孤独の紫陽花〜死の贖い〜
マスター名:やよい雛徒
シナリオ形態: ショート
相棒
難易度: やや難
参加人数: 7人
サポート: 1人
リプレイ完成日時: 2013/04/10 22:01



■オープニング本文

●紫陽花の懺悔

 ここに『紫陽花』という名で呼ばれる娘がいる。
 傍らには眼突鴉。陰陽術で構成した式神ではない。歴然たるアヤカシである。
「この手紙を『おかあさま』にお届けして」
 眼突鴉の足にくくりつけた手紙には『お役目を終えたら向かいます。おかあさまの為に命をかけて』と書かれていた。白螺鈿の遥か北の地。今現在、アヤカシの大群が跋扈する戦場へと、眼突鴉は飛んでいく。
 紫陽花は下級アヤカシを従える偽りの開拓者。
 生成姫が幼い頃から洗脳し、育てた刺客『子供』のひとり。
 手元の白い笛を見下ろし、紫陽花は物寂しげな表情でポツリと囁いた。

「ごめんなさい、おかあさま」


●贖罪の手紙

 渡鳥山脈にある祭壇の傍では、封陣院の分室長こと狩野 柚子平(iz0216)が仕事に勤しんでいた。
 そこへ届けられた一枚の手紙。
 先日、生成姫が配下復活に使おうとした娘を奪還した開拓者は、手引きをしたと思しき人物を探しに行った。だが既に相手の姿はなく、代わりに潜伏先で共に暮らしたカラクリが本人から伝言を預かっていた事が判明した。かくして届けられた手紙は、蝋で封印されていた。近くにいた巫女にも危険か確認させたが何の変哲もない紙だった。
 鬼が出るか、蛇が出るか。
 柚子平が手紙を開封し、最初に見たもの。
 それは驚くべきことに、上級アヤカシ『龍笛狂歌』に関する情報だった。
 柚子平の傍にいた開拓者が、表情を歪ませる。

「まさか偽の情報でも掴ませる気か」
「いえ、本景の里の事件は聞いています。アヤカシの研究者として私が判断するに、偽りではないでしょう。ですが」

 どうして『開拓者に味方するような行動』をとるのか。
 理解できない。

 浚われた子供たちは、生成姫を神として崇め、崇拝している。生成姫から与えられる使命のため、或いは配下の封印解除の為に、身を粉にして働いている。幼少時からの洗脳により価値観が根本的に異なり、救いがたい存在という結論になった。
 彼らが感じた違和感は、手紙の二枚目で明らかになった。 

『こんにちは、狩野さん。私は、あなたが私を監視していることを知っている。
 あなたの立場も、役目も、目的も知っているわ。
 だから、あなたに決めたの。
 私は8歳の頃から小さい妹と魔の森で育った。あなたが追っていた子供のひとり。
 想像はつくと思うけれど、私にもお役目があったわ。
 でも、まだ最後のお役目は果たしていない。
 これから果たす事になる。
 勘違いしないで。
 宣戦布告というわけではないの。
 これから私が行く場所を教えるから、腕の立つ開拓者を派遣して。

 きっとあなたには理解できないだろうけれど。

 私はね、裏松の里で生き残る為ならなんでもしたわ。
 妹を守らなきゃいけなかったし、逆らえば殺されてしまうから。
 でも私もいつしか、おかあさまを愛していた。
 里の兄弟姉妹、みんなそう。
 おかあさまを愛さない子はいないわ。
 私達を心から愛してくれた。育ててくれた。特別な価値があるのだと教えてくれた。
 でも。
 わたしには、恵姉さまも大事なの』

 恵という女性は、白螺鈿の豪商であり、次期地主の妻として有名な人物である。
 性格や暴食趣味にやや難が有るが、その影響力は多大。
 紫陽花が恵の側近となったのも、てっきり影響力を利用する為だと思われていた。

『大事な妹だと言ってくれたわ。家族だと言ってくれたわ。
 だけど、おかあさまの為にお役目を果たせば、恵姉さまごと白螺鈿が餌になって死ぬ。
 ……私の妹。
 あなたが命じて殺したそうね。
 憎いけど、恨みはしないわ。妹は人の幸せを知らずに逝けたのだから。
 妹が死んで、私には守るものがなくなった。生き甲斐を失う、ってこういう事ね。

