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■オープニング本文 薫る風に虚空を舞った桜の花が、最期に墨染川を泳いでいく。 水面には沢山の小舟の姿があった。 ここは五行東方、虹陣(こうじん)…… 五行の首都結陣から飛空船に乗り、渡鳥山脈を越えて北東に進むと見える里だ。 かつて裕福な人々の屋敷が建ち並んでいた地域だが、現在は『魔の森』の拡大に伴い、裕福な層は土地から撤退し、寂れていった。 しかしそんな寂れた里にも祭は息づく。 虹陣では現在、桜が見頃である。 あらゆる場所に植えられた桜は、春になれば虹陣を薄紅に彩り、かつての栄華を感じさせる。桜の開花が桜祭の開催合図となり、田舎の河川敷に連なる桜の木々を楽しもうと、地元人は勿論、観光客も多くが足を運ぶ。 そして今。 桜祭で注目を集めているのが『花渡り』である。 墨染川を埋め尽くす薄紅色の花弁。 花の上を渡るようだ、と。何処かの詩人が詠んだらしい。 桜祭の頃になると、墨染川は一面が桜の花で満たされて、ほんのりと花香る幻想的な景色になることで広く知られていた。 + + + 「舟守のお仕事がきてますね」 「舟守?」 舟守とは、いわゆる船の番人である。 といっても今回の仕事は、大型飛空船などの護衛などではない。 川などを渡る小さな船の漕ぎ手が一時的に不足するので、手伝ってくれないかというのだ。 「数日間、みっちり仕込んでくださるそうですよ」 仕事は簡単だ。 小舟を操り、ただひたすらに決まった順路を通るだけ。 客は小舟の中から満開の桜を楽しんだり、親しい者と一緒に小さな宴を楽しむのだ。 「結構。重労働だそうですから……お仕事は昼間だけ。夜は自由にして宜しいそうです」 そこでふと思いつく。 夜に客として小舟を楽しむのもいいかもしれない。 或いは。 夜に小舟を借りて出かけ、ひっそり一人で桜を堪能することもできる。 暇なら行ってみてはいかがでしょう、と受付は笑った。 そして忙しくも充実した日々が過ぎていった。 茜の空に闇の帳が落ちていく。 さぁ、桜祭の夜がくるよ。 |
■参加者一覧 / 北條 黯羽(ia0072) / 鈴梅雛(ia0116) / 羅喉丸(ia0347) / 柚乃(ia0638) / 礼野 真夢紀(ia1144) / 水鏡 雪彼(ia1207) / 露草(ia1350) / 御樹青嵐(ia1669) / 弖志峰 直羽(ia1884) / 輝血(ia5431) / からす(ia6525) / リエット・ネーヴ(ia8814) / フラウ・ノート(ib0009) / フェンリエッタ(ib0018) / ジークリンデ(ib0258) / 萌月 鈴音(ib0395) / 薔薇冠(ib0828) / レビィ・JS(ib2821) / ウルグ・シュバルツ(ib5700) / アルセリオン(ib6163) / フレス(ib6696) / サミラ=マクトゥーム(ib6837) / ケイウス=アルカーム(ib7387) / 月雪 霞(ib8255) / フタバ(ib9419) / 黒曜 焔(ib9754) / ルース・エリコット(ic0005) / 桃李 泉華(ic0104) / 能山丘業雲(ic0183) / 紫ノ眼 恋(ic0281) / 金時(ic0461) / 白雪 沙羅(ic0498) / 紫上 真琴(ic0628) |
■リプレイ本文 墨染川沿いに咲き誇る、満開の花。 風に遊ばれて舞い散る花が水面を薄紅に染めていく。 これこそが花渡りと歌われる、美しきうつつの夢に他ならない。 日々色彩が移ろう薄紅の芸術を知り尽くすのが、虹陣の舟守たちである。 舟守仕事を引き受けて虹陣へやってきた開拓者は、皆が皆、最初から小舟を操れるわけではない。 勿論、中には何度目かの舟守仕事だから慣れたものだと笑う者もいて、小舟と舟を操る木棒を渡された途端、すいすいと川を泳ぎ、客引きをして営業を始める者もいたが……、当然人生で一度も舟に乗ったことのない者も多く、その顔は青ざめていた。 興味はあった。 花渡りと揶揄されるにふさわしい、美しい景観だとも思う。 しかし客として小舟に乗ることと、自ら小舟にのって自在に操ることは全くの別世界の話である。 到着初日。ルース・エリコット(ic0005)は緊張な面持ちで、熟練の舟乗りに尋ねた。 「舟を見た、事もなかっ……た私、にも……できま、すか?」 「慣れだ、慣れ。大丈夫、大丈夫」 なんてアバウトな話だろう。 エリコットの表情から緊張がとけない。 まずは感覚を確かめる為、客が座る場所に乗って、立ち続ける訓練を強要されたが、これがまたひどく揺れる。