【傷痕】〜9「丙」
マスター名:シーザー
シナリオ形態: シリーズ
危険
難易度: 難しい
参加人数: 8人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2012/10/02 21:06



■オープニング本文

前回のリプレイを見る


 神楽の都、開拓者ギルド。
「うーむ」
 身の丈七尺に及ぼうというアフロの黒人職員、スティーブ・クレーギーが唸った。
 膨大な量の書類に淀みなく数種の印を押し分けながら、スティーブの上司、佐藤春が静かに言う。
「厠なら早く行ってらっしゃい。仕事は山積みなんだから」
「ち、違うのでござる! 実は仕事で一つ、難事を抱えてござって」
 机の前で頭を抱えていたスティーブが顔を上げた。
「先日のこと、武天は黒塚の地にて、幾つもの村が壊滅したと‥‥」
「吸血鬼騒ぎね」
 さらりと春は応えた。
「子吸血鬼の犠牲者が孫吸血鬼になって、大変なんですってね」
「ご、ご存知なのでござるか!?」
 スティーブは目を剥いた。
「大騒ぎになってるもの。遺体が数百足りないって」
 喋りながらも、印を押す春の手は淀みない。
「そうなのでござる。にも関わらず、あの地のお偉方には後ろ暗い所があるらしく、当地に開拓者を二十名以上入れる事、相成らんと」
「消えた村人が全部吸血鬼になってるかも知れないのに?」
 春は眉をひそめる。
「今回の吸血鬼、一匹倒せばそれに噛まれて吸血鬼になった者はただの死体に戻るそうなのでござる。それなら多数の開拓者は必要ないと言われてしまい‥‥どういうわけやら、拙者がこの依頼を担当せよと」
「なるほどね」
 春は書類を束ね、端を揃えながら頷く。
「スティーブさんの依頼の仕方が悪かったから失敗した、と言えば、ギルドの面子も立つものね」
「そ、そういうことなのでござるか!?」
 スティーブの素っ頓狂な声には答えず、春は机に広げられた地図を摘み上げた。
「ま、沢山の人命が掛かってることだし、手伝ってあげる。二十人で、数百のアヤカシを倒せばいいのね」
「で、できるのでござるか」
 春は当然の如く頷いた。
「二十人なら、甲乙丙の三班に分けましょうか。甲班は敵が、それも敵の大半が出てこなきゃいけない状況を作る。住処を丸ごと破壊する準備を始めるとかね。これで出てきた敵の足止めが乙班の仕事。甲班と乙班が敵と遊んでる間に、丙班が親玉の元へ突撃。これでいきましょ」

