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■オープニング本文 【この依頼は朱雀寮合格者 対象シナリオです】 後の世に『神代』の戦いと呼ばれることになるであろう五行国の戦乱は大アヤカシの消滅と裏切り者の処刑によって一応の幕を下ろした。 永きにわたり五行の歴史に影を落としていた大アヤカシ生成姫が消滅し、その次に続くとされた上級アヤカシ鬻姫も開拓者の手によって斃された。開拓者と人の勝利と言えるだろう。 だが生成姫が最後に遺した言葉の意味や神代の謎は未だ不明。アヤカシに力を与えるという御大の秘密も何も解っていない。 戦乱で崩壊した村の再建はようやく始まったものの一方では急激に広がり始めた魔の森の影響で潰れてしまった村などもある。 生成姫配下の中級、上級アヤカシなどは多くが戦乱で倒されたが、各地に封じられていたが故に残されている上級アヤカシはまだ複数残っていると言われており、生成姫が育て洗脳した人の子。「生成姫の子供」達もその多くがまだ人の世に放たれたまま息を潜めている。 『終った』とするにはあまりにも問題が山積しているが… 「どこかでけじめをつけなくてはなりません。いつまでも引きずっていては前に進むことはできないのです」 講堂に集まった朱雀寮生達。 その前に久しぶりに立った朱雀寮長各務 紫郎は静かにそう語る。 今回の戦いは陰陽寮生、特に朱雀寮生達にとっては最初から最後まで苦い思いを抱いての戦いであった。 仲間であり、友と信じていた卒業生の裏切り。 長い戦いの果て。寮生達が自身の手で捕えた彼はアヤカシの子として処刑されその若い命を散らした。 あまりにも苦く苦しい結末であったが、それと引き換えに得た「戦乱の終わり」だ。 確かにいつまでも引きずっていてはいられない。 前に進まなくては。 寮生達のその思いの籠った眼差しを見つめ、紫郎は頷き寮生達に告げた。 「まずは、今後の朱雀寮の方針について知らせましょう」 眼鏡をあげて手元の書類を確認する。 「今月から、朱雀寮の授業が再開されます。戦乱によって授業が出来なかった一月から四月分はそのまま後ろ倒しとなります。授業過程の切り捨て、繰り上げ等は行いません。 卒業、進級課題についても同様です。 つまり、例年六月に行われていた卒業は今年度から十月、もしくはそれ以降になるということですね」 例年であれば二月位から進級課題の準備が始まり、四月、五月、六月前後で進級試験が行われていた。 そのまま後ろ倒しになるという事は六、七月くらいから進級課題の準備が始まるという事になるだろう。 「課題についての詳しいことは後日、それぞれの授業で発表します。 また、白虎寮が破壊された事や、さっき言った事情から今年は陰陽寮では新入生の募集を行わない事になりました。ただ、もし入寮を希望する者がいれば、それぞれに面接を行い適性を判断。予備生として受け入れる用意はあります。詳しくは希望者が出た時に我々が考えますので皆さんはあまり気にしないで構いません」 そう告げて寮長は寮生達を見る。 「今日から授業開始までの期間を予備期間とします。戦乱でバタバタしましたので皆さんも、切り替えの時間が必要でしょう。形式としては委員会活動期間となりますが、活動の強制はしません。また各学年の書庫の閲覧や質問を許可しますので特に、二年、三年生は自分の研究課題について再確認するといいと思います」 「…一年生は?」 「一年生も普段見られない書物を閲覧できますので、気になっている事、調べたい事などをこの機会に勉強して下さい。また一年生の進級課題は例年、符の作成になりますので符について再確認し、自分達がどんな符を作りたいか大まかに考えてみるのもいいでしょうね」 授業が再開され、進級課題が始まれば委員会活動はともかく、あまり自由に行動もできなくなる。 今のうちに自分が何をし、どうしたいかを再確認せよ、ということなのだろう。 「…皆さん、今回の件についてはいろいろと思うところはあるでしょうし、それを否定するつもりはありません。ですから、今回でしっかり気持ちを切り替えて授業に臨んで下さいね」 そして彼は去って行った。 寮生達に最後の「自由時間」を残して。 「ちょっと、あんた達!」 講堂から出て来た朱雀寮生達を呼び止める豪快な声。 聞き覚えのある声に振り返った二年生、三年生達はそこにいた人物の顔を見て破顔した。 「香玉先輩!」 そこにいたのは昨年卒業した元朱雀寮生香玉。 子育てを終えてから朱雀寮に入寮したと言う変わった経歴の持ち主で、年齢は四十を越える。 朱雀寮の肝っ玉母さんと呼ばれていた人物だ。 「…皆、いろいろ大変だったね。お疲れさん…」 彼女は寮生達をそっと労うと微笑んだ。 母親の様に優しい眼差しに寮生達も胸が熱くなる。 「あたしは今ね、上の人らに頼まれて桃音の面倒を見てるんだ。そう、あの子だよ」 陰陽寮生達が捕え、保護した生成姫の子、桃音。 