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■オープニング本文 体が凍えるようだった。片方の前足の感覚もない。降りしきる雨の中、彼女の小さな体はぱたりと地面へと倒れる。 (……もう、いいかね) 何の感慨もなく、心に呟いた。もう充分、生きた。このまま死んで……死んだら、またあの子にも会えるのだろうか。 『ハナ』 散々な目にはあったけど、久しぶりにあの子の声が聴こえたから。もう、良い。 「あーぅ、」 ふっと遠ざかる意識の中、耳元で聞こえた声。重い瞼を開けると、意外なものが飛び込んできた。 「あーにゃー」 3つくらいの年の子供が、しゃがみ込んでこっちを覗き込んでいる。ぽふぽふと、濡れた彼女の体を小さな手が叩く。身なりは粗末で、同じようにずぶ濡れだ。 「……おまえ、捨てられたんだね」 珍しくない事。働ける年まで育てられない貧しい家は、食い扶ちを減らすために子供を捨てに行く。その場所に、ここが選ばれたのだろう。 闇夜に、その子供のきらきらと光る瞳だけが彼女を嬉しそうに見つめていた。 「―― 生きたいか?」 ぽつ、と知らぬ間に言葉が零れる。生きたいか、それは誰に向けた問いだっただろう。 人間の行き着く先は決まっている。誰かを欺き、誰かを裏切る。たまたま村に迷い込んだ彼女は猫又だった。飢えに負けた村人たちは彼女を売っ払う事に決めた、そんな奴らのように。 痩せ細った体躯、焦点の合わない濁った眼―― あまりのしつこさに殺そうと決めたとき、あの子の声が聴こえた。 『ハナ』 耳に、心に、記憶に―― 飛来するように甦る、明るい声。追いかけてくる奴らとは全く違う、だけど同じ『人間』の声。術は発動しなかった。 「…ついておいで」 この先を、生きたいと思うのなら―― 食い入るように見つめてくる、まっすぐな瞳。 重ねる面影は、遠い過去。唯一、心の底から守ろうと決めた人間の子供。目を閉じ、面影を払う。 ひょいと尻尾を振って歩き出せば、楽しそうな笑い声があとから続く―― こうして1匹と1人は出会った。 「おまえまた伸びたかい?」 飛び跳ねるようについてくる姿を、ハナは見上げた。首を傾げ見下ろしてくるのは、しっかり自分の足で歩いている少年だ。 出会ったこの山で共に生活を始めて、もうどれだけ経っただろう。言葉も話せなかった子供は、好奇心旺盛な少年へと成長した。 「人間の成長は本当に早いもんだねぇ」 また服を用意しないといけないかと、面倒くさそうに肩を竦めるハナは、けれど嬉しそうだった。獰猛なケモノの中に生まれた変化、命が成長していく喜び。 少年―― イサザは、はっとして庇うように自分の服を抱きしめた。他は山の恵みで何とかなっても、人間であるイサザの衣服だけは、ハナが山を降り人里での稼ぎで買ってくる。 「大丈夫だって!おれ、まだ着てたいんだ」 だって服は、ハナがくれたものだから――。今までの服が大切にしまわれていることを知っているハナは、やれやれと視線を前へ戻して。 ―― とても、満たされた日々だった。このままこの場所で、共に暮らしていけたらと。 「……!」 ぴくり、とハナは鼻を動かす。風に乗って流れてくる、血の匂い。それは動物ではなく、人のものだった。 「ここで待ってな」 言い置いて、駆け出す。ただこの場所を人間に荒らされるのが不快だった。腐臭、転がる死体から流れ出した血が、紅黒く地を濡らしている。 「わ、なんだこれ!」 ハッと体を強張らせてハナは振り返った。好奇心を浮かべた瞳が、後ろからその死体を覗き込んでいる。 「待ってなって言っただろ……!