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■オープニング本文 前回のリプレイを見る ● ここは武天、侠客の町、三倉。 生け垣の前に置かれた棚に、丹精をされた盆栽が二十、三十と並んでいる。 作務衣を土だらけにし、一人の女性が榎の根に鋏を入れている。鼻歌交じりで密集した根を刈り込み、時折首を傾げては角度を変えて木を眺め、また鋏を入れる。 「まさか、この変な子を気に入ってくれる人がいるとはね」 あきれ顔で、壮年の女性が廊下に顔を出した。 「変で悪うござんしたねっと」 女性は歌うように言いながら榎を空の鉢に戻し、丁寧に土を流し込む。 「さて。芽切り芽切りっと」 「あのねえ、綾。今更だけど、ちょっとくらいお洒落とか、町歩きとか、しないの」 「竜三さん、近頃忙しそうだもん。一人で歩いたって面白くない」 口元をだらしなく緩めながら、女性、綾は色の淡い松の芽に鋏を入れる。 「喧嘩はもうしてないのね」 「するわけないでしょ」 先日は破局寸前まで気まずくなっていた事はすっかり忘れ、綾はご機嫌だ。 「明後日、一緒にお出かけするんだ。近頃忙しくてなかなか会えないから、仁兵衛さんに藤の盆栽を貰ってきてくれるって」 「あ、そう。良かったわ」 綾の母親は嘆息し、縁側を通り過ぎていく。綾は二歩、三歩離れて棚に置いた黒松の姿を確かめると、鋏を手に芽切りを再開する。 が、やおら軽い足音が近付いてきたかと思うと、再び母親が縁側に顔を見せた。 「そういえば、綾」 「なあに」 振り向かず、綾は鋏を動かし続ける。 「来月あたり、お父さんと一緒に竜三さんの道場へご挨拶に行くから」 それまでの軽い鋏の音とは違う、重い切断音が庭に響いた。 ● 穴の空いた壁を塞ぐ板は、半ば腐って落ちかかっている。立て付けの悪い引き戸を渾身の力で引き開け、綾が道場へ転がり込んだ。 綾の為に持ってきたものだろう藤の盆栽を側に置き、竜三の指導を見守っていた仁兵衛が目を丸くする。 「おや。こいつぁ‥‥」 「ど、ど、ど、ど、どうしよう、ど、ど、どうしよう、どうしよう」 仁兵衛に頭を下げるのももどかしく、綾は道着姿の竜三にとびついた。 竜三が、三白眼を見開いて綾を見る。竜三に構えを直されていた少年が、歯の欠けた穴を見せてにやにやと口元を緩めた。まだ年端も行かない少年、禅一と宗二の二人はきょとんとしている。 「綾さん。どうした。出掛けるのは明後日だろう」 「う、う、う、うちの両親が、両親が」 「何かあったのかい」 血相を変えて仁兵衛が立ち上がる。 「あああい、ああい、挨拶に、来月、来るって言ってるの」 「‥‥じゃ、いいじゃねえですかい」 仁兵衛が呆れて腰を下ろした。荒事にでも巻き込まれたかと思ったらしい竜三も、ほっと胸を撫で下ろす。 だが、綾は激しく首を振った。 「だだだ駄目! だめ!」 「何でまた」 「そ、その‥‥」 荒い息を整えている綾に、宗二が気を利かせて欠けた湯呑みを持ってくる。一気に水を飲み干し、 「宗ちゃん、ありがと」 とその小さな頭を撫でると、言いづらそうに俯いた。 「その‥‥」 「その?」 「竜三さんの道場、立派で、道場生もたくさんいるよって‥‥」 歯の欠けたの少年と気の強そうな少女が、軽く噴き出した。 「先生にゃ悪いけど、四人は沢山じゃないよ」 「立派でもないよねえ」 困惑顔で、竜三が綾の顔を見上げる。 「大風呂敷を広げてきたのか」 「広げてきたっていうか‥‥その‥‥お付き合いを始めた頃に‥‥勢いで」 綾はすまなそうに、上目づかいで竜三を見る。 「言ったのか」 「さ、最初は、広い道場だよって言ったの! それだけだったの!」 