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■オープニング本文 ※このシナリオはパンプキンマジック・シナリオです。オープニングは架空のものであり、DTSの世界観に一切影響を与えません。 そこは、わたし達のすべて、だった。 重々しい年代物の扉をくぐり抜けて。 視界を埋め尽くしたのは、緑鮮やかな庭園に色彩豊かで華やかな花壇。太陽の日差しを浴びて水晶のように輝く水飛沫の下には、高名な芸術家に彫らせた大理石の女神像が水瓶を抱えている。乱れの欠片も感じさせない広大な庭の彼方には、贅の限りを尽くした白亜の邸宅が佇んでいた。 貴族が住まうカントリーハウス。 またの名を、マナーハウス。 マナーというのは、荘園を意味する言葉である。 かつては下級貴族が滞在する屋敷であったマナーハウスは、時代が移り変わり、世間が平和になるに連れて、堅固な城に住む必要の無くなった貴族達の拠点へと変化していく。城壁を取り払い、分厚い壁を排した屋敷は生活空間としての快適さを主眼におきながら、やがて社交や政治目的に活用されるようになり、屋敷でゲストをもてなす機能を充実させつつ、主人の社会的ステータス向上の目的も備わるようになり、より豪勢な造りに変化していく。 この屋敷もその例にもれず、余るほどの財を抱え、数多くの使用人を雇い、屋敷の中を素晴らしい調度品で飾り立てていた。 この屋敷の主人は『ユズヒラ』という変わったミドルネームを持っていた。 鋭利な美貌こそ英国人さながらではあったが、片親がアジア人との混血で、中級貴族の家庭に生まれている。青き血統を重んじるこの国において異端とも呼ばれるつまはじき者のはずではあったが、類い希なる商才で侯爵家すら一目おくほどの巨万の富を、彼一代で築きあげた。 「ではいってきます。後は任せますよ、キリサメくん?」 「かしこまりました。いってらっしゃいませ」 アジアから見込んで連れてきたキリサメという若者。 彼が現在、この屋敷の執事である。 使用人を雇うことは、一種のステータスに繋がる。それほど裕福ではない家庭も、最低一人は使用人を雇い入れた時代だが、この主人は自らの財力を示す意味も含めて、様々なところからひょっこり使用人を連れてきては、使用人に預けて一人前にして送り出す、という風変わりなことをしていた。 肌の色も、生まれも問わない。 きっと自らの境遇を重ねてだろう、とは先日亡くなった先代のヘッドキーパーの話だ。 なにしろ、主人が出かけてしまうと、この家に住んでいる居住者はといえば、病弱な娘のミゼリ様とまだ遊びたい盛りの息子アンズ様しかおられない。時々訪ねてくるお客人といえば、ミゼリ様の主治医のシノノメ夫人、あとは他のご兄弟や兄夫婦様くらいしかいなかったからだ。 「ではみんな、仕事に戻ろう」 船旅に出かけた主人を送り出した使用人達は、自らの持ち場へ戻る。 大勢のスタッフを抱えるこの屋敷では、軍隊組織さながらに担当区域ごとに仕事が割り振られ、役割が細かく決められていた。 執事の仕事といえば、屋敷の円滑な運営から各種マネジメント、社交イベントの運営管理と多岐に渡る忙しさだが、他の者も負けてはいない。料理や食事の後片付け全般を担ったコックたち。ベットメイキングから部屋の掃除洗濯に加えてゲストの対応やお茶の準備までこなしたハウスキーパー。子供の世話や遊び相手を務めたナニー。亡き奥方の部屋を生前のままに保ち続けつつ、愛娘ミゼリに淑女としての教養を与え続けた有能な侍女。馬車の運営管理を務めたヘッドコーチマン。庭園と菜園、温室の名人だったヘッドガーデナー。猟場の維持管理から密猟者を取り締まったヘッドキーパー。 上級使用人ともなれば、まさにどんなお屋敷でも通用する専門家と言えたに違いない。 有能な彼らを頂点に、お屋敷は静かに時を刻んでいた。 充実した人生。 まさか主人の乗った豪華客船が沈没するなんて、夢にも思わなかった。 自分たちが追い出されるなんて、考えもしていなかった。 運命を分けた春の夜。 事業の崩壊。一家離散。 悪夢の知らせが、わたしたちの幸せを壊した。 この屋敷が、我らの全て。 長年暮らした、わたしたちの故郷。 永遠に語られる最期のひとときを、共に過ごそう。 |