 でも、おかあさまを悲しませたくないの。
 おねえさまを死なせたくないの。両方とも裏切れないの。
 私はもう人の世界には戻れない。

 だから私を殺しに来て。龍笛様は先に帰したわ。
 ごめんね。討たせてあげられない。あの方も私には家族なの。
 せめてどんな方か教えてあげる。あとは……次の祠で、待ってるから』


 つまり。
 紫陽花は元々、姉妹揃って誘拐されたのだろう。
 幼すぎる妹を抱えた彼女が選んだ行動は、妹を守る為にアヤカシ側に下ること。
 従順に慕うふりをしながら、彼女は自分を押し殺して、魔の森の非汚染区域で生き残った。
 唯一の肉親を守る為の、孤独な戦い。
 けれど紫陽花の妹は死んだ。
 柚子平の命令で、開拓者が手にかけた子供が何名かいるが……その中の一人だったのだろう。
 戦が起こる前、紫陽花は消えた妹を探していた。妹がどんな最後を迎えたのか、遅まきながら知ったに違いない。
 そして残った『大事なもの』を天秤にかけた。

 不本意ながら、育ての親として慕ってしまった生成姫か。
 再び人の暮らしの温もりを、教えてくれた榛葉恵の命か。

 彼女は後者を選んだ。
 けれど前者を裏切りきれなかった。
 苦悩の結論が……開拓者との戦いによる戦死。
 お役目を果たそうとして戦死すれば、少なくとも『おかあさまの為の殉死』になる。
 そして配下解放を阻止してもらえれば、榛葉恵が死ぬことはない。 
 紫陽花は自己犠牲を選んだ。

「今日まで……白螺鈿が無事だったのは、そういうことでしたか」

 もしも。
 未だ紫陽花の妹が生きていたら、紫陽花は妹の為に開拓者の敵になっていただろう。逆に、誰かが紫陽花と榛葉恵の関係を断ち切るように仕向けていたら、彼女は人の世界に情など覚えず、迷いなく配下解放に動いていた可能性が高い。
 偶然か必然か。
 皮肉な現実が運んだ、一筋の道。
「彼女が配下を解放する気がないにせよ、おつきのアヤカシは解放を急がせるでしょうからね。裏切り者と知れば、紫陽花さん抜きで動くはず。彼女が『向こう側』を演出している間に、殺すしかない。……行ってくれますね?」
 冷酷な言葉に、頷くしかない。
 かくして紫陽花を討伐する為に、開拓者たちが白螺鈿に向かった。

 ところが。

 依頼を受けた開拓者達のところへ、榛葉恵(iz0226)が押しかけてきた。
「勝手に話進めて、素直に受け入れてんじゃないわよ!」
 様子のおかしいカラクリから遺言を聞き、残された手紙の存在に嫌な予感を覚えた彼女の元へ、事情を説明しに行った職員がいたのだが……恵は職員を殴り倒し、金にものを言わせて追いかけてきた。後ろでカラクリの梨花が申し訳なさげな顔をしている。
「私も一緒に連れて行きなさい」
「はぁ!?」
「私が紫陽花を連れ帰るわ。何処でどう育とうが知った事じゃない。人里で誰も殺してないんだから、罪に問われる必要はないはずよ。どう説得するか……まだ考えてないけど、要は親離れさせればいいんでしょ。取り巻きのアヤカシは、そっちで全部倒してよ。イヤって言っても、ついていくから」

 無茶苦茶な。
 かくして一行はお荷物つきで、林の中の朽ちた祠へ向かう羽目になった。


■参加者一覧
北條 黯羽(ia0072
25歳・女・陰
フェンリエッタ(ib0018
18歳・女・シ
久遠院 雪夜(ib0212
13歳・女・シ
ハッド(ib0295
17歳・男・騎
萌月 鈴音(ib0395
12歳・女・サ
蓮 神音(ib2662
14歳・女・泰
ジャン=バティスト(ic0356
34歳・男・巫


