【夢夜】第三帝国の鳥籠
マスター名:やよい雛徒
シナリオ形態: ショート
EX
難易度: 不明
参加人数: 12人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2010/08/10 22:25



■オープニング本文

 かつて第三帝国と呼ばれる元首制的共和国があった。
 その政権を掌握した一人の男がいる。
 子供の頃に学問が苦手で画家を目指した男は、様々な経緯を経て歪んだ勤勉さで恐るべき獣となる。彼の所属した党は合法的な選挙に基づき、改選前第一党だった社会民主党を抜いて国会の第一党にのし上がった。やがて独裁による指導体制と軍事力による領土拡大を生涯にわたり押し進めていく。
 誰もが彼の名を知り、彼の名を叫び、そして呪い罵った。
『首相万歳!』
『首相に死を!』

 と、まぁそんな面倒な歴史の話はこの際、どうでもいい。


 アムステルダム市プリンセンフラハト二六三番地。
 一見、アムステルダム商人の商売用事務所兼倉庫の建物には重大な秘密があった。本棚に隠した秘密の扉。その向こうにあるのはヘツト・アハテルホイス……通称『後ろの家』と呼ばれる隠れ家。居間があり、食堂があり、台所があり、それぞれの家庭の個室と、五階の屋根裏の小窓からは協会の塔とスエズ運河を眺めることができた。
 ここに住んでいたのは、グリユーネ・ポリツァイすなわち秘密州警察に追われた罪なき人々だ。
 秘密州警察は、国内及び占領地におけるレジスタンスやスパイ、忌み血の人種狩り及び移送、反政府組織の摘発を行っていた。とらわれた者達の行く先、それは大方が悲惨な末路を辿っている。

 一九四四年七月四日。
 この日、屋根裏の扉が開かれた。集ったのは複数の男女。

『初めまして。今日からよろしく』

 見知らぬ者同士の出会い。
 足音一つたてられぬ日中の生活。
 泣き、笑い、失い、そして得た『なにか』と息を潜めて暮らした日々。
 そこは確かにボクタチの城だった。

 やがて訪れる、運命の日。
 永遠を輝く、最後の一ヶ月が始まった。


※このシナリオはミッドナイトサマーシナリオです。実際のWTRPGの世界観に一切関係はありません。


■参加者一覧
万木・朱璃(ia0029
23歳・女・巫
柚乃(ia0638
17歳・女・巫
花焔(ia5344
25歳・女・シ
エグム・マキナ(ia9693
27歳・男・弓
ナイピリカ・ゼッペロン(ia9962
15歳・女・騎
ミリランシェル(ib0055
18歳・女・吟
レートフェティ(ib0123
19歳・女・吟
長渡 昴(ib0310
18歳・女・砲
白 桜香(ib0392
16歳・女・巫
天霧 那流(ib0755
20歳・女・志
ネネ(ib0892
15歳・女・陰
央 由樹(ib2477
25歳・男・シ


