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■オープニング本文 ●夜鷹の話 ござ一枚が、その女のすべてだった。 疲れ果て倒れこむための寝床であり、生計を立てるための仕事場であり、彼女に残された最後の寄る辺だった。 女の名は香苗(かなえ)。かつては蝶のごとく舞う芸者であった。 だが既に往時の色香はなく、肌は色あせ、かさついている。 ろくでもない男に入れ込んで身を持ち崩し、いつしか香苗の舞台は燭台の火が揺れる宴から赤提灯の影になり、今となっては月明かりを頼りに夜道に立ち客の袖を引く身だ。羽振りのいい旦那は香苗など見向きもしない。しぜん彼女が引くのは垢じみ擦りきれた袖になっていく。紅を買うどころか、糊口をしのぐのに精一杯だった。ひびの入ったべっこうの簪が、かろうじて残った芸者の矜持だ。 (「ああ、せめて、これに傷がなけりゃねえ……そしたらあたしだって、もっと良い見目だってわかるだろうさ……」) 手探りで簪のひびを探るのが、香苗の癖だった。 本当は彼女だって、簪を買い換えたくらいじゃどうにもならないのだと気づいていたのだけれど。 その晩も香苗は四辻に立っていた。人の流れをぼんやりとながめながら、老いぼれた自分でも誘えそうな相手を探し立ち尽くしていた。雑踏はざらざらと彼女を削っていく。夏の夜の湿った空気でも、ひからびた心身は潤せずにいた。 香苗は歩き出した。河岸を変えるのだ。今夜こそ客を取らねば。 歓楽街の一角、四辻に店を兼ねた家が集まっている。人通りは並みだ。 きゃらきゃらと笑い声が聞こえる。幸福そうな。 なんの気なしにふりむけば、店の前にほっそりした立ち姿。客の旦那を見送るところか。ちりめんの羽織を着た白髪頭の裕福そうな男が、名残惜しげに何度もその女の手を握っている。 かむろや幇間に囲まれた奥、灯篭の乏しい明かりの下でもなお、香苗は見て取った。花魁と呼ぶにふさわしい容姿。情の深そうな大粒の瞳、髪結いが丹念に編み上げたみどりなす黒髪へ、幇間の提灯がほんのり紅を添える。 周りに居る誰もが皆、彼女の気を引きたがっている。高嶺(たかね)、と。 香苗は在りし日の自分を見た気がした。人生の絶頂に居た頃の自分を。 そのとき、魔が差したのだ。 ふと気づくと、香苗の前に男が倒れていた。簪が血で塗れている。かむろは恐怖のあまりひきつけを起こし、幇間は腰を抜かしていた。 記憶が無い。 だが手には人を刺した感触が生々しく残っている。 香苗は呆然とへたりこんだ。 「旦那様しっかり、傷は浅いでありいす。旦那様、旦那様!」 高嶺というらしい花魁はほとほと涙をこぼし、うつぶせた男へ呼びかける。黒目がちな瞳に映っているのは倒れた男だけで、芯から客の身を案じているのが見て取れた。涙にぬれた瞳に、香苗の姿は無かった。 それに気づいたとき、香苗の中に猛然と激情が湧き起こった。妬みだったのだろう、年若い美しい花魁への、嫉みだったのだろう心から身を案じてもらえる客への、怒りだったのだろう、だしがらのようになった自分への、境遇へ立ち向かう気も無くした己への。 沸いた湯のように激情がこぼれ、濁流が香苗の理性を押し流した。男の懐からこぼれた分厚い財布を奪い、高嶺の細い手首をつかんで走り出す。 「何をなさるでありいす。はよう人を呼びやらねば旦那様が」 「やかましい!」 香苗は高嶺の頬をはる。 「たった今から私があんたの主人だよ。ええい、何の苦労も知らなさそうな顔をして、あたしゃアンタみたいなのがでぇきれえさ。来な、女郎屋に売り飛ばしてやる!」 香苗はただ人気のない方向を目指し、あてもなく夜の闇を駆けて行く。 高嶺はいくつもある簪を引き抜き、香苗に気づかれぬようそっと道へ落としていく。 やや遅れて、ギルドへかむろの少女が飛び込んできた。 姉貴分の高嶺を助けておくれやす、と。 === ●どこかの話 チャイニーズルーム 神楽の都はずれ 隠れ家 煌々と明かりをつけているのは、せめてもの眠気覚ましだった。 徹夜が続いていた。常人ならまともな判断もできなくなるころだ。 