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■オープニング本文 ●老臣の決意 北面の都、仁生。 海に面した街に吹く風は、潮の香りが混じっている。 「この風だけは、わしが子供の頃から変わらんのぅ」 白みだした空を見上げて、彼は呟いた。 風は変わらないが、人の身は変わる。 紅顔の美少年で、頭もよく、刀を握らせれば右に出る者がいない。「神童」と呼ばれていた自分も、年を重ねればただの爺。 「若い者達が育って来ておる。わしは‥‥そろそろ引っ込むべきなのかもしれん」 その脳裏に過るのは、敬愛する主君であり、小さな頃からお世話をしてきた若‥‥芹内王の横顔だ。 「もっと、お仕えしたかったが‥‥」 無念。 彼は拳を握り込んだ。 決めた以上は未練がましい思いは断ち切らねばならないと自戒するものの、やり残した事が次々と浮かんでは消えていく。 北面の王として、芹内王には様々な苦労がある。 アヤカシや他国との軋轢、朝廷との関係といった外部の問題だけではなく、北面に住まう貴族達の我儘や士族達の突き上げ、何やら堂々と暗躍(?)している偽士達‥‥と、心休まる時が無い。 ‥‥はずだ。 「くぅぅ、まだ隠居などはしとうない! 死ぬその瞬間まで、若を支え、お守りするのがわしの‥‥」 はたと気付く。 今、自分は何と言いかけたのか。 「わしの夢」 そう言えば、ついうっかりと忘れかけていたが、まだ髪に黒いものが残っていた頃に思い描いた老後の夢があった。 「そうじゃ、若のお世継ぎのお世話をして余生を過ごすのがわしの夢じゃった‥‥」 芹内王に浮いた話がない上に、何度本人に進言しても色よい返事が返って来ず、いつの間にか忘れていた夢。 「じゃが、若にもそろそろお世継ぎの事を真剣に考えて貰わねばっ!」 握り込んだ拳を高く突き挙げて、彼は昇り来る太陽に誓った。 「若には何が何でも、嫁御を迎えて貰う!! この雁茂時成、人生最後にして最大の勝負に出るぞっ!」 北面の王、芹内王の腹心であり、幼い頃から彼の成長を見守って来た雁茂老は、どうやら波風ない平穏な人生を送って来られたようだ。このご時世に羨ましい限りである。 ●嫁探し とは言うものの、芹内王の妻にふさわしい娘を探すのは容易な事ではなかった。 仮にも一国の王である。 その妻には、深い教養と、有事には夫の背を守る気丈さを持っていて貰わなくては困る。これが最低限の基準だと雁茂は考えていた。 「‥‥うーむ」 部下に命じて集めさせた年頃の娘の身上書を床いっぱいに広げて、雁茂は唸った。 良き娘は多い。 これは幸いな事だろう。 だが。 ここに幾つか問題があった。 まず、芹内王の年齢である。 十やそこらの娘を娶った日には、口さがない者達に何と言われるか分からない。 というわけで、十五以下の娘は除外。適齢期の娘達の過半数が消える事になるが仕方がない。 残った娘達はと言えば、既に相手が決まっていたり、嫁いでいたりと、これまた大半が消えてしまう。 更に振り分けられて残ったのは、いわゆる嫁き遅れであったり、何らかの問題を抱える娘達だった。 「‥‥この際、嫁き遅れでも構わんかのぅ‥‥」 芹内王の年齢を考えれば、無理は言えない。 雁茂は妥協する事にした。 数枚の身上書を見比べて、雁茂は更に溜息を吐く。 もう一つの問題。それは娘達の側にあった。 いずれも深窓の令嬢、屋敷の奥で育てられ、会う事が出来る男は家族のみ。中には、宴席で迷った客の姿を見て卒倒するという、男に対して免疫のない娘もいるようだ。 「‥‥嫁き遅れるわけじゃ‥‥」 ぼそりと呟いて、雁茂は何枚かの身上書を除外の箱に投げ入れる。 「有事の際は若の背を守り、子を守り、国を守る気丈な女子となると‥‥む?」 残った身上書に目を通した雁茂の表情が変わる。 こ・れ・だ! 獲物を見つけた鷲の如き眼光で薄い紙を睨みつけたまま哄笑する雁茂の姿を偶然に見た者達は、何も見ていないと自分に言い聞かせ、そっとその場を立ち去ったのであった。 ●噂の尾ひれ 「聞いたか」 人気のない庭の奥で、どこかの茶店で喧騒に紛れて、こそこそと会話を交わす者が増えたのは、それからしばらくしてからのこと。 「聞いた。芹内王の縁談話であろう」 ある者は嬉しげに、またある者は苦々しげに、その話題の主の名を口にする。 「お相手は高遠家の姫、千歳殿らしい。雁茂殿によれば、陰陽師として開拓者ギルドに名を連ね、悩みを持つ者達に救いの手を差し伸べる気丈にして心優しき姫だとか」 そうして、噂は流れ、流れる。 それぞれの思惑を孕みながら、流れは徐々に大きくなり、やがて‥‥。 ●呪いの依頼状 かしゃん。 その話を聞いた時、天護隊の詰め所で、高遠重衡は手にした茶碗を取り落としたという。 