彼女はその後の調査で、まだ里を出て間もないこと。歳が幼い事。 子供達の中でも位階は低くあまり詳しい情報などを知らされていないことなどが判明し、現在は五行の牢の一角で監禁状態にあった。 といっても朱雀寮生だけではなく、青龍、玄武寮生からの嘆願もあり、桃音は処刑された透と違い、人として子供として不自由ではあるが尊重された生活を許されている。 そして少女でもあることから世話役として要請されたのが香玉であると言う事に寮生達は胸を撫で下ろす。 彼女が世話をしてくれているのなら少しは安心だろう。 「あんた達が面会に来てくれるようになって、表向き元気にはしてるんだけどね。やっぱり子供だから牢屋の中での生活は辛いみたいなんだよ」 最初の内、暫くは何も食べない日々が続いた。 心を少しずつ開いてくれるようになってきても、まだ時折厳しい目つきをする。 部屋の中での訓練も欠かさない。 「本や紙筆とか、外と連絡が取れる様なものの差し入れはまだ禁止でね。実際退屈で死にそうってのは本音みたいなんだよ。それで何か欲しいものはないかと聞いていたら…」 『笛が欲しい』 子供達の奏でる音楽は生成姫の与えた楽器以外で奏でてもただの音楽でしなかいということは調査で判明している。とはいえ、曲や音の仕組みを知ることも意味があるかもしれない。 そんな上の思惑からか笛の差し入れは許可されたのだが 「あたしは音楽とか芸事の類は門外漢でね。見立ててやってくれるかい? ついでに普通の音楽を教えてやって欲しいんだよ。アヤカシを動かす為だけじゃない本当の音楽ってやつをね」 香玉の言葉に寮生は頷く。 子供達を導いてやってほしい、というのは「彼」の遺言でもある。 当たり前の日常と、当たり前の笑顔こそが桃音にとってきっと今一番必要なものだ。 音楽がそのきっかけになれば…。 寮生達は心からそう思い、願うのだった。 |
■参加者一覧 / 芦屋 璃凛(ia0303) / 俳沢折々(ia0401) / 青嵐(ia0508) / 玉櫛・静音(ia0872) / 喪越(ia1670) / 瀬崎 静乃(ia4468) / 平野 譲治(ia5226) / 雲母(ia6295) / 劫光(ia9510) / 尾花 紫乃(ia9951) / サラターシャ(ib0373) / 真名(ib1222) / 尾花 朔(ib1268) / 比良坂 魅緒(ib7222) / 羅刹 祐里(ib7964) / ユイス(ib9655) |
■リプレイ本文 ●戻ってきた日常 五月晴れと言う言葉があるが、ここ数日の空は正にそれ。 冴え渡った青は美しく、五行の空に広がっていた。 陰陽寮も例外ではなく、窓から差し込む木漏れ日もキラキラと輝く。 それに目を擦りながらもそもそと仮眠室の布団から頭を覗かせた瀬崎 静乃(ia4468)は大きく伸びをした。 太陽の高さからしてまだ早い時間だ。食堂も開いてはいまい。 「…それなら」 布団の横に重ねておいた書物を静乃は手に取った。 布団の上で本を読むなど図書委員達は眉をひそめるだろうか? 「寝ながら…じゃないし…いいよね」 そうして彼女は書物を読みふける。 陰陽寮の良くある光景は、朝と穏やかな日常の始まりを象徴しているかのようであった。 「先輩! お願いします!!」 朱雀寮の中庭で芦屋 璃凛(ia0303)が大きな声を上げて身構える。 彼女の前にいるのは平野 譲治(ia5226)。 久しぶりの委員会活動。 フィールドワークと言う名のマラソンを終えて、体育委員達は鍛錬に励んでいた。 その内容は主に組手である。 「ほら! 右が開いてるなりよ!」 「は、はい!!」 譲治に言われて脇腹を閉め、腕でガードする。そこに譲治の蹴りが入った。 だが、安心している暇はない。右、左、右。 身体の軽さと機敏さを武器とする譲治の動きは型に嵌らないが故に読みにくい。 「わっ!」 足払いは何とか持ちこたえたものの崩れた体勢をさらに崩す様に足元に入れられた攻撃に耐え切れず、璃凛は尻餅をついた。 「あいたたたあ〜!」 「そこまで!」 「大丈夫なりか? 璃凛?」 譲治が差し出した自分より小さな手を掴んで立ち上がると璃凜は深くお辞儀をした。 「大丈夫です。ありがとうございました」 二人の様子を見ていた劫光(ia9510)が第三者の視点から見た今の組手の課題を教える。 「相手の動きをよく見る事が組手では一番大事な事、だからな。視力が落ちたのならその分、しっかりと『見る』ことだ」 「はい…。今までとは動きや戦い方もやっぱり変えな、あかんですね」 ずり落ちた眼鏡を直しながら璃凛は頷いた。 「進級課題の方も進めて行かんとならんし…、もう一度身体を作り直して鍛錬せな…あ! 先輩。今日の桃音との面会時間何時やろか?」 劫光は少し考えて答える。 「…今日は午後だ。笛を持って行く約束をしているから遅くならないうちに…と思っているが…」 「先輩。