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■オープニング本文 前回のリプレイを見る 件の集落で得た情報の中で、レイが気がかりに思うのは“人間とアヤカシの関係”だった。これまで、アヤカシは人を襲い、喰らうバケモノであり、開拓者はそれらから人々を守るのが仕事のはず。 だが守られるはずの人間の側にアヤカシと通じている輩がいるのだとしたら‥‥。 いったいどのような人間がそんな卑劣極まりない行いをするのだろう。アヤカシは敵であり、絶対悪なのだ。 「やはり人間を貶めるのは“欲”だろうか」 レイ・ランカンがぽつりと呟く。 水紛争を起こしたのも、相手よりも多く水を得たいという欲からだ。そしてそれを有利に進め、アヤカシを動かしたのは地位も財力もある有力者だったと聞いた。 上位のアヤカシの中には、狡猾で知恵が働く者もいる。財力を持った有力者と上位アヤカシが結託すれば、出来ぬ話ではないだろう。 「‥‥あの男なら、あるいは」 レイの脳裏に、二人の男が浮かんだ。彼らはけして有力者でもなければ貴族大名でもない。だが、アヤカシに近い存在になり得ると考えれば、妙に得心がいく。 悪徳商人の奴らのことだ。すぐにもみつかるだろう。 「蛇の道は蛇だからな」 固い寝台の上で、レイはごろりと寝返りを打った。国中を飛び回る開拓者――レイにとって、神楽の住まいはただ身体を休める為の場所でしかない。やはり心の底から寛げるのは、たとえ貧しい村であっても家族がいる家なのだとレイは思う。 瞼を閉じると、先の集落の風景が浮かんだ。別れはやはり寂しく、師匠の双子の姉妹とはとくに離れがたかった。そんな少女の顔が、故郷の妹のものへと摩り替わる。 (「ルル‥‥」) 妹の名を呟くと、レイの意識はさらに深く沈み込んだ。 例の男――松本彦佐とその部下、榎本を探すのにさしたる苦労はなかった。さすがに目立つ行為は避けるようになった松本は、騙された側がその事実を知るまでに時間を要するほどに用意周到且つ時間をかけて利益を得ているようだった。 時間をかけるので相手に信用はされるが、その分、その町で過ごす時間も長くなるから、奴らを探すレイにとっては好都合だった。 レイが訪れたのは、理穴に近い山中にある採掘を主産業とする街だった。一つの主家を掲げ、その下に色の名を冠した五つの大老が街を統括しているという、少し変わった街である。 事情は話しておくべきだろう、とレイはその月の警護を担当する五色老のひとつ、緑青の湖住八尋を訪ねた。若い当主、と言ってもレイよりは年上であるが、湖住は松本らの悪行を聞き及ぶと、捕縛と引き換えにレイを商家へと潜入させてくれた。 しかし、ここで(今さらだが)問題が発生したのである。 (「この仮面は外せぬ」) 身なりをいくら丁稚奉公風にしたとしても、レイの仮面は特徴的ですぐにバレてしまう。そんなレイに変装など出来ようはずもない。 「湖住さまからのご紹介とあっては無下にもできませんが、さて‥‥一体どのような仕事をしていただければいいのやら」 領内で採れた貴石の卸し問屋をしている殿内左門が頭を抱える。この男が、今回の松本の獲物だった。 「わけあってコレは外せぬ故、奥向きの仕事で構わぬのだが。小さい子でもおれば、守りをするぞ」 「小さい子ならばおりますが」 「それで構わん」 レイを雇い入れた数日後、殿内はぎょっとする事になる。湖住の紹介だと言って、数名のよそ者が暖簾を潜ったのである。 闇に紛れて男が姿を現すと、丸眼鏡を鼻の上にちんまりと乗せた男が物影から躍り出た。 「飛剣さん、早い到着ですな。まあ、こちらとしてはその方が都合がいいんですがね」 「用件を言え」 「人斬りの依頼が入りましたんでね。相手の名と居場所はこちらに書いてありますよ」 傍に控えていた痩身の男が一歩踏み出し、懐から取り出した紙を黒尽くめの男へ差し出した。 「‥‥レイではないんだな」 開いた紙面に記された者の名を確かめ、天仁がぼそりと呟く。聞き逃した松本彦佐が、何か言いましたかと訊ねたが、天仁はじろりと松本を睥睨し、踵を返した。 やがて飛剣天仁の背は闇に溶け込み、消えた。 |
