懊樹
マスター名:昴響
シナリオ形態: ショート
相棒
難易度: 普通
参加人数: 8人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2012/08/24 03:27



■オープニング本文


 山の小道は人通りもなく、今夜は月も雲に隠れている。道の両脇は鬱蒼とした森で、時折、梟の物悲しい声が聞こえてくるのみ。
 その、小道から少し外れた森の中で言い争う声が響いた。
 美しい女は目を吊り上げて男を弾劾する。
「……やっぱり、あんた、あたしの妹の行方を知ってるんだね?! あの子をどこにやったんだい!」
「う、うるせえ! てめえの妹なんざ知ったこっちゃねえ!」
「嘘をお言いよ! あんたがあたしにくれた簪はね、昔、あたしが妹に買ってやったものなんだよ!」
「なに……」
 着流しを着崩したいかにも遊び人風の男は、一瞬、絶句した。そして、その目が異様な光を宿す。その手に握られていたのは合口。
 女も男の豹変に青ざめる。そして、唐突に悟った。
「……そうかい……。そうやってあの子を殺したんだね……あたしの、たった一人の妹を……ぐっ!」
 糾弾する言葉はそれ以上続かなかった。鋭い刃が、二度、三度と女を襲う。
 そして、男は倒れた女を引きずって森の奥へ捨て去ると、身を翻して走り去った。
「……香藍……こう、らん……」
 たった二人で生きてきたのに……あの子が幸せなら、どんな仕事だって、何だってできたのに……

 なのに、あの男が!
 
 女の血に濡れた手に、なにか薄く柔らかなものが触れた。
 雲間から月光が照らす。黒い丸の両脇に白い羽が生えたようなものだった。
 シシノキの種……?
 いつだったか、薬屋婆の孫娘が教えてくれた――その樹は種から発芽して数十年を経て花を咲かせ、実をつける。そして、その実から羽のついた種を飛ばし子孫を残すのだと。羽の左右が均等に長いものはとてもとても遠くまで飛んでいくのだと――

「くや、しい……。くやし、いね……こう、ら……」

 ……ああ……私に羽があれば……そうすれば、あの男の元に飛んでいって恨みを晴らしてやるのに……私と、香藍の恨みを!

 シシノキの種は、女の手の中で血に濡れ、くしゃりと潰された。
 深い恨みが種に命を与えてしまった――禍々しい命を。

 数十年かけて巨木と成り種をつけるはずのその樹は、女の命、植物の、小動物の命を貪り、数日のあいだに三丈もの高さにまで成長した。
 不気味に蠢く蔓の間に、返り血も浴びなかった女の顔が白く浮き上がっていたのだった。



 薬屋婆の孫娘、斗季はいつものように薬草を探して山の中を歩き回っていた。
 腰からぶら下げた蚊取り線香が白い筋煙を引いている。しゃがんで薬草を引き抜くその足元に、茶色い小さな子犬が短い尻尾をぶんぶん振って主の仕事を見ている。この子犬はワンコ――いや、『ワンコ』という名前なのである――とても小さく、茶色い毛玉のように愛らしい姿をしているが、猪と出会ったとて主人をその背に庇う勇敢な子なのだ。
「ふぅ……今日はこのくらいかな……。そろそろ帰ろっか、ワンコ」
 斗季は額の汗をぬぐい、へばりついた髪を無造作に散らす。
 そうして立ち上がりかけた彼女の目に、白いものが映った。
 駆け寄り、手にとって、彼女は歓声をあげた。
「翅翅ノ樹の種だあ! うわあ! どっから飛んで来たんだろう!?」
 翅翅ノ樹(シシノキ)は発芽から花が咲くまで数十年かかる珍しい樹だ。その大樹はたった一つだけ実をつけ、そして割れたそれは羽の生えた種を飛ばす。左右の羽がちぐはぐだと、親の樹の近くへ落ちるが均等な羽を持つものは驚くほど遠くに飛ぶのだ。祖母から聞いた話では、風に乗った種が、三位湖の南沿岸、さらに遠くまで飛んだこともあるそうだ。
 そして、貴重な樹ゆえに、乱獲するわけにはいかないが、とても強力な解毒薬になるのだ。
「嬉しい! 山の神様に感謝だね、ワンコ! どっから来たのか探してみようか!」
「わん!」
 ワンコは元気よく返事する。斗季は拾った種を大事に仕舞いこむと、純粋な好奇心から山の中へ踏み込んで行った。