■リプレイ本文

 春風が嵐のように吹き荒れる中で。
 久遠院 雪夜(ib0212)は恵(iz0226)に尋ねた。
「苺2畝に蝦夷蛇苺3畝、水菜に大葉に高菜に小松菜。これなんだか判る?」
「野菜」
「正解は紫陽花さんが撒いた瘴木の実による、農場の被害でした」
 約半年前。
 白螺鈿では『土が腐る』という現象が多発した。
 久遠院が足繁く通う農家でも同じ現象が発生し、作物が全滅寸前、家族も瘴気汚染されかけた。瘴気の実は飛行アヤカシが運んでいたし、紫陽花が生成姫の子供と分かった今、農場に瘴気の実を置いた者が誰か、想像に容易い。
 前日、紫陽花は農家を訪ねてきたから。
「紫陽花さんは人は殺してないかもしれない。だけと大勢を飢えさせた」
 知らされた事実に、恵が言葉を失う。
 黒檀の瞳は困惑に畳み掛けた。
「畑を瘴気汚染された農家は他にも沢山いた。白螺鈿の被害者達が、真相を知ったらどう思う? 恵さんも恨まれるし、榛葉家や如彩家の名は地に落ちるよ。旦那さんの後継者争いにも響く」
 半ば脅しの問いかけ。
 久遠院の言葉は、恵に『覚悟の度合い』を尋ねていた。
「生成姫に育てられた子供な事を隠しても、火種に油を掛けて大火事にするのが生成姫配下のやり口だと思う。それでも紫陽花さんを庇えるの?」

 連れ帰る利は、ない。

「紫陽花さんが居なくなったら、恵さんは幸せになれないよね?」
 蓮 神音(ib2662)の助け舟に、恵は首を縦に降った。
「なら、そう言うべきだよ。神音は、そう思う」
 返事を待つ久遠院に恵は告げた。
「土壌汚染の件は、許されない事だと思うわ。事実を隠すのも、狡い事だと思う。後で貴女にも相談するわ。だから償いをさせる時間を、頂戴」
 真摯な眼差し。
 久遠院は「わかった」と瞼を閉じた。
「じゃ、こんな無茶をする位、恵さんも紫陽花さんを大切に思ってる、と言ってあげて。紫陽花さんが妹を愛したのと同じくらい。そして伝えて。農場で一緒に苺の苗を植えて、一緒に収穫するまで絶対許してあげないんだから、って」
 己の甘さを自覚しながら久遠院は微笑んだ。
「あと何を言えばいい?」
 萌月 鈴音(ib0395)が手を挙げた。
「説得には……露骨にナマナリを非難するのは、避けた方が良いかもしれません」
 揺れている状態は危険だ。
 もし生成姫側に忠誠心が傾けば厄介な話になる。
 後ろのハッド(ib0295)が「救ってほしいとゆ〜ならば、助けねばなるまいて〜」と胸を張った。
「むむ〜、梨花に色々託したことから思うに、心の友に本当の自分を知って欲しかったのではないかのー、梨花よ。紫陽花の本当の名前を知らぬか?」
 からくりは首を横に振り「梨花知らないです」と項垂れる。
「恵ん、いっそ父親に頼んで榛葉の娘に……本当の妹にしてもらえばよいのでは?」
 恵は「父に迷惑はかけたくない」と言った。久遠院の話を、重く受け止めているらしい。
 見送りに来たフェルル=グライフも恵に助言する。
「共に生きる夢を抱いてもらう、のがいいと思うんです。今まで楽しかった事、これからしたい事。それと紫陽花はアヤカシのつけた名前かもしれない。人の名を聞いてあげてください。窮地では、貴女の温もりと呼び掛けこそ彼女の力。必ず届きます」
 柚子平の依頼を優先すると決めた北條 黯羽(ia0072)とフェンリエッタ(ib0018)は説得の助言を重ねる仲間たちの様子を見守っていた。
「今度こそ救うの。命も……心も」
 かつて救えなかった命があった。だからフェンリエッタは巫女の道を歩み始めた。
 どの道、紫陽花はアヤカシの群れを率いている。衝突は避けられない。
 北條はアヤカシを殲滅する手順などを粛々と纏めていく。
「大体はこれで行く。ただし」
 北條の赤い瞳が、恵の正面から見据える。
「説得の失敗が明確になった場合は、当初の予定通り、紫陽花の滅相に移るぞ」
 敵が敵で在る以上、理由の如何を忖度する必要は無い。
「痛みが少なくなる様に、なるべく急所は狙うが……覚悟を決めな」
 そしてこの戦いを、終わらせようじゃねぇか。
 と、胸中で呟く。
 北條の表情に迷いはない。
「いくぜ。遅れたら置いていく」
「分かってるわ」
 様子を眺めながら、恵の願いは浅はかで身勝手だと、ジャン=バティスト(ic0356)は感じていた。
「……しかし崇高な激情だ」
 詳しい事情は知らない。しかし久遠院たちの話を聞いただけで、恵の頼みが理不尽な事は察した。
 己や夫の立場は危うくなり、街は危険に晒される。得るものは何もない。紫陽花を連れ帰り、助けたいという意思は、単なる恵の我儘だ。他を想うなら諦めるべきだ。
 砕け散ったものは、もう戻らない。
 おかした罪は決して変えられない。
 バティストは話を聞いた上で手を貸すと決めた。
 かつて皆が不幸になると知りつつ、禁断の果実に手を伸ばした己を重ねていた。
 己の罪を刻んで生きる覚悟を知った以上、黙って見ていることは、できなかった。
 バティストは恵の肩に手を置く。
「紫陽花の花は、日が過ぎるほどに色が移ろう。移ろいやすい人の心にも似て。急いだほうがいい」
 遠ざかる恵の背中に、グライフが声を投げた。
「皆、最後まで諦めない意志の持ち主です。絶対に諦めないで!」
 覚悟を決めた恵の背中を見て、蓮は手を見下ろす。萌月が手を重ねた。
 二人は知っていた。
 白螺鈿へ来るはずだった紫陽花の妹を、仲間と共にその手で屠った。
 選べなかった。救いたい気持ちを状況が許してくれなかった。でなければ大事な仲間を救えず、白螺鈿は滅び、今頃、紫陽花は容赦なく敵に回っていた。この機会は偶然の産物。分かっている。
 間違っていなかったことも。救えなかったことも。
「紫陽花さんには、生きていて欲しいな」
 もう誰かの心が傷つくのは……見たくない。


