春陽抄 〜凍幻再夢〜
マスター名:白河ゆう 
シナリオ形態: ショート
危険 :相棒
難易度: やや難
参加人数: 8人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2013/02/11 23:34



■オープニング本文

 山深き隠殻、雪に包まれた景色に昼餉の炊煙が昇っている。
 春陽村はかつては朝霧村という名で近隣には呼ばれていた。

 かつて氷納(ひな)と名乗る少女の姿をしたアヤカシに弄ばれ蹂躙され、住む者達を失って消えた村。
 僅かな生き残り達は、過去を凍らせたままそれぞれの道を歩んだ。
 彼らが別天地でようやく掴んだ幸せは、再び氷納が人間の前に姿を現す事によって大きく揺り動かされた。
 悪意。幸福を破壊する愉悦。
 再出発した歩みからまたも突き落とされる絶望。犠牲。
 それももう終わった。
 開拓者の活躍により、転々と続いた戦いの末に氷納は完全に滅ぼされ、この世より消え去り。

 同じようにアヤカシに故郷を奪われた人々と力を合わせ。
 廃村跡に築いた新たなる里。
 耕地も少なく、つづら折りを越えた険しい山間。
 得られる恵みは従来の手法では口を満たすにも足りなかった。
 だけどこういう山深い景色が懐かしく、あるいは素朴に助け合う暮らしに憧れて。故郷亡き者達が大きな夢と荷を抱えて。
 開拓者達は集団移住時にも手を貸し。彼らは神楽の都へと戻る定めではあったが、先の為を考えて残してくれた知恵。
 今も役立っていた。
 収穫数があまり無くとも市場価値の高さで補える薬草、香草の類を育て、金に換えられる特産とし。

 土地出身である村長一家を中心に仲睦まじく結束していた。
 都で大工の腕を磨いていた久我 利兵衛は、今や頼られるしっかり者。幼子を抱えた寡婦、伊津を娶り。
 アズサも同じ家で暮らし。忙しい利兵衛、新たな命を腹に宿した伊津に代わり、やんちゃ盛りの奈津の世話を焼く毎日。

 雪融けの頃には、村再生から初めての命が誕生する。夫婦者は他にも居るが、村の子供は現在は奈津たった一人。
 さて男の子か女の子か、顔を寄せれば一番の楽しみな話題。
 村の名を取って子には『春陽(はるひ)』と付ける予定である。

 ◆

「ひ、氷納……!?」
 冬山に薄い着物一枚で徘徊している見知らぬ少女が居る。
 村の食糧に彩りをと。獣肉を狩りに出ていた者からの一報。
 何かの見間違いだろうとは思いながらも。
 もしも本当に人だったなら。
 この厳しい寒さ。
 自然の獣だって身を守る術の無い者には脅威だ。
 薄い着物ひとつでさまよえるはずもない。
 男も女も、身体が丈夫な者は総動員しての捜索となった。
「今、お前も見えたよな。おかっぱの女の子だったよなぁ」
「あ。ああ……村長。でもあり得ないぜ、あんな格好で」
「何処かのシノビさんが縄張り離れて此処まで来たって事はないか」
 利兵衛の心は震撼した。どうか今のは見間違いであってくれ。
 氷納は完全に瘴気へと還ったのだ。彼女であるはずがない。

 少女は疾く逃げ去った。
 それ以来、目撃の報は無い。だが不安に駆られた利兵衛は開拓者ギルドに文を送った。

 ◆

『…………』
 小さな氷の嵐が逃げ損ねた野兎を痛めつける。
 殺そうか迷った。腹の虫が鳴っている。肉を喰らったところですぐに物足りなくなる事は学習していた。
 死への恐怖。人間の言葉で表すならそれが腹と同時に胸を満たす。
 満たしたい食欲。それだけが自己の意識。
 人間の少女の姿をしている事に、疑問を持つ知能もない。
 アヤカシは名前も持たない。なのでそれを、この記録では『彼女』と呼ぶ事にする。