 何かおかしい、と思い始めたのはしばらく行ってからだ。
 まず鳥がいない。そして、虫もだ。
 この時間ならやかましいほどに様々な生き物の声がしているのに……。
 足元のワンコを見ると、珍しくそわそわしている。
 これは、何かあったのかも……
 斗季は少しだけ慎重に、あたりに注意を払いながら進んでいった。
 さら、と変な感覚があった。
「――!?」
 斗季は咄嗟に飛び退き、地面を見る――砂、だった。
 山の土ではない。さらさらの、乾ききった『砂』である。砂漠を見たことがあるものなら、それを思い起こすだろう。
 黒ずんだ紫色の砂と、そして干からびて立ち枯れた木々の向こうに、巨大な樹が立っていた。
 死に絶えた木々の中に蔓を巻きつけた大樹は、本来なら鮮やかな緑であろうはずの葉は、病にかかったように黒ずんで、ざわざわと不気味な葉擦れの音をさせている。
 上のほうに不気味な、ぱっくりと口を開けたような『花』がひとつあった。
「なに、これ……」
 斗季は呟き、そろりと近づく。と、大樹を這っていた蔓がざわりと蠢いて青白い女の顔が浮かび上がった。
「――っ! 紫香姐さん……っ!」
 斗季が叫んだと同時、大樹から凄まじい速さで延びた蔓が鋭い牙をむいて彼女に襲い掛かった。
「わん!」
 ワンコは蛇頭の蔓を体当たりで跳ね除けると、妖樹の前に立ちふさがり、激しく吠え立てる。
 はっとした斗季は、慌てて子犬を抱え上げると勢いよく身を翻した。彼女を追って何本もの不気味な蔓が延びてきたが、届かぬとわかると、再びしゅるしゅると大樹に巻きついていった。

 後も見ず、ワンコを抱えて山を駆け下りる。
(どうして……!? どうして紫香姐さんが……あれはなに!?)
 紫香はこの界隈の茶屋では一、二を争う芸妓である。たまにお店へ薬を届けに行く斗季をとても可愛がってくれた。
 ちょっと前に、同じ店の姐さんに聞いたら、いい人ができたんだって……妹が行方不明になって意気消沈してたけど、やっと元気になってきたって……
 あの優しい女性が、なぜあんな不気味な樹に……?!
 西日に照らされた伊堂の街が――やがて自分の家が見えてくる。
 斗季は近所の人が声をかけてくるのも目に入らず、家の戸をあけた。
「おかえり。ちょいと帰りが遅かったようだね。道草かい」
 小さな皺くちゃの祖母を見るや否や、斗季は大きな声で泣き出した。


■参加者一覧
美空(ia0225
13歳・女・砂
深山 千草(ia0889
28歳・女・志
香(ib9539
19歳・男・ジ
フランベルジェ=カペラ(ib9601
25歳・女・ジ
秋葉 輝郷(ib9674
20歳・男・志
葵 左門(ib9682
24歳・男・泰
ディラン・フォーガス(ib9718
52歳・男・魔
莉乃(ib9744
15歳・女・志