 雪の消えた林の中は、圧雪で押しつぶされた木々が散乱していた。
 乾いた落ち葉を踏みしめる音が響く。
 ふいに上空から声が響いた。
『開拓者が嗅ぎつけてきたぞ。早く』
「分かってる」
 バティストの配慮で開拓者風に変装した恵と梨花が、顔を上げる。紫陽花だ。上空を飛ぶ鷲頭獅子の影と、それを取り巻く目突鴉の群れ。縫うように飛ぶ無数の蝙蝠は吸血鬼だろう。
 先に祠へ辿り着き、北條たちはアヤカシの襲撃に備える。
「いくぜ」
 小麦色の耳朶で赤く煌く、紅憐華の耳飾りが揺れた。
 北條は白銀の刃に龍の彫刻が施された、1メートル近いハサミ型の金蛟剪を握り締める。
 白銀の龍を召還し、凍れる息吹を吹きつけた。巻き込まれた鴉が砕けた。
 だが蝙蝠と目突鴉が拡散していく。
「どれが吸血鬼の本体か分かんねーな、取りこぼさないよう虱潰しにするぜ」
「望むところだよ」
 久遠院が真空の刃を飛ばし、迫る目突鴉たちを切り裂く。
 幻覚の霧を拡散させた個体に、猫又のくれおぱとらが針千本を突き立てた。
「絶対にあっちの邪魔させないで! 一匹も逃がさないんだから!」
 恵たちの警護はハッドとバティストが担っていた。
 紫陽花と鷲頭獅子にはフェンリエッタと萌月が、炎龍の鈴に跨って追いかける。
 まずは鷲頭獅子から引きずり下ろさねばならない。
 萌月は炎の宿る刀で目突鴉を燃やし続けた。
「このくらいなら……私でも!」
「紫陽花さん。アヤカシは決して解放させない、笛も吹かせないわ!」
 注意を傾ける為、フェンリエッタが吠えた。人妖のウィナフレッドが、翡翠の瞳を抉ろうと襲いかかる目突鴉を、呪わしい声で引き裂く。龍の尾を駆けたフェンリエッタの手には、梅の香りを放つ刀が握られていた。
 紫陽花が自害や殉死を望むなら、己の役目だと感じていた。
 白刃が閃く。
「奴の呪縛、貴女ごと断ち切る!」
 肉と骨を立つ鈍い音。
 鷲頭獅子の翼から首を抉った一太刀は、致命傷を与えていた。
 笛を吹こうとした紫陽花が、体毛に捕まる。枯れ木の枝をへし折りながら地に落ちた。
 鷲頭獅子が砕け散る。
 立ち上がった紫陽花は、恵の存在に気付いた途端、蓮たち……否、吸血鬼の存在を気にしていた。
 紫陽花の忍刀が、萌月とフェンリエッタの斬撃を弾き返す。
 強い。
 フェンリエッタ達は直感した。相当な戦闘訓練を積まされている。だが数人の束でかかれば間違いなく倒せるだろう。本人も死を望んでいる。確かにフェンリエッタは柚子平の依頼を優先した。
 だが決して恵の願いを切り捨てた訳ではない。
「久遠院さん!」
 久遠院の発生させた煙幕が、戦場の広範囲を包み込む。
 吸血鬼に説得を知られない為だ。