 黒塚領主を前に、重い空気が部屋を覆う。
 開拓者らが持ち帰った情報は絶望に近いもので、椿は眉を潜め、項垂れた。
「ギルドへ要請を出しましょう。これはもう我々が手出しできる状況ではありません」
 秋月刑部は、椿の内心を代弁するように言った。
 すかさず反論したのは五色老の黄櫨、南雲廣貫である。大老、蒲生に告ぐ古参だ。後ろで束ねた白髪が、背でゆらりと揺れる。
「秋月殿は、自身が配下を見くびってはおられぬか。それともノコや切鋏を刀に持ち替えた程度の隊士では、到底敵わぬと庇っておいでか? それはお優しい事だ」
 家柄を重んじる五色老とは違い、志あればどのような身分であろうと隊士として重用するのが直臣の方針だった。南雲はそれを皮肉ったのだ。
 だが秋月はそれを鼻で笑う。
「負け戦などしたくないから言っているんです。――かえって邪魔ですよ、常人の我らなど」
 武人としての誇りで南雲は鼻白む。
 ずいと膝を擦り、前へ出てきたのは同じ五色老にありながら直臣の意思を持つ湖住だった。差し出された手に握られているのは翠玉の小筒である。
「……アヤカシの探索から戻った開拓者達が応援を呼ぶべきだと言っているのです。戦闘能力云々の話をしている場合じゃありません」
 三桁は下らないアヤカシが領内に巣食い、いつその牙を黒塚へ向けるかわからない状況である。すでに六つの村が襲撃を受け、死者多数、行方不明者六百余名。これらの数字が今後増えるかもしれないのだ。
 自然と皆の視線が椿へと向けられる。椿は顔を上げ、一同を見渡した。
「……ギルドへ」
「条件をつけさせてもらおう」
 当主の言葉を阻んだのは蒲生だった。瞼を閉じたまま、顎に蓄えた白髭を揺らす。その物言いは当主に対するものではなかった。
「我ら五色老にも黒塚を守護してきた意地と誇りがある。家柄を重んじるはその意思を血の系譜として受け継ぐからに他ならない。故にこの大事に五色老が動かずして何とするか。逸る番士の幾人かはすでに戦闘の準備に入っていると聞き及ぶが、それは黒塚を思っての事。本来ならばヴァン何某などというふざけたアヤカシの探索もこちらの領分だったはずだ」
 蒲生が椿を睥睨する。
「戦場でこそ咲く武人の生を裏方にまわすのだ。この地に入る開拓者は二十名までとさせていただこう。それ以上は不要。五色老には鉄心石腸の番士が千騎控えておる故な。これ以上協議する必要もあるまい。これにて失礼する」
 蒲生は会釈もなく退室した。一拍置いて南雲も続く。やはり頭を下げはしなかった。
 当主を軽んじた行為に他ならないが、椿は意に介さず協議を続けた。
「開拓者二十名で、鉱山地区のアヤカシには勝てるの?」
「作戦次第でしょう」
 さすがの秋月も嘆息混じりに答える。
 ところで、と椿が恐々声をかけたのは紫根の小幡夕雲だった。巫女姿の恰幅のいい老婦人がにこりと微笑を返す。
「五色老……」
「それを言うなら、緑青の湖住殿もでしょう。私は祭事を司っているだけの、戦には無縁の家系です。どちらに就こうと自由ですよ。椿さまが好ましいという理由だけじゃダメかしら」
 小幡の柔和な物腰で場の空気が和らいだ。
「これまで協力いただいた方々の実力は十分承知していますし、秋月殿が言われたように、作戦次第では勝算があると思います。と言っても開拓者の皆さんにお縋りするだけなのは確かに心苦しいのですが」
 湖住が頭を掻く。
「ともあれ、全隊士を使って周辺住民の避難はさっそく行おう」
「それには緑青の番士も協力します。まあ、面子は元隊士ばかりなんですけどね」
 蒲生からの制約がかかりはしたが、ギルドへ応援の要請は無事出される事になったのだが。

 湖住と小幡が去り、秋月と二人きりになった椿はその表情を冷たく豹変させた。
「あれほど外部からの干渉を拒むには何か理由があるはず。黒塚が執拗に狙われる理由もそこにあるかもしれない。“秋月”……どうにか探れないかしら」
「では数名選んで探索に向かわせましょう」
 椿からの密命を受けた秋月は、廊下で控えていた部下にギルド要請の指示を出し、退室した。


■参加者一覧
緋桜丸(ia0026
25歳・男・砂
柄土 仁一郎(ia0058
21歳・男・志
柄土 神威(ia0633
24歳・女・泰
菊池 志郎(ia5584
23歳・男・シ
ジークリンデ(ib0258
20歳・女・魔
ディディエ ベルトラン(ib3404
27歳・男・魔
長谷部 円秀 (ib4529
24歳・男・泰
神座真紀(ib6579
19歳・女・サ


■リプレイ本文

 ヴァン・レイブンとその配下が潜んでいるだろう坑道の入り口に立つ。山はまだ静かだった。
「今回の襲撃にも何らかの意図、まだ見えていない何かがある気がしてなりません。この件をきっかけに何かをなそう……いえ私たち人間に何かをさせたいのでは……」
 ディディエ ベルトラン(ib3404)は眉間に人差し指を押し当て、ヴァンの真意を探る。 
 あまりに静かな山を神座真紀(ib6579)が振り仰ぐ。強大なヴァンの戦力を削ぐ為の協力に、すべてを注ぐ仲間へと思いを馳せた。
 刹那、轟音が轟き、大音声が蒼天を劈いた。
「甲班、乙班、集まってくれた皆。有難う、あんたらを信じて進む。必ずヴァンを倒すからな」
 護身羽織を翻し、危地へと足を踏み入れた。

