【傷痕】紫黒の色絵2
マスター名:シーザー
シナリオ形態: シリーズ
危険
難易度: やや難
参加人数: 8人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2011/06/10 23:16



■オープニング本文

前回のリプレイを見る


 嫌な夢を見た。
 レイ・ランカンはもそもそと寝台から下りると、玉紅が眠る繋留施設へ走った。
 まだ夜も明けきらない、されどうっすらと稜線に白く朝日の気配が漂い始める時間である。忍ぶように玉紅へ歩み寄り、龍にしては静かな寝息の彼女の喉元へ潜り込んだ。
 ひたり、とした玉紅の鱗の感触が心地いい。レイは少しだけ乱れた呼気を整え、呟いた。
「なあ、玉紅。故郷を離れて久しいというのに、我はまだ少しも成長しておらんようだな」
 先だっての依頼を思い出し、苦渋の顔で呟いた。
 玉紅は薄く瞼を開き、押しつぶしてしまわぬようにと細心の注意を払いながら、レイの方へ鼻を寄せた。
「だが、気を張っていなければ見逃してしまうかもしれん。気づかなかった、知らなかったでは済まされぬことが‥‥多いのだからな」
 レイの瞼もゆるゆると合わさっていく。龍の深く長い呼吸が眠りを誘ったらしい。
「だから、我は‥‥――誰が、なんと――言おうと‥‥許せぬものは‥‥ゆ、る‥‥――せ、ぬ」
 レイの意識が深い闇へと沈む間際、忘れらない記憶の一片が声となって蘇る。

“助けてください! 後生ですから、どうかこの子を‥‥――”

 眉を僅かに顰めさせ、レイはそのまま眠りに落ちた。


 鉈を振り回し、足元の雑草を払いながら山中を進む二人の影があった。籠を背負い、鉈を振るって道を作っているのは若い男だった。がっしりとした体躯は筋骨隆々で山男然としている。
 一方、青年より遅れること数メートルの坂下では、白髪混じりの長髪を、後ろで無造作に束ねた痩身の老人が杖をつきながら後に続いていた。
「師匠。えらく草丈が伸びてますけど、こりゃあ、今日中には到着できないんじゃないですかねぇ?」
 若い男は額の汗を首から提げた手拭いで拭き取り、大声で叫んだ。青年の前方には笹やツワが鬱蒼と茂り、行く手を阻んでいた。昨日まで続いた雨のおかげでぬかるんだ足元も危険で、青年はともかく、老齢の師匠には少々キツイものがある。
「師匠は一度家まで戻ってください。俺は残ってこいつらを片付けておきますんで」
「おお、そうか。そうしてくれるか。いやあ、正直を言うとさっきから腰が痛くてかなわんかったのよ」
 老人は腰をぽんぽん叩きながら伸ばし、言った。
「薬草は逃げやしませんから。急いだせいで薬師が大怪我したとあっちゃ、本末転倒ですからね。今日は途中まで道を作っておきますよ。続きは明日ってことで」
 振り返ると、これまで自分が作ってきた細長い道が延々と下っているのが見えた。上っている最中は気づかなかったが、意外に山奥へと進んでいたことを知る。
 記憶によれば、目指す薬草の群生地はもうすぐである。伐採が早く済み、群生地に辿り着いたなら、少しは採取していこうと青年は思った。薬草は逃げないと言いはしたが、怪我人病人はいつ何時であってもやってくるものだから、薬はないよりあった方が断然いいのだ。
「転げ落ちたりしないでくださいよ、師匠!」
 背中の籠を背負い直し、青年が大声を張った。軽口を叩いてはいるが、青年は師匠を心底尊敬していた。診察代や薬代を要求することはなく、立場や身分など関係なく訪れたひとすべてを平等に診察する師匠に惚れ込んで、弟子入りしたのだ。
「そん時はまあ俺が背負って帰りますけどねえ」
 闊達に笑う。
 踵を返していた師匠が、「そこまでは衰えとらんわ」と言い返しながら青年を振り返ると、その表情が一瞬にして凍りついた。
 一陣の風が二人の間を裂くように吹き抜けた。
「師匠! 逃げてっ」
 老人の耳に飛び込んだ声はそれが最後だった。
 ザザザッ――と草を激しくかきわける音。
 離れていく勇ましくも震えている弟子の叫び声。

