|
■オープニング本文 前回のリプレイを見る ● 「杉原。わたしにおねがい、とは何ですか?」 紅樺色に染まる部屋の中で、待が眉をひそめた。 「はっ。‥‥香山城で儀光様のお命を狙う者があったとの噂は、既に先日お聞き及びと存じますが」 杉原と呼ばれた男は、手甲を着けた手を床に着いた。 今、真倉城では万一に備え臨戦態勢を整えている。 「あれが、どうやら真のようなのです。今まさに、儀光様のお命を狙っている者が、しかもこの真倉の城内におります」 待の目が、大きく見開かれた。 「だれですか?」 「申し訳ございませんが、私の口からは申し上げられませぬ。ですが、儀光様のお命をお守りしたい気持ちは私も待姫様も同じと存じます」 「本当ですか」 「無論のこと。既にこの城は危険です。私を始めとする数名が、儀光様を殿のいらっしゃる香山城へお連れしたく存じます」 杉原はまっすぐに待の顔を見上げる。 「私を信じて頂けるなら、どうか今宵の子一つ時、本丸の三階、東側の廊下へ儀光様をお連れ下さい。城門を使わず、私が儀光様を背負って石垣を伝い下り、儀光様をお連れします」 待は勢いに圧されて頷きそうになったが、ふと小首を傾げた。 「どうして、わたしなのですか?」 「今や、城内の誰に儀光様を狙う者の息が掛かっているかも解らぬからです。待姫様も、どうか他言無用に願いたく‥‥」 杉原の言葉を完全に理解できたとも思えなかったが、しかし待はこっくりと頷いた。 「わかりました。儀光さまのお命のためなら、待は何でもします」 ● 濠に棲む青蛙の鳴き声が、暗闇の城内に響き渡っている。 「待、手を離しておくれ。痛いよ」 小さな手で力一杯儀光の手を握った待は、何も言わず城の中を歩いていた。 真下に濠、そしてその向こうに平原が覗き見える矢狭間の前で、ようやく待が足を止める。 曇り空にはぼんやりと月が浮かび、草原から顔を覗かせる木や膝下ほどの岩をうっすらと照らし出していた。 「私は用を足す以外で部屋を出てはならないと申し付けられているのだから」 「しっ」 待は細く短い指を口の前に立て、儀光の言葉を封じる。 「儀光さまのためです。待をしんじて下さい」 言われ、儀光は困惑顔のまま階段を上がった。 東の廊下には、既に羽織袴姿の男が一人、佇んでいた。男、杉原はすぐに振り向き、儀光の前に膝をつく。 「お待ちしておりました」 「待? これは‥‥」 訝る儀光の隣で、待は誰に咎められることもなく儀光を連れ出した満足感から、笑顔を浮かべる。 「儀光さまを、おねがいしますね」 「それは、無論」 言うが早いか、杉原は懐に手を伸ばした。 反射的に危機を察した儀光がその場を飛び退くのと同時に、白刃が閃いた。 廊下に、鮮血が飛び散る。 「‥‥貴様!?」 膝をついた儀光の、脇腹を押さえた手から血が溢れ出す。待は限界まで目を見開き、両手で口を覆った。 「儀光さま!」 「何をするか!」 儀光が一喝するが、痛みの為か、声に張りがない。 鮮血に濡れた短刀を構え、杉原が儀光に向かって一歩踏み出そうとする。 だがそれよりも早く、待が儀光にとびついた。 「やめて! 何をするのですか!」 「待姫様、お退きなさい。邪魔立てすると、お怪我をなさいますぞ」 儀光の身体に全力でしがみつく待の肩に、杉原が手を掛けた。待はいやいやをするように首を振り、叫んだ。 「ちがうんです、儀光さま! ちがうんです、待は‥‥!」 「待‥‥わかっている、大丈夫‥‥」 儀光は苦痛に脂汗を浮かべながら、待の肩越しに杉原の顔を睨み上げた。 「この男に、騙されたんだろう‥‥?」 「待姫様、お退きなさい。貴女にはもっと高貴なお方が相応しい。