■リプレイ本文

 一九四四年七月四日。

 後ろの家には、中央にテーブルのある比較的広い部屋がある。ここが居間だ。今日から一緒に暮らす六人は皆、家主の娘エリゼの案内を受けてから警戒心を解くことが出来ないでいた。
「さてしかし、どうしたものかのぅ」
 到着後、物珍しそうに家の中を見て回った豪奢な金髪の少女は、一同をぐるりと見回す。
「このまま石像をまねるわけにもいくまい? ひとまず名乗ろう。ワシはナイと言う。ぼーめー、というのをせねばならんと父上が言って、ここに匿ってもらうことになった」
 するとお互いに顔を見合わせた。す、と華奢な手が上がる。
「ユノリア。ずっと‥‥女学院の寮にいたけど、じいやが迎えに来て。私も追われる血統だったからって‥‥よく知らない」
 訳も分からないまま、連れてこられた。
 滲む涙を不憫に思ったのか、一人の娘がユノリアの細い肩を抱く。
「泣かない泣かない。はじめましてー? わたしはアンヌ。ユノリアちゃんと一緒で忌み血の人間でーす。両親がガチガチの選民思想持ちで面倒くさくなって家を出たけど結局、逃げまくり人生かなーって感じ。だらだらしたい人だから、迷惑はかけないと思います」
 あっけらかんとした物言いに空気が和んだ。
 刀を手にした娘が笑う。
「ふふ、失礼。最近暗い話ばかりだったから。あたしはセレーネ・クナウ。元々は普通に暮らしていたんだけど、父がスパイ容疑をかけられて、見ての通り秘密警察のお尋ね者ね」
 当の父親がいない。つまり、そういうことなのだろう。
 寂しげに微笑むセレーネの表情を眺めて、褐色の肌をした若者は「うぅーん」と唸った。
「なんや、ごっつぅ居づらいな。気まずい話で悪いんやけど、俺、ソレなんやわ」
 ぽりぽりと頬を掻く若者にセレーネが意図を計りかねて首を傾げた。
「口で説明しにくいんやけど、これが何か分かる奴おるか?」
 若者が腰から抜いたのは、一丁の拳銃だった。
 一斉に一歩、後ずさる。
「あくまで護身用やで? 安全装置かけてあるし。露骨にひかれると、俺も切ない」
 情けない顔で弾丸を取り出し、安全を証明してみせる。唯一、ナイが「ワシの生家に出入りしていた軍人も同じモノをもっておったぞ」と興味深げに眺めた。
「やっぱ、分かる奴がおったな。せや、これはワルサーP38。9ミリのパラベラム弾の第三帝国陸軍用自動拳銃や。八発を装填して画期的なダブルアクション機構をぅおおぉお」
 抜刀、一閃。
 反応が遅ければ、今のセレーネの一撃で彼の首はすっ飛んでいたことだろう。
「父と母の敵!」
「ちょ、待ってくれ! 最後まで話を聞いてくれ! 俺は確かに十八で帝国軍に入隊した。軍人やった。せやけど今は違う。エリゼ、なんか言ってやってくれ〜」
 男が救いを求めたのは、目を丸くした家主の娘だった。
「えっと、そのお兄さんの話は本当よ。お姉さんと一緒で、レジスタンスから保護を頼まれたって、お父さん言ってました」
 セレーネは葛藤の末に刀を収めた。
「あなたなんかに大切な人を殺された苦しみは分からない」
「俺かて‥‥目の前で殺された身内くらいはおる。せやからレジスタンスになった。スパイ活動がばれて追われたんや。罪滅ぼしとはいわへんけど‥‥絶対に軍に味方なんかせえへん」
 しぃん、と静まりかえった。
「なんや空気が重うなってしもたな。すまん。俺はヤン・アッパ=コルナーリャ。ヤンって呼んでくれ。で、おまえの名前は?」
 ただ一人。
 最初からこの後ろの家にいた少女。素足で壁に聞き耳を立てていた。
「ネ‥‥ャ・ゴ‥‥シュ‥‥ト」
 ヤンは耳が慣れなかった。
「ねねや?」
「ねねや、は違うって」
 先ほどまでユノリアを慰めていたアンヌが、ヤンの誤解を指摘する。
「訛りがあって、こちら風に言うと今のは『ネーミャ・ゴルトシュミット』です。ネネェミャ、ネヘェミャ‥‥『ネヘミヤ』が元ですね。ネーミャちゃん、私達と同じだね」
 ナイが首を傾げた。
「ネヘミヤは、ネヘミヤ記ハカリヤの子。『主は慰めて下さった』という意味で、所謂偉業を成し遂げた聖人の名前です。名前にヘブライ語を使うのは、我々だけですって」
 忌み血の者達は、ヘブライ語をファーストネームとして使うことが多々あり、そうでない人間にもすぐに分かることがある。さらに時代を遡れば、ファミリーネームを領主から買い取ったり、自然にちなむモノを名としていることが知られていた。
「ネーミャちゃん。お父さんとお母さんは?」
「お父さんは、楽譜と一緒に連れてかれた。お母さんは、バターを買いに行ったまま」
「それいつの話? 何時間くらい前?」
「一年前。ずっと待ってるの」
 粗末な一文人形を抱きしめる。
 当時の第三帝国では、かの有名なワーグナーが盛んに演奏されていた。首相がご執心だったからである。バイエルン州北部フランケン地方の小都市バイロイトで生まれたバイロイト音楽祭は、首相逼迫した財政に付け込まれるようにして格好の政党付帯音楽になり、強力なプロパガンダとして採用されていた。
 やがて第三帝国はワーグナーの他にも、ベートーベンをはじめ芸術の巨匠たちを次々と権威の象徴とした。とくに郷土を愛する無骨な音楽は首相の趣味と合致し、荘厳な音楽は国家の偉大さと結束を民衆に示すには絶好の手段だったのである。
 音楽家だったネーミャの父親は連れ去られた。母親も、もう生きてはいないだろう。
 この一年、ネーミャは家族の帰りを待っていた。
 たったひとりで。
 エリゼが友達を抱きしめる。それまでお互いを警戒していた者達が近寄ってきた。ヤンも、アンヌも、セレーネも、ナイも、ユノリアも。残される。その孤独を知っている。
 ユノリアが静かに語りかけた。
「私も人形なら持っているよ。お誕生日の贈り物なの。一緒に遊びましょ?」
「うん」
 こうして身を寄せ合うように、孤独を埋めるように、息を潜めて六人は暮らし始めた。