 我に返ったときは、我が家に飛び込んでからしばらく経ってからのことである。膝から下ががくがくと震え、かくん、と腰が抜けた。身体中のあらゆる箇所が痛んだが、それは山を駆け下りたせいである。
 バケモノに襲われて受けた痛みではない。
 バケモノ――
 薬師の全身が震え出した。転げるように家を飛び出し、山を見上げた。
「し、真吾ぉ」
 老人は、自分がひとりだけで山を降りたことに今更ながら気づいた。
 弟子を置き去りにしてしまった。悔恨の念に苛まれたが、老人は思った。
「こんな老いぼれになにができたと言うんだ」
 せっかく弟子が身を挺して師匠を庇ってくれたのだから、その思いに報いるために、自分は生きてもっと多くの人々を助ければいい。
 そうするべきなのだと思った。

 二度寝したせいか酷い倦怠感だった。ダルそうにレイがギルドへ顔を出すと、受付で初老の夫婦が何度も頭を下げている姿が目に飛び込んできた。
 職員が困り果てた顔で、少々お待ち下さいと答えている。その横へレイが顔を出し、訊ねた。
「アヤカシ関連かどうかは不明なんですが、昨夜から息子さんが戻ってこられないということで捜索を依頼されているんです」
「昨夜から? もう朝ではないか」
「息子は薬師にで弟子入りしておりますもので、てっきり山腹にあるお師匠さまの家に泊まっているかと思い、今朝早く訪ねてみましたら、昨日のうちに帰ったと言われましたので」
 老父が答えた。
「こんなことは一度もありませんでしたから」
 涙混じりに母親が答える。
 なぜギルドへ依頼したのかとレイが訊ねると、老夫婦は互いの顔を見合って、それからレイへ視線を向けた。
「元々息子は山師で、山のことはよく知っております。もちろん、怖さも知っております。その息子が山から戻って来ないとなれば、わしら年寄りや村の者でも探すのは無理じゃないかと思っておりますので――そうなればもう、こちらへお願いする他、息子に会うことは叶わないと」
 その言葉には、生きた息子にはもう会えないのだという諦めの色が濃く出ていた。
 だがレイは、
「そうか、息子殿は山に詳しいのだな。それは心強い」
 仮面のせいでわかりづらい表情ではあるが、レイの双眸は赤く燃えていた。
 救えるかもしれない好機を、みすみす逃す法はない。
「我は先にゆく。人手は多い方がよかろう。依頼はこのまま出しておいてくれ」
 気になる点があるにはあるが、まずは老夫婦の息子を無事に探し出すことが先である。
 レイは踵を鳴らしながら、早朝のギルドを後にした。



■参加者一覧
柄土 仁一郎(ia0058
21歳・男・志
柄土 神威(ia0633
24歳・女・泰
巴 渓(ia1334
25歳・女・泰
ルーティア(ia8760
16歳・女・陰
ディディエ ベルトラン(ib3404
27歳・男・魔
長谷部 円秀 (ib4529
24歳・男・泰
神座真紀(ib6579
19歳・女・サ
ナプテラ(ib6613
19歳・女・泰