■参加者一覧
緋桜丸(ia0026)
25歳・男・砂
柄土 仁一郎(ia0058)
21歳・男・志
緋炎 龍牙(ia0190)
26歳・男・サ
柄土 神威(ia0633)
24歳・女・泰
ジークリンデ(ib0258)
20歳・女・魔
ディディエ ベルトラン(ib3404)
27歳・男・魔
長谷部 円秀 (ib4529)
24歳・男・泰
神座真紀(ib6579)
19歳・女・サ |
■リプレイ本文 庭にはレイと殿内の孫がいて、独楽をぶつけあって遊んでいた。 「お茶をお持ちしました」 口元に目立つ黒子を付けた巫 神威(ia0633)が、盆に茶と干菓子を乗せ、自室で帳面をつけている殿内の元へやって来た。明るく素朴な女中を上手く演じている。 「すみませんね。貴女も一緒にお茶にしましょう」 朝から独楽鼠のように働いていた巫に気づいていた殿内が、休憩を促す。気のいい男なのだ。それ故殊更守りたいと思う。 自分の茶を持って戻ってきた巫は縁側に腰を下ろすと、筆の手を止めない主へ、 「最近商談が上手くいってると聞きました。どなたか良い商売仲間や仲介人がお知り合いに?」 「先だって知り合った方なんですが、とても良い方で。もう何度も商談を成立してくださっているんです」 「殿内様主催の宴会でもして親睦を深められてはどうでしょうか? 有能な人材補強は湖住様も高く評価してくださいましょう」 「では、次の宴会では湖住さまにもご尽力いただこう」 巫の提案が足がかりとなり、豪勢な宴会が開かれる事が決まる中、庭のレイの元へ一人の男がするりと近づいていた。 「少々よろしいでしょうか〜」 竹箒で庭を掃きながら、声を潜めて訊ねるのはディディエ ベルトラン(ib3404)だ。腰まで着物の裾をたくし上げ、庭師を装っているが意外に似合っている。 背後の殿内に気づかれないように、レイは独楽遊びを続けながらディディエへと意識を向けた。 「松本達の最近のやり口と申しますのは、どういったものでございますしょう。湖住様にはなんと報告されましたので?」 「規模の小さい店にまず利益を齎せ、信用を得るとそこから紹介という形で本命の大店へ潜り込むという手法のようだ。湖住殿にはそう報告した」 二人は会話をしていると悟られないよう最新の注意を払い、こそりと小声で話す。 注意喚起についてディディエがほのめかすと、湖住からそれは行われるが、松本らの捕縛がかかっている為、殿内には明かさずにおくのだという。 子供と遊ぶレイは笑顔で答えたが、仮面の下の目は少しも笑っていなかった。 廊下の板が軋む音に、二人の視線が背後へ向く。 「殿内殿、もう店を出ないと会合に遅れるが」 店の用心棒として雇われた柄土 仁一郎(ia0058)が殿内へ声をかける。刀を差している者にはうってつけの役目だ。 庭にいる二人と廊下で茶をすする巫に、素知らぬ顔で目礼した。 道中、さしたる危険はなく、松本らの話を世間話のように持ちかけると、まだ知られていない黒塚の貴石を広めてくれるありがたい方々だと言って憚らなかった。 柄土は、純粋に奴らを信じているこの男を哀れだと思った。 会合が終わると、愚直な主は茶屋に立ち寄ると言った。柄土はそれにも付き合う。茶屋の女将は物静かな女で、殿内の要望を終始笑顔で聞き入れていた。時折見知った顔が廊下を通り過ぎる。芸妓として潜入している神座真紀(ib6579)とジークリンデ(ib0258)だった。 