舟尾に立って小舟を支える舟守たちの凄さを感じずにはいられない。すっかり自信をなくしたエリコットに声をかけたのは、同じ年頃のリエット・ネーヴ(ia8814)だった。 「どーしたじぇ? 今回の仕事で困ったこと、あった?」 「私……砂漠、出身だから……水の上の、小さな舟に、乗ったこと……なくて」 あんな風に操れたらいいのに、と熟練の舟乗りを羨望の眼差しで見つめる反面、いざ自分が舟守になったら、小舟が転覆するのではないか。うまく操れずに、激しい水圧に流されてしまうのではないか……、という不安が消えないらしい。 ぽそぽそ小声で恐怖心を吐露するエリコットに、ネーヴがにこりと笑いかけた。 「リエットゆーの。よろしくねぃ! 一緒に訓練すれば問題なし、だじぇ、最初の舟の操作は私がするじぇ〜!」 きょとん、とネーヴを見たエリコットも漸く顔が綻んだ。 「はい! お願い……します、ね。リエット……さん。ありが、とう」 まずは流れのない水面で舟尾に立つ訓練。木棒で水底をつついて小舟を動かす業。緩やかな川で波に揺られる感覚。大波に揺れても、小舟を安定させる技。 舟守の訓練は、非常に過酷だった。 朝から晩まで、手にマメができるほど訓練を重ねた。 実際、何度か墨染川に落ちた。 それでも連日の訓練を経て、一介の舟乗りとして操れるようになると、やはり自信もついてくる。ネーヴとエリコット。二人ひと組で、舟守役とお客役を交代で努め、いつしか単独で川を横断するまでになっていた。川に落ちるエリコットを助けていたからくりのおとーさんも、すっかりお役御免になっている。 「ふわ! 本当に不思議な花……ですよね。すぐ、散ってしまうのに……とても綺麗」 「う? この樹? これ桜って言って天儀の花じぇ」 皆この花目当てで来るのだと、ネーヴは笑った。 明日からついに舟守仕事。桜の舞う上空を悠々と泳ぐ、駿龍レグレットに手を振った。 一方で、必要以上に舟の操作を学ぶ勉強熱心な者もいる。 「もうじき見納めねぇ」 フラウ・ノート(ib0009)は初日こそ船の操作に手間取っていたが、日が経つにつれて一人で舟を操り、営業を済ませた後の休憩時間には、川沿いの桜並木を見上げて感嘆の声をあげていた。 「……本当に桜、綺麗ね。五行の桜をじっくり見てる暇……なかったからよかったわ」 だれにともなく独り言を呟き、瞼を閉じる。 指先の感覚で木棒を操った。初日は喋りながら舟を操作することすら、尊敬の眼差しで見てしまうほどだったのに、今は瞼を閉じていても舟を安定させられる。 「いい香り。決めた、明日の絶景案内は此処にしましょ。枝垂れ桜の下を潜るのも素敵ね。子供が手折らないように気をつけなきゃ」 上機嫌のノートは手元の地図に、案内場所を書き加えた。 船守の仕事についてから、金時(ic0461)は毎日、持ち舟の手入れをしていた。 傷んだ場所を補修し、塗装を塗り、客商売に恥じぬ舟であり続けた。 そんな几帳面な金時とよく話をしていたのが、薔薇冠(ib0828)だ。久しぶりに再会した友人と話に花を咲かせてから、仕事の合間や夜の暇な時間を、操舵技術向上の為の訓練に費やして、切磋琢磨していた訳だが……その日の夜は薔薇冠の誘いで客として食事を囲んでいた。 「ふむ、見事な桜じゃのぅ。金時殿、おぬしもそう思わぬか」 薔薇冠曰く『なかなか』の評を得た茸弁当をつつきながら、二人は夜桜を見上げていた。 「そういえば、今回はわしの好みで決めてしまって、おぬしの食の好みを聞いておらんかったなぁ。明日は別の弁当にしようではないか。希望はあるか?」 「好み?」 金時と何気ない会話を重ねる日々。 開拓者という生業が基本である以上、殺伐としやすい日々を送る二人だが、こうして桜に満ちた夜の小川を渡れる日々は、戦で降り積もる心の澱を、何処かへ押し流していくに違いない。 「満開の桜が、川面に映ってすごく綺麗です」 鈴梅雛(ia0116)は花渡りを堪能しながら、食事に舌鼓をうっていた。 お客になる暇もなく舟守として仕事をこなす日々が続き、ようやく客の側を堪能するに至った訳だが、桃色の極彩色と香りの中で楽しむ宴会は格別と言える。 「鈴音ちゃん! 真っ白な桜のところに来ましたよ! ね、鈴音ちゃ……」 ふあぁぁぁああぁぁぁぁ……、と。 地の底まで響くような溜息の主は、萌月 鈴音(ib0395)だった。 仕事に来た初日は山の方を眺めて、何故か安堵の溜息を零し、街中の平和さに喜んでいたというのに、日を追うごとに纏う空気が澱んでいた。 雛が耳を近づけてみる。 すると。 「生成は倒しましたが……置き土産とか、……残党も多いですし……何を企んでいるやら、後始末も……やらなきゃいけない事が……沢山です」 萌月、悩み尽きず。 