■リプレイ本文


 妖樹の場所へ行く前、芸妓・紫香を殺害した男の人相書きが集まった開拓者たちに手渡された。案内役の斗季は部屋の隅で唇を引き結んでいる。その足元には小さな茶色い子犬が、心配そうに主を見上げていた。
 人相書きを無表情に眺めていた香(ib9539)は、金属の扇をくるくる回しながら心中ぶつりと呟く。
(恋愛なんざ馬鹿がする事やな……ぶっちゃけ、こんなの放っておけばエェと思うんやけど……)
 ちら、と傍らにいる黒髪の妖艶な美女、フランベルジェ=カペラ(ib9601)に目をやり、その金の瞳が静かな怒りをたたえているのを確認する。
(……姐さん等がやる気満々やし、しゃあない。付き合ったるわ。金にもならんのに……)
「人間とは何処までも情に動かされるもので飽きないものだねぇ?」
 低く皮肉な響きを含んで呟いた、細身の棍棒を手にした葵左門(ib9682)は薄い笑みを唇に刷いた。
 男と女の、こんな話は何処にでもあることで珍しくもない、有り触れた出来事――
(そう切って捨てる程、冷酷にはできちゃないんでね)
 魔術師のディラン・フォーガス(ib9718)は髭をなぞりながら人相書きを眺める。
「優しい心根を持つ女を、鬼のような怨念に変えちまうなんて、な」
 人の命を何とも感じない人間をこのまま世にのさばらせておくわけにも、非業の最期を遂げた女をほっとくわけにもいかねぇよな……そう思いながら、ディランは人相書きを懐に仕舞った。
「げに恐ろしいのは怨念なのか、殺しの下手人なのか……であります」
 ディランの腹あたりから声がして視線をやると、小さな青い頭――砂迅騎の美空(ia0225)だった。彼女は今回の事件をひどく残念に思ったのだという。翅翅ノ樹を妖樹に変えてしまったことが、ではなく、その怨念をもたらした身勝手な欲望にこそ怒りを覚えたのだと。
 彼女の隣にいた、長巻を背にした莉乃(ib9744)も美空に同意して頷く。彼女もまた、怒りと哀しみを抱えて依頼に望んでいた。
「美空ちゃん、莉乃ちゃん。紫香さんの恨みを晴らしてあげることはできないけれども、終わったら、せめてもの魂鎮めをしたいわね」
 おっとりと優しげな、少し哀しそうな微笑で言った志士・深山千草(ia0889)へ、二人の少女は深く頷き返す。
(男としても、人としても風上におけぬ輩……亡くなった娘たちのためにも、捕らえなければ)
 神弓を背にした秋葉輝郷(ib9674)は、人相書きの男の特徴を頭に入れると紙を懐に仕舞いこむ。そして、部屋の隅に立っていた斗季へ近づいた。
 自分を可愛がってくれた女の無残な姿を見て、さぞ傷ついただろう……。
「斗季、といったね。アヤカシとなった樹の周辺のことを詳しく教えてくれないか。あと、樹のことも」
 穏やかに訊いた秋葉の長身を見上げ、斗季はこくりと頷いた。


 妖樹があるあたりは、山の小道から二十間ほど奥まった場所である。斗季が辿った獣道はその小道より少し南だった。
 養分――というより生命そのものを吸い尽くされた今は、樹を中心に半径十五間が砂地となってしまっている。それは今も恐るべき早さで侵食していた。
 木々の間を縫うように続く獣道を、斗季の数歩先を進んでいたワンコがピタリと止まる。彼女もまた足を止め、開拓者たちを振り返った。
「あそこです」
 斗季が指し示した方向は、濁った紫の空間がぽっかりと口をあけているかに見えた。
「おまん。自分らはおまんの護衛までは受けてへんで?」
 立ち去る気配のない斗季に香は言う。だが、彼女はわかっている、と頷いた。
「あなたたちの邪魔にならないようにします。でも、紫香姐さんのことも、見届けたいの」
 一瞬、心配そうな目を向けた秋葉も、斗季の様子を見て下山を促すことをやめた。
 香は肩を竦めてさっさと歩き始め、
「自分は蔓しか相手せえへん。おまん等、精々気張りや。踊り子に傷つけたら承知せぇへんで」
 と、カペラの横で仁王立ちする。
「ハハッ、人間の顔が付いた妖樹ねえ……本当のアヤカシとなるとは鬼の俺も手に負えんものだ。一、二を争う芸妓なのだろう? アヤカシに堕ちた身とも、この目に焼き付けるのも悪くはない」
 くつくつ笑いながら歩いていく葵の言葉には毒を感じるが、それはどこか掴みどころがなく、斗季は怒りを感じる前に唖然として見送った。
 香といい、葵といい、開拓者というのは一体どんな経験をして開拓者になったのだろう? そんな疑問が浮かぶ。
 その内心を何となく察したのか、ブーツの紐をしっかりと結んでいた深山が斗季に向かって柔らかな微笑を残していく。