 もはや恐怖すら抱かなくなった血肉の塊を残念そうに彼女は掴みあげる。
 獲物は死んでしまった。まだ微かに生命の残滓、温もりが掌に伝わる。
 肉を噛み裂くには向かない粒歯を柔らかそうな部分に当て。
 力一杯喰いちぎり、血を啜る。
 美味なるは生物が抱く恐怖。敵意。
 むしろ自分が狩られそうな気がしたので逃げたが。先日の。美味そうだった。激しく恐怖を抱いていた者が居た。
 どうにかして一匹くらい。捕まえられないだろうか。
 見たのは大きなのばかりだったが、もっと小さいのが巣に隠れてないだろうか。煙が上がったり声がしている場所が近くにある。奴らの巣はきっとそこだ。
 奴らの仔なら、さぞかし美味に違いない。仔を喰らえば別の個体も美味なる感情を抱く。彼女は生まれた時より何故かそれを識っていた。

 ◆

「火の傍は危ないから近づいちゃダメだよ」
「おなべっ」
「そう、これ外で働いているお兄さん達に食べさせるんだよ。なっちゃんも後で一緒にいただきますしようね」
「うんっ」
 よいしょと抱えあげた奈津の身体は快く重い。
 まだ会った時は乳飲み子だった。すくすくと育ち、一人でも動き回るやんちゃ盛りな今は、目を離すと何をするか危なっかしくて仕方ない。
「あの人にお昼だって伝えてきてくれるかしら」
「はぁい。なっちゃん父さんとこまでお散歩だよっ。寒いぞ〜」
「こえくあい、へーきさっ」
 父親、利兵衛の口真似。

 ◆

 拐かしたというのに、無邪気になつく仔が理解できなかった。
 何故、恐怖を抱かない。何故、楽しそうに鳴くのだ。

 自分が人間そっくりの姿をしているからだとは思い至らない。
 しかし、せっかく捕ってきたのだ。すぐ殺すのはもったいない。
 仔を拐かされた群れの憎悪を存分に味わってから、ゆっくりと。
 その間、別の獣達に獲物を盗られないよう大事に隠そう。それから巣にもう一度。
 何処がいいだろうか。勝手に死なれては困る。
 喰らう時まで、生きのいい状態で保存しておきたいが。

 笑う幼子を抱いた彼女は雪に覆われた山林の中をさまよっていた。

 ◆

 開拓者が到着する直前の出来事である。
 村長の娘、まだ齢二歳の奈津が。獣のように素早い動きを見せる少女に、一瞬の隙をついて拐かされた。
 外に居合わせた者は氷の小嵐に打たれ、追おうとした者達も手酷い凍傷を負っている。
 アヤカシの性を見せつけられた。
 志体を持たぬ者が負った症状は重く、すぐに手当が必要であった。その中には利兵衛も含まれている。

「とにかく火の傍へ運ぶんだ。膏薬になる物なら何でもいい。持ってこい!」
「回復の術を使える奴はいないか。体力が保てば……っ」
「なっちゃんを……なっちゃんを助けないと」
 氷の鋭い塊に直撃を受けた脚を押さえて、声を振り絞るアズサ。無理に立つがすぐには歩けない。
「俺が行く。おい、武器を持ってる奴は一緒に来い!」
「馬鹿っ、あんた達だけで立ち向かえ……」
「だったら誰が行くんだよ。ごちゃごちゃ言ってる暇はねえ」
 斧や猟銃を手にした若者達が雪の中を駆けてゆく。奈津を助け出す為に。
 均衡を保っていた鉛色の空が、折りしも荒れ狂う息吹を見せ始めた――。


■参加者一覧
静月千歳(ia0048
22歳・女・陰
鞍馬 雪斗(ia5470
21歳・男・巫
菊池 志郎(ia5584
23歳・男・シ
和奏(ia8807
17歳・男・志
茜ヶ原 ほとり(ia9204
19歳・女・弓
水野 清華(ib3296
13歳・女・魔
ベルナデット東條(ib5223
16歳・女・志
桃李 泉華(ic0104
15歳・女・巫


■リプレイ本文

「……天候が荒れてきましたね」
 村もまもなく見えるかという頃に強くなった風。荒ぶりはためく衣。乱れ舞う髪。
 降雪も時を同じくして量を増し、顔を覆い守る物なくしては前へ進むのも辛い程。
 面やゴーグルで保護していても貼り付く雪が邪魔となり、腕を高く翳す。
「今、声が聞こえませんでしたか。村の方角から」
 再び耳を澄ますまでもなく、複数の人々の錯綜する叫びが風向きの具合で運ばれてきた。
「何か緊急事態のようです、急ぎましょう!」
 仔細は判らずとも、運べ!しっかりしろ!など切な強い響きははっきりと届いた。

