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■オープニング本文 狩野柚子平の命で、魔の森から救い出されて12年。 かつて『生成姫の子』と恐れられた子供たちは成人し、それぞれの人生を歩んでいた。 「……なんでだと思う?」 「あたしに聞かないでくれない」 薫り高い茶葉をブレンドする到真は、窶れた顔で年の近い姉……華凛に問うた。 ここは街の一角にある喫茶店である。 一応は。 一応、と銘打つ理由は、実質上、喫茶店ではなく食事所と化している経営状態にある。 昔から様々な茶葉を楽しむのが好きだった到真は、趣味が高じて多種の茶葉を扱う店を持った。何故か孤児院は莫大な資産を保有しており、綿密な事業計画書を見た養母が孤児院へ連れて行き、話を聞いた院長が、ぽん、と出資を許してくれたのだ。 『みんなからだ』 と一言添えて。 若くして店舗を持つことになった者は到真だけでなく、他の兄弟姉妹にも居る。例えば仕立屋の恵音、花屋の未来、けれど到真は……望み通りの店とは言い難かった。 「仕方ないよ」 羽妖精の和真が、奥から希儀料理のお膳を運んできて華凛の前に置く。 「台所が一番充実してるのは此処なんだから」 出資の額が額であった為、厨房は立派な造りをしていた。50人を超える集団の客も一気に捌ける構造だ。兄弟姉妹が暇つぶしに出入りするのは勿論のこと、お茶に見合う菓子や軽食を料理が得意な兄弟姉妹に任せた結果……お茶屋だったはずの店は、実質的に甘味所になり、軽食を扱う事になるまで時間は掛からず、更には居酒屋めいた料理まで扱う様になってしまった。 経営者である到真としては、売り上げが好調な事は喜びたいのに……理想から遠ざかっていく現状にジレンマを覚えている。 更なる問題は。 「にーちゃんのお店なんだし、リニューアルオープンすればいいと思う!」 元気な声を発した開拓者の少女を一瞥する。 「どうせ猫茶屋にしよう、って言うんだよね。うん。僕は魂胆を知っている。却下」 「なんでえ!? 猫茶屋さん楽しいよ!? 猫茶屋さんになるなら、春見、開拓者やめて専念するよ!?」 「尚更却下」 「ぶー!」 頬を膨らませた春見は、開拓者になって半年が経過したばかりだ。 後見人の意向で、彼女は長く市井で暮らした。成人するまで寺子屋や大学などで勉学に励み、同時に姉のように慕う家族から料理を学び続けたからか、お菓子の料理教室に二年ほど通ってお菓子専門の料理人としての技量を身につけた。しかしすぐに店を持つのは宜しくないと、年長の兄弟姉妹の店を手伝ったりしながら、開拓者業で世間の荒波に揉まれている最中だ。 「まあ、春見ちゃんは色々見て回った方がいいとぼくも思うな」 厨房から顔を出したのは、真綿のような穏やかさを纏った青年だった。 一応、料理長である。 「真白にーちゃんも、到真にーちゃんの味方なの?」 「味方というか……他国のお菓子を食べて回るのも勉強だと思う、って感じかな」 春見を諭しながら、にこにこしながらエプロンを外す。 「帰るの?」 華凛の問いに「連絡の為に一時帰宅」と短く返す。 「旭が活きのいい魚を仕入れてくれる約束だから、お姉さんにも食べさせたいなあって思って」 頬を染めて語る。 華凛が「変わんないわね」と呆れた声を投げても「ぼくは主夫だから」と輝く笑顔で返して店を出ていった。 真白が……養母に等しい孤児院経営者の片割れこと狼の獣人に恋慕の情を抱いているのは、ほぼ周知の事実である。今ではかの女性の背を超える、すらりとした長身を手に入れた。 到真が茶葉のテイスティングをしながら小声で話す。 「そういえば……思い出の豪華客船の引退運行に伴って旅行に誘う気らしいけど、機会を探してたな。