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■オープニング本文 「……」 猫族の男がひとり、岩場に佇んでいた。腰を下ろしている彼の横には、ささやかな盥が置いてある。中には海水だけがあった。 彼の足元には一本の竿があり、先端から伸びている糸は男の手元でぐしゃぐしゃに絡まっていた。 「むぅ」 思わず男は唸る。 太い指が小さな釣り針を摘み、折れ曲がった先に餌をつけようと悪戦苦闘していたようだった。 だが、どうにもうまくいかない。太い指が釣り針を持つのも困難であるのに、さらにそこへ小さなエビを刺さなければならないのだ。加えて男はひどく不器用で、羽織っている上着のボタンは掛け違ったままだった。 ざばん―― 岩を打つ波が白い泡を立てる。 男はもう五日も飲まず食わずだった。腹の虫も泣く気力さえないのか、ぐーともぎゅるともいわない。 片目を瞑り、エビを刺してみる。失敗した。摘んだエビは指の圧力に負けてぺたんこになった。 新しいエビを餌入れから取り出し、顔を近づけて針に刺してみる。また失敗した。ぺたんこになったエビが、ぺらり、と岩の上に落ちる。 「こいつぁ、どうしたらええんかのう」 男は一人ごちた。 「腹ぁ減ってたまらんわいやぁ」 男は途方に暮れた。 その脳裏に嫁の顔が浮かんだ。銀の毛並みが美しい嫁だった。抜けるような青空を、ゆっくり流れていく雲のひとつが、笑った嫁の顔に似ている気がする。男の目尻にきらりと光るものが見えたが、男はその丸太のように太い腕で拭った。 「もう、あいつはおらんのんじゃけえ。ひとりで食っていかんといかんのんじゃけえ」 男は釣りを諦め、投網に挑戦した。 だが、網は少しも狙ったところに落ちなかった。とうぜん魚は一匹も捕れなかった。 素潜りにもチャレンジしてみたが、飛び込みに失敗して腹を打ち、溺れかけた。 船に乗って沖に出たら酔って釣りどころではなかった。 陽がとっぷりと暮れ、男はひとり砂浜で眠りにつく。 仲間がいる村に帰ろうか。そんな弱音が口をついて出そうになった。だが男はかぶりを振り、その言葉を飲み込んだ。 「秋刀魚漁が始まるまでに、なんとかせにゃあいけんのんじゃがのう」 ぽつりと呟いた。 ひとりで村を離れ、秋の『三日月は秋刀魚に似てるよ祭り』に供える秋刀魚を捕る為の練習をしているやもめブンタは、そんな自分を心配した仲間が、強力な助っ人を呼んだことを知る由もなかった。 |
■参加者一覧
クノン(ia0545)
18歳・女・サ
菊池 志郎(ia5584)
23歳・男・シ
ヴァレリー・クルーゼ(ib6023)
48歳・男・志
神座早紀(ib6735)
15歳・女・巫 |
■リプレイ本文 目を開けると、澄みきった作り物のような青空が視界を占拠していた。流れる雲も、潮気を帯びた風も皆、凝った贋物のように美しかった。 諦め半分で糸を垂らしていたが、一晩中かかっても小魚一匹かかっていない。 糸を手繰り寄せ、釣り針を見れば押しつぶされたエビがそのまま刺さっている。餌食いにすらそっぽを向かれているらしい。 「ダメじゃのう」 ぽつりと零す。 と、その時。なにやらブンタの背後が騒がしくなる。だが、ブンタはぼんやりと沖を眺め、溜息をつくばかりで振り返りもしない。ぽとりと釣り針が落ちる。 「……」 今にも弱音を吐きそうだ。このまま何も食わずにいれば、嫁の下へ行けるんじゃないかとさえ思う。 「わしゃあ、何をやってもダメじゃのう。もう、ええけぇ、早よう迎えにきてくれぇや」 逞しい二本の足をいじらしく抱え、漏らした弱音。 だが、それを跳ね飛ばすほどの明るい声がブンタの耳を貫いた。 「こんにちはっ。いいお天気ですね!」 弾かれたように声の主を見ると、空の盥の傍に小さな女の子がしゃがんでいた。真っ白な猫の面をつけた、どこか風変わりな女の子だ。巫女のようだが、いったい、どこの子じゃろう? と疑問がブンタの頭をよぎったが、少女はそんなブンタに意も介さず、 「実は今からお魚を獲って食事にしようと思ってたんですが、よかったら一緒にどうですか?」 真夏の浜辺でにこりと笑う少女、神座早紀(ib6735)は言った。 