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■オープニング本文 夜風は少しだけ冷たい。でも寄り添っていれば温かい。 人里からほんの僅かだけ離れて、波の音が静かに規則的に響いている。 春の種蒔きの支度をしながら、祝言の用意に慌しかった日々。 久し振りに二人きりになりたくて庄吉と初乃は、林を越えて夜の海岸に出ていた。 「いよいよもう明後日なんだなぁ‥‥」 花の年頃の娘ながら野良仕事で固くなった手を優しく握り、庄吉が感慨深く呟く。 「本当に。庄さんとこんな日を迎えられるなんて夢みたい」 紅く染めた頬を見られるのが恥ずかしい。月明かりに全てを照らされてそうで、初乃は顔を俯かせる。 「そんな事ないさぁ。俺は‥‥ずっと初ちゃんば嫁にするって決めてたんだから」 「だって庄さんは人気者なんだもの」 村一番の伊達男と呼ばれる美男子。何をさせても器用で誰よりも優しく爽やかで。 この村どころか近隣の村まで年頃の娘達の心を騒がせていた人は、幼馴染の自分を選んでくれた。 子供の頃からずっと淡い夢は抱いてきたけれど。 毎日、毎日、早世した両親の代わりに育ててくれた祖父母と共に畑に出て、まだ小さい弟や妹達の分も力仕事も率先して。 たおやかとは程遠い、日に焼けた頑健な身体。綺麗とは言えない手。 手鏡で見る顔だって庄吉の横に並べるのも恥ずかしくなるような器量、と自分では思う。 庄吉に優しくされる初乃を妬いた娘達の叩く陰口は、本当にその通りだと思っていた。 「ずっとずっと、誰よりも可愛いと思ってた。俺の方こそな嫁にするだなんて夢だったさ」 内気だけど芯があり、骨惜しみなく家族の為に働く健気な初乃が愛しくて。 整った甘い顔立ちが微笑み、肩を抱いて夜風に冷たくなった頬を寄せる。 離した頬。今度は両腕で抱き寄せて唇を重ね合わせる――。 ざばり。 波の音が変わって、ふたつに再び別れた影。 驚きに見開いた二対の瞳が見たのは‥‥。 「蛇!?」 悲鳴を上げた初乃の指が庄吉の袖を掴む。 月明かりにも色鮮やかな‥‥毒々しい色合いをした人の胴と同じ太さはあろうかという大きな海蛇。 自然のものではない。あんな大きな海蛇はこの海岸に現れた事などない。 砂の上をしゅるしゅると二人を狙って素早く近づいてくる。 ざばり。 「もう一匹居る!」 我に返って手を取り合って走り逃げる二人。砂に足が沈み、海蛇はあっという間に二人を捉えようと追いつく。 もう一匹も美味そうな獲物と見て、浜に上がって近づいてくる。 とっさに初乃を庇った庄吉の脚にガブリと蛇の牙が噛み付く。 「うっ‥‥」 「庄さん!」 無我夢中だった。そこに落ちていた太い枝を拾い力一杯叩きつける初乃。 気丈な娘だ。勇気もある。 あまりの勢いに枝が裂けて折れた。攻撃を受けた蛇は牙を外して、威嚇の音を立てる。 一瞬。その一瞬の決断。愛する者を助ッようと。二人とも想いは同じだったが。 「庄さん、逃げて!」 力一杯、庄吉の身体を林の方へと突き飛ばす初乃。普段ならありえない必死の馬鹿力。生活で鍛えた腕。 木の根元に転がった庄吉は力を振り絞って立ち上がろうとするが身体が動かない。 海蛇の牙毒――。熱く昇った血と共に痺れが巡り始め、息をするのも苦しい。 初乃の身体が蛇の牙に捉えられる。抵抗する娘に何度も突き立てられる牙。 「いやああああぁぁっ!!」 初乃の絶叫が夜空に響き渡る。 もう一匹の蛇が馳走にありつこうとするのを、先の一匹が威嚇する。 奪われてはなるものかと初乃の身体を引き摺って海に逃げ込もうとする大きな蛇。 流れ出た血が砂浜に黒い点を描いて続いてゆく。 奪い合いを繰り返しながら初乃を連れた二匹の海蛇は暗い雫を高く散らせて泳いでゆく。 (初ちゃん――、初――) 声にならない叫び。 初乃の絶叫を聞きつけた村人が駆けつけてくる喧騒が聞こえた。 「庄吉、どうしたんだ!何があった!」 「おいアレは‥‥」 波の中に垣間見える毒々しくも鮮やかな鱗が月明かりに光った。 