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■オープニング本文 前回のリプレイを見る ● 唸るかの如き炎の音、木材の爆ぜる音。雲に覆われた夜空は、次第に赤く染まりつつあった。 周囲から伝わる熱気は、火の手が次第に強くなりつつある事を示している。 「姿勢を低くして、風上に逃げろ! 煙に巻かれるぞ!」 身体中に包帯を巻いたシノビが絶叫した。 「誰か、掛矢を持ってこい! 門は風下だ、風上の板塀を破れ!」 「拙者が」 宛がわれた小屋にあった古い掛矢を担いだスティーブが名乗り出る。 「あんたは、確か‥‥」 「話は後でござる。長老殿は」 「見つからないんだ。屋敷で逃げ遅れているのかも」 地団駄を踏みながら、焦りに焦ってシノビは叫ぶ。 「では拙者が長老の屋敷へ。その後、風上の板塀を破って参るでござる。確か先日、蘭ノ介の一味に壊され掛けた壁がござったな」 シノビはスティーブに両手を合わせた。 「頼む! 俺は逃げ遅れた奴がいないか見てくる!」 スティーブは胸を叩き、シノビは早駆でその場を離れた。スティーブは掛矢を重そうに担ぎ上げ、走り出す。 破裂音が里の随所で発せられ、その度に新たな火の手が上がる。 寝間着のまま手に手を取り、おろおろと駆け回っている人々を見て、スティーブは走りながら怒鳴った。 「煙を吸ってはならん! 着物で口許を覆い、風上へ向かうのでござる!」 怒鳴られた母子は慌てて口に布を当て、風上へ向かい始める。 それを見送り、長老の屋敷の前に辿り着いたスティーブは、息を呑んだ。 屋敷の前に、小柄な人影が佇んでいる。 「お主は」 里の子供ではない。 やや細身の身体を深紅の袍に包み、両手を肘まで覆う手甲で守った少年、義視だった。 「? ああ、そういえば開拓者の中に混じっていたね」 「まさか、お主がこの騒ぎを」 「もっちろん!」 屋敷の中から現れた純白の髪の少女、うさぎが、赤い眼を喜びに輝かせて答える。 「これが終われば、僕たちは自由だ。邪魔はさせないよ」 狐面を着けていない義視の、これといった特徴の無い唇が、驚くほど醜く歪んだ。 「お主達、自分が何をやっているか解っているのでござるか!」 「べーだ!」 うさぎは思い切り舌を出す。 「私達のことは助けてくれなかったくせに!」 「義視。うさぎ。何をしている」 スティーブは弾かれるように振り向く。 背後に立っている男は、「工房」で相見えた男、和田だった。異形の大弓を手に、弓掛け鎧の上から羽織った外套を火の粉の混じり始めた風に揺らしている。 「行くぞ。まだ火の手は回りきっていない」 「解っているよ」 和田に肩を竦めて見せると、義視はスティーブの顔を見上げる。 「今日は、殺すか、殺されるかだよ」 その足が地を蹴り、小柄な姿が掻き消えた。 「力のない奴らって、すぐに自分は悪くないふりするから嫌い!」 うさぎもまた小さな足音を立ててスティーブの前から消えていく。 追って駆け出そうとするスティーブの前に、和田が立ちはだかった。 「俺達を邪魔立てする気か」 「無論」 スティーブは唇を噛み、掛矢を構え直す。 「ならば問う」 和田の手が静かに矢を引き抜き、弦に番える。 「俺達を疎外し、石を投げ、敵に回したのは民衆だ」 不吉な弓音と共に、矢が引き絞られる。 「屈従か戦いか。どこへ行っても俺達にはその選択肢しかなかった」 弦音が響いた。スティーブが咄嗟に両腕と片足で正中線を守る。 しかし矢は大きく逸れ、後方へと消えた。 