綾が、道場を見わたして言う。 道場生四人が、深く頷いた。 「うん、広い広い」 「広さだけはいっちょまえ」 「ひろい!」 「ひろーい!」 綾は頷き、拳を握り締める。 「そしたら、母さんの頭の中で、立派な道場ってことになってたらしくて。で、立派な道場なんでしょ、て言うから、何となく、うん、って‥‥」 「道場生は何人いることになっているんで?」 膝に頬杖をついた仁兵衛に尋ねられ、綾がぴたりと動きを止めた。 「‥‥まさか、十人以上じゃないだろうな」 竜三が恐る恐る尋ねる。 「も、もっと‥‥」 「もっとって、まさか十五人とか」 「‥‥さ‥‥三十人‥‥くらい‥‥」 子供達が、大笑いを始めた。 竜三は頭を抱え込む。 「ち、違うの! さ、最初は、こうやって」 綾は指を三本立てて見せた。 「これくらい、って」 最も年下の宗二が、この道場に出入りし始めたのは最近だ。それまでは、道場生が三人しかいなかったのだ。 「‥‥それが、三人じゃなくて三十人だと」 「思われちゃってたの! 何かもう、父さんも‥‥すっかりそう信じてるみたいで‥‥」 汚れた床の上に、竜三が大の字で寝転がる。 屋根に空いた穴から覗く空が、青く晴れ渡っていた。 「別に屋根が無くても修行はできるし、それで良くないか」 「そんなあ」 綾が泣きそうな声をあげる。 「でもさあ、先生」 少年が竜三の側に屈み込んだ。 「綾さんをおよめさんにするなら、やっぱそれなりの道場がなきゃだめだと思うぜ」 「あたしもそう思う! 綾さんち、立派な紙屋さんなんでしょ。それにつり合うお家に迎えてあげなきゃ!」 「簡単に言うな」 竜三は子供二人の頭を脇に抱え込み、軽く締める。二人は歓声をあげ、手足をばたばたと動かした。 「第一、俺はこの道場の持ち主じゃないんだぞ」 「‥‥そうなの!?」 綾が目を剥く。仁兵衛が頷いた。 「使わなくなった集会所に、こいつが住み込んでるだけでさあ」 竜三は、かつて人買いの手でこの町に売られてきた志体持ちだった。買い手の元を飛び出し、この縄張りに住み込んでいるのだ。 「ま、こいつのお陰で辺りの治安も良くなって、ご近所さんはすっかり竜三の家に決め込んじまってますがねえ」 起き上がった竜三の両手に担ぎ上げられ、少年と少女は笑顔で悲鳴を上げている。 すっかり身体を鍛えられた幼い二人が、竜三の道着を見る間によじ登った。 「竜兄ちゃん、じいちゃんにおねがいしよう!」 「しよう!」 竜三が、気まずそうに仁兵衛の顔を盗み見た。 頬杖をついていた手で、仁兵衛が顔を押さえる。 「‥‥まあ、そうなるだろうとぁ思ってたがねえ」 「申し訳ない‥‥こらお前達、降りろ、重い」 「やだ!」 「師父の命令だぞ」 竜三の右手が、まず少年を放り投げた。少年は空中で身体を丸め、腐った床の上で見事に受け身を取る。同時に、床下で嫌な音が響いた。 次いで、少女を放り投げる。少女は壁の穴に当てられた板に飛びついた。 板が音を立てて外れ、少女は猫のように床に降り立つ。 「全く‥‥盆栽持ってきただけの筈が‥‥」 子供達にじゃれつかれる竜三と、うろたえて道場を見回している綾を眺め、仁兵衛は嘆息した。 |
■参加者一覧
鬼島貫徹(ia0694)
45歳・男・サ
平野 拾(ia3527)
19歳・女・志
宿奈 芳純(ia9695)
25歳・男・陰
ルー(ib4431)
19歳・女・志
蓮 蒼馬(ib5707)
30歳・男・泰
ヴァレリー・クルーゼ(ib6023)
48歳・男・志 |
