ヴィスナ・パルイーフ
マスター名:津田茜
シナリオ形態: ショート
危険
難易度: やや難
参加人数: 8人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2011/05/13 03:13



■オープニング本文

 純白に薄紅を萌す林檎の花がやわらかに綻ぶと、ジェレゾの街は俄かに華やぐ。
 せせらぎを紡ぐ水辺、噴水のある広場には人が集まり‥‥それを当て込んで店を出す露店を冷やかしたり、耳当たりのよい旋律を刻む吟遊詩人の唄に耳を傾けたりと‥‥皆、屈託なく手を足を伸ばし、冬将軍の頸木より放たれた歓びを街全体で共有しているかのようだ。
 ジェレゾの中心より少しばかり離れた職人街も例外ではなく――
 春を見越して冬の間に制作を依頼していた品物を受取りにやって来る者。積雪や寒波で壊れてしまった家財や道具の修理を頼みに来る者、あるいは、景気の動向や噂話を仕入れに来る者もいて。各工房が意匠を凝らした瀟洒な看板を連ねる石造りの街は普段以上に賑わっている。
 その職人街の一郭、
 帝国直轄を冠するアーマー工房もまた、春の喧騒の中にあった。
 雪解けと共に始まるアヤカシ討伐に併せて送り出される駆鎧の最終調整と、入替りにジェレゾへ帰還した前線部隊の装備の変更‥‥修理とメンテナンスが同時進行で進められ、春を謳歌する市井の賑わいとはまた別の‥‥少しばかり殺気立って剣呑な、どこか緊張を孕んだ空気満ちている。
 機械油と板金の金臭さが混じる工房特有の少し籠った生温かい作業場で、ティル=レイ・シスカはそんなやり甲斐はあるが少々面倒な顧客のひとりと向き合っていた。

「――今のところ、深刻な問題は見当たらない。でも、装備の変更に細かい調整も併せたら、全てが出揃うまでにはそれなりの時間が掛るわ」
「戦場で冬を越した兵士たちに1ヶ月程度の休養を取らせたところで文句を言ってくる者がいるとは思えないけど」

 さらりと返された高飛車な響きにシスカはワザとらしく肩をすくめる。
 異論を唱える気はさらさらないが、「言わない」ではなく、「言わせない」と聞こえるから不思議だ。お互いに周囲から「ひよっこ」呼ばわりされる頃からの付き合いだが、こういうところは少しも変わらない。

「その後は‥‥ま、勅命次第ってところね」

 身ひとつであれば、勅命を受けるまでもなく嬉々として自ら前線に乗り込んでいく性格である。ジェレゾに留め置く為に、あれこれ腐心する者がいるのだから。――直々の声掛りとはいえ、能無しと罵られるのは非常に不愉快な経験だった。
 苦い記憶を掘り起こして憮然と顔をしかめたシスカの沈黙には意も介さず、リィラ=ルドヴィカはずらりと並んで整備を待つ駆鎧の列に満足気に双眸を細める。そして、ふと思い出した風にシスカを振り返った。

「ところで、巨神機の研究は進んでる?」

 唐突に投げられた問いに、シスカは形の良い眉をしかめる。
 南部辺境を騒がせた反乱に太古に失われた巨神機が投入されたらしいという噂話は、北方の戦場でも騎士たちにも波紋を投じたのは想像に難くない。血沸き肉踊る話題であることは認めるが、シスカがその戦場にいたことを知る者は工房内でもごく僅か‥‥不在の理由を邪推した者はいるだろうが‥‥限られた者たちだけだ。そも、件の巨神機が大爆発を起こして四散した顛末は、彼女の立場ならいくらでも知る機会があるはずで。
 あからさまに向けられた胡乱な視線にリィラ=ルドヴィカは、心外だと言わんばかりに頬を膨らませる。

「ちょっとぉ、そんな顔しないでよ。仕方ないでしょ。レナ・マゼーパの話はいつも開拓者がどうしたとか、方向が変わってしまうのだから」

 常に毅然と玲瓏たる威厳と気品を纏う彼女には珍しい‥‥温かみのある人間らしい表情を拝める人間は、そう多くない。綺麗だが冷やかで体温を感じさせない皇女殿下の仮面よりは、ずっと好感が持てるのだけれども。

「あら。でもそれ、間違いではないと思う。――現状、破片の回収も儘ならない巨神機より《開拓者ギルド》の助力の方が当面の問題解決には有効でしょ?」

 少なくとも反乱鎮圧に派遣された帝国騎士と駆鎧では歯牙にも掛らない巨神機を追い詰めたのは、友軍として天儀より遣わされた開拓者の力であったのだ。技術者としての真摯な言葉に、リィラ=ルドヴィカは少し考え込む様子で細い顎を引き、唇に触れた指の関節に軽く歯を立てる。