■リプレイ本文

 前回の依頼でレイ・ランカンの先走る傾向にある性質を知っているルーティア(ia8760)、ディディエ ベルトラン(ib3404)、神座真紀(ib6579)とナプテラ(ib6613)の四人は真吾の師匠である老薬師の家へ走った。特に、レイへビンタ張った神座に至ってはこめかみに青筋すら立っている。
 整地されていない山道を駆け、中腹にあるという老薬師の家へ到着する。質素な茅葺きの家と小さな畑がいくつかある。家の雨戸は閉まったままだが、玄関の戸板は開いていた。
 ガタン、と大きな物音に反応し、四人が家へ駆け込むと同時に飛び込んできたしわがれた声。
「真吾を見殺しにしたのはわしだ!」
 そこには身を縮こませた老人と、行き着いた真実に呆然としているレイの姿があった。だがそれも僅かな時間で、すぐにレイの形相が変わった。
「いかん」
 ルーティアが呟いた。彼女より上背のある神座が飛び出し、怒りで震えるレイの耳たぶをきつく摘み上げた。
「ええ加減にしぃや。あんたが本気でこんなおじいちゃん殴ったら死んでまうやろ! あんたの正義がどれ程のもんかは知らんけど、無力な人間殴り殺して悦に入るような、そんなもんなんか!?」
「痛ってテテ! 伸びる伸びる耳たぶが伸びるっ‥‥ん。神座‥‥殿? それに」
 捻り上げられた激痛で正気に返ったレイが、自分の耳たぶを摘む神座へ視線を向けた後、その後ろで呆れたように立つ見知った顔を見た。
「レイにはやっぱり情報収集は向いてないな」
 老人の一言で見当はつくが、事実に行きあう度にレイがキレていては話にならん。
「怒ってもいいけど、殴っちゃダメ」
 震えるレイの拳をナプテラがギュウと握り締めると、耳たぶを捻り上げていた神座も手を離した。
「少々教えて頂きたい事がございまして〜」
 ディディエが聞きにくそうに後頭部を擦りながら、老薬師の前へ出た。
「爺さん、時間が無いんだ。状況的に何かあったのはわかってる。まどろっこしいのは無しだぜ」
 ルーティアは、上がり框にどっかと腰を下ろすなり言った。ナプテラの横で利き手の右拳を掴まれたままのレイをちらりと見遣った薬師は、前日に起こったすべてを話した。
 薬草畑へ向かう途中、突風に襲われた事。気づくと宙に浮いた胴の長いイタチに似たバケモノが真吾の叫び声に反応し、彼の方へ飛んでいった事。夢中になって山を下りたが、真吾は帰っては来なかった事。
「生きてはおらんと思った」
「それで放置したというのか!」
 レイが怒声を上げ、ナプテラの手に力が篭る。
 神座にも同様の思いはあったが、言葉にせずに飲み込んだ。
「生きているという前提で考えればどこかに隠れてると思う」
 ルーティアの言葉に一同が同時に頷いた。
「それならばですね、重要な位置を把握しておくべきかと、はい。まずは真吾さんが向かったと思われる薬草畑の大凡の位置とですね、周辺の洞窟や炭焼き小屋なんかを出来る限り教えていただければな〜と、ええ」
「地図の手配は真吾さんのうちへ行った仲間がどうにかするはずやからね。うちらは捜索範囲を絞れるように、情報の選択を見誤らんとこな」
 神座は殊更明るい声で言うと、ほんの僅かだが空気が軽くなった。

 一方、山里にある真吾宅に向かった四名。柄土 仁一郎(ia0058)、巫 神威(ia0633)、 巴 渓(ia1334)、長谷部 円秀(ib4529)は件の山の地図を確認したものの原本は一枚きりで、真吾の両親にも手伝ってもらい、現在、複写しているところだった。
「失踪から一晩か。ただ遭難しているだけならばいいが‥‥時間が経てば経つほど危険は増す。急ごう」
 柄土は、渋面のまま手馴れた様子でさらさらと白い紙面に文字や記号を書き写していく。
 コツを掴むと、思いのほか早く写し終えた。
 真吾も山師としての経験を積んでいる以上、危険回避の心得はあるはず、と生存の望みを捨てぬよう両親を励まし、一行は老薬師の家へと急いだ。

