漆黒奇譚―通り魔小路―
マスター名:やよい雛徒
シナリオ形態: ショート
相棒
難易度: 難しい
参加人数: 7人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2013/01/25 10:14



■オープニング本文

 愛する人が家に帰ってこないのです、と。

 開拓者ギルドへ相談にやってきたのは、須戸と名乗る男だった。
 年の頃は三十前後。
 神楽の都の片隅で、親から受け継いだ肉屋を営む若き主人だという。
 朝から晩までよく働き、一頭仕入れて解体する重労働に文句も言わず、その晴れやかな笑顔と甘い声音は近所の奥様たちに評判だった。そんな働き盛りの若主人の顔を曇らせているのが、最近全く家に帰らなくなった彼女のせいらしい。
 一途な須戸の性格とは違って、問題の女性――澪(みお)は奔放な性格で、連日のように別な男性と茶屋で待ち合わせては遊んでいるという。
「つまり浮気ですか」
 彼女と待ち合わせる男たちは、髭を蓄えた壮年の紳士から同じ年頃の中年男、だらしなく色あせた着物を纏う若者まで実に様々だ。
「贅沢の味を……忘れられないのだと思います」
 どうしてあんな男の傍に、と考えることもあった。
 そして行き着いたのが『お金』の問題だったのだそうだ。
 澪は大店の一人娘として何不自由なく育った。
 職人が作った漆塗りの下駄、遠い場所から取り寄せた美しい着物、重厚感を放つ繊細な帯、煌びやかな細工の簪……、彼女が望んで手に入らない物はないと言っても過言ではない。幼い頃から身分差を痛感していた須戸は、実家を継ぐことで職の安定を測った。彼の努力が周囲に一目置かれているのは、連日の盛況ぶりからもよく分かる。
 それでも。
 涙ぐましい須戸の努力の影で、彼女は周囲の目など気にする風もなく街を出歩く。
 少し無理のある若作りは女の意地。清楚な装いに流行りの香。
 薄い唇には紅をひいて。
「昔は『岡ちゃん』って呼んでくれた頃もあったんです」
 幸せだった遠い昔。
 優しい横顔は思い出を懐かしむばかり。
「愛情は……やはり貧しい暮らしの前では、冷めてしまうものなんでしょうか?」
 須戸の肩は、心の傷と寂しさで深く沈んでいた。
 時折、配達の帰り道、何度もお決まりの茶屋で彼女と浮気相手を見かけて、後を追いかけた。
 けれど豪華な料亭へ消えていくのを見る度に、何も言えずに立ち尽くしてしまうのだ。
「お願いです。間男が何人いるのかを調べて頂けませんか? 相手の身元が分かれば、あとは俺が挨拶に行って、なんとかしてみせますから」
 須戸はそういって頭を垂れた。


「浮気調査、大変ですね」
 依頼人が帰った後、開拓者ギルドの受付は開拓者たちに声を投げた。アヤカシ退治はお手の物の開拓者でも、それ以外の仕事となると地道な作業をすることになる。
「たまにはやってみない?」
「遠慮しておきます。その紙は……似顔絵ですか?」
 依頼人に描いてもらった似顔絵と、よく見かける場所の住所を眺めて、受付は眉間に皺を寄せた。
「その女性の身辺調査……気をつけたほうがいいかもしれませんよ」
 意味深な事を言って、書類を遡り始める。
「あったあった。最近、そこの料亭がある地域って通り魔が現れるんだそうです。お金もなくなっているので多分物取りの犯行なんですが、先週は裕福なご老人、一昨日も大きなお屋敷を持ってた男性が鋭い刃物で刺されて失血死されたそうで。お金持ちの男性ばかりを狙って、しかもどんどん標的が若くなっていて……まだ犯人、捕まってないんですよ」
 皆さんも刺されないようにご注意を、と受付は告げた。


■参加者一覧
シュラハトリア・M(ia0352
10歳・女・陰
鬼島貫徹(ia0694
45歳・男・サ
御樹青嵐(ia1669
23歳・男・陰
フェンリエッタ(ib0018
18歳・女・シ
マックス・ボードマン(ib5426
36歳・男・砲
音羽屋 烏水(ib9423
16歳・男・吟
エリアス・スヴァルド(ib9891
48歳・男・騎