真白が大事な話をする時って、大体、何かしら豪華な手料理を振る舞う時だし……今夜あたりかな」 「真白……当たって砕けたら、どうする気なのかしら」 「さあ」 兄弟姉妹は成り行きを見守るだけ。 諦めの悪い真白の事だ。 やんわり告白してかわされたら、また気長に距離を詰める気なのだろう。 一途な恋と言えば聞こえはいいが……全く他の女性に興味のきの字も示さない辺りに仄かな狂気も感じる。 彼にとっては彼女は、恩人で師で、そして初恋の君なのだろう。 「誰が当たって砕けるの?」 玄関のベルが鳴った。立っていたのは華やかな衣装を身に纏った明希だ。 着飾る事を好んだ彼女は、女性モデルとして瓦版を賑わしている。しかし近々、姉である恵音の店のお針子に転職する方針だ。 「遅いわよ、明希」 「ごめんねー華凛。ママ達に連絡してて遅れちゃった」 幼い頃は喧嘩の絶えなかった華凛と明希は、今でも嫌みの押収が絶えない。けれど姉妹の中では勝手知ったる間柄で、なんだかんだと共に食事をしたり、出かける機会が多かった。つんとすます華凛が「はい、修理品」と小さな包みを差し出す。貝殻の腕輪と琥珀の首飾りは、いずれも養母から貰った思い出の品。 「ありがとー! 華凛に修理頼んで良かった!」 「この前、お土産くれたお代って事にしといてあげる」 十年経っても色褪せない思い出がある。 例えば春見が腰に下げている精霊の鈴や御守あすか、華凛の髪を束ねる螺鈿蒔絵簪に月光のペンダントや桜色の根付けなど……遠い日に家族から受け継いだ品々は、今も彼らの身を飾っている。 「もしもーし、真白ー?」 裏口から聞こえてきた声に到真が反応した。 慌てて駆けつけると木箱を山積みにしている姉の姿があった。 「旭姉さん、ごめん。真白、丁度出たところで」 「えー!? もー、しょうがないなぁ。氷のお代も追加しとくからね」 術で氷を作って木箱に乗せた。 「旬物で揃えたけど、今はサワラ、白魚、ホタルイカ、アイナメ、あと手長タコと……」 旭は現役の開拓者である。養父の剣術道場を手伝う傍ら、神楽の都と陽州を行き来して開拓者業に勤しむ日々だ。ちなみに養父の友人漁師から散々魚介類に関する知識を教わったらしく、到真の店で出される海産物の仕入れと搬入は旭の担当と化している。旭の神仙猫式部や女性型からくり海月は、開拓業への同行より店との中継ぎをする事が圧倒的に多かった。 「たりるー?」 「三日は持つんじゃないかな」 「到真。そんなこと言って前は二日も持たなかったよ」 等と話していると。 「あ、さ、ひー! 暇ならこっち来たらー?」 「旭ねーちゃぁぁぁ!」 明希と春見がカウンター越しに叫んでいた。華凛が煩そうにしている。 「ふぇ? 皆して帰ってきてたんだ……今日の仕入れ、一晩で消えるね。間違いない……あのさ、一度家に帰るけど、夜にこっち手伝うー?」 遠方にいた兄弟姉妹が帰ってくると、養父母や後見人達も自然と店に集う。 山のように積み上げた木箱の海産物が消える事を予言した旭の前で、店主の到真が両手で顔を覆った。 「御願いする。儲かるのは嬉しいけど……僕の店、お茶屋さんなのに」 「いい加減に諦めたらいいと思う」 姉の言葉は辛辣だった。 |
■参加者一覧
蓮 神音(ib2662)
14歳・女・泰
ハティ(ib5270)
24歳・女・吟
リオーレ・アズィーズ(ib7038)
22歳・女・陰
刃兼(ib7876)
18歳・男・サ
戸仁元 和名(ib9394)
26歳・女・騎
紫ノ眼 恋(ic0281)
20歳・女・サ
白雪 沙羅(ic0498)
12歳・女・陰 |