 一方。
 楽団を集めた町のホールでは、高位勲章をつけ軍服を誇らしげに纏った高官と、この地の権力者達が犇めいていた。軍拡・戦争体制の財政基盤を支える財政的支援者を得ることが重要なのは言うまでもない。なかでも一際注目を集める存在がいた。
 ユンカース財閥の現当主、ベアトリクスである。
 どこか幼さの残る容姿をドレスで包み、凛と立つベアトリクスは、僅か二十三歳で巨万の富を築いていた。先代ユンカース財閥当主、すなわちベアトリクスの父親が存命だった一九三六年頃、殺傷能力の高い中型爆撃機『ユンカースJu88』が開発された。以後、第三帝国の主力爆撃機や偵察機として起用され、父の後を次いだベアトリクスの発言権は日々増していた。
「これはユンカース様。今日もまたお美しい」
「相変わらずお上手ですね、教授」
 軍人が目を凝らす。
 教授と呼ばれた細身の若者は、大学で現政党を後押しする教鞭をとることで知られていた。そして教授もまた、少なからずユンカースの財政支援を受けていた。
「来月の講義、我が社を参考になさるとか。是非招待してください」
「ご期待に添えるよう精進致します」
 教授は用事があるからと会場を後にした。
 そんな彼らを遠巻きに見つめていたのは、大陸極東部同盟国大使館付きの海軍武官、長渡 昴(ib0310)だった。彼女は第三帝国の人種差別政策に批判的であり、大量殺戮を行う各軍支援者や協力者に対して嫌悪を示していた。隣の上官が楽しげに笑う。
「あ。あれユンカース財閥のお姉さんだ。ご挨拶しようかなぁ」
「お待ち下さい美芹殿!」
「なぁに?」
 同盟国大使館長は、護衛官の形相に首をすくめた。
「あれはユンカース社の権力者。帝国の支援者です! あれに組みするのは帝国と同じ。陰惨なやり様を許す事など、お上の御心に反します」
「声大きい。あそこのご令嬢はやり手だよー?」
 め、と上官に叱責された長渡が口をつぐむ。
 やがて一枚のメモが長渡に渡される。美芹は人差し指を唇にあてた。
「今日、貴女は休日だった。ここには最初からいなかった。酒場にいってみるといいよ」