それは貴女のためであり、務めでもあるのですよ」 待は目から大粒の涙をこぼしながら、必死に首を振る。 「ごめんなさい‥‥儀光さま、ゆるして‥‥待を、ゆるして下さい‥‥」 待は儀光の細い身体にしがみつき、涙に濡れた頬を儀光の頬に押し当てた。 「父の行いを悔いた息子が、香山の地を望む廊下で腹を切る。それでこの件は終わりです」 涙に濡れた待のぼやけた視界に、城の石落としが映った。 「待、どくんだ‥‥。わかっている、待は、何も‥‥悪く」 儀光は、最後まで言うことができなかった。突如、待の両手が儀光を突き飛ばしたのだ。 小柄な儀光の身体は出窓型の石落としに滑り込み、辛うじて右手一本で床にぶら下がる。 「待‥‥!? 何、を‥‥」 「大好き! 儀光さま、大好きです!」 這い上がろうとする儀光の指を待の手が引きはがした。咄嗟にその手を掴み上げようとした男の手は空を切り、儀光の身体が、勾配のきつい石垣を転がり落ちていく。 「儀光さま、生きて‥‥!」 夜の濠に、大きな水音が立った。 ● 「う‥‥ぐ‥‥」 濠の縁に、泥と藻に塗れた小さな手が掛けられた。 咳き込み、水を吐き出し、死に物狂いで新鮮な空気を求めながら、儀光の身体が亡者の如く濠を這い上がる。 「命を捨てても、などとは‥‥私の身勝手な、自己満足に過ぎない‥‥」 その手が、強い力で引き上げられた。 濡れた前髪を張り付けた儀光の目が、上を見る。見張りだろうか、提灯を右手に持った侍風の男が、口許に笑みを浮かべて立っていた。 「下らん役回りと思っていたら、手柄が飛び込んできたな」 男は儀光の身体を濠の前に引きずり上げ、提灯を置いて腰の刀を抜いた。 「逃げられる寸前の所を捕らえて仕留めたとあれば、出世間違い無しだ」 儀光は時折肺に溜まった水を吐き出し、脇腹の傷を抑えて、苦しげに息をついている。 刀の鋒が、南天へと上る朧月を指した。 刹那、儀光の手が男の目に砂を叩きつける。 「ぐ!?」 怯んだ男の金的に、渾身の掌底が決まった。前屈みになった男の頭部を狙い掛けた儀光の手が、軌道を変える。 咄嗟に頭を庇おうとした手をすり抜け、儀光の手が男の刀をもぎ取った。 「虚実を、使いこなす‥‥!」 奪った刀の峰で男の頬骨を砕いた儀光は、崩れ落ちる男の人中に蹴りを叩き込んで気絶させた。 男の服を剥ぎ取っていると、真倉城の中が俄に騒がしくなり始めた。通用門が開き、城兵が三人一組で立て続けに飛び出してくる。 三人組はいずれも一人が提灯だけを手にし、一人が弓を、一人は刀を差している。 「草の根分けてでも探し出せ!」 先刻儀光の腹を刺した男の声が響いた。 儀光の身体は、彼の腹ほどの高さがある岩陰に滑り込む。 「どんな時でも諦めず‥‥」 儀光は濡れた服に口を押し当て、音を押し殺して水を吐き出した。荒い息をつきながら脱いだ羽織を裂いて腹に巻き、儀光の目が真倉城の天守を見上げる。 「生きる。私は、生きる‥‥」 おぼろげながらも見えていた月が、完全に雲に隠れた。儀光は苦痛に涙を浮かべ、歯を食いしばりながら、真倉城を背に草の海を進み始めた。 「生きるよ‥‥待‥‥! 生きます‥‥蓮様‥‥!」 |
■参加者一覧
玲璃(ia1114)
17歳・男・吟
九法 慧介(ia2194)
20歳・男・シ
神咲 輪(ia8063)
21歳・女・シ
羽流矢(ib0428)
19歳・男・シ
蓮 蒼馬(ib5707)
30歳・男・泰
雪刃(ib5814)
20歳・女・サ |