■□

 冬を越した前線部隊のジェレゾ帰還を知らされた数日後――
 王宮より届けられた書簡を受け取ったジノヴィ・ヤシンは、険しい顔にさらに気難しげな皺を刻んだ。
 その渋い表情に慌ててギルド長より視線を逸らせた小心者な職員たちは、彼の口許に密やかな笑みが刻まれていることに気付けるはずもなく。ひたすら頭を低く、気圧の谷が通り過ぎるのを待つしかない。
 もちろん、訂正してやる優しさなど皆無の冷厳なギルド・マスターは、無造作に呼び寄せた職員に書簡を渡し依頼を張り出すように指示したのだった。

「‥‥戦さ姫が戦場の外に興味を持つとは珍しい‥‥」

 皆が讃える開拓者の力量を見てみたい。
 依頼はごく簡潔な内容で、応えるのはそれほど難しくはないだろう。異文化コミュニケーションとは行かないまでも、《ギルド》の名を挙げる場としては、願ってもない機会ではあった。


■参加者一覧
三笠 三四郎(ia0163
20歳・男・サ
羅喉丸(ia0347
22歳・男・泰
葛切 カズラ(ia0725
26歳・女・陰
久万 玄斎(ia0759
70歳・男・泰
氷海 威(ia1004
23歳・男・陰
空(ia1704
33歳・男・砂
アイリス(ia9076
12歳・女・弓
イクス・マギワークス(ib3887
17歳・女・魔


■リプレイ本文

 壮麗な王宮の姿が水面に揺れる。
 水嵩を増したゆるやかな流れを挟んで王宮と対峙する駆鎧の屯所は、常為らざる緊張に包まれていた。
 工房より届けられた駆鎧の起動確認と物資の点検、帰還部隊からの申し送り等‥‥アヤカシとの終わりの見えない鬩ぎ合いに向けて研ぎ澄まされる、ぴりぴりと隙間なく張り詰めた使命感と自負ではなく、珍しい興行が始まる前の少し浮かれたお祭り気分とでも言うべきだろうか。
 本日、ここで執り行われる開拓者の試技は周知されているらしい。
 《ヴァイツァウの乱》における開拓者の働きは、様々な逸話を交えてジルベリア国内に響き渡った。――南部辺境から最も離れた北方の前線に――どんな尾ヒレ、背ヒレが着いているかは判らぬが、興味を持たれていることは確かなようだ。
 飾り気のない無骨な鉄の門の前で来客を待っていた少年は、《開拓者ギルド》より託された紹介状を渡しておとないを告げた羅喉丸(ia0347)にぺこりと勢いよく頭を下げる。

「《ギルド》の紹介でいらした方々ですね。 今日は、宜しくお願いします!」

 いかにも育ちの良さそうな綺麗に澄んだ青い双眸に揺れる期待の色に見つめられ、アイリス(ia9076)は思わず視線を揺らせてたじろいだ。両の手で押さえた頬が頬がほんのり熱い。
 もし、失敗したら笑われてしまうかも。
 開拓者なんて大したことはないと侮られてしまったら‥‥

「ひょっとしたら、責任重大なのかもしれないですよ」

 ちょっぴり弱気になったアイリスの隣で、羅喉丸も改めて気合を入れ直したのだった。――今回の催事を純粋に楽しみにしているらしい少年の期待を裏切るのも気が引ける。

「ジノヴィ・ヤシン様を始め、レナ・マゼーパ様、駆鎧工房のシスカ女史、あのハインリヒ・マイセン殿も、皆さまのお力を認めておられると伺っています」

 騎士見習いの少年の言を聞く限りでは、各方面への評判は悪くなさそうだ。
 理解が得られれば、今後の助成も期待できるというもの。思惑はどうであれ宮廷からの依頼は受けるのが礼儀だと考えたイクス・マギワークス(ib3887)は、どのように見せれば彼らの関心を得られるかについても思案を巡らせる。
 騎士を相手にどこまで通用するのかを試してみるのも、良い話のタネになるかもしれない。盛り場で女の子に披露する手柄話もそろそろレパートリーが尽きてきたところだと、久万 玄斎(ia0759)も乗り気であった。