「もう! やっと生成を倒せたんですから、今日はゆっくりしましょう。ね」 「雛ちゃん? あ、はい……桜を見て……ぼーっとするのも、良いですね」 忘れよう、今だけは。 この美しい桜並木に、心を預けて。 ところで。 舟で懐石料理を頼んだフレス(ib6696)達は、果たして何を食べていたのだろう。 小舟に作られた個室は畳張りで、居心地の良さを極めていた。 長机の上に広がる、漆塗りの膳が目に眩しく、桜の箸置きが微笑ましい。 緑鮮やかな枝豆豆腐の滑らかな舌触り。 虹鱒を象った器に盛られた筍煮は繊細な味わいで、菜の花の辛子和えがピリリと舌を刺激し、大豆の甘煮に添えた白髪葱が風味を引き立てる。 岩塩から砕いた抹茶塩で食べる山菜の天麩羅は香ばしく、鰹のタタキには白ネギと青ネギに大根おろしが瑞々しさと彩を添え、甘エビとイカの刺身には、黄色い花を咲かせた小さな胡瓜が彩りを添えていた。 お吸い物の浮き身には素麺を大根で巻いた具と、とろろ昆布に三つ葉とレモンの薄切り。 焼き物には塩窯焼きの虹鱒を選び、馬鈴薯と白米を練った塩味のおはぎ団子には、淡雪に似た白い餡にクコの実二粒と柚子わさびをのせて。 「舟の上で、お友達と素敵なお花見をしながら、豪華なお食事だなんて……夢のようです」 白雪 沙羅(ic0498)は頬に手を当てて絶品料理を堪能する。 時々、は、と我に返っては紫上 真琴(ic0628)やフレスに花湯を渡していた。 紫上がごくりとお茶を一口。 「んー、お食事が美味しい。花香る川っていう隠し味がまたいいね。沙羅とフレスは何か好きなものある?」 「えっと私は天ぷらとか好きかな」 「じゃフレスには私の分、少し分けてあげる」 「真琴姉さま、ご飯分けてくれるの! ありがとうなんだよ!」 満面の笑顔が眩しい。 紫上は開け放たれた障子窓から薄紅の景観を望む。 「……桜の花、綺麗だね。こんなに見事に咲く花を他に私、知らないかも。これもまたお宝な光景だよね。あ、あの辺の桜がまた綺麗だねー」 桜の濃淡は虹のように移り変わる。 深紅や薄紅、桃に真珠。 そして鏡面が如く月光を映すはずの墨染川は、今は桜で埋め尽くされている。 時々春風と共に迷い込む桜の花を拾い集めていたフレスは、白雪と紫上を親しげに呼んで、ぱらりと二人に花びらを降らせた。 「沙羅姉さまたち、花嫁さまみたい! 桜も姉さま達も、とっても綺麗なんだよ」 屈託なく笑うフレスを、白雪がむぎゅーっと抱きしめた。ぱたぱたと尻尾が喜びで震える。 そんな白雪の目の前に、さらに桜が吹き込んできた。 ひらひらと舞う様が、猫の本能を呼び覚ます。 「仲良しさんと見る桜は格別……にゃっ。花弁捕まえたいにゃ――!」 口調が変化し、花を追う。 こういう時に限って、花は逃げるように虚空を舞った。 フレスは驚いて固まったが『可愛らしい』と感じたのか、微笑んで様子を見守っている。 「身、乗り出して落ちないようにねー?」 全く動じない紫上が声を投げる。しかし懸念は的中した。 花を追うあまり、白雪が窓から身を乗り出す。落ちそうになっている白雪を眺めた紫上は『言ってるそばからこの沙羅にゃんこは』と慌てた。白銀の尻尾が激しく揺れた。 「ぐぬぬぬぬ! 大丈夫! 落ちたりしないにゃー! ……はっ!?」 ビシッ、と片手を挙げた白雪が我に返る。 紫上が「もー、はらはらしちゃった」と席に戻り、フレスは「沙羅姉さま、可愛い!」と連呼していた。 「い、今のは気のせい、気のせいですよ? 私は何も追いかけてません!」 「はいはい」 仲のいい三人が再び食卓を囲む。笑顔がこぼれる。そして囁くのだ。 また来年も一緒に来たいね、と。 「なんや……贅沢というか、なんというか。たまにはのんびりと……って、いつもかもしれんけど」 フタバ(ib9419)は桜色の甘酒を舐めて体を温めながら、ぼんやりと呟く。 開け放たれた天窓から見える、たわわな桜の枝。 障子で区切られた両窓からも景色が見えるのだが、暇さえあれば料理を狙って隣から鼻を突き出すもふら達がいる為、横の景色はあまりゆっくりと拝めていなかった。 「ゆきはふたばのご飯も好きもふ。でも綺麗なお食事はもっと好きもふ」 「ゆきちゃん達と一緒にお船遊びもふー、ご飯美味しくて嬉しいもふ〜」 フタバと黒曜 焔(ib9754)が乗っている大きめの舟には、もふらのゆき、と、もふらのおまんじゅうちゃんも同乗していた。二頭はひたすら主人の夕食を狙っている。 「フタバちゃん。私の分も食べるかい……? 少し多くてね」 小食な黒曜が、虹鱒の皿をそっと差し出す。 