「これが山の地図だ。原本が一枚しかなかったのでな、それぞれ複写したものを持って入山しよう」
「地図があるのとないのとでは大違いだ。助かる」
 巴が一番に受け取った。
 老薬師から聞き出した、アヤカシ――イタチに似たという形容からカマイタチと思われる――と遭遇した地点を基点にし、薬草の群生地までにある山小屋や洞窟等を記していく。
 山小屋は遭遇地点と群生地とのほぼ中間にひとつあり、洞窟は大小含めて五箇所ほど周囲に点在していた。
 中腹までの道程もそうであったが、昨日までの雨天の影響で山道はさらに滑りやすくなっているだろう。
 荒縄で足元を補強し、滑り止めとした巫が、事前準備は万全にしてまいりましょうと告げる。
「何の準備もなく夜を越せば、体力は相当消耗するからな」
 と柄土がこれまで背負っていた大きな荷物が毛布だと明かした。
 呼子笛を持参してきた巫、巴と長谷部が合図の回数を確認する。巫の提案で、
「真吾さん発見は四回、敵との遭遇時は三回、真吾さんが敵に襲われていたら二回‥‥と、状況に応じて呼子笛を鳴らしましょう」
「了解」
「承知しました」
 決定すると即座に周知させる。現場での素早い連携が真吾の命を左右するのである。
「ではさっそく行こう」
 急くようにレイが言い、山へ向かう登坂を先頭に立って歩き出したが、すぐに横槍が入った。ルーティアである。先走りがちな男が先頭ではリズムが崩れると言うのだ。
「レイは最後尾でいいよ」
 ぐっと喉まで出かかった抗議の言葉を飲み込み、目の前を過ぎていく仲間を見送るレイ。気に入らないからと駄々をこねるつもりは毛頭ない。今は、真吾の保護が第一なのだから。
 山歩きに不似合いなローブが足を止めた。ディディエだ。顔を上げると、彼独特の腰の低い物言いが耳に滑り込んできた。
「皆が皆、他人の事を第一とできるわけでは無いのです。悲しいですが、これもまた人間と、ええ、はい」
 気遣うような言葉に、レイは改めて頭を冷やそうと思った。激情が紙一重である事は、もう幾度と経験しているというのに、少しも進歩していない己をレイは恥じた。
「真吾殿を無事、救おう」
 そう口にしたレイの心の奥底で、悲憤は密やかにいずれ噴き出す瞬間を――幽かに燃えながら待っていた。

