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■オープニング本文 前回のリプレイを見る ● 「あうー」 板床に寝転がったまま、常磐色の紬を着た女性が唸った。 「つまんない」 「もう聞き飽きたわよ」 日陰の縁側に腰掛け、風の音を聞きながら貸本をめくっていた中年女性、藤野絹は呆れ顔を見せる。 「つまんないんだもん」 「竜三さんと遊びに行きなさいよ」 板床の上を繰り返し転がりながら、絹の娘、藤野綾は唇を尖らせた。 「気まずいんだもん」 竜三は、かつて金で瀧華一家に売られてきた男、極端な言葉を使えば奴隷だった。 その過去を隠して生活していた彼は、かつての仲間がアヤカシとなった事を知り、彼らを眠りにつかせるべく町を離れた。それが失踪騒ぎになったのだ。 開拓者の手で無事竜三は発見され、仲間も成仏したのだが、隠していた過去を知らされた綾はと言えば、安心したやら七夕をすっぽかされて腹立たしいやらで、一方的に怒り散らして帰ってしまったのだ。 「何、やっぱ奴隷だった人と付き合うのは嫌?」 「今はそんなんじゃないもん!」 絹の言葉に、綾は声を荒げた。 絹は顔色一つ変えずに貸本をめくる。 「別にいいのよ? 無理して恰好つけなくても。そういうの、受け付けなくても無理ないわよね」 したり顔で絹は頷く。 「ずっと箱入りで育ててきたもんね」 綾は寝転がった体勢から顔をあげ、掌で床を叩いた。 「受け付けるっ!」 「でも、本当の本当は、気にしてるわけでしょ」 「‥‥そりゃ、‥‥気にしてないって言ったら嘘になるけど‥‥」 「ほらごらんなさい」 勝ち誇った顔の母親に、綾は泣きそうな声を上げた。 「でもいいんだもん! お母さんだってお父さんだって、竜三さんのこと結構気に入ってたくせに!」 「私達は別に気にしてないわよ」 けろりと絹は答えた。 「ずっと隠したまま綾と結婚しようとか、そういう事になってたら気にしてたけど。勇気出して話してくれたんだから、良い人よねえ」 絹は唄うように言って目を細める。 「というわけで、気にしてるのは綾だけ」 「きーっ!」 子供のように手足をばたつかせ、綾は泣きそうな声を上げる。 「だって! だってだって、七夕だって楽しみにしてたのに、すっぽかされて‥‥」 「竜三さんも、竜声のお祭り楽しみにしてたでしょうねえ。ああかわいそう」 綾は、本格的に泣き出した。 「綾ちゃんのは自業自得だけど、竜三さんはお気の毒にねえ。もう、他の人と仲良くなってるかしら」 ぴたりと、綾の動きが止まった。蚤のごとくに跳ね起き、絹にいざり寄る。 「ほほほほほ他の人と?」 「だって、竜三さん優しいでしょ? 強いし。背も高いし。猫背で三白眼で唇薄くて悪人顔だけど」 絹は本に目を落としたまま、平然と答える。 「りりり竜三さんは浮気なんてしないもん!」 「でも、嫌いって言っちゃったんでしょ」 絹の手が、軽い音を上げて貸本を閉じる。 「嫌いとか、その場の気分で迂闊に口走るからそういうことになるのよ。開拓者の人達まで手伝ってくれたのに、わざわざ関係悪くしちゃって。いけないんだ」 「そうなんだけど! そうなんだけどー!」 床に突っ伏して泣き出す娘を見て、絹は深い溜息をついた。 ● 「おや。藤野屋の奥さんじゃあねえですかい」 白髪の神威人が、飄然とした声を発した。その顔には、もふらさまの肉球の跡がくっきりついている。絹とすれ違って屋敷から転がり出て行ったもふらと、何やら格闘していたようだ。 