日程がなかなか合わず頓挫するやもと思っていると、ひょいと顔を出した眼鏡の幇間が、「新参者の俺だが、盛り上げるのが仕事。任せてくれないかね」と嘴を挟んだ。 緋桜丸(ia0026)である。燃える赤い髪は黒く染められ、一見誰だかわからない。 二人の姿が茶屋から消えて一時程経つと、着流しの痩身男が格子戸を潜った。殿内の使いだと名乗り、上がり框に腰を下ろした男は、 「今日のお客様ですが〜。最近随分と景気が良い旦那様方と伺っております。加えてですねぇ。これまでの実績を踏まえまして更に大きな御仕事を任されるようになるだとか。上手に御機嫌をとられましたら、御贔屓になっていただけるばかりか普通であれば聞いて頂けないような“おねだり”も聞いて頂けるかもです、はい。という訳でございましてよろしくお願いしますです」 何度も頭を下げて頼み込み、戸を閉める時にも深々と会釈をして帰って行った。 その日の晩。男衆が宛がわれた部屋へ、殿内家に潜入した面子が顔を揃えた。 「この手の男というのは人の懐に入り込むのが上手いようだな」と柄土が言う。 番頭から丁稚まで、事のほか松本らに篭絡されてしまっていた。心酔とまではいかないが、良い人だと口を揃えて皆が言うのだ。 「宴会は明日に決まったのね」 「人数が足らず危うく先延ばしになる所だったが、上手い具合に助け舟が入ったからな」 「お姐さん方には少しばかりお願いもしましたので、はい」 「‥‥けして殿内殿には手は出させぬ」 誰もが黙して頷いた。 翌日、巫はレイらと一緒に別邸での宴会準備を手伝いたいと申し出た。 「今夜の宴席は少し賑やかなものになりますから、人手は多い方がいい。助かりますよ」 その宴会が松本や榎本からアヤカシを利用する人間の情報を得る為であり、そして捕縛するものだと知らない殿内は、相好を崩して言った。 別邸を照らす中空の月。町外れの屋敷からは闇を振るわす賑やかな声がひっきりなしに起こる。次々に運ばれる料理に酒。大盤振る舞いの今宵の宴席に、招待を受けた松本と榎本も機嫌よく杯を傾けていた。 客間を挟んだ六畳程の詰所に、レイとディディエが控えている。庭には柄土が主の警護と称して巡回していた。巫は襷姿で他の女中達と一緒に台所仕事に精を出している。 ぱん、と乾いた拍手がひとつ起こり、客間の隣室にて控えていた芸妓達が顔を見せた。 華やかな娼妓を後ろに従え、大きく胸元を開けたジークリンデ(ib0258)と紅い半襟の神座真紀(ib6579)が、にこりと笑う。神座が半玉姿なのは、松本の隠し子だと嘯いて入り込んだ為だ。艶やかなジークリンデと初々しい神座が宴会を派手に盛り上げた。 舞に唄、三味と共に酒は進み、松本と榎本はすっかり上機嫌だ。 「商売が上手くいってらっしゃるようですが、一体どんなお仕事をされてらっしゃるんですか? 少し興味がありまして」 追加の銚子を盆から下ろしながら、板前姿の緋炎 龍牙(ia0190)が榎本へにこやかに問う。 「板場の方が面白いと思われるような話は‥‥」 言い渋る榎本に、運ばれてきたばかりの銚子を差し出した蒼花――ジークリンデがしなを作り、 「面白くなくてもいいんですの。榎本様のお声を、蒼花は傍で聞いていたいだけですもの。それともお話するのは、お嫌?」 目のやり場に困った榎本は視線を部屋中にうろつかせた挙句、「そこまで言うのなら」と他愛のない世間話から始めた。 鼻の下を伸ばしただらしのない顔に、緋炎は「おやおや」と白々しい苦笑を浮かべて見せた。次いで座敷に入ってきたもう一人の板前が、色鮮やかな碗を運んでくる。山深い黒塚ならではの山菜の煮物だ。 背後で膝立ちし、碗を寄越す板前へ緋炎が小声で何事か話しかける。「では手筈を。長谷部さん」板前もそれに小さく頷いて答えた。 