…ちょっと出て来てええやろか? 昼過ぎには戻ってくるよって…」 「ああ、解った。行って来い」 「はい! おおきに!」 走り出していく璃凛を譲治と劫光は見送った。その顔はどちらも『先輩』の笑顔。 「璃凛、いろいろ煮詰まってたみたいなりが少しは、ふっきれたなりかね?」 「さあな。そういうお前は大丈夫なのか? 随分思うところがあったようだが…」 「試してみるなりか? いつまでも今までのおいらじゃないなりよっ!」 「よしっ! 手加減はしないぞ。かかってこい!」 体育委員会の活動はまだまだ続く。 「あれ? 体育委員会は外で活動してなかったっけ?」 閲覧室に戻ってきた俳沢折々(ia0401)は、資料を広げる雲母(ia6295)に小首を傾げた。 「別に、今回は強制では無いと言っていただろう。委員会活動よりもやっと始まる授業に向けた調べものの方が重要だ」 「…まあ、その辺は人それぞれだからね。…私はもう少ししたらまた書庫に戻るけど…貸し出し手続きとか、大丈夫? サラターシャ(ib0373)ちゃんは今日はちょっと出るって言ってたし」 「構まうな…。必要な時は言う」 「先輩。僕がいますから大丈夫ですよ」 同じように閲覧室の一角で書物を見ていたユイス(ib9655)がニッコリ笑う。 「僕も後で桃音ちゃんの所に行きますが、それまでならお任せ下さい」 そっか、と頷くと折々もまた笑みを返した。 「じゃあ、任せたね」 折々が書庫に消えたのを見送って後。一つ大きく深呼吸。 そしてユイスは 「ねえ、雲母君。…後でちょっといいかな?」 意を決するように雲母に話しかけたのだった。 前回の委員会でだいぶ整理は進めた筈だったのだが… 「おいおい。なんだかいろいろ増えてねえか?」 喪越(ia1670)は用具倉庫を見つめ息を吐き出した。 「崩壊した白虎寮の片付けが始まってて…、重要な書物や道具以外は他の寮で使っていいってことになったみたいなので委員長が持ってきたみたいですね」 備品の整理をしていた清心が喪越の疑問に答える。 「委員長…か」 喪越の呼んだ委員長というのは青嵐(ia0508)では、今はない。 「…もしかしたら俺の目的に一番近いところまで来たかもしれねぇってのに。現実のチビしさを見せ付けられただけに終わっちまったような気がするな。…まったくこの俺が野郎の事をこんなに気にするのは初めてだぜ」 フッと目を閉じるように喪越は顔を伏せた。 今は亡き彼の用具委員長の面影が浮かぶ。 「ま、とりあえずやることはやらねえとな。青嵐もあいつなりに忙しそうだ。中の事はとりあえず把握してやっとこう。いいな」 「はい」 後輩達の返事に頷いて喪越は腕を捲るのであった。 ある意味今回の戦乱の後、一番やることが多かったのは保健委員会かもしれない。 「まだまだですが、ようやく日常復帰への第一歩ですね」 集まった委員達を前に玉櫛・静音(ia0872)はそっと呟く様に言うと、それぞれに仕事を指示した。 薬草園の草むしり。 足りなくなった薬草の確認と補充。 「…僕は、薬草園に…行ってるから」 「器具の点検、整備は任せて下さい。救急箱の補充もしておきたいですね」 「足りなくなった薬草の調合は…私がします」 静乃、尾花朔(ib1268)、泉宮 紫乃(ia9951)。頼りになる三年生の言葉に安心したように静音は頷いた。 「お願いします。皆さんにもやりたいことがあるでしょうからできることはどんどん進めてしまいましょう」 「先輩」 「なんですか? 祐里さん?」 自分を呼ぶ一年生の声に静音は振り返る。 「午後から、少し出てもいいでしょうか? 桃音の面会と…それから少し用事があるんです」 躊躇いがちに言う羅刹 祐里(ib7964)に勿論、と彼女は笑った。 「さっきもいいましたでしょう? 皆さん、やることがあるだろうから。と。 今回の委員会活動は元々強制ではありませんし、朔さん達も桃音さんの面会に行くと言っています。 自分に与えられた役割をしっかりこなした後であれば誰も、何も言いませんよ」 「解りました。ありがとうございます。では、買い出しに行ってきます」 深くお辞儀をして部屋を出た祐里を見送って後、保健委員達は動き始める。 「静音さん。調合を始めます。必要な薬はどれですか?」 「やはり外用薬の補充が先ですね。火傷用と外傷用、それから打ち身骨折用の薬をお願いできますか」 「解りました」 紫乃は指示書を手に取った。まずは火傷用の薬。 そう思った時、ふと手が止まった。 (この薬を…使ってあげたかった…) 「どうしました?」 「いえ、なんでもありません」 静音の問いに首を横に振って 「あ、オトギリソウの新鮮な葉が足りませんね。薬草園に行ってきます」 紫乃は何かを振り切るように立ち上がった。 心配そうにその背中を見つめる仲間達におそらく、気付くことなく。 廊下を歩いていた真名(ib1222)は 「あ、紫乃!」 反対側から歩いてくる親友の名を呼んで両手に荷物を抱えながらも手を振った。 