「うちの竜三がいつもお世話になってるようで‥‥」 白髪の神威人、岸田仁兵衛は丁寧に頭を下げた。絹は慌てて両手を振り、頭を下げ返す。 「いいえ、お世話どころか。うちの娘のせいで、ご迷惑もお掛けできないようになってしまって」 「ああ、やっぱりそうでしたかい」 頭を上げた仁兵衛は首を掻いた。 「ここんとこ、すっかり竜三がおかしくてねえ。竜声の祭にちらっと出掛けたきり、もう病人みたいに家に籠もりきりなんで」 仁兵衛は手拭いで顔についたもふらの足跡を拭う。 「籠もりきり、ですか」 「ええ、胡座かいて小さくなりやしてね‥‥こう、肩を落として、仲間は助けたからいいんだと、念仏みたいに唱えちゃあ、お宅で買った千代紙をいじってると。まあこういう状況でして」 瞼の裏に鮮明に浮かぶ竜三の姿に、絹は肩を落とした。 「こないだなんざ、からかいに来た瀧華の若い衆十人以上を街中追い回して、一人残らず半殺しでさあ。二人ばかり足腰立たなくなって、一人なんざ顔が変形して元に戻らねえんで」 「ご免なさいね、うちの娘が竜三さんにばかな事を言ったものですから」 絹は腿の前で両手を重ね、深々と頭を下げた。 「いえいえ、竜三の野郎も情けねえんで」 深々と侘びる絹に、仁兵衛は慌ててその肩を掴んで頭を上げさせる。 「全く、刃物にも鉄砲にも動じねえ割に、色事になると子供よりも打たれ弱えってんですからねえ」 「繊細な所がある人ですものねえ。うちの娘にも、優しくしてあげなきゃ駄目よって、いつも言い聞かせてたんですけれど」 絹と仁兵衛は同時に溜息をついた。その事に気付いて視線を交わし、苦笑を交わす。 「どうですかね。お宅さんさえよろしけりゃあ、あのデカブツに言って聞かせて、藤野屋に遊びに行かせますがね」 「そんな、うちの子が謝りに行くのが筋じゃあありませんか。それに竜三さんのことだから、綾を気にして家に閉じこもってるんじゃない、なんて言って柱に齧り付きかねませんよ」 図星を衝かれ、仁兵衛は腕を組み唸った。 「まあ、そりゃあそうですがね‥‥とはいえ綾さんが素直に、はいそうですかってんで謝りに行きますかねえ」 「‥‥行かないでしょうねえ。変な所が頑固‥‥というか、勇気の無さは人一倍ですから‥‥『でもでもだって』って、家の門にしがみつくんじゃないかしら」 ふと雲が晴れ、二人に秋の陽射しが投げかけられた。 「と、なると‥‥」 「あの方々にお願いしましょうかねえ」 |
■参加者一覧
鬼島貫徹(ia0694)
45歳・男・サ
平野 拾(ia3527)
19歳・女・志
宿奈 芳純(ia9695)
25歳・男・陰
ルー(ib4431)
19歳・女・志
蓮 蒼馬(ib5707)
30歳・男・泰
ヴァレリー・クルーゼ(ib6023)
48歳・男・志 |
■リプレイ本文 ● 「七夕の折、竜三さんは急用で結果的にすっぽかしてしまいまして」 烏帽子を含めれば八尺近い身の丈を持つ宿奈芳純(ia9695)は、すっかり馴染みになった三倉の人々を前に生真面目な顔で説明をしている。 「後日説明して謝罪したのですが、その場の勢いで綾さんが『嫌い』と‥‥」 「そりゃあその子が悪いや」 禿頭に捻り鉢巻をした男が言えば、 「馬鹿だね。竜ちゃんもさっさと後を追って、謝っときゃ良かったんだよ」 「父ちゃんは乙女心が解らないから」 露店を設営していた妻と娘が男の背を叩く。 サーコートが汚れるのも構わず、油のついた鉄板を運んできた白皙の中年男性、ヴァレリー・クルーゼ(ib6023)が、苦笑を漏らした。 