 辺りを包む色のせいか、空は晴れているのに昏く感じた。
 妖樹の上方に浮かび上がる青白い女の顔――その目は閉じられ、幹を這う蔓だけが近づく人間たちの気配にざわざわとざわめく。
 数本の蔓が蛇のようにゆらりと首をもたげた。
 斗季が言うには、翅翅ノ樹は数十年のうちに地中深く根を張るが、それは本来しっかりとした『土』にだ。こんなさらさらの砂の上にあの樹が立っていることが不思議だと――。
「どうしても、切るしかないんですよね」
 樹を見上げていた莉乃は誰に言うともなく呟くと、心を決めるように大きく呼吸し、長巻を鞘から抜き放った。
 一方、同じように樹を見ていた美空は、女に語りかける。
「今少し我慢してほしいのであります。今楽にしてあげるのであります」

 彼らは足場となる砂地を確認する。砂漠に慣れた香とカペラにとってはどうということはないようだった。
「死んでも、花を咲かせ実をつけたいって思ったの……? そう……酷く、哀れね……」
 上方にある不気味な一つの花を見あげていたカペラは、そう言って哀しげに目を伏せた。
 妖樹から蛇が踊り子たちに向かって牙を剥いた。
 ふわりと繊指が宙に舞う。
 突然、小昏い世界に鮮やかな花が咲いた――ように見えた。
「ねえ、私と一緒に踊りましょう?」
 『バイラオーラ』と『シナグ・カルペー』を発動させたカペラのジプシークロースが大輪の花のように砂の上に咲く。その花に触れた蛇の蔓が、まるで浄化されるように霧散していく。
 かたや短剣と扇を手にした香の鮮烈な舞は、襲い掛かる蔓を回避しつつ断ち切り、飛ばされた蛇の頭は空中で瘴気となって消えた。
 後方、『炎魂縛武』で炎を纏った秋葉の弓が、ジプシーたちに切断された蔓の根元を断つように矢を放つ。うねりながら霧散するそれは蛇そのもののように見えた。
 ディランはカペラたちとは別方向から、地中より魔法の蔦を呼び出す。
 アヤカシの蔓が退けようとするのを、蔦が大きく回りこみ数本を一まとめにして動きを封じる。彼はすかさず蔦もろとも『フローズ』で凍らせた。
 ディランが封じた蔓を莉乃の長巻がすっぱりと断ち切り、一気に距離を詰めていく。
「肥料になるつもりはありません。倒させていただきます」
 上空から鞭がしなるように飛んできた蔓へ長巻を一閃。その勢いのまま、妖樹の幹へ刃を叩き込んだ。
 カペラ、香と入れ替わるようにして深山、葵が真っ直ぐ幹へと走った。
 葵は泰剣を振るいながら横合いから襲い掛かるものを切り飛ばし、『瞬脚』の間合いに入ったと同時、妖樹の根元まで一気に距離を詰めた。
 『戦陣』を発動させ支援に回っていた美空もまた、魔槍砲を構え『砂狼』に切り替えると妖樹目がけて走った。
 秋葉は狙う目標を『花』に定める。
 実が成る前に――あの不気味な花が実となり、種を飛ばすということはアヤカシを撒き散らすことになる。
 神弓が炎に包まれ、きりきりと引き絞られる弦の音が耳を打つ。そして、甲高い音をたてて放たれた矢が、真っ直ぐ花に打ち込まれた。
 妖樹は落雷にあったかのようにびりびりと震え、樹上にあった女の顔が、かっと目を開いた。