■リプレイ本文

 鬼島貫徹(ia0694)は豪快に笑いながら、依頼人の須戸の肩を叩いていた。
「フハハハ、任せておけ。女というものは、男の後を三歩下がってついてくれば良いのだ! 奔放なのが良い、などというのは男女の関係を真に理解していないが故の戯言よ!」
 仲間の女性陣に白い目で見られはするものの「浮気なんぞもってのほかぞ!」という憤りに関しては同意するところがあるのか、モノ言いたげな視線にとどまる。
 エリアス・スヴァルド(ib9891)が唸った。
「家に帰らないってぇと……普通は愛人宅に転がり込むとかだよな。贅沢したいだけなら一人の男で足りるだろうし、離縁するでもなく、違う男を取っ替え引っ替え……男に貢がせチヤホヤされたいのか、待合茶屋や料亭なら隠れて芸妓や娼妓……金を稼ぐのが目的か? それとも他に理由……」
「スヴァルドさん!」
 慌てたフェンリエッタ(ib0018)に肩を揺さぶられる。みると須戸が一層沈んでいた。無理もない。
「ともかく! 浮気は不誠実だと思うわ」
 とフェンリエッタは言葉を添える。ちらりと憔悴している須戸を見て、胸が痛む。
 音羽屋 烏水(ib9423)が「元気をだせ」と慰める。
「まあ、女心と秋の空とはよく言ったもんじゃが、惚れた弱みというのも辛いものじゃのぅ。わしらが一肌脱いで、仲円満に取り戻すよう尽力させて貰うぞぃ」
 あれこれ考えつつ、胸騒ぎがやまない音羽屋がいた。
 シュラハトリア・M(ia0352)は「ただの浮気調査じゃ済まないコトになりそぉだねぇ……うふふぅ、なぁんかゾクゾクしちゃう」と、実に楽しげな独り言を零していた。フェンリエッタの視線に気づいて、ひらりと手をふる。
「やだなぁ、浮気調査のお仕事はちゃぁんとするよぉ。でもぉ……愛はお金では買えないけどぉ、愛を維持するにはお金も必要……とぉ」
 御樹青嵐(ia1669)は咳払い一つして、須戸に澪の特徴や似顔絵を書かせた後で「気になる点がございますので、先に確認して置きたい点があります」と言い、私物を確認するという話になった。一旦、須戸の自宅……肉屋の方へ帰り、澪の部屋を見るというので、フェンリエッタとマックス・ボードマン(ib5426)も同行する。


 依頼人と三人の背中を見送ったシュラハトリアは昼間の浮気調査を仲間に任せて「ちょっと聞きたいことがあるから」とギルドに残った。
 通り魔事件の被害者の容姿などを確認しておきたいらしい。
 鬼島も浮気調査が早く片付きそうな場合に、次の仕事で通り魔の対応をしようと考え、通り魔被害者の被害者の遺留品を見せてもらえるように、申請の手続きをしていた。
「通り魔などは本来相手にする程のものではないし、何より今回の件とは無関係。無視しても構わないのだが……男だけが狙われているのが気になると言えば、気になるんでな。愚鈍な物盗りであれば、未だ財布金品など戦利品を所持している可能性がある。捕縛への協力は惜しんだりせんさ」
「そうか。では先に調査に行ってくるぞ」
 音羽屋とスヴァルドが街へ消えた。


