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■オープニング本文 黄金に輝く稲穂と菊花。 めでたや、今年は豊作ぞ―― ●豊饒の大御酒 北面の仁生には絶世の美姫が住んでいる。名を七宝院 絢子(iz0053)と言って、下流貴族の一ノ姫。尤も深窓のご令嬢であるからして誰もその姿を見た事はないのだが、世間では今輝夜の誉れも高き美姫という専らの噂である。 街の人々の話に拠ると、七宝院家には文やら贈物やらが連日送り届けられているようで使いの者が引きも切らぬ。あちらの若君こちらの青年貴族と、姫を得ようと躍起になっている若者は多いのだが、当の姫君からは梨の礫。それがまた高嶺の花で良いではないかと貴族等が熱を上げると言うから、上つ方の恋愛というものはどうにもよく解らないものである。 さて、この絢子姫、世間のみならず家人の前にも姿を現さぬ筋金入りの深窓の姫君であった。幼少時よりお育て申し上げた乳母の於竹を除いては両親すらも対面した事がないという有様で、かすみの如き姫君よと付いた通称が翳姫(かすみひめ)。日々、乳母を相手に世間の珍しいものを見聞きし取り寄せては無聊を慰めているという、少々変わった姫君である。 例えば、毎年秋になると西北にある村から大量の綿を取り寄せる。所謂菊の着せ綿なのだが、その量や使い方が常とは異なっている。菊花の朝露を含ませた綿を乾燥させて送らせて、布団に仕立てさせるのだ。 今年もまた、新しい朝を真新しい布団に包まれて目覚めた翳姫は、菊の香りを漂わせて於竹に手伝わせて身支度を済ませると、庭を眺めながら文机に就いた。 筆取り文をしたためるは菊花の村――千代見村へ宛てての礼状である。黒々と艶やかな墨の跡も美しい文を箱に収め、翳姫は於竹に言った。 「今年は米が良い出来だったとか」 「左様でござりまするな」 千代見村も豊作だったのかしらと独りごちる翳姫が思いを馳せているのは二年前の災厄だ。大アヤカシ弓弦童子の襲来は北面にかつてない程の災厄を齎した。千代見村も例外ではなく近隣の魔の森活性化により壊滅状態に追い込まれ、一時は村民全員が避難を余儀なくされていた。未だ完全とは言えぬものの、復興は少しずつ進んでいるはずだ。豊作は民の心も明るくしよう。 「御酒の手配はできる?」 「霧が峰が良うござりましょう。開拓者の皆様をお付けになられまするか?」 翳姫の意図を汲んだ乳母の問いに姫は小さく頷く。 千代見村は開拓者とも縁が深い村だ。アヤカシ襲来の折は勿論、それ以前もそれ以後も折に触れ様子を見に行って貰っている。殊に最近では特産品開発にも携わっていたはずだ。 「菊花紙は上手く作れたのかしら‥‥必要なものがあれば送りたいのだけれど」 「さて、ガンピは自生しておりまするし、今のところは‥‥これ、ちくわや」 於竹は庭でコオロギを追いかけていた猫又のちくわを呼び寄せた。開拓者と共に千代見村へと同行し、様子を見て来ておくれでないかと命じる。 「飛空艇か。ならば鞠子も連れて行って構わぬか?」 ちくわは翳姫の妹姫、二ノ姫の同行を請うた。 ニノ姫――七宝院 鞠子(iz0112)もまた、開拓者とは縁の深い者である。 志体を持たぬ身ながら開拓者になりたしと、日々己の身の丈の範囲での人助けに奔走する姫君は、そのほのぼのとした容姿雰囲気から夜明け前の希望、曙姫と称される。 仁生と千代見村の間には魔の森が巣食っているが此度は空の旅、開拓者も一緒であれば戦う術のない鞠子も問題なく訪問できるであろう。 於竹に鞠子にも同行を伝えておくようにと命じた翳姫は、最近鞠子の足元に纏わり付くように懐いている仔犬がいた事を思い出した。名は白蓮、確か鞠子の誕生日にと贈られた仔犬であったか。きっと共に連れて行きたがるだろうと於竹には白蓮の同行も許しておく。 「於竹、飛空艇が飛ぶ範囲でなら開拓者の相棒同行も許してあげてね」 「畏まりまして」 かくして北面の開拓者ギルドには千代見村への日帰り旅行が募られる。 『物資及び貴人の護衛、朝出発夕方帰還、相棒同伴可』 ――と。 |