 蛇のように襲い掛かる蔓を鮮やかに断ち切っていく開拓者たちを、なかば陶然と見つめていた斗季の足元で、突然ワンコがあらぬ方を向いて唸り声をあげた。
 そちらへ目を向けた斗季は、一人の男が妖樹のほうを窺いながら近寄ってくるのを見た。山の道側から来たのか、へっぴり腰で木に隠れて見ている。
 その男の顔――
「……あいつ……あいつだ!」
 斗季の顔は瞬時にのぼった怒りで真っ赤になり、考える間もなく男に向かって駆け出していた。
「紫香姐さんを殺したのはあんたねっ!?」
 ぎょっとしたようにこちらを向いた男の顔がひき歪んだ。
 脱兎のごとく逃げ出した男の頬を何かが掠め、目前の木に矢が突き刺さる。
 ひぃ、と情けない声をあげた男が恐る恐る振り返ると、長身の男が矢をつがえ、真っ直ぐこちらを狙っていた。
 蒼白になった男の鼻先へ、今度は白刃が突き出される。
「樹妖が殺したがるかもしれへんが、金になるかもしれへん奴、早々に殺させんわ」
 少女と見まごうほどの美貌が無表情に見下ろす。その紫の瞳がちらりと見たのは黒髪の妖艶な美女だった。
 心なしか男の喉がごくりと上下する。いきなり鼻に鋭い痛みを感じ、慌てて身を引いた。
 無表情な紫の瞳が冷たい光を放って短剣を鼻先に突きつけている。
「べつに、おまんの鼻がなくなったって自分困らんけど」
「……まあ、ここで死んだって、因果応報でしょうよ?」
 カペラは男を見て皮肉げに嗤った。

 少女の激昂した声に反応したのかどうか……妖樹の上方にあった女の顔が、くるりとそちらを向いた。
 女の紅い目が男の姿を捉える。それと同時にめりめりと音をたてて、半ば幹と同化していた蔓枝が引き剥がされていく。
 美空がはっとしたように声をあげた。
「下手人は逃がしちゃなんねーのであります! だけど!」
「紫香さんにはむごいことだけれど、人の行いは、人によって償わせるべきだわ」
 『円月』と『瑠璃』で交互に妖樹へ攻撃していた深山は咄嗟に身を翻し、盾で蔓枝の進路を阻む。弾かれ、跳ね上がった蔓枝を美空の魔槍砲が吹き飛ばした。
「ああ、その表情は知っているぞ。悔しく苦しく憎いのだろう? ククッ、今楽にしてやろうじゃあないか」
 樹上の女を見あげ、目を細めて嗤った葵は『破軍』を発動させると『骨法起承拳』で幹の窪みに強烈な一撃を打ち込んだ。
 耳をつんざくような凄まじい絶叫が女の口から放たれる。
 美空は魔槍砲を女の眉間に向けた。それに合わせるようにディランがホーリーアローを根に向ける。
 光は同時に放たれた。
 女の眉間を砲弾が貫き、ホーリーアローが崩れかけた根元へ打ち込まれると、妖樹はぐらりと傾ぎ、まるで時が細切れになったようにゆっくりとくずおれていった。