「力量を見せろ‥ねェ。まあ簡単に言ってくれちャッて」

 こちとらソレで飯食ッてンのに、と。いかにも億劫そうにワザとらしく溜息なんて吐いてみせた空(ia1704)の言い分に、葛切 カズラ(ia0725)はその鮮やかな朱唇に妖艶とも呼べる笑みを刷く。

「あら。こういう解り易いアピールってやってる方は楽しいものよ」

 日頃の研鑽を形として誰かに披露できる上、手順も策も必要ない。ついでに、アヤカシを相手とした時の命を削る危険も皆無だ。その上、純粋無垢な美少年から羨望の眼差しを向けられるなんて、美味しすぎる。ご機嫌に頷いて、カズラはちらりと漣の立つ水面へと姿を映す王宮へと視線を向けた。

「‥‥観てる方は如何か知らないけど‥‥」

 武力を持つ余所者への風当たりはいつだって厳しいものなのだけれども。
 この催しの最中にも、開拓者へのイメージを故意に歪めようと画策する者がいても不思議ではない。そんな危機感を抱く三笠 三四郎(ia0163)の隣を歩く、氷海 威(ia1004)はそんな騎士たちとの共闘の可能性を切り開く為――この場を用意したジノヴィ・ヤシンの期待に応える為にも――尽力しようと静かに意気込んでいた。
 思惑はどうであっても、彼らもまたアヤカシを敵として戦っている者たちであり、組織としての経験値は《開拓者ギルド》が蓄積したものを凌駕する。その中には、氷海の疑問に答えを出してくれる情報があるかもしれない。


●戦さ姫
 広い運動場には、早くも人が集まっていた。
 騎士とその従者、噂を聞きつけた駆鎧の技術者が殆どで‥‥三笠が想像していた宮廷貴族だと思わしき者の姿は、見回したところ皆無である。――中央での権趨を競うことに重きを置く貴族にとっては、辺境での駐留任務の多い前線部隊はあまり身を置きたい場所ではないのかもしれない。
 壁に添って並べられた駆鎧も、ジェレゾの街中で見かける治安部隊や官憲組織が使用しているモノとは少し様相が異なるようだ。ひと目で法の執行者であると判る見た目の派手さや統一感はなく――使用する騎士の個性に併せた結果だろうか――バリエーションに富んでいる。国家の威光や権力を顕す象徴としてではない、アヤカシを相手に戦う兵器としての色合いが濃いのだ、と。観覧者たちの間に漂う空気に嗅ぎ慣れた気配を感じ、羅喉丸は少し安堵した。

「皇女殿下、開拓者の皆さまがご到着になられました!」

 一斉に向けられた視線の、探るような鋭さは確かに痛い。だがそれは、より強い武器、装備を見立てんとする時の己の視線と同質のものだと漠然と思う。
 ある意味、判りやすい連中ばかりだ、と。空は腹の中で秘かに嗤った。
 正面に集まっていた騎士たちの中心に立っていた長身の娘は少年の呼びかけに顔をあげ、逡巡することなく踵を返す。颯爽と広場を横切るその肩越しに、陽光はいっそう鮮やかな色を煌かせたかに見えた。凛とまっすぐに伸びた背筋と、氷碧色の眸に宿る強い意志の光に、思わず戸惑う。

「不躾なお願いを引き受けてくださったことに感謝します。方々のお話はレナ・マゼーパから聞かされているのだけれど、顔を合わせるのは初めてね‥‥はじめまして、リィラ=ルドヴィカです」

 衒いなく差し出された手を、ただ見つめることしかできなくて。苦笑をひとつ。くるりと向けられた姿勢の良い立ち姿に、ほっと落とされた吐息はひとつではなく‥‥苦笑未満の漣に肩の力が抜けた。
 恐ろしく綺麗な娘だと思う。
 同時に、とんでもない覇気に彩られたお姫さまだとも思った。――あれでは当分、嫁の貰い手も見つかるまい――余計なお世話だろうけれども。


●花散らす風
 ひとつ目の的中に、するりと肩に入った力が抜けた。
 練習して来た甲斐あって、今日はなかなか調子も良い。――ひとつ、ふたつ、みっつ‥、と。――間を空けずに次々と射落とされる的に、ざわりと観覧席が揺らぐ。
 威力は劣っても、素早さと正確さは大きな強みだ。
 全ての的を落としたアイリスはパラパラと投げられる拍手に、透き通った空色の髪をふわりと揺らして頭を下げる。一旦、弓を下ろして呼吸を整える少女の姿に、的の前に進み出た氷海はぴしりと懐より取り出した符を立て式を呼び出した。
 小鬼の姿をした小さな式は、氷海の頭上‥‥念のためにと断りを入れて被った兜の上に、攀じ登り渡された扇子を開く。
 次に行われるであろう試技の予感に、漣のように交わされていた小さな声がぴたりと止んだ。――弓術の芸といえば、これを外しては語れない。だが、実際に試すにはそれなりの熟練と度胸を要求される。
 氷海は「小心故」と弁解したが、アイリスも緊張を湛えた気弱気な笑みを浮かべた。