■リプレイ本文 ●到真の茶屋より 店舗の外まで聞こえてくる声に、蓮 神音(ib2662)と蓮蒼馬は苦笑いした。これは我が儘を連ねる前に、早く回収した方がいい、と目配せする。梔色の暖簾をくぐり「こんにちは」と声を投げた。 「いらっしゃいま……」 「あ、きたー!」 春見の声が接客を遮る。 笑って養父母の傍へ来る春見を、神音は困った顔で見下ろした。 「また到真君を困らせてたんじゃない」 「こ、こまらせてなんか、ないよね?」 狼狽える春見の声に兄弟姉妹の笑い声が零れた。 誰か擁護してよ、とぷりぷり怒り出す娘を腕の中に捕えて慈愛の眼差しを注ぐ。 「はい、そこまで。今日は予定が沢山よ。それじゃ行きましょう」 蓮達一家は店を出た。 昼食の人混みが途切れる頃、戸仁元 和名(ib9394)と渥美アキヒロは娘を連れて茶屋を訪れた。商売優先の生活な為、家族団欒の時間は限られるからだ。 「お茶しに来たんだけど……なんか懐かしい顔がいっぱいやね?」 奥から顔を出した到真は「いらっしゃい。いつもの?」と声を投げてきたが、とても忙しそうだ。戸仁元は羽妖精の和真たちを一瞥し、店内の顔ぶれを吟味した。 間違いなく夜に駆けての客が増える。 「アキヒロさん」 「なあに、和名ちゃん」 「この子お願いしますね。人手が心配なんで、給仕のお手伝いさせてもらいます」 申し訳なさそうな顔をする戸仁元から娘を受け取ったアキヒロは「息子の店が繁盛してるのは良いことだよ」と笑って返した。 ●昔日の約束と秘密の祈り 蓮家の買い物は勿論、恵音への結婚祝いだ。そして久々に親子三人でショッピングとしゃれこむ。毎度ながら蒼馬は荷物持ちである。 『……神音の方が力持ちだろう、という言葉は怖くて言い出せないな』 実力社会に生きる開拓者の悲哀、極まる。 「後は……春見と蒼馬さんの春物の服も買わないといけないし、お菓子作りの練習の材料もよね」 「お金足りるかな」 「春見、何を心配してるの。今日は私が払うから。お金は猫茶屋資金にとっときなさい」 神音が買い込んで夫に荷物を託す。 春見が手伝う? と問うたが神音の微笑みが有無を言わせない。 「荷物持ちは男の宿命よ」 「分かってるさ」 「がんばー」 賑やかな春見と蒼馬の背中を眺めて、神音は飴色の双眸を細めた。 『あっという間、だったな』 幼い養女を引き取って十年。 子供の成長は驚くほど早い。神音にとって蒼馬との暮らしは遙かに長いが、真剣に告白して夫婦になったのは此処二年の話だ。 三人で過ごした色鮮やかな日々が脳裏に焼き付いている。 『成長していく春見が可愛くて、愛おしくて。蒼馬さんが告白を受け入れてくれた時は信じられない気持ちが勝って……春見にほっぺた、つつかれたっけ』 ああ、なんと甘露の夢だったろう。 『妻になり母になり、子供も育てた。この十年楽しかった。幸せだった』 心に染み渡る多幸感に追従するように、心の奥底が暗く冷えていく。 このまま幸せに浸って他の全てを忘れたい気持ちは浮かんでは消え、最後に昔の己が叱咤するのだ。 約束があるんだよ、と。 十年待つ、と言われた。 胸に宿る憎悪や殺意が消えなかったら……殺しに行くと。 『分かってるよ。今年は約束の年だって。私は紫陽花さんの審判を受けなければいけない。妹を屠った罪は消えない。ああでも……せめて春見がお嫁に行く姿を見たかったけど』 「神音、贈り物は何が良い?」 唐突に蒼馬が声を投げて振り返る。 空虚な神音の瞳に、ぎくりと肩を奮わせた。 けれどそれは一瞬のことで、神音は「あ、そうね」と微笑んで悩み始めた。 「家計を預かる立場から言えば、恵音ちゃんへの贈り物は油なんかの実用品がいいと思う」 春見は「え〜可愛くない」と文句を告げ、首を捻っていた蒼馬は苦笑いした。 二人の様子を眺めながら、心の中で神音は囁く。 『二人とも。私に幸せをくれてありがとう』 そして、ごめんね。 遠い日のケジメをつけにいく事を……どうか、許してください。 ●茶屋から居酒屋へ 「明希、お待たせしました。今日も可愛いですね」 華やかな声の主は、リオーレ・アズィーズ(ib7038)だ。明希が「ママきたー!」