■リプレイ本文 ● 「次から次へとよく問題が起きるね‥‥まあこれくらいの問題ならむしろ微笑ましいともいえる気もするけど」 韓紅色の髪をカフィーヤで包んだ忍装束の美女ルー(ib4431)が、肩を竦めつつも口許を綻ばせる。 笠の下で茶色の大きな目を輝かせ、母親譲りの白い肌を僅かに上気させて、拾(ia3527)が力強く拳を握り締めた。 「この展開はいわゆる『むすめさんをぼくにください』なのですね!? ひろい、がんばっちゃうのですっ!」 「その、うん‥‥そうなる、のかな‥‥」 耳まで赤くなり、綾がこっくりと頷く。 「まずは、道場のほうをキレイにしないと!」 拾は張り切って外套を脱ぎ、薄衣の袖を捲った。 「そうだな。道場がちゃんとしていないと来てくれた者も不安だろう」 泰拳袍の上から羽織に袖を通した、身の丈六尺を越える長身の青年、蓮蒼馬(ib5707)は早速壁板の腐っている部分を特定し始めている。 「もっとも、俺は生徒数よりも師と弟子の間にお互いを思いあう絆があればそれが立派な道場だとは思うが」 白墨で腐った壁板に印をつけながら、蒼馬はちらりと庭を見た。 竜三が、子供達と肩を並べ草を引き抜いている。 「それも正論。このボロ道場も味があって悪くはない。が、惚れた女のために見栄の一つも張ってみるのが男の甲斐性というもの」 床から生えた木の周りを掘り返しながら、茶筅髷を結った頭に鉢金を締めた中年男、鬼島貫徹(ia0694)が言う。 「商売をやっている綾の両親には十中八九見破られるだろうが、それで良い」 「‥‥良いのか?」 「うむ」 掘り出した拳大の石を縁の下に転がし、鬼島は続けた。 「度が過ぎたものでなければ、年長者にとって若者の背伸びは微笑ましく見えるものだ」 「なるほど」 蒼馬は頷いた。妻子のある鬼島の言葉は、一つ一つが重い。 「人と場所の質が上がれば、その分だけ新たな道場生の獲得もしやすくなるだろうしな」 その時、真白い小鳥が、穴の空いた天井板から屋根裏へと羽ばたいて消えていった。 僅かな間を起き、烏帽子を合わせると身の丈が八尺にもなる狩衣姿の陰陽師、宿奈芳純(ia9695)が呟く。 「随分と梁が傷んでいますね。屋根と天井板だけでは、いずれ崩れるかも知れません」 小鳥は、芳純の飛ばした人魂だった。 道場の見取り図にびっしりと書き込まれた修繕箇所を覗き込み、ルーがため息をつく。 「近所の人に、資材と補修をお願いするしかないかな、こればかりは」 庭の竜三が、不安そうに眉をひそめた。 「修繕で何とかなるのか」 「ええ。ただ、あばら屋の修繕をする余裕があるかどうかは‥‥」 広い道場を見回して考え込んでいた芳純は、ふと顔を上げて竜三の顔を見た。 「この際新しい家に移りませんか?」 ● 「‥‥やっぱり、無償は難しそう」 竜三の新居を探して街を歩いていたルーが、鳩尾の前で腕を組んだ。 「なるべく安くて、二人ぐらい住んでも狭くなくて‥‥と思ったのですけど‥‥」 拾が両手で笠を被り直し、しょんぼりと呟いた。 小袖に白い羽織を着た銀髪のジルベリア人、ヴァレリー・クルーゼ(ib6023)が拾の笠にそっと手を置く。 「何、まだ一月ある。そう急く事もあるまい」 その時だった。 「あ、仁兵衛じいちゃんの友達だ!」 街の子供が、開拓者達を見て目を輝かせた。 「ほんとだ!」 「すっげえ美人!」 「ね、何か見せて! 技見せて!」 開拓者達は、あっと言う間に子供達に取り囲まれてしまった。 「見せてもいいが‥‥」 勢いに圧され、困惑気味に仲間と視線を交わしていた蒼馬が、ふと膝に手をついて屈み込んだ。 「なぁ、お前達、拳法に興味はないか?」 「ケンポー?」 「そうだ」 蒼馬が後足に重心を乗せ半身に構えた。 その意図に気付いたルーが頷き、蒼馬の周りにいる子供を下がらせる。 