 紫の瘴気が散ったあと、砂の上にあったのは一本の玉簪。

「……これは……」
 深山はそっと取り上げる。
「かんざし?」
 莉乃は深山の手元を覗き込んだ。
 玉の部分には細かな細工がなされており、可愛らしい中にも大人しやかな雰囲気がある。いかにも、目の肥えた姉が、少しずつ『女』になっていく妹へ買ってやるにふさわしい意匠だ。
 どれほど紫香が妹の成長を願い、その幸せを願っていたのか……。
「寄生虫のような男なら、新しい女の家にでもいるかと思ってたが、探す手間が省けたな。行方不明の妹……の居場所を吐かせないとな」
 ディランが、香に短剣を突きつけられへたりこんでいる男へ目をやり、次いで苦々しく吐息した。
「どうやったって、怨念を晴らすことはできないだろうけど、せめて姉妹共に、弔ってやれればな」
「ええ。そうですね」
 深山は頷くと、手巾に簪を包んだ。

 斗季は両手を握り締め、殴りかかりたい衝動を必死に堪えていた。
 開拓者たちに囲まれ、観念したらしい男は抵抗する様子もない。深山が男に縄をかけようとしたとき、カペラが止めた。
「その男に言いたいことがあるの。……私の怒りは……人として、じゃないわ。女を舐めてほしくないわね」
 カペラの金色の目が妖しく眇められ、ずかずかと男に歩み寄る。彼女は予備動作もなく男を殴り飛ばした。
 踊り子とはいえ、カペラは志体である。手加減しても並の人間の腕力とはわけが違う。ゆえに、男の体は吹っ飛び、少し離れて見ていた葵の足元に落ちた。
 カペラは手を振りながら言う。
「……ほんと、殴る手も汚れてしまうわ。でも、汚れても彼女の分だけは、ね……」
「〜〜〜っ」
 転がった男は鼻と口から血を流し、殴られた顔を押さえながら起き上がろうとする。それを覗き込むように、三日月に目を細めた葵がくつくつと嗤った。
「……外道同士、死なん程度に遊ぶかね? 生かして捕まえるのは難儀なものだな」
 男はぞっとしたようにぶんぶん首を振ると、助けてくれ、と悲痛な声を出した。


 山にあがってきた警邏隊に引っ立てられていく男を睨みつけるように見送っている斗季に、カペラが声をかけた。
「……斗季も殴りたかった?」
 驚いたように振り向いた斗季は、しかし、すぐに苦笑を洩らした。
「ええ……でも、貴女が殴り飛ばしてくれて、ちょっとすっきりしました。私じゃ、きっとあんなに吹っ飛んでいかないもの」
 カペラはふふ、と笑った。

 斗季は妖樹がたっていたほうへ歩いていく。子犬がちょこちょこついていった。
 少し窪んでいるのは根から倒れたからだろう……つまり、紫香はそこにいたということだ。
 だけど、何も残っていない……
 傍らに佇んだ気配に振り向くと、秋葉が静かに手を合わせており、そして穏やかな声で言った。
「本当の最期に立ち会った者として、祈らせてもらう」
「……あ、ありがとうございます」
 斗季はちょっとどぎまぎしてぺこりと頭を下げる。見れば、いつの間にか開拓者たちが紫香のために手を合わせてくれていた。
「斗季ちゃん。これ……」
 深山が手巾に包んだ簪を斗季に渡す。首を傾げた彼女に、深山はここに落ちていたのだと言った。
「紫香姐さんの……」
 ありがとうございます……それ以上は涙で声にならなかった。
 斗季はしばらく、簪を握って泣いた。

 捕縛された男は、紫香の妹をどこで殺害したのかも白状したが、どうやら殺人以外にもさまざまな余罪があるとのことだった。
 後日、警邏隊が供述で得た場所を掘り起こしてみると、白骨化した女の遺体が出てきたという。


 神楽の街へ帰っていく開拓者たちに、斗季は深々と頭を下げた。
「あの、ありがとうございました。紫香姐さんのぶんも……」
 ワンコも短い尾を懸命に振りながら、主にならって「わん!」と一声あげる。
 元気で。
 そう言って去って行く彼らを、斗季はいつまでも手を振り見送った。