と歓喜の声をあげた時、もう一人の養母こと白雪 沙羅(ic0498)が笑顔で現れた。 「明希、今回の瓦版も素敵でしたよ。次のも期待してますね」 「見てくれたの?」 「勿論、ほら今日だって持ち歩いてます」 白雪が自慢げな顔で瓦版を見せる。娘の宣伝用だ。 親馬鹿ここに極まる。 「いらっしゃいませ」 白雪は到真をみて「到真君、前のお願いは」と声をかけた。到真は「そこに」と雑誌置き場を指さす。 「ママ、なに?」 「明希の記事が載っている最新瓦版をお店の片隅に置いて欲しいと依頼したんです。お茶の専門誌ばかりでしたから。女性のお客さんも多いので、ファッション誌の一つくらいはと思って」 あえてモデル業を営む娘の掲載が多い雑誌を勧めたのは親馬鹿の所以だろう。 白雪達は、明希と一緒に円卓に通された。 「そうだ。恵音ちゃんから結婚式の招待状が届いたんですよ。私もリオーレさんも勿論出席させて戴こうと思ってるんだけど……その時の衣装を、明希に見立てて貰えないかなって思ってるの」 喜ばしい話に「結婚式楽しみだねー」と笑っていた明希は目を丸くした。 「私が見立てるの?」 アズィーズは凛とした声で「明希に選んで欲しいです」と告げた。 「そして衣装に付ける飾りを明希に作ってもらいたいんです。いわば、お針子としての明希の一番最初のお客様ですね」 「リオーレさんの言うとおり、明希に私達の衣装につける飾りを作って貰えないかなーって。勿論お仕事としてお願いするから報酬はお支払いします」 モデル業で成功をおさめた明希が、お針子修行をして転身するという話は随分前から聞いていた。白雪もアズィーズも、愛娘にとって何かの力になりたいと願ってきた。 「でも私、まだ型紙も起こせないし、満足に装飾も……」 「もちろん一寸した物、実力の範囲内の物で構いません。今の明希の出来る限りを、恵音さんに見せてあげましょう」 アズィーズが慌て気味な明希の手を握る。 白雪も手を添えた。 「つまりね。私達が明希のお客様第一号なの。その栄誉を与えて貰えるかしら? 明希がいつ恵音ちゃんのお店を継いでもいいように、私もお針子の修行をしておかないとね」 明希が首を捻った。 「私が作るの? 三人で作るの?」 「……え? 手伝いますよ? 当たり前じゃない。お店が繁盛したら、お針子さんは何人も必要になるでしょう? 明希が将来お針子さんになるなら当然です!」 白雪が拳を握る。 「不器用でも大丈夫! 例えばこの十年で、私は家事だって出来るようになりました。お針子さんだって努力すればきっと! ……もしダメだったらおさんどんとしてお手伝いしに来ますから。ええ」 「何故ダメな気になってるの。沙羅ちゃん」 後ろ向き発言が零れた白雪に釘を差した後、アズィーズは愛娘に向き直った。 「お針子さんの仕事が明希の心底やりたい事ならば、私も沙羅ちゃんも全面的に協力しますよ。千里の道も一歩から。知望院の書庫から服飾の参考書探してきますから、三人で一緒にお勉強ですね」 アズィーズは長らく心配だった。 やりたいことではなく姉を思っての自己犠牲精神の現れではないかと想像を巡らせていた。けれど衣装の装飾作りから始めようという提案に頷く娘の顔からは暗い気配は微塵もない。 『杞憂そうね。よかった』 また家族三人で過ごす時間が増えるに違いない。 一度帰った旭が到真の店に戻ってきた時、養父の刃兼(ib7876)と馴染みの鍔樹を連れていた。 「いい素材が入ったと聞いてきた。お邪魔するな。今日のおすすめの献立って何かあるだろうか?」 「邪魔するぜェ。今日はどんな魚を仕入れたのか、楽しみだァな」 三人を見た到真は「奥方達は?」と確認をした。 男達は横に首を振った。 「たまには男同士で飲んできたら、と」 苦笑いする刃兼達を席に案内する旭は「と、言われてるけど実際は、鍔樹に付き合ってあげてって言われたのよ」と裏事情を暴露した。 