「俺達に屈従を選べと言うのか? 仕掛けられた戦いを受ける事を、お前達が否定するのか。俺達に戦いを仕掛けたお前達が」 呻き声と重い音が後方に起こる。 スティーブが振り向くと、胸を射抜かれた忍装束の男が地に伏していた。先日の襲撃を生き延びた、里のシノビだ。 そのすぐ後方の角に、見覚えのある禿頭が倒れ込んでいる。その正体に気付いたスティーブは、駆け出そうとし、目を疑った。 「長老殿‥‥」 そこにあるのは、長老の頭だけだった。直後、スティーブはもんどり打って地面に転がる。 生首を踏み付けた長身の男、望月蘭ノ介が、その腹を蹴り上げたのだ。 「和田。何を遊んでいる」 手にしていた松明を屋敷の中へ放り投げた蘭ノ介は、血濡れた忍刀を荒っぽく忍装束で拭って鞘に戻した。 「長広舌を披露している暇があるなら、一人でも多く殺せ」 「いらしたんですか」 和田は意外そうに目を瞠る。 「この老いぼれだけは、俺の手で始末したくなってな」 「秤妖の解放は?」 「もうじきだ」 和田は頷き、腹を押さえて悶絶するスティーブを見る。 「この男は?」 「捨て置け」 蘭ノ介はスティーブを一瞥して吐き捨てた。 「秤妖が現れたら、里が半壊した辺りで攻撃を開始しろ。里の回りの鬼が邪魔になる前に狩る」 「了解。秤妖を狩った後は、好きにさせてもらいますよ」 「元よりその約定だ。ここは頼んだぞ」 和田は頷き、踵を返した。 「待つ‥‥でござる‥‥」 這いつくばったスティーブの弁柄色の手が、炎の舌を生やし始めた屋敷を背に立ちつくす蘭ノ介の野袴を掴む。 蘭ノ介の唇が、薄く笑みを浮かべた。 「秤妖は、まだ完全には解放されていない」 草鞋を履いた足が、スティーブの右手を踏み潰した。異音が響き、スティーブが苦悶の声を上げる。 蘭ノ介の足が、スティーブの手を踏みにじる。 「今俺を追い、止められれば、秤妖は門に封じられたままだ。だが里の外は鬼が取り囲み、中は和田達が暴れ回っている。里を守っていれば、その間に秤妖は復活する。秤妖は、どこへ向かうかな。この里か、或いは三午の町か」 蘭ノ介の足がスティーブの手から離れた。 「長老達は二年前、裕美達を捨てる道を選んだ。俺達は、秤妖との戦いを選ぶことさえできなかった」 背を向けた蘭ノ介は、火の手の上がり始めた家々に向かって歩き出す。 「秤の左右どちらかを捨てられるお前達は、まだ幸運だ」 「何故、お主はそこまで」 スティーブが呻く。 「開拓者達が来たなら、伝えろ。この秤釣り合う日、お前達がどちらを捨てるか、楽しみにしていると」 蘭ノ介が肩越しに振り向いた。 炎に赤々と照らされ、口の端を大きく吊り上げたその顔は、今や鬼面さながらだった。 |
■参加者一覧
柚月(ia0063)
15歳・男・巫
柊沢 霞澄(ia0067)
17歳・女・巫
鬼島貫徹(ia0694)
45歳・男・サ
皇 りょう(ia1673)
24歳・女・志
ディディエ ベルトラン(ib3404)
27歳・男・魔
雪刃(ib5814)
20歳・女・サ |