■参加者一覧
崔(ia0015)
24歳・男・泰
からす(ia6525)
13歳・女・弓
劫光(ia9510)
22歳・男・陰
アグネス・ユーリ(ib0058)
23歳・女・吟
ジークリンデ(ib0258)
20歳・女・魔
御陰 桜(ib0271)
19歳・女・シ
明王院 千覚(ib0351)
17歳・女・巫
松戸 暗(ic0068)
16歳・女・シ |
■リプレイ本文 ●魔の森を越えて 数日後、於竹が手配した飛空船は予定通りに仁生を発った。 茶の香りが甲板を満たしている。 「さすが、七宝院の船だね。快適だ」 焦らず動じずいつものように茶を淹れて、からす(ia6525)が皆に勧めていた。湯呑みを受け取って、鞠子は指先を温める。 「皆さまがおられますもの」 安心ですと微笑んで茶を一口。温かさと仄かな甘味が口内を満たした。ほうと息を吐けば全く地上と変わらない。 甲板では白蓮がじゃれあって遊んでいるし、開拓者達も皆寛ぎ始めている――危険は、ない。 「ですから、ちくわも出ていらっしゃい?」 籠に掛かった毛布を少しめくって離陸時から籠もりっ放しの猫又を呼ぶと、毛を逆立てたちくわが顔を覗かせた。 そうしていると仔猫みたいだ。 「あ、ちくわだ! ひっさしぶり〜 あたしの事覚えてる? また抱き上げてもいい? もふっていい?」 久々の邂逅にアグネス・ユーリ(ib0058)が喜声を上げた。矢継ぎ早に話しかけられて、女性に甘いちくわは空の上なのを忘れてしまったらしい。構わんぞと機嫌よくアグネスの腕に収まって――劫光(ia9510)に意味ありげな視線を投げた。 「何だ?」 「羨ましいか?」 「‥‥‥‥」 つい、と目を逸らす劫光。 こいつはきっと美女に抱っこされてご満悦なだけなんだ、俺がアグネスに振られた事は知らないはずだ――考え過ぎちゃいけない。 「‥‥ち、千代見村ってのはどんな所なんだ?」 ごろごろ喉を鳴らすちくわを他所に、話を変えようと鞠子に問うと菊の産地だと言う。なんでも毎年姉姫が着せ綿を取り寄せる村なのだとか。 「重陽の着せ綿か」 「ええ、そうなのですが‥‥姉は少し変わった使い方をなさいますの」 ね、と鞠子に微笑い掛けられて、ジークリンデ(ib0258)は穏やかに頷いた。 ジークリンデは花椿隊で着綿のお相伴に与った事がある。あれから随分時が経った――鞠子と逢うのも久々で、本当はもっと色々な話をしたいのだけれど、想いが溢れて纏まらなくて。 そっと窓を見遣れば、宝狐禅のムニンが窓際に前脚を掛けて身を乗り出し外の様子を眺めていた。時折あくびをしては眠そうに前脚で瞼をこしこししている。 ムニンは手に乗るほどの大きさだ。宝狐禅という相棒に詳しい訳ではないけれど素人目にも小さく感じて、鞠子が言った。 「随分と、お小さいのですね?」 「術でござるよ」 「術?」 問い返す鞠子に松戸 暗(ic0068)が掌を出した。暗の相棒のジライヤ、小野川だ。 「あら、かわいい」 「きゅうくつじゃがのう。まあ、米の積載量を邪魔せんようにするにはこれしかなかろうて」 掌に乗った蛙が喋ったので二度びっくり。早く広い場所へ出たいわいと喋るのがおかしくて、鞠子はくすくす笑った。そんな様子を、暗の傍に控えていた忍犬のまろまゆが懐っこそうに見つめている。 何気に犬の多い船内であった。あっちでころころ、こっちでもふもふ、何とも微笑ましい。 互いの尻尾を追いかけっこしている山水の様子を見て明王院 千覚(ib0351)は目を細め、傍に伏せ侍る忍犬のぽちを撫でた。