 グールや屍狼はうまい具合に誘い出されてくれたのか。未だ出くわさずに済んでいる。
 道々異臭が鼻をついた。肉を食い尽くされ骨だけになった村人。噛み砕かれ白い骨片となった人だったモノ。散らばる肉塊には虫がたかり、目を背けるような光景は奥へ進むほどその悲惨さを増していった。
 初めにこの坑道を探索してから時間が経過してしまっているのは事実だ。果たして、あの時に聞こえた人々の命は今もあるのだろうか。
 耳殻を震わせる低い唸り声と共に側道から黒い影が飛び出してくる。咄嗟に翳した柄土 仁一郎(ia0058)の松明の灯りに、はっきりと牙が浮かび上がった。吸血鬼と速断した緋桜丸(ia0026)の本差、虎徹が袈裟斬りにする。
「まったく……反吐が出る程胸くそ悪い野郎だぜ」
 先の見えない闇に向かい呟くが、足元で動かなくなった青年に視線を落とすと、
「傷は……少ない方がいい」
 どこかで彼の子がその動きを止め、戦わずに済んでいる事を祈った。
「人質の声が聞こえた先はどうなっているかわからないですが、あまり悠長にしていても甲・乙班の方達の戦闘が長引いてしまいますね、急ぎましょう」
 皆を急かせる菊池 志郎(ia5584)の声は震えていた。
「そうですわね。嫌な予感ほど当たりますもの」
  ムスタシュィルを仕掛けながらジークリンデ(ib0258)は踵を返した。人質の命が路傍の草のように踏み荒らされているのかもしれないと思うと、僅かな時間ですら惜しい。
「金色で、縦に一筋の虹彩。長身痩躯。常に笑顔の若い男」
 ヴァンの容姿をぽつりと呟いた柄土の鼻先に、沁みるような異臭が掠めた。風は奥から吹いてきている。
「霧だ」
 地を這う蛇のように霧が風に乗って流れ出てくる。その向こうには最奥の採掘場跡が広がっていた。開拓者に緊張が走る。
 霧が自然に発生する場所ではない。ならばヴァン絡みと身構える開拓者。これが幻術であるなら通路にいるのは酷く危険だ。術者の範囲攻撃も斬撃も同士討ちとなると怖ろしい。
 ならば採掘場跡へと一斉に駆け出す。
 ホールは霧で充満しており、開拓者の肺腑を侵食していた幻術で、彼らは隣に立っている影が敵か味方かの区別もつかなくなっていた。
「予想通り過ぎて気に入らないですね」 
 言うや長谷部 円秀(ib4529)は一点だけを睨めつけ地を蹴った。
 駆け出す長谷部と入れ替わるように影が一歩踏み込んでくる。咄嗟に柄土は抜刀し、真横に薙いだ。剣を受け止めた鈍い音と苦鳴。気力を必死に振り絞る柄土の全身が藍色に輝く。
「緋桜丸さんか?!」
「仁一郎か」
 十字に組んだ、藍色に薄く光る腕をゆっくり下ろす。たたっと近寄る足音に二人が構えると、「怪我はありませんか」と息を弾ませ駆けつけた志郎だった。視界の端で奥へと向かうディディエの姿を捉える。
「先に」
 志郎は霧の中へ、柄土と緋桜丸はディディエに追従した。
 印を組みながら走り、残った仲間の元へ駆けつける志郎の六間先にジークリンデが倒れている。そこへ刃が打ち下ろされようとしていた。柔らかな声が幻覚の鎖を打ち砕く。ふ、と志郎が最後の息を吐き終えると刃は寸での所で止まった。
 刀を納めたのは神座だった。短刀を突き立てたらしい足の甲には血が滲んでいる。
 互いの無事に安堵する暇もなく、目の前に現れた少年少女の吸血鬼を見て絶句した。二人の少年と、揃いのリボンをつけた三人の少女。
 ヴァンに殺され、安らかな死すら与えられず、こうして人間の敵としてもう一度死ななければならない彼ら。
(「かつて人であった者達。許しは請わん、後悔もせん。それは相手に失礼やから」)
 神座はゆっくりと息を整えた。せめて一息に、と飛び掛ってきた少年の胴を真横に薙いだ。どさりと地面に倒れ、時間を巻き戻すように小さなその身体は朽ちていく。
 遺骸を見下ろす神座の背後から急襲する吸血鬼を、志郎の水流刃が二つに裂いた。貫いた水の刃が飛沫を上げると、今にも襲い掛からんとしていた薄汚れたドレスの少女を怯ませた。
 その懐近くに飛び込んだ柄土 神威(ia0633)が鋭い掌底を撃ち込み、くの字に曲がった胴へ渾身の左拳を見舞う。仰向けに倒れた幼い吸血鬼はやはり古びた遺骸に戻り、土くれとなった。
 同士討ちを含めた、ヴァンの姑息な策は三人の心に小さな火種を与えて破られた。
 最早、霧はなく視界は良好である。強い怒りが三人の感覚を研ぎ澄ましてくれた。奥に立っているのはヴァン・レイブン。僅かな光源を拾う金色の瞳がやたら光って見える。