おまえが見ていいもんじゃ」 「あ、ヒトかぁ」 見て、と細い手が紅黒く染み出た血を指した―― おいしそうな色、と。 無邪気な言葉に表情に、怯えも嫌悪感もない。赤く熟れた実を好んで食べていたことを知っている、それでも実と人間の血は違う。 「…イサザ、これは死体だよ。おまえと同じ人間が、死んでるんだ」 「そっか、じゃあやっぱり食べられないね」 震える声に、諭すような声音に、イサザが気づくことはない。 満たされた日々だった。再び見つけた大切なものと、このままずっと生きていくのだと。 「潮時…か」 けれど同時に同じくらい強く、このままでいられるわけがないと―― ハナは知っていた。イサザは、人間だ。猫又が人間である彼を育てられるわけがない。この隔絶された場所で、人間に必要な感情が育つはずもない。 不思議なものだと、息をつく。あんなに憎い人間なのに、それでも―― イサザには人間でいてほしいと思っているのだから。 草の上に屈みこんでいた荘介は、嬉しそうに笑った。命芽吹く春はもちろん、このしんと冷えた山の空気も嫌いではない。今みたいに春に向けた新芽を見つけると、心が躍る。 「あんた薬師か何かかい」 つん、とつつこうとしたとき、ふいに聞こえた声。何の気なしに振り返った荘介は、ずさーっと後ずさった。 「ねっ…猫又!?」 その視線の先、向けられた鋭い瞳は猫又だった。初めて見るものの、聞いたことくらいはある。猫にそっくりだが人の言葉を話す、とても獰猛なケモノだとか。 わたわた回れ右をしようとしたそのとき、ふと視界に赤が映った。刺すような視線は気にならなくなり、その赤一点に吸い寄せられる。 「怪我…いい薬草ならうちにあるよ」 血は止まっているみたいだが、菌が入れば悪化もする。 「……へぇ。変わった人間だ」 情けないへっぴり腰をしていた人間とは思えない姿に、猫又の鋭い瞳が僅かに丸くなった。面白そうに細められる瞳。 「あんたに決めた。頼みがあるんだ」 朱藩の開拓者ギルド―― ここを訪れるのは2度目だ。1度目のときは周りを気遣う余裕がなかったものだが、今も今で大差はない。 「客だよ。仕事持ってきたから、さっさと受け付けとくれ」 とん、と軽い音と共に机へと飛び乗った猫又は、銜えていた袋を無造作に足元へと落とした。ちゃりんと鳴る音は依頼料だろう。尻尾を振り、荘介を下がらせる。 「これはただの付き添いだよ。あたしらみたいな猫又が単独で来ちゃあ騒ぎになるんだろ?」 にやり、と牙を覗かせて猫又は笑う。それはその通りで、いつもの長閑な喧騒とは別のざわつきが荘介たちを取り巻くように沸いていた。 無駄な動揺を避けるために奥に通された猫又は尊大な態度を崩すことなく、じっと窺うように受け付け係見て―― そして話しだす。 「あたしはずっと、山で人間の子供と一緒に暮らしてたんだ。小さな頃に山に捨てられてた子供だよ」 想いは伏せ、猫又らしさだけを伝える。 「けど、もう面倒見るのはうんざりなんだよ。人間は人間らしく、人の中で暮らせってね」 子供を自分と山から引き離し、もう二度と戻ることはないように。人間の暮らし受け入れさせ、人間として生きていけるように。 ただし―― と、猫又はまっすぐに鋭い視線を放った。 「傷つけたら許さない。外も中も無傷で、あの子を人間の中へ戻す。それが依頼だよ」 |
■参加者一覧
喪越(ia1670)
33歳・男・陰
菫(ia5258)
20歳・女・サ
羽喰 琥珀(ib3263)
12歳・男・志
エレナ(ib6205)
22歳・女・騎
御凪 縁(ib7863)
27歳・男・巫
一之瀬 戦(ib8291)
27歳・男・サ |
