の三十倍を超すだろう。
「纏助、いいよ。無理しナイで、逃げてて」
 柚月に頭を撫でられ、膝の笑いが止まらない纏助は、両目を袖で擦り、ゆっくりと下がっていく。
「封じるでは足りません、なんとしてでも消しさらねばなりませんですねぇ」
 白い長杖の石突きが、高い音を立てて石にぶつかった。
「第二第三の蘭ノ介を生み出すわけには参りませんから〜」
 ディディエ・ベルトラン(ib3404)は黒い魔法帽を目深に被り直し、空いた左手で浄炎の首飾りを握り締める。
「長丁場が予想されますので〜、私は攻撃よりも、前衛の皆さまのフォローに回ろうかと存じます、はい」
「僕もね」
 紫苑色に染まる森に、染みの如く白い羽扇が開いた。
「どーせ手土産にするなら、平和を持ってかなきゃ」
 柚月の腕が、足が、白羽扇が、戯れる仔猫の如く複雑に、飛び回る燕の如く鮮やかに舞った。
 羽扇から舞い上がった光の粉が暁闇の森に散る。
「そして、あの方たちをどうしたものでしょうかねぇ‥‥」
 どこか憂鬱そうに、ディディエは漏らす。
「逝かせたくナイな」
 神楽舞の光が、歴戦の傷を残す皇りょう(ia1673)の当世具足に染み込んでいく。
「まるで秤妖や里と一緒に心中しよーとしてるみたいなんだもん」
「まあ‥‥裕貴さんはともかくといたしまして‥‥もう御一方につきましては残念ながら、永遠の眠り以外に安らぎとなるようなものは無いのかもしれませんですねぇ」
 ディディエの銀色の目の奥に宿っているのは、憂い、そして覚悟だった。
 地響きが近付いてくる。
 ふと、柚月が隣を見た。
「りょう、そーえばさ。里を離れる前、何を話してたの?」
 腰に佩いた三尺を越える太刀「阿修羅」を抜き、りょうは面頬の奥で薄く笑った。


「笑いに来たか、気が変わって殺しに来たか」
 片腕を落とされた和田は、木に寄りかかって座っていた。
 りょうはその軽口に答えなかった。
「戦いか屈従か――無論戦いだ。しかし真に戦うは、和田達のような者を生み出す世の在り方とではなかろうか」
 和田とりょうの視線が、中空でかち合った。
「一朝一夕にはゆかず、相手を斬るより長く苦しい戦となろう。しかし事実を知ってしまった以上、逃げるわけにはゆかぬ。どれだけ続こうと私は戦い続けるつもりだ」
 和田は頭を木に預けたまま動かなかった。
「その為にもまずは秤妖を滅せねばならぬがな。言いたい事はそれだけだ。では、御免」
 律儀に礼をし、りょうは踵を返した。
「死にに行く気か」
 りょうは足を止めも、振り向きもしない。
「命より大事なものはない、そうだろう。一体何を、命と秤に掛ける。誇りか、金か、他人の命か」
 りょうは歩みを進めながら、夜空を仰ぎ答えた。
「天秤に掛けるくらいならば、いっそ全てを救う覚悟で。愚かであろうと、私はそうありたい」



――(しかしですねぇ、これだけの数のアヤカシとなりますと〜)
 踵を返した長老の背を、ディディエの独り言が撫でた。
(湧くにしましても然るべき場所や理由が必要になるわけでございますが‥‥)――(襲撃)

 ディディエの聖杖ウンシュルトが、天を指した。渦巻く空気に青白いローブが捩られ、痩身にまとわりつく。
 杖の先端から、薄紫の光条が暗い空に吸い込まれた。
 一瞬の間隙。
 上空から墜落してきた極太の閃光が、秤妖の身体に激突した。秤妖が怒りの咆哮を上げ、左腕で弓を引き絞る。
 柊沢霞澄(ia0067)の突き出した榊を中心として、精霊力の波紋が広がった。
 波紋が波紋を呼び、九曜紋となる。引き戻した榊が再度九曜紋に触れた瞬間、怒濤の如き精霊力の奔流が、秤妖の分厚い胸を直撃した。
「皇家が当主、おりょう。推して参る!」
 精霊砲の後を追うようにして、木陰から四つの影が駆け出す。