 駆けた先では、雪にまみれた村人達が右往左往し。
「うわあ、こっちから何か来たぞ!」
「奴の仲間か!?畜生っ」
「ちょっと待ちぃや。うちらは利兵衛さんから依頼を受けた開拓者や!」
「……利兵衛さんが?どういう事だ?」
「仔細はともかく、怪我人が居るのでしたら手当てを先に」
「そ、そ、それよりなっちゃんだ。お、お、女の子が」
 混乱した状況で、皆がバラバラの事を口にする。
 起きている事態の把握と、村人達を皆、安全な建物の中に収めるまでに時だけが容赦なく進む。
「菊池殿、これも使ってくれ」
 手荷から治療に役立てそうな物を取り出して、既に診療に入った菊池 志郎(ia5584)の背中に声を掛けるベルナデット東條(ib5223)。
 彼の身体が淡く輝き、広がる光がこの家に運び込まれた怪我人達の姿を包み込む。
「助かります。他に重篤な患者は。運んだ先は……!」

「本人がいい言うても産気付いたの放置したらあかんわ!うちがやるさかい、はよ案内しぃ!」
「俺は何したら」
「身体動くんやろ?これ預けるから薬飲めるんは飲まして、薬草や包帯は誰か使い方判るやろ。それより妊婦さん何処やのん」
「あ、あっちの……村長の家」
「ほな、薬持ってとっとと怪我人とこ行きぃ。そっちの。手伝いが必要やけど動ける女の人は」
 きびきびと通る声を吹雪に負けじと張り上げる桃李 泉華(ic0104)。
 新興の村は男女比が偏り、昼餉時というのが災いその数少ない女性達も支度を告げに行った矢先で巻き込まれた、
 志体持ちのアズサだけがまだ脚に深い傷を負っただけで大事はないという状態。

「氷納では、無いかもしれません。或いは、力が戻っていないのか」
「どうしても酷い怪我は治療するけど……そっちは任せてもいいかな?」
「ええ。何とか手は足りそうです。追い掛けてください」
 身支度を再確認する鞍馬 雪斗(ia5470)に答える静月千歳(ia0048)。
「そうするよ。この吹雪の中、早く見つけてあげないと」
 手当てを施す傍ら、口が利ける者を落ち着かせつつ、聞いた話から鑑みて。
 『彼女』は独りで動いている。氷納が得意とした鳥獣のアヤカシを操る事なく。
 姿形は似ている。氷の術を用いる事も似ている。だが、あのかつて姿を現した時に比べて随分と手緩い。
「連れ去られた子は奈津ちゃんと言うんだね」
「アヤカシは雪に対してどうか存じませんが、お子さんの重さを抱えてそう遠くには行けないような」
 幼いとはいえ赤子ではない。大人が抱えて走るにも固められぬ雪の上で足跡を残さぬのは無理がある。
 浮かんだ絵を述べる和奏(ia8807)。彼は別の者に山の様子を聞いていた。
 少なくとも村抜けるか大きく迂回せねば、自分達が登ってきた方向には逃げられない。
「もしもその氷納だとしたら、移動は?」
 戸が開き、寒風が吹き込む。影は熊……いや重厚な熊そのものの毛皮に身を包んだ茜ヶ原 ほとり(ia9204)だった。
「……自分の足で逃げる。身軽だけど動きはまるで人間だったわ」
 氷納ではない。そう思いながらもほとりの瞳には、幼子の喉元に刃を突きつけて嘲笑う少女の幻が過ぎる。
 忘れてはいない。人と同じ形をして、人と同じような表情を見せた。全てと共に消えていった彼女を。