■参加者一覧
劉 天藍(ia0293)
20歳・男・陰
御樹青嵐(ia1669)
23歳・男・陰
天霧 那流(ib0755)
20歳・女・志
蒼井 御子(ib4444)
11歳・女・吟
シーラ・シャトールノー(ib5285)
17歳・女・騎
ジャリード(ib6682)
20歳・男・砂
シャンピニオン(ib7037)
14歳・女・陰 |
■リプレイ本文 早朝に旅立った主人の見送った執事キリサメは、定時通りの多忙な仕事に戻る。 かつて執事職は、バトラーの上位職として屋敷を預かる最高責任者ハウス・スチュワード(家令)と、貴族の財政を支えて領地経営を行ったランド・スチュワード(領地支配人)に別れていた。 しかし英国使用人の全盛期ヴィクトリア朝を境にして、貴族達の雇う使用人の数は減少し、バトラーがスチュワートの役割を兼任する様になる。これはメイド職も同様に統一化が進み、メイドオブオールワーク大半を占めた。 『もう旅立たれたの? 何故教えなかったのよ』 異国の言葉。 足音は全くしないのに、鍵束の音が鮮明だ。 『ティエンが港までお送りした。‥‥たまにはナルを休ませてやれ、とさ』 執事キリサメに声をかけたのは、慌てた様子で駆け下りてきたハウスキーパーのアン・サリンジャーだ。ナンシー或いはナルの愛称で親しまれた彼女は、コックや侍女を除く女性使用人の監督責任者で、屋敷の留守を預かる、いわば執事と対成す存在だ。 『それほど疲れる仕事をした覚えはないのだけど。同行しなかったのね』 『今回はヴァレットで十分だと。けど‥‥色々とお見通しだと言われた気がするな』 溜息を零すキリサメが、ナルの髪留めを結び直す。 誰もいない早朝だからできる接触だ。 ナルは、元々キリサメと同郷の幼馴染である。 海を渡ったキリサメを追いかける為、アジアにいる実父と懇意だった外交官のオリヴァー・サリンジャー氏に頼み込んで養女にしてもらい、アン・サリンジャーという新しい名前と英国身分を得た。そしてレディ・ハウスキーパーになった特殊な経緯がある。元来の名前はナル・アマギリというのだが、アンの愛称はナンシーで、オリヴァーの娘という意味でナルとも呼ばれる為、余り違和感はないらしい。 『‥‥もういいわよ、誰かに見られたら大変だし』 ナルやティエン達、上級使用人は社会的地位もあり、時に家族を養う巨額の貯金も可能だった。しかし執事職やハウスキーパーに求められるものは有能さと忠誠心であり、結婚や子供をもつ事に対しては主人の理解次第と言えた。 「キリサメ様」 第三者の声に、二人は心底驚いた。 慌ててキリサメに昨日の仕事のダメだしをして立ち去るナルに対して、一方の声の主は何の感慨も見せぬ表情で、主人不在期間の屋敷の仕事を淡々と尋ねる。 彼は、昨年フットマンからアンダーバトラー(副執事)に昇格したジュード・トルーマンである。 顔立ちこそアラブよりで名前もヘブライ語を起源としているが、言葉や身振りも英国人に相応しい。 『知っていますか。ジュードは賞賛とイエスの兄弟、トルーマンは信用の置ける人という意味があるんですよ。口数は少ないですが、私は砂粒から砂金を拾ったと思っています』 呑気な口振りで語った主人の読みは的中した。 ある日教えていない仕事が完璧に終わっている事が増えた。全て見て習得しているらしい。今では数百人分の銀食器と金の手入れといった財産管理を任されている。 「‥‥では、来客予定のない午後は自由にしていいと連絡しておきます。ところで、この時間はお暇だろうか?」 珍しく饒舌なジュードに首を傾げたキリサメが「ああ」と首を捻る。 「よろしければ、ワインの維持管理を学びたいのですが」 こればかりは自己習得が不可能と判断したらしい。 執事とアルコールは複雑な関係にある。 屋敷では膨大な種類と量の酒が常にあり、管理は執事が行っていた。ワインを適切に管理する為、屋敷を訪問したゲストを喜ばせる為、優秀な執事はワインに気を配り、料理と調和するワインを選ぶ為の専門性を高める必要があった。 