■リプレイ本文 ● 鎧鬼の身体が、ふわりと宙に浮いた。 その身体が宙を滑り、雷鳴の如き音をあげて顔面で板塀を突き破る。 「本番前の、肩慣らしだ」 下生えの中、金色の大鎧が火の粉を浴び、炎の色を反射して赤く輝く。板塀を突き破った鬼の鎧は、背中を真一文字に叩き割られていた。 面頬の奥で、黒い瞳がぎらつく。茶筅髷に鉢金を巻いた鬼島貫徹(ia0694)は、喉も裂けよとばかりに夜空目掛けて高々と咆哮を上げた。 「鬼島殿!」 その声に気付いたスティーブが、板塀の内側を駆け寄ってくる。 「シノビと弓術士、射撃を主とし、ここより入り込む鬼を切り崩せ!」 鬼島に怒鳴られ、中で狼狽えていた里の志体持ちの目に生気が宿った。 「‥‥りょ、了解」 「侵入路さえ決まっていれば、対策は容易い! 追うのは侵入した鬼だけだ!」 「鬼島殿!」 スティーブの叫びは間に合わない。金色の鎧の脇に、白い瘴気を帯びた亡鎧の刀が深々と食い込む。 だが背後から斬りつけた亡鎧の左膝が、周囲の風景ごと歪な形に引き延ばされ、変形し、甲高く耳障りな異音を発した。 「お客さん、いっぱい来すぎ!」 夜目にも鮮やかな白羽扇が茂みの中から顔を出している。青い帽子の下で柚月(ia0063)の銀色の瞳が一際強く輝いた。 「でかした柚月!」 左膝を砕かれた亡鎧を、杓文字を思わせる六尺超の戦斧が薙ぎ倒した。その両腕を踏み付けた鬼島の目が、凶悪な輝きを放つ。 「一秒待って!」 柚月の手が白羽扇で螺旋を描きながら夜空を指した。羽根の形をなぞった半透明の精霊力が空中へ流れだし、光の粒子を撒き散らしながら、金色の鎧に吸い込まれていく。 鎧が、膨れあがった筋肉に押されて微かな軋みを上げた。 「――――まずは一匹ッ!」 金属の破断する、甲高い異音が森に木霊した。 戦斧の刃は、翳された刀を小枝のように叩き折り、兜と胸当てを叩き割り、背板さえも圧し切り、地面に突き刺さっていた。 鎧の鳴る音が、幾重にも連なって近付いてくる。 「鬼島殿! 先ほどの一太刀、大事ござらんか!」 「愚問! 里の者をさっさと避難させろ!」 蹴飛ばした亡鎧の兜に顔面を直撃されたスティーブは、鼻を押さえて走り出した。 「あやつさえいなければ里の者など見捨てて蘭ノ介を追撃するものを!」 哄笑を上げる鬼島目掛け、機械的に鎧鬼が近付いてくる。鎧の大袖が、三角筋に押し上げられて浮き上がった。 風が唸りを上げる。 鎧鬼の星兜が、鞠のように宙を舞った。 「貫徹、嘘つきなんだカラ」 「何をぬかす」 柚月の言葉に、鬼島は面頬の奥で笑みを含む声を発する。 「せーぎもふくしゅーも僕にはわかんナイけどさ」 鎧鬼が力任せに振り下ろす金砕棒を、柚月は紙一重で避けた。白羽扇をその兜に叩きつける。 「すすんで戦いを呼んだのなら、それはしっかり受け止めて。生きて、倒して、誰かが笑えるようにして」 金砕棒が持ち上げられ、横薙ぎに払われる。扇で視界を遮っていた柚月は、既にその間合いの外へと踏み出していた。下生えを薙ぎ払い、銀糸で文字が刺繍された漆黒の衣を掠めて、金砕棒は地面を叩く。 「‥‥その後、ゆっくり裁かれればイイんだ」 柚月は下生えの中にしゃがみ込んだ。直後、一瞬前まで柚月の前髪があった場所を凶悪な銀光が薙ぎ払う。 金砕棒を振り上げようとした鎧鬼は、鬼島の一撃で胸を両断されて盛大に血を噴き上げた。 「里のヒト、三午のヒト、できれば裕貴たちだって笑えるのがイチバンよくって‥‥あー。うまくまとまんない!」 白い瘴気を纏った亡鎧の姿が近付いているのを見て、柚月は慌てて木陰に飛び込む。 正面の大地に突き立てた戦斧で鎌鼬を受け止め、鬼島は笑った。 「クハハ。悩むこと無くして、何の人生か」 ● 小さな風切り音が、炎の音に紛れ込んだ。 「戦いか屈従か? でございますか〜‥‥」 六尺近い聖杖「ウンシュルト」身体の前に翳した長衣の男の身体が、僅かに揺れる。 青白く細い腕から白い長杖へと練力が流れ込む。練力は宝珠に吸い込まれ、細かな粒子となって弾け散った。 