「他に収容の済んでない方は。そうですか、貴方は菊池さんに人数と症状を伝えに行って」
 混乱する人々に役割を与え。
 一刻を争う容態の者は志郎の元へと急ぎ搬送させる。応急処置では体力が失われていくばかり。
 外傷は深くとも何とかなりそうな者は此処に居る者と打てる手で何とかする。
 骨が見える程に抉られた手首に、式が吸い込まれ新たなる肉と為す。別の者は脛を。顎を。
 高速で飛び交う鋭い氷片の直撃で抉られた傷痕は、凍傷の処置程度では済まない部分もあった。
 的確な指示をてきぱきと下しながら、千歳は式を次々と紡ぎ失われた組織を補う。
「患部が何処にも触れないよう丸めた布か何か。そう、敷いて支えて下さい」
「湯が沸きましたけど、どうしたら」
「手足の先は風呂より熱いくらいの湯に薄めて漬けて下さい。他の箇所は絞った布で、火傷させないよう気をつけて温めて」
 ようやく一呼吸し周囲を見回せた頃、手当てした傷が氷の威力の割には随分とお粗末という印象が頭に過ぎる。
 これが氷納であったなら、甚振り遊んだとも解釈できるが。証言を聞く限り、相手に余裕は感じられない。
「何処へ行くのですか」
「俺達も追いかけないと」
「今から追いかけても私達の仕事が増えるだけです。それよりは」
 どうしても動いていないと心落ち着かぬというなら、呼子笛を貸すから村内の確認を。
 留守になった家にも異常が無いか、清潔な布が足りぬから使える物があれば持ってきて。
 沈着かつ厳しい声音が焦燥を鎮める。

 志郎の周囲を流れていた無数の風が穏やかに収束する。
「他には……そちらの方は意識を取り戻されたようですね」
「ありがとうございますっ。何とか命を取り留めて……」
 目まぐるしい程立て続けに術を行使して、疲れた頬に穏やかな笑みを浮かべる志郎。
 まずは良かったという安堵。運ばれた重篤の者は一段落が着いた。
 命の境は体力勝負という山は過ぎ、吐息がどれもわななきからは開放されていた。
 広くはない家の中所狭しと即席の床を並べた人々の外傷を確認して回る。
 炎と煙、人の熱でむっとする空気に汗が滴る。かんかんに熾された囲炉裏の火はそろそろ弱めてもいいだろう。
「新鮮な空気を。直接雪や風が吹き込まないようにしないといけませんね」
「戸は外しちまおう。よし俺が吹き飛ばないよう押さえてやる」
「貴方も怪我をされてるでしょう。先にこちらの人の処置が終わったら診るので交代して下さいね」
「菊池さん、何か飲ませたいんだが白湯でいいかな」
「まだ辛そうでしたら、この水を。精霊の加護が強い水で苦しめる力を追い払ってくれます」
 懐を探った指に触れた小さな丸薬の包み。ベルナデットから渡された物。
(俺に託してくれた命、どうやら守れたようです。奈津さんや追われた皆様もどうかご無事でありますよう……)


 自分達の足跡すら吹き荒れる風が雪を靡かせて掻き消す。
 林立するはずの梢の気配すら感じさせない闇夜を反転させたような白一色に覆われた視界。
 眩しさなんて欠片もない。吐息も踊らぬ。凍てついた空気が呼吸を浅くさせる。
 前を、横を。歩みを進める仲間だけが確かな影。聴覚も暴れる雪風に遮られて。
 平らなのか斜面なのか、それも判らぬ。集わせた精霊が教えてくれる生命の反応だけが頼りだった。
(固まり重なり留まっている点、動いている点……追いかけた方か、それとも)
 義姉妹の誓いをした友の腕と結わえた糸がぴんと引かれる。
「ベルちゃん?」
「……居た。たぶんどっちも。どっちかは判らない」
 他に手立てが無い。唯一の手掛かりだ。
「私も見えました。どうします、此処で分かれますか」
 和奏と雪斗、ベルナデットとほとり、どちらも一人が心眼を使え、遠近の攻守に対応できる組み合わせ。
「分かれよう。私達は遠ざかっている反応へ」
「では私達は留まってる二点の反応を」
 村人を保護した方は……天候がましにならなければ自力で戻すのは無理だ。留まらせるか、連れて向かうか。
 迷う。彼らの状況を確認してから考える事にしよう。
 三箇所に分かれているという事は、どれも複数の点である事から二点は追いかけた村人と思われた。
 何故二つに分かれる事になってしまったか。負傷していなければ良いが。