「紫陽花よ! 大いなる山の神が旅立たれた今、差し伸べられた手に素直になればよかろ。うぬと恵は我らが守りきろうぞ」
 煙幕の中、ハッドは気品のある態度で語った。
 生成姫の消滅を伝えれば、紫陽花も身の安全を信じると思っていた。
 しかし説得はハッドが思うほど簡単ではなかった。
 紫陽花の嘲笑が響く。
「ありえない。おかあさまは神なのよ」
 何度も繰り返されてきた会話だ。生成姫は山の神。アヤカシの生死を司る魔の森の母。そして生成姫消滅の瞬間を見なかった紫陽花に、事実を伝えることは困難である。
「決して滅びない」
「アヤカシだから滅びるのじゃ〜」
「アヤカシに滅びなんてありえない。私たちは教えられたの。例え傲慢で無知な人間が神を殺しにきても、それはただ大地に還るだけ。少し会えなくなるだけだって。殺したなんて、とんだ見当違いだわ。石榴姉様や山吹兄様たちが、次のおかあさまを迎えに行くはず。……新しいおかあさまが目覚めたら許してくれない」
 フェンリエッタの瞳が凍る。
「今の」
「話はあとで」
 萌月と顔を見合わせた。何か、意味が違う。
 ハッドが溜息を零す。騎士剣が目突鴉たちを塩に変える。
「恵んに説得させるには、まだ鴉が多すぎるの……じゃ」
 たちくらみがハッドを襲った。煙幕に紛れ込んだ蝙蝠が、ハッドの首筋から体液を吸い上げる。バティストが血を吸い上げて膨れ上がった蝙蝠の空間を歪ませた。
 少し離れた場所で紅蓮の炎が宿る拳が、蝙蝠の数を減らしていた。
「よし、蝙蝠全部潰せたよね!? あとは鴉だけ!」
 蓮の歓声が聞こえた。三人の足音が近づく。
 煙幕が晴れていく。
「……私は人に未練があった、神の子になりきれなかった……せめて」
 天高く掲げられた忍刀が振り下ろされる。
「紫陽花さん!」
 肉の裂ける音がした。鼻腔をつく金臭さ……血の匂いが風に浚われていく。
 ぽたり、と赤い血が滴る。
「させないよ」
 素早く飛びかかった蓮が、忍刀の刃を掴んでいた。
 身長差はあれど、体力では泰拳士の蓮が勝る。押さえつけたまま、刃が肉を裂いていく。
 けれど金の瞳は紫陽花を見ていた。
「自害なんてさせない。そんな事させる為に、神音たちは来たんじゃない。神音、梨花ちゃんから紫陽花さんの残した言葉を聞いた。恵さんに幸せになって欲しいなら、自分の言った言葉に、責任を持つべきだよ。生きて恵さんの側にいるべきだよ!」
 例え紫陽花が胸を貫いても、控えているフェンリエッタには蘇生させる自信があった。
 バティストも声を投げた。
「あなたの死は、誰も幸せにしない!」
 死は解放だ。だが、残された者はどうなる?
「死による解決は恵の想いを無視した、押し付けのものだ! 恵は今後、長い生を、背負わされた死と共に過ごさなければならない。ナマナリへの忠誠を裏切り、自分だけが幸せになることに罪悪感を覚えるのなら、罪を抱えて生きることが償いになるのではないのか? 恵はこうして危険を承知で此処へ来た。その覚悟への答えが自害でいいのか!?」
「おい、鈴音」
 様子を見ていた北條が、術を放つ姿勢のまま萌月に囁いた。
「来る前に呟いてた話を、言ってやれ。存在そのものに価値がある、と教えてやったほうが……たぶん効く相手だろう。少しなら、滅相を待ってやる」
 紫陽花ではなく旋回する目突鴉に式を飛ばして身を引き裂く。
「紫陽花さん! これはもう、あなただけの問題じゃ……ないんです!」
 萌月が声を振り絞った。
「貴女は、それでいいのかもしれない。だけど、残った兄弟姉妹を……想う気持ちは、もう……残っていませんか? 蕨の里から……大勢が救われました。でも、隔離され続けています」
 上級アヤカシ鬻姫不在を狙って、大勢の子供が救われた。
 けれど里子に出すのは危険すぎる、と。
「ナマナリの手で育った、大人のアナタが……人の里へ、適応できると証明すれば……他の子供たちも戻れる、と言う可能性を……世間へ示す事ができます。貴女の行動次第で……他の子の未来を変えられる。恵さんを想える……貴女にしか救えない。どうか子供たちの可能性を……潰さないで!」
 ずっと救いがたい存在だと言われてきた。
 倫理概念が違う。説得も通じない。葬るしかない、と。
 置かれた状況が特殊とは言え、未洗脳の子供たちが隔離されるこの情勢の中で、紫陽花が人の側に戻れば、残る子供への道も開けるのだと萌月は訴えた。