 霞澄の加護結界が、先頭を走るりょうに吐きかけられた業火の勢いを大きく減じた。秤妖の槍が半回転し、金砕棒が振り上げられる。野太刀が、刀身にまとう瘴気を吸い込んだ。
 森の風景が歪む。
「!」
 咄嗟に体を開いた義視が血飛沫を上げて地面に激突し、跳ね返った。
「義視!」
「‥‥生きてる‥‥!」
 叫ぶが、その左肩は半ば以上切り裂かれ、腕はあり得ない方向にぶら下がっている。駆け寄った柚月が、すぐさま治癒を開始した。
「亡鎧の鎌鼬、炎鬼・氷鬼・雷鬼の吐息というわけか」
 鬼島貫徹(ia0694)は両手に構えた異形の戦斧で金砕棒を受け流す。刃と棒が擦れ合い、火花が上がった。
 怨嗟の面が冷気を噴き出す。面頬の目と口に氷柱が下がり、鎧を覆う金箔が霜で見えなくなる。
「面構えも風格も十分。名を上げる為にも倒さぬ道理は無い」
 他方、二本の腕で逆手に握った槍が、宙を踊る銀髪目掛けて突き下ろされた。
 複数の武器を持っても、身体は一つ。それぞれの攻撃に体重は乗らないという雪刃(ib5814)の読みは当たっていた。
 だが同時に、大太刀「殲滅夜叉」を通して両手に届いた痺れが、それでもなお、その破壊力の尋常ならざる事を示している。
「もうこれ以上、直接だろうと間接だろうと秤妖の犠牲は出させない」
 雪刃の紺碧の瞳が、決意の光を宿す。厚司織に守られた左脚が踏み込む。大太刀「殲滅夜叉」の鋒が地を掠め、脚甲と一体化した脛を切り裂いた。
 白い瘴気が、傷口から噴き出す。
「雪刃! 後ろ!」
 柚月の声に続き、殲滅夜叉が悲鳴を上げた。
 間一髪で斬撃を受け止めた刃が欠け、雪刃は鞠のように地を転がる。鬼腕を併用してもなお、その斬撃を受け止めきれないのだ。槍と野太刀の攻撃がりょうに集中する。
 唸りを上げる金砕棒が鬼島の戦斧に激突した。鬼島は右足を軸に一回転し、秤妖の手首の下へ潜り込む。一瞬遅れ、鬼島の足が、腰が、背が、肩が、腕が、驚異的な破壊力を斧に伝える。
 森を揺らす怒号。
 左足の描いた円弧をなぞり、戦斧が秤妖の左膝を叩き割った。
 秤妖は怒りの咆哮を上げて、弓を振り回して鬼島を間合いの外へ弾き飛ばす。
 槍が振り上げられ、突き下ろされる。立ち上がり、その腕に切りつけようとした雪刃が目を瞠った。
 りょうの太刀の軌道が、雪刃の大太刀の軌道に重なっている。担当する武器を分けた筈が、齟齬を生じていた。
 二人の刀が進路を譲り合い、空を切る。
 その隙をつき、錆びついた刀がりょうの具足を叩き割り、その身体を地に薙ぎ倒した。怨嗟の面から吐き出された電撃が、容赦なくりょうを襲う。
 衝撃で胸が詰まり、空気を求め悶えるりょうの全身が、電撃を浴びて激しく痙攣した。
 だがその電撃が、突如止む。
「ご無事ですか〜」
 間延びした声。りょうの目には、秤妖の身体も、森も、空も見えない。
 文字通りの鉄壁が、彼女の前に聳え立っていた。
「全力で参りますので〜、巻き添えになられませんように〜」
 ディディエだった。踝までを覆う薄い外套が激しくはためき、頭の魔法帽が地面に転がり落ちる。
 足下の地面に白く輝く文字列が浮かび上がり、回転を始める。右膝の前に斜め前を向いた魔法陣が、左手首の前に、斜め後ろを向いた魔法陣が浮かび上がった。
 足下の魔法陣から光の柱が立ち上り、斜めを向いた魔法陣から発せられた光が二重の螺旋を描いて空を目指す。
 秤妖の憤怒の面が、上を向く。その目に移る紺青の空に、淡く輝く無貌の老人の姿が描かれていた。
 その掌が、秤妖を指す。危機を察した雪刃と鬼島が、血相を変えて後方へと跳躍する。
 目も眩まんばかりの閃光と、臓腑を震わせる衝撃が、辺りを押し包んだ。



――鼓膜を引き裂かんばかりの甲高い叫び声が、物理的な質量となって霞澄の身体にのし掛かった。
 周りの家々が軋み、戸板が激しく震え、甕の中の水が溢れ出す。
(何で‥‥何で、助けてくれなかったの? 痛かったのに! 寂しかったのに!)