「そういうわけで、特に女性の方には、普段の三割増しで愛想良く竜三君に声を掛けてはもらえまいか」 「いいですよ」 「竜ちゃんのためだからねえ、やるさ」 娘と妻が、笑顔で二つ返事をする。 「よろしくお願いする。無論、我々も力は尽くさせてもらおう」 ヴァレリーは微笑み、地面に置かれている空の鍋を持ち上げた。 慌てて、男がその手伝いに入る。 「おいおい旦那、無茶しないでくれよ」 「? 無茶?」 「仁兵衛さんから聞いてるぜ。腰が良くないそうじゃねえか」 腰と聞いた途端、ヴァレリーは顔色を変えた。 「冗談ではない。そのような脆弱な身体で開拓者が務まる筈もなかろう」 僅かに声を荒げ、地面に置かれた空の鍋を各露店に配り始める。 「あ、あのおじさん、それ‥‥」 蓋付きの大鍋に手を掛けたヴァレリーに、店の娘が声を掛ける。 「おじさんではない。心配は無用!」 「じゃなくて、中身入ってます」 その一言よりも半瞬早く、ヴァレリーは豚汁の入った大鍋の前に突っ伏していた。 ● 道場の壁の前で三角座りをし、両膝に顎を乗せたまま、竜三はぼんやりと呟いた。 「未の刻まで休み。次は運足、道場百周だ」 「先生、二刻も休むんですか‥‥」 たった三名の弟子が呆れて呟く。 その時、道場に大爆笑が轟いた。少年達が跳び上がり、声の主を見る。 「フラレ虫、まだ腑抜けたままで居たか」 破れた壁から顔を覗かせているのは、茶筅髷の下を通して鉢金を巻いた鎧姿の中年男性、鬼島貫徹(ia0694)だった。竜三が腰を上げ、少年三名が全速力で壁際へ避難する。 「男なんてのはそんなものだ。惚れた女を」 ぼろ道場が、僅かに傾いだ。 「さて」 竜三が鬼島に背を向ける。 崩震脚で肘をついた壁が揺らされ、鬼島は穴の縁で顎を痛打していた。 鬼島は顎に血を滲ませながら立ち上がる。 「惚れた女を忘れられないくらいで丁度」 言い終わるより早く、鬼島の身体が赤い光の奔流に包まれた。 壁材が砕け散り、鱗雲の漂う空へと消えていく。 問答無用で紅砲を打ち放した拳を引き戻し、竜三は庭へ降りた。 「飯でも炊くか」 「何をしている」 庭で待ち構えていた青年が、呆れかえった声を掛けた。 「しばらくぶりだな」 細くしなやかな体躯を泰拳袍に包んだ青年、蓮蒼馬(ib5707)だ。風に嬲られた青い髪が、浅葱色に輝いている。 「仁兵衛殿から聞いているだろう。星見の会の警備だ」 「‥‥星見の会?」 蒼馬は当然とばかりに頷く。 「社で星見の会がある。何でも毎年この時期、流れ星が見えるとか。それで俺も鬼島殿も、この通り武装している」 「聞いていないぞ」 「まあ仁兵衛殿の指示だ。行くぞ」 さりげなく仁兵衛の名を出し、蒼馬は竜三の胸倉を掴むと、有無を言わさず歩き出す。 「ま、待て。その‥‥皆、来るのか」 「皆、来るぞ」 鼻から滝のごとく血を流し、鬼島が道場から顔を出した。 「綾も来る」 「‥‥なら俺は」 「たわけ。お前がこうして篭もっている間にも、綾が別の男に言い寄られる事が無いと何故言い切れる」 途端、竜三は顔色を変えた。 「良いか、恋敵は全て‥‥」 鬼島は鼻血で竜三の肩を汚しながら、耳打ちを始めた。 「後はひたすら機会を逃さず、‥‥」 ● 「良いよなあ、竜三兄貴は」 永徳一家の若侍、弥勒は、提灯を境内に設置しながら、鼻に綿を詰め込んだ鬼島に仏頂面を見せる。 「やれと言われりゃ、やるけどよ」 「まあ、考えてもみろ」 鬼島はしたり顔で弥勒の肩を抱く。 「不器用な男が絞り出す誠実な言葉。