見かけによらず大食漢なフタバに、最初は驚いていた黒曜も、美味しそうに食べる様を見ていると心が和んだ。 「ありがと、こくよーさん。折角のごちそうやし、喜んで頂くで。……こういうんも風情あるなぁ。でも花の上を渡る、かぁ……こういう平穏、続くとええなぁ」 渡された皿も、ぺろりと綺麗に平らげる。 甘口の果実酒を朱塗りの盃に注ぎながら、黒曜も相槌を打った。 「そうだね。桜花に染まった川の何と美しいこと……お腹もいっぱいになったし、絵にでも留めておこうか」 黒曜が絵筆を手に取り、桜並木と薄紅の墨染川を描き始めた。 その隙を狙っていた、もふらのおまんじゅうちゃんが、残る食事を平らげ始めた。やがて自分以外すっかり眠ってしまったことに気づくと、黒曜の口元が穏やかに弧を描いた。 「皆の寝顔、可愛いねえ」 満腹で眠ってしまった一人と二頭を絵に書き加えて、絵の完成度に満足感を覚えた。 中々に会心の出来だと思いつつ、白いもふもふの毛並みに降り注いだ桜を摘む。向かいの席では、フタバとゆきの鼻の頭に、仲良く桜の花びらが降り注いでいた。 舟の個室にも流れ込んでくる、噎せ返る様な桜の匂い。 「……綺麗や……」 「うん?」 夢の中でも、桜吹雪を見ているだろうか。 礼野 真夢紀(ia1144)は、からくりのしらさぎと贅を凝らした懐石料理を楽しんでいた。普段は手料理をお重に詰めて持ち込むが、いつも同じものを作ってしまうのだ。こうなると大事なことは、新しい料理の習得である。 目で見て、舌で味わい、家に帰って料理を再現する。 「しらさぎも自分で食べて、味覚えるのよ」 「がんばる」 天然の甘味を引き出す枝豆豆腐、菜の花と海藻と筍煮、辛味を聞かせた山菜の前菜は芸術的で、春の味わいを集めた山菜天麩羅は繊細な香りを閉じ込めている。表面を炙ってネギを散らした鰹のたたきといった魚は、旬でなければ食べられない。 熱心に味を書き留めながら料理を食べつくした礼野は、塩漬けの桜の葉で包んだ桜餅と、桃色焼皮で包んだ桜餅を卓の上に持ち出した。 夜桜見物に花見団子は欠かせない。 「もうじきある桜祭りじゃ主力のお菓子だからね」 「しろのダンゴ、ウサギ?」 「うちの花見団子の特徴として白団子は兎団子の形にするの」 「洒落ているじゃないか。こんばんは」 唐突に障子窓から声がした。 同じく舟守仕事に連日連夜、勤しんでいたからす(ia6525)である。 客を乗せた帰りなのだろう。誰も乗っていない小舟を華麗に操り、横につけた。 「私からの餞別だ。ゆっくり花見を楽しんでくれ」 薄紅の包み紙でくるんだ希儀の豆菓子を礼野の手に乗せ「よい夜を」と声を投げて遠ざかる。その後ろを追いかけるのは、桜の花にまみれたミヅチの魂流だ。 からすは仕事の合間に、酒を飲んだり賑やかな舟に近づいては、自前のつまみや酔い止めの薬草茶を渡していた。まだまだ肌寒い季節なので、毛布の備えも万全。 ちなみに礼儀を欠いた客に関しては「落とすぞ?」の笑顔で華麗に対応する猛者である。 不慣れな舟守や客あしらいに困る舟守の心強い味方となっていた。 「美しい夜だ」 花渡りの風に黒髪をなびかせ、からすは墨染川を下っていく。 昼間の舟守仕事の後、寝る間も惜しんで裏山へ向かい、街と山の間に聳え立つ石の壁の補修点検へ出かけたジークリンデ(ib0258)は、見事な銀髪を夜風に揺らしていた。 「里の灯火と桜の小川……近景の桜も良いですが、遠景から見下ろす桜も乙なものですね」 斜面から光で浮かび上がる桜並木を眺めて、うっすらと微笑んだ。 桜の花で満たされた川を渡る小舟たちの真上をすぎる影。 鷲獅鳥カラーマと駿龍ヴァーユが互いの主人ことサミラ=マクトゥーム(ib6837)とケイウス=アルカーム(ib7387)を背に乗せて、低空飛行を楽しんでいた。 普段は深淵の闇に銀の月を映す墨染川も、今は薄紅の花で埋め尽くされている。 「仕事中も感動したけど……すごいな、本当に花の上を歩いて渡れそう! ね、サミラ!」 「……うん? ああ、ごめん。聞いてなかった、かな」 「それ、聞いてないよね。ひとり言は寂しくなるから聞いてよ。いいけど。……ほんと、サミラはサミラだね。あと面倒見がいい所や努力家な所なんかもさ、変わらないよなぁ」 「……ケイは今とあまり変わらない、ね。演奏は下手で、背も同じくらいだったけど、さ」 ずばり、と言えるのも同郷の長い付き合いだから。 思い出すのは肌寒い風が吹く、故郷の夜。 踏みしめた砂。冴えた月光。 部族が集って囲んだ焚き火に、舞い散る火の粉。 瞼を閉じれば、思い出の中の音が……心に語りかけてくる。 「そうそう、サミラ! ちょっと早めのお祝い。誕生日、おめでとう!」 