 霞澄の身体がよろめき、膝が崩れ掛ける。
(止めてあげる‥‥!)
 霞澄の草履が、地を踏みしめた――(火天)

「そこまでだ」
 低い声が響く。
「俺達の用が済めば、これを殺す手伝いもしよう。今は退け」
 蘭ノ介と裕貴だった。
 全身から煙を上げ、左膝を割られながらも、秤妖の動きは鈍らない。
 四つの面から大きく瘴気を吸い込んだ途端、目視できる速度でその傷が癒えていく。
「これ、本当に倒せるの‥‥?」
 柚月が、不安を隠しきれない顔で呟いた。
 りょうが後方の秤妖を気にしながら太刀を構える。
「――長き因習に終止符を打つのかと思えば、私怨の為に利用しようとは。呆れ果てたぞ、小物が」
「秤妖を殺す事が即ち終止符ですか?」
 答えたのは、蘭ノ介ではなく裕貴だった。
 秤妖の左腕が、巨大な矢筒から矢を引き抜く。
「‥‥裕貴殿。それが本当に貴女の望みなのだろうか。全てを無に返すと?」
「全てを連れて、姉に会いに行きたいのですよ」
 裕貴は薄く笑った。
「これもまた、偽らざる本音です」
「――ならば私はそれを否定する。誰も死なせはしない。貴女が生を望むその日まで寄り添う覚悟を以て。交わした心の刹那に見せたあの優しき瞳を信じて」
 秤妖の矢が、蘭ノ介の左耳を掠めて地面に深々と突き刺さった。その矢羽根を踏み、軸のしなりを利用して裕貴が跳躍する。
 刹那、空中に白い符が広がった。
「二人には悪いけど、あたし、カスミの仲間だから!」
 符は秤妖の頭ほどの高さにまで伸び上がり、裕貴達の進路に立ち塞がる。うさぎの結界呪符だ。
「うさぎさん‥‥」
 薄桜色の肌に紋様の刻まれた小さな身体を、霞澄は痛々しげに見ていたが、やおらその小さな手を、そっと握った。
「ありがとう‥‥」
 うさぎは大きく瞬きをした。見る間にその色素のない顔に血がのぼっていく。
 照れ笑いを浮かべて手を大きく振り、霞澄の手を離す。
「ね、カスミ」
 うさぎの手を離れた符が、天を衝く光となって立ち上った。
「ありがとって言われるの、何か、嬉しいね」
 その光の中を降りてきた氷龍が冷気を吐き、裕貴の身体を見る間に霜で覆い尽くす。
 赤い閃光が、動きの鈍った裕貴の身体に絡みついた。
「義視‥‥!」
 裕貴の忍刀が振るわれる。手の甲で受け、手首で跳ね上げ、腕を畳み、裕貴の肘の裏を打ち上げる。右膝を左脇腹に打ち込む。左手指を揃えて目を撫でる。一回転し、後ろ回し蹴りで側頭部を狙う。
「全力で行くよ」
 深紅の袍を風に嬲られながら、義視が猫のように低い構えを取る。
 裕貴の姿が闇に溶けた。蹴り上げられた土に視界を奪われ、義視は地を転がる。その身体を、漆黒の苦無が撃ち抜いた。
 義視の血が地面に落ちるよりも早く、忍刀を逆手に握った裕貴が地を蹴る。
「前から影!」
「!」
 事前に裕貴達の動きを聞いていた柚月に反応し、義視は目を閉じたまま土を蹴り上げた。思わぬ反撃でまともに土を顔に浴び、裕貴は飛び退る。
「僕は、もう逃げない!」
 義視は咆えた。



――(本番前の、肩慣らしだ)
 下生えの中、金色の大鎧が火の粉を浴び、炎の色を反射して赤く輝く。板塀を突き破った鬼の鎧は、背中を真一文字に叩き割られていた。
 面頬の奥で、黒い瞳がぎらつく。茶筅髷に鉢金を巻いた鬼島は、喉も裂けよとばかりに夜空目掛けて高々と咆哮を上げた――(暗夜)

「長老も亡くなり、封印の詳細を知る人も最早いないでしょう‥‥役割を終えた里が存続する理由もありません」
 蘭ノ介と対峙した霞澄が、きつく榊を握り締める。
「死ぬ事より残されて生きる事の方が辛いのは‥‥私などより‥‥」