■リプレイ本文 ● 「草の根分けても探し出せ」 「解ってますよ。杉原様の仰せだ」 北東に比して視界の通りやすい岩場で、城兵達は提灯の明かりを頼りに捜索を続けていた。 と、良く通る高い声が叫んだ。 「見つけた!」 城兵達が、一斉に声のする方向を向く。 まさに自分達の待ち望んでいる情報であった事が、その声に対する違和感を掻き消していた。 叫ぶ人影は、笠を被り簑を着ていた。身の丈は六尺近くあるが、声の高さから言って女性のようだ。 「開拓者だ! 儀光を背負って逃げている!」 人物が数打ちらしき刀で指す方向には、忍装束に陣羽織を着、骸骨型の兜に面頬をした長身の人物、蓮蒼馬(ib5707)がいた。 その背には、小柄な人影が負われているのが見える。 「放て」 誰かが怒鳴り、弓音が岩場に響いた。 それを聞いた蒼馬が岩陰に飛び込む。同時に弦音が立て続けに響き渡り、岩とその陰に矢がまばらに降り注いだ。 「まだだ、手を休めるな」 降りかかる矢の数が増した。堪らず、蒼馬が岩陰を飛び出す。残像のように、解けた加護結界の微かな光がそれに続いた。 「儀光、手を離すなよ!」 背中に目でもついているかの如く、背に矢が突き刺さろうとする度に蒼馬の身体が振り向き、矢を叩き落とし、蹴飛ばし、或いは手甲で受け止める。 「儀光が見えた! 追え、手柄だ!」 先刻の声が怒鳴る。蒼馬は南方へと駆け出した。 手柄に目が眩んだ城兵達は、倒れた弓術士を助け起こそうともせず、蒼馬を追って走り出す。 (儀光、お前の父はお前を裏切ってなどいなかった‥‥) 蒼馬の呼気が深く長くなり、鉄甲に填められた象牙色の宝珠が、蒼馬の練力を吸い込んで輝く。 (お前を愛する者の為に、そしてお前が愛する者の為に) 蒼馬が振り向くと、地面から突き出した岩が立て続けに砂を打ち上げ、発射の号令を掛けた弓術士の身体が後方へと吹っ飛んだ。 城兵達の矢が、勢いを弱めた。 「決して諦めるな、死ぬのではないぞ!」 蒼馬は叫び、踵を返した。 「逃がすか!」 「ええい、薄情者どもめ」 城兵が蒼馬だけを追う中、三人の男が指揮を執っていた弓術士を助け起こしていた。笠を被った長身の人物が、そっと歩み寄る。 「何だ。お前は行かないのか」 「行くけれど」 刀を持った男の顎が鈍い音と共に跳ね上がった。隣の弓術士の喉笛が鞘尻に潰され、瞬時に戦闘能力を奪われる。 目を瞠った泰拳士が反射的に拳を突き出した。 長身の上に乗っていた笠が、夜闇へと舞い上がる。 「力を貸す、その約束はまだ生きてる」 笠の下から現れたのは、提灯の明かりで薄紅色に輝く銀髪の女性、雪刃(ib5814)だった。髪からは純白の毛に覆われた耳が覗いている。 城兵達に蒼馬を追わせたのは、雪刃の声だった。このために雪刃は、愛用の斬竜刀ではなく、城兵達に紛れる見習いの刀を持参したのだ。 「て、敵‥‥」 雪刃の紺碧の瞳が刃の輝きを帯び、銀髪が闇に広がった。 泰拳士の蹴りを肩で受けながら後方へ流し、続く逆突きを避けようともせず、むしろ額を正拳に叩きつける。 拳を痛めた男の足を、刀の峰が払った。倒れた男の鼻っ面を、足袋と黒い長靴下に覆われた細い足が、全体重を乗せて踏み潰す。 「く‥‥」 咄嗟に矢筒から矢を抜いた弓術士の目を、雪刃の紺碧の瞳が射抜いた。 その瞳に見え隠れする怒気に、男は口を開けたままで喉を閉じてしまう。 矢を番えようとし、それどころではないと気付いて後方に下がろうとし、それどころではないと気付いて仲間を呼ぼうとした弓術士の首を、雪刃の刀の峰が軽く叩いた。 崩れ落ちた男を見下ろした雪刃は笠を拾い、追走劇を始めた蒼馬を追って走り始めた。 ● 「東の濠で、見回りが倒れていたらしい」 「ということは、東か? だが南へ逃げたという話はどうなった」 城の北側にいた兵達が、草を掻き分けながら近寄ってくる。 