「また喧嘩したんですか」 「違う。ただちょっと容赦なく呪縛符を投げてきただけだから落ち着くのを待ってだな」 震える鍔樹は嫁が怖いらしい。 鍔樹と刃兼の嫁は姉妹だが、性格は真逆だ。刃兼がため息をこぼす。 「まァ、手土産を持って帰って、早めに仲直りするべき……だな。それにしても旭が魚好きを究めて卸業に就くとは思わなかったぞ」 酒やつまみの注文をしながら刃兼は我に返った。 『恵音の結婚式には、祝いの品として鯛とか贈りそう、だな……後で相談するか』 刃兼は娘を見つめた。 「ふえ? なあに」 明るく前向きな良い子に育った、と思う。 道場の手伝いも、家事も仕事も一生懸命で、頼もしい限りだが……心配の種はつきない。 「旭、適度な息抜きを忘れないようにな。いざって時に力が出せないと困るぞ。仕事一筋が悪い訳じゃないが……少し疲れたと思った時は、家でのんびりしてて構わないし、さ。いずれ独り立ちするとしても、俺達はいつでも旭の帰りを待っているから」 「うん」 頷く旭は「なんか照れるよ」と言って頬を掻く。 鍔樹も旭を見ていた。 「そう言や。旭は、漁師の嫁になりたいンだって?」 すると刃兼は盛大に噎せ、旭は猫のように背筋を伸ばし「うん」と頷いた。 「なるほどなぁ。職業以外に好みとか言ってくれりゃあ紹介するぜ」 「ほんと?」 「…………オイコラ待て鍔樹。お前は確かに天儀でも陽州でも漁師の繋がりがあるけども、仲人になるつもりかよ」 「あー? 変な奴より勝手知ったる馴染みの紹介の方が安心だろ」 「話を逸らすな」 食いつく刃兼の足下では、神仙猫キクイチと神仙猫式部が刺身の切れ端やマグロ節を噛みつつ猫会議を繰り広げていた。 「式部はーん。実際のところ旭はんの界隈って、どうでありんすか?」 「キクイチしゃん。旭は若い娘っこなんで、やっぱり魚市場の好色爺に尻を撫でられたり」 むんず、と。 式部の首根っこが掴まれた。 強制的に持ち上げられた式部が見たのは、笑ってない茶色のオッドアイ。 「式部。その話、詳しく聞かせてくれるか」 「ひぇ」 「刃兼。急にどうした。落ち着けよ」 「ハガネー、どうかしたー?」 「どうかした、じゃない。旭、もう少し危機感を持ってくれ……頼むから」 爺の派手なセクハラも意に介さない娘の脳天気さに戦慄すら覚えながら、心配で胃に穴が空きそうな刃兼の足下で……キクイチがバリバリとマグロ節を齧った。 隙間ないほど席が埋まり、食材の在庫も次々に売り切れ御免となる中で、戸仁元は厨房で働く息子を見た。疲れているのとは少し空気が違う。 『夜はほんまに、お店が賑やかで……それはええことなんやけど』 暫く前から感じていた違和感が際だっている気がした。 『到真があんまり嬉しそうやないのはちょっと心配やね……元々あんまり賑やかな感じの場所にはおらへん子やったし……お昼間に、ゆっくりお茶淹れてくれてる時の方が到真が楽しそうな気がするし……』 後で話してみよう、と戸仁元は決意した。 「今日はやけに賑やかだな」 現れたのは孤児院の院長の片割れハティ(ib5270)だ。横には友人のフォルカもいる。もう一人の院長は、まだ書類の整理が整理が終わらないらしい。真白も手伝った後、来るという。 「楽しそうだが何かあったのか?」 「恵音が結婚するって。灯心達が招待状を配って回ってるから、じきに届くと思う」 「結婚か……年齢的には不思議でもないが、感慨深いな」 ハティ達は華凛の隣席に腰を下ろした。季節の行事や祝い事になると、暇な兄弟姉妹達は集うし、養父母や友人達も足を運ぶことが多い。今夜は懐かしい顔ぶれが揃うであろう事は容易に想像できた。開拓業から退いて長くなるが、皆の近況や各地の土産話は心躍る。 「華凛、仕事の調子はどうかな」 「修羅場はあと少し。後はこれの修理」 縁者の依頼を早速受けた華凛の様子を見て、ハティは双眸を細めた。 