「真名さん…」 紫乃の顔がほんの少し光を帯びる。 近寄って彼女は真名の持つ荷物の量に少し瞬きする。 「すごい…荷物ですね。お手伝いしますよ?」 「大丈夫。今日のお昼の食堂の買い出しを少し手伝ってきただけだから。かさばって見えるけど葉物が多いからそんなでもないの」 笑った真名は紫乃を見つめ、そして 「ねえ、紫乃。ちょっと手伝って欲しいことがあるんだけど…」 笑いかけた。 「なんでしょうか?」 「午後から皆で桃音のところに行くでしょう? 差し入れを持って行こうと思うのよ。あと、みんなのお弁当も。手伝って貰えるかしら」 「解りました。喜んで」 紫乃は頷いた。 「桃音って何が好きなのかしら…。辛いものは大丈夫かしら」 「まだ、子供、ですから甘いものとかの方がいいかもしれませんね。考えておきます」 会話する間に紫乃の顔には微かだが笑顔が浮かんできた。 (良かった) と真名は思う。 「じゃあ、後でね」 「はい。ではまた」 別れた後、真名は自分の荷物を抱えた手に、ぎゅっと力を込めたのだった。 ずっと考えていた事。 「桃音に会った時…伝えなくっちゃ。約束、したんだもの」 その決意を揺らがせることの無いように…。 ●少女への贈り物 五行の闇を支配していた大アヤカシ。生成姫。 彼女が滅んでもその脅威は決して消えたわけでは無かった。 その最たるが彼女が残した『子供達』。 アヤカシによって育てられ、生成姫に絶対の忠誠を捧げる人の子。 人の姿をしたアヤカシと称せられる子供の一人が、五行に今も囚われの身としてあった。 五行の罪人を捕える牢の一角。 決して陰陽寮から近くは無いその距離を、朱雀寮生達は足繁く通っていた。 「よっ。桃音。元気そうだな」 「委員会の後なりから、遅くなったのだっ! ごめんなりっ!」 奥まった牢の中で腕立て伏せをする少女に劫光は軽く手を上げて見せた。譲治は頭を下げるとニッコリと笑う。 「あっ! 開拓者」 「や、また来たよ」 片目を閉じるユイスの後ろで劫光が肩を竦めて見せた。 「劫光、だ。こっちは譲治。喪越に璃凛にユイス。もう覚えてるだろう?」 「だって、いっぱいるんだもん。知らない顔もいるし」 諌める様な劫光の言葉に桃音と呼ばれた少女は拗ねた顔で頬を膨らませた。 その子供らしい様子に微笑みながら後ろに控えていた「知らない顔」も自己紹介をする。 「私は尾花朔です。こちらは紫乃さんと真名さん。そして彼は祐里君」 「よろしくお願いします」「こんにちわ」「改めまして…だな」 初対面では無いのだが、前に会った時は戦いの場でだった。おそらく覚えてはいないのだろう。 「私はサラターシャです。お見知りおきを」 「またいっぱいで来たのね…。ここは退屈だから嬉しいけど…、って何してるの?」 少女の牢の前で、寮生達は毛氈を広げ始めた。 「丁度お昼だし、まずはご飯食べない? お弁当作って来たのよ。ほら、桃音の分もあるわよ。許可もちゃんと貰ったから大丈夫。先輩。お願いします」 「あいよ!」 食事の差し入れ口を開けた牢の見張り件、世話役の朱雀寮卒業生。香玉は、真名が差し出した弁当を牢の中に入れる。 「香玉先輩、村の方は大丈夫なんですか?」 「王直々のお仕事だからね。断れないよ。…心配しなくて大丈夫さ。ちゃんと村には護衛もつけてもらってるし」 心配そうに問う紫乃に明るく笑って香玉は片目を閉じた。 「うわ〜。これ、食べ物?」 弁当箱の蓋を開けた桃音が声を上げる。 卵に肉に魚、春の山菜。彩りとバランスを考えて作られた美しい料理は添えられた色とりどりの飴と共に子供の心を見事に惹きつけることに成功していた。 「そうよ。食べてみて。香玉先輩直伝。美味しいと思うわよ」 「いつもの香玉のご飯より美味しそう!」 「そりゃあ、毎日こんなごちそうは出せないよ。今日は特別、だからね」 「やっぱり香玉先輩が食事を作っているんですか?」 「まあ、ね」 「僕達もこっちで頂くからね。一緒に食べよう!」 「いっただきま〜す!」 そうして風変わりな牢屋の中でのピクニックが始まった。 日々の面会を積み重ねてきてようやく食べ物の差し入れと、こうして一緒に食事をし話す時間が得られるようになってきたのだ。 「あ、これ美味しい」 「塩もみ山菜入りの卵焼きよ」 「へえ〜。山菜ってこういう風にも使えたのね。知らなかった」 山育ちだった子供は自分を養う術には長けているが、食を楽しんだりする意識には乏しいようだという話は聞いていた。 だからその辺はさりげなく流して、 「うわっ! これなに? 口の中が熱い!」 「あ。それは多分麻婆豆腐。辛いのは苦手だった?」 「う、ううん。食べた事の無い味だったからビックリしただけ。…嫌いじゃない、と思う」 「よかった」 「口直ししたいときは飴を食べてみて下さいね。果汁が練り込んであるので美味しいかと思います」 「わあっ! 甘いもの大好き。