 紫煙がくすぶる酒場に、長渡はやってきた。
 壇上の歌姫は華やかに身を飾り、楽器に合わせて歌いながら円卓の間をすり抜けていく。彼女はカザリン・ハールといい、ここの酒場の華だった。彼女の容姿や美声に惚れ込む男は、地元民や軍人だけに留まらない。
 酒場の男達は、皆が口を揃える。
『男ならば必ず一度、カザリンに恋をする』
「すみませんが、店主殿。一杯頼みたい」
「おすすめはジェネバだぜ」
 この時差し出された無色透明のジェネバ酒は、後世で言うジンである。ジュニパーベリーの爽やかな香りは広く好まれていた。
「いただきます。あの方は‥‥先刻の教授?」
 カザリンに見惚れている青年は、紛れもなくベアトリクスと会話していた大学教授だった。教授がなにやら隣の若者に手紙と花束を持たせて円卓から追い出す。若者は歌姫にそれを届けた。歌姫が教授の傍へと向かう。
「贈り物をありがとう、せんせ?」
 花束を口元に寄せて、優美に微笑む。教授が慌てているのが遠目からも見てとれた。
「店長や生徒の坊やを使わなくたって、あたしに直接渡してくだされば、すぐお礼が言えるのに」
 男達の嫉妬と殺気の入り交じった視線が教授に集う。
「あたしは会いに来てくれるお客さんを全員覚えてるわ。今日も元気かしら、って。せんせ、ある日突然、軍人さんみたいに来なくなったら、いやよ? 勿論ここにいるみんなもね!」
 たちまちトゲトゲした空気は霧散していく。
 長年酒場で働くカザリンの客あしらいは見事なものだった。勿論それは接客の一環であり、彼女自身が本気で彼らに好意的であったわけではない。第三帝国が巻き起こす政治状況を考えれば、一人でも多くの権力者と繋がっている方が有益であったし、ただ息を潜めて暮らすよりも、時には媚びを売った方が、遙かに良い生活を送ることができた。
「‥‥たくましいですね。しかし美芹様はなぜ、こんな場所へ」
「素敵でしょう? カザリンは自慢の従姉なのよ」
 突然現れた声に長渡が驚く。隣には白銀の髪をした娘が微笑んだ。
「アニー、裏の部屋を使いな」
「ありがとう店長。初めまして。私、アニー・レーデル。この辺では名前の知れた画家なの。貴女のこと、噂で聞いてるわ。やっと会えて嬉しい」
 アニーは長渡を人気のない場所へ連れて行く。
 窓の外を警戒し、扉に鍵をかけ、細心の注意を払って長渡に話しかける。
「ずっと探してたの。大陸極東の、アノ大使館の方でしょう? 大量の難民を受け入れた」
 長渡の母国では、およそ四年前、政府の命令を無視して大量の難民に母国通過ビザを発行した大使がいた。その件で強い抗議を受けており、長渡達他の場所にある大使館も第三帝国にいらぬ刺激を与えぬように配慮し、縮みあがっている者は多かった。
「私は別に」
「警戒しないで。私、亡命しつつある芸術仲間の伝手を使って、追われる人達の亡命を手伝っているの。貴女が帝国に批判的な事は調べがついてる。どうか手を貸して。この地方で有力な支援者を紹介するわ。きっと期待に添えるはずよ」
 そして長渡はここで、ベアトリクスを筆頭に意外な人物達の名を知る事になった。


 後ろの家では概ね平和な日々が続いた。
 差し入れの膨大なイチゴを六人でジャムにして、朝食も昼食もイチゴという大事件が続いたし、グリーンピース十キロの莢剥きには六人揃ってイヤになった。塩漬けのタンは御馳走で、バターの配分で喧嘩になったりしていた。
「ヤン」
 セレーネが部屋を軽くノックする。中を覗いた。
 若い娘と一緒には眠れない。と言った一人部屋のヤンは、拳銃の手入れをしていた。
「配給のメリケン粉、まだ残ってたはずよね。取ってきてくれないかしら」
 六人の中で家事を担当しているセレーネが言うと、ヤンは露骨に顔を顰めた。
「なんや。晩メシはダンプリングかいな。えらいねばっこくて、歯ごたえがあるし、胃にもたれるんやけどなぁ。また水でこねるの俺なんやろー? 差別や〜」
「文句言わないで。それに作るのはジャガイモのハーラよ。アンヌに聞いたの。メリケン粉と水だけの方がよかった?」
「いや、勘弁。にしても懐かしいな〜ソレ。育ての親が昔、祝日に作ってくれとったわ」
 追われる者達が祝日に食べる白パンだ。
「タマネギがないから、あくまで『なんちゃって』よ。期待しないで」
 セレーネは笑って扉を閉めた。
 居間に戻るとナイとネーミャ、アンヌが人形の衣装や道具を作っていた。
「アンヌ。ヤンが戻ったら作るから、ちゃんと作り方を指導して」
「わかってるって。また後で続きやるね〜。あ、ユノリアちゃん、二人をみててくれない?」
 立ち上がったアンヌが、部屋から出てきたユノリアに声をかける。
「うん‥‥いいよ。私も人形をとってくるね」
 部屋へ戻るユノリアの後ろ姿を見ながら、ナイが物言いたげにアンヌを見上げた。
「わたしの顔、なんかついてる?」
「そうではない。じゃがワシもネーミャが怪我をしないよう、見ているくらいは出来るぞ」
「けどナイちゃん、よく針で指をさす‥‥し」
 そこまで言って。ははぁ、とアンヌとセレーネが微笑ましげにナイを見つめる。
「な、なんじゃその顔は。ええい、やめよ! やめよと言っておろうが!」
 ナイは顔を赤くし、小声でわめいた。
 つまるところナイは『お姉さん』になりたいらしい。共同生活をしていて分かったのは、ナイが何不自由なく暮らす家の娘だったという事だ。
 こんなエピソードがある。
 夜、ナイは寝台の横に立ちつくしていた。「着替えないの?」とネーミャが尋ねると。
『むう! 寝巻を自分で着替えて良いのか?』
 嬉々として着替え始めた。面白そうに。つまり着替えにすら使用人がいる上流家庭だったのだ。当然の事ながら身の回りのことは、ここで初めて覚えた。同じ年頃の子供と寝起きすることも初めてで、ナイは何かと年幼いネーミャの世話を焼きたがる。
 ただし。
 一年も隠れ住んでいたネーミャの方が、色々と上手なのはご愛敬だ。
 真っ赤になって怒るナイの袖を、ネーミャが引いた。
「多い方が楽しいよ。お姉ちゃん」
 この一言に弱い。
「おお、勿論だとも! ワシもそう思うぞ! ユノリアはまだか」
 笑顔だ。ユノリアの方が一歳年上なのだが、身長はナイの方が若干高い。まるで妹が二人できたような気分になるのだろう。
「あら。エリゼは?」
「先ほど戻ったぞ。後で下でピアノを弾いて聞かせてくれるそうじゃ。それと今日はお客を連れてくるから、楽しみにしていてと言っておったぞ?」
 家主の娘は頻繁に出入りしていた。よく混ざって人形遊びをしている。
 話し込んでいる内にユノリアが戻ってきた。