 山へ入ると、俄かに道幅が狭くなる。真吾が切り払ったとはいえ、低木の葉やシダはすぐに道の上を覆って悪路にしていた。葉についた露のせいで開拓者達は、衣服のほとんどをぐっしょりと濡らした。
 奥へ向かうにつれ、草の丈も伸び、まるで川か海にでも浸かっているような具合に、茂る草をかき分けて進む。
 アヤカシと遭遇した地点では、それらしい痕跡はなかった。もちろん血痕もなかった事から、一層、真吾の生存には期待がもたれた。
 わき道に逸れた形跡も、坂を転落した跡も見られない。一行はそのまま山を登っていく事にした。
 途中、山小屋へ入る道との分岐点に着いた。柄土と巫がそちらへ向かう。あまりの草深さに巫が包帯を目印代わりに、木の枝へ括りつけていくのが見えた。
 柄土の心眼を併用しつつ、僅かな痕跡も見落とさぬように、巫は周囲へ視線を走らせる。
 彼らと別れ、残りの七人は前進し、点在する洞窟を捜索した。
 巴は荒縄を使って崖下を捜索。転落して重傷という事態を想定しての事だが、そちらでは発見には至らなかった。スルスルとロープを上り、長谷部らと合流する。
「おや」
 ディディエが不自然な折れ方をしている萱の群生をみつけた。傍にいたルーティアやレイに知らせ、地図と照合する。――この先にも洞窟がある。
 まずは確認が先決、と三人は萱の中を走った。葉の端で手や頬が切れたが気に留めない。
 萱の折れた道は見上げる程に高い崖の下まで続いていた。洞窟、と呼ぶにはかなり入り口が狭いが、草をかき分けると大人ひとりが悠々と歩けるホールが広がった。入り口を隠すように生えていた萱をレイが取り除くと、洞窟内に光が差し、奥で蹲っている人影を浮かび上がらせた。
 真吾であるかの呼びかけに、黒い影は大きく頷いて見せた。ルーティアが駆け寄り、青年の状態を確認する。アヤカシから逃れることは出来たようだが、その際に深手を負ったらしい。しかも衣服は濡れたままだったから、体力の消耗が著しく、発見が遅ければ死は免れなかっただろう。
「待ってました‥‥俺が戻らなければ、必ず師匠が助けを呼んでくれると思っていましたから」
 青年の言葉に、応急処置にやって来たディディエも含め、ルーティアやレイは複雑な表情で押し黙った。
 洞窟から彼を運び出すと、別ルートから現れた柄土と巫と合流した。真吾の発見に巫はうっすら涙を浮かべて喜び、すぐに呼子笛を吹いた。回数は四回である。
 甲高い笛の音が、澄んだ山の空気を振動させ、数十メートル離れた位置にいた他の仲間へ真吾の無事を知らせた。
 濡れた身体で一晩過ごした真吾は、柄土が用意していた毛布に包まると、何度も感謝の言葉を口にした。
「アヤカシなんぞに出くわしたくはないからな。早々に下山しよう」
 簡単な食事を摂らせ、精をつけさせる。咀嚼することで己の生を感じることも出来よう。
 不用意に暴れかねないレイに真吾を背負わせると、下道で周囲へ警戒の目を光らせていた長谷部と神座、ナプテラと落ち合う。
 怪我人を連れた現状でアヤカシとの戦闘は極力避けたい。まずは真吾を無事両親の元へ帰すのが優先事項だ。
「ヤツの攻撃で列を乱されるわけにはいかないからね。殿は俺が引き受ける。後は前方の警護をきっちりやんな」
 掌をひらひらと振り、巴が仲間を先に走らせた。右に左にと視線を走らせ、警戒したまま巴も追従する。
 応急処置ではなく、きちんとした治療と安静をさせたいが為、一行は山を一気に駆け下りていた。だが、それと併走する別の存在があった。
 先に気づいたのは柄土だった。
「悪いが、関わる暇はない。――神威」
「わかってるよ、仁一郎」
 阿吽の呼吸で巫は恋人の意思を汲む。すかさず真吾の盾になるようにアヤカシとの間に自らを置いた。
 兎にも角にも真吾を無事送り届ける為、彼を背負うレイは、足場の悪さで戦闘はこちらが不利と判断した、神座と共に一足先に離脱を図る。ルーティアが幻影符で二人を援護しながら後に続くと、ディディエの放ったアイヴィーバインドが細長く伸びるアヤカシの尾を拘束して時間を稼いだ。
 暴れるアヤカシの、薄く伸びた尾の先が草葉を切り裂く。真空の刃が弧を描いて長谷部を襲うが、駆けながら身を翻してかわし、その反動を使い紅蓮紅葉を放った。アヤカシは悲鳴をあげた後、つり上がった目を苛立たしそうに細めた。その鼻先でナプテラが瞬脚を使い、先に離脱した二人に意識が向かわないよう右に左に駆け回る。
(「次は私が離脱しようか」)
 ナプテラは並走している長谷部へ目配せをして、深い叢へあえて入り姿を消した。続いて長谷部も離脱を図る。カマイタチは振り仰いできた長谷部の一瞥に怯み、深追いを諦めた。
 二匹目を心配した柄土だったが、アヤカシはこの一体だけのようで、それならば逃げるが勝ちである。茂る草を物ともせずに駆ける柄土のスピードに、巫も腰を落とし続いた。
 殿の巴は一通り仲間が離脱したのを見届けると、にやりと不敵に笑う。腹立たしげに辺りの草木を片っ端から刈り取っていくカマイタチに巴はきつい一睨みを浴びせ、嘲笑うように離脱した。
 キイイ――と甲高いカマイタチの鳴き声が、湿気をたっぷり含んだ山の風に紛れ、か細く消えた。