「友人がずいぶんと世話になったようですし」
 長谷部はヴァンをその瞳に映し、表情を動かす事なく言い放った。静かに燃え上がる炎のようにゆらりと上体を動かすと、掻き消えるようにその場から駆けて一気にヴァンの眼前へと立つ。
「さぁ、鬼退治と行きましょうか」
「随分と気が早い」
 ヴァンの薄ら笑いは突き出された拳の先で霧散した。爪先で地面を軽く蹴り、跳躍するなり霧となったヴァンの姿は闇に溶け込んだ。
「彼らとも遊ぶといい」
 灯りの届かない更に奥からヴァンの声がする。同時に、ぱちりと指を弾く音が軽やかに反響した。
 素早く土を蹴る音――長谷部の背を襲ったのは乾燥した髪を振り乱す女の吸血鬼で、すかさず二人の間合いに入った神座の長巻が伸ばされた腕を斬り落す。長谷部は振り返る事なくヴァンを追った。
 奇声と共に跳躍してきた腕のない吸血鬼へ、神座は下段の位置から刀を返して斬り上げる。骨ごと砕き斬った肉が二間離れた地面に飛び散った。
 右手から一体、左手後方より三体が躍り出る。
 ヴァンへと走った長谷部、柄土、ディディエの背を預かる神座と神威がこの四体を引き受けた。
 神威が右前へ飛び、突きの一撃を浴びせれば、振り向きざまに抜ききった焔の剣尖で神座は三体を横薙ぎに斬り払う。
 ホールの気温が一気に下がり、視界を白く霞ませる猛吹雪が入り口から侵入してきた屍狼五頭を凍てつかせる。 氷漬けになった狼の上を無数のグールが、そして吸血鬼が複数体押し寄せてくる。
「おかえりなさいとでも言うべきかしら」
 高らかに詠う氷の呪文がジークリンデの全身を淡雪で包み、やがて猛威を振るう吹雪に姿を変え、アヤカシを撃ち抜いていく。
 後方で起きたこの混戦に、ヴァンは喉を逸らせて高笑いした。その哄笑を、ヴァンの鼻先を掠めた切っ先が止める。
「総力戦だ。ここで必ず奴は仕留める」
 剣先を突きつけたまま柄土が告げる。その言葉は、駆けつけた仲間へ向けられている。すでに混乱は収束し、今や残る敵はヴァン一人であった。
 刀を引く所作の合間に梅の香りがふわりと漂う。正眼へ構え直し、炎を纏った阿見をヴァンへと突いた。
 長谷部と対峙した時と同様に後ろへ跳躍し、霧へと変化したヴァンであったが僅かに触れた阿見がその肉を捉えていた。刀身に絡みつく漆黒の霧が血へ戻ると、柄土の前には不敵に笑うヴァンの顔があった。その半身は未だ霧である。すかさずディディエが術を唱えると、ヴァンの周囲が凍り始めた。
「チッ」
 ヴァンが舌打ちして人型に戻れば、
「神座家次期当主、神座真紀。一族の誇りにかけてお前を滅する! ヴァン・レイブン、覚悟しいや!」
 後方から疾駆してきた神座が一閃。焔を業火に染めて斬り下ろすが、ヴァンは直前に天井へと跳躍しそれを躱す。採掘跡の凹凸が激しい天井をバネに、次はヴァンが強襲。刹那神座の肩口に激痛が走り、鮮血が迸る。
 噛まれたかと思ったそれは、細い剣で突き刺された痕だった。神座の後ろで金属音がする。目端に赤い髪が踊るのが見えた。
「今日は機嫌が悪い……加減など知らんなぁ」