「や、自分は」 そこまで言って首を振る。 ブンタが遠慮するには訳があった。嫁が死んでからというもの、食いっぱぐれのないようにと幼馴染のケンがあれこれ魚を持ってきてくれたのだが、それに対してブンタはなにも返せないことが辛くて悔しくてたまらなかった。 いつまでも世話になんぞなっとられんわい、と浜に来たというのに、行きずりの少女にまで同情される始末に、ブンタは情けなくてしようがない。 「随分元気がないようだが。良かったら食べんかね」 ずい、とぶっきらぼうに包みを差し出された。ブンタの視線が包みを差し出す腕を、ゆっくりと上っていく。行き着いた先で、ブンタの目は釘付けになった。 「きれいな髪をしとるのぉ」 突然褒められたヴァレリー・クルーゼ(ib6023)は、丁寧に撫でつけた髪を思わず手で押さえた。 「自分の嫁さんも、アンタみとうにきれいな銀色の毛をしとったんよ」 元気付けるはずが、思いも寄らないところで最愛の妻を思い出させてしまったらしい。本気で泣きそうになっている。 だが、ヴァレリーはその気持ちに思い当たるものがあった。昨日まで当たり前だったすべての時間が大きく変化して、そしてその事を受け入れられていない自分がいて。 (「居なくなって初めて、どれだけ依存していたか気付く。……男とは情けないものだ」) 支えが必要なのだ。一人ではないのに、失ったものがあまりにも大きいと、自分はこの世界でたった一人の存在だと思い込んでしまう。 彼を支える仲間がいる。 (「私の弟子のように、ね」) 「簡単な食事ですが一緒にどうですか? とりあえず、有り合わせなんですけど」 気付けば食事の用意が為されていて、ブンタは目を瞠った。 海風に煽られた砂が入らないように、上手い具合に風除けまで拵えて、菊池 志郎(ia5584)が言った。 「まずは簡単な腹ごしらえをして、それから、魚を捕ろうかね」 「アンタら……なんで、こがぁに良くしてくれるんな」 ブンタは、ヴァレリーから食べ物の包みを受け取りながら訊いた。 「盥が空っぽでしたし」 早紀が首を傾がせて微笑むと、 「おかずが何種類かあると嬉しいじゃないですか。見たところ、魚釣りをなさっているようですし」 志郎は持参していた釣り道具を取り出し、少しばかり得意そうな顔で笑った。 「まあ、あれだよ。腹が減っては戦は出来ぬということだね。第一、空腹だと血中への熱量供給が減るから、それだけでも全身の倦怠感や眠気などを引き起こすのだよ。そんな状態では」 ブンタの知識では到底おっつかないうんちくを語り出したヴァレリーだが、自分の渡した包みがブンタの腕の中で、ぷちゅっと潰れているのを見て、 「腹ごしらえをして、実戦あるのみだね」 と話をくくった。 近くの松林から、細めのものを選んでへし折ってきたブンタは、それを日よけだと言って砂地に差し込んだ。ふうふうと汗をかくブンタへ、ぬるめになった緑茶を差し出し、 「その力があれば、きっとなんとかなります!」 早紀の両目がキラリン、と輝いた。 陽光をかえす海原の煌めきを、黒曜石の瞳に写し取ったようなその目を、ブンタはじっとみつめた。そして少しだけ口元に微笑を浮かべると、早紀の横へ腰を下ろし、渡された茶をぐびりと一口で飲み干した。 「娘でもおりゃあ、少しは違ったんかいのう。娘さんは、親父殿はおるんか?」 早紀は、浮世離れした父親を思い浮かべた。ふふっと笑った顔は、より幼く見えた。 ブンタは早紀からもらったむすびを二口で平らげ、 「娘さんの親父殿は果報者じゃぁ。こがあに優しい娘はなかなかおらんで」 褒められたのに、早紀の胸はきゅうっと切なく痛んだ。それと同時に、なぜだか無性に父親に会いたくなった。抜けるような青空を見上げ、父も同じ空を見上げているかしら、と思いを馳せる。 場所は違えど、この空を見上げているかもしれない大切な存在がいる早紀は、いもむしのように太い指についた米粒を、潰し潰し摘んで食べているブンタを横目で見つめた。そして、やはり胸が痛んだ。なんとしても漁を成功させたいと強く思う。 「酒の席ではないですが、せっかくの糠秋刀魚が潰れたままではもったいないので」 つ、と差し出されたのは糠秋刀魚をたたきにした一品だった。 