とはいえセラーブック(帳面)を誤魔化したり、廃棄対象にすることでワインをくすねられる立場にいたのも事実で、執事のアルコール中毒は社会問題になるほどの重大な職業病でもあった。 「‥‥大変だぞ?」 「心得ています」 早く一人前になりたい、ジュードの愚直で真摯な仕事ぶりは絶対的な信頼を勝ち得た。 最も数量や品質、適切な維持管理は勿論、ワインを出す頃合い、グラスの種類と置き方、更にポート、マデイラ、シェリー、カルカベラ、ラム、ティントマデイラ、シプレス、コンスタンティア等、何百もの銘柄に泣かされることになるのだけれど。 一方、執事の次にワイン触れられたコックは、少々特殊な立場にいた。 役職上は執事やハウスキーパーの下位に位置するが、上級使用人であり、執事もハウスキーパーもキッチンへの介入はできなかった。腕のいいコックはキッチン内の絶対的な支配者であり、屋敷の財産だった。 現在のコック、アラン・ミラーが転職する際の逸話がある。 『ところでナル。ラスカリタ家の晩餐を手がけたコックは腕がよかった。アラン・ミラーでしたか。彼に接触して、今以上の給金を提示しなさい。きっと彼はくるでしょう』 『しかし、それは盗むようなものです。できません』 主人はハウスキーパーの良心を、次のように宥めた。 『彼には変化が必要なのですよ』 幸い引き抜きは成功し、アランは屋敷にきた。それは単に給金が高いだけでなく、傍で働く部下も多く、総合的に良い待遇が決め手である。現実主義のアランは、メイド達に恐れられ、ハウスキーパーのナルと幾度か衝突しつつも、大凡好意的に迎えられた。 何故ならば、前任のコック・バートリエが問題児だった為だ。味見と称してワインを余計に飲んだり、晩餐に使う豆の量を間違えたヘッドガーデナーのリトルヴィタを、包丁を振り回して追いかける狂人ぶりは有名だ。 一方のアランは滅多に怒らず、何か盗む様子は一切なかった。助手の育成にも熱心で、過酷な立ち仕事に文句も言わず、一日三回の各三種類、延べ九回分のメニューを毎日限られた時間で作り、ミゼリ嬢の体調に合わせた料理や、幼いアンズの好き嫌いにも完璧に対応した。更に、上級使用人と下級使用人の食事も作る複雑で量の多い仕事ぶり‥‥と、此処までくると前任者の狂人ぶりも分からない訳でもなく、常に冷静で忍耐力に秀でたアランの方が普通ではない事がわかる。 鉄の理性を支えたものは紛れもなく野心だ。 新しい主人に恩義と忠誠感じつつも、如何にそれを利用し、自らの立場を遙か上位に売り込んでいくか、を常に意識していた結果に他ならない。 「ご主人様の長期船旅、ですか。腕の奮い甲斐がなくなりますね」 アランの小言の相手は、もっぱら副執事のジュードと、キッチンメイドのシーラ・オゥコナーの二人だった。用件を伝えて銀食器磨きに戻ったジュードの背中を眺めながら「ですがね、シーラさん」と、アランは助手を振り返る。 「こんな主人の不在時も、コックたる者、気を抜いてはいけません。ミゼリお嬢様はまだ未婚でいらっしゃる。どこぞの侯爵家や伯爵家の若に見初められるか分かりませんし、ぼっちゃまは未来のご当主ですからね」 言葉の端々から使用人の成り上がり方を教えていた。 つまりミゼリに料理の味を気に入られた場合、もし彼女が上流貴族に嫁いだ場合、病弱な夫人の病状を知り尽くした有能なコックとしてお抱えになれる可能性がある。またアンズに気に入られた場合、今代の当主で更なる出世は望めなくとも、次の世代で上流貴族に接触し、引き抜かれる可能性もある。 『私たち使用人が成り上がるには所詮、腕と有力貴族の寵愛しかないのです』 背中は語る。 「そういうものなのでしょうか」 腕利きのアランから日々、料理の腕と処世術を学ぶシーラは、他の中流貴族の屋敷でコックとして十分通じる素養があった。これは努力で身につけた技術である。 シーラは元々アイルランドに生まれ、生家の貧しさ故に幼い頃から奉公に出された。幾度も奉公先を変え、現在の屋敷に落ち着いて初めて、昇進の道を歩んでいる。全使用人の中で最も下っ端のスカラリーメイドとして働きはじめて「給金が安い」「重労働」「単純作業の繰り返し」という三重苦を長年耐えた。キッチンメイドに昇格しても前任コック・バートリエの横暴と暴力に悩み『いつか美味しいお菓子をつくりたい』という願いが彼女を支えた。