突然迫る気配と共に、マクトゥームへ投げ渡された包の中身は横笛だった。 「あはは、珍しいね。……ありがとう」 まだまだ話したいことは沢山あった。聞きたいことも。けれど小さな驚きと幸せをくれた友人の笑顔を見ていると、いつか同じように驚かせようという気持ちが浮かんで消えた。 仕立て直した桜色の小袖に、しゃなりと輝く髪飾り。 着飾ったからくりの天澪は、舟漕ぎを覚えようとおぼつかない手つきで舟を操っていた。見るからにハラハラしている柚乃(ia0638)も『柚乃は座ってて? ……天澪が漕ぐ。頑張る』とやる気に満ちた眼差しで言われたからは、どんなに心配でも大人しく見守らねばならない。 「あ、あれ? うまく、進まない? なんで?」 「天澪、変わろうか」 「うん? おいおい拿拳、お前は座ってろ。下手にお前が立つとバランスが崩れるぞ」 能山丘業雲(ic0183)が土偶の拿拳を叱りつける。何か手伝おうと思って立ち上がった土偶は、再び座った。安定感を取り戻したからくりが、川の下流に向けて小舟を泳がせる。 「すまないな、ふたりとも大丈夫か」 「大丈夫」 「はい」 「棒をついて川を渡るのは慣れれば無難にできるが、問題は手加減だな、うむ」 からくりの練習に付き合ってくれている能山丘が、時々助言を投げる。水流の激しい川でも、腕っ節には自信があった。 舟の縁に肩肘をつき、花渡りと誉れ高い墨染川を眺める。 「噂に違わず、この季節は昼も夜も美麗な川だ……黒辺川と呼ばれちまったのがもったいねぇな。黒染川ってまた、きっちり呼ばれるといいんだが」 「そうね」 柚乃が相槌を打って、小舟に降り積もった薄紅の花びらを川へ撒いた。 処々、黒檀の闇を吸い込む鏡面がごとき水面が、白く儚い夢で覆われていく。 「陽の下の桜も好きだけど、夜桜も楽しめるものね」 虹陣の船頭として客を案内した日々。 同じ場所に咲き誇るはずの桜並木は、日々違う顔を見せてくれていた。満開の花も美しいが、散り際も情緒を感じさせてくれる。そして水面に落ちて、花を渡らせてくれるのだ。 ここは現し世の桃源郷。 「柚乃、来年もまた……見れるといいね?」 からくりの天澪が囁く。柚乃は「うん」と声を返した。 からくりの白銀丸が木棒を握り、花渡りに乗る小舟の流れを操っていた。 主人の紫ノ眼 恋(ic0281)は食事に没頭している。 「今日も疲れたな。良い経験にはなったが」 「いや、だからって食い過ぎだろ。船が沈んでもしらねーぞ」 屋台で買ってきた食事をがつがつと食べながら言う紫ノ眼を、からくりは生暖かい眼差しで見守っていた。労働後の食事は美味いのだと、漫才のような会話の繰り返しに羅喉丸(ia0347)が吹き出した。 肩が震えている。 「ん? 何か変か?」 「そうじゃないんだが。よかったら俺の分も食べてくれ」 連日の船守仕事で知り合った羅喉丸は、そっと焼き鳥の串が盛られた皿を差し出した。 かたじけない、と顔を微かに綻ばせる様が、昼間の客たちと重なって見える。 「みんな楽しそうでなによりだな。なぁ蓮華」 思い出すのは、人々の笑顔。 人妖の蓮華が桜型の芋菓子を口に放り込む。 上機嫌な羅喉丸の胸中を、人妖蓮華は手に取るように分かった。 人々の笑顔を守り、戦に勝利できた天の采配に感謝しつつ、自分たち生と死の狭間で生きる自分たちが恙無く巡る季節に出会えた事を、褒美のように喜んでいるのだと。 「さっき頂いた菓子をあけようか。つまむにはちょうどいい」 先ほど川の上で出会ったからすから貰った豆菓子だ。 「羅喉丸、妾からも褒美をやろう」 人妖の蓮華は立ち上がり、荷物をごそごそとあさり始めた。酒の瓶と朱塗りの盃だ。 「秘蔵の酒の味は格別じゃろう。今なら、ただの酒であろうと格別じゃろうがな」 「ありがとう蓮華、今はこの平穏を楽しまなければな」 安酒の入った朱塗りの盃を傾けながら、桜を見上げた。 からくりと紫ノ眼も、咲き誇る桜花に手を伸ばす。 「綺麗だな、恋」 「うむ。桜。好きな花だ。一番いい時に、見られてよかったな」 季節の始まりにして、別れの花。 思い出の中を咲き誇る桜の木を思い出させてくれる、と紫ノ眼は思った。 脳裏に、色鮮やかに蘇るのは、師の住処や旅立ちの日。 「今宵は食べるぞ!」 「まだ食うのか。なぁそっちの二人も、止めてやってくれよ」 「よいではないか。まだ膳も充分に余っておるのだし、いらぬのなら妾がもらうぞ」 「こら、蓮華」 賑やかな舟は桜の祝福のもとを通り抜けていく。 ……俺は、守ることができただろうか。 桜の舞う空の闇を見上げて、ウルグ・シュバルツ(ib5700)は物思いに耽っていた。 鬼火玉の咲焔は、水上を飛んで火の粉を散らしている。 