「言わんとされる事も分からないではございませんが〜‥‥」 長衣の中に着込まれた大鎧は切り裂かれ、少なからぬ量の血が流れ出している。 その視線の先には、白い瘴気を纏った大鎧が一両、仁王立ちをしていた。ディディエ・ベルトラン(ib3404)が、亡鎧の鎌鼬を身を挺して受け止めたのだ。 「少々やりすぎられたようで‥‥」 肩を射抜かれた女。顔を焼かれた少女。折れた足を引きずり、妻を捜す男。その誰もが亡鎧に気付いて顔色を変え、一斉に風上へと逃げ出した。 「皆さん〜、指示通りにお願い致しますよ〜」 間延びした声に応え、家々の陰から幾条もの矢、そして白銀色の苦無が亡鎧に殺到した。反撃の鎌鼬は、苦無を投じたシノビにあと一丈届かない。 鎌鼬を放った亡鎧の眼前に、精霊力の粒子が凝集した。 一瞬だった。 熱狂的な破壊力を帯びた「灰色」はまさに瞬き一つの間に膨れあがり、亡鎧を呑み込んだ。 幾万の虫の羽音を重ねたかのようなおぞましい異音が、家々を、夜の大気を、大地を震わせる。 「つくづく残念な方々のようにございますねぇ」 乾いた音と共に、途中から切断された篭手だけが地面に落下した。 一瞬の沈黙。 「それで、何かご存知ありませんでしょうか、ご老人?」 火傷に濡れた布を当て、転がった篭手を横目に見ながら、恐る恐る老人が進み出た。篭手の断面は、鋭利な刃物で切断したかのように美しく滑らかだ。 「ちょ‥‥長老が命を落とした今、誰が知っているやら‥‥」 ディディエは細く尖った顎を摘み、上目遣いに老人の目を覗き込む。 「欠けずの望月が、開封の方法を知っているようですが〜」 「望月が?」 老人は意外な顔を見せ、火傷の痛みに顔を歪めた。 「望月が知っていたなら、早瀬が知っているやも知れんが‥‥」 「その方はどちらへ?」 ディディエは呟き、流れ落ちる血を荒っぽく拭う。 「解らん」 老人は力無く首を振る。 「女のシノビなのだが‥‥お主等も見ておらなんだか」 ディディエはちらりと老人の顔を窺った。 「この里に、女性のシノビというのは、一人だけでございますか‥‥?」 ● 持ち主の銀髪よりも更に白い大太刀「殲滅夜叉」の刀身は刃と棟を返して、脇構えで後方に隠されていた。 深紅の袍を熱風にはためかせ、義視は歪な笑みを浮かべた。 「この期に及んで、峰打ち? 余程綺麗事が好きなんだね」 「そうだね。知らなかったから、なんて言い訳にならない」 雪刃(ib5814)は銀色の尾で外套に掛かる火の粉を払う。 「今からでも、助けに行くよ。その考えから」 「なら、その綺麗事に殉じるんだね」 義視の瞳が暗い炎を帯び、深紅の袍が尾を曳き、砂煙を上げた。 地を這うかの如き体勢から、膝裏を刈る回し蹴り。地に手を付き、腋を狙う突き蹴り。雪刃のしなやかな腕が膨れあがる。義視は腰を蹴る反動で刃圏から逃れようとする。雪刃は身を捩って蹴りをいなし、反動をつけさせない。 銀光が、義視の顔面を掠めた。 「‥‥より強い相手に倒されて、それでいいと思えるの?」 地を転がった義視は眉の上から派手に血を流し、怒りに燃える目を雪刃に向ける。 「くどい! 自分の甘さを呪って死ぬんだね!」 義視は咆えた。大太刀の一閃に備えて左手を肩の前に構え、猛然と地を蹴る。 その速度に、雪刃の反応は遅れた。 再び間合いの内へ飛び込んだ義視は、勝利を確信して左足を浮かせる。 その時だった。 「弱いから死んだとか、利用されたのが嫌だから、復讐を望んだんじゃないの?」 雪刃の右手が、柄を逆手に握った。左手が柄から浮く。右足が踏み込む。銀髪が後ろへ流れる。