「まだ役割を終えてなどいない」
 蘭ノ介が後方へ跳躍した。重い音を上げ、秤妖の足に蹴飛ばされた鬼島が地面に転がる。
 鬼島は赤い唾を地面に吐き、即座に立ち上がった。
 左半身の相手がいなくなった事で野太刀と槍の威力が増し、雪刃とりょうが攻撃を受け流し切れなくなっている。
 蘭ノ介を一瞥さえせず、鋭く吐き捨てた。
「まだこのような所で遊んでいたか」
「貫徹、来るよ!」
 柚月が叫んだ。秤妖の口が開いている。鬼島は鬱陶しそうに斧を構えた。
 だが、
「違う、左、蘭ノ介!」
 続けて柚月が叫ぶ。
 秤妖の白い冷気を切り裂き、黒い影が鬼島へと襲いかかった。
 鬼島の斧が、その影目掛けて薙ぎ払われる。
 その刃に、忍刀を握った蘭ノ介の親指と人差し指が添えられた。斬撃の軌道が、上に逸れる。逆手に握られた忍刀が、斧を振り抜いてがら空きになった鬼島の腋下目掛けて滑り降りていく。
 その動きを裕貴の戦いに見取っていた鬼島は、身体を四半回転させ、その鋒に空を切らせた。
「この大たわけが!」
 大喝と共に、手甲に包まれた拳が蘭ノ介のの鼻面を叩き潰す。
 咄嗟に突き出された忍刀が脇腹を抉る。構わず鬼島は蘭ノ介の喉を掴み、その後頭部を木の幹に叩きつけた。
 鬼島の後背に、ディディエの術で黒い鉄壁がそそり立った。
 秤妖の放った矢が高い音を上げて弾き返される。
「愛が、全てだ。それが分かっている分、菊ノ介よりはまだ見所がある」
 突き刺した忍刀を抉り抜こうとした蘭ノ介の手が止まる。
「何故‥‥分家の名を」
「だが、愚鈍。余りにも愚鈍」
 渾身の右拳が、蘭ノ介の前歯を粉砕した。
 二度。三度。重い音が繰り返される。忍刀に抉られた鬼島の脇から、腹から、血が噴き上がる。蘭ノ介の口から、歯がこぼれ落ちる。
「救いようのない程の愚鈍だからこそ、未だ大切な者が傍にあることに気付かない」
「貫徹!」
 駆け付けた柚月の閃癒が、鬼島の身体の傷を癒す。
 渾身の正拳突きが、蘭ノ介の鳩尾に突き刺さった。
「諦めなければ、今度こそその愛は奪われずに済むというのに、気付かない」
 蘭ノ介は、木の根に寄りかかるようにして崩れ落ちた。危機を察した裕貴が義視の前を離れ、鬼島の前に立つ。
 柚月の閃癒を今一度受けながら、鬼島は吐き捨てた。
「まったくもって――――愚鈍だ」



――(せーぎもふくしゅーも僕にはわかんナイけどさ)
 鎧鬼が力任せに振り下ろす金砕棒を、柚月は紙一重で避けた。白羽扇をその兜に叩きつける。
(すすんで戦いを呼んだのなら、それはしっかり受け止めて。生きて、倒して、誰かが笑えるようにして)
 金砕棒が持ち上げられ、横薙ぎに払われる。扇で視界を遮っていた柚月は、既にその間合いの外へと踏み出していた。下生えを薙ぎ払い、銀糸で文字が刺繍された漆黒の衣を掠めて、金砕棒は地面を叩く。
(‥‥その後、ゆっくり裁かれればイイんだ)――(暗夜)

 秤妖に蹴飛ばされた雪刃が、蘭ノ介達の前まで転がってくる。秤妖の口に、電撃が宿った。雪刃は跳ね起き、身構える。
 青紫色に明るみだした空を、無数の煌めきが横切った。
「我ら芙蓉の一族、背に負いし弓も刀も、飾りではないぞ!」
 怒鳴り声と共に、動きの鈍りだした秤妖の背に、両手に余る数の矢と苦無が突き刺さった。
 芙蓉の里の志体持ちだ。
「散れ! どうやらこの木偶の坊、口から何か吐くぞ!」
 断ち切られた肩口を固く縛った和田が怒鳴る。
 秤妖は怒りの咆哮を上げるとゆっくり回転し、恐怖の面をシノビ達に向けた。数多の鏃と苦無が風を裂く。