「次は黒塚では滅多に食べられない海の幸の焼き物です」 長谷部 円秀 (ib4529)は前掛けを直しながら立ち上がり、部屋を出た。襖をぴしりと閉めると、向かいの詰所へ寄り、控えているレイらへ声をかけた。 「榎本はじきに酔いが回る。“蒼花”さんがいい仕事をしてくれているからね。頃合を見計って隣を使う。あまり殺気立てないようにお願いしますよ、レイさん」 座を正したのか、返事の変わりに衣擦れの音が室内から洩れる。長谷部はそのまま隣室へと篭った。 ジークリンデが差し出す酌に、気を良くした榎本は酒を何度も煽る。度数の高いものを用立てて貰ったので、やがて男は酩酊状態になった。だがすぐにその酔いも冷める。その時の表情を想像して、緋炎の心は昂ぶった。 「では、その方々も呼んで頂ければ是非ともお持て成しさせて頂きましょう」 持て成す意味が違うのですがねぇ、と腹の底から湧きあがる笑いを堪えながら、小さく付け加えた。 上機嫌の榎本を横から支えたジークリンデが他の芸妓達を下がらせると、緋炎へ目配せをした。 緋炎は大仰に「隣の部屋で少し休みましょう」と榎本の身体を支えながら立ち上がり、彼にだけ聞こえるように商談を耳打ちする。 足元も覚束ない状態だったが、榎本は何度も頷いて二人に従い、部屋を出た。 座敷の斜向かいの部屋で長谷部が待機しているはずだ。二人は顔を見合わせ、廊下を進む。榎本を案じて追ってきた殿内に、少し休ませて差し上げるので心配には及ばないと言って、座敷へ戻らせた。 長谷部の待つ詰所の襖を開け、薄暗い室内へ滑るように入る。後ろ手に襖を閉めると、塞ぐように長谷部が立った。明かり取りの小窓から入り込む僅かな月光の下に、榎本はごろりと腰を下ろした。 「商談、というのは」 榎本の言葉に、被さるように緋炎が言う。 「‥‥いやはや、茶番も疲れるものだね。さて、本題に入ろう。」 酒の回った頭では現状を理解するのに時間を要したが、聡い男はやがて顔を強張らせ、謀だと気づく。 緋炎が捕縛の件を口に仕掛けると、長谷部がそれを制した。小声で嘘を交えながら、だが榎本に内容が聞き取れる程度に話す。 「それを話してもこの男に旨みはない」 「そうでしょうか? 松本が裏切ったのですよ、彼にはそれを知る権利があります」 「ちょ、ちょっと待て。どういう事だ」 長谷部と緋炎、そして蒼花の口角が勝ち誇ったように上がる。酒は正常な判断を鈍らせる。そこへほんの一垂らし、悪を囁けばいい。 「こちらの質問に答えてくれれば、その後の身の安全を保証しよう」 もう一垂らし嘯く。 榎本はその言葉で捕縛を悟り、観念したように息を吐いた。酔いはすっかり覚めてしまったようだ。 「飛剣さんなら存じ上げてますよ。汚れ仕事を一手に引き受けてくれる方です。客からの依頼を受けた私らの元へ、どこから嗅ぎつけるのか。こちらが呼ぶまでもなく現れる。――アヤカシと関わる人間が他に? いるでしょうな。私腹を肥やしたい者、恨みを晴らしたい者。表立って命を奪うのは憚られるわけですから、高値を要求できる唯一の商売ですよ」 するりとジークリンデが退室し、二分と経たずに湖住が配下を連れてやって来た。 「悪いね。出来ればアヤカシに組する者は全員殺してやりたかったのだけど‥‥」 榎本を引き渡しながら、緋炎は、じり、と焦げそうな程に虹彩を滾らせた。 連れ出される榎本の背を見つめている長谷部へ、隣室からやって来たレイが声をかける。 「具体的な名は出なかったな。横の繋がりはないという事か。捕縛された事で連中に動きがあるといいのだが」 そうね、と横に並んだジークリンデを見たレイは、「冷えるぞ」と言って胸の襟をぐいと合わせた。その頬が猿の尻のように赤い事に気づいたのは“蒼花”だけだった。 久方ぶりの親子の対面だからと気を利かせた芸妓達は、神座から少し距離を置いて小唄を歌っている。