 この日、会社には懇意の画家がやってきていた。
 仕事を見せたいと身内をひとり連れて。いつも通り絵を買ってもらうが、今回は肖像を描くからと、終業時間まで残り、普段とは違う『後ろの家』に向かったのだ。
 エリゼのお客様とは、この二人の事だった。
「話が違うわ!」
「貴女なら、理解してくれると思ったの」
 画家アニーは、従姉のカザリンを住人達と引き合わせた。カザリンは前々から連中を匿うなんてあり得ないと憤慨しながら、アニーの為に沈黙を約束していた。
 それが。
「お願い、カザリン。第三帝国の軍人から情報を得るには、どうしても貴女の力がいるの」
 歌姫は信じられないモノを見るような目で、彼らを眺めた。
 過酷に制限された食事の中で、痩けていく頬と四肢。擦り切れた衣服。肌の色の違う青年が、幼い少女達を守るように立っている。全員顔立ちが違う。まだ親の手が必要な娘達だった。足音を立てない為に、靴を脱いだ足は傷だらけだ。
「アニー」
 画家は従姉の言葉を待った。
「会わせるなんてずるいわ。あたしだって洗礼受けてんのよ。こんな姿見せられたら」
 見殺しに、できない。

 その日の夜の話である。
「なにしてんの?」
 寝ずにひたすら作業するユノリアの手元を、同室のアンヌがのぞき込んだ。
「日記。その日一日あったことを書きとめておくの。楽しかったことも辛かったことも全部‥‥忘れないように。今日はお客様がきたから‥‥沢山書くつもり」
「‥‥あたしも書こうかな。おそろいでいいじゃーん?」
 しかしアンヌが三日坊主なのは、この頃のユノリアは既に理解していたという。


 酒場は毎夜、歌声で飾られる。
 けれど幾つか変わったことがあった。
「ねぇ、軍人さん。連中の摘発は続いているの? 早く一掃されて欲しいわ。そうすれば毎晩、あなたに会えるし、ね?」
 歌姫が軍人びいきになり、疎遠だった従妹と頻繁に会うようになった。時には早々に切り上げてしまうという。酒場の男達は歌姫の変化に納得こそすれ、疑うことはなかった。
 この世の中だ、歌姫だって軍人がいいにきまってる‥‥と。
「店主殿。預かってくれますか」
「あいよ」
 長渡が立ち去るのを、教授の目が追いかける。多くの社交に招かれるうちに、教授は長渡が何者なのかを理解した。そして長渡が消えた後、あの手紙を受け取るのが一目惚れした意中の歌姫だと知る。
 ふと、思いついた。
 急いで恋文を書き換える。
 それはひとつの『賭』だった。