■リプレイ本文 ● 「荘介は久しぶりだなぁ。相変わらずみてぇだな」 所在なさげに傍にいた荘介は、そんな声に勢いよく顔を上げる。懐かしい顔が笑っていた。 「御凪さん!」 御凪 縁(ib7863)、一歩を踏み出す勇気をくれた開拓者の1人だ。 「何となし昔も思い出したし付き合ってやるよ」 よほど肩身が狭かったのか飛び付かんばかりの荘介に、苦笑して。 「昔、ですか?」 「あぁ、昔だ」 その視線はハナへと向けられた。 「俺たちに考えがあるんだが、いいか?」 人間嫌いのハナを考え、修羅である一之瀬 戦(ib8291)が進み出る。縁と共に計画の説明ため近づくが、思いのほか強い鋭い瞳に遮られた。 「あんたたち、人間かい?」 とっさに取られた距離に、顔を見合わせる。 「俺は人間じゃねぇ。修羅だ」 「ま、初対面だし信用されねぇのは気にしねぇよ。そういう扱いには慣れてんぜ…修羅だしな」 一瞬見ただけでは修羅の特徴が見えないが、彼らが修羅として生きてきた事に違いはない。戦は淡々と告げ、縁は肩を竦めてみせた。 情けない。人間に―― 開拓者に助けを求めたのは自分なのに、それでも勝手に警戒心は湧く。 イサザの姿が浮かび、ハナは自分からその距離を埋めた。 (心も体も傷つけずに人の世界へ、か…素直じゃないな。本当に面倒くさいのなら、わざわざそんな条件を付ける必要もないはずだ) 話し合っている、その真剣な猫又の横顔に菫(ia5258)は思う。イサザという少年がハナを思うように、ハナもイサザを思っている。 イサザの事を聞いた羽喰 琥珀(ib3263)が、ギルドを飛び出していった。それを見送る無表情が、心配そうで。 (いい結果にしたいな…) ハナとイサザ、どちらも悲しまなくて済む結果に。 ● 細い山道を、琥珀は登っていた。やがて視界に映り込んだのは、暗い口を開ける洞窟と、その傍に座り込んでいる小さな少年。 「イサザ?」 びくっと体が揺れる。さっと立ち上がる様は、毛を立てて威嚇している猫のようだった。 「あー、俺は琥珀。ハナに頼まれて来たんだ」 近づくことはせず、琥珀は明るい笑顔を浮かべる。ハナの名前に、警戒する空気は解けて。 「ハナがもどってこないんだ。すぐもどるって言ったのに」 山を降りる事も大人しく待っている事もできず、洞窟の外にいたのだと幼い顔が曇る。 「大丈夫、ハナは町でイサザを待ってるぜ。アヤカシがこの山に出たから、避難しろって」 先日の死体、それがハナと因縁の敵であるアヤカシが関係しているのだと伝える。だから、ここにいては危険だと―― それはイサザを町へ連れ出すための計画だった。 「ほらほら、ハナと一緒」 へへっと笑って、自分の耳と尻尾を指す。 不安そうな顔、イサザがどれだけハナを大切に思っているかわかる。死にかけていた自分を拾って育ててくれた旅一座を、大切に思っている琥珀自身のように。 「琥珀は、ヒト?」 見た目は人間なのに、頭にふわふわの耳と、ひょいっと振られる尻尾が覗いていた。 どう説明したもんかと頭を捻る。修羅はもちろん獣人もエルフも、イサザは知らないだろう。 釘付けになっている真ん丸の目に苦笑して、山を降りることを促してみる。ひょいひょい動いている尻尾をじっと見て、イサザは頷いた。 初めて見る大量の人間、広がる建物、喧騒―― 見開かれたイサザの目がふいに陰った。 「浮世は地獄。ハッピーエンドは失われた、か。それでも生きてかなきゃなんねぇってんだから、神様って奴も酷な事をするもんだ」 ぬらり現れたのは喪越(ia1670)、イサザを神妙に見下ろしている。 「いや、終わらせようと思えば終わらせられる。