「私達も先生になって、体験教室をやるの」 途端、蒼馬の両腕が木を登る蛇のように複雑玄妙な動きを見せ、貫手が目まぐるしく空を裂いた。 ヴァレリーが気を利かせ、子供に借りた枝を後方から振り下ろす。 蒼馬の左腕が上下に弧を描いて枝を跳ね飛ばし、右の貫手がヴァレリーの鳩尾に触れた。 「すげえ!」 「かっけー!」 「俺でもできる!?」 子供達が、一斉に囃し立てた。 思わぬ好感触に、拾が両拳を堅く握りしめる。 「もちろんですっ! 初めての方や女性の方でも、私たちがわかりやすく、しっかりお教えします!」 「もし興味があったら、ご両親と一緒に来てくれたまえ。家族で入門するなら、月謝も安くなる」 「一緒じゃなきゃだめ?」 「入門するのは君たちだけで構わんが、ご両親が心配してはいかんからな。だが、拳法は美容や痩身にも効果があるから、お母さんには良いかも知れん」 ヴァレリーに言われ、 「そっか!」 「母ちゃんに負けないように、父ちゃんさそおう!」 叫びをあげ、子供達が我先に駆けだした。 それを見送りながら、蒼馬が横目でヴァレリーを見る。 「割引だの痩身だの、咄嗟の判断で出てこようとは」 「女性は『美』と『お得』に敏感だ。それに彼女らの情報伝播力は侮れんからな」 ヴァレリーは微笑み、道場へと歩き出す。 「妙に実感がこもっているな」 何気ない蒼馬の一言に、 「うむ。亡き妻との生活からな。‥‥さあ、宿奈君が建材と人手の交渉を終えている頃だろう」 遠い目をして、ヴァレリーが呟いた。 気まずそうに目を伏せかけた蒼馬だったが、ある事に気付いてふと顔を上げた。 「『美』と『お得』に敏感な奥方だったのか」 「‥‥一般論だ」 ● 釘を打つ音、材木を挽く音、そして駆け付けた鳶の男達の威勢の良い声が、梅雨空へと吸い込まれていく。 「おう芳純さん、本当に大穴はこのままでいいんだな」 「はい、建材に限りもありますし、そこはおいおい直していきます。壁の色はできるだけ白に近い色で統一して下さい」 「お、ちょっとジルベリア風だな。よしきた」 鳶の男達は、芳純の指示に従ってきびきびと動いている。 「竜兄ちゃん、おはようございます!」 「おはよございます!」 がなり立てるような大声をあげ、禅一と宗二が戸を潜った。 周囲に比べて不自然に新しくならないよう着色された建材を打ち付けながら、鬼島が笑う。 「そうだ、元気があっていいぞ宗二。あいさつは先手必勝、努努忘れるな」 「はい!」 「おじさん、ぼくは!? ぼくは!?」 「悪くはないが、兄は弟よりももっと元気がなくてはな。お前達に竜三と綾の将来がかかっているのだから」 「はい! ‥‥あれ?」 禅一は声の限りに返事をし、目を丸くした。 先に柔軟運動をしていた先輩の少年と少女が、見慣れない服に身を包んでいるのだ。 「お前達にもこれをやろう」 鬼島は、二人に何やら風呂敷包みを渡した。不思議そうに二人が開いてみると、同じ服が二着入っている。 「旗袍だ。泰国ではよく着られている服だぞ」 庭へ続く障子を開けて、竜三が入ってきた。その姿を見て、二人は目を輝かせる。 「竜兄ちゃんも着てる!」 「高価な物を貰ってしまって‥‥」 恐縮する竜三に、鬼島は口角を上げた。 「何。皆、作務衣姿が似合ってはいるが、たまにはこういうのも気分が変わって良いかとな」 「あの、鬼島さん、竜三さんっ」 不安げな顔の拾が、庭から顔を出した。 「どうした」 「ヴァレリーさんがいないのです。無茶して、また腰を‥‥」 大喜びで着替えを始めた兄弟をよそに、拾が心配そうに道場の中を見回す。 と、 「私ならここだ」 若干不機嫌な声が、裏手から上がった。 