穏やかに目を閉じたぽちの毛はふわふわだ。小柄な体躯も相まって、ぽちは成犬でありながら未だ仔犬のあどけなさも残している。 「雪夜の初仕事なのよね。甲板の見回りに‥‥と思ったケド」 黒白の毛並みが二頭と真白が一頭。かつて同じ母犬の許で育った兄弟犬達の再会に、御陰 桜(ib0271)は人差し指立てて笑うと、又鬼犬の桃にのみ声を掛けた。 「桃、見回りイクわよ♪」 「わぅ?」 良いのですかと問うかのように、桃は桜を見上げた。 だいぶしっかりしてきたものの、まだまだ仔犬。白蓮が居ると雪夜は遊びたくって仕方ないようだから――イイのイイのと桜は桃に耳打ち。 「護衛する相手と信頼関係を築くのも大事なコトよ♪」 飛空船の前方を翔ぶ駿龍と併空する灰白色の迅鷹がゆく。そろそろ千代見村近郊、魔の森の上空に差し掛かろうとしていた。 「これを抜ければ、菊の絨毯が出迎えてくれっかな」 若い駿龍の背で独りごちれば、相棒は菊の匂いを辿るかのように鼻を蠢かせた。まだ早ぇよと夜行に笑い、崔(ia0015)は片腕を伸ばした。それを宿り木と見做した月光が腕に止まる。 「前は懐に入れてたおかげでえれえ目にあったし‥‥」 大人しくしてろよと月光の頭をくりくり撫でて、夜行の飛行高度を下げた。 森から立ち上る瘴気が段々と濃くなってゆく。それほどに地上に近付いたのは、飛行するアヤカシを警戒しての策敵が目的だ。幸いアヤカシの襲撃はなく、夜行は無事に森を抜けた。 「満開にはちと早そうだが‥‥綺麗だな」 視界の先に色が広がっていた。 後続する飛空船の無事を確認して崔は夜行の速度を上げる。七宝院家から豊饒祝いを運んできた、その先触れをする為に。 一方、飛空船では和やかな茶席が続いている。 「手を出して来なかったね。ならば、こっちも無駄に攻撃はすまい」 天候の話でもしたかのようにさらりと言って、からすは茶を一口。 確かに、魔の森は生物を害するもので脅威だ。しかし闇雲に排除しようとして容易くできるようなものでもない。己の力が及ばぬ事は沢山あるから、生きとし生けるもの達は世界と折り合いを付けて生きてゆく。 己の尻尾を追いかけて興奮した白蓮が、ムニンを巻き込んで窓に激突した―― ●菊香る村 先行到着して待っていた崔や村人達の誘導で、飛空船は刈入れの終わった田に着陸した。 「姉の、名代で参りました。七宝院鞠子と申します」 深々とお辞儀する妹姫に千代見村の人々は歓迎し、恐縮した。 崔から聞いていたはずなのに、彼らは一瞬見間違えたのだ――胸に絢子の文を携え船から現れた鞠子の姿を、援助を続けてくれている絢子姫だと。 鞠子が村長に文箱を渡している間に、開拓者達は荷下ろしを済ませていた。 「なんと、ミヅチ様に荷運びなど‥‥」 「気にするな、私の相棒だ」 荷を検めたのち、ミヅチの魂流に村人の指示を仰げと命じて、からすは茶道具一式を船から降ろした。村人の一人にお勧めの見晴らしが良い場所を尋ねて、まずは自ら行ってみる。 「ここなら夜行が羽を伸ばしても大丈夫か」 花畑近くの日向を探して夜行を待機させる。いい子にしてろよと月光に言い含め、全ての物資が村の家々に届けられたのを確認した崔は民家の縁側で丸くなっていたちくわに声を掛けた。行き先を告げて、ふらりと姿を消す。 「おお、夕方まで好きにして構わんぞ‥‥」 ちくわは欠伸をひとつすると、再び丸くなって眠り始めた。 わんこは菊を食べちゃダメ。言い聞かせ終わるやいなや、雪夜は転がるように白蓮達の許に駆け出した。 一応護衛任務と言い聞かせていたはずなのだけれども。緊張感の欠片もない雪夜の様子に、桃が鼻を鳴らす。 「だいぶ仲良く‥‥じゃなくて信頼関係を築けて来たんじゃない、かしら‥‥ね?」 同じ月齢の仔犬達は体躯も力加減も同じくらい、全力でじゃれあうのが楽しくて仕方ないらしい。