それでも生きたいと叫ぶこの魂の律動が、答えなんだろうか」 そう言いながら動き出す体が刻むのが、なるほど、魂の律動なのかもしれない……だが、イサザには何を言っているのかわからなかった。熊のような大きな人間っぽいものが、ただ身軽く動いているのみ。 「これもヒト、かな…?」 「…たぶんな」 な〜んちゃって♪と締めくくる喪越は、颯爽と去って行った。 ● 計画を話し終え、イサザを迎えに外を歩く。余計なものは見ないで前だけを向いて歩いている、小さな影を縁は見下ろした。 「猫又のは、坊主にどう育って欲しいんだ?」 猫又に芽吹いた親心、口に出せば否定されそうな言葉だが間違いはない。ハナは首を傾げた。 「どう育って欲しい、か。考えたこともなかったねぇ」 もともと人間嫌いなハナにしてみれば、人間でいて欲しい、そんな自分の気持ちに気づいたのも、まだ最近で。 「人は自分勝手な生物だからな。修羅ってだけで迫害された事もあるし、人らしさなんざ分かんねぇよ」 前を見つめ、戦が淡々と言う。青い瞳が揺れ、ハナに向けられた。 「けど―― 血が人を狂わせんのも、其れがどんだけ恐ろしい事かも知ってっから、止めてぇって気持ちは分かる」 血生臭い場所でまともに人が育つ訳もない、と―― 一瞬、目を閉じ振り返るのは、今頃狂ってしまったかもしれない、置いてきた家族の事か。 地を濡らす赤黒い液体を見たときの、イサザの反応。このまま傍にいれば、イサザは人間ではなくなる。それが…怖い。 「イサザの傍にいりゃ、いくらでも思いつくと思うがなぁ」 二度と会えなくても良い、その覚悟の理由。視線を前に戻して、縁は問う。 「……あの子が人間に戻るには、あたしは不要なんだよ」 あたしだって憎い人間と一緒にいるのは御免だからね。取り繕うように、猫又の顔でハナは嗤った。 「…そーかい」 人嫌いになった経緯を、根掘り葉掘り訊く気はない。イサザをどう導くかが、鍵になるのだろう。 「坊主に伝えとくことはあるか?」 振って見せたのは紙とお守り袋だ。いつか成長したときに、読める様にと。 「手紙だって?まるで人間みたいだ」 くくっと嗤う姿は獰猛な猫又そのものだった。そのやり取りを見ていた菫が、前へ進み出る。 「…本当にそれでいいんですか?二度と会えなくなることを覚悟しているのなら、せめて感謝の気持ちは告げるべきです」 イサザがハナの元で大きく育ったように、イサザのおかげでハナ自身が得たものもたくさんあるはず―― 深い菫色の左目が、静かにハナに向けられる。 「ふん……考えておくよ」 瞠られた鋭い瞳は、ふいと逸らされた。 「戻ってきたようですね」 前を歩いていたエレナ(ib6205)が、振り返る。 ぴくりと立てたハナの耳に、懐かしい声が聴こえてくる。 「ハナ!よかった、ぶじだったんだね」 イサザが駆けてくる。しゃがみ込んでじっとハナを見やると、ほっとしたように笑った。 「あぁ、当たり前だろ?」 ふんと笑うと、開拓者たちを見上げて頷く。 「おまえも聞いただろ?山のアヤカシ、あたしはそいつを倒さないといけないんだ。もし倒せなかったら、今後も追い続けるつもりだよ」 だから―― おまえはここに残れ。 山は危険だと思わせ、町に留まらせることで人間に興味を持たせる―― それが、提案。 「いやだ」 「……イサザ」 「おれ、おとなしくまってたんだ!もうはなれるのはいやだ」 その反応を、ハナは予想をしていた。離れたくない、そんなの……気持ちは同じだ。 「そんじゃま、お前も来るか?」 睨み合いのような張り詰めた空気を、戦の声が破る。 この時の対応も、考えていたはずだと。無言の声に、我に返ったようにハナは目を瞬いて。 「わかった。しっかりついてくるんだよ?」 