盗み見たレシピ、舌で覚えた味、それら全てを再現できるようになったのは、新しいコックのアラン・ミラーに一目置かれ、物怖じせずに料理の会話が可能になってからの話である。次第に材料の下準備、同僚に出す料理、屋敷の主人達が口にするデザートを任されるまでになった。 「それにしても今日はローストターキーに特製グレイビーの予定だったのに」 材料一覧を一瞥したシーラはアランに判断を仰ぐ。 主人が長期旅行に出る場合、多くの食材が無駄になってしまう。 ミゼリとアンズの料理は、元々健康が重視された特別製なので、そこに贅沢なメニューを加えても意味がない。こんな時、コック達の職務上の役得が最大限に発揮される。それは犯罪と紙一重だったが、彼らは料理の過程で出る副産物を私物化できた。しかしアランのやり方は特殊だ。 「いつもの取り決めに従うまでです。シーラさん、皆さんに聞いてきてください」 アランは出張の多い主人と一つ、取り決めていた。 無駄になる食材の数々を『屋敷を守る使用人の中で消費し、ボーナス的な待遇に変えては』と提案したのだ。これにより使用人達は一定の選択権が与えられた。それは主人に並ぶ贅沢をするか、決められた物量内で品物を受け取るか。 「じゃあ、聞いて回ってきます。昼食の手伝いは?」 「結構ですよ。暇なくらいです」 主人や来客、パーティーがないと、キッチンの仕事は非常に楽になった。 「お洗濯やベットメイキングも終わったし、昼食の前になったら呼ぶわ。それまで好きにしていて」 鍵束の音を響かせながら、ハウスキーパーのナルがスティルルームから出ていく。 屋敷の母の許可に「はぁい」と愛らしい声音を響かせたのは、スティルルームメイドのチャンドラだ。かつて薬の蒸留や領地内の怪我人看病で活躍したこの部屋は、時代を経て使用人専用の台所として機能し、ハウスキーパーが蒸留とデザートや保存食の調理を引き継いだ。スティルルームメイドはハウスキーパーの懐刀となり、その作業は上級使用人の給仕の世話や汚れ仕事が主体で、後はお菓子作りに専念した。とはいえチャンドラは余り過酷な仕事を任されていない。何故ならば、没落したインド商家の令嬢だった為である。血統的には王族の末端に位置し、父親の伝手で屋敷へ引き取られた。身分差に強く縛られなかったチャンドラは、家人や使用人達を兄姉のように慕った。 「チャンドラ、いる?」 シーラだった。しかし毎回チャンドラは物品で受け取る為、調査はチャンドラにお菓子の作り方を教える為に立ち寄る口実である。シーラとチャンドラのお菓子に限定した師弟関係は、ナルに黙認されていた。 「今回の分だけれど、小麦粉や砂糖や卵に変えて持ってきていいの?」 「うん! あ、でもこれからはベリーが旬だから、少しもらえたら嬉しいな!」 流石に海外へ仕送りは不可能だ。チャンドラは割り当てを自分で消費し、技術の向上に努めることにした。実験的なお菓子の数々は、大半がリトルヴィタやティエン達の胃袋に納まった。 「いい匂い。もうお茶の仕度は済んだの?」 「うん。今日のアフタヌーンティーは、バターと蜂蜜たっぷりのマフィンにオートミールクッキーにチャイ、インドのお茶は絶品だよっ! 昼食の後に作るけど、まずはお試し」 いつも焼きたてを届けたい。 暇な時間はいつも余り物で様々なお菓子を作った。 スフレ、マカロン、メレンゲ、ゼリー、ムース、タルトやケーキ、時にベニエやクロケット。 「自由時間、ヴィタちゃんとお茶しようと思って。そろそろご主人様を港に送ったラン兄様も戻ってくるし、きっとジュード兄様と歓談すると思うから」 チャンドラは、よくティエンやジュードに茶菓子を届けた。しかし持ち出しの食材は、下級使用人にとっては財産である。美味しいと言ってくれる笑顔が何よりの報酬だと考えていたが、お菓子の出来に応じて、ティエン達は空の皿やバスケットの中にお代を置いた。2シリングは要勉強、3シリングは普通、4シリングは上出来。時に5シリングも与える気前の良さは、ティエンが上級使用人故の恩恵だ。 12ペンスで1シリング、20シリングで1ポンド。