果物の砂糖漬けが一番好きだったけど、これはそれより甘いのね」 今は一緒に食事を楽しむことにする。 こうして美味しいものに歓声を上げる様子は年相応の子供であった。 「あー、美味しかった。ごちそうさま」 「おー。残さないで食べたな。偉い偉い。じゃあ、ご褒美をやろう」 そう言うと劫光は懐から取り出した品を、香玉を経由して桃音に渡す。 「あ…笛!」 「欲しいって言ってたらしいからやろう。吹けるか?」 劫光の問いより早く桃音は笛を口に当てる。袋に結んである根付に目もくれない。 世にも美しい旋律が紡がれる。子守唄のような…それでいてどこか禍々しいものを感じさせる。 それと似たものを開拓者達は何度も聞いていた。 あの戦場で、透が紡いだものと同じ。 「良かった。まだ忘れてなかった…。思い出せなかったら、どうしようかと思った…」 「桃音さん。それは、アヤカシに呼びかける為の音、ですか?」 「…おかあさまが教えて下さった笛の音。これを吹けることが一人前の証なの」 「…そう、ですか」 紫乃がきゅっと唇を噛みしめる。その背をぽんと叩いて劫光は明るい声を出した。 「そうだな。悪くない音だ。でも透はいろんな笛でいろんな曲を吹いてた。お前にも教えてやろうか?」 「世の中にはいろいろな曲があります。おかあさまのもの以外にもいろいろ。それを覚えるのも勉強だと思いますよ」 「それにそれに! 楽器もいろいろあるのだ。ほら、いろいろ用意して来たなりよ!」 朔の言葉を継いで譲治が腕に抱えた楽器を差し出す。ブブゼラ、ブレスレット・ベル、呼子笛。祐里もリュートを取り出して奏でて見せる。 「…それもみんな、楽器?」 「楽器が無くってもこういうのもあるんやで」 ひゅるり、るりら〜と璃凛が口笛を吹く。 「情熱の律動の使い手であるこの俺の出番が来たようだな。ボンゴマスターもっさんとは俺の事Yo!」 「はいはい。盛り上げは望む所なりが、出番はもうちょっと待って欲しいのだ…」 「いてててて、ちょっと待てジョージ!」 かけあい漫才のような様子に笑いが溢れる様子を桃音は目を丸くして見ている。 その手に、劫光は牢屋越し、そっと手を重ねた。 「お前はもっといろんなことを知りたいと言った。だったら、一つの事ばかりに捕らわれるな。いろんなことを知って、その上で自分の道を選べ。おかあさま以外の音を奏でるのもその一歩だ」 「皆で奏で合えばそれは楽しい音、「音楽」なりよっ! 一緒にやろうなのだ!」 譲治の言葉に桃音は手の中の笛をじっと見た。 「早春」。 おかあさまの笛と違う、開拓者から贈られた笛は、同じ曲を奏でていてもどこか違う音色をしていると桃音にも解っていた。 「…どんな、曲が…あるの?」 桃音の問いに寮生達はニッコリと笑う。そして 「よし! じゃあ、最初は優しい子守唄から行くか。そして、祭り唄。願いや祈りをかける唄なんかもあるぞ」 「桃音さんは、指使いや息の吐き方は完璧ですね。だったら、次は指の位置です。しっかりと覚えれば割と早く演奏できると思いますよ」 最初は躊躇いがちであったが、知らないことに徐々に夢中になってくるのは子供の本質。 その様子を開拓者達は優しい眼差しで見つめるのだった。 五行の国は一枚岩ではない。と青嵐は思っていた。 かつての朱雀寮であれば一枚岩だと思っていたかもしれないが…。 「瘴気を利用した対空用の「設置型武器」は作成できないものだろうか?」 青嵐は白虎寮の撤去の確認に来ていた五行の役人にそう提案した。 「難しい話だな。基礎理論さえも聞いたことが無い。瘴気と精霊力はその根本が違うだろう?」 「しかし、根源は同じであるという仮説も出ている。決して不可能ではないかと思うのだが…」 そんな会話をしながら青嵐は白虎寮をぐるりと見て回った。 アヤカシの襲来によって破壊された白虎寮は修復と言う域を既に超えている。 だが、破壊を免れた場所には使えそうな備品なども残っていて、それらは他の寮との兼ね合いなども考えながらではあるが、朱雀寮で利用していいものものあると聞いてた。 だから用具委員長としてそれらの品の確認にやってきたのだ。 「簡単にはできないだろうが、今回のような事例を繰り返さない為にも対応策は必要だろう?」 「まあ、研究してみると言うのなら止めはしない。ほら、そこの品は持って行ってもいいぞ」 「感謝する」 頭を下げながら青嵐は目の前の役人を見た。 戦乱を経て五行国が変わりつつあるようだ、というのを青嵐は感じている。 その最たるが架茂王とその周辺だ。 「青龍寮にも持っていくかもしれないから全部は持っていくなよ」 今まで、無気力で研究にしか興味が無そうに思えた架茂王が青龍寮の為に動き始めたという話は聞いていた。 そして危険視されていた生成姫の子供、桃音の保護にも彼の尽力があったのだと知る。 流石に透の助命はできなかったが、朱雀、玄武、そして青龍寮生達の願いを王が聞き入れたからこそ桃音は今、小さな希望として彼らの前に有るのだ。 人の上に立つ覚悟、時として泥を、血を被る覚悟。