「まあ、いま少し東側を探ってから南へ向かえばいいだろう」 「一応東に残っている兵も必要ではないのか」 草鞋を履いた足が、水に濡れた草を踏みしめていく。 その音が去ると、小さく荒い息が草の中から漏れた。 「ま‥‥ち‥‥」 儀光だった。 血を吸った上着からは、水とも血ともつかない液体が断続的に垂れ落ち、草を汚している。 血の気を失った儀光の手が、緩慢な動きで腹に巻いた上着を解く。殆ど力の入らない手が上着を捻ると、血が草を伝い落ちていった。 新たな足音が、遠くから聞こえてくる。儀光は覚束ない手つきで上着を腹に巻き直し、這い進もうとした。 だが、その肘が地に付いたまま、動かない。 「まち‥‥」 儀光の目から、涙が零れる。足音が、遠くから聞こえてくる。 ● 岩の突き出した黒緑の草の海を、弱く柔らかな光が照らし出す。 「雲は四半刻ほど月を覆うものと思われます」 布を巻いた提灯と魔法帽を手から提げ、白い真鍮製の杖を脇で抱えた玲璃(ia1114)だった。ローブの上から城兵の羽織に袖を通している。 「その後四半刻は朧月夜、その後半刻で雲が晴れるようです」 「四半刻が勝負ですか」 黒髪を簡素に束ねた青年、九法慧介(ia2194)が鬼面頬の奥で目を針のように細めて呟いた。 濠の東で気絶した兵が発見され一部城兵が東に向かったものの、城兵の多くは南へ向かっていた。 「儀光くんの怪我がこれ以上酷くなる前に無事助け出せるといいけれど」 その視線の先では、二人の人物が目と耳に練力を集中し、常人には不可能なほどの広範囲を捜索していた。背中合わせになって東西を分担し、暗視で水に濡れた草や血痕を、超越聴覚で荒い息づかいを探っている。 一人は、黒い帽子に狐面を取り付けた少年、羽流矢(ib0428)。もう一人は鉄紺の髪を高い位置で結い、奪った安物の弓を背負って若侍に扮した細身の女性、神咲輪(ia8063)。 と、羽流矢が輪の肩を押さえ、自らも草の海に潜った。素早く手を動かし、慧介達に合図を送る。 「おーい。いたか」 間延びした声が慧介の背にかけられた。玲璃は帽子を草の陰に隠し、杖の先端を草の海に沈める。 「やけに暗いな。もう灯りが切れそうか」 三人組の男達が、玲璃に近付いてくる。その視線は、光量を抑えた提灯へと向けられていた。 甲虫の羽音の様な、重くおぞましい音が辺りに満ちた。 暗闇に浮かび上がった銀色の円弧は、無防備な刀の男の顎を揺らし、弓術士の左腕を叩き潰していた。 「な」 身構えた男の提灯が、軽い破裂音と共に光を失った。次いで草の海から生えた銀光がその頸椎を打つ。 だが泰拳士の男は、咄嗟に手の甲で峰打ちを防いでいた。中手骨を折られながらも地面を転がり、声をあげようとする。 その喉にぬるりと黒い影が絡みついた。草の海に引き倒された男は、必死に自らの首を締め上げる後方の影を殴りつける。 だがその抵抗も、鳩尾に痛烈な一打を浴びて敢えなく終わりを迎えた。 男の拳を浴びて鼻血を垂らした羽流矢の身体から、玲璃の加護結界による練力の残滓が剥がれ落ちていく。 奪った上着で姿を変えた慧介と玲璃が城兵達に紛れ、避け得ない城兵は草陰に潜んだ羽流矢と輪が急襲するという作戦は、それなりに効果を上げていた。 「今は急がないとね」 弓術士のこめかみを揺らした鞘に秋水清光の刀身を納め、慧介は油断無く辺りを見回した。血を流さぬようにと、輪が一行に言い含めていたのだ。 「儀光さま、ご無事でいて‥‥」 ● (儀光さま、見て下さい。