ブンタの怪力で潰れてしまった糠秋刀魚だが、志郎が機転を利かせてつまみへと早代わりさせたのである。唐辛子が利いた司空家の糠秋刀魚だからできる裏技的レシピだ。 なんにも出来ない上に、せっかくの秋刀魚を握り潰したブンタはしきりに感心した。 「方々を旅していれば自ずと身に付くものですよ。たいしたことじゃないです」 気恥ずかしそうに両手を必死に振って、志郎は謙遜した。 「おお、これはなかなかイケる。塩むすびに乗せて食べると絶品だな。神楽に戻ったら弟子達に振舞ってやろう」 ヴァレリーがにやりと笑う。 私にも出来るのだとみせつけてやろう――ヴァレリーの独り言を、打ち寄せる白波が、ざざんと消した。 軽く腹ごしらえをしたブンタと、通りすがりの開拓者という筋立ての三人はさっそく岩場へと移動した。 巫女服をためらいなく脱ぎ出したときは、ブンタと志郎が悲鳴を上げかけたが、早紀はしっかり水着を着込んでいたので二人が想像していた事態にはならなかった。二人は互いの顔を見合って、甚だしい勘違いを笑った。 緩やかな曲線を描いて飛び込んだ早紀を、ヴァレリーは眼光鋭くみつめている。 「……完璧な角度だね。着水時の水撥ねも少なく、音も静かだ。なんと華麗な飛び込みだろうか」 ヴァレリーの双眸は玻璃越しであっても、その探究心の色は隠せないでいた。 「私が追い込み役をしまぁす!」 そんな目で見られているとは知らない早紀は、岩場から数メートル離れた位置から顔を出し、両手を大きく振りながら叫ぶ。 外海との境のない岩場なだけあって、少々波が荒い。早紀の小さな身体はブイのようにぷかりぷかりと波間に揺れていた。 「大丈夫かいのう」 「いざとなれば助けにいくので案ずることはない」 「ヴァレリーさん」 「さあ、早紀さんの漁。頑張りましょう」 「志郎くん……。ほんなら、気合入れてやろうかいの! 早紀ちゃん、魚ぁこっちに追い込んでええでぇ!」 岩場で見守るヴァレリーと志郎の励ましを受け、ブンタは大声で早紀へ合図した。 気付けば、沈んでいたブンタの表情が明るいものに変わっていた。早紀から渡された金棒を頭上に掲げ、 「ぶちしばく!」 傍目から見れば、水遊びのような早紀の追い込みに合わせ、ブンタの豪腕が唸りをあげる。 地響きのような轟音は海面にすさまじい衝撃波を生んだ。波紋と呼ぶには大きすぎる波が陸から沖へと向かう。 やがて静かになった水面に、白い腹を上にした大小のさまざまな魚が浮かび上がってきた。全部で十匹程で、大漁とは言い難いが、これまでのボウズっぷりからすれば大成功である。 「すごい、やりましたね!」 早紀が海の中で両手を叩き、はしゃいだ声をあげる。 「魚をこの中に。氷をたっぷり入れてありますから、持ちますよ」 盥には氷がたっぷりで、志郎とヴァレリーがいっしょに運んできたようだ。ヴァレリーは腰を押さえ、「こ、腰が」と冷や汗を流している。対照的に志郎は、爽やかな汗を額から流していた。やはり年の差か。 追い込み漁の次は、釣りだが、これまでとは趣向を変える。その為に、砂浜に丸印を描き、そこへ針を投げ込む練習までした。成功率は高くはないが、ゼロではなくなったので本番へ突入する。 相変わらず餌を指で押しつぶすブンタだが、その横でヴァレリーも餌付けに難儀していた。 「……うぬう、よく見えん……!」 滑り防止に提案した小麦粉で、ヴァレリーの指先は、まるでこれから油で揚げられる公魚のようになっていた。そんな指では、近眼をフォローすることは叶わず、背を丸めて悪戦苦闘である。 「……」 「うぬぬ」 「……」 長時間の単調な作業に慣れたのか、ブンタは黙々と餌を押し潰している。だがその様子はこれまでになく楽しそうでもあった。まだ釣り糸を垂らしてもいないのに、嬉しくて堪らないようだ。 「ええい! まだるっこしい!!」 痺れを切らしたのはヴァレリーだった。眉間に深々と皺を寄せ、海面を睥睨する。やがて口角をにやりと上げ、 「潰れた餌は丸めて団子にしたまえ。私が指差した辺りにまずはその餌団子を投げるといい。そこへ針を落すのだ。そして海中に散らばる餌に騙された魚が、針が垂れているとも知らずに食いつくという寸法だよ」 高笑いと共に、ヴァレリーが指をさす。 