小舟に客は乗せていない。 木棒で浅い川底をつつきながら、桜並木沿いに小舟を泳がせていた。昼も夜も変わらずに冴える桜の花は人々を魅了してやまない。昼間の客の笑顔が脳裏を過る度に、主だった脅威が遠ざかった事を嬉しく思う。 「ウールグーっ!」 レビィ・JS(ib2821)の声がした方向を見上げると、桜並木から手を振っていた。傍らには忍犬のヒダマリ。両手に寿司の折詰やら串物と思しき袋を抱えている姿からすると、散歩帰りなのだろう。 「わたしも乗せて貰っていいかな? 料金って必要?」 「別に、戻るだけでいいなら構わないが」 「ありがとー! じゃ、今からそっちへ行くよ!」 言った途端、坂を駆け下りてきた。川に向かって速度を増す。……止まる気配がない。 「まさか」 レビィは地を蹴った。 川沿いからシュバルツの小舟までの距離、凡そ5メートル。 狙いを定めて空を舞ったレヴィが、小舟に着地した途端、激しく揺れた。 シュバルツが均衡を立て直す。開拓者ゆえの運動神経がなければ、今頃転覆していたに違いない。 鬼火玉の咲焔が心配そうに様子をみにきた。 「ほら、大丈……った、あ、わわわ!?」 腕に抱えていた夕食の数々が大丈夫でなかった。ぼろぼろと落ちていく品物を追いかけて足を滑らせるレヴィの上着をシュバルツが掴む。 「……大丈夫か。言ってくれれば寄せたものを、これは飛び乗るようなものではないぞ」 ボトボトと川底へに落ちていく饅頭を名残惜しそうに眺めながら、転落から救われたレヴィが頬を掻いた。 「うん。ごめん。……えぇっと、ありが」 どぼーん、と派手な水飛沫があがった。 忍犬ヒダマリ、水没。 「ちょっ、ヒダマリ!?」 主人を追って地を蹴った忍犬は勢い余って水没した。もがいている所を、シュバルツが掴みあげて救出する。雪解け水で川は冷たい。予備の毛布でくるまれた忍犬は、何故か拗ねていた。 牡丹雪という言葉がある。 天空の果てから地上へ舞い降りる雪が、花のように見える現象を意味する。 では薄紅の花が降ることを、なんと例えれば良いのだろう。 「いい夜だァ」 岸辺に整然と並ぶ桜並木は、粉雪が如く花を降らせる。 茜の空に闇の帳が落ちてから、黒檀の色に染まったはずの墨染川は、絶え間なく舞い降りる桜の花で桃色に染まり、芳醇な香りを漂わせていた。 「うわぁ……やっぱ綺麗やわぁ……姉さん、お誘いおーきになぁ。ささ、呑んで」 桃李 泉華(ic0104)が酌をする相手は、北條 黯羽(ia0072)である。 今日の為にとっておいた、桜の花を漬けた桃色の酒を持ち出す。 梔子色の月光に照らされた小舟で、秘密の宴が始まる。 小舟を操るのは、からくりの姫月だ。肩で様子を見守るのは人妖の刃那。 「ウチのひづっちゃんは空気読める娘やさかいなー、連日の仕事で見つけた、ええ按配の場所は全部教えてあるさかい。姉さんとの花渡りは、まごうことなき特等席や」 華奢な細腕が、するりと小麦色の腕に絡みつく。 甘えるような愛らしい仕草だった。桃李の誇らしげな白皙の横顔を眺め、北條はそのまま頭を預ける。仲のいい親子のように重なる影。寄り添い合う二人の朱塗りの盃に、瑞々しい白い花が舞い降りた。 「俺の可愛い泉華の酌で酒を呑めるのなら、何処で呑もうが美味いモンだが……この景観を愛でながら呑むのは、また別格さね。今夜の為に、準備してくれた事に礼を言うぜぃ」 かちん、と盃が触れ合った。 桜の花湯で白い指先を温めた桃李が天を見上げる。 曇りひとつない夜の闇で、黄金に輝く月も桜花を愛でているかのようだ。 「綺麗なまんまるお月さんと桜……姉さんと見れるやなんて、ウチほんま幸せやわぁ」 「なんだか大げさだなァ?」 「大げさなんかやないで〜? いつもは忙しゅうしたはるけど……今だけは、ウチだけの姉さんや」 確かめるような、幸福を噛み締めるような、満足感に満ちた声音だった。 寂しい想いを、させただろうか、と。 ちらりと脳裏を掠めたのは、家族への愛情から来る想いに他ならない。 北條の赤い瞳が、すっと細められる。ころころと、傍らで猫のように甘える最愛の娘を一瞥し、北條はゆっくりと瞼を閉じた。頬を撫でる銀糸の髪が心地よい。 傍らにいるという実感を経て、黒檀の睫毛が瞬いた。 夜は長い。普段は仕事で遠ざかる事も多いけれど、今は花見の時間を独占できる。 「生成姫の滅相も終わったしなァ……みろよ、泉華。桜吹雪だァ」 吹雪が如き、桜花の祝福。 一陣の突風が運んだ薄紅の夢に愛されながら、北條と桃李は幸せそうに笑った。 慣れた手つきで仕事を終えたフェンリエッタ(ib0018)は、小舟を沖に泳がせた。 花渡りの中で、冷たく澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。 