5シリング6ペンスもあれば、ベルベットの黒いボンネットを買えた時代背景を考えれば、茶菓子の配達はチャンドラの大事な稼ぎ口だった。初めは遠慮して返しに来たチャンドラも、いつか故郷に帰る旅費として堅実に貯めるようになる。夢は、親に再会することだ。 「いってきます!」 試作品のマフィンを籠に詰めて、チャンドラはスティルルームを飛び出す。 目指す先は、ガーデナーの庭だ。 「ア・リトルはどこ?」 「キッチンガーデンと畑の指導に行っております」 この屋敷にはヘッドガーデナーを頭に据えて、主任に一流、そして若手と見習いのガーデナーがいた。ガーデナー達の総勢は20人にもなるが『全く手が足りない』とリトルヴィタはよくぼやいている。主人を感動させる庭園は勿論、形が整った樹木や生け垣で作られた迷宮、庭園や花壇や芝生の管理だけでなく、食事に出される野菜や果物、屋敷内を彩る観葉植物や花はガーデナー達が育てたものだからだ。 リトルヴィタが率いたガーデナー達の腕前は、晩年のシーラがこう評している。 『コックのアランは、よく私に言ったわ。彼がこれまでに買わなければならなかった野菜は「冬場に時々必要になったエンドウ豆の缶詰ぐらいで、それ以外は全て屋敷のガーデンから手に入った」って』 貿易商のユズヒラは海外から様々な植物を英国に持ち帰った。 それを風土の異なる英国で育てなければならず、時には一年中主人の求める花や果物を温室で育てる仕事を課された。無茶苦茶な難題である。これに唯一応えたのが、この時十八歳だったリトルヴィタだ。年輩のガーデナーは沢山いたが、オーダーをこなせなかった彼らは幾度も主人の逆鱗に触れた。しかし幼少時代から培われたガーデナーの知識は、リトルヴィタが十歳になる頃には一流として通用し、十六歳の年には前任のヘッドガーデナーから後継者として推挙されている。天才肌の若造が上級使用人として指導に立つことを妬む者は多くいたが、優秀な仕事ぶりには舌を巻いた。何よりヘッドガーデナーとなったリトルヴィタには部下の人事権があり、例え主任ガーデナーでも業務に悪影響を及ぼす者は容赦なく解雇できた。加えて部下の給与支払い、莫大な庭の維持管理費という資産の管理も任されていた為、給与の百倍近い資産運営も揺らぐことなく管理したリトルヴィタは、紛れもなくヘッドガーデナーの器に叶ったといえる。 そして日々畑と庭の問題で悩むリトルヴィタの心和む時間が、チャンドラと過ごす休憩時間に他ならない。同じ頃に屋敷に務め、年が近い二人は、気軽に相談事ができる良き友人の仲だった。 ところで畑に向かったチャンドラは、リトルヴィタを見つけられなかった。 身長の低さが禍し、頻繁に植物の垣根に埋もれてしまうためだ。 「ヴィタちゃーん」 反応がない。そこで最終手段に出た。 「ア・リトルー! ちっちゃい、ヴィタちゃぁぁん!」 物凄い勢いで草木が動いた。 「ちっちゃい、ってゆーな!」 本人も気にしているらしい。 「お仕事おわりそう? 自由時間をもらったからお茶にしようよ!」 「もう少しかかるかな。温室の修理業者がこなくて」 その時、遠くから馬の嘶きと馬蹄の響く音が聞こえた。 「あ、ラン兄様が帰ってきた。先にお茶菓子届けてくるね! また後で!」 チャンドラは跳ねるように畑から遠ざかっていく。 まだ温かい茶菓子を、一仕事終えたティエンに届けなければならない。 一方、早朝早くから主人を港まで送り届けたヘッドコーチマンのティエン・ラン・ウェンライトは、屋敷に戻るや儀礼用のお仕着せを片づけると、厩舎で働くグルーム達と同じ格好で戻ってきた。 本来、コーチマンの仕事は馬車を操り、馬の売買マネジメントを行い、馬具の手入れや馬車のメンテナンス、精々馬を馬車に繋いだり外す位で、ヘッドコーチマンはマネジメント業務が主体だが、ティエンの場合は少々勝手が違う。 というのも。 彼が愛した名馬は、血統も質も頭も良いが、癖の強い馬ばかりなのだ。 「‥‥ブリュンヒルデ、いい加減にトランシバを毛嫌いするのはやめような?」 気性の荒い雌馬に説教をしつつ、そしらぬ顔で気取った雄の黒馬に溜息を零す。 ティエンの優れた馬を見抜く目と、気難しい馬を手名付ける技は、名ヘッドコーチマンの祖父から教わった。