人間らしき黒い影と共にそれは海面の下に消えた。 「アヤカシか‥‥?」 運ばれ寝かされて毒の効果も抜けて意識を取り戻した庄吉。一晩昏睡していた。 半狂乱になって海へ飛び出そうとする庄吉を皆が止め、宥める。 「開拓者を呼びに行かせたからな、きっと退治してくれる。お前は行っちゃいけねぇ」 「だけど初ちゃんが‥‥!」 その悲痛な眼差しに村人達は面を背ける。あの状況では無理だ、初乃は海の底から還らぬだろう。 見境なく暴れる庄吉に手を焼いて、仕方なく縄で柱に縛り付けて納屋に幽閉する事にした。 落ち着くまで待つしかない。どう言って納得させてやったらいいかわからない。 誰がどんな食事を持ってこようと全く唇を開こうとしない。このまま初乃の後を追おうとでもいうのか。 そして祝言の予定だった日を過ぎた。 削げた頬にほつれた髪が掛かり。整っているが故に余計に恐ろしい幽鬼のような顔になって目だけをぎらつかせている。 見るに忍びない姿だが‥‥しかし自由にさせれば彼は海へと飛び込んでいってしまうだろう、同じ事だ。 「離せ離せ離せ。俺は初ちゃんを助けに行くんだ。あの子は死んでなんかいない――」 |
■参加者一覧
神町・桜(ia0020)
10歳・女・巫
川那辺 由愛(ia0068)
24歳・女・陰
司摩六 烈火(ia1022)
26歳・男・陰
千王寺 焔(ia1839)
17歳・男・志
新咲 香澄(ia6036)
17歳・女・陰
茜ヶ原 ほとり(ia9204)
19歳・女・弓 |
■リプレイ本文 「今宵は闇夜‥‥か。あたし達は夜目が効かないから何か対策をした方がいいわね」 ふと無意識に手を唇に当て、爪を噛む川那辺 由愛(ia0068)。何か考え込む時の彼女の癖だ。 暮れゆく景色。次第に強くなってくる風。暗い雲が空の大半を覆っていて月明かりも星明かりも今日は隠される。 夜行性のアヤカシを地上に誘き寄せて戦うには、奴らの活発に動く時間に合わせる事になるのだが。 「雨の降りそうな匂いもするわ」 弓にはなかなか向かない天気ね。濡れたところで弓を射られない訳ではないが、感覚が狂う‥‥と僅かに憂鬱な顔をする。 湿気で歪みによる差異が生じているかもしれない。茜ヶ原 ほとり(ia9204)は神経質なまでに気を尖らせていた。 どんな形に加工されても木でできた物には息吹がある。 心気を整え、掌、指先、全ての感覚を研ぎ澄ませて弓の癖を知り尽くすべく。日々の鍛錬では技量と共にその息吹を学んだ。 道具に対する強いこだわり。 「まずはアヤカシを退治する、その後の事はそれからだね‥‥」 新咲 香澄(ia6036)が呟き、待ち侘びていた村人達の元へと向かった。 急ぎ一通りの確認を済ませ、退治の舞台となる海岸の下見、もとい準備を行なう。 アヤカシを迎え撃つ仕掛け、由愛の考案。手分けして皆が作業して松明を分解して間隔を空けて砂浜に並べていた。 冷たく吹き寄せる風に温もりが奪い去られた砂浜を踏み締め。海は既に色を失くして黒く揺れうねっている。 何も呑み込みなどしなかったように平気な顔をしている波。 その景色に溶け込むように揺れている長き黒髪。由愛は皆に背を向けてその海を見つめていた。 雲の間から射した今にも消え入りそうな陽の光が薄くそのほっそりと小さな輪郭を照らしている。 村人から伝えられた初乃という娘の最期の姿が今、彼女の隠された瞳に映されている。 その深き愛。命を犠牲にしてまで護りたかった男への想い。 息を静かに、そして胸一杯に吸い込む。人差し指と中指の間に挟んだ、初乃の想いを受け継ぐにふさわしい強力な呪殺符『深愛』を胸に当てて。 (その強き想いをあたしの中へ――) ここへ来て。そして更なる力を。あたしが、後はきっちりと終わらせてあげるから。任せて。 風の向きが変わり、その瞳を覆っていた長い前髪がふわりと巻き上げられて爛々と輝く紅色の双眸が露わになった。 唇の端がゆっくりと吊り上がり由愛の顔に凄惨な笑みの形を作り出す。