部屋の壁に背を預けているのは猫族の女だ。 短く切った髪は、サビ猫風。姓は参、名は梨那(サン・リーネイ)。 悪態をつく元気もなく、眠気と戦っている。隣に寄り添う小柄な影が動き、自分の手をつねっている。 「おばさん、やめるにょ」 幼さの残る細い腕がシーツの端から覗いていた。その腕を参がつかむ。お化けの真似をする子どものように、頭からすっぽりとシーツをかぶっている彼女は、呂明結(リウ・ミンユウ)。呂戚史の母だ。 遠い昔には大店の女主人で、参は家族ぐるみで世話になったことがある。意識が遠のくたびに自分をつねるものだから、腕も太股も痣だらけになっている。 口の利けない彼女は参の手のひらへ指先で字を書く。 『眠ってはいけない』 開拓者に連れられ巌坂を抜け出した時も、ギルドに保護されこの家へ入ってからも、呂の母はかたくなにそう主張し、参の眠りを妨げた。 『耐えなさい、梨ちゃん。艱難辛苦です。私達は天帝さまから世界の幸福量を一定に保つ偉大なお役目を授かったのです』 そういう明結も限界が近いようだった。 視界の隅にもやがかかって見える。耐えきれず、ふっと意識を手放す。とたん、体の奥で熱がはじけた。膿がほとばしり抜けていく。それが何かすら、追求することもできず参は眠りの海に沈んでいった。周りからひたひたと押し寄せるのは何なのか、真夏に氷を含むような心地のよい。 はっと参は目を覚ました。明結が参の肩をつかみ、ゆすぶっていた。 意識を手放していたのは瞬きほどの時間らしい。眠気はまだ続いている。 |
■参加者一覧
柚乃(ia0638)
17歳・女・巫
玄間 北斗(ib0342)
25歳・男・シ
朱華(ib1944)
19歳・男・志
リィムナ・ピサレット(ib5201)
10歳・女・魔
神座早紀(ib6735)
15歳・女・巫
ミヒャエル・ラウ(ic0806)
38歳・男・シ |
■リプレイ本文 ●夜を走る かむろは恐怖と心痛に舌をもつれさせている。朱華(ib1944)はかむろの肩へ優しく手を置いた。 「現場まで案内してくれるか」 努めてゆっくり穏やかに声をかける。凶行の場面を思い出したのか、かむろはさらに青ざめ体を強張らせた。リィムナ・ピサレット(ib5201)が唇をかみ締める。 (「急がないと!」) リィムナは鉄の克己心で焦りを押さえ、明るい微笑みを浮かべると少女へ抱きついた。 「あたし達、百戦錬磨の凄腕開拓者なんだから。信用しちゃってオッケーだよ♪」 朱華に続きリィムナの体温に触れ、おびえていたかむろも落ち着きを取り戻したようだった。朱華はかむろを背負いギルドを飛び出した。 神座早紀(ib6735)が提灯へ灯をともし足元を照らす。 (「……この方向、妹が依頼で行った先と同じ。巻き込まれていなければ良いけれど」) 不安がざわりと胸の内をかき混ぜた。 柚乃(ia0638)もまたかむろの警戒心を解きほぐすため、愛らしい声音で質問をくりかえした。 「そう、あなたは高嶺さんを本当のお姉さんみたいに思ってるのね。安心して、攻撃系の術の使用には注意するから。ねえ犯人の特徴だとか、覚えていることがあったら、教えてちょうだいな」 柚乃とかむろのやり取りに聞き耳を立てていた玄間 北斗(ib0342)は、温厚な顔に人知れず眉を寄せた。 (「いまいち犯人の意図が読めないのだ」) 何故高嶺が襲われたのか、腑に落ちない。 かむろに言わせると、高嶺は人の恨みを買うような人物ではないそうだ。しかし花柳界は足の引っ張り合いが激しい。ただでさえ恨みつらみそねみは、本人の知らないところで育っていくものだ。もっとも有り得そうなのは、暗い依頼を受けた代理犯罪だろう。 しかし、話を聞けば聞くほど感じるのは。 同じことを考えていたらしいリィムナと視線が合う。アメジストの瞳で、疑念がぴかりと光った。 「場当たり的犯行だよね、これ」 短くうなずき、北斗は地を蹴る足に力をこめた。 「伝え聞く内容から察すると、苦労を重ねた夜鷹のようだし、若く大切にされる高嶺さんが羨ましくて妬ましくて激情に身を委ね、捨て鉢になってるんだとしたら……良い事はないのだ。