屋敷には馬車馬以外に、農場で使われる農耕馬、主人達が騎乗する乗用馬、狐狩り専用の狩猟馬にアスコット競馬場に出す競走馬と、一口に馬と言っても、その用途は多岐に渡った。九割の世話は部下のグルーム達に任せているが、ティエンが二頭に対して特別に熱意を注ぐのには理由がある。 「絶対に美人で早い馬になると思うんだけど、先は長いな」 つまりブリュンヒルデとトランシバを掛け合わせて、競走馬用のサラブレットを作ろうとしていた。何分、優秀な人間にしか従わない気難しい馬なので、今はまだ並んで走らせるのが精一杯だが、いつか成果を出してみせると意気込む彼の熱意は凄い。 「いつか乗りたいなぁ」 「アレは相当なじゃじゃ馬だぞ。なぁティエン」 昨年引退した祖父と話し込んでいるチャンドラに、ようやく気づいたティエンが近づいてくる。 バターと蜂蜜のマフィンを受け取った。 「これからジュード兄様とお茶だよね。お昼までに感想、きかせてね」 「午後からアンズぼっちゃまと乗馬のお約束があるから、いい話のネタになりそうだ。けど、まだジュードがきてないな」 首を傾げたティエンは、遠くから千鳥足で歩いてくる親友を見つけた。 彼の手には、何故か高価な酒が一瓶握られていた。 「年代物のケイン・スピリッツじゃないか。どうしたんだ、それ」 「‥‥ミゼリお嬢様から、頂いた。ワインの勉強を、始めたとお話したら、昨晩の料理に似合う別の酒をもってこい、と言われて」 突然の難題を与えられたジュードは、過去に執事が選んできた酒の記憶を引っ張り出し、ろくに味も分からないまま一本を差し出した。幸いにも正解であり、ご褒美として与えられたらしい。自分は飲めないけれども、お父様の為に今後も期待している、という激奨つきで。 「俺も呑んで良いのか?」 「そのつもりで持ってきたんだが」 「今か? 仕事大丈夫なのか?」 「来客予定はないし、もう呑んでる。午後も、多分呑むな」 ジュードの目は少し赤かった。千鳥足の原因だ。一口ずつの少量とはいえ、酒のテイスティングをする以上、アルコールの摂取は避けられない。極上の酒を前に、酷く悩んでいる生真面目二人の姿は、少し笑えた。 マナーハウスの時間は概ね、平和に過ぎていた。 永遠に続くと、信じていた。 人生設計が狂ったのは、この僅か五日後の1912年4月15日の事である。 屋敷の主人ユズヒラが乗船した船は、北大西洋航路用に計画した3隻の旅客船の2番船で、英国が誇る世界最大の豪華客船‥‥のはずだった。しかし歴史に語られるとおり、かの船は氷山に激突して衝突から2時間40分後の2時20分、虚しくも海の藻屑と消える。 主人のイタズラな計らいで屋敷に残されていた執事のキリサメは報告を受けてすぐ、ナルに屋敷を任せ、ジュードとティエンを連れて、港に出かけて主人を探した。日に日に死亡者の数は増し続け、生存者は乗員乗客を含めて僅か三分の一に留まり‥‥ 最期に見つけたのは、元の美貌が見る影もないほど朽ちた、哀れな主人の遺体であった。 こうなると悲しみに暮れる暇もなく、屋敷の中は忙しくなる。 主人の愛娘ミゼリを当主に立てることが不可能と判断するや、執事達は破綻寸前だった事業を二束三文で売り払った。次に何処まで屋敷が維持できるか考えてはみたが、結局の所、莫大な維持費のかかる屋敷を速やかに売って小さな家を買い、慎ましくとも姉弟が生涯暮らせる財を確保するのが先決という結論に至る。 それは長年家族のように接してきた使用人達の失職を意味していた。 突然の解雇通知に、動揺しない使用人はいなかった。 ある者は泣き叫び、ある者は罵声をあげた、無関心を貫く者もいたが、下された決定は覆らない。徐々に人員を整理し、家財を売り、美しかった屋敷は閑散としていった。 「この状況でパーティーなど、理解できませんね。力を失った家には興味ないのですが‥‥まあ、最後の義理は果たしましょう」 「お嬢様の御意向ですよ。もう会えないかもしれませんし、みんなが‥‥このチョコレート・プティングの味を忘れないでくれたらいいな」 ミゼリの希望でキッチンでは着々と食事の支度が進んでいた。 並べられた銀食器に、豪勢な食事の数々。 不思議な感覚を覚えるのは、それが共に過ごす最初で最後の晩餐だからに違いない。 