「どちらも大人の大きさですね」
「そのまま進もう……くっ」
 体重を載せた雪が大きな固まりとなってざざざっと滑り落ちてゆく。咄嗟に身を返して事無きを得たが。
(吹き溜まりか。これに足を取られて雪と一緒に滑落したなら)
 天地も水平も定かではない。平衡感覚を取り戻す手掛かりは……梢の幹か。
 雪に隠された梢を探り当て、掌で幹筋を辿る。それで自分が向かう方角が沢の下である事を掴んだ。
「雪の下に川があるかもしれませんね」
 急激に深くなる雪。推定する地形。風は谷筋から吹き込んでいるから避けられない。
 見つけた男達は進む事を諦めて雪洞を作って互いの身を寄せていた。怪我は無い。
「にっちもさっちも行かなくなっちまって。もうこれ以上は無理だと思ったんだ」
 気が付けば他の者とはぐれていた。二人でしばらく進んでみたが、合流できず。
 猛吹雪さえ止んでくれれば何とかなると、それまでじっとしているから。
 二人にはこれ以上追いかけるのはやめて、状況が良くなったら村へ戻るよう言い含め。
 このまま留まらせ、別の反応の方へと向かう事にした。
 そちらは残念ながら判断の甘く血気だけが逸った者達であり。闇雲に突き進んだ結果……。
「畜生っ、一度は奴に追いついたんだっ」
 村で襲われた者と同じような傷を負い、手当ても暖の手段も無く動けなくなっていた。
「魔術で可能な処置は施したけど」
 早く暖めないと、手遅れになる。自分ができたのは傷を治療する事だけだから。
 代謝も良くなっただろうから、少しはマシとはいえ。
(全く……この吹雪を吹っ飛ばせればいいんだけどね)
 瘴気で生み出されたならともかく自然現象ならどうにもできぬ。
(何にせよ。此処で使うには物騒過ぎる術式か……メテオストライクは)
 放置していく事もできないし、連れて行くにも帰るにも和奏と共にある精霊の力だけが頼りだ。
 奈津とアヤカシの確保を他の二人に任せ帰還するべきか、決断が迫られる。
 逡巡したが、自分達と彼らの体力の違い。確実を保証できるのは今すぐ戻る事であった。

 『彼女』はまだ奈津を抱えていた。
 急ぐでもなく、追う者の気配を感じ取った様子も無く。ゆるゆると進む。
 あと一息で駆けつけられる距離まで迫り、そこからは『彼女』の歩調に合わせ追う。
 視線は交わせぬが、互いに糸を軽く引き意思を疎通するベルナデットとほとり。
(何処へ向かうのかしら)
(……吹雪から隠れる場所へ入ってくれれば好都合なのだが)
 奈津も今や不安を感じていたが、頼りになるのは抱いている『彼女』。温もりにしがみつき震え。
 『彼女』が雪に埋もれてしまった洞穴を掘り起こそうと奈津を置いて背を向けて離れた瞬間。
 ぐいと糸を強く引き解くベルナデット。雪を蹴り足を取られながらも全力で走る。
 矢の一本を引き抜き、義妹の背を追うほとり。いつでも左右に踏み出して射れるよう心に構え。
 宝珠から紅蓮の燐光が迸り刀身に散る。『彼女』が振り返り立ち上がる。
 ぶつかり合う氷嵐と紅蓮。無数の鋭い破片がベルナデットを覆う。
 猛威を振るっていた風がこの時、途切れた。視界に現れたアヤカシの姿を射抜くほとり。
 位置を変えられたなら、再び吹いた風に掻き消された姿を撃つのは難しかったが。
 たった二人だけでも。『彼女』に打ち勝つには充分であった。
 奈津を抱き上げるベルナデット。何が起きたか今は理解してないようだ。
「……似ても似つかないわ。こんなの」
 込み上げる大きな失望感を感じながら、氷納でなかった事に対する安堵。


「頑張ったなぁ。よう頑張ったなぁ。おっしゃ、ちょっと気ぃ早い赤ちゃんやけど元気な子やで」
 泉華の声に盛んに泣く赤子の声が重なる。
「よしよし、お母ちゃんに早う顔見て貰いたいわなぁ」
 母子共に難を乗り越え、小さいが健康な男の子が新たな村の一員となった。
「伊津さん、かいらしぃ名前付けたってんやろ?早う呼んだりぃ」
 春陽。村に気が早く訪れた春の兆し。後は奈津や村の人達が無事に帰ってくれば……。
 全員が戻ってきた知らせを受けて、ようやく伊津も安堵の笑み。
 春陽村の危機は過ぎ去った。利兵衛もまもなく癒えた身体を自宅に戻し。
 氷納の幻は、やはり幻に過ぎなかった。