それは追憶に眠る粉雪の
マスター名:やよい雛徒
シナリオ形態: ショート
相棒
難易度: 普通
参加人数: 9人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2009/11/23 21:08



■オープニング本文

 いつまでも。
 いつまでも。

『はー、あったまる。ばーちゃんのが、一番うんめぇね』

 こうして毎日が続くのだと。



 吐息が白く色を持ち、虚空に溶けて消えてゆく。
 人通りもめっきり減った道の隅で、初老の女が蕎麦をゆでていた。
 寒空の下でも、ひっそりと営業する蕎麦屋である。
 襤褸の衣服に、肉のない枯れた四肢。指は皸でひび割れ、凍てつく寒さに身を縮める。小柄な体が益々小さく見えた。上等な着物の持ち合わせなど一切ない。何枚も擦り切れた羽織を重ね、日々を食いつなぐための小銭を稼ぐために、痛む体に鞭をうって道に立つ。
 夫も子供も、何年も昔、アヤカシに襲われて死に別れた。
 親しい者をなくすたびに、何度、川へ身を投げようと思ったか分からない。幾度も考えては、かろうじて踏みとどまってきた。身寄りも特別な才もない女としては、少なくとも人に胸を張れる暮らしをしているという誇りが生まれていったが、やはり老いていく身に寂しさは募っていく。
「あれ? ばぁちゃん、簪どこにやったんだ? ほれ、漆塗りの」
「よく見てますねぇ。物忘れが酷くなったんですよ、ほっといてくださいな」
「ははぁ、どっかで落っことしたな?」
 通りすがりの客と交わす二言三言に、不本意ながら生きている実感を覚える。
『美味しい』
 たった一言。
 他意無く褒めてもらえる事が、彼女にとっての幸せだった。
『ばーちゃん。いつもの』
「はー、あったまる。そういや、最近とんと、坊がこねぇなぁ」
 脳裏をよぎった若い男の声に重なって、馴染みの爺が首をかしげた。見据える先は、店の片隅。週に一度。若い開拓者がやってきて、その席に座る。しかし此処数週間、全く、訪れる気配が見えない。
「見世の方でも、さっぱり見ないぜ」
 ぴたっ、と手が止まった。
 新たに訪れた常連客が、会話に混じる。
 見世つまりは遊郭の方でも姿を見ない、そう言った。
「流石、開拓者様は違うねぇ。俺も太夫をかってみてぇなぁ。禿に新造ひきつれて、あっそれそれ」
「ばーか。あの坊に、そげな甲斐性があるかい。仲間連中に囃し立てられて一晩買ったが、茶だけ飲んで帰ってきたんだとよ。心に決めた女がいるって。もったいねぇ、そうは思わねぇかい雅さん」
 新たな蕎麦が茹で上がり、客に差し出す。
「どうだかねぇ。あたしゃあ廓の事は詳しくないけど、案外風流に楽しくやってたのかもよ。あんた達は、買うどころか相手にもされやしないだろ? さー食った食った」
「ひっでーな」
 笑い声に混じって三人目の客が舞い込んできた。
 賑やかな空気に、人は自然と導かれる。小太りの男は、はじめこそ愛想良く笑っていたが、話題の中心が常連の開拓者だと分かると、渋面を作った。全員の顔を見回して「しらねぇのか」と声を低くする。
「坊なら、もうこないだろうよ」
「なんでぃ?」
「この前、意気揚々とアヤカシ討伐にいったんだが、坊の参加した隊が全部やられちまったらしいからな。まだ若かったのに」
 若い命を惜しむ男達に混じって、冷静を装う雅の手が震え続けていた。


 簪を、探してきてはくれないか。
 襤褸を纏った初老の女が開拓者ギルドを訪ねてきたのは、雪のちらつく日の事だった。魔の森へ向かって果てた若者に、大切な簪を預けていたのだという。先日、アヤカシに食われたという話を聞いて、せめて簪でも残っていたら、回収してきて欲しいと願い出た。
「そいつの名前は? アヤカシ退治にいった若い男なんてごろごろいるぜ」
「蒼河といいます。二十歳くらいの侍だったと思います」
「失礼だが、どういう関係だ? 身内か何かか。借金とか何か」
「いいえ。いいえ、私達は‥‥そう、ただのお客とまかないの婆でした」
 不審そうに見上げた受付に対して、蕎麦屋の雅が微笑む。
 脳裏をよぎる、雪の日の思い出。