本来雇い主と使用人が同じ食卓を囲むなど考えられない話だが、今回は特別だ。贅沢な食事を共に囲い、最期にミゼリは告げた。 「今までお父様に仕えてくれてありがとう。家を守れなくて、ごめんなさい。私もアンズも、皆さんと一緒に暮らせて楽しかった。明日にはもうバラバラになってしまうけれど‥‥これは、私から皆さんへの感謝です」 そこで純銀の杯を手に取った。 「スカラリーメイドを解雇したので、お皿は自分で洗ってください。そして洗った銀食器は一式ずつ、皆さんに差し上げます。お給金の代わりに」 銀食器は貴族達の財産に直結する。今後姉弟の生活資金の一部となるはずだった銀食器を、ミゼリは最期まで屋敷に務めてくれた使用人達に贈った。 それは最大限の誠意だった。 食後の後始末を終えると、使用人達は順に挨拶をした。 「俺は、競売にかけられた馬についていきます。どうぞお元気で」 老いた祖父のことを考えたティエンは、他の貴族宅へ務めることが既に決まっていた。 これはジュードも同じ事で、屋敷の格は下がるが、幸運にも同じ副執事として迎えられることが決まっていた。 「ボクは庭を守る。それだけだよ」 リトルヴィタは庭の管理を続けると言った。新しい買い手がつこうがつくまいが、自分が生涯を捧げると決めた庭は、此処しかないと考えた為である。幸いにも貯金は何年分の年収にも相当し、食材は庭を弄れば手に入った。 アランが荷物を纏め、シーラが家族達の為に、ありったけの材料で手土産に持たせる保存食作りに取りかかり。 そしてここ最近の激務で疲れ果てた執事の居眠りを見つけたチャンドラは、そっと背中を借りた。 この人は父の様だった。ナルは母の厳しさと温かさを思い出させてくれた。沢山の友達ができた。皆が家族だった。 「晩餐で‥‥僕達の仕事はまだ終わりじゃないよ、なんて強がってみせたけど」 この屋敷は、もう元通りにはならない。 「今だけは泣いても、いいかな」 身を切られるような寂しさに、チャンドラは泣いた。 偶然通りかかり廊下に立っていたナルは、そっと瞼を伏せて部屋から立ち去った。 マナーハウスを去った使用人達の記録は、殆ど断片的にしか残されていない。 分かる範囲で、彼らの生涯を追ってみたい。 晩年まで屋敷に残れたのはリトルヴィタ程度で、他の者達の人生は波瀾万丈である。 時代の趨勢で馬車は次第に姿を消す。そう予感していたティエンは、その後コネを辿り、競馬場の優秀な馬を育てる仕事につく。なにしろ1903年にロンドンで13の自動車バスと3623の乗合馬車が存在したのに対し、一家離散後の1913年には、ロンドンで3522の自動車バスと142の乗合馬車が道を闊歩した。更に一年後には第一次世界大戦に英国が参戦し、娯楽は影を潜める。馬を愛したティエンは家族を養う為、競走馬の世話とショウファー(自動車のお抱え運転手)を兼任した。無理をして働いた理由は、時折ミゼリ達に仕送りをした記録から察することができる。いつも屋敷を夢に見ると語りながら、老いる前に落馬で命を落とした。 屋敷を去ったシーラはホテルのキッチンに入り、姉弟に匿名で送金をしながら身を粉にして働いた。いつか屋敷を買い戻そうと考えていた為だ。しかし念願が叶ったのは晩年の話である。 シーラはアイルランド人で、彼女が屋敷に務めていた時代は、丁度アイルランド自治を要求する運動が高まり、しばしば政治的な問題として取り上げられた頃だった。1914年にアイルランド自治法案が可決されたが、大戦を理由に法案は凍結。1916年に大規模な対英反乱とアイルランド独立の宣言が行われたが、英国はこれに対し軍の投入と、反乱首謀者の処刑で応えた為、英国への不信感は一層激増する。1920年にはアイルランド民俗弾圧の為に英国武装警察隊が活動を開始し、シーラは時に身を隠さなければならない不遇の時代を過ごすことになった。 同じく不運に見舞われたのがチャンドラである。 新しい伝手を頼って菓子作りの修行を続け、店を開くまでは順調だった。 沢山の笑顔を見たい、いつか故郷の両親に会いたい、その願いに影が差したのは、1947年の事だ。 この年、ヒンドゥー教徒多数派地域がインド連邦として独立を宣言した。