わたし、儀光さまの儀の字をおぼえました) (儀光さまのたてて下さるお茶なら、すきです) (儀光さま、待がおにぎりを作ってきました) (儀光さま‥‥) (儀光さま‥‥) 雲の向こうに、うっすらと象牙色の光が見える。 儀光は腹の激痛が、ぼんやりとした違和感に変わっていることに気付いた。地面に広がった血溜まりの大きさからして短時間だろうが、気を失っていたようだ。 「ま‥‥ち」 丈の高い草の間から、城だろうか、ぼんやりと灯りが見える。 草を分ける音が、本丸に向かって右側から左側へと、ゆっくり移動していた。儀光は指一本動かさない。 いや、動かせない。 目の焦点が合わない。呼吸が、浅くなっていく。 遠くない位置から、声が発せられた。 「何か聞こえました?」 「風で草が揺れただけかも知れないんだど‥‥」 足音が、不規則に移動を始める。 「でも、確かに‥‥泥と、血の臭いはしますわね」 「他の二人も呼ぶよ」 声変わりを追えた少年の声が言い、幾らか離れた場所から二つの足音が草の海を掻き分けて近付いてくる。 「雪と言えば‥‥?」 女性の声が言う。儀光の身体が、僅かに動いた。 「か‥‥ざ‥‥」 息が、徐々に短くなっていく。 「そこにいるのは、儀光くんですか? お望みとあればあの日に見せた無限増殖お手玉でもどうでしょう」 慧介の心眼は、確かに儀光を捉えていた。その声に、力の抜けつつあった儀光の手が、再び草を握る。 「聞こえた!」 羽流矢が叫ぶ。 「儀光様っ」 輪は既に草の海を掻き分け、真っ直ぐに儀光の元へと駆け寄っていた。 うつ伏せに倒れていた儀光の身体を、小柄な輪の細い腕が抱き起こす。 「冷たい‥‥!」 儀光の肌は蝋細工のように白く、唇はすっかり血の気を失っていた。呼吸は浅く遅く、頼りない。 「かん‥‥き‥‥ま‥‥」 その目は、既に虚ろだ。その唇が、微かに動いた。 「ま‥‥ち‥‥は」 「こんなになってまで‥‥!」 その身体を抱き締めた輪の大きな瞳から、涙が溢れ出す。 「玲璃さん!」 「承知しています」 駆け寄ってきた玲璃は帽子を頭に乗せ、聖杖ウンシュルトを振るって練力を宝珠へと流し込んだ。 辺りを抜ける暖かな風が、儀光と輪の頬を撫でた。発光を伴わない神風恩寵を選んだ玲璃の判断は、夜間の草原においてこの上なく的確と言えた。 儀光の青白い肌に、徐々に赤味が差し始める。 「何とか、間に合ったようですね」 慧介は長身を風になぶられながら草の海に立ち上がる。 こちらの明かりが止まった事に気付いたか、一町ほど離れた場所を動く提灯が近付いて来ていた。 「神咲様に、‥‥玲璃様? 九法様も‥‥そちらの方は?」 「あ、警戒しなくていいよ 俺、開拓者の羽流矢って言って‥‥依頼を受けて、一緒に皆と来てるんだ」 羽流矢は鼻の頭を人差し指で擦り、笑う。 「おい! どうした! 何か見つかったか」 強張った儀光の身体を、輪の細い腕が柔らかく抱き締める。 「大丈夫。輪にお任せ下さい」 涙を拭い、輪は儀光の身体を毛布で包んだ。 慧介は笑顔で、毛布を纏った儀光を背負う。 「さ! しっかりするのよ輪」 「神咲様? 何を」 儀光に一つ目を瞑って見せると、輪は若侍の扮装を解き、長い髪を手早く結い直した。緋牡丹の蒔絵簪が、朧月を映してぼんやりと輝く。 「無茶しないでくれよな」 「羽流矢さん、優しい」 輪は赤い目で笑い、地を蹴った。預言者を導く海の如く草が割れ、その度にその最奥に人影が現れる。 「おい! そこで何をしている」 その間に、近付きつつあった三人組が、十丈ほどまで迫っていた。慧介の親指が鍔を内側からそっと押し、鯉口を切る。 「‥‥そろそろ俺も怒りそうだ。暴れたいくらいに」 「まあまあ。