小走りに拾が裏手へ出ると、ヴァレリーは厠の壁板を貼り直していた。 「そんな所まで直すのですね!」 「見えにくい所の修繕・手入れも怠ってはなるまい。娘の彼氏を前にした父親は重箱の隅を突きたくなるものだ」 顔を明るくした拾が、白い手を打ち合わせた。 「さすがヴァレリーさんなのですっ! かめの甲より‥‥」 ふと気付き、拾は慌てて自分の口を塞いだ。 ヴァレリーは重苦しい表情でずれた眼鏡を直した。 「‥‥粗末でも手入れが行き届いていれば好印象の筈。さあ、ここは雑巾掛けで仕上げだ」 ● 気合いの声、受け身を取る音、幾多の足音。 壁の修繕を一部残すばかりとなった道場は、早くも様々な物音に充ち満ちていた。 「それからこの部分は、特に‥‥」 道場の片隅に立ち上がり、芳純が右足を左右に振る。 「このように横へ動かされると、伸びてしまいやすい部分です。半身に構え、後足に体重を掛けた状態で前足を払われたりして損傷するのは拳法で良くあることです」 綾が、真剣な顔で紙に筆を奔らせている。 道場を共に盛り立てていくべく、芳純から初歩の医学を仕込まれているのだ。怪我と無縁でいられないだけに、これを誰より喜んだのは竜三だった。 「わからないことは、どんどんきいてくださいねっ」 芳純の言葉を掻き消すかのように、拾の声が道場に響き渡る。 「拾ちゃん? 何だか、前回り受け身がでんぐり返しになっちゃうんだけど」 「はいっ! じゃあ、片膝立ちからゆっくり肘、肩、背中、腰というふうに床につけてみて下さいっ!」 道場生よりも元気な拾の声が響く。 二週間ほどの宣伝で、体験入門に訪れた人々は四十名を越えていた。指導を買って出た拾、蒼馬、ルーは大忙しだ。 体験入門に来た少年が、半信半疑という風でルーの顔を見上げる。 「ルー先生。受け身なんて、本当に役に立つの?」 「もちろん。一度やって見せようか」 ルーは蒼馬と竜三を手招きした。 「ちょっと、組み手で足払いをしてみて」 「俺がか」 困惑顔の竜三に、 「もちろん。私たち相手に渡り合える所を見せるいい機会でしょ」 ルーは微笑んだ。頷いた蒼馬と竜三が、道場の中央で正対する。 全員の稽古の手が止まった。 鞭のようにしなる蒼馬の右足が、竜三の脇腹を襲った。半歩退いて空を切らせ、竜三が蒼馬の腹に突き蹴りを放つ。左腕で受け流し、蒼馬が右の鉤突きから右の回し蹴りへ繋いだ。 突きを払った左手で蹴りを叩き落とし、竜三の右足が蒼馬の軸足を払う。 腰を中心に四半回転した蒼馬の身体が、道場中を揺らす硬い音と共に床へ叩きつけられた。気の弱い者が、反射的に目を閉じる。 「‥‥死んだ‥‥?」 誰かが呟く。 「というわけだ」 平然と、蒼馬が立ち上がった。 「咄嗟に受け身が取れれば、日常生活での怪我も減る。怪我無く、長く身体を鍛えるためにも、受け身は必須だ」 生徒達から、一斉に拍手が起こる。蒼馬は苦笑し、元いた道場の子供達を見た。 「元からいる子供達でも、これくらいはできる。そうだな」 「もちろん!」 旗袍の着こなしが板についてきた少年と少女が、得意げに答える。 「では、私も少々協力しようか」 ヴァレリーが勢いよく立ち上がると、道場の中央に進み出た。 「ヴァレリーさん、大丈夫なのですか‥‥?」 「何の。若い者には負けん!」 右手で眼鏡を外し、心配そうに見守る拾へ放り投げる。 「わわわっ」 見当違いの方向へ飛んだ眼鏡を、拾は慌てて掴み取った。 「おじさんが相手?」 「いいよ! やる!」 少年と少女が、ヴァレリーの左右に分かれて構えた。 少女が慎重に間合いを計る一方、少年が摺り足で間合いを詰めていく。