「下がれ!」
 和田の号令は間に合わない。吐き出された紫電は十丈以上離れていたシノビ達を貫き、残らず地面に薙ぎ倒した。
 秤妖が、更に瘴気を吸い込む。
 地面に転がり、芋虫のように身体を蠢かせるシノビ達目掛け、再度電撃が吐き出された。
「フォローは、前衛の方に対してするつもりだったのでございますがねぇ」
 腹を射抜かれ、普段以上に青い顔をしたディディエが、脂汗を浮かべながら笑う。
 電撃は、舞い上がった枯葉を焼くだけに終わっていた。
 黒々と立ち塞がる鉄壁に遮られて。
「芙蓉の覚悟、確かに受け取った!」
 舞いを思わせるりょうの体捌きは、嵐の如き激しさを見せていた。
 雪刃は蘭ノ介と裕貴を一瞥し、秤妖の間合いに飛び込むべく、その動きを見定める。
「貴方達が秤に乗せてるのは、自分達と世界なんかじゃない」
 秤妖の矢が放たれた。太腿を撃ち抜かれた弓術士が、悲鳴を上げる。
「大好きな人のいない世界で生きる苦しい現実と、大好きな人の為にという名目で周りごと自ら滅びる甘い幻想、でしょ」
 雪刃が地を蹴った。
「秤妖と戦う苦しい現実を避けた芙蓉の里への怒りを口にする資格はない」
 一歩。四歩。十歩。加速する。加速する。銀色の風になる。
 風が、炎を纏った。野太刀から放たれる鎌鼬が、虚しく赤銀色の風の痕跡を裂く。
 裂帛の気合いと共に、焔陰の炎を纏った風は秤妖の脚に絡みつき、突き抜けた。
 足から白い瘴気が噴き上げ、秤妖の身体が遂に傾いた。
「精霊さん‥‥貴方の力を、こんな風に使うこと‥‥許して‥‥!」
 霞澄の手が大きく弧を描いた。円弧の中に精霊力が波紋となって広がり、九曜紋を描く。
 ほっそりとした霞澄の全身が光に包まれ、その背に巨大な光の暈が広がった。暈から放射された光が九曜紋の外周に吸い込まれていく。
 九曜紋の中心から生まれた一本の細い光条は、雪刃が半ばまで切り裂いた秤妖の右足首を射抜いた。
 光条は見る間に太くなり、秤妖の右足首を、骨ごと削り、完全に断ち切る。
 秤妖は怒り狂い、咆哮を上げた。
 早くも右足首の断面からは無数の触手が伸び、再生を始めている。
「亡くなった人を逝く理由にしちゃダメだと思うんだよ」
 柚月の手が、そっと蘭ノ介の顔に翳された。
 暖かい光。
「そのヒトのコト、忘れずにいられるのは生きてるヒトだけ」
 傷が、癒されていく。
「忘れナイって思うのなら、ずっと忘れずに生きてけばイイ。止まれナイなら、止まれるところまで行けばイイ。そこからもう一度考えればイイ」
 光が遠ざかっていく。消えていく。血の色に染まっていた視界に、明るくなり出した空が見える。
「そろそろ、止まれナイ? ううん、止まらナイ?」
 手を離した柚月は駆け出した。弓術士は、動脈を射抜かれていたようだ。和田が血相を変え、柚月と霞澄を呼んでいる。
 秤妖を取り囲むようにして、白い光球が三つ、宙に浮かび上がった。
 一つがうねり、電光と化して秤妖の腰を灼いた。次いで一つが右胸を、更に一つは怨嗟の面を。
「狙うべきは‥‥、お二人が担当して下さっている右半身でございますかねぇ」
 光球は、四つだった。秤妖の頭上に生まれていた光球は肥大化を続け、今や一面の森を白く照らし出している。
 耳を劈く轟音と共に光の鉄槌が振り下ろされ、秤妖の右肩を貫いた。
「兄さん‥‥」
 裕貴が、そっと蘭ノ介の手に、自らの手を添えた。
「もう‥‥もう、私は」
 蘭ノ介は、獣の如き絶叫を上げた。
 りょうの「阿修羅」が、金赤の閃光を放つ。秤妖の目が灼かれ、右腕に込められていた力が緩む。