それをふと聞いてしまい高鳴る乙女心」 「‥‥む」 弥勒はふと、顔の下半分を覆って考え込んだ。 「浪漫があるだろう」 「萌えるな」 「どうだ、後学の為に」 「やる」 目に炎を宿らせた弥勒が畳まれた提灯を両手に抱え、俄然勢いよく働きだす。 と、 「そこは駄目だ。火が木立に移る」 連れ出した竜三と共に設営を手伝っていた蒼馬が、弥勒の背に声を掛けた。 落ち着かなげに辺りを見回している竜三に背を向けたまま、蒼馬がさらりと呟く。 「お前が羨ましい。俺には記憶がなくてな」 竜三はまじまじと蒼馬の背を見た。 「記憶が?」 「誰かを想っていた、そんな気はするが」 蒼馬の前を、老夫婦が手を取り合い、笑い合いながら行き過ぎていく。 「独り身な所を見ると、叶わなかったのだろう。‥‥だが叶わなかった事より、その人の事も、その想いも、忘れてしまった事が辛い」 老夫婦の背を見送りながら、竜三はふと唇を噛んだ。 「俺は、まだ幸せ‥‥か」 「その思いを手放さんようにしろよ。‥‥そんなに提灯を出すな。明るすぎると星が見えん」 視界の端に拾を見つけ、上空で芳純の白い小鳥が消滅したのを見た蒼馬は、その場を離れていった。 ● 「‥‥えっと‥‥この間は、その‥‥」 韓紅の髪が掛かる豊かな胸に思わず目を奪われ、綾は無意識に両腕で薄い胸を隠した。 「この間?」 しれっと問い返すルー(ib4431)に、綾はしどろもどろになってしまう。 「そ、その‥‥ご、ご迷‥‥」 「おや。綾君ではないか」 並べた木箱の上でうつ伏せになり、芳純の治癒符で腰を治されていたヴァレリーが、傍に置いた眼鏡を掛けて綾の顔を見上げた。 「一人かね」 「え!? え、いや、ルーさんと‥‥」 「そうではなく‥‥何だ、まだ仲直りをしていないのかね」 綾は言葉に詰まった。 ヴァレリーは嘆息する。 「仁兵衛さんに言われたんですか‥‥?」 「まあ、そこは君の想像にお任せするがね‥‥宿奈君、済まない、もう少し下だ」 ヴァレリーは苦笑を浮かべ、眼鏡を外す。 「腰の一番下ですね。負荷を掛けすぎたかと」 芳純が、新たな符をヴァレリーの腰に置く。 「今更謝りにくい気持ちは分かる。しかし彼は今後も、危険に身を晒す機会は多かろう」 ヴァレリーは、遠くを見るかのように目を細めた。 「もし明日彼が居なくなり、二度と会えなくなったとしたら‥‥今のままで後悔しないと言えるかね」 「う‥‥」 叱られた子犬のように、綾は項垂れた。 手応えありと見たルーが、ヴァレリーと頷き合う。 「あれ。竜三だ」 「!?」 綾は跳び上がり、咄嗟にルーの背中に隠れた。 その視線の先で立っているのは、誰あろう竜三だった。 綾の存在には、まだ気付いていないようだ。 「るるルーさん! 私の家に来るんじゃなかったの?」 「うん、そう聞いてたんだけど」 白々しく首を傾げるルーに、白々しく芳純が笑った。 「いけませんね、ルーさん。情報の伝達はしっかり、開拓者の基本ですよ」 「本当にね。失敗しっぱい」 今や彼らの狙いは明らかだった。が、綾はそれどころではない。 「私、帰、帰、帰る‥‥」 「ふうん。竜三、結構女性に人気あるんだ」 聞こえよがしなルーの一言で、逃げ出しかけた綾は猛然と振り返った。 「嘘!?」 「ほら」 ルーが指差した先では、行き交う女性達が竜三に、明るい声を掛けていた。 「久しぶり。親分さんがね、弥勒じゃねえんだからって怒ってたよ」 「竜三さん、元気出た? 仁兵衛さんが心配してたんだから」 声を掛けられる度、竜三は身体を縮こまらせて頭を下げている。