夜桜の香りが染み込んでいく。 「もう春だなんて。季節が巡るのは早いわね。ナマナリに子供達……私に何ができたかな」 これから何ができるだろう? 神を名乗った大アヤカシは、夢の中にまで現れて、フェンリエッタの心を蝕んだ。 「まだ悪夢を見続ける者がいるなら、終わらせなくちゃ。きみこは両親に会えたかしら」 その手で屠らざるを得なかった少女を想う。 死後の世を流れる川を渡って、記憶を取り戻した少女が本当の両親に会えたらいいな、とぼんやり思った。 人生を変えた出会い。 友人から貰った応援の結晶とも言うべき扇を広げた。 今宵の歌は、嘆きに散った命に捧げる。 「……ほら、見える? 春が来たよ」 救う為に、巫女になった。 人は愚かだけど愛おしい。世界は残酷だけど美しい。そんな今を生きていきたい、と。 「……蝶の羽ばたきさえ、風を呼ぶのでしょう。 永遠とは……夢と現の狭間に見る輝き。 桜舞う、この一瞬に煌いて――……」 フェンリエッタの歌声が、波の果てに遠ざかっていく。 桜吹雪の中で、小柄で可憐なお客さまを乗せた露草(ia1350)の小舟が泳いでいた。 金粉が散る漆塗りの重箱に、ちらし寿司で華やかに彩ったおむすびが整然と並んでいた。愛らしい風呂敷から溢れ出すのは、色鮮やかな甘酸っぱい桜菓子。 人妖の衣通姫は、狩野柚子平(iz0216)の人妖こと樹里と食事に興じていた。 眺める露草の頬が緩む。 「ちっちゃい子達が、きゃいきゃいする光景……なんという癒し……さぁさぁ、お茶の代わりに桜湯をどうぞ。桃色に染まっちゃうくらい、たくさん食べて飲んでくださいね!」 桜の花湯をお猪口に注いで、小さな乾杯。 「かんぱぁ〜い」 「かんぱい〜」 かちんと陶器の器が鳴った。 他の小舟と決して衝突しないよう、巧みに木棒を操る。 この夜桜のひと時の為に、昼間はたくさん働いて資金を稼ぎ、様々な品物を買い込んだ。 口いっぱいに水菓子を放り込み、衣通姫と香の話を始めた樹里に小さく囁く。 「樹里ちゃん」 「ふぇ?」 「……お疲れ様でした。しなきゃいけないことは、まだまだ山積みですけど、ね」 殺されずに済んだ、大切なひと。 この場にいない主人を想って様々な無茶を重ねてきた人妖の労をねぎらい、そっと頭を撫でた。 抹茶色の髪が、前後に揺れた。 満開の夜桜。 空を舞う薄紅の花びらを摘んだ水鏡 雪彼(ia1207)は、黙々と舟を漕ぐ弖志峰 直羽(ia1884)を見上げた。生涯を共に歩むと決めた白皙の横顔を意識すると、何故か急に胸が高鳴った。 「な、生成姫、討てたんだよね」 「……うん、でも、なんでだろう。実感がわかないんだ。不安が消えなくて、まるで」 闇をゆく小舟は先の見えぬ未来のようだ、と。弖志峰は呟く。 確かに、打倒生成姫は人生を賭けて達成すべき目標の一つに違いなかった。 けれど素直に喜べない。 仲間達が祝杯をあげる中で、どうしても終止符を感じなかった。 『お前たちはいつか、後悔するぞ』 不気味な嗤いが、弖志峰の脳裏を離れない。護大を見ても尚、数百年の年月を人知れず操っていた大アヤカシの息吹を感じる。 アレの用意周到さと狡猾さは、身に染みていた。 「まだ、終わりじゃないんだ。それだけは、分かる」 「直羽ちゃん?」 「やらなきゃならない事が、沢山残ってるんだ。大切な友人の為に、汚名を雪がねばならぬ人もいる。開拓者としての己の信を損なう事であっても、俺はやり遂げなきゃいけない。俺が何になっても……君は一緒にいてくれるかい?」 ざぁ、と桜吹雪が吹いた。 薄紅の花の壁を隔てて、蒼玉の瞳が水鏡の瞳を貫いた。 瞳の果てに見える、揺るぎないひだまりの意志と激情の炎。そして微かな怯えと寂しさを内包した深淵の色が見えた。 優しすぎる人だと、水鏡は思った。 今更そんな気遣いなんていらないのに、と。 養父の腕から羽ばたいて、傍らに立つと決めたのだから。 夜風に遊ばれた金糸の髪を掬う指先。骨ばった男の手のひらに、自分の手を添える。 「雪彼は……直羽ちゃんが好き。そばにいてね」 「そんな風に言われると……俺は、何があっても君の手を離せなくなるよ」 「……え、あ、雪彼、声にでちゃってたの!?」 時が来て桜が散るように、自然と溢れた言葉。 一人で百面相して慌てる水鏡に「今のは無しにする?」と少し意地悪く問い返す。 頬を桜色に染めた水鏡は、ぷるぷると顔を横に振った。 「無し、じゃ……ないよ」 重ねた手のぬくもり。熱を帯びた眼差しが、胸に灯る導きの光を色濃く輝かせていくのを感じる。 彼女を護れるよう強くあろう、そう誓いながら。 弖志峰は花に満たされた川を遡っていく。 