殲滅夜叉の黄色い宝玉が淡い光を放つ。 漸く地に着いた義視の左足が前方へ滑り、宙に投げ出された。小柄な身体が頭を中心に半回転し、首から地面に叩きつけられる。 「隼‥‥襲‥‥?」 叩き割られた額から、鮮血が溢れ出した。 突進の勢いに全体重をも乗せて、義視は大太刀の柄頭に顔面から激突していた。 脇構えで刀身を後ろに隠そうとも、峰打ちならば止める事は容易だ。一撃止めれば、間合いに入る事もたやすい。間合いに入れば、密着戦で勝負はつく。 義視は、そう思わされていた。全ては柄頭で最短距離を突くための、そしてその間合いに無防備に入らせるための、罠だったのだ。 脳を揺らされた義視は、起き上がれない。五指は、血の気を失うほどきつく地面を掴んでいる。 傍に屈み込んだ雪刃の紺碧の瞳が、義視の顔を悲しそうに覗き込む。 「そんな言い訳で自分を守らなくても」 そっと、義視の黒髪を柔らかな指が撫でた。 暖かい。熱い。裂けた額から溢れ出す血が、目に流れ込む。 「助けてほしかったって、助けてほしいって言ったって良かったと思う」 義視の目に流れ込んだ血が、薄まって、目尻から溢れた。 「寂しかったんだね」 ● 壁材の爆ぜる音に、激しい足音と鋭い弦音が混じる。 「世間から拒絶されたから戦ったまでだと言うが」 皇りょう(ia1673)が、荒い息の中で呟く。その距離、四丈。 「この行いで何が残るというのか。自分自身に胸を張れるのか」 「ならば貴様は、戦いか屈従か、どちらを選ぶ」 矢を番えた和田は、顎を伝う汗を肩で拭った。りょうの筋兜に取り付けられた般若が、彼の顔を睥睨している。 「貴様とて、邪魔者を斬って胸を張る、力でしか物を語れない人種ではないか!」 りょうは無骨な篭手を具足の前に翳し、珠刀「青嵐」を肩に担いで突進する。 弓音が夜空に吸い込まれ、殺意を帯びた銀色の光条がりょうの喉元目掛けて放たれた。その軌道から、りょうの身体は逃れられない。 だがその軌道に、無双払が割り込んだ。 分厚い装甲を鏃が打ち抜き、左中手骨を削り、掌へと抜け、指を傷付け、漸く停止する。 りょうは右手の青嵐を上段に翳した。和田は既に次の矢を引き絞り、彼女の喉に狙いを定めている。 「――断じて否!」 青嵐の濡れた刀身が、炎の赤とは違う、金赤色の輝きを発した。 和田の身体を走っていた練力が突如その流れを乱した。放たれた矢はりょうの首を外れ、具足の垂を貫き、鎖骨を砕く。 鮮血と共に、耳が一つ宙を舞った。 跳び退った和田の顔中から、脂汗が噴き出している。 血と煙の臭いに、梅の香気が混じった。 「悪は誅す――それだけを胸に今まで戦ってきた」 重い音と共に、和田の左肩から先が地面に転がった。 りょうは左手に刺さった矢の先端を切り落とし、掌から軸を抜き取る。 「だが、それだけでは片づけられぬ世界がある事を知った。殺しはせん」 「‥‥くく‥‥」 遠く、呼子笛の音が聞こえてくる。夥しい血を流しながら、和田は低く嗤った。 その顎に、青黒い筋が走っていた。 「戦いを選ぶことさえ‥‥もうできん‥‥」 峰打ちで顎を揺らされていた和田は、笑いながら前のめりに倒れ臥した。 ● 雲間から覗く星々に並ばんと、無数の火の粉が舞い上がる。 「何で、倒れないの‥‥!」 うさぎの握り潰した符が、小さな手の中で蠢きだした。見る間に巨大化し、拳の中から這い出して地面に落ちたそれは、振り袖を纏った血塗れの女の姿を取る。 同心円状に破壊を撒き散らす悲恋姫の絶叫が響き渡った。付近にいた鎧鬼はその直撃を受けて瘴気の大半を吹き飛ばされ、地を転がる。 