太陽がまた雲に隠れ、薄暮の闇にその姿を包む。 「この恨み、確かに受け取ったわよ」 人目を避けて二人だけの時間を作ろうと訪れた恋人達のように、香澄の小さな肩を抱き寄せた司摩六 烈火(ia1022)がゆっくりと砂浜を進む。二人の反対側の手には紅橙の炎が揺らめく松明。 あの夜の庄吉と初乃もこうして佇んでいたのだろうか。炎は無かっただろうが。 月明かりに照らされた海は恋人達の甘い時間を優しく照らしていた事だろう。今は、闇と炎。佇む者の心には苦さが。 大事な人を目の前で殺された。開拓者という境遇へ進んだ者達の中では割と珍しい話でもない。陳腐な理由に成り得る程に、あちこちでこのような悲劇が今も続いているのは痛ましい事であるが。 もしも防げるのなら、悲劇が訪れる前に駆けつけるだろう。しかしそう間に合える状況というのは数少ない。 いつ何処にアヤカシが沸くのかも誰にも予測できない。どんな小さな瘴気から何がきっかけでアヤカシになるか。現れて喰らって初めて周囲に存在を知らしめる場合もありがちだ。 庄吉に訪れた凶事、香澄には兄を失ったあの日が重なる――。 ● 「なかなか来ないね‥‥」 獲物はここに居るよ!気持ち的にはそう叫びたくもなる。 荒れ気味の冷たい潮風に吹き晒され、寒さが深々と身体に堪えていた。まだ烈火と香澄はいい。松明の炎があるし、身体も動かせるから。 砂浜の暗がりに伏したほとりは指がかじかまぬよう、袖に仕込んでおいた布袋に手を入れて待機している。 身を伏せる選択をしたのは彼女だけだ。海に向かって傾斜した浜、人が一人隠れられるような砂丘も岩塊も無い。 囮とは離れた場所‥‥気配を完全に断ち切らねばむしろ一人で待機しているほとりが狙われるかもしれないと、今更ながら背中を冷や汗が伝う。 他の三人は後ろの林で武器を構えいつでも飛び出せるように構えている。一気に退路を断つ為にはなるべく砂浜の奥で迎え撃つ必要がある。水際に足を取られない為にも。 「松明の火を消してみるか?」 単衣に一応は鎧を備え短い弓を携えた長身の男、小柄な女の方は巫女装束姿に足袋。 これを消したなら真っ暗闇になるから瞬時の援護は期待できない。さきほど準備した仕掛けへの点火も別の方法を考えねばなるまい。 「でも消したら、ボク達がアヤカシにすぐ気付けるかな」 炎を操る式を使える香澄だから点火は即座にできる。だが視界の問題はやはり残る。初撃は毒を喰らう覚悟もしなければならないか。 「真っ暗だとぎりぎりだな見分けられるのはおそらく。やめておくか?」 「いや、やろうよ。炎が見えるせいで近寄って来ないんだったら‥‥時間が無駄になってしまうし」 ぽつり。香澄の鼻の頭を濡らした小さな雨粒。今にも、降り出しそうなのかもしれない。一粒だけ落ちてそれっきりだが。 明日からしばらく天候は荒れるという村人の予想が確かなら、今宵できるならば決着を付けてしまいたい。 ふっと消える松明の炎。重苦しく圧し掛かるような闇。ぴたりと止んだ風、掻き消されていた波の音が今は聞こえる。 おそらく。烈火と香澄の意図を汲み、一歩も遅れは許されないと緊張を走らせる千王寺 焔(ia1839)。共に待つ神町・桜(ia0020)の息遣いは離れていて聞こえない。 桜の一歩後ろで待つ由愛。点火が遅れれば式を飛ばせられないかもしれない。だが策は考えてある、ともすれば苛々しそうな心を抑えその時を待ち続ける。 ぱしゃり。研ぎ澄ませ待ち受ける聴覚に僅かな水音が聞こえた。ようやっと来たか――烈火の武者震いが香澄の肩に触れた。 音も無く忍び寄る蛇の気配に、明かりを灯したくなる衝動を抑える。 絶対に逃がさないんだから。 今――。香澄が放つ火輪に海蛇の姿をしたアヤカシが一瞬照らされ。攻撃を仕掛けた海蛇の牙が烈火のふくらはぎに突き刺さる。 「くっ、案の定だな。喰いついて来やがったぜ」 斬撃を放ち、牙が剥がれた一瞬に後ろへ飛び退く。右脚に痛みと共に感じる若干の痺れ。 同じく退いた香澄が浜辺の仕掛けへと炎を纏わせた式を放つ。