高嶺さんも、その夜鷹にも」 「下手人が、いつ高嶺さんを殺す気になるかわからない。急ぐよ!」 リィムナが眉尻を厳しくする。 雑踏を駆け抜ける彼らの後を、マントをひるがえしながら追うミヒャエル・ラウ(ic0806)。その、切れ長の瞳が朱華に背負われたかむろをとらえ、勢い込む仲間を冷めたまなざしでながめる。 (「女は捕らわれ罰せられるだろう」) 夜鷹の身の上など、よくある話だ。挫折、失墜、転落、凋落……誰にでも起きうる悲劇、ありふれている。特に珍しいことでもない。逆上し無謀な行動に走ったとて、これもまたよくある話。 ままならない理不尽さに耐えかねて、他人に理不尽を働く。ただそれだけ、単に、ひとつの事実。 ただ、疑問に思うことが彼にはあった。 ●ひびわれ 歓楽街の一角。店を兼ねた一軒の前には人だかりができていた。短い石畳にござが一枚、そして血痕が残っている。ミヒャエルは野次馬を押しのけ、幇間へ声をかけた。 「刺された男はどうなったのかね」 戸板に乗せられ医者のところへ運ばれていったという。 (「辛うじて助かる傷だったか」) 血痕の位置に念頭に置き、ミヒャエルは数歩退いた。かむろの話から状況を再現するため道を歩く。 「当時、女は四辻に差し掛かったところで、高嶺を見かけ犯行に及んだ、か。凶器は古いかんざし、刺すには向いていない。本人にとっても突発的な事象だったろう。にも関わらず一撃で重症とは。……女は志体持ちか」 呟きを耳にし、柚乃が顔を伏せた。 「最近……力について考えてしまうの。開拓者の力は、志体なき者をいとも容易く殺めてしまう」 だから、誤った使い方はしたくない……っ。 決意が柚乃の背を押した。夜鷹が逃げていった方角を押さえると彼女はカンテラへ灯をともした。 「ラララ・オブリ・アビス。いつも何度でも、いついかなる時にも」 人だかりを抜けた彼女は歌いながら跳ぶように走り出す、その姿が黒猫に変化していく。カンテラをくわえた猫が夜道を行く。血痕はすぐに途切れてしまっていたが、柚乃は自分達の判断を信じて先を急いだ。 カンテラの灯を照り返し、きらりと光るものがある。目ざとく見つけた柚乃はそれに近づいた。べっこうの簪だ。艶のある飴色の光沢が柚乃の記憶の中の物と重なった。 「これ、高嶺さんの簪です。私、見たことあります!」 「この方角でまちがいないのだ」 胸をなでおろした北斗は、仲間と方針を再度すりあわせた。 「おいらは、高嶺さんの救出・安全確保を第一優先に行動するのだ。誰か注意を惹いてくれるなら、その隙を突いてどうにか身柄を確保するのだ」 「お互い夜が使えるみたいだし、作戦は成功したも同然だよ。ね、かむろちゃん、またたきしてる間に終わっちゃうかもよ?」 リィムナがウインクした。灯りを託されていたかむろが、朱華の背でおずおずと笑顔を見せる。 夜道に残る痕跡をたどっていた早紀が、途中で違いに気づいた。引きずるような痕が、ある地点を境に人一人分の足跡へ変わっている。異変に気づいたのかミヒャエルもまばたきした。 「花魁の衣装ならば、そう早くは歩けまい」 早紀はちらりと朱華を見て首を振った。 「高嶺さんに抵抗の意思があれば背負ったりはできないでしょうから、脇に抱えていったのかしら。移動に支障が出ていますね、となると……」 「居た」 宙を見つめていた朱華が、ぼそりとつぶやいた。 「南東の方角に、不自然な速度で遠ざかる何かが居る」 ぼんやりして見えたのは、心の目を開いていたかららしい。朱華は灯り持ちの礼を言いながら、かむろを背負いなおした。少女が朱華の背にぎゅっと抱きつく。朱華は定期的に気配を集め、標的の方角へ仲間を誘った。 穴だらけの汚れた板塀を横目に角を曲がると、裾をはだけて駆け去る後ろ姿が現れた。夜鷹は、まるで大きな花束を抱えているように見える。 「……待て、と言っても聞きそうにないな。下手人と高嶺さんで間違いないか」 「はい。はよう、はよう姉さんを助けて」 「提灯を高くあげてくれ」 短く返事をした朱華は夜鷹の後を追った。灯りに照らされた高嶺の姿に集中する。怪我はなく、開拓者が来たと知り青ざめた顔に希望が宿っているようだ。 