 須戸の肉屋についた開拓者たちは、店舗を通って奥に進み、整った家の中を見渡した。
「この箪笥は?」
「そっちは仕事着です。仲が良かった頃は、いつも一緒に店先に立っていましたから」
 寂しそうな須戸が部屋の奥へ消えていく。フェンリエッタが箪笥を明けると、同じ色の二部式着物が数着と薄汚れた割烹着、それから埃を被った櫛や小さな手提げも見つかった。
「小銭入れ? 少しだけど、お金が入ったままだわ。髪留めや簪も、そのままみたい」
「櫛の歯が折れてますし、いらなくなった物はそのまま、という感じでしょうか」
 一行は二階へあがった。
「こちらが澪の部屋です」
 素朴な肉屋に不似合いな、豪華絢爛な調度品が並べられていた。彫り物の桐箪笥、漆塗りの鏡台、芸術品と呼べるほどの細工物の数々。箪笥の中には雅な着物が所狭しと重ねられ、小箱の中には沢山の簪が並んでいた。
 紅玉、藍玉、翡翠に瑪瑙。
 鼈甲、珊瑚、金銀に淡水真珠の淡い輝き。
「凄い……流石は大店のお嬢様ね」
 フェンリエッタがうっとりと眺める。澪が消えてからも、毎日欠かさず掃除をしているという部屋は、いなくなった主の帰りを静かに待っているようだった。
「失礼ながら、一点よろしいでしょうか」
 御樹が須戸を見据える。
「お二人は正式に御結婚されてるのでしょうか?」
「昔からの許嫁でしたし、婚約はしています。……事実婚と言えば満足ですか」
 須戸が「ご覧下さい」と隣の襖に手をかける。その部屋には白無垢がかけられていた。
「私の亡き母が縫ったものです。私はこれを着てほしいと頼みましたが、澪は嫌だとつっぱねました。澪は、新品の名品しか受け取らないもので。部屋の調度品は、私が昔からコツコツ買い集めて贈ったものです。最初に結婚の約束をしたのは、幼い頃でした。親同士も認めていましたが、何分しがない肉屋の息子と大店の娘、一日二日で花嫁道具を集められるほど、うちは豊かではありません。日々の贈り物や調度品を優先していて、白無垢もいちから仕立てなければ澪が認めないと気づいたのは、つい先日のことです」
 曖昧な関係のまま待たせすぎたのかもしれません、と。
 益々落ち込んだ須戸を見て、フェンリエッタが御樹の鳩尾に肘鉄を食らわせた。
 マックスボードマンが頬を掻く。
「それじゃ……分かる範囲で構わない、教えてくれないかね。最後に澪が帰宅したのは何時頃だ?」
「忘れもしません。夏祭りの終わりの……」
 ボードマンたちの聞き込みはしばらく続いた。
 ちなみに御樹は、管狐の白嵐にこの家の人の出入りを見るために見張りをさせようと思ったが、現実的ではないのでやめた。
 管狐の召喚には練力が必要で、召喚系の相棒が行動する際には、常に開拓者が詠唱状態を保つ必要がある。それも召喚時間が限られている以上、毎回宝珠へ戻ってくる。何百メートルも離れる環境下で、長時間の別行動は根本的に向かない。


 肉屋をあとにしたマックス・ボードマンは澪の性格を考えて、唸っていた。
「話を聞いた限り、……どこかに衣類が置いてあって、そこで着替えていることになるか」
 ボードマンはふとひとつの仮説を立て、通り魔事件で不穏な空気に満ちている料亭の方へ出かけていった。


 一方のフェンリエッタは、肉屋の客を帰り道で捕まえて、ひっそりと話を聞いた。
「ね。肉屋の奥さんの姿が見えないって聞いたんだけど、どこにいったか知らない?」
 初老の女は、一瞬戸惑った顔をしたが……やがて『もしかして澪ちゃんのことかい』と言葉を返してきた。近所でも知っているらしい。重ねて尋ねようとしたフェンリエッタの言葉を、女は遮った。
「どこのだれだか知らないし、なんで今更、そんな話をしてるのか知らないけれど、他人の過去を突っつきまわすような行動はおやめ。誰も幸せになんてならない。間違っても、須戸くんに澪ちゃんの話なんて、ふっちゃだめだよ」
 そう言って去っていった。
 音羽屋やスヴァルドも、似顔絵を手に近所に聞き込みを行ったが、みんな揃って『触れてはならない話題』として扱っているらしく、誰も口を開かなかった。