「ふふん、見なさいな。じゃーん! 絹の靴下よ!」
 女性の声が、後ろの家に響き渡る。
 頻繁に出入りするようになったのはエリゼだけではない。散々アニーに批判的だった歌姫は、今や後ろの家にとって大きな支援者の一人となった。
「こんな高価なもの。あたしが貰っていいとは思えないわ」
「いいのよ。あたしはいつでも手に入るんだから」
 手を振って、レースや絹の衣類をセレーネに渡す。
 一定以上の教養を持つアンヌやセレーネ達には、カザリンの持ち込む品がどれほどの価値を持つのか薄々分かっていた。
「軍人から巻き上げるのも結構愉快だわね。好きでやってるから平気よ」
 平気な訳がない。
 軍人から思うがままに巻き上げる。つまりその分、カザリンの犠牲が大きい。一晩くらい、と心で舌打ちして笑顔を作る。その恩恵を受けていると悟ったセレーネが微笑んだ。
「ありがとう。ユノリア、ナイ、ネーミャ。後でお揃いの髪飾りを作ってあげるわ」
 今や家族のような少女達に、少しでも娘らしい装いをさせてやりたいと思う。
「ヤン、レジスタンスからの文書よ。酒瓶のラベルの裏」
「いや、助かる! って、首相の暗殺計画があったんかー、おしいやっちゃな」
 それは七月二十一日、金曜日に届いた吉報の一つだ。
 阻まれてしまった計画ではあったが、純潔の第三帝国軍人の伯爵が首謀者という驚くべき内容で、帝国が外部からだけでなく、内部からも綻びが大きくなっていることを示すものだった。当然『いつか』という飛躍した想像が飛び交い、家の中は明るくなった。
「これ何でしょう?」
 エリゼが拾い上げた一枚の封筒。
「あらやだ。あたし宛の手紙じゃない。間違って持って来ちゃったのね」
 無造作に手紙をひらき。
『愛しいヒトへ』
 固まった。
『今まで気づけなかった事を許してください。最近やっと、確信が持てたのです。何故あなたが変わったのか。軍人達と奥へ消えるのか。事情をお察しします。あなたは今も昔も、優しい人だ。僭越ながら、私は連中や権威者との接触が多い。あなたが望まぬ事をせずにすむよう、お望みとあらば愛の手紙に変わって、花と共に捧げましょう』
「具合悪いの?」
『変わらぬ愛を手紙と共に。‥‥教授』
 エリゼがカザリンをのぞき込む。
「な、なんでも、なんでもないの。大丈夫だから」
 顔を覆う指の間から零れた滴が手紙に落ちて、差出人の署名を溶かした。

 あの夢を見る日は、決まって悪いことの予兆だ。
 ベアトリクスは寝室で頭を抱えていた。財閥の当主を悩ます悪夢。愛する男と引き裂かれた古い記憶。日々の矛盾する苦悩。愛した男と同じ追われる人々を助けたいと思い影で手助けする自分と、父の後を継ぎ、爆撃機を作り続け、第三帝国に支援する権力者の自分。
「ベアトリクス様!」
「なんですか? こんな早朝に」
「秘密警察が、密告を一件掴んだと」
 その言葉にベアトリクスは一気に覚醒した。スパイからの報告は、自分が支援をしている対象の家を示していた。
 同時刻、教授の元にも知らせは届いていた。彼は手足となっていた生徒達に亡命を指示し、次に『彼ら』を逃がそうとしたが‥‥残念ながら叶うことはなかった。