「大事無いな。救出に移る」 おとなしくしていてくれと高嶺へ合図を送り、朱華は平静を保ち殺気を覆い隠す。 「あんた、自分が何をしたか分かっているのか?」 責めるのではなく、相手の心へ寄り添うように、朱華は静かに声をかけた。夜鷹は返事もせず速度を上げる。 同じ頃、北斗も自身の気配を消そうと努めていた。灯りの範囲外に移り、目視で逃げる夜鷹の足取りを確認しながら物陰を縫うように移動する。 (「志体持ちとはいえ人間を小脇に抱えていては、思うように動けないのだ。このまま朱華さんが気を引いてくれれば……」) 夜鷹の背後へ、北斗は回り込んでいく。黒猫が彼の足元へ沿っていた。提灯はミヒャエルに託し、柚乃は黒猫の姿のまま北斗の陰に隠れていた。 (「下手人が高嶺さんに刃を向けることもありうる……。そんなことさせない」) 柚乃は北斗の影を利用し、その姿を変えていく。黒猫の輪郭がぼんやりとにじみ、かげろうが立ちこめた。 香苗は舌打ちした。 (「引き離せない。さては開拓者だね?」) 香苗は高嶺をつかんだ左腕にぐっと力をこめた。小さくうめく高嶺の白いうなじに憎悪とも嫉妬ともつかぬ感情がくすぶる。 「あんた、自分が何をしたか分かっているのか?」 朱色の剣士の声が耳朶をふるわせる。 「事件のあらましは聞きました。貴方は刺した人に恨みでもあったんですか?」 白衣の巫女の声が背に当たる。 思い出すのは伏している男、その虚ろなまなこ。両手に残った不気味な感触と、血に塗れた簪。 自分が一線を踏み越えたと知った瞬間、香苗は、人という物は簡単に肉塊へ変わるのだと気づいた。 香苗は感じ取った。ああ私は外道になってしまった。すまないことをした。老人にも花魁にもすまないことをした。老人には家族がいただろう。店の主であるかもしれない。誰かに求められ慕われる人であっただろう。高嶺もまたかつての自分のように、蝶よ花よとちやほやされるその裏には、血のにじむような努力があるのだろう。 だけども。 (「……知ったこっちゃないね!」) 生と死は表裏一体、隣りあわせで同じ線上。ならば、ただ捕らえられ、唯々諾々と裁きを受けるよりも、枯れたまま果てるよりは外道のままどこまで行けるか。香苗はそれを知りたかった。流されるままだった己の人生へ、復讐できるのかを。 それは日が暮れても帰り支度をしない子どもに似ていた。だが香苗は子どもではなかった。そして手にしているのは玩具ではなく、高嶺の命だったのだ。 故に開拓者は走る。高嶺を助けるために、香苗を止めるために。 「事件のあらましは聞きました。貴方は刺した人に恨みでもあったんですか?」 夜鷹の注意を惹くべく、早紀は言葉を尽くした。どんな切り口であっても、夜鷹は振り向きもせず逃げていく。だがしきりとこちらの距離を伺っている素振りがあった。 徐々に狭まっていく開拓者と夜鷹の距離。早紀は踏み込みすぎる前に戦闘の朱華を抑えた。 (「私達はこの距離を保ち、続けて下手人の気を惹きつけましょう」) (「ん」) 背のかむろのことも考え、朱華はスピードを押さえた。追いつ追われつしながら一行が人気のない通りを横切ったとき、ミヒャエルが皆へ視線を投げかけた。 (「好機だ」) 裏術の針をずれた位置へ召還する。突然地面から生えた針の山に、女は驚き強引に進路を変えた。仲間が続けて動くなか、太陽針を取り出し女の足を狙う。細い針が夜鷹のふくらはぎに刺さり、神経毒の甘い香りが立ち上った。 「おのれええええ!」 夜鷹は早紀と朱華へ敵意を向け反撃に転じようとする。その時、高く澄んだ声が夜のしじまを裂いた。 「それ以上いけない!」 ひびわれた簪が、夜鷹の手から消えていた。唯一の武器を喪った女は、動転して辺りを見回した。ついで違和感が周囲を駆け抜け、女は背後から幼い少女に締め上げられていた。リィムナだった。ナハトミラージュで姿を消したまま、射程内に犯人を捕らえた彼女は、シノビの奥義を発動して急接近し、再度濃い暗闇を発して高嶺を引き剥がした。そして一息置くと動きを封じにかかったのだ。 (「この人、筋肉量は大したことない。