 午後になって、シュラハトリアが茶屋を訪ねた。
 しかし客の個人情報は勝手に流せないと、お店の人に断られてしまう。
 同じくやってきたのが御樹だったが、警戒するように周囲を見回していたので、変な注目を集めていた。茶屋では弾き語りで雇われた音羽屋が三味線を響かせている。監視をかねて、店の者と親しくなり、何か聞き出せないかと期待していた。店先では、もふらのいろは丸が招き猫代わりに鎮座している。
 数時間後。
 茶屋に現れた澪は、げっそりと窶れていた。
 席について注文しても、そわそわと落ち着かない様子で誰かを探していた。鬼島は様子を見守っていたが、御樹が近寄る。
「澪さん、ですか? 須戸さんの事で、少しお話をさせて頂きたいのですが」
「……須戸? なんですか、あなた! 関係ないでしょ、今そんなこと話してる場合じゃないの!」
 ぎっ、と物凄い顔で睨まれてしまった。
 一瞬ひるんだ刹那、澪の視線が斜めにそれる。
「真琴!」
 十四歳前後の若者が現れた。
「来るな、って言っただろう!」
 真琴と呼ばれた若者は、澪の手を振り払った。噂にたがわず乱暴者である。
「お願いだから、一緒に帰ろう? お願いだから、ね? 真琴、真琴、真琴ったら!」
 澪の袖を振り払って、走り去っていく。
 真琴の背中を、鬼島の愛犬こと奥羽が追跡したのを見て、スヴァルドが澪に近づいた。
「なーんだ、その歳であんな小僧に縋ってるのか? よせよせ、あんなケツの青い小僧、女の扱いなんてなっちゃいねーよ。もっといい男なんて山ほどいるぜ? 例えば、この俺とかな。――――俺の女になれよ、何が欲しいんだ?」
 パァン、と激しい炸裂音がした。
 泣いていた澪が、怒りで顔を朱に染めて、スヴァルドの頬に平手打ちを叩き込んだ。
「わたしたちに構わないで!」
 澪は真琴の背中を追いかけようとした。
 けれど。
 ふらふらしていて、すぐにつまづいて倒れてしまった。泣き止まない。
「真琴。帰ってきて。真琴ぉ。もう私には、真琴しかいないのに……もうやめて、なんで、なんで帰ってきてくれないの……」
 茶屋の端で様子を見ていた男装姿のフェンリエッタは「大丈夫?」と駆け寄り、肩を摩る。鞄の中には人妖のウィナフレッドがいて、周囲に目を光らせていた。
「一緒にお茶でも如何? おごってあげる。甘いものでも食べれば、少しは気が安らぐと思うよ。心が落ち着いてから、彼、探しに行ったら?」
 気遣いを見せて、何気ない世間話だけを選んだ。


 浮気の調査の結果をまとめたシュラハトリア、鬼島、音羽屋の三人は須戸へ報告に来ていた。
 しかし他の四人がいない。
 スヴァルドは見張り。御樹は私用。フェンリエッタとボードマンは別の事件に興味があるといって、三人に後を任せたのだ。
 音羽屋が手元を見下ろす。
「今の澪は随分と真琴にいれこんでおるのぅ。延々と後を追いかけたそうではないか。あげく真琴とやらはあちこち家を訪ねて、忙しいことじゃな。よくここまで調べたのぅ」
 鬼島が胸を張った。
「フハハ! 女の浮気は、男のそれと違って隠蔽工作に長けているのも事実。きっちりと証拠を見つけなければ、どんな言い逃れをされてしまうか分からんものだ」
 まふ、と傍らの愛犬を撫でる。
「愛犬の奥羽は鼻が利くからな。澪の入れ込んでいる男は、全くもってロクデナシよ。果ては妓楼の女までいたぞ。あんな馬鹿な男のどこがいいのか、まるでわからん。なんにせよ、これでしまいだ。澪も直に目が覚めるだろう」
 包み隠さず報告しようと、鬼島は笑った。
 夫婦喧嘩は犬も食わない、後は二人が喧嘩をして良くも悪くも解決するだろう、と。
 報告を受けた須戸は、最初悲しげな表情を見せたが、訪ね歩いて調べてくれた開拓者達に頭を下げた。
「ありがとうございました。明日ギルドに行って、報酬の支払い手続きをしてきます」
 そう言って、須戸が調査書類を受け取った。