息を飲む……ような緊張感はまったくなく、ブンタは「うりゃ」とまずは餌団子を投げ、次に竿を大きく振った。 海に落ちた団子は、海水に溶けるように周囲へと散り、その辺りだけが白く濁った。 ぽちゃん、とその中へ針が落ちる。 水面を漂う団子の残骸に群がる魚達。そして、待ちに待った引きがブンタの手を襲う。力だけはあるので、引きがくればこちらのもの。ただし、闇雲に引き上げていたので、実際の釣果は芳しくはなかったが。 「僕は、これまでのブンタさんの漁をおさらいしようと思います。とりあえず釣りに関してはヴァレリーさんとで結果を出されたので、これはいいとして。素潜りをやりましょう」 塾の師匠のような口振りで、進行していく志郎だが、教え子ブンタといっしょにすでに海の中だった。 「静かに潜れば危険も減りますしね。ここは砂浜ですから、二枚貝なんかが採れるかもしれません。では、いっしょに潜ってみましょう」 「ブモモモ」 鼻を押さえ、志郎と向き合うように海へ沈むブンタ。 頭は沈むが、尻だけがいつまでも浮いている。海面に突き出た二本の足が、ジタバタと空を蹴った。だが、その足が吸い込まれるように海中へと消える。 水面下では、ブンタよりも深く沈んでいた志郎が彼の手を取り、引き寄せたのだ。 ガボガボと口から大きな泡を吐きながら、ブンタは必死で砂床を漁る。 「!」 なにかを見つけたらしく、口からありったけの泡を吐き出しながら拳を突き上げた。 「ごっだどぉぉぉぉ! ……っ。ぶはっ」 肺の中の酸素が切れたようだ。ブンタは海獣のような勢いで海面めがけて浮上した。志郎は、それを追って泳いだ。 顔を出すと、ブンタの耳が嬉しそうに跳ね回っていた。 濡れて張り付く前髪を手櫛でかき上げている志郎へ、ブンタは興奮気味に言う。 「初めて貝が採れた。潰さんこうに採れたっ」 まるで子供だ。志郎は笑った。 「これから、もっとたくさん採れますよ」 その言葉の真意に気付くのは、あと少しだった。 盥の中には、早紀といっしょに捕った魚が十匹。ヴァレリーの心眼と知恵で釣った魚が二匹。ただし、後から志郎の協力もあって、足すことの五匹で釣果は合計七匹になった。そして握り潰さずに採れた貝が三個。 ブンタのこの数日間を思えば、素晴らしい結果だった。 腹が膨れれば、気持ちが前向きになるのか。それとも、久しぶりの人との触れ合いに、枯れかけていた心が満たされたのか。 ブンタの目に、悲壮感は漂ってはいなかった。 「私も数年前に妻を亡くしてね。同じく生活力がなく苦労したものだ。だが幸い二人の弟子が力になってくれて、今も何とか生きている。貴方にも心配してくれる仲間が居るのでは? 一人で生きていかねばと肩肘を張る必要はない……仲間と協力して魚を獲ってもいいじゃないですか。これまで練習した事を生かせば仲間も喜ぶ筈だ」 潮風に乱れてほつれた前髪を撫でつけながら、ヴァレリーが言う。 「ブンタさんにも人より得意な事、あるじゃないですか。それに心配して支えてくれるお仲間もいる。皆で力を合わせれば、きっともっと沢山お魚を獲れますよ!」 そう――今日の自分たちと同じように。 日差しに焼けたらしい、赤くなった頬を緩ませながら早紀は微笑んだ。 ブンタの目に、悲しみではない涙が溢れてくる。 「釣りの間に聞かせていただいた奥様の話……とても頼もしい奥様だったのだなと思います。ですが、ブンタさん。――奥様が貴方に尽くしたように、きっと別の誰かも、ブンタさんに尽くしているんじゃないでしょうか」 そこへ、じゃり、と砂を食む音がした。ブンタが驚いて振り返ると、幼馴染のケンがそこに立っていた。気まずそうに俯いて、でもしきりにブンタを気遣っている様子が十分に見て取れた。 ブンタの目から、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。 その肩にケンの手がやさしく置かれた。弾かれたように、ブンタが声をあげて泣き出した。大の男が大声をあげて泣いている。 行きずりの開拓者達は、この不器用な猫族の男の泣き声を背に、静かに立ち去ったのだった。 |