ヴァレリーの表情が、厳しさを増した。 と、ヴァレリーの身体が素早く回転した。蹴りを予測した少年が咄嗟に左腕を翳す。 道場に、鉛の様な沈黙が降りた。 二人に背を向けたヴァレリーが、後ろの拾に声を掛けた。 「‥‥拾君。すまんが、眼鏡を持ってきてくれ。見えん」 ● 気の早い蜻蛉が、庭の井戸に止まった。 「まだ、意識が上半身に向いてるかな」 入門したての少女に指導するルーの声が、開け放した障子の間から庭へと流れ出してくる。 「体の軸をぶらさないこと。踏込もしっかり。突きこそ、下半身と丹田で繰り出すものよ」 「押忍!」 少女の声が、障子を震わせる。 障子紙の随所には千代紙が貼られている。千代紙の厚みで下の破れも透けず、殺風景な道場に華やかな雰囲気を添えていた。 居心地悪そうに、綾の父が縁側の座布団に座って身じろぎをした。 「驚いた。てっきり、綾の大風呂敷だろうと」 鬼島の気遣いで、修繕跡も自然に見えるよう加工されていた。隅々まで掃除の行き届いた、古いが小綺麗な道場といった趣だ。 「で」 縁側の前で直立不動になっている竜三の三白眼を、母が見上げた。 「竜三君は綾を嫁に取るの?」 単刀直入に切り出され、井戸水で冷やした冷茶を持ってきた綾が、危うく盆を取り落としそうになる。 「おか、おかか母さん、いきなななり」 「そのつもり‥‥ですが」 「そう。つもりなの。ふうん」 母が意地の悪い目で竜三を見る。竜三は口の中で何やら呟いていたが、不安そうな綾の顔を見ると、大きく深呼吸をした。 「いや。必ず、綾さんを、嫁に貰いたいと」 「そう」 母は、にっこりと笑った。 「ちゃんと感謝しなさいね。お手伝いしてくれたお友達に」 綾は湯呑みを引っ繰り返した。 「ななななんのこと」 「‥‥あのねえ、綾ちゃん」 白を切ろうとする綾に、母はこめかみを揉みほぐす。 「剪定の手元狂わせて、尻に帆掛けて飛び出してったのに、何言ってるの。見られたくないものがあったんでしょ」 「あう」 綾は口籠もり、気まずそうに隣の竜三の顔を見上げた。 竜三は片手で顔を覆って項垂れる。 「騙すようなつもりでは‥‥」 「何を見られたくなかったのか知らないけど、もう解決してるの?」 「う、うん、それはもう! ほとんど!」 妙に外へ飛び出した白い壁を見ながらも、綾は勢いよく頷いた。 「そう。ええと、貴方‥‥」 にっこりと笑った母が、反対側の縁側で澄まして茶を啜っている鬼島を見た。 「鬼島と言います」 「鬼島さんね。うちの娘と息子がご迷惑をお掛けしました」 母は座布団から降りると、丁寧に三つ指をついた。 「おい母さん、まだ息子じゃないぞ」 「必ずって言ってるんだから、いいじゃないの」 母は頭を上げず、右手で夫の胸倉を掴むと無理矢理に頭を下げさせる。 「何、雑用程度しかしていませんが」 「ご謙遜ね。未熟な子供達ですけれど、これからも良い友達でいてやって下さいね」 言い、顔を上げた母親の目が、点になった。 訝しげに、鬼島が振り向く。 「はわわわっ」 鬼島や両親と視線がぶつかり、道場の中で拾が顔を赤くして跳び上がった。 そこには、先日竜三が開けた大穴が忽然と姿を現していた。 両親が到着してから十分。壁の穴を隠すべく芳純が立てていた結界呪符が、力を失ってしまったのだ。二人を祝うための花束を手に待機していた蒼馬が、気まずそうに立ちつくしている。 「‥‥解決‥‥?」 母が、引きつった笑顔で竜三を見る。 重い沈黙の後、鬼島が爽やかな笑顔を浮かべた。 「突貫ではありますが、まあ少なくともそれを為し得る程度の人望は備えていると思いますよ」 道場生達の大笑いを乗せ、風が壁の穴から道場を吹き抜けていった。 |