それが王とこの国に芽生えつつあるというのなら…。 青嵐は小さく微笑むと深く一礼し、彼自身の有るべき場所へと帰って行くのであった。 「そろそろ面会時間は終わりだよ」 「ええ? もう?」 香玉が朱雀寮生と桃音に声をかけた。 丁度、桃音が曲を覚えかけた所であったので、不満そうな声を漏らすがその辺は仕方ない。 寮生達は立ち上がる。 「じゃあ、また明日な」 約束を残し去ろうとする彼らを 「待って!」 引き留めたのは真名であった。大きく深呼吸をして彼女は桃音に向かい合う。 「桃音。透先輩から、伝言があるの。…聞いてくれる?」 「真名さん!」 声を上げかけた紫乃の肩を朔が引き留めた。劫光も譲治も…彼女を止めようとはしなかった。 「透…兄様の?」 さっきまでの無邪気な笑顔とは違う。何かを感じた桃音の表情と絞り出すような声に真名は頷いた。 「もう、気が付いてる? 透先輩は…亡くなったの」 「…そう。いいわ。透兄様は…お役目を果たしたんだもの。雷太も、透兄様もきっと生まれ変わってくる。きっと…また会えるもの…」 「! まだそんな…」 かつて桃音と戦場で言い争った璃凛は、のど元まで出かかった言葉を飲み込む。 以前、彼女は雷太の死に涙も何も流さなかった。平然と同じことを言っていた。 でも、今彼女の目元には光る雫が見える。 友であるアヤカシを殺し続けた結果、痛む心を忘れ、兄弟達の死さえ母が与える福音と信じる「アヤカシの子」が兄弟の為に涙を流しているのだ。 こうして対していれば解る。 生成姫の子達も心をちゃんと持っている。 ただ、歪められ忘れてしまっただけなのだ。 きっかけさえあれば、きっと思い出せる。 …透のように。 「私達は最期に先輩と会ったわ。これは、彼の遺言。 『広く世を知りなさい』って。 桃音。透先輩はね。…もし生まれ変わりがあるなら、人としてまた生を受けたいって言ってたわ。その意味を…よく考えて」 それだけ言って真名はその場を去り、他の寮生達もそれに続いた。 桃音の姿が完全に見えなくなったところで 「真名」 「香玉先輩!」 心配そうに声をかけた香玉の胸に真名は自分の顔を埋めた。 痛む心を忘れた暗殺者に、それを思い出させることは残酷なことかもしれないと解っている。 透は朱雀寮の生活で、心を取り戻し、…それ故にきっと苦しんだのだから。 でも、それでも朱雀寮生達は桃音にも心を取り戻して欲しいと思っていた。 痛みと苦しみが彼女を襲うだろうが、それを乗り越えた時、大事なもの、愛するものを見つけた時、彼女はきっとアヤカシの子で無くなることができる。 そう、信じているからだ。 「また、明日、と約束した。また行こう」 劫光はぽんと真名の背中を叩いた。 「明日、一緒に合奏しようと言ったのだ!」 「けっこう難しい曲でしたが、明日までには覚えると豪語してましたね。大丈夫でしょうか?」 「知能は高いようだし、基礎は身に付いてる。興味を持てば覚えは早いかもしれないさ」 「香玉さん。この本、後で良ければ読んであげて下さい。普通の童話ですけど…まずはお話や本を好きになって欲しいので。まだ本の差し入れはダメと伺ったけど…」 明日。それが桃音には許されている。 寮生達と、透と彼らを取り巻く者達によって与えられた少女へのそれは一番の贈り物である。 「ああ、読んであげるとしよう。…また来てやっておくれ」 「はい」 寮生達は…真名も…香玉の言葉に静かに、だがはっきりと頷いたのだった。 ●それぞれの道行 もう周囲は暗くなって来ている。 書庫の中が暗くなって文字が見えなくなってきたのに気付くと 「しまったあ、もうこんな時間?」 慌てて周囲に広げた本を片付けて書庫を出た。 「お疲れ様です。先輩。お茶でもいかがですか?」 気が付けば閲覧室には明かりがともっていて、サラターシャがポットを持って微笑んでいた。 「あ、ありがとう。ちょっと待って」 そう言うと折々は本を片付け、テーブルに着いた。優しいハーブの香りが鼻孔を擽る。固まった体が解れるようで折々はホッと息を吐き出した。 「美味しい。なんだか心も体も温まるみたいだ」 「西浦先生も…、そうおっしゃって下さいました」 「そっか。今日は先生の所に行ってたんだっけ?」 「それだけでは、ないですが…。西浦先生の所に行って、桃音さんのところに行って、アヤカシ牢で実験をして…それから戻ってきて調べ物を…。先輩はずっと書庫で?」 「うん。護大について徹底的に調べてた。それでも…解らないことが多いんだけどね」 折々は書き出して数枚にも及ぶことになった護大の調書を横目で見る。 「護大というのは瘴気の塊のようなもの。 護大は人の身体の一部に似た形をしている。護大を取り込んだアヤカシが大アヤカシとなる。幾つかの護大は各地に封印されている。神殿や神域のようにして祀られているものもある。 護大は活性化によって無尽蔵の瘴気を生じる。 そして神代が護大に働きかけられる…。