うん!と途端に嬉しそうに広がる笑顔。計画を理解していても、感情が追いつかない。面倒だと一蹴してしまえれば、楽なのに。 「私は猫又の他者を思いやる情を殺さない」 隣りから掛かった声は、エレナ。 かつては朋友として人と共に歩み、今は少年ただ1人に向けられる情。どこかつらそうな、その表情。 猫又に芽生えたその芽を、今は大切にしたい―― その手助けをできればと。 「…さて、あたしは猫又なんでね。情なんざ、持ち合わせちゃいないよ」 ハナは遠くに広がる山を眺める。後ろでは、楽しげに琥珀と話すイサザが明るい笑い声を上げていた。 ● 黙って、前を行く背に続く。山に入ったきり、ハナはこっちを見ない。 「ハナはおれが、じゃまなのかな…」 離れたくなかったからついて来たけど、一度も振り返ってくれないから怒っているのかもしれない。 「大丈夫、そんなことはないですよ」 独り言のように零れた声に、表情を緩めエレナは微笑んだ。決してハナが彼に対して負の感情を抱いているわけではないと、それだけは伝わるように。 「アヤカシだ――!」 瘴索結界の淡い光りに包まれた縁が声を上げた。その瞬間、めきっと鈍い音をたてハナとイサザを分断するように木が倒れる。 「ハナ…!」 「来るなっ」 鋭い声。怯むも、すぐに木を飛び越えその姿を探す。あっという間に遠ざかって行く姿を、必死で追いかけた。 ずっとこの山で、遊んで駆け回ってきた―― それでもハナたちの姿が近づくことはなく、やがて視界から完全にその姿が消えた。木の葉に足をとられ、べしょんと転がる。 あんな風に体が光れば、長い棒を持っていれば……彼らみたいにハナの隣りに行けるのか。 「イサザ、大丈夫か!?」 埋まったままの顔を、琥珀が慌てて助け起こす。ぼんやりした目がハナたちの消えたほう見ていた。 「道場って所で特訓すれば、すぐには無理だけど強くなれるぜ。ハナの邪魔になるのは嫌だって思ったろ?」 だから落ち込まなくていいと、元気づけてくる笑顔を見つめる。 「おれも、つよくなれる?つよく、なりたい」 邪魔になるのも、こんな風に置いて行かれる事もないように。 葉を揺らし、ハナたちの姿が覗いた。 「…捕まえ損ねたよ。あたしはこれからも、奴を追い掛けて行く」 うずくまったままのイサザへ、ハナが告げた。 「おれは、ハナのそばにいられないんだね」 「あぁ、ここは危険だ。おまえは町へ行くんだよ」 あたしもたまに、顔だすよ―― ほんの微か、イサザにだけ向けられる優しい表情。反論はなく、ただこくりと頷いて。 「こんどはおれが、ハナを守る」 駆け寄り、ぎゅうっとハナを抱きしめる。そうして、あとは振り返らず一目散に来た道を駆け下りていった。 琥珀とエレナのそれに続く姿を見送り、小さく息を吐く。 全ては、イサザが山まで着いてきた時の芝居だった。縁の力の歪みによって折られた木は、うまくアヤカシを伝えてくれた。 敵に対して無力さを教え、強くなる方法を町で見つけさせ学ばせる―― どうなることかと思った計画は、けれどしっかりイサザは受け入れたらしい。 「…手紙、頼んでもいいかい?」 「おう、勿論だ」 何を尋ねることもなく、縁は紙と筆を取り出した。 ハナは縁と戦をまっすぐ見上げる。まるで彼らを通して、イサザを見ているかのように。 「イサザ、おまえがいたから。あたしは、もう一度生きようと思えた」 降りしきる雨、本当はあの日…死んでいるはずだった。 「―― ありがとう。おまえのことは、ずっと忘れない」 菫の言葉を、思い出す。感謝するのは、あたしのほうだ。イサザは大切なものをくれた。大切なものと、もう一度過ごす時間をくれた。 