くんずほぐれつ遠ざかってゆく仔犬達を見送って、桜が見守る心地で桃に言っていると、ムニンがひょっこり現れた。 「他愛ないものだ」 ムニンにとって生まれて一年足らずなど生まれたてと変わりないらしい。さすが宝狐禅。 余裕たっぷりに、どれ遊んでやるかとムニンは意気揚々と仔犬達に近づいていった――のだが。 「あらま、遊ばれてない?」 雪夜達の格好の玩具になっていた。年齢では三頭を上回るムニンだが三対一、しかも体の大きさが悪かった。仔犬達より小さな体で近付いたので、雪夜たちは怖れも遠慮もなくムニンにじゃれついている。 「わぅ‥‥」 「え〜っと‥‥」 どう見ても遊んでいる。玩具を取り合って仔犬達は遊んでいる。 物言いたげな桃から、桜はそっと目を逸らした。 「変な苦手意識を持つよりイイんじゃない‥‥かしら‥‥?」 水を落とし収穫を終えた稲田は切り株が寒々と、やけに広々としていた。 蛙は田んぼが好き。だから暗は小野川を連れて来たのだ。まろまゆを待機させ、暗は意気揚々と彼を召喚した。 「見渡す限りの田んぼ! 小野川殿、改めて呼び立てるでゴザル!」 どろん。 本来の大きさに戻って喚び出された小野川は―― 「水が、ないのう‥‥」 「小野川殿は田んぼが嫌いでゴザルか?」 背に乗ろうと小野川に手を掛けた暗は何だか心配そう。 そういうことではないのだがと小野川、秋なれば仕方あるまいと少々物足りなく思いつつ同胞を呼び始めた。眠りに就く前の同胞達と行く夏を惜しんで合唱するのも悪くない。 菊畑では主達を小さくしたような人妖の二人が散歩中。小さな二人には小菊の畑も結構な草原だ。 「綻びかけの菊が綺麗だ」 少年とも少女ともつかぬ中性的な人妖、エレンが言った。 並んで歩く金の髪が揺れている。どきどきして胸が壊れそうだ――真っ赤になって俯いていた上級人妖の女の子が立ち止まる。合わせて止まったエレンに、双樹は勇気を振り絞って請うた。 「あのエレンさん、手を繋いでもいいですか?」 ほわり、手が暖かくなる。微笑んで、エレンは双樹の手を取った。 人間達は宴の仕度に忙しい。畦道を行き来する人と一言二言話したエレンは双樹を連れて小菊畑に入ってゆく。強い小菊の香気の中、何処へ行くのだろうと双樹は思ったが、エレンが一緒なら何処だって嬉しい。 「エレンさんと一緒だと私、ぽかぽかして幸せです♪」 繋いだ手から、傍にいる周囲から、温もりを感じていた。いつまでもこうしていたいな――双樹は揺れる金の髪を見つめて思う。 ぽつりぽつりと互いの好きなものや主の事など話しつつ、二人は小菊畑を歩いていた。 やがて、淡い桃色をした小菊の辺りでエレンは止まった。花を選ぶと少し屈んで一輪手折る。 「好きな花を一輪、分けて貰えるようお願いしたんだ」 振り返ったエレンは双樹にそう言うと、優しい色をした小菊を彼女の黒髪にそっと挿した。 「うん、よく似合う」 (エレンさんは私の事、どう思っているのかな‥‥?) 花飾りは見えなかったけれどエレンの微笑みが何よりの評価に思えて、双樹は問いかけたい想いをそっと飲み込んだ。 そんな諸々を、からすは菊畑が一望できる場所に茶席を設け一服しながら眺めている。 魂流はミヅチ酒にして宴の席へ送り出したし、そろそろ鍋の仕度でも始めようか。 ●豊饒の大御酒 各家庭の厨から白い煙が立ち上っていた。 宴の仕度だ。仁生から運び込まれた酒や食料に村人達の心尽くし、ハレの日を祝う料理が次々と作られてゆく。菊酒に食用菊を用いた料理の数々。見るだけに留まらぬ花が、そこにあった。 村の主婦達に混じって調理を手伝っていた千覚は千代見村の活気を感じていた。 「混ぜ込んだ花弁が綺麗ですね」 「仕上げにこうして花弁を散らして‥‥」 華やかさを増したちらし寿司を軽く握って手鞠寿司にしてみたり。