でも…肝心の護大が一体どういうものなのかはまだ何も解らないんだ」 大アヤカシという存在は永く人間にとって手の出せない禍であった。 人がその強大過ぎる力の前でできるのは息を潜め、逃げ隠れすることのみ。 大アヤカシの討伐に成功したのは1009年の炎羅討伐が最初。 その時、人は初めて護大という瘴気の塊が大アヤカシの体内にあるものだと認識したのだ。 それから人は今までの歴史からすれば破竹の勢いで大アヤカシを倒し続けてきた。 瘴海と生成姫が持っていたのは共に目玉。弓弦童子が所有していたのは喉骨であると言われており、アザトッホニウスから鬻姫へと移動した護大は掌であった。 炎羅が所有していた護大は指であり、渡鳥山脈祭壇にあったのも似た指であったという。 それらを護大の欠片と呼ぶのは、人体に酷似しており、おそらく大きな何かの断片であると思われるからだが、それさえも確かでは無い。 加え、入手した後の護大の処理は各国と朝廷の極秘事項とされていて朝廷の秘密主義もあってまだ護大の研究と言えるものは為されていないに等しかったのだ。 「西域にあった壁画もその古さからして先輩方が作った偽物ではなかったと思います。 解釈は偽りであったかもしれないですが」 「朝廷とかが多分、管理してるのかな? でも五行国が手に入れて封印したものもある筈。もっと、ちゃんと知りたい。なにも知らないことばかりで、それなのに分かったような顔をして…そういうのはもう、やめにしようと思うんだ」 知らなければ、できないことがある。もし、あの時…知っていたら。 れば、たら、に意味は無いことは解っているが 「知らないことを理由にしたくないんだ」 折々が胸元に手を触れる。そこにある何かの感触を確かめるように。 サラターシャはそっと微笑し、顔を上げた。 「透先輩は、アヤカシとも会話し、渡りあえると言っていました。アヤカシがなぜ命を脅かす本能を持っているか。それが判れば、人とアヤカシの関係は変わるかもしれません」 「ん。難しいとは思うんだけどね。私は諦めるつもりは無いんだ。もう後悔したくないから」 「ええ。それが先輩方らしいと、思います」 「ありがと…」 顔を見合わせて二人はそれぞれに頷いた。 「ああ、そう言えば彼女は?」 「雲母さんならさっき、一年生さん達と一緒に出て行かれました。後で戻ってくると言っていましたが…」 「そっか…。上手く彼らも纏まってくれるといいんだけどね」 「あと、紫乃さんが、護大の研究資料を見せて下さいと、おっしゃっていました」 「解った。紫乃ちゃんに直接話しておくよ」 その時、 トントン。 ノックの音がした。 「はーい。どなた?」 「…静乃。今晩、書庫で調べものさせて欲しいんだけど…」 「勿論いいよ。でももう暗いから火の扱いだけには気を付けて」 「…大丈夫。用意は、…完璧」 カンテラ。ハッカ飴。寝落ちに備えて毛布も抱えている。 「解った。無理はしないでね。私も、食事したら戻ってくるつもりだから。夜の当番は任せておいて」 「では、戻られたら私はちょっとまた出てもいいでしょうか?」 開け放たれた空は、もう薄紫に染まろうとしていた。 「それで、話は終わりか? なら、私は戻るぞ」 「ああ…、すまなかったな」 踵を反し廊下を去って行く雲母の背中を見送りながら 「ふう〜」 祐里は大きく息を吐き出した。 「祐里君。ご苦労様…」 「いや、手を貸してくれてありがとう。ユイス…。でも、やっぱり難しいな」 「まあ、仕方ないよ。彼女には彼女の考え方がある、僕らの考えを押し付ける訳にもいかないよ」 「それは、わかってるんだけどな…」 頭を掻きながらも祐里は雲母の言葉を思い出す。 これからどうするのか、とさりげなく聞いたつもりであったのだが…。 『私に構うなといつも言ってるだろう。やるべきことはする。だが慣れ合わん、とな』 『はっきり言ってここが嫌いだ、上昇思考を否定もされるしな』 「否定、しているつもりはないんだがな…」 「ん、彼女は強くて、なんでもできるから、きっと歯がゆいのかもしれない。みんなと歩調を合わせる事が…ね」 それでも、とユイスは思う。信じる。彼女もいつか、きっと解ってくれる。 彼女もまた。『朱雀寮』を選んでここに来たのだから。 間もなく進級試験が始まる。 「それにさ、先輩達に聞いた話だと、符の作成って…皆で相談してデザインや素案を纏めないといけないんだってさ」 「! 本当か? 俺達に、できるかな?」 一年生達にとって本当の試練はこれから始まるのである。 ●空に響く唄 何をしていても、何を見ても透を思い出してしまう。 「こんなことを…多分先輩は望んでいないと解っているのですが…、私は真名さんのように強くなれない…」 紫乃は抱えた花を透の墓へと手向ける。 この下に彼はいない。有るのは彼の心の欠片だけだ。 「紫乃さん、歌をお願いできませんか? 送る歌、鎮魂の歌を。先輩に届くように…」 透の墓の前で膝をつく紫乃に朔はそう呼びかけた。 