『ばーちゃん、おれんちで飯つくってよ。お代に、これ、あげるからさ』
『婆をからかうんじゃないよ、ひよっこが。そんな漆塗りの簪を、ほいほい人にくれるもんじゃないよ。いい人が出来たら、その娘におあげ』

 乾いた大地に染みこむ様に。
 笑顔の上を涙が辿って落ちていく。とめどなく溢れるものを拭わず、白髪だらけの彼女は重ねて答えた。

「大事な、お客さんだったんです」


■参加者一覧
万木・朱璃(ia0029
23歳・女・巫
犬神・彼方(ia0218
25歳・女・陰
鷹来 雪(ia0736
21歳・女・巫
虚祁 祀(ia0870
17歳・女・志
星乙女 セリア(ia1066
19歳・女・サ
のばら(ia1380
13歳・女・サ
黎乃壬弥(ia3249
38歳・男・志
沢村楓(ia5437
17歳・女・志
痕離(ia6954
26歳・女・シ


■リプレイ本文

 ある者はギルドへ、近所へ、蒼河の知人の元へと蜘蛛の子を散らすように姿を消した。黎乃壬弥(ia3249)が首を捻る。
「手持ち無沙汰になっちまったな。雅婆の蕎麦でも食いにいくかね」
 沢村楓(ia5437)と犬神・彼方(ia0218)が互いの顔を見合わせた。
「私も同感だ。蕎麦屋の常連に話を聞くのが早そうだし」
「俺も同行しよぉか。丁度、雅さんと色々と話したいなぁって思ってた」
 暇なら一緒にこいよ、と黎乃はのばら(ia1380)と痕離(ia6954)達も手招く。
「えへへー、ご一緒します。蒼河さんや雅さんのことについてお話を聞きたいと思います」
「‥‥ふむ、折角だし、僕も味わっておこうかな?」

 一方、ギルドへ足を運んだ白野威 雪(ia0736)は報告書と地図で現場を確認していた。
「じゃあ意気揚々と出かけたのは、高値の報酬だったからなんですか」
 万木・朱璃(ia0029)の声を頼りに、白野威が待合室を覗く。
「蒼河様はどのような方か分かりましたか?」
「駆け出しの気さくな若者だったそうですよ。ただ古風というか、つき合いで郭に行っても、お茶だけ飲んで帰ってきて。おぼこい野郎だ、って語りぐさになってるようです」
 年の割に、子供っぽい初な男だと、笑い者にされていたらしい。
 不作法だの、心に決めた女がいるだの、理由を付けては遊女の手を払ったという。
「その、想い人はいらっしゃったのでしょうか?」
「それが『絶対に手の届かないひとだ』と溜息をこぼしていたそうで。それ以外は何も」

 近所の主婦が、結婚を薦めたことがあったという。
 小汚い部屋で隙間風に震えながら暮らすより、広く暖かい部屋を借りて、嫁を迎えてはどうかと。その矢先、蒼河は頻繁に仕事を請け負うようになった。嫁を迎えるのかと思いきや、どうも様子が違ったという。
「どう、話されておられましたか? 大事なことなんです。教えてください」
 食い下がった星乙女 セリア(ia1066)に主婦は天を仰いだ。
「『人が集まれる広い家に住む』とか『俺はこんなだから、勝ち目がないんだ』とかいって、十になるウチの坊やの頭を撫でていたねぇ。『かーちゃんすきか?』とか聞いて」
「お子さん、ですか?」
「そ。面倒見のいい優しい子だったよ」
 主婦が立ち去り、星乙女が俯く。
「蒼河様、あなたの心は誰のもとにあったのですか?」
 重要な事だった。故人の思いを、届けるべき所へ届けたい。星乙女は空を仰いだ。

 虚祁 祀(ia0870)はといえば、蒼河に身寄りがないことを聞き出していた。一人でも身寄りがあれば、簪以外の遺品を渡すことが出来たのに。そう思えばこそ、口惜しい。
「誰もいなかったからかもしんねぇなぁ」
「どういうこと?」
「若い男は郭に興味があるもんだが、あいつは郭より年嵩の友人ん家に転がりこむ事が多かったのさ。子供と一緒になって泥まみれ。甘い恋仲より、家庭に焦がれてたんだろうな」
「蒼河が大事に思っていた人は? 誰か知らない、かな?」
「そうさなぁ、団子屋の娘と友達になったらしい、てのは聞いたな。よく虹屋で土産を買って、例の日も新商品を‥‥って、おい!」
 蒼河を知っている女性がいた。虚祁は走り出していた。