 養生するには両親の元が良かろうと、真吾を実家へ送り届けた一行。
 老薬師にも同行を願った。初めは合わせる顔がないと渋っていたが、貴方を守った真吾さんと真摯に向き合って欲しい、と巫の説得に応じて同行してくれた。
 今は弟子の治療に専念している。いずれ弟子と正面から向き合わなければならない老薬師だが、人のいい青年が果たして師匠を恨むとは思えない。彼も山師としての経験を積んでいるのだから、師が取った行動を責め立てることはあるまい。
 一方、憤懣やるかたない様子であったレイは、一応の落ち着きを取り戻してはいた。縁側に浅く腰掛け、顔を両手で覆ったまま無言のレイへ、柄土が声をかけた。
「開拓者ならともかく、普通の人にすれば自然は畏敬の対象だし、ケモノやアヤカシは恐怖の対象だろう」
 レイは何も答えられず、自嘲するように僅かに口角を上げただけだった。
 はい、と声を掛けられ、視線を向けると巫が茶を差し出していた。緩慢な動作でそれを受け取ると、
「『握り締めた拳が生み出せるのは暴力だけだ、まずはその手を開くことから始めろ』‥‥私の御師匠様が常に言っていた教えです」
「理屈はわかるが‥‥」
 自分の行動が間違っているという認識はあるらしい。まだ押さえきれていない憤怒があるのか、レイはすぐに視線を湯飲みの中へ落とし、唇を噛んだ。
 よいしょ、と緩い声が聞こえ、隣にどっかと腰を下ろした長谷部をレイは驚いた顔で見た。
 ずずーっと茶を一口啜ると、ほふ、と短い息を吐き、くるりと顔を向けてきた長谷部がにこりと笑った。
「怒りも分かりますが往々にして人は弱く、間違うものです。ですが、それを正すことも出来ます。彼とて悪人ではないのですよ」
「‥‥悪人じゃ、ない。そうだな」
 レイは、背後の部屋で黙々と真吾の治療を続けている老薬師を改めて見る。
「頭ではわかっていても心が抑えられぬ。だが皆の言う事は真っ当で理解はしているのだ‥‥信じて欲しい」
 とはいえ、苦悩する姿を隠さないレイに、長谷部はそれ以上は言わなかった。
「もう少し頭を冷やす必要があるな。我は庭にいるから、何かあれば呼んでくれ」
「わかりました」
(「彼は真面目過ぎるのでしょうね」)
 霧雨で霞む庭へ向かうレイの背中を、長谷部は亡羊と眺めた。
 小さな畑はよく手入れされており、葉つきもいい。多少の虫食いはあるが、こまめに駆除しているようで気になるほどではない。レイは泰北部の農村出身である。兄弟同様、農作業に従事していたせいか、畑を見るとついつい生育状況を観察してしまうきらいがあった。
「なあ、レイ。ちょっといいか」
 夢中になって野菜を観察していたレイへ、巴が声をかける。
「過去になんかあったか? ――正しさに執着するのはな、過去に正しくない事をした奴だからよ」
 レイはぎくりとして手を止めた。
 我は――言いかけて口を噤む。
 巴の言葉がぎらりと煌めく切っ先の如く突きつけられ、二の句が継げずにいた。
 救えなかったのなら、それは救わなかったのと同義なのだ。脳裏によぎったのは泰での――損者三友――もはや友人とは呼べぬ同輩達と忌まわしい過去だった。