紫乃は頷き、唄う。 (…先輩!) 空に響く祈りの歌を…。 夜。 委員会活動を終えた寮生達は一人、またはそれぞれに集まって自分の研究や今後に向けて向かい合っていた。 「1年、2年で符などの陰陽武器を作る事が課題であったのは、それが陰陽術において重要な要因であるから、だとも思いますし、道具作成者を手伝い意見交換するのは有意義な事であるととらえています」 物品の瘴気付与に取り組む静音や劫光。 新しい瘴気武器への概念についての素案を考える青嵐。 倉庫に風を入れながら運び込まれたアイテムの把握に努める喪越、書庫に籠る静乃や折々、実習室の真名。 そして一人空を見上げる譲治。 彼らは、…勿論、一年生も二年生達もふと、どこからともなく、静かな歌声と音色が聞こえてきたことに気付いた。 「これは…?」 首を左右に巡らせる静音に、やがて劫光はああ、と頷く。 「多分、紫乃だな。朔もいるだろう…笛の音が聞こえる」 よく聞いてみれば確かに澄んだソプラノと笛の音が重なり、聞こえてくる。 「これは、祈りの歌…でしたか?」 「ああ。死者の魂を慰めると共に、遺された人の幸せを願う唄だ。紫乃が透の為に歌ってるんだろう」 不思議なものだ、と寮生達は思った。 この唄を聞いていると、いろいろなことが思い出される。 楽しかった日々、別れの悲しみ、裏切りへの疑問、そして…後悔と誓い。 紫乃の気持ちが、皆に音と共に伝わっているのかもしれないと感じたのだ。 「此度の一連と課題。…同列で見れば得られる物は有ったのだ」 譲治は空を見上げて思う。 「「知らない事を教えて」桃音はそう言ったのだ。なれば、おいらの知らない事は桃音の知らない事っ! そう思えばこそ色々やるなりよっ! 立ち止まってはいられないなり!」 ここで得たものを忘れず糧にして、前に進むことができればこの戦乱も、透の死も決して無駄にはならない筈だ。 それぞれが抱く思いが波紋のように寮内に広がっていく。 やがて笛の音と、唄が止まった。 「偉い人らには愛がねえよな。だが、愛が通わないのなら、それこそ利害の一致だけで互いの矛を収められねぇもんかと思うんだ。なあ、委員長?」 喪越の呟きに答える者は誰もいない。 朔の胸で泣く、紫乃の嗚咽を他に聞く者もいない。 ただ、空に響いた調べは、歌声は、それぞれの心に静かに、だが深くはっきりと刻まれたのだった。 そして孤独な少女は一人の牢の中で貰った笛を見つめる。 「…そういえば、透兄様の笛にも、こんなのが結ばれてあったっけ…」 桃の花と小さな人形の根付がゆらゆらと揺れる。 桃音はそっと笛を手に取った。 翌日 「西浦先生、いろいろ教えてはくれたんやけど、近々西域に戻るかもって言ってたんや。…陰陽寮、辞めるつもりなんやろか?」 「サブローは元々、西家の若なりからね。長である兄貴の手伝いをするつもりなのかもしれないなりよ。璃凛が西家に入れば三郎の部下になるなりかね?」 「それはそれで、構わへんけど…。サラがいろいろ抱え込んでるみたいて言ってたから、ちょっと心配なんや」 雑談の様な話をしながら、寮生達は牢屋に向かう。 桃音との面会の為だ。 明るく、装っているが彼らは少し緊張もしていた。 昨日、慕う兄の死という辛い現実をまた知ることになった。 桃音は、大丈夫だろうか? だが、その時、ふと耳に飛び込んできた響きに寮生達は目を瞬かせた。 牢屋から聞こえて来る笛の音は、あの美しいが禍々しい旋律ではなく、拙いが優しい祈りの唄。 「桃音!」 寮生達が入った牢の中で見たものは窓の日差しの中、笛を奏でる桃音の姿であった。 「あ、譲治? 璃凛も喪越も、あ、劫光もまた来てくれたのね。ユイス、ありがとう。本面白かったわ。真名や紫乃はいないの? 差し入れ楽しみにしてたのに。祐里やサラターシャも今日は一緒じゃないのかしら…」 笛を吹く手を止めて桃音は微笑んだ。 開拓者達が贈った根付が髪留めに結ばれていた。 「どう? だいぶ上手になったでしょ。練習したんだから」 片目を閉じる桃音。微かな憂いはまだ目元に残るが、寮生達に見せる彼女の顔は笑顔である。 「そう、なりね…」 譲治は頷いて 「流石、桃音なのだ!」 明るく笑った。 昨夜の調べと同じ曲。でも昼の日差しの中で聞く音は違って聞こえる。 窓の外から空へと響いて行く。 いつか、この音を邪魔するもののない、高い空の下で桃音が奏でたら、その響きは透に届くだろうか? 「よーし、今日はみんなで合唱するのだ!」 「お、今日こそはもっさんの出番か!」 「うちも混ざるで! 口笛やけど」 「上手く吹けるようになったまた新しい曲を教えてやろう。折々もいつかみんなで演奏しようと言ってたしな」 「香玉先輩に美味しい料理を作ってもらえるよう、材料を渡しておきますからね」 明るい笑い声と言う音が、小さな窓から春晴れの空に響いていった。 戦乱を終えた朱雀寮のある一日。 それは未来へ繋がる、ありふれた、でも輝く一日であった。 |