「いい匂いだぁねぇ。俺ぇの家の子にも美味いモン、食わせてやりたいよぉ」
 犬神が笑う。接客中の雅は、蒼河についての質問も冗談の相手もこなしていた。
「では、一杯頂こうか。重ね重ねすまないが、確認しておきたい。件の簪が折れていたり欠けている可能性もある。どのような状態でもよいのだろうか?」
「無謀なお願いだとは思いますが、あの簪だけは、欠片でも良い。この手に取り戻したい」
「悲しみに暮れるだけじゃダメです!」
 のばらは箸を放り出して勢いよく立ち上がり、俯いた雅の両手を握りしめた。
 転がってゆく箸を、動じない黎乃が拾って戻す。
「誰かが亡くなるのは悲しい事で、大切な人だったら‥‥、でも笑って上を向いていられたら、お空の上の人も笑顔が見れて嬉しいよって、母様はのばらに言ってくれました」
 元気付ける姿を横目に、漆黒の瞳がすぃっと細められた。音もなく唇が動く。
 この手に取り戻したい、か。
 隣の沢村を一瞥した黎乃は、空になった器を置いて立ち上がった。
「お袋の味って奴だな。芯からあったまるね。さぁて、腹も膨れたことだし、行くかね」
 皆が席を立つ。沢村は「美味しい蕎麦だった、ご馳走様」と背を向け、ふと振り返った。
「もう一つ。簪を回収したら全員に自慢の蕎麦を奢ってもらおう。それが報酬代わりだ」
 粋な台詞を残して、彼らは仲間達の元へと戻ってゆく。
「店が好きだって、必要だってぇ思ってる人が他にもいるって‥‥思ってくれたら、なぁ」
 犬神の独り言は、白い吐息と共に、虚空へ溶けた。

 捜索班は万木と白野威を基準に二班に分かれていた。
「大切な常連客‥‥といっても、大事そうな簪を渡すっていうのも、ふしぎな話、だね」
 涙が嘘とは思えない。大切の言葉にどれほどの意味があるのかと、虚祁が考える。
「でも、どうして簪を? 取ってきて貰うのも、渡したい相手が居た、のでしょうか?」
 のばらの顔を、虚祁達が見つめた。
 鬱蒼とした森も、浅く雪が積もり始めていた。
 この分なら、数日以内に銀世界が見られることだろう。つまり捜索に時間がない。
「難事ですが、蒼河様の簪、なんとしてでも見つけましょう」
 星乙女が声をかけて大地に目を凝らす。自分達も同業の身。いつ何時、蒼河の様になるかは分からない。生きた証を、何か持ち帰りたいと意気込んだ。同じように犬神もまた、想いや結末は様々なれど「救いぐらいはぁな」と草の根をかき分けてでも、必ず探し出す決意を固めていた。痕離も賛同する。
「簪‥‥無事に残っている事を願おうか」
「大切な人を亡くすのは辛いですよね‥‥それがどんな関係だったとしても」
 供養に神楽でも、と万木は呟く。
「ちっとでも残ってりゃいいんだがな‥‥外れ。何かねぇかな?」
 明らかに老人の手であったり、乾いた肉片であったり、女の足であったり、あまりにも無惨だったが、黎乃は他者の破片も、丁重に扱った。
 どれほど時間が過ぎたろう。
「あったぞ‥‥手放すはずもないか。大事にしてたのだな」
 二本の腕があった。沢村が固く凍り付いた指をほどく。血と泥にまみれていたが、雅に聞いていた、雪椿の鼈甲細工を盛り込んだ漆塗りの簪で間違いない。折れずに残っていたことを、天に感謝した。大切にしまい、沢村と黎乃が率先して墓を作り始めた。
 見つけた犠牲者の数にあわせて次々と墓を作る。
 痕離達も思いは一緒だったそうで、合流した虚祁達と共に埋葬し、花の種をまいた。