 一九四四年、八月四日。
 市内では気温も上がり、静かだった。目の前の運河が日光を照り返し、事務所では社員が各自の仕事に従事していた。倉庫兼作業所では、スパイスを挽く機械がごろごろと動いている。運河沿いの道には相変わらず大量の車が駐車し、何一つ違和感は存在しなかった。そう、倉庫のど真ん中に、車が止まっている点を覗いては。
 降り立ったのは、秘密警察だった。来るべき日が来てしまったのである。
 誰かが密告したのは明らかだった。
 秘密警察がついに秘密の扉に辿り着くと、エリゼは泣いて縋った。
「私の物が置いてあるだけなの! 入っちゃダメ!」
「やかましい。バートリエッラ、排除しなさい」
 この時の担当官トランシェッバ・ジルバーバウアーはため息を零して同僚に指摘した。
「命令しないでよ! はいはい、おじょーちゃん。静かにしてね」
 うるさいと打ち抜いちゃうわよ、と拳銃を口の中に押し込む秘密警察の姿に皆が震え上がった。そんななか、毅然と拳銃で立ち向かったのはヤンだった。こういう時の為に鍛えてきたのだ。
「はよ逃げろ! 生き延びるんや!」
 しかし出入り口は阻まれている。そして。
「コレが見えませんか? 銃を置いて、膝をついて手を挙げなさい」
 口の中に拳銃を押し込まれ、悲鳴も出せない家主の娘が視界に入る。
「エリゼ! くそったれが‥‥それでも人間か!」
 歩み寄ったトランシェッバがヤンの拳銃を足で蹴り飛ばした。反抗されては困るからだ。
「ワルサーP38。陸軍の銃ですね。どこであれを?」
「俺のや」
「従軍してたの? やっだー、しんじらんない」
「バートリエッラ黙りなさい。‥‥あなたは、なぜそう言う身分だと届け出なかったのですか? 少なくともテレジエンシュタット労働収容所へ送られるだけですんだかもしれない。手心が加えられたかも知れないのに」
「俺の育ての親は、収容所行きを拒否した」
「親に従ったのですか? 愚かしい」
「たった一度、反抗した。それだけで義母さんは頭を打ち抜かれたんや!」
 獣の咆吼にも似た声にトランシェッバは押し黙った。哀れむような眼差しが見え隠れする横で、女の秘密警察はエリゼを解放してヤンに歩み寄った。
「じゃあ、親孝行でもすれば?」
 ゴゥン‥‥!
 眉間に一発、打ち込んだ。ヤンが崩れ落ちる。その時、セレーネが地を蹴った。
 修羅の形相をしていた。
 思い残すことは何もない。失うものは何もなかった。ヤンを打った女めがけて白刃が閃く。拳銃よりも先に、刃は女の片腕を捌いていた。響く絶叫。トランシェッバに打たれて利き腕の自由を失っても、セレーネは不敵に笑った。
「捕まって死ぬよりマシだし、せめて最期は自分で選びたいわ。その目に焼きつけなさい」
 秘密警察を睨みすえたセレーネは、左手で刀を拾い上げ、己の首筋にあてた。
「セレーネ!」
 悲痛の叫び声にセレーネが振り返る。優しい、あの微笑みで。
「ナイは、もうお姉ちゃんなんだから。大丈夫よね? 少しだけ目を閉じていて」
 首筋から間欠泉のように血が吹き上がった。ヤンの上に、セレーネの骸が重なる。
「いやあぁぁあぁ!」
 守れなくてごめんね、と唇が動いた。セレーネの瞳から命の火が消える。
「全く。支度をしなさい。全員、五分以内にここへ戻ってくるように」
 泣いている暇はなかった。
 ナイ達は荷を纏める。アンヌは諦めきった顔をしていた。ユノリアは日記をベッドの裏に隠し、ネーミャは人形と楽譜を隠した。かくして金目のものを根こそぎ奪われ、死体を置いて、秘密警察は四人をさらった。

 放置されたままの遺体。
 放心状態のエリゼの耳に、足音が聞こえてきた。画家のアニー、歌姫のカザリン、そして教授の三人だ。本来なら、今日は記念すべき日になるはずだった。アニーは長渡と結託して逃亡経路を確保していたし、教授も初めて顔を出すつもりでいた。カザリンはしつこい軍人に手間取ってはいたが、新しい物資を送り届ける予定だった。
 ところがどうだ。
 荒れ果てた室内。床に転がる二人の遺体。泣くことも忘れたエリゼが一人。
 誰が密告したかは分からない。でもこれは酷すぎる。
 返してくれ、と叫んだ。
 昨日まで、ここにあったぬくもりを。
 カザリンは蹴り飛ばされたままのヤンの拳銃を見つけて拾い上げた。初めて持つ拳銃なのに、しっくりと手に馴染む。そして悟った。ああ、この銃は、もう手放せない。
 教授はユノリアの日記とネーミャの隠し持っていた楽譜を発見した。これらは後日、亡命する生徒達に託される。
 そしてまた。
 ここへ来るはずだったベアトリクスは、部屋で悲しみに暮れた。
 早朝報告を受けたベアトリクスは、六人を守るために部下を連れて徹底抗戦を挑もうとしていた。だが今は部屋に軟禁されている。彼女はユンカース財閥の当主であり、腹心は主人の気持ちを理解しつつも、その権威の失墜を恐れたのである。優秀といえば優秀な部下達である。ベアトリクスが保護しているのは他にも沢山いる。部下達はそれを知っていた。女主人を失うわけにはいかなかった。
 一人でも多く生きて欲しいのに、巨大すぎる力を思うがままにふるえない。
 若き当主の苦悩が、そこにはあった。