引き篭もってろくに仕事ができていない自覚はあったらしい。 綾は、より一層きつくルーの服を握り締める。 ルーは、極めつけの一言を放った。 「あれ。拾も竜三に興味あるのかな」 「えっ!」 綾の声が裏返った。 緊張した面持ちで歩幅も小さく、編み笠を手にした拾(ia3527)が竜三に歩み寄っていく。 竜三が、拾へ律儀に会釈を送った。 「この間は‥‥俺の仲間が」 「あのっ…竜三さんってかっこいいですよね!」 緊張しすぎて、竜三の言葉に答えられていない。編み笠の下に見える白い肌は仄かに上気し、広いおでこまで赤味を帯びている。竜三の身体が固まった。 綾は、ルーの両肩にしがみつく。 「駄目だめだめ! 止めて!」 「止めてって言われても‥‥一緒に行く?」 「る、ルーさんが止めて!」 「あのね‥‥」 肩を落としたルーは、軽く握った拳骨を綾の頭に落とした。 「痛あい」 「はい、ちゃんと自分で見る」 小突かれた頭を抱えて涙目になった綾は、ルーの手で前に押し出された。 小さな両手で笠を腿の前に持ち、もじもじと地面を見つめていた拾は、意を決したかのように顔を上げる。 「竜三さんて、つよいし、たよれますし、ひろい、そういう人にあこがれちゃうのですっ!」 母譲りの白い肌は、額や耳まで、いや首まで真っ赤になっている。どう見てもからかっているという様子ではない。 「ああ‥‥いや、‥‥」 「あのっ」 思わず口笛を吹こうとした露店の主人が、影から生えたかの如く現れた蒼馬に口を塞がれ、店の裏へ引きずられていく。 「良かったらですけど‥‥今度、ひろいといっしょに」 同じく口笛を吹こうとした青年達が、一斉に息を呑んで腰を抜かした。 竜三から綺麗に三丈半先、木に寄りかかっていた立っていた鬼島が、腕組みをしたまま剣気を発したのだ。子供が泣き出し、犬が尻尾を巻いて飼い主の元へ逃げ去っていく。 「お団子でも食べませんか‥‥っ?」 「‥‥あああ、あ」 竜三はしどろもどろになりながら、続ける。 「ああ綾‥‥さんが‥‥いるから」 綾を前に押し立てたルーが小さく拳を握る。芳純の大きな手にも力がこもり、その手に腰を揉まれていたヴァレリーが声にならない悲鳴を上げた。 ● ヴァレリーの腰を治療する邪魔だと、綾はルーの手で竜三に押しつけられ、境内の外れに来ていた。 既に四半刻ほども、二人は社の陰で並んで突っ立ち、空を見る振りをして、ちらちらと互いの顔を窺っている。 「あの‥‥その」 綾がためらいがちに口を開いたその時、草鞋を履いた竜三の足が、砂を蹴立てて地を離れた。 六尺を越える長身が夜空へと舞い上がり、その足が綾の身の丈を越える高さまで上昇する。 反射的に両手で頭を庇った綾の前に、竜三の身体が落下した。その足は折り畳まれ、腹は膝に付き、顔は膝の高さにまで下がる。 着地した竜三は、見事なまでに土下座をしていた。 恐る恐る目を開けた綾は、一瞬の沈黙の後、ためらいがちに尋ねた。 「な‥‥何やってるんですか?」 「その、こうするのがコツだと‥‥開拓者に」 鬼島に教えられた通り、跳躍からの土下座を実演した竜三は、額を地面に当てたまま動かない。 「そ、それ、何のコツなんですか?」 「いや、解らない。妻がいるという男が言うからには、そうするものだと」 露店の並ぶ方向から、遠く軽い咳払いが聞こえた。 風が吹いたか、微かに社の木立が揺れる。 (バレるってば) (わ、悪い) 頭を叩かれ、鬼島に言われるまま人員整理に協力していた弥勒は頭を掻き、身体を縮こまらせた。 