 柄の宝珠がりょうの掌から瞬時に練力を吸い込み、渦巻く精霊力を纏った。野太刀の刀身に浮いた錆が浮かび上がり、剥がれ落ち、朽ちた鋼が姿を現す。
 弓矢を除く獲物が振り上げられ、一斉に振り下ろされた。金属音が重なり、受け止めた開拓者達の獲物が軋みを上げる。
「裕貴!」
 喉が裂け、唇から血を滴らせながら、蘭ノ介は絶叫した。
「裕美を、お前の全てだった姉を! 俺は捨てる! 俺が選ぶのは‥‥」
 そこにいる誰もが、瞬き一つ、していなかった。
 秤妖の足に、肩に、鎖が巻き付いている。刹那の間隙さえそこには無かった。秤妖の動きが、瞬間、止まる。
 誰一人視線を切らぬままに、今度は鎖の一端が近くの大木へと繋がれた。
 まるで、瞬間移動でもしたかのように。
 たった今まで秤妖の横手にいたはずの裕貴の姿が、大木の傍に。蘭ノ介の姿が、秤妖の肩にあった。秤妖の口から吐き出された電撃を全身に浴び、蘭ノ介の身体が吹き飛ぶ。受け止めようと、裕貴が地を蹴った。
 秤妖の肩に掛かった鎖が剛力に引かれ、繋がれた大木が軋みを上げる。圧倒的な剛力に、鎖が滑り、ほどけ始めた。
 鬼島は金砕棒、りょうは野太刀、雪刃は槍の前から離れられない。シノビ達は柚月の治療を受けている。蘭ノ介は裕貴に助け起こされている。義視の隼脚が、間に合うか否か。
 果たして、鎖は、動きを止めた。
「みんな!」
 叫び声に、その場に居合わせた者達が目を剥く。
「纏助!」
「は、はは早く!」
 纏助が、裕貴の使っていた苦無で、重なった鎖の穴を縫い止めていた。いつの間にか、掏り取っていたのだ。
 秤妖の右腕が弓を引き、怨嗟の面が纏助目掛けて冷気を吐く。
 霜と氷柱に覆われた一帯から、全身を霜に覆われながら、纏助を抱えた義視が転げだした。二人の前を、うさぎの結界呪符が塞ぐ。
 鈍い音。
「兄さん‥‥!」
 裕貴が、か弱い悲鳴を上げる。
 秤妖の放った矢は、咄嗟に彼女と体を入れ替えた蘭ノ介の胸を貫通し、裕貴の右肩にまで突き刺さっていた。
 蘭ノ介の膝が、崩れる。
 倒れない。
「やれ! 殺せ! 秤妖を!」
 足を開き、辛うじて膝を浮かせ、喉から血を溢れさせながら、くぐもった声を上げる。
 りょうの喉から、唸り声が漏れる。逆巻く練力が刀身から漏れ出し、阿修羅の刃が、野太刀の刀身に食い込み始めた。
 一寸。二寸。
 雪刃の紺碧の瞳に、紅緋色の炎が映り込む。焔陰が殲滅夜叉に宿っていた。
 総鉄造りの槍が持ち上がり、雪刃の顔面目掛けて突き出される。銀色の前髪に穂先が触れる。鼻を掠める。頬を掠める。耳を裂く。広がった銀髪を穿つ。
 雪刃の身体は、秤妖の後方に立っていた。振り抜いた殲滅夜叉の炎は既に消え、秤妖の右腕が業火に包まれている。その手首は斜めに切り落とされ、白い瘴気を噴き上げていた。
「我らに‥‥」
 りょうの唸りと共に両断された野太刀が空を切り、地を抉る。解き放たれた阿修羅の刀身が、渦巻く精霊力を再度宿す。
 阿修羅の刀身が夜明けの光を受けて輝いた。
「武神の加護やあらん!」
 袈裟懸けの一太刀は膝を折った秤妖の腹を胴丸ごと、切り返した逆風の一太刀は腿を草摺りごと、深々と切り裂いた。
 秤妖が、幾度目かの絶叫を上げた。焼け焦げた木々が、同心円状に大きく揺らぐ。
「もう終わりにしてくれ! 俺達を! 楽にしてくれ!」
 鬼島の全身に血管が浮き上がり、まさに鬼の如く、その顔に血の気が上る。全身を循環していた練力が両肩に集まる。金砕棒が、戦斧に押し上げられる。
 秤妖の左腕が矢を捨て、金砕棒を掴んだ。鬼島の両足が、地面にめり込んでいく。