少しの工夫が人々の笑顔を生んで、千覚の心に新たな特産品をという思いが強くなってゆく。 宴の席で、新たな産物の提案をしてみよう。此処の人達ならきっと喜んでくれるに違いない。 料理を宴席へ運んでゆくと、既に大人達は呑み始めていた。 久しぶりにまったり呑みましょなんて言いつつ、アグネスは劫光の杯にだばだば注いだ。まったりなんて量じゃないが、これが二人の呑み方だ。 「じゃあ久しぶりに一杯やるか」 劫光も心得たものでアグネスの杯を満たしてやる。乾杯して互いに呑み干し最近どうだと同時に尋ねて、顔見合わせて吹き出した。 「お互い解り過ぎってのも困るわね」 「気心知れてるという事だろう」 真顔で劫光は返した。 気心も知れてるし酒の趣味も合う、気の置けない相手であり想いを掛ける女――尤も、告白済の上に振られているのだが。 (今日は湿っぽいのは無しだよな) 酒を一気に煽る。そんなに度数の高くない濁酒は少し甘味を帯びていた。楽しく呑もう、今日はそういう日だ。 「そっちの器は何酒だ?」 「ミュー!」 汲もうと近付いたら鳴き声がした。魂流だ。煮えた鍋を持って、からすが「ミヅチ酒」と翻訳する。 「漬け込むと美味しそうかも」 「酒か? 魂流か?」 さてどっちだろうねと微笑い、からすは鍋を置いた。暗によそってやりつつ、からすは悪戯ぽく付け足した。 「魂流は人間と勝負したいようだよ」 「ミヅチ様と呑み比べか!」 呑み介達の座が沸いた。 (ほんと、こうしてると気が合うのよね‥‥) 魂流と競い始めた劫光を横目に、アグネスは密かに嘆息した。彼が己に未練を残している事は気付いている。 劫光は恋愛感情抜きで最高の友達。友達でいる限り、劫光とは何処までも馬が合った。なのに。 (ままならないなぁ‥‥) アグネスが心地良い距離を彼は遠いと感じていて。こと恋愛に関してだけは相違ある二人だ。 何だか体を動かしたくなって、アグネスは村人の手を取った。 「千代見村には村の歌ってあるかな? もしあったら教えて?」 ほどなく村人達の間から手拍子と唱和が始まった。双樹と仲良く手鞠寿司を食べていたエレンに声を掛けて笛を合わせて貰うと、音を添えた歌声は更に盛り上がり、アグネスは心のままに舞った。 酔い方は人それぞれ、色んな酔い癖の人がいるから面白い。賑やかさを増した座を桜は楽しげに酌して回る。 「もう一杯イっちゃう♪」 ジークリンデの杯を満たして、鞠子の隣にすとんと座った。 鞠子はちくわを膝に載せ、菊の御浸しに箸を付けている。菊花にこうした食し方があるとは知らなかったから新鮮だ。のみならず、視線の先では千覚が主婦達と特産品の案を練っている。 「これを食用菊でできないでしょうか」 「桜茶と‥‥これは、まぁ綺麗な花が咲いたねぇ、これもお茶なのかい?」 湯を注すと花開く茉莉仙桃に目を見張る主婦達。泰国には菊の仲間を用いた花茶もあるそうですと補足して、千覚は初めてジャムを口にした娘には「これは甘味で煮て作ったものです」と説明する。 「菊で作ってみても美味しく香りの良い物が作れると思うのです。ほかにも‥‥」 栞や便箋、菊花紙に押し花を漉き込むのは――等々、話し込んでいる様子を感心して眺めていると。 「鞠子様も一曲奏でられませんか?」 大御酒を楽しんでいたジークリンデが鞠子に水を向けた。少し驚いて、それから微笑むと、鞠子は手元の琵琶を引き寄せる。 弦の調子を整える様子を興味深げに眺める桜と鞠子の遣り取りを眺めて、ジークリンデは思う。平和で穏やかなこのハレの日、せめて今だけは鞠子も心を重荷を下ろして明日への糧として欲しいのだと。 アグネスは益々興が乗ってきたようだ。 「大丈夫、思うまま、楽しく体を動かすだけでいいのっ。あ、劫光も、笛の音ちょうだい!」 魂流との勝負はお預け、劫光は仕方ないなと笛を取る。