 日が落ちて。
 肉屋から人影が動いた時に、そのあとを追いかけるのは四人いた。
「あれぇ、みんなもぉ?」
 シュラハトリアが首を傾げる。
 そこには鬼島とスヴァルド、音羽屋がいた。鬼島が咳払いをして明後日の方向を見る。
「ごほん……うむ、別に少し気になるだけだ。最近通り魔も出るというし、須戸のような性根が真面目で善良な者が万一の事態に遭っても、寝覚めが悪いからな! 第一、海千山千の間男相手に、肉屋の若主人がなんとかできるのとも思えん。こっそり後をつけ、いざという時は助っ人に加わる所存だ」
 きりりと告げて髭を撫でた。
 赤鬼と異名をとる強面な鬼島の、面倒見がいい一面である。
 シュラハトリアがにんまり笑って茶化した。
「へぇ〜、お人好しぃ」
「そういう、シュラハトリアはどうなのだ」
「ん〜? シュラハはねぇ、依頼主さんが『どうやって』『何とかする』のかぁ、見届けたいなぁってぇ。それだけだよぉ」
 スヴァルドもぼやく。
「なんとか……あれか。自分で挨拶に行く、ってやつか。間男に挨拶なぁ……男女の問題が挨拶で済むわけもなかろうに。解決するなら、それこそ金の力が必要だろう」
 音羽屋もうなづく。
「そーじゃのー。話をつけると言っても口論になっては詮無きこと。
心配じゃし、決着を見届けるために、こっそり後を付けるくらい平気じゃろ」
 つい依頼人に肩入れしてしまう、そんなありふれた光景が、そこにはあった。
 真夜中の道を、須戸が歩く。
 噂の料亭に近づいた時、道の果てに若者が歩いているのが見えた。
 昼間、澪と話していた『真琴』という若者である。

 ひた、ひた、ひた。
 ひた、ひた、ひた。

 二人は一定の距離を歩いていく。前を行く真琴が立ち止まり、須戸が歩みを早めた。

 ひたひたひたひたひたひたひた。

 須戸の手にしていた包の布が落ちる。ぎらりと輝く銀色の包丁に、心臓が凍った。
 スヴァルドが困り果てた。
「多発する通り魔……鋭い刃物……肉包丁、か? いや、真琴の手を見ろ!」
 なんと真琴の方も鋭い刃物を持っていた。
 区別がつかない。
「――――あれは、どういうことだ?」
 鬼島も困惑する。
 通り魔が二人?
 どちらにせよ、走っても距離がある。管狐の白嵐とともに現場を歩いていた御樹、そして通り魔事件の調査で現場にいたフェンリエッタたちの瞳も凍った。
 間に合わない!
 パァン、と音がして、須戸の頭が吹き飛んだ。
 血と脳漿が撒き散らされる。
 首のない遺体はぐらりと横に倒れた。
 須戸の頭を打ち抜いたのは、独自に調べていたボードマンだった。
「なにすんだ、俺が、俺の獲物が!」
 真琴がボードマンに掴みかかる。
 ボードマンは冷静に告げた。
「君が手を汚す必要はない。君が、そんな男の為に殺人鬼の汚名をかぶる必要はないんだ」
 からん、と音を立てて包丁が落ちた。真琴が膝をつく。
「……じーさんに、いつか孫を見せるって、約束したんだ」
 ぽつりと呟く。
「……おやじとおふくろを、いつか旅行に連れてくって言ったんだ」
 ぼろぼろと涙が落ちていく。
「なんで、じーさんは殺されたんだ。オヤジは殺されなきゃいけなかったんだ。答えろよ、答えろ、うあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
 物言わぬ遺体に刃物を突き立てようとする真琴を、ボードマンと鬼島がおさえつけた。


 この日、通り魔が射殺された。
 浮気調査の依頼は失敗したというより『なかったこと』になった。
 それは『成功させてはならない仕事』だったからだ。
 通り魔を片付けた開拓者たちには、真琴の実母――澪から料亭の名義で、わずかながらの謝礼を渡された。