「えっと、もし失敗したら、頑張って避けて下さいですよ」

 とりあえず、気休めではあるが先に謝っておく。
 つがえた鏃が震えるのは、揺れる心のせいなのだろうか。ゆらゆらと波間に漂う扇の的を狙う勇者の気持ちが、ほんの少し判った気がした。
 《鷹の目》を発動し、より強い集中を目と指先へと張り巡らせる。
 誰もが固唾を呑んで息を殺し‥‥風精さえも気圧されたかのように口を噤んだ、刹那――

 弓弦より放たれた矢は吸込まれるように小鬼ごと扇子を射抜き、淡い瘴気となって散華した小鬼は砕かれた符に還って風花のような切片を空に舞わせた。
 浚われ散り消える白い欠片は氷海の脳裏に、記憶に焼きついたあの情景を蘇らせる。――《ヴァイツァウの乱》の黒幕だとされていたアヤカシ、ロンバルールが灰となって崩れ去るその様を。それは、不可解としか喩えようのない現象だった。
 どんなアヤカシでも斃れると、瘴気に還る。
 陰陽師が操る式もまた、力を失えば瘴気となって散り消えるのが理で‥‥心の中に引っ掛かっていた何かが溶けそうなのだけれども‥‥目を眇めた氷海の視界の中で、空を舞う白い欠片は風に払われ消えていった。



 降り注ぐ矢の雨をかすり傷で凌ぎ切った羅喉丸の機動力に、快哉が湧く。
 ありきたりだが一見して判り易い技が好まれるのかもしれない。披露される開拓者の技に返される観覧者の反応を眺めつつ三笠はそう分析した。
 イクスが披露したいくつかの魔法は――ジルベリアではさほど珍しいものではなかったのだろう。――どちらかといえば使用法における小講義といった受け止め方をされたようだ。
 その後、魔法によって創り出した岩の壁を羅喉丸が《破軍》によって破壊力を増した《玄亀鉄山靠》を用いて粉々にして見せた時の方が、純粋な驚愕を呼んだように思われる。

「避けも、反撃もしない相手を砕けた所で自慢にはならないが、威力を知ってもらうにはちょうどいいか」

 羅喉丸自身が認めるとおり、実践で出せる力はその何割程度だが‥‥イクスの持論である効果を認識した上で、結果を導く‥‥活用と選択肢の幅の広がりを認識するには、あるいは絶好の機会となったはずだ。

「さて、一頑張りしますかな」

 しかし、これはなかなかやり難いかも。
 出番が来るまでは気の弱い好々爺を演じ、相手の油断を誘う心算であった久万は、胸の裡で苦笑する。――予想を上回る開拓者の試技を前にして、闘志をかき立てられこそすれ、侮りを見せる者は残念ながら皆無であった。

「ま、ジィさんの仇は俺がしっかり取ってやるって。安心してヤられて来な」
「なんの。わしだってまだまだ捨てたモンじゃないわい」

 重装備ではないもののしっかりと戦う気でいるらしい騎士の姿に冷やかなちゃちゃを入れた空の軽口にふんと鼻を鳴らし、久万は憤然と足を踏み鳴らしつつ中央に進み出る。
 豪快な力技を前にして興が乗っているのはこちらも同じだ。侮りを誘えなかったのは残念だが、元より負ける気も、仇を取ってもらう気もさらさらない。

「では、宜しくお願いします」
「こちらこそ」

 軽く礼を交わした後、距離を取って対峙する。
 三笠の合図に、久万は僅かに左足を引いて腰を落とした。呼吸を整え、丹田で練り上げた気を全身に巡らせ静かに解放の刻を待つ。‥‥そして、強く張りつめていた気が、一転、弾けた。
 踏み込みと同時に放たれた銀刃の閃きを一重で躱す。頬を翳めた空気の流れに、冷やかな鉄の気配を感じた。紛ごうことなき実践の気配に戦慄が肌を駆け登る。
 大振りするかに思われた大剣の軌道は、だが、恐るべき膂力でもって切り返され‥‥瞬時に跳ね上がり、また、鋭利なきらめきとなって久万へと襲いかかった。
 躱すだけでは、たちまち防戦一方へと追い込まれる。
 受けるか、躱すか――