村人の手を引いて、再びアグネスが踊り始めた。 踊りに合わせるように、鞠子が弦を爪弾く。 楽を奏で始めた鞠子からジークリンデの膝に移動したちくわはムニンとひっそり情報交換。 「お主のあるじも良い膝をしているが、絢子の膝は良いもので‥‥」 何の話だか。しかしながら猫又なりの拘りがあるらしい。何時の間にか合流していた崔に「上手く出来たか」と声掛けて、ちくわは快さげに欠伸した。何だかムニンも眠そうだ。くしくし瞼を擦り始めた宝狐禅を宝珠に戻して、ジークリンデはちくわを優しく抱き上げた。 「俺の膝は好みじゃなさそうなんだが」 目覚めたら野郎の膝でした――というのは、さぞびっくりだろうか。ひそり微笑って、ちくわを崔に預けたジークリンデはアグネスと交代する形で座の中央へと進んだ。 「次は、私が」 淑やかに進み出た白銀の美女は女神のようで、酔いが回った村人達も厳かな心持で見守っている。 琵琶の音が深く響く中、彼女はひとさし舞った。 秋の佳き日、豊饒を感謝し精霊への祈り捧げる清き舞―― 間奏で千覚が引き取り、奉納舞は暫く続いた。抜けるような空高く、人々の想いは昇華されていった。 ●菊の花弁を漉き込んだ紙 秋の日暮れは早い。薄暗くなった頃、一同は仁生へと帰還した。 「送っていただきまして、ありがとうございました」 屋敷の門前で鞠子は頭を下げた。 ほとんどの開拓者とは飛空船の発着場で別れたのだが、崔だけが荷物持ちだと屋敷まで付き合ってくれたのだ――が。 「あの‥‥」 もういいですよと言外に匂わせて言い淀んだが、崔は立ち去る気配がない。 ちくわが訳知り顔で取り成した。 「鞠子、黙って荷を預かってやってくれ」 その夜、絢子は翌日を待ち遠しく感じながら眠りに就いた。 真綿の布団は屋敷にいながら千代見村の香りを届けてくれたが、鞠子の話はそれ以上に絢子の心を浮き立たせるもので、千代見村の人々が持たせてくれた心尽くしの土産――料理は夕餉に食して大層美味であった――が嬉しくて、自身でも意外なほど気持ちが昂っていた。 困ったものねと苦笑して、再び記憶を辿り始める。当分眠れそうにはなかった。 夜も遅うござりまする明日になさいませと於竹に止められて保留した、あの包みの中身は何だろう。 (明日になれば判るのだから、今はもう眠らなくては) 絢子は自身の心の内に新鮮な驚きを感じていた。 明日になれば――それは未来に楽しみを見出す感覚。ただ時を過ごすだけの自身に待ち侘びる思いがあったとは。 翌日、絢子は気になっていた包みを開けた。これを預けた開拓者が酷く頭を抱えていたと聞いたから、ひとまず鞠子は呼ばずに於竹と二人で中を見る事にする。 「これは‥‥?」 木片が出て来た。中央に、短冊ほどの大きさの何かが貼り付けてある。添えてあった文を開いて、絢子の顔が綻んだ。 「於竹、鞠子を呼んで」 木片に付いているものは紙だ。乳母が妹姫を呼びに行っている間に、絢子は文に書かれた作業手順に目を通した。紙漉きの行程を懇切丁寧に図解してある筆跡は『開拓者』のものに間違いない。 ほどなく鞠子を連れた於竹と、庭で昼寝していたちくわがやって来た。絢子は包みが菊花紙の台板だった事を皆に話して、図解通りにそっと台板から紙を剥がした。 一瞬、絢子の手元から菊の香りが、ふわりと立った。 しっかりした紙だった。荒さの残るごつごつした紙だ。しかし、漉き込まれた菊の花弁が愛らしく、どんな高価で書き良い紙にも負けない温もりがあると感じた。 今はまだ荒削りだけれど、改良すればきっと良い紙になる。日頃紙に触れている者の直感だった。 「荷は菊花紙だったわ。それで‥‥」 於竹経由で鞠子に短冊を渡し、絢子は尋ねた。 知りたかった。千代見村の様子を。何が必要で何を求められているのか。そして自分に何ができるのか。 この紙を完成させたいと――そう思った。 |