 その時、恵が甲龍の懐から走り出した。
「奥方!? アロンダイト! 奥方を守れ!」
 目突鴉の接近に気づいたバティストが空間を歪ませて、鴉を砕く。迅鷹アロンダイトが鋭い爪で、恵に迫る鴉を地面へと叩きつけた。
 開拓者の焦りなど顧みない恵が蓮達に近づく。
「紫陽花、きいて」
 戦いを知らぬ華奢な手が、血まみれの手を掴んだ。
「私の夫――如彩誉はね、子を与えてくれそうにないの。とても大事にしてくれるけれど……心労がたたって、無理をしてボロボロ。だから私も諦めた。そこへ貴女が来た」
 恵は助言に従って語りかける。
「仕事の手伝い、お買い物や馬鹿な話、愚痴にも付き合ってくれた。演技だとしても、私は楽しかった。いない日々が寂しかったわ。また一緒に家族のように暮らしたいの。そうよ、いっそ私たちの養子になればいい。私の娘になる気はない?」
「むす、め?」
 突拍子もない提案に、蓮たちの目が点になった。
 グライフの助言した共に生きる夢に、恵は『家族の絆』を選んだ。
「親代わりになりたいなんて言わないわ。貴女の産みの母、育ての母、その事実は変わらない。だから私を三人目の『寄り添う母』に選んで。母は子を守るものよ。私は術を使えないけれど、社会から貴女の身分を保証し、守る力があるわ。鈴音ちゃんも言ったじゃない。貴女が生きることでしか、救えない人がいるんだって。世の中へ証明する時間を頂戴……歳の近い母親は、嫌?」
 一瞬の静寂。
 忍刀を放し、恵の手を握り返したのを見届けて。
 北條は最後の目突鴉の群れを見上げ、白龍を召喚して凍れる息吹を浴びせた。
 失った生き甲斐に縛られた紫陽花を救うには、存在価値を見出させる必要があった。
 夫に守られる娘時代の終焉。
 久遠院たちの言葉が、恵を『母』に変えたのだ。