また会おうとも、見守っているとも、伝える事はしない。 「…渡しておくぜ。絶対にな」 表情が繕われることはなく、ただ穏やかに思いを馳せているのだろう拾った1人の子供へ。 そんな姿に無意識に自分を重ね、縁は気づかれないように苦笑した。 ● 「こういう時勢ですから…大事な人を守る為に武器を持とうって人も結構いるんですよ」 イサザが望んだのは、強くなるための場所だった。多くの人間が木刀を持ち、鍛練に励んでいるのを食い入るように見つめる。 「だいじ、なヒト…」 「イサザさんの大事な人は…ハナさんですかね?」 ぽつ、と零れた言葉に、菫が微笑む。 「私も、自分の無力が元で大事な人達を何人も失いましたから…」 次は守り抜ける私を目指して…その誓い、思い出す大切な人たちに、伝える表情は穏やかながらも真剣だ。 木刀を見て、首を傾げる。 「ハナは武器もたないけど、ヒトにはひつようなのかな」 「そうですか…ハナさんは強いんですね」 沈みがちの表情は明るくなり、イサザは嬉しそうにハナの思い出を話す。 「人である事で学べることはたくさんあるんですよ」 「人は人に学ばないと強くなれないんだ。ココも使わねーと」 とん、と自分の頭を叩いて、琥珀は笑う。声が溢れていた場所から一変して、そこは静かな場所だった。子供たちが机に向かい、筆を走らせている寺子屋。 「あなたの服はハナが用意したのですか?」 真剣な横顔を見やり、エレナが話しかける。 「うん。ハナがくれた」 ぱっと顔を上げ、自慢げに両腕を広げて見せる。 「町で働けば、あなたもハナへ何かを贈れますよ」 「いーじゃん、親孝行って言うんだぜ」 何かを贈ったら、ハナも喜んでくれるかもしれない。服をもらえて嬉しかった、自分のように。 案内される場所は全てが物珍しく、新鮮で。強くなる場所だけじゃない、楽しさを感じられる場所を夢中で見て回った。 開拓者ギルドへの道を、歩く。イサザの町での暮らしは、ギルドが預かることになっているためだ。志体があるかも、調べてもらえるだろう。 「文字覚えたら手紙くれな。内容は何でもいーからさ」 「…うん」 元気づけるように、琥珀がぽんと肩を叩いた。縁たちに渡されたハナの手紙が入ったお守りを、ぎゅっと握りしめる。 ハナは傍にいない、それでも―― イサザは熱い目頭を、ぐいっと擦った。 「ここにいたか―― えーと、猫又のセニョリータ?」 名前呼ばれるの嫌なんだっけな…そんな呟きと共に、体を揺らしながら立っていたのは喪越。 視線の先、開拓者と話すイサザがいる。 「……セニョリータが一緒に移住しちまえばオールオッケーな気がするんだが」 ガシガシ頭を掻く喪越を見上げると、どう誤解したのか引っ掻かないで黒炎破で焼かないで!と楽しそうな声が上がる。 「…よっぽど、焼かれたいみたいだねぇ」 「……まぁ、それはそれとして、だ」 ふいっと逸らされる視線を、冷めた表情で見やった。 「聡いセニョリータなら、この時が来ることは容易に想像できたはずだ。もっと早い段階で人間の手に託していれば、簡単に済んだかもしれない事も」 因果応報。全ては縁のままに。責めているわけではないと、喪越はあらためた顔で続ける。 「ただイサザが変わるべき時が来たのなら、セニョリータだって変わってもいいんじゃねぇかな?と思うわけさ」 「今日だけで、あたしはずいぶん変わったさ」 こうして今、人間とも話しているだろうと。からかいを含んだ表情は、どこか人間くさい。 「でも、あたしの住処は山だ。それがあたしにとっても、人間にとっても一番いいんだよ」 人間が憎いからじゃない、今は。どこか穏やかに笑うハナの目にはイサザがいつまでも映っていた。 |