俺が殿を務めるから」 羽流矢は幾らか刀傷の残る脚絆を巻いた足を曲げ伸ばしし、ゆっくりと草の海に上半身を沈めた。 「おい」 声が射程に入った瞬間、羽流矢の手が夜に溶けた。闇に紛れる黒い刃が、弓術士の胸と下腹部に突き刺さる。 慧介と玲璃が、無人の野を駆け出した。 「敵だ!」 「馬鹿な! 敵は南じゃないのか!」 崩れ落ちた弓術士を助け起こし、二人が狼狽した声をあげる。羽流矢は小さく舌を出し、慧介達を追って地を蹴った。 ● 「おい、東に敵がいたらしいぞ!」 「東!? こっちに敵がいるじゃねえか!」 「敵が紛れ込んでいるらしい! 仲間を確認しろ!」 「合言葉、何で決めてねえんだよ!」 「敵!? 倒れてた見張りをやった奴等じゃないのか?」 怒鳴り声が、城の南方で交錯する。 「いい具合に、情報が錯綜し始めたかな」 雪刃は軽い刀を右手から左手、左手から右手へと移しながら、小さな口を笑みの形にした。基本的には峰打ちだが、それでも鼻や口から飛び散る血が豊かな胸元や頬を汚している。 怒鳴り合う男達の顔が、突如として白い光に照らされた。 「おい! あれ!」 城の南東方向、男達から数町離れた場所に、狼煙銃が打ち上げられていた。 その光が、泰拳士の喉を掴んで宙に吊り上げている蒼馬を照らし出した。泰拳士の身体に、仲間から放たれた矢が幾本も刺さっている。 「う、撃ち方やめ!」 儀光を追うことだけを前提に、近寄っても遠のいても攻撃ができる三人一組で、城兵達は行動していた筈だった。 だが開拓者を前にした今、近寄れば弓術士が攻撃出来ず、遠のけば泰拳士と侍が攻撃できない、極めて中途半端な隊伍になり下がっていた。 加えて、雪刃が弓術士の隊長を無力化した事で、射撃の統率も失われている。 蒼馬が叫んだ。 「南だ!」 「見えてる!」 雪刃が、左手に抜いた鞘で隣の泰拳士を殴り倒した。蒼馬の放った衝撃波が、雪刃の隣の侍を薙ぎ払う。 「逃がすな!」 「ま、待て! 今南へ行った奴、本当に敵か!?」 「何!?」 「身ぐるみ剥がれた奴がいるらしい! 仲間の確認をしろ!」 「て、敵がいる! 撒菱が仕掛けられてるぞ!」 怒声が行き交う中、蒼馬と雪刃、弓を背負った輪が合流する。 「三人組を崩すな! 一人でも欠けた者は、その場で待機しろ! 敵は、弓・拳・刀の三人組でなく、しかも動き回っている者だ!‥‥」 ● 夜更け過ぎ。 村の長の屋敷に、儀光は一人正座し、目を閉じていた。 「儀忠様をお連れしました」 輪の声と共に、襖が開いた。 開いた襖の向こうに、頬が痩け、目の下に隈を作った儀忠が立っていた。 「父上‥‥」 儀忠は答えず、儀光の前にただ膝をつく。 儀光は平伏し、震える声を絞り出した。 「申し訳ございません‥‥父上のお申し付けに背き‥‥待の傍を、離れて‥‥この場に‥‥」 「‥‥馬鹿を‥‥申せ」 濡れた声を、儀忠は吐き出した。 「許しを請うのは‥‥この私だ! 私だ!」 儀忠の目尻から、涙が止めどなく溢れ出す。 「許してくれ‥‥父の、愚昧と浅慮を! 許してくれ」 儀忠の頭が、畳に触れた。 「父上」 儀光が、骨張った儀忠の手を取った。 「父上‥‥嘉木家の者となったこの私に、父と名乗って下さるのですか」 「よいのだ。よいのだ。よくぞ、生きていてくれた‥‥最早、生きては会えぬものと」 儀忠は力一杯に儀光の身体を抱き寄せ、噎び泣いていた。 「‥‥生き抜くことは死ぬることより難しい。よく頑張ったな」 蒼馬の声を受け、儀光は頬を涙に濡らしながら、幾度も、幾度も頷いた。 雪刃と慧介、羽流矢がひとまず安堵の表情を浮かべ、視線を交わす。 「待様の安否も、気がかりですね‥‥」 玲璃が、ぽつりと呟いた。 |