 突如金砕棒が地面に突き刺さり、轟音を上げた。
 膨大な練力を蓄積した両肩を軸に、戦斧は反転していた。金砕棒に込められた秤妖の力をも利用し、鬼島の全身が一回転する。
 瑠璃色の空目掛けて、枯葉を、小枝を、土を巻き上げながら、鬼島の両肩から練力の残渣が噴き上がる。
 熱狂的なまでの破壊力を纏った刃が閃光となり、地響きを上げ、大地ごと秤妖の腹を両断した。



――傍に屈み込んだ雪刃の紺碧の瞳が、義視の顔を悲しそうに覗き込む。
(そんな言い訳で自分を守らなくても)
 そっと、義視の黒髪を柔らかな指が撫でた。
 暖かい。熱い。裂けた額から溢れ出す血が、目に流れ込む。
(助けてほしかったって、助けてほしいって言ったって良かったと思う)――(火天)

 耳朶を優しく撫でる龍笛の素朴な音色が、秋風に乗って空へと広がっていく。
「すっかり、風が冷たくなったな」
 千歳緑の羽織の前を掻き合わせ、りょうが呟く。
 目を閉じ、大きな龍笛を吹きながら、柚月は微かに頷いた。
 芙蓉の里が焼失した跡。鎮魂の石碑前へ、開拓者達は再度集まっていた。
「三午も、大分落ち着いてたね。良くも、悪くも」
 雪刃が、石碑についた泥を擦り落としている。
 あれから一月。三午に流れ込んだ芙蓉の人々は、強い偏見の目に晒され、着の身着のまま、街道を流れて別の町へと流れて行った。
 纏助は三午の友人達と再会を喜び合っていたが、散り散りになっていく里の人々を見て思う所があるのか、熱心に絵画の練習をしているらしい。
 ディディエが、柚月の笛の音を聞きながら呟いた。
「あの二人は‥‥何故私達を、芙蓉の里に呼んだのでしょうねぇ」
 鬼島が興味深そうに顎を摘んだ。
「ふむ。里を滅ぼす事が目的なら‥‥」
「我々を呼ぶ必要はございませんので〜」
「‥‥確かにね」
 雪刃は、自らが参加し始めてからの流れを思い起こして頷く。
「裕貴殿は、止めてくれと‥‥工房で言っていたな」
 りょうは線香を石碑の前に捧げると、両手を合わせる。
 龍笛の優しい音色だけが、風に乗って辺りを駆け巡る。
 遠くから、見覚えのある黒人の中年男、スティーブが歩いてくる。ディディエが手を挙げて合図を送ると、スティーブは走り出した。
「蘭ノ介さんは、あの時、里の役割はまだ終わっていないと言っていました‥‥」
 石碑の前に屈み込み、両手を合わせていた霞澄が、ぽつりと呟く。
「芙蓉の皆さんに、逃げさせたままで終わらせたくなかったのでしょうか‥‥自ら危険を被ってでも戦う姿勢を、示させたかったと‥‥」
 冷たい秋風に、銀髪が揺れる。
「ふむ‥‥考えられない事ではございませんですねぇ。第二第三の秤妖が現れた時、第二第三の蘭ノ介が生まれるかも知れないわけでございますから〜、はい」
 柚月の笛の音は、まだ続いている。すっかり高くなった空を、ゆったりと雲が流れていた。
「やあ、おのおの方」
 荒い息をつきながら、スティーブが一同の元へと駆け寄ってきた。
「全く、芙蓉では貴様のおかげで余計な一手間を食った」
 近付いてくるスティーブを、鬼島が満更でもなさそうな顔で蹴飛ばす。
「尤も、なかなかの大物を仕留める事もできたがな」
「おのおの方のご活躍、この目で見たかったものでござるな」
 スティーブは呑気に笑った。
 笛から漸く唇を離し、柚月が微笑んだ。
「久しぶり」
「鎮魂の曲でござるか」
「ん‥‥」
 柚月は石碑を横目でちらりと見、頷いた。
「僕にできるのは、これくらいだカラ」
「何を仰る」
 謙遜する柚月に、スティーブが苦笑する。