 怪我人の治療を人妖たちが済ませた後。
 妙な術がかけられていないか、バティストが確認をしてから二人の時間を設けた。
 戻ったバティストが北條の横顔を一瞥した。
「随分と優しいな。行きは厳しく念を押していたのに」
 傍らの北條は、戦いの中で感じた高揚感がどこかへ消えてしまったのか、気だるげに「んー?」と声を返した。
 真紅の瞳が、恵の横顔を見つめる。
「説得が成功するのは喜ばしいさね。そうでなきゃ後始末……ま、ケジメを付けるのは俺の仕事かな、と思ってたからなァ。仕事が減って幸いだ。十万億土の途先は、長いからな」
 覚悟の違いは後々に響く。
 北條には、優先すべき事柄と義務を貫く強さがあった。
 しかしアヤカシを一掃している間に、説得が進展してくれればいい、という淡い期待を心の片隅に抱いていたことも……偽りではない。
 からくりの梨花が、北條の芯の強さに瞳を輝かせる。
「気取らない、かっこいいです」
「落ち着いて良かったですが……さっきの」
 萌月の小顔を見下ろし、フェンリエッタも意味を悟る。
「あの子は多分『知っている』んだわ。私たちの知らない事を」
「うーん、ナマナリも気になる事を言ってたもんね」
 蓮が悩む。
 首に手を当てた北條が、青い空を仰いで首を鳴らす。
「護大は落ちてたし、滅相したのは間違いない。けど何か残ってんだろうなァ」
「消滅の時の余裕も気がかりだった。ナマナリの意思を引き継ぐ者がいたり、或いは復活させようとするなら……紫陽花は私たちが先手を打つ、大事な手がかりになるわ」
 フェンリエッタの言葉に、久遠院が相槌を打つ。
「だよねー。生成姫は確かに滅んだけど……分身や後継が居ないとも限らないし、近寄るアヤカシは絶対に倒して、紫陽花さんの情報は持ち帰らせないようにしないと。……農場の家族としては、白螺鈿が危機に陥る可能性は排除したいんだけど、ね」
 そんな事をしたら、きっとボクの家族に怒られちゃうから、と久遠院は笑う。
 決して見捨てないと決めた。
 陰りを宿した翡翠の瞳は、陰鬱な眼差しで恵と紫陽花に視線を戻す。
 聡いフェンリエッタも、心から喜ぶのはまだ早い、と分かっていたからだ。
「そうね。行方知れずの洗脳された子供たち……他の子らには母の仇よ、標的になり得る。この裏切りが知られたら、裏切り者の口封じに来たって、おかしくないもの。彼女は……知りすぎている」
 大アヤカシが滅びようと滅ぶまいと、状況は殆ど変わっていない。
 それが謀略を司る生成姫が残した『真の脅威』だ。
 戦の前も、今回も。
 封印されたままの配下は大勢、眠り続けている。
 指導者を求める配下達は、上級アヤカシ解放に動くだろう。
 逃げて生き残った子供たちは……母の残した命令に従うに違いない。
 魔の森を司る生成姫を倒した程度で『全てが終わった。全てが救われた』と浮かれていてはいけなかったのだ。
 むしろ何が起こるか分からなくなった。
 生成姫が滅びる少し前、フェンリエッタやバティストは紫陽花の死の偽装を提案していたが、元々偽装困難な敵であった上に、もはや偽装が通じない状態だ。
 頂点にいた存在が消え、謀略の全貌を確かめる術は消えた。
 生成姫は笑っていた。
 己の消滅など、取るに足らないことのように嘲笑っていた。

『お前たちはいつか、後悔するぞ』

 蓮達の耳に残る、生成姫が残した不気味な予言。
 これからが非常に大変なのだ、と痛感せざるを得ない。
 紫陽花は生成姫の元で育てられ、謀略と悪意の詳細に熟知した――――唯一の味方。
 恵たちを守りながら、紫陽花の信頼を勝ち取り、どこまで生成姫の残した秘密をひきだせるか。
 それらが今後を左右する大きな鍵。
 北條が振り返る。
「そこの二人。根性入れ替えたんなら、家に帰んぞ。白螺鈿まで送ってやる。こっちは柚子平に終いまで報告して、今後の相談しなきゃなんねーからな」
 フェンリエッタが恵に近づいて手を握る。
「恵さん、いい? あなたは大変な道を選んだの。何かあったら、すぐに連絡しなきゃだめ。紫陽花さん、貴女は人の子よ。妹の供養も貴女にしかできない。人に生まれ変わるつもりで、困難に立ち向かうの。生きて笑って、皆で幸せになりなさい!」
 萌月も、服の裾を掴んで見上げた。
「紫陽花さん。恵さんは……家族だと思っているから、危険も困難も承知で……ここまで迎えに来たんです。隔離された子を救えるのも……貴女だけ。帰って、くれますか?」
 亡くした家族の代わりには、決してなれないけれど。
 新しい未来が、そこにはあるから。
「うん」
 紫陽花は首を縦に振った。蓮が「帰ろうよ」と手を引く。
 きっと。
 蓮や萌月たちも、紫陽花の妹のことを話す時が来るのかもしれない。けれど、もう返せない償いを生き残った紫陽花に返すことができる。時が来たら、ちゃんと話すから、と心に誓う。

 いつか後悔し、絶望するかもしれない。
 遠い未来の事なんて分からない。
 それでも時は進んでいく。

 季節は春。
 薄紅の花が舞う、桜並木と石畳の街を通り抜けて。
 今はただ、歩いていこう。
 巡る日々を。