自らの手にした一本の松明にその火を取り、次々と炎を繋いでゆく。 半円状に用意された炎が浜辺を舐めるように広がり、闇を押し返した。 もう一匹のアヤカシの姿も毒々しい鱗を炎に照らされ。 威嚇の音を吐きながらも、海に近い方に居た一匹は逃走を図る。 しかし砂を蹴って即座に海水ぎりぎりまで回り込んでいた焔の手にした長巻、彼と同じ名を冠したそれが退路を阻むべく薙がれる。 「逃がす訳がないだろう‥‥愛する者を引き裂いた苦しみ、身を以て償え」 嘆きともつかぬ哀を含んだ紅色の瞳。怒り、殺気、それを超えて焔の瞳は静かにアヤカシを見据える。ひたひたとブーツを濡らす波。 その背中へと抜けられたら海中に逃れられてしまうが、そんな焦りは微塵とも感じさせない。 烈火を庇うように薙刀を手に割り込む桜。巧みに動き、アヤカシを海に向けぬよう身体を張っても妨げる。 距離を取れば術を用い、迫れば薙刀を振るう。 「烈火、無理をしないでよ」 波打ち際に膝をつき合口を突き立て何か呟いていた由愛が立ち上がる。呪殺符より髑髏が湧きで、その長く振り乱された髪の陰から怨々をした声がアヤカシを襲う。 「これしきの痺れくらい平気さ」 アヤカシより奪い取った活力が烈火の身体に満ちる。脚の感覚が異物のように重くなっているが、桜の絶え間ない攻撃が守る。 「おぬしの相手はこちらじゃ!」 陰陽師の連係で幾種もの式に苛まれたアヤカシは薙刀の刃をするりと逃れて水際を目指してその太い身体をうねらせる。 「生憎だけど――」 突如濡れた砂より飛び出した大百足の姿をした式が海蛇と縺れる。地縛霊。 「喰われるのはお前達よ」 アヤカシを貪り喰らう魂喰。苦悶にうねりながらの絶命。揺れる炎の陰影で由愛の満ちた表情が凄みを帯びて見えた。 牙を受けるのは俺の役割だ。護るべき者達の盾となろう。 火輪と弓の援護を受けながらアヤカシの身体を刻んでゆく焔。武器に帯びさせた炎がその傷を焦がす。 「‥‥っ!」 刺し違えるようにその腕を傷つけた牙。血に入った毒は急いで吸い出さねば、距離を取った焔にほとりが駆け寄ろうとするが制止される。 「ほとりさん、こっちに引きつけるよ!」 心を研ぎ澄まし、矢を正確に射込む。滑るように海蛇が迫る。 こちらに来てしまえば明かりが届かない。香澄が前へ進み出た。 「ボクに構わず撃ち続けて」 その腕を信頼している。その想いに応え冷静な瞳を惑わす事なく矢を射続けるほとり。 砂に血を吐き捨て、包帯で簡単な手当てを済ませた焔。刃から鎌鼬を放って戦線復帰する。先にできた傷口を狙って捻じ曲げた矢が深く突き刺さる。 大きく開いた口へ放たれる刃、力一杯の突きが脳天まで貫いた――。 ● 赫々と浜辺を焼くかのごとく広がっていた炎が次第に粒を増した雨に打たれて光を失った。 「さて、少しでも遺品が見つかれば良いのじゃがの。何処にあるやら‥‥」 「呑み込んではいなかったか‥‥残りは夜が明けてからの方がいいかもしれないな」 兜から滴を滴らせ、雨や砂と混じり塵と消え行くアヤカシの遺骸を調べていた焔が立ち上がる。 「遺品も一緒にアヤカシに喰らわれたとしたなら、それも瘴気にされて消えてしまった可能性もあるわね」 アヤカシは生物を喰らうが通常の生物の消化過程とは全く異なる。無機物を喰らってもそれはそのアヤカシにとって美味しいかはともかくとして腹の中へ収められれば瘴気へと変えられてしまう。 自らも瘴気を拠り所とした式を操る陰陽師である者達はその知識から、アヤカシを倒した地点での捜索は無駄だろうと考えていた。 「こう暗くてはの」 濡れた黒髪を横に振る桜。このまま雨に打たれていては芯まで濡れて風邪を引いてしまう。 「一度村で身体を休めてから出直そうか」 退治の朗報を起きて待ち受けていた村人達に労われ、すぐさま用意してくれた温かい湯漬けを腹に収めて疲れを癒した開拓者。 疲労が短くも深い眠りに誘う。目覚めた身体には傷はまだ残るが、毒の痺れは薄れていた。 しきりに恐縮する村人達に挨拶を交わした一同は再度浜辺へと繰り出す。