その視線は、ちらちらとルーの胸元へ注がれている。 (道場で何を仕込んでいるのかと思えば) 苦笑いを浮かべ、木立に潜んだ蒼馬が隣の鬼島を見る。 拾はルーの服に顔を埋め、背を撫でられながら、顔を真っ赤にして笑いを押し殺していた。 (誰が悪いとか何が良くないとか、そんな事は一切関係無いものだ) 鬼島は素知らぬ顔で囁く。 腰を痛めて運ばれていった筈のヴァレリーも、平然とそこにいた。 軽く噴き出す声が漏れた。 「やだ、竜三さん、それ多分、からかわれてる」 「‥‥いや、解らないが」 「いつもひねくれてるのに、変な所で人の話を鵜呑みにするんだから」 綾は声も出せず、噎せるかのように笑っている。 「その、申し訳ない」 竜三は顔を上げず、詰まり、つかえながらも、考え考え言葉を絞り出す。 「ん」 綾の笑う様子が、少し変わっていた。まるで喘息の患者が、苦しげに息を吸い込むようだ。 「七夕も、できれば、一緒に出掛けようと‥‥ただ‥‥」 「ん‥‥」 綾は屈み込み、竜三の手を握った。 「竜三さん、‥‥あのね。あのね」 いつしか綾の声は、笑い声から涙声に変わっていた。 「あのね、あのね、ずっと心配しててね、そしたらね、友達がね‥‥七夕で、お祭りに‥‥行ったって‥‥」 「申し訳ない」 涙声に狼狽えた竜三が更に頭を下げようとする。綾は首を振り、竜三の手を引いた。 「それで、竜三さんのお話聞いて、驚いて‥‥でもお父さんもお母さんも気にしてないって。それでね、それでね‥‥その時にね、竜三さんが無事で安心してね、でも痩せてて、傷だらけで、心配になってね、怖くなって‥‥友達は普通に七夕をね、楽しんでるのにって‥‥思っちゃってね‥‥悲しく、なって‥‥」 綾は竜三の手を握って泣き出していた。 「本当に、申し訳ない」 「いいの、いいの」 綾は頬からぽろぽろと落としながら、首を振る。 「ずっと、ごめんなさい」 「いいから」 「ごめんね。‥‥ごめんね」 木の幹を両手で握っていた弥勒が、右拳を握る。途端、弥勒の上に寄りかかっていたヴァレリーと蒼馬、そして芳純の重量が支えきれなくなる。 四人は、盛大に地面に突っ伏した。 慌てて起き上がろうとしたヴァレリーだったが、治りたての腰で蒼馬と芳純を支えられる道理はない。 「お、重い‥‥重いって」 「申し訳ありません」 慌てて芳純が蒼馬の上から、蒼馬がヴァレリーの上から降りる。 ようやく顔を上げたヴァレリーは、社の提灯の明かりを背に仁王立ちしている竜三に気付いた。 その人差し指が上に向けてちょいちょいと動く。 「弥勒。ちょっと面貸せ」 「りゅ、竜三兄貴! や、これには深い訳が!」 竜三の腕を取って隣に立つ綾は、涙に濡れた顔に血を上らせて叫ぶ。 「‥‥どこから見てたんですか! まさか、土下座を教えた開拓者の人って‥‥」 「いや、土下座を仕込んだのは‥‥」 横を見た蒼馬は目を疑った。 いつの間にやら、鬼島の姿は消えている。慌てて辺りを見回すと、既に六尺ほどの高さに見える茶筅髷は、星見会の露店の雑踏に紛れていた。 拾も既にその場を離れ、ルーと共に石段に腰掛けて、ぼんやりと空を見上げている。 「おとうさんも見てるかなあ」 「見てるよ、きっと」 額にうっすらと汗を浮かべたヴァレリーが、ぽつりと呟いた。 「し‥‥」 「し?」 「式には呼んでくれたまえ」 白々しいヴァレリーの声を引き金に、 「竜三さん、やっちゃえ!」 綾が顔を真っ赤にして叫び、竜三が地を蹴った。 |