月の女神の横顔ですね、と。 巧みに小舟を操る御樹青嵐(ia1669)は胸中で呟く。 同乗者は沈黙を嗜む輝血(ia5431)ひとり。 夜桜に囲まれた川の中を渡りながら、御樹は思い出したように声を投げた。 「やはり桜は夜がいいですね、夜に映える花だと思います。美しく咲き誇り、心を捉えて離さない。大勢が惹かれるように……夜桜には何か人の心騒がせる魔力でもあるようです」 軋む小舟。水面の音。 香る桜を見上げて、輝血が手を伸ばした。 「あたしも桜は夜見るほうが好きかな。風情があるのもそうだけど、月の光に散っていく様は格別だし。こういう夜桜観賞ならお酒が欲しくなるものだけど、たまには何もない夜桜っていうのも悪くはない、かな」 感情の機微が少ない輝血の口元に浮かぶ、満足気な響き。 半ば独り言に近い輝血の言葉を聞いて、御樹は舟を桜並木の真下へ泳がせた。枝もたわわな薄紅の花が咲く其処は、桜の隙間から溢れる蜜蝋色の月光が、柔らかに降りそそぐ。 「いい場所ね」 「気に入って頂けて光栄です」 木棒を水面から引き上げ、小舟を流れるままに任せた御樹は、夜桜と月に魅入る輝血の手に手を重ねた。 握る手に感じる、熱。 御樹は振り払われる事も覚悟で手を重ねた。 けれど暫く経っても、輝血が拒絶の意を示す気配はない。 ちらりと輝血を一瞥した。輝血は不思議そうに御樹の手を眺めていた。 ……まともに声が出ない。審判を待つ罪人の気分だ。 「青嵐、さっき言ったよね」 「はい?」 「夜桜には、何か魔力があるのかもって。昔のあたしなら笑い飛ばしてただろうけど……不思議だね。今のあたしなら、同じように思えるよ。この変化は……青嵐と出会ったから、かな」 桜の舞う小舟の中で、月光だけが見た微笑み。 握り返される白い指先。 笑ってしまうくらい稚拙な一歩だが、御樹と輝血には……とても大きな進歩だった。 穏やかに流れる花渡りの川のように。 二人の関係も、緩やかに変わっていくのだろう。 夫婦水入らずの桜観賞は初めてなのかもしれない。 妻の奏でるハープの旋律に耳を傾けながら、アルセリオン(ib6163)は虚ろにそんなことを思った。 弦を弾くのは、愛の指輪をはめた白銀の女神――月雪 霞(ib8255)に他ならない。 薄絹に隠された白い唇は、舞い散る桜の想いを言の葉にのせていく。 桜と月光の下で。 煌く美しき妻に身も心も囚われていく至福の刻。 「……アル!」 唐突に歌が止まった。 我に返ったアルセリオンが、妻の警告の意味を知る。 後方に接近していた太い桜の幹へ、小舟を操る木棒を打ち当てた。 こぉ――……ん。 華麗な操舵術で衝突を防いだアルセリオンの小舟は、一気に桜の老木から遠ざかった。 軽い衝撃で枝が触れ合い、膨大な花びらが虚空へ舞う。 「まさに桜の雨ですね。大丈夫ですか、アル」 「……ん。ああ、すまないな霞。歌を遮ってしまって。老木にも可哀想な事をしたかな」 「でも、花が寂しくなった訳ではなさそうですよ。ほら」 白い指先が示した場所は、大量の花弁を散らしても尚、見事に咲き誇る並木があった。 小舟の中は薄紅の花で溢れている。 「ふふ、お疲れでしたら変わりましょうか?」 「いや……その……疲れた訳ではなくて。久しぶりに外で霞の演奏をきいて、聴き惚れてしまったのと、な。やはり……綺麗だと。そう、思ったんだ」 どこか照れくさそうに告げたアルセリオンの言葉に、月雪はポッと目元を桜色に染めた。家でも歌っているのに、と思いつつ「なんだか恥ずかしいですね」と夫の賞賛に声を返す。 周囲には殆ど他の船もいない。アルセリオンは木棒を引き上げ、月雪の傍らに腰掛けた。 波が静かに舟を運ぶ。 月雪はしなやかな指を水面に手を伸ばす。 「ねえ、アル。桜色の川がとても綺麗……まるで絨毯を敷いているようですね」 「花渡りの由来だな。……まるで花の上を渡るようだ、か。明かりに照らし出される風景を見れば、頷けるものだ」 濡れた月雪の指先は冷え切っていた。 春とはいえ、雪解けの水は余りにも冷たい。 アルセリオンは「……春になったといっても夜は冷えるな」と呟いて、外套で妻の体をふわりと包み、抱き寄せた。 銀糸の髪に紛れた桜を摘む。 「今は……こうして霞の温もりを感じていたい……宝のような桜の風の中で」 「アルったら。……貴方と過ごせる特別な時間は、どれも私の宝物です」 胸元を彩る露草の煌きが、風に揺れる。 今宵は桜の咲き誇る夜。 年に一度、真珠の輝きを纏う花が奏でる現し世の花渡り。 人々は小舟で花を渡り、記憶の中に夢を刻む。 風に散った満開の桜。 言の葉を失うほどに美しい永遠の夜は、かけがえのない思い出を薄紅に染めていく。 |