 乞食清光でヴァンの細剣を跳ね上げ、虎徹で巻き込むように袈裟斬りを見舞う。だがそれを嘲笑うように無数の蝙蝠が闇に散らばった。その一匹を捕まえた緋桜丸は、
「チョロチョロと……目障りだ!」
 と他にいるであろう本体を目で追いながらも地面へ叩きつけ、押し潰した。ヴァンの一部でしかない一匹を捻り潰した所で大した影響はない――一匹だけならば。
 ディディエとジークリンデが揃って呪文を唱えた。天井すれすれを飛んでいた蝙蝠を、端からディディエのフローズが追い詰める。その先では吹雪のカーテンが待ち受けていた。
 気付いたヴァンが人型へ戻り、着地すると、一気に踏み込んできた長谷部の拳が重い音と共に吸血鬼の胴を打ち抜く。手応えを感じたのは僅かだった。梅の残り香を撒き散らすようにヴァンは再び霧になり、姿を隠した。
「飛剣天仁ほどの名声と強さを持った男でも守るものを得た途端、脆弱になる。咲という女一人救う為に天仁はこれまで築いた名声と仲間の命を捨てた。けれどその咲はどうなった? たった一つを手に残したというのに、それすらもあの男は守れなかった」
 くつくつと喉を鳴らして笑うヴァンの声。
 闇に浮かび上がったヴァンが刀身に残る神座の血を舐める。愉悦に浸る吸血鬼は、更に饒舌になった。
「貴方が仕向けたの?」
 ジークリンデが問うと、ヴァンは、おや、という顔を見せながら答えた。
「ああ、そうそう。殺したのは人間だったねえ。讒訴でこうも踊る人間共はやはり我らの餌でしかないね」
 言いつつ、またも霧へと姿を変える。
 霧は腰を落して警戒態勢の緋桜丸へ向かった。舐めたその動きに、ヴォトカを口を含ませた緋桜丸が松明を掲げて炎の息を吐き散らす。
「効かないね」
 高笑いが響く中、二人の男が構えを取った。
「これは違うでしょう?」
 咽返る様な白梅の香りが辺りを埋め尽くす。
「ヴァン・レイブン……覚悟してもらうぞ!」
 同時に地を蹴るが、先に霧を撃ったのは長谷部であった。苦鳴と共にざわりと蠢く黒霧を次に襲ったのは柄土の阿見。先より強い手応えににやりと笑う。
 地面に血痕らしきものがぼたぼたと落ちた。
「 これは少々疲れるので嫌いなんですが」
 身奇麗だったヴァンの上着に血の染みがいくつも浮かび上がっていた。やれやれと肩を竦めたヴァンが蝙蝠化する。その手は食わぬと躍り出る開拓者らの脇を、魚の群れが泳ぐようにすり抜けたヴァンが向かったのは人質の元だった。
 燕のような素早さに、開拓者らが放つ攻めが一つも当たらない。見る間に蝙蝠は人質の一人を取り囲み、人型に姿を戻したヴァンがその首筋へ牙を沈めた。血を吸引する嫌な音が響く。青年は目を見開いたまま絶命した。
「讒訴と知りつつ躍らせる者もまた凡愚の塊。それでも天仁の心を壊すには十分だった。あの女の死に様を目にした天仁の狂い様は凄絶で、すべての人間を殺し尽くすまであの男の剣は鞘には納まらないんじゃないかな」
 ヴァンの足元にくず折れた青年が、むくりと起き上がる。
 新しい配下の誕生に声を立てて笑うヴァンの喉元を、清光、虎徹の二刀が左右から襲う。上体を逸らして避けるヴァンの首を、炎を纏った柄土の阿見が斬り上げたが、不自然な体勢のまま真横へ飛んで躱す。