「‥‥やべェ‥」

 ぞくぞくと背筋を粟立てる昂揚と焦燥に、空は薄い唇にぺろりと濡れた舌を這わせた。
 これだけの相手に適当な手合わせで済むはずがない。殺り合う心算で切り合って――それでも、殺るか殺られるか――薄氷を踏む快感になど興味はないから、あるいは分が悪そうだ。
 お行儀よく切り合うか、いっそ、本性を晒してみるか――
 御前試合さながらの興奮に次第に熱を帯びる運動場を前にして、空の胸中でも鬩ぎ合いが混沌の色を増す。


●混沌たる遊戯
 イクスが作った石壁で三方と天井を覆われた薄暗い空間に、ふわりと蛍火にも似た淡い光が揺れた。
 氷海が呼び出した《夜光虫》は、ふわり、ふわりと石壁が作る影の中を意志を持っているかのように漂い泳ぐ。

「手で叩けば消える程の式だが、遺跡などの暗がりでは役に立ちます。夜戦の場合なら相手の姿を照らす様立ち回らせれば、味方有利に」

 ほう、と。
 騎士たちの間から、興味を引かれた風な声が上がった。
 次に、と。目隠しと耳栓を取り出した氷海は、それを手招いた騎士見習いの少年に向けて差し出す。

「仕掛けが無いか御覧下さい」

 人魂を飛ばし離れた場所の情報を読み取る技だと説明した氷海に、リィラ=ルドヴィカは軽く微笑んでひらりと手を振った。

「いいわ、あなたはそこに居て。‥‥誰か、そうねあなたとそっちのあなた‥‥」

 つぃ、と。優雅に持ち上げられた指先が、三笠とカズラのふたりを呼んだ。
 形の良い爪がくるりと中空に弧を描き、にっこりと蕩けるような笑みと一緒に石壁の向こう側を指し示す。――イクスの作った石壁のあちらとこちらで。

「なるほど、そういうことですか」
「ふぅん。まぁ、いいわ。手伝ってあ・げ・る」

 顔の前にぴしりと立てられた符がカズラの手の中で、ぐにゃりと形を変えた。
 ざわりと怪しく蠢く触手が指の間から手首に、そしてカズラのやわらかな白い腕へと絡みつき対象を見定めようと感覚器を擡げる。

「‥‥う‥」

 何とも形容しがたい生き物の出現に、氷海も思わず呻きを零した。
 いったいどっちの味方なんだか――まあ、フェアといえば聞こえはいいのだが――騎士、開拓者共に絶句させたことに気を良くし、カズラは大きく襟を寛げた狩衣より覗く豊かな胸の谷間に挟んでいた呪殺符「深愛」を引き抜く。

「秩序にして悪なる者よ、盟約の下にその身を顕し、その欲の儘に彼の者を暴食せよ」
「――って、嘘だろっ!?」

 開かれた混沌の扉より、強烈な腐臭が突風となって現世に押し寄せ、五臓に響く不気味な呻きが地を揺るがせた。
 およそこの世のモノとは思えぬ形状の塊――ゴブリン程度ならアヤカシの方がまだ様になっている気がする――が触手を広げ石の壁へと襲い掛った。
 咄嗟に取り出した符へと呪を込め、氷海は退き様に地へ放つ。
 絡みつかせた触手で動きを封じ、重量を掛けて押しつぶす‥‥相手が石壁でなければ、悪夢の方がまだマシだ。
 耐久を上回る負荷に、石壁が音を立てて崩れ落ちる。刹那、
 地表に浮かんだ光より躍り出た式が――ちらりと地中より現れたヤツメウナギに似た姿に、カズラがどこか嬉しげな声を上げた――腐臭を放つ肉塊へと喰らいついた。

「‥‥‥まるで、アヤカシ同士が戦っているようね‥‥」
「どちらも瘴気より生まれたモノだからな。当たらずとも遠からずといったところだ」

 毒気を抜かれた風に首を振った皇女に、三笠は淡々と解説する。
 少しばかり予定外だが、開拓者の操る力が強烈な印象として焼きついたのは間違いなさそうだ。――それにしても、と。文字通り混沌の通り過ぎた後となった運動場に視線を向けて、三笠は小さく吐息を落とす。
 敵も味方もまとめて――相手がアヤカシなら、むしろ味方にこそ――精神的被害をこうむりそうなこの腐臭だけはなんとかならないものだろうか。