 柚月はそっと首を振り、銀色の目を細めた。
「ココにいないヒトのために吹く笛は、結局自己満足でしかナイんだケド。でも、忘れずにいるカラ、僕は笛を吹くんだよ」
「そうですね‥‥」
 霞澄が頷く。
「それで‥‥うさぎと義視は、どうなったの?」
 雪刃が、待ちきれないといった様子で尋ねた。
 元々彼らがこの場に集まったのも、スティーブから、この件に関する裁きが下ったとの報せを聞いたためだった。
 スティーブは白い歯を見せた。
「うさぎ殿と義視殿は、開拓者ギルド預かり。彼らが直接殺めていたのは僅かのようで、厳重な監視と道徳教育、アヤカシ退治の無償奉仕で落ち着きそうでござるよ」
「和田は?」
「文字通り弓引く事のできぬ身体になってござるからな、違う形の懲役を科される事でござろう。‥‥そうそう、皇殿に一言礼を伝えろと言われてござる」
 スティーブは微笑む。僅かに、りょうの顔が綻んだ。
「蘭ノ介と、裕貴は‥‥?」
「うむ‥‥」
 スティーブは浮かない顔をした。
「秤妖と戦いに行くと誘い出され騙し討ちに遭い、愛する者を殺されたばかりか、その下手人の汚名を着せられていたわけでござるからな‥‥情状酌量の余地は認められたのでござるが」
「認められたが、っていうことは‥‥」
「無辜の人々にアヤカシをけしかけ、里に火を放ち、何より復讐の為に数多の罪なき人々を攫い、殺めたことは、斬首によって償われるのが妥当と」
 雪刃が溜息混じりに天を仰ぐ。
「ま、まだ先がござる」
 慌ててスティーブが両手を振る。
「されど、秤妖の討伐に功績のあった由、おのおの方と里の人々の証言もござったし、皆さまの助命嘆願により、その罪一等を減じ、両名は終身の懲役を科されてござる。恐らく、死ぬまで理穴でアヤカシ退治を生業とさせられることでござろう」
「そっか」
 どこか安心したような顔で、開拓者達は視線を交わす。
「しかし、これで終わりではない。むしろ、これから始まるのだろう。様々な道が」
 りょうが、流れていく雲を眺めながら呟いた。
「でも、よく斬首を回避できたね」
「うむ。霞澄殿のお言葉が効いてござる」
「私の‥‥?」
 霞澄は自分の小さな顔を指した。
「うむ。お裁きの文にも使われてござる。何でござったか‥‥」
 スティーブは腕を組み、首を捻って、霞澄の言葉を思い起こす。
「そう。『それでも‥‥」



「‥‥先生。こちらにも」
「どれ」
 先生と呼ばれた男が、今度は北向きの穴を潜った。
 照らし出された新たな壁画を見て、男は思わず唸り声を上げた。
「これ、身長は‥‥二丈、いや三丈あったんでしょうか」
「うむ」
 そこに描かれているのは、三面六臂の、鎧を纏った灰色の鬼だった。辺りの木々の高さと比べても、その威容は想像するに余りある。
 それに果敢に挑んでいたのは、白羽扇を持ち巫女袴に漆黒の衣を羽織った青い帽子の少年。
 腰まで届く銀髪に黒い魔法帽を被り、白いローブを重ねた白皙の少女。
 杓文字状の斧を持ち、金色の鎧を身に纏った茶筅髷の中年武者。
 当世具足に筋兜を被り、腰に太刀を佩いた銀髪の女武者。
 大鎧の上に外套を羽織り、白い長杖を手にした細身の青年。
 首にヒジャブを巻き、厚司織に外套を羽織った銀髪の女神威人。
 深紅の袍に身を包んだ小柄な少年。全身に刺青の入った赤目の少女。痩身にして隻腕の青年。
 そして、忍装束に身を包んだ二人の女性と、一人の男性だった。
 男は、並ぶ肖像の下に刻み込まれた文字を読み上げた。
「それでも残された者は生きていかなくてはならない。忘れない為に、本当に亡くしてしまわない為に‥‥」