「頑張ってるな、評判を聞くと嬉しくなるよ。その後でいいのだけれど、華凛、また頼んでも?」 「鞄?」 「察しがいいね。いい季節だし、私もそろそろ鞄を新調しようと思っていたから」 誂えは任せるよ、と囁くハティの言葉は、華凛のセンスを信頼しているからだ。 兄弟姉妹の結婚話についてどう思うか、好奇心から出た質問の類も、華凛にとっては特別な感慨が薄いらしい。 ハティは唸った。 「なまじ自活能力があると結婚は縁遠くもなるか。フォルカは?」 急に話を振られたフォルカは、摘んでいた茶菓子を皿に落としてハティを凝視した。 「何故驚く」 「いや、別に。……考えないでもなかったが、形に拘らなくてもいいかってさ」 「おや、相手が居るのか」ハティは我に返り「いやすまない、初耳だったものだから」 と失言を言い繕った。 フォルカに対して上手い言葉を探す。 「そうだね。確かに形はあまり重要じゃない。例えば私は……変わらず付き合ってくれる良き友があり、家族と呼べる子供達もいて満足だよ」言いながら酒の入ったグラスを傾け「昔……ほんの少女の頃に、好いた相手はいたが、それきりだ」 酒を呷った。 フォルカは狼耳をハティの話に傾けたままだ。 「よし! 今夜は演奏しよう。華凛、一緒に歌うぞ、ほらフォルカも立った立った!」 急激に顔を赤くしたハティが大きめの声でフォルカ達を呷る。 華凛は「人が多いからパース」とつれない返事をしていたが、フォルカは「はいはい院長先生の言うとおり」と言って立ち上がった。広い場所を陣取って賑やかに騒ぎ、酔いが回って多弁になったハティが懐かしい顔に絡みに行く。 「明日には覚えてないんだろうな、あれ」 フォルカは苦笑いしながら離れた席のハティを見ていた。 ふと柔らかい眼差しに変わった。 「将来あんたがヨボヨボになったら……世話くらいしてやるさ」 関係の形は人の数だけ有るのだろう。 最期の客を見送って終了、ではない。 食器の片づけ、店内の大掃除、伝票の計算……全て終わらなければ、翌日の営業に響く。早めに切り上げたと言っても、後片付けが終わる頃には日付が変わっていた。息子を哀れんだ戸仁元は、夫と娘を先に家へ帰して、最期まで手伝った。 「到真、おつかれさんやね」 会計を集計している到真にお茶を差し出す。 「ありがとう。ごめん」 「ええんよ、気にせんくて。それより少しお話したいなと思って」 「不手際とかお小言なら明日で御願いします」 机に潰れた。 苦笑いしながら「そうやないよ」と穏やかに告げた。 「到真。どうしてもお店が楽しないんなら……ここは真白君とか春見ちゃんとか、誰かに任せてみたらどうやろ。その……もう一軒お店持つのも、考えてみてもええんちゃうかな」 例えば喫茶店に個室を作る事や、女性給仕にお仕着せ服などの俗っぽい提案もあったが、大勢から投げられる気遣いは総合すると支離滅裂になっていく。 理想は遠い。 戸仁元は言葉を選びながら話を続ける。 「別に一人一軒しか、お店持ったらあかんわけちゃうし、趣味と実益のお店いうんかな。ここで、開店資金貯めてもよさそうやしね」 戸仁元達は店の傍に住んでいる。忙しくなったら今日のように手伝うこともできる。 一人で背負うばかりが経営のやり方ではない。 「到真は昔から、ちゃんと考えて動ける、賢い子やし、何より、到真のお茶は美味しいから……二件目も大丈夫ちゃうかな。少し、考えてみたらどうやろ」 戸仁元に諭された到真は「そう、だね」と呟いて肩の力を抜いた。 ●十年越しの約束 到真の店へ紫ノ眼 恋(ic0281)と戻り、夕食の話題で恵音の結婚について話した後、真白は豪華客船の話をした。思い出の豪華客船は、今年で運行を終了するという。紫ノ眼は少し悩んでから同行を快諾した。ハティや上級からくり白銀丸に留守を任せておけば心配ない。 