 二〇一〇年現在。
 六人が暮らした『後ろの家』はミュージアムになっている。
 パネルで当時の生活を眺め、ボックスの中には日々遊んでいた人形などの遺品が並ぶ。
 ネーミャの隠し持っていた楽譜は現在、偉人の失われた楽譜として脚光を浴びている。
 ヤンとセレーネが力つきた場所には、今も黒いシミが残っていた。驚くべきは、この二人だけ、町はずれに墓が現存することだ。ヤンとセレーネの墓を作ったのはベアトリクス・ユンカースである事が分かっている。
 収容所に送り込まれたアンヌ、ユノリア、ナイ、ネーミャの四人は全員がベルゲン=ベルゼン強制収容所で死亡した。聞き込みから死亡時期は判明しているが、実際何日になくなり、何処に眠っているのか、埋め立て跡から探し出すのは不可能に近い。
 アンヌの出自はさっぱりだが、ナイの生家もはっきりしない。本人が頑として語らなかったからだ。ただ後に発見された『ユノリアの日記』から、ナイの振る舞いや言葉の訛り、絵画に残る容姿の特徴からして、第三帝国の遙か南、ドーナウ河の東南、ミュンヘン周辺の良家の息女だという見解を示す研究者は多い。
 結局、エリゼが待ち続けた家に帰る者は、誰一人いなかったのである。
 帰ってきたのは一枚の絵画。
 かつて著名だった画家アニーの作で、この画家はある一時期から全く同じ人物を描くようになっている。恐らく、後ろの家の六人を忘れられなかったからだと研究者は語る。
 また画家アニーの従姉は、革命の女神として世間では有名だが、後に出版された『ユノリアの日記』によると歌手であった事が分かっている。彼女と唯一、連絡をとり続けた相手(名前不詳)がいるが、彼宛の手紙に興味深い一説がある。
『今でもはっきりと思い出すのよ。空っぽになったあの日のこと。あなたは、あたしが手を汚すのを嫌がるでしょうね。でも地獄に堕ちる日まで、この手から銃を離さない』
 カザリンの持っていたワルサーP38は、国立博物館で見る事ができる。
 余談だが、手紙の相手は我々の恩師である。と『ユノリアの日記』の出版者は語っているが、帝国に屈していた大学教授(生没年不詳)との関係は、正確な裏付けはとれていない。ただしメロぺーという名でレジスタンスに協力していた長渡の軌跡を辿ると、時々彼の名があり、研究の価値はあると見ている。

 また本著を書くに辺り、資料提供と多大なご協力をしてくださった万木・朱璃(ia0029)、柚乃(ia0638)、花焔(ia5344)、エグム・マキナ(ia9693)、ナイピリカ・ゼッペロン(ia9962)、ミリランシェル(ib0055)、レートフェティ(ib0123)、白 桜香(ib0392)、天霧 那流(ib0755)、ネネ(ib0892)、央 由樹(ib2477)十一名の研究者の皆様と、長渡一族の子孫に御礼申し上げる。

 最後に。
 教授の愛弟子により出版された『ユノリアの日記』には、幾つか有名なくだりがあるが‥‥幸せな記憶を示して筆を置きたい。

『今日、ついにアニーの油絵が完成しました。私達の六人の肖像です。家族みたいだった。エリゼやカザリンも入れば良かったのに。アンヌは少しけだるそうで、美人なのにもったいないと思う。そうそう、ネーミャのドレスはネーミャのお母さんの服なので、ブカブカだったのを覚えてる。アニーがサイズを直して描いてたわ。背筋をぴんとのばしたヤンは立派に見えて、やっぱり元軍人さんだと思う。ナイは豪華なドレスだった。セレーネはまるでお母さんみたい。学校の皆は元気かな‥‥お父さんとお母さんに会いたい。そういえば、もし私達が家族ならって話しました。沢山人形遊びを沢山して、色んな土地へ旅行に行くんだわ。考えるだけで楽しい。でも私達はみんな信じています。いつか怯えなくても良い日がくるって。きっと六人でここを出ているはずです。そう、きっと‥‥』

 ユノリアの日記は、ここで終わっている。

 サギシ出版『ホロコースト〜『後ろの家』の家族たち〜』(本文より抜粋)
 二〇一〇年 八月           ジャーナリスト ヤヨイ・ヒナト