「女連れで廓、って長い経験でも初めてだぜ」
 艶やかな花街の中で黎乃は呟く。
 右に痕離、左に犬神。容姿端麗な女性が二人、むさ苦しい男の両脇を固めていた。
『羽目を外し過ぎないように。父様、見世から早く帰ってきてくれれば何もしませんよ?』
『朱璃さん、その首に巻こうとぉしてる鎖をしまってくれませんか』
『他には好きな花とかか? 見世‥‥何の話だ』
 脅す万木に怯える犬神、意図を図りかねた沢村。そして他の女性陣の冷たい視線。
「さぁて一緒に見世で情報収集といこぉかね。噂の見世とか行ってみよう。蒼河が買った遊女がいれば呼んで、何か言ってなかったか聞いてみよぉか」
「しっかりと目付役としての役目を果たそうか。‥‥遊びたくないといえば嘘になるけど、此処は踏ん張り所だ」
「お嬢さんがた。聞き捨てならない言葉は多分、本来俺の台詞だぞ?」
 女性同伴で羽目が外せないことを悩む黎乃がいた。ところが、これが面白い話に転じる。
「つれないなぁ? 俺みたいな奴を追い出すなんてこたぁ、しないだろう?」
 格子越しに遊女を虜にしたのは、流し目を送る犬神だった。
「なんだろうな。この敗北感は」
「なるほど。廓の作法は、ああすればいいのか」
 蠱惑的な空気に感心する男装の痕離と、死んだ魚のような眼差しの黎乃がいた。
 四人で部屋に篭もると、遊女は煙管を片手に紫煙をくゆらせて質問に答えていた。
「廓の蕎麦に『ウチの蕎麦が一番美味い』と文句言うわ、茶しか飲まずに溜息ばかりで」
「俺なら据え膳食わぬは、痛ぇ! ‥‥他には何を」
「目付役も大変だねぇ。なぁに、いつも雑談さ。時折相談とか、そうさな。女性に何を贈ればいいか、とかね。間柄を聞いて、雪椿を薦めたもんだけど。手鏡にしたか櫛にしたか」
「雪椿?」
「ふふ、『理想の愛』って意味だよ。廓の女を、なめないでおくれ」
 話の終わりに、黎乃が「所でお二人、俺今日手持ちがな」と話を切り出すと、遊女の目尻が釣り上がった。痕離と犬神が顔を見合わせる。遊女の買値は一晩三千文。おいそれと払える額ではない。
 今日は私が払ってもいい、と遊女が痕離の隣に来た。白磁の腕が絡みつく。
「綺麗な顔だね。文無しと女は兎も角、あんた、次は一人でおいでよ」
「えー‥‥と。今日が仕事で、僕も残念だ。蜜月のような享楽の時間を期待して良いのかな」
 痕離は、廓の作法をどう解釈したのか。二人の観客が、物言いたげな顔で黙っていた。

 白野威が簪を、雅に手渡した。
 頭を垂れて感謝した雅が、沢村との約束に従い蕎麦を振る舞う。
 まず虚祁が「虹屋を知っているか」と尋ねた。美味しい団子屋さんだね、私もよく食べていたから好きなんだ。そんな優しい笑顔に、虚祁が胸を撫で下ろした。
「実は、亡くなる直前も、帰りに新商品を買いに行くと言ってたそうで。団子屋の娘とも友達だったみたい。足繁く通うくらいだから、私は蒼河が大事に思ってた人じゃないかと見たんだけど、会ったらどうかな」
 のばらが身を乗り出す。
「そう! 簪は預かってるようなものだ、って前にいってましたよね」
「あぁ、出張時は必ず返していたけどね。旅先で何かあっても、売れば金になるし」
「思い出を語り合うのは、寂しさが強くなりますけど、一緒に悲しんでくれる人がいたら、早く立ち直れますもん。思い出を胸に生きていけます。お会いしてみませんか」
 新しい絆の橋渡しをしてやりたいという、善意だった。
 渡したい人がいたのでは、という言葉に簪を一瞥する。
「あんた達は、優しいね。見ず知らずの蒼河の気持ちを、大事にしてくれるんだね」
 蕎麦を配り終えて、雅は一旦腰を落ち着けた。
「でもね。蒼河はアヤカシに食われちまった。仮に‥‥虹屋の娘に蒼河の事を伝えて、その後は? 若い娘に、この簪は『重すぎる』よ?」
 意図を図りかねた虚祁達は眉を顰めた。
「私が簪を渡したら、娘もきっと、冥福を祈ってくれる。私の気も楽になるだろう。けれど、それが続くのは『いつまで』だと思う?」
 永遠を願うのは酷な話だ。
「年若い娘だ。縁談も言い寄る男もこの先、確実に増えていく。その時、簪を手荒に扱えず、捨てる事にも罪悪感を持つだろう。好いた男の前で、飾るわけにもいかない。思い出にするには、死の直前まで抱いていた簪は重すぎる」
 これでいいんだ、ありがとう。
 雅は笑った。でも一から始めてみるよ、と。
 故人の思い出を語らうのではなく、友人を共通にする団子好きの婆と看板娘として。