同日イスラム教徒多数派地域も分離独立を宣言し、パキスタンは英連邦王国として独立した。まもなくカシミール地方の帰属を巡り戦争が勃発。チャンドラは帰国どころか親の生死を案ずる羽目になってしまう。それでも笑顔を絶やさず、彼女は語る。 『母国は心配だけど、お屋敷の日々はずっと僕の中で輝いてるよ。いつか皆に会えたら、お茶会がしたいんだ』 家族や使用人仲間に執着しなかったアランは、貯めた財で貴族御用達のレストランを開いた。家に拘ったシーラとは袂を分かちながらも、たまの近況報告会には欠かさず顔を出し、民俗弾圧の火の粉が降りかかったシーラに影ながら手を貸していた様子から見るに、全くの無関心というわけではなかったことが伺える。最も、時に尊大で見栄っ張りなアランの振る舞いは、かつての仲間達に「かわらない」と評され、時にはナルと口論を繰り広げた。 ナルはというと、幼馴染と夫婦に近い関係になったことが分かっている。 1916年に徴兵制の採用が決まり、戦地に赴く前日に、お互い曖昧な関係にけじめをつけたらしい。1918年に終戦を迎え、夫が無事に家庭に戻っても、時代は閉塞感を強めており、二人は関係を隠しながら共働きで家計を支える時期が長く続いた。式をあげる余裕もなく、子も授からぬまま、1930年には世界恐慌下で失業者が急増し、この時の心労と働きづめが祟って、ナルは若くして命を落としている。 『あなたと一緒に過ごせて幸せだったのよ?』 海を渡り、名を捨て。 男の背を追いかけた屋敷の母。 彼女が覚めない眠りにつく間際に、夫の囁いた言葉がある。 『お前は、俺を追いかけてくれた。今度は、俺がお前を追いかける番さ』 生涯他の妻を娶らなかった執事の懐中時計には、鍵束を持つナルの肖像がはめ込まれていた事を、後にジュードが証言している。 ところでジュードは、志願して兵士になった。戦場からは生還したが、銃弾を受けた左腕は思うように動かなくなってしまう。 大戦の後に念願の執事として貴族の屋敷に仕えたジュードは、久々の執事職にも関わらず、腕を庇いつつも衰えを感じさせない働きで周囲を喜ばせた。近況報告会では、いつも同じ話をした。 『この左腕は、先に旦那様たちのおられる天国へ行ったのだ。いつか私が行く事ができたら‥‥その時は両腕そろえてお仕えしようと思っている。それともまだ、若造と笑われるかな』 運命の悪戯で閉ざされたマナーハウスは、数十年後にシーラとリトルヴィタとその孫娘の手で、B&B、つまり朝食付簡易旅館として息を吹き返すことになる。その時既に他界している者も何人かいたが、老いたかつての使用人達は、招かれた宴で感慨深げに昔の話をしたという。 後に、90歳まで生きたアンズの肉声が、今もテープの中に残されている。 『‥‥お披露目のパーティは面白かったよ。みんな招かれる側なのに、率先して働こうとするんだ。久々に屋敷を歩き回って、色んな話をしたな。もし悲劇が起こらなければ、どんな人生になったんだろうとか。戦争を二度経験したから、なんともいえないけど。そういえば天国のみんなが、今の屋敷を見て喜ぶかどうかを、彼らは僕に聞いてきたんだ。だから僕は教えてあげたよ。きっと天国のお父様やお姉様は、皆にこう言うと思う、って。それは、』 ぶちん。ザアァァー‥‥ 途切れたテープに続く言葉がなんだったのか? 残念ながら、他の資料は残っていない。 本著を書くに辺り、資料提供と多大なご協力をしてくださった、劉 天藍(ia0293)、御樹青嵐(ia1669)、天霧 那流(ib0755)、蒼井 御子(ib4444)、シーラ・シャトールノー(ib5285)、ジャリード(ib6682)、シャンピニオン(ib7037)、御彩・霧雨(iz0164)以上の研究者の皆様に御礼申し上げる。 最期に。 もはや当時を知る者は誰一人として残っていないが「天国に辿り着いた彼らは、少なくとも答えを知っているに違いない」と、今も残るホテルの従業員達は笑う。 次はきっと、我々が先輩方に評価される番でしょう、と。 サギシ出版『永遠のマナーハウス〜時代に翻弄された英国使用人たち〜』(本文より抜粋) 二〇一一年 十一月 ジャーナリスト ヤヨイ・ヒナト |