とはいえ志体持ちだから油断できな……っ!」) 締め上げながら体のもろさを確かめ、後遺症が残らぬよう手加減を。そう考えていたリィムナは、必死になった夜鷹に大地へ叩きつけられた。直前で両手を突き、猫のように跳ね上がって距離をとる。夜鷹が吠えた。 「畜生、畜生! ここで終わりか、ええ畜生め!」 素手のまま近くに倒れていた高嶺へ襲いかかった。夜鷹の荒れた手が細い首を締め上げようとした。だがそれはかなわなかった。女の手は首へかかる寸前で高嶺に掴みとられていた。 高嶺の輪郭がゆっくりとぶれ、柚乃へ変わっていく。 「やれやれなのだぁ〜」 夜を越えて本物の高嶺を保護していた北斗は、いつもの調子を取り戻してにこりと笑った。 ●そして 「……魔が差した?」 香苗と名乗った夜鷹の供述に、朱華は眉をしかめた。愚痴で綴られた香苗の身の上話は、辛抱と苦労の連続だった。それは同時に彼女が、我慢強い人間であったことの示唆であり。 (「いきなり人を襲うような人間とは……思えないな」) 「魔が差した時のことを詳しく教えてくれ」 「……ふっと眠くなって、気が付いたらやっちまってたんだよ」 顔を覆った香苗は、そういえば、耳鳴りがした気がすると耳を押さえた。北斗が高嶺へ水を向ける。 「高嶺さんはその時どうだったのだ?」 「言われてみれば、かすかに耳鳴りがして眠くなったでありいす。だけどもお客さんの前でありいすから、気を張って押さえたでありいす」 隣のかむろもこくりとうなずいた。 狐につままれた顔の北斗の向かいで、リィムナが腕を組んだ。泰大の寮で開いた瓦版を思い起こす。 (「少し前、朱春の瓦版に同様の供述が立て続けに乗ってたような。……いつのまにか沈静化しちゃってたけど、何か関係があるのかな」) 一応知り合いには根回ししておこうっと。むむむと唇を突き出すリィムナの隣で、早紀がまばたきする。 「似たような話を聞いたことがあります」 香苗へ向き直り、早紀は目じりをゆるめる。 「だから私はあなたが言うことを信じます。でも高嶺さんを連れて行ったのは貴方の意思ですよね? それは何故なんです?」 渋っていた香苗だったが早紀の優しい瞳にうたれ、やがて口を開いた。 「……何もかも羨ましくて、自分がつまらなくてたまらなくて……苦しくて」 声を詰まらせる香苗。嗚咽をこらえきれなくなった彼女を、早紀はそっと抱きしめようとした。 「生が辛いのならば、ここで終わらせる手もあるが」 ミヒャエルの声に、一同が息を呑んだ。 「安心したまえ、あの男は無事だ……死んではいない。だがきみが人を傷つけ、その花魁を誘拐した事実は変わらない。この先きみは、より重い十字架を背負うことになるだろう」 ミヒャエルは思う。生死を天秤にかけたなら、人生は、苦でしかない、と。 人は、生まれ、老い、病み、死ぬ。戻らない時間、世は不条理で不平等にできている。人ひとりの力では、どうすることもできない。空しいものだ。 それでも、なぜ生きるのか。未来に明るい展望もなく、堕ちていく一方で、信仰もなく……。 彼の静かな胸の内に哀れみはなかった。同じく年齢を重ねた者として、安易な同情は本人への屈辱であろうと感じていた。 「自分の不幸を、ひとを不幸にした事への免罪符にするな」 朱華が一歩踏み出た。古い簪をリィムナから受け取り差し出す。 「そんな事したら、誰もあんたをよくやったって言えなくなるだろ。頑張ったって、言えなくなる。……これは、あんたの誇りだろ。まだ、誇りを持ってるだろ」 淡々とした朱華の声に柚乃が重なる。彼女は微笑し、花霞の白粉をとりだした。 「まだまだ魅力は眠っているはずです。それを引き出さずに、全てを投げ打ったり諦めるのは勿体ないです。艶やかな熟年の魅力……というのかな。うぅ、上手く言葉にできないのですけど」 柚乃は笑みを深め、真心から化粧を施す。 「美しさは内面から来るものなの。今はこれからの長い人生の途中、心の原石を磨いている途中。だから、幾らでもやり直せる。本人にその思いがあれば……」 香苗の頬へ、今までとは違う涙が伝わった。眠らない神楽の都の灯を背に、彼らの影が長く伸びていた。 |