 兄さん、と少女の悲鳴が反響する中、神威が一気に間合いを詰めた。黒髪がひと房頬にかかる。鈍い音と共に青年は二度目の死を迎えた。撃ち抜いた拳に、まだ温かい血がこびりつき、神威は唇を噛み締めた。
「黒塚の空が人間共の絶望で闇色に染められるのも時間の問題だね。美味いのだろうなあ、生きる望みを絶たれた者達の血は」
 走狗のようにホール内を駆けまわるヴァンに長谷部が張り付く。撃ち続けていた攻めも、手数が増えれば感じる手応えも増えていった。
 体力勝負ならこちらとて負けぬ。
「この水の刃からは逃げられませんよ!」
 入り口まで駆けたヴァンを志郎の水流刃が足止めした。逃げても執拗に追ってくる長谷部に苛立ちを見せたヴァンだが、逆に言えばそれは開拓者も同じである。いつまでも追ってばかりでは埒が明かない。
 刹那、ホール内を稲光が走った。龍の咆哮が耳を貫いた時、ヴァンの身体は大きく吹き飛ばされていた。
 地面を無様に転がっていく。ようやく止まった先でヴァンが再び蝙蝠化し始めると、その周囲がすぐさま凍る。術者二人の声は折り重なり、見事なユニゾンを見せた。
 堪らずヴァンが呻く。それでも悪辣な言葉は吐き続けていた。
「そういえば――妹が死地を彷徨っているあの男も同じ赤い瞳だったねぇ。真面目で無骨な男ほど堕ちるのは早い。 君らがトドメを刺した吸血鬼も元はただの人間だ。自らを犠牲にすれば他の誰かを救えると思ったのだろうが、その黒い外套の男……男だったよね。ソイツと……君の足元で転がってる女は兄妹でね。互いを庇い合う姿はなんとも滑稽だったよ」
 悪口雑言の類で形勢を逆転できるはずもないのに、ヴァンは足元をよろめかせながら続ける。
「この地もいずれそうなる。時間はそうかからないだろう。ふふ。ふ……ハァッハハハッッハハハ。愉快だな、お前らが殺し合う日が待ち遠しくて堪らない。先のようにな――ッ」
 これまでの斬撃も、傷の一つ一つは浅くても刻まれるように受けていれば精魂も尽き果てる。吸血して精を取り返したくとも人質の前には神威が立ちはだかっていた。
 ヴァンの視線が虚ろに神威をみつめているのを見るや、
「多くの者が受けた痛み、貴様の体に刻み込めッ……緋剣零式・獅子双牙!」
 本来防御を打ち破る一撃目の虎徹でヴァンは袈裟斬りにされ、二撃目三撃目では最早為す術もなく痩躯は刻まれていった。
 それでもヴァンは精への執着を見せるが、打ち砕くように柄土と神座の両剣が閃き、執着(それ)を穿つ。動けないその身体を灰色の球体が覆うと、そこには一握の灰だけが残り、それもまた消えた。

 仲間や人質の治癒に奔走する志郎を目端に捉えながら、
「ヴァンに殺された、傷つけられた、全ての人達の痛み、思い知らせられたやろか?」
 膝を折り、長い黒髪を地面に放り出して必死に嗚咽を堪える神威の肩を抱くと、神座は彼女の代わりに涙を流すのだった。
「……何事もなく普通に育っていたら、私にも兄さんや姉さんって呼べる人がいたのかな……」
 吐き出された思いは湿った土の中へ吸い込まれ、レイ兄妹の絆は裂かせないと心に誓った神威である。