銚子を両手で摘み、戻ってきた緋桜丸が、 「さっきとある話を耳にしたんですがね」 と意味深に言った。口元に手を当て、一呼吸置き、榎本が湖住と画策して松本を陥れようとしていると打ち明けた。初めこそ信用しなかった松本だが、自分に一言の断りもなく退室した榎本を目にした事を思い出す。追い討ちをかけるように、偶然開いた襖の隙間に榎本と湖住の姿をみつけた。 見る間に松本の顔色が変わり、丸眼鏡を執拗に掛け直す。 緋桜丸が持ってきた銚子を掲げ、 「仕事の部下言わはりましたなあ、あの榎本はん。裏切るやなんて、なんや酷いお人やねぇ。せやけど‥‥うち、商売上手い人って好きどすえ〜? 松本はん程のお人なら、幾らでも右腕んなる言う人は出てくると違います?」 杯を酒でいくら満たしても、松本は味わう事なくぐいぐいと煽るばかりだ。かなりの動揺である。 「何なら‥‥あっしが逃げる算段をおつけしましょうか」 それには相応の見返りがいりますがね、と緋桜丸は続けた。両拳を畳につけ、松本へと擦り寄り、 「この仕事も旨味が少なくて。旦那、何か良い話はないですかね? 何だってやりますよ」 玻璃越しに覗く金の瞳が怪しく輝いた。 だが、なかなか決心がつかない松本は、額から汗をだらだらと流すばかりだ。 「姐さん。旦那の汗を」 「松本はん、どないしはりましたんえ。すごい汗‥‥」 袖口で松本の汗を拭いながら、「兄さんに任せたらどないです?」と、胸を痛めている風を装った。 「いや、榎本が‥‥榎本じゃないと」 「あのお方、そんなに大事な仕事を任されていたんで?」 「そもそも榎本が‥‥いやいや、あの男が裏切るはずがないんだ。そうなれば」 なんだか様子がおかしい。緋桜丸と神座は互いの顔を見て首を傾げた。榎本が実は主犯なのか。 「裏の仕事でも、構いませんやね。どうです」 緋桜丸がカマをかける。 松本の顔が引き攣り、そして口を一文字に結んだ。覚悟を決めたのか、その後松本が口を開く事はなかった。 頃合いを見て踏み込んできた湖住にも抵抗する事はなく、連行されていった。事情を知らない殿内に、若い緑青当主は頭を下げながら捕縛の経緯を話した。がくりと肩を落とす殿内だが、大きな損害を被る前だった事に安堵した。 黒い影が牢の前に立つ。その足元に転がる牢役人の死骸。大きな音を立たせるのを憚った影は、役人から奪った鍵で牢を開けると、静かに中へと入る。 月光に晒された影の――飛剣天仁の顔に迸る血飛沫と闇より深い紅瞳に、牢内の男らは怖気を走らせた。 天仁の右足が僅かに踏み込まれると、男二人の胴は二つに分かれた。切っ先から放たれた鮮血が土壁を染める。 松本と榎本は叫ぶ暇もないまま、床へくず折れた。 「受け取った金はあの世の渡し賃にでもするがいい」 底冷えのする地獄の渡し守の声を聞きながら、ここに悪徳商人の命は消えた。 背後の気配に気づいた天仁は僅かに顔を動かし、視線を向ける。 「‥‥正直、このような形で遭遇するとは予想外もいいところだ」 柄土はすでに鯉口を切っている。 牢内の死体に小さく舌打ちした。僅かに意識が逸れた瞬間を天仁は見逃さず、大剣を床に突き立て――抉るように斬り上げた。爆音が牢屋敷に木霊する。 木片、土くれが降り注ぐ中、抜刀して直撃を回避した柄土だったが、眼前に天仁はいなかった。だが、気がかりな一言を天仁は残していた。 「足がつきそうになった者は容赦なく斬る、か」 「私達の真の敵は欲望ってやつなのかしら?」 「欲望を追うが故の、非情さか‥‥」 「飛剣は“さて後ひとり”と言っていた。その一人を見つけ出して先回りすれば」 最早、直接剣を交えるしかないかとレイが一人ごちる。 そして、翌朝。 黒塚領内の外れにて、死体がひとつみつかった。死体検分の結果、松本らを殺害する前に殺していることがわかった。 「まだいるのだな、天仁に狙われている人間が‥‥後、一人」 |