だが、僅かに体勢を崩しながらも、うさぎの目の前に立つ柊沢霞澄(ia0067)は銀色の瞳に悲しげな光を湛えたまま、 静かに佇んでいた。 「私もずっと、いらない子と言われてきました‥‥」 榊の枝から浮かび上がる柔らかな光が、瘴気に蝕まれた自身の身体と、火の粉で火傷を作ったうさぎの身体とを、瞬き一つの間に癒した。 「貴女達の気持ちも少しはわかるつもりです‥‥」 「うるさい! うるさい!」 うさぎの手が、再び符を握り潰す。既にその足下には握り潰された符が幾枚も転がり、火の粉を浴びて焼け焦げていた。 赤い目からとめどなく涙を流し、うさぎはあらん限りの声で絶叫した。 「みんな大っ嫌い! あいつらも、あんたも! あたしも! みんなみんな、大っ嫌い!」 うさぎの頬を伝う涙に血が混じる。 あらん限りの気力を注ぎ込まれて生み出された悲恋姫が、ひび割れた唇から黄色い歯を覗かせた。その口に溜まった血が泡立つ。 鼓膜を引き裂かんばかりの甲高い叫び声が、物理的な質量となって霞澄の身体にのし掛かった。 周りの家々が軋み、戸板が激しく震え、甕の中の水が溢れ出す。 「何で‥‥何で、助けてくれなかったの? 痛かったのに! 寂しかったのに!」 霞澄の身体がよろめき、膝が崩れ掛ける。 「止めてあげる‥‥!」 霞澄の草履が、地を踏みしめた。黒い魔法帽と水晶の仮面は後方へ弾き飛ばされ、白いローブは瘴気に蝕まれ、穴が開き始めている。それでもなお、霞澄はうさぎへと一歩一歩進んでいった。 声を嗄らして叫ぶうさぎの手に、霞澄の白い手が、触れる。 ぴたりと、悲恋姫が叫び声を止めた。 咄嗟に手を引こうとするうさぎの腕を、霞澄はきつく掴んで離さない。 「もう、やめましょう‥‥? ね」 苦しみに歪む悲恋姫の顔が穏やかになった。ゆっくりと地に伏せ、瘴気の塊となって、熱風に溶け流れていく。 「何で‥‥? 工房でも‥‥あんな奴ら、助けて‥‥」 「もう『いらない子』なのも、私のような子を一人ぼっちにするのも嫌だから‥‥」 霞澄は、立ちつくすうさぎの身体をそっと抱き寄せる。 「大丈夫‥‥貴女を嫌ったりはしないから‥‥」 うさぎの鼻を、霞澄の銀髪がくすぐる。 一人の少女の嗚咽が炎の音に混じって夜空に吸い込まれていった。 ● 人々は、放心の体で里の外にへたり込んでいた。西の空は赤々と光り、里が灰燼に帰そうとしている事を示している。 りょうは岩陰に身を寄せ合っている人々に背を向けた。 「どこへ行くんだ」 弓術士が顔色を変える。 「蘭ノ介を追う。先刻の裕貴殿の言葉が気になっていてな」 柚月が小走りにその後を追う。 目的地は、今や明らかだ。東の空に紫色の光が立ち上り始めていた。 「里を滅ぼし、秤妖を狩ったとしても‥‥だっけ」 柚月は不安を隠しきれない。 「このまま進んだら、誰もしあわせにならないんじゃないの」 「‥‥そのような結末は認めぬ。それが、彼等の考えを否定し、こうして力でねじ伏せた自分に課せられた使命だ」 りょうは駆け出した。 「どう見たってあれはやばいだろ! 何考えてんだ!」 「僕は楽しくナイの、ヤだカラ」 声を上げるシノビに柚月は振り向き、微笑んだ。 「いまこのじょーきょーは楽しくナイから。この秤が、少しでも楽しい方向に釣り合うようにね」 「里の皆さまを連れて、三午へと避難をお願いしますです、はい」 柚月が、ディディエが、鬼島が、後を追って駆け出す。 「頼む、間に合ってくれ‥‥!」 先頭を走るりょうが、祈るかのように呟いた。 |