 遠ざかる虚祁達の後ろ姿を目で追ってから、押し黙っていた星乙女が顔を上げた。
「あの、雅様。不躾ですが、もしや年の差などを考えて押し殺していただけで蒼河様の」
「きっとね」
「え?」
「何も言わず、蒼河からの土産だよ、って渡す事もできたんだ。きっと喜んで受け取ってくれたろう。雪椿の鼈甲がついた漆塗りの簪だ。嫁入り前までは見栄えのする御守りとして、嫁入り後は売る事で娘の私財として役立ったかもしれない」
 まかない婆としての顔は、そこにはなかった。
 雅の瞳が深淵を映す。「お見通しだね」と苦笑を漏らし、秘めた胸中を、吐露していく。
「私は醜い女さ。軽蔑され、恥知らずと言われても仕方がない。夫も子供も愛しているのに、蒼河の事も捨てられない。‥‥盗られたくないんだ。人の心の、なんと罪深きことか」

 追憶に眠る。
『ばーちゃん、おれんちで飯つくってよ。お代に、これ、あげるからさ』
 あの雪の花が舞い散る冬の日。

「嬉しかった。誰からも必要とされず、道端で老い朽ちていくだけの身に、再び女の装いを与えてくれたことが。親孝行をしてみたい、せめて母代わりだと思わせてほしいと言われて、渋々受け取ったけれど。年甲斐もなく、狼狽したことは‥‥今でも忘れられない」
 枯れた肌の上を涙が辿っていく。犬神が背をかがめて覗き込んだ。
「少しでも生きる力になれぇね? 生き抜いた上で、今度こそ堂々と簪を受け取るんだ」
「命ある間だけだよ。分かってるんだ。四十とはいえ、私も人の身。もう初老さ。いずれ先立った夫と我が子の元へ往く。けれどその場所に、蒼河の簪をさしてはいけない」
 利己的だということは理解していた。
「せめて‥‥拝んでやって欲しい。春先にはきっと花も咲くことだろう」
 沢村が方向を指さした。痕離が箸をおく。
「雅殿。蒼河殿は『ウチの蕎麦が一番美味い』と言っていたそうだ。僕も同感だ。美味しいお蕎麦をありがとう、雅殿‥‥また来るね」
「旨かった。次は娘と来るぜ」
「とても暖かくて美味しいです。雅さん、またきます」
 黎乃と万木がのれんをくぐる。白野威が、蒼河の簪を雅の髪にさした。
「お蕎麦ごちそうさまでした。どうか蒼河様との思い出を大切になさってください。蒼河様は雅様の中で生きておられますから」

「有り難う、お嬢さんたち。‥‥ごめんね、蒼河。私の我が儘を、許しておくれ」


 いつまでも。
『雪が降ってきたなぁ。寒い部屋で悪い、これいつもの』
『虹屋の団子じゃないか。‥‥浮かない顔だね、見世の花は綺麗だったろうに』
『別に単なるつき合いさ。今日隣ん家の坊主を見てさ‥‥つくづく、二十年ほど早生まれだったら、と思ったかな。ねー雅さん、今でも旦那とさ、子供のこと愛してる?』
 いつまでも。
『婆を泣かす気かい? 当然だろう、生きていれば十歳位か』
『そっか。じゃあ‥‥坊を泣かせるのは、悪いなぁ』
『なんか言ったかい。風邪を引くよ、早く蕎麦をお食べ』
『べーつに。はー、あったまる。ばーちゃんのが、一番うんめぇね』
 こうして毎日が続くのだと。
 微睡むような、幸福の中にいた日々があった。


「人を好きになるのに、年齢は関係ないのですね‥‥ねぇ、黎乃のおじさま。簪をおねだりしてもよいですか? 勿論、漆塗りの。廓の代金、丸々浮いたのでしょう?」
 星乙女が悪戯っぽく笑って腕を絡めた。私もー、私もー、私もー、と暗い気持ちを吹き飛ばすように、次々名乗りを上げていく。沢村が蕎麦屋を振り返った。
「明日も顔を拝みに行くか。『いつもの奴を』といってな」

 雪は散る。夜空の瞬く星の煌めきが、降りそそぐように。
 静寂の道を包み込む純白は、いつしか全ての色を、無垢に塗りかえることだろう。