「書類仕事にはいつまでたっても慣れぬものだな……待たせたね真白、さて行こうか」 後日、豪華客船に乗り込んだ。 パーティーの時間になり、真白が見た紫ノ眼はジルベリア調のシックなドレスを着ていた。 黒真珠の髪と海の瞳がよく冴える。 「あれも……もう十年前か、早いものだ」 「恋お姉さん、口にソースついてる」 妙齢の女性が食する分量でない皿が並んでいる。全て紫ノ眼の注文だ。口元を拭われて、近くを通り過ぎた若い娘に優雅に笑われた後……紫ノ眼は「ちゃんと運動しているから大丈夫だよ」と小声で言い訳をした。 「何も言ってないよ」 「真白も思っただろ、食べ過ぎだって」 「何故。おいしそうに食べてくれる人にそんな事考えないよ」 「それは……真白の料理が美味いから……最近は食べ過ぎる、よね」 声が尻窄みに小さくなっていく。 紫ノ眼の体格が変わらないのは毎日続けてきた修行の成果だ。戦う事は無くなった今も習慣は残っている。 紫ノ眼が箸を置いた。 「昔は……剣しかないと、戦場しかないと思っていたのに。居場所を作ってくれたのは君の方だったのかもしれないね。これまでも色々助けてもらったし、感謝している」 「ぼくだって」 「よく成長してくれたね……何よりそれがあたしは嬉しいんだ。そうだ。真白も色々見て回りたいなら言ってくれよね。金銭の事で遠慮しなくていいし、帰る場所はちゃんと私が守るよ」 真白は困ったように笑う。 「どこかに行く予定はないよ」 「前から料理の幅を広げたいって言っていたじゃないか」 「だから修行に行ってもいいって? 各国料理の本が出てるご時世で、大金かけて行く程の事じゃないよ。到真のお店だってあるんだし」 「本格的な料理人になりたいなら師匠を持っても」 「やだなぁ、ぼくは料理人になりたいんじゃないよ。主夫が目標」 昔から同じ事を真白は言う。 「もう結婚しても不思議じゃない歳なんだ。軽々しく言う言葉じゃないよ、真白」 「恋お姉さんにしか言わないよ」 無防備な微笑みは、今でも変わらない。 「そろそろ親離れしないと嫁をもらえなくなってしまうよ」 「じゃあ恋お姉さんがお嫁さんになってよ。三食おいしい料理作るから」 ワインを傾けながら笑う。 「あたし、もう結構良い歳だぞ? 大丈夫?」 紫ノ眼は青春時代を開拓業と孤児院の暮らしに投じた。 一般的に言う婚期など、とうの昔に過ぎている。それでもいい、と紫ノ眼は決意したからこそ院長になった。嫁入りだけが女の幸せではない。幼子を一人前にした今だからこそ胸を張れる。 あの日の選択は間違っていなかったのだと。 紫ノ眼の言葉をきいて、真白は流れる黒髪を摘んだ。 「恋お姉さん以上に魅力的な女の人を、ぼくは他に知らないよ」 『ああ、もう』 「ぼくに好かれるのは迷惑?」 「……断る理由なんて、もう此方にあるわけないだろう」 絆された紫ノ眼は、片手で顔を覆いつつも正面の青年を見た。 伸びた長身。 骨張った体格。 白皙の横顔に切れ長の眼差し。幼子の面影は何処にもない。 『真白の名は何もない白の光の色。何にも染まれる、何者にでもなれる色だと、確かそう思って付けた名だった。色々な事を教えたつもりで……逆に教わった事が多いかな』 「じゃあ」 「約束だったな」 紫ノ眼は立ち上がった。 レースの手袋を填めた手で、真白の手を取る。 「むかし共に踊ると言っただろう。もう背丈は十分すぎる程だ。しっかりリードしてくれよ」 照れ隠しにそっぽを向く。 すると細い腰に力が掛かり、腕の中に囚われる。 紫ノ眼が真白の顔を見上げた。真綿のような絹の髪が紫ノ眼の顔に降りそそぐ。 瑠璃色の瞳が近い。 「一つ御願いがあるんだけど」 「な、なんだ」 「今夜から『恋』って呼んでいい?」 『……いったい、いつからこんな顔をするようになった』 艶めいた真白の笑みの後方には、蜜蝋色に輝く月が浮かんでいた。 |