初乃の遺品探しだ。 「船‥‥出せるかな?」 雨は止んだが今度は風が随分と強い。林が遮っているので村の中はさほどでもないが、沖の方向から吹き付ける風がひどく波も高い。 樹の根元にまで潮が飛んでくる時もある。 「そこの小舟じゃすぐにひっくり返されてしまうぜ。海に出るのはよした方がいい」 乾いた表層の細かい砂が塵となって飛来する。眼帯に覆われていない左目を細めた烈火。 昨夜に比べて流木や様々な物が浜に散らかっている。 香澄は魚型の式を呼び出してみたが波に揉まれ水は濁り、海中の捜索は叶わなかった。 足が濡れ、砂にまみれるのも厭わず波打ち際を丹念に探して歩く焔と烈火。波が足裏の砂を浚ってゆく時のぞわりとした感触。足首に何か当たって海に逃げた。 「ん‥‥?」 急いで腿ほどまでに水の中を進み、波に浚われようとしていた品物を手に拾い上げた焔。次に押し寄せた波が被さり、全身がずぶ濡れになる。 武具の類は濡れないように林に纏めてあって良かった。由愛がそこで番をしてくれていた。 「あったぞ、これはおそらく‥‥」 ぐっしょりと海水を含んだお守り袋。慎重に結び目を開いた中にはすっかり墨の滲んで文字も判別できぬ小さく折り畳んだ紙が入っていた。 それと美しい色と形をした小さな巻貝。職人の手を経て加工と磨きを入れれば耳飾りにしても良さそうな可愛さだ。 「袋の口が固く結ばれていたから、もし初乃の持ち物ならこの貝も庄吉か初乃が入れた物だろうな」 切れ端でもあれば‥‥すぐわかるのに。 そんな事を考えながら、ほとりが舞い乱れる髪を煩わしそうに払う。 古ぼけた紺地の単衣、幼い初乃の弟妹達も姉がその日それに着替えて嬉しげに出掛けた事を覚えていた。 母親の形見で、接ぎ当てもなく初乃が持っていた着物の中では一番上等な品だ。愛しい人と逢う為に彼女にとっては一番の装いだったのであろう。 その単衣は――深い海の底に初乃と共に沈んだままだろうか。 「これだけ波が押し寄せているんじゃ、岩場に引っ掛かっているかもしれないの」 切り立った岸壁。目を凝らせば海草等に混じって何か異物も見える。浜からでは手が届かない。もっと近くに行けないだろうか。 風を含んではためく巫女袴。桜の小さな身体は崖壁からもぎ取られて飛ばされてしまいそうだ。 海水に濡れた岩がぬるぬると滑る。 「うわっ」 避けようもない。まともに海水を被ったので服が重く感じる。そのまま沖に連れてかれなかっただけでも、いいか。 岩にはまださきほど見つけた異物が引っ掛かっていた。腕を伸ばして掴み取る。 「腕輪‥‥じゃの」 太く編まれた糸は千切れて輪の形は既に為していないが。一個一個丁寧に結ばれた木端や木の実がまだ幾つか残り。 浜辺に戻り沖合をふと見やる桜。海の底で泣いているであろう、見知らぬ娘の事を想いながら――。 「アヤカシは退治してきたわ」 庄吉を前に淡々と告げるほとり。運んできた食事の盆を置き、庄吉の縄を解く。 「は、初ちゃんは‥‥」 憔悴しきった庄吉の弱々しい声が返ってくる。風が轟々と納屋の壁を叩く音に掻き消されてしまいそうだ。 断食により痩せ衰えた身体をほとりの腕が支える。今、立つのは無理だ。 進み出た桜が膝をつき、庄吉の手に小さな手を重ねて初乃の遺品を手渡した。 千切れた腕輪。汚れたお守り袋。 掌に視線を落とした庄吉が唇を噛み締める。紛れもなく初乃が身に着けていた品。あらためるまでもない。 「忘れろとは言わぬ」 服が汚れるのも構わず土の床に正座して、庄吉をまっすぐな瞳で見上げる桜。 「おぬしの今の姿‥‥あの娘がどんな気持ちでいるかの。いつまでも思い悩みダメになる姿を望んでおるとは思えぬの」 庄吉に生きて欲しい。そんな初乃の想いに今の姿は応えているか。 穏やかな口調だが乱れた心に刺さるような問い。 「生き残ったお前さんには生きる義務がある。例えどんなに辛くとも‥‥な」 「そう、あんたが生き続けて。あんたが彼女を覚えている限り――」 初乃は庄吉の胸の中でずっと、生き続けるのだから。 |