 参る者がいない寂しい罪人の墓を、開拓者たちは訪ねていた。
 名前と没年しかない、卒塔婆の墓だ。
 フェンリエッタが膝を折って、一本の蝋燭に火をつけた。
「――私ね。最初、彼が浮気相手に話をつけるのは筋違いだと思ったの。私たち開拓者にできる事は、寄り添って手を差し伸べるだけ……手助けだけ。けれど澪さんと須戸さんのことは……周りの手に負えない状態だった。どうにもできない問題だった。……それでも救いたい、と願うのは身勝手かしら」
 シュラハトリアが「さぁどーだろ」と相槌を打つ。
「まぁ、多分須戸さんが通り魔だろぉーとは思ったしぃ、邪魔な間男さんは消せるしぃ、お金も奪えるから、一石二鳥でぇ……奥さん振り向かせたくってイケナイ方法で稼いでたーっと考えてもおかしくはないかもぉ、って思ったけどぉ……須戸さんが、裏切られた被害者って線は考えなかったかなぁ。あんなコトで愛情を取り戻せるなんてぇ、本気で思ってたのかなぁ?」
 シュラハトリアが墓の雪を払う。
 スヴァルドは「愛なんて感情は所詮、幻……心ほど不確かなものはない」と言った。
 須戸は言った。
 澪が、夏の終わりに帰ってこなくなった、と。
 須戸の言った言葉は、確かに真実だった。
 けれど澪との話を重ねてわかったのは、それが十五年も昔の話だということだ。
 フェンリエッタが瞼を細める。
 あの後に。
 澪と話して、近所の女性に確認を取り、フェンリエッタがボードマンの聞き込み内容と照らし合わせて、わかったことがある。
「……確かに、近所も認める許嫁で恋人だった。婚約もした。昔は親同士も認めていた。
 けれど実際に結婚はしなかった。
 老舗料亭の跡取りとの縁談を手に入れた澪さんのお宅から、一方的に破談にされて、長い年月が過ぎてしまった。……調査結果を悪用する例もあるのは確かだわ。けど、人の道を踏み外した須戸さんだけを……責められないと思うのは、間違っているのかしら」
 通り魔の須戸に殺されたのは、澪の夫や祖父たちで。
 真琴は父親や祖父の愛人関係ではないかと思い、ずっと調べていたらしい。
 先日、茶屋で澪を誘ったスヴァルドが頬を叩かれたのは、澪が父親も夫も亡くしたばかりだったからだ。腫れの引いた頬をひと撫でしたスヴァルドが、独り言を呟く。
「愛ほど厄介なもんはない。俺も昔、覚えがある」
 もし事情を知っていて、須戸が澪と心中を選んでいたなら、スヴァルドは放置していたかもしれない。けれど須戸は、澪以外の排除を望んだ。
 人に実害を加えることは、許されないことだ。
 御樹が痛ましい眼差しを卒塔婆に向けた。
「澪さんの彼女の浮気を『浮気』と呼ぶ資格あるのか、どうせ正当性の主張だろうと頭から思っていましたが……この結果は」
 須戸には。
 澪の夫として、浮気と呼ぶ資格はなく。
 澪に裏切られた男として、浮気と呼ぶ資格はあった。
 須戸に『澪を恨む資格がない』と、一体誰が言えただろう?
「心の闇、計り知れません」

 信じて待ち続けて、狂った男と。
 裏切って幸せをつかんで、振り返らなかった女と。

 結局。
 救えなかった。
 止めることもできなかった。
 片方を葬り去ることで、終焉を迎えた。

 押し黙っていた鬼島が、汚れ役を担ったボードマンの肩を叩いた。
「……なんだ?」
 ボードマンが須戸を殺さなければ、今頃、真琴は人殺しの罪を着ていただろう。
 復讐の為に、人生を捧げていたに違いない。
「いや。ただ真琴が……親の不始末に巻き込まれなかった事が、せめてもの救いだな」
 真琴の祖父と父親を奪った狂人が、開拓者の手で葬られた。
 未来ある若者が人殺しにならずに済んだ。
 それでいい。
 そう思うしかない。
 音羽屋の三味線が寂しく響く。

 深々と降り積もる雪の結晶。
 切り捨てられた遠い過去は、冷たい雪の下で、永遠の時を眠る。