彼はそのまま詰め所を出てギルドに駆け込むと、鬼の形相で受付台に依頼状を叩きつけた。 「北面の王、芹内禅之正の噂を集めろ。どんな小さな噂でも構わない。逐一、俺に報告しろ」 天護隊の隊服を着た男が地を這うような声で告げた言葉に、受付嬢と周囲にいた開拓者達は互いに顔を見合わせた。 芹内王の噂と言われても、外に漏れ聞こえて来る話は誰もが知っているようなものばかりで、恐らく、目の前でこめかみに青筋を浮かべた男もそれは承知しているはずだ。 つまり。 「外に聞こえて来る「以外」の噂を集めて来い」 という事か。 なんとなく依頼者の心が透けて見える依頼である。 「俺は、天護隊の詰め所‥‥いや、休暇を取る。ここの近くの旅籠にいるから、何か分かったらすぐに知らせろ」 憤懣やる方なしといった様子の依頼人が、椅子やら柱に八つ当たりしつつ去って行くと、開拓者達は残された依頼状に視線を向けた。 ただの紙のはずなのに、嫌な気配が漂っているような気がする。 呪いの依頼状、と誰かが呟いたと同時に、開拓者達は、ずざっと一斉に後退ったのであった。 ●密談 仁生に芹内王の縁談の噂が流れる数日前のこと。 蓮池のほとりで、密やかに言葉を交わす男女の姿があった。 「このような場所にお呼び立てして申し訳ありません」 実直な男の謝罪に、檜扇に顔を隠した女が小さく笑う。 「気にされますな」 背後に控える女房に、男が視線を向けた事を察して女は音を立てて扇を畳む。 突如露わになった女の素顔に狼狽する男を、女は真っ直ぐに見据え、にこやかに笑んだ。 「あれは、妾の耳目。そして、文の遣り取りも家同士の約束も交わさず、この場に妾をお呼びになった以上、貴方様は共犯者でございます」 「共犯者‥‥」 思ってもいなかった言葉に、男は目を見開いた。 まるで、悪い事をしているようではないか‥‥と言いかけて、思い直す。 確かに、未婚の姫と人気ない朝方に密会するのは褒められた事ではない。 「それで、共犯者に、一体、何のお話でございましょう」 池に浮かぶ蓮の花がゆるりと開く。風に紛れて届く優しい香りの中、男は真剣な表情で口を開いた。 |
■参加者一覧
野乃宮・涼霞(ia0176)
23歳・女・巫
香椎 梓(ia0253)
19歳・男・志
柚乃(ia0638)
17歳・女・巫
橘 天花(ia1196)
15歳・女・巫
羅轟(ia1687)
25歳・男・サ
楊・夏蝶(ia5341)
18歳・女・シ
煌夜(ia9065)
24歳・女・志
ケロリーナ(ib2037)
15歳・女・巫 |
■リプレイ本文 ●襲撃? その男を見た時、何事が起きても動じず、いつもニコニコ笑顔を絶やさぬ商売人の仮面を被ったシノビの男が絶句した。 「‥‥聞きたい‥‥事がある‥‥」 街中に熊が、と外から聞こえて来る声と、逃げ出す客の悲鳴を聞きつつ、三笠屋の主人は額に手を当て、無言で番頭を手招く。腹心たる男は、それだけで全てを察したようだ。のそりと店先に現われた熊の肩をぽむと叩いて、奥の部屋を示す。 数刻後、熊を捕獲する為に店に乗りこんで来た完全武装な街の人々は、いつもと変わらぬ様子で自分達を迎え入れた三笠屋の主人に拍子抜けする事になるのであった。 ●面会 「はーれむと言うのは、男の人の夢なのですか?」 唐突に尋ねられて、香椎梓(ia0253)は一瞬だけ言葉に詰まった。珍しく困惑した様子で問うて来た少女、柚乃(ia0638)を見下ろせば、真摯な視線とぶつかる。 「そう‥‥ですね。そういう環境を理想とする男は確かにいるかもしれません」 はてて? 首を傾げる柚乃には、まだ早い話題かもしれない。 目元を和らげて、梓は口を開く。 「例えば、色んな種類のお菓子があるとします」 こくん。 少女の細い首が頷きを返した。 「好きなお菓子を選んでいいと言われて、1つだけ、自分の一番好きなお菓子を選ぶ人と、好きなお菓子は全部欲しいと思う人がいる‥‥というと分かりますか?」 「‥‥なんとなく?」 心許ない返事だが、深く説明すると、今頃、依頼人からの防波堤となっている野乃宮涼霞(ia0176)に何と言われるやら。 「好きなものは好きなんだから、全部貰ってもいいじゃないかと思う人だと、そういう環境は夢なのかもしれません」 「‥‥さっきのあんたと女の人達は「はーれむ」状態とはどう違うの?」 突然に聞こえて来た声に、梓が絶句する。 さっきの、というのは、行儀見習いとして城に潜入を果たした柚乃が女中部屋で見た「女の人に囲まれた梓」のことだ。 「伊邪那!」 ひょっこりと顔を出した管狐の伊邪那がじと目で梓を睨む。こちらは主と違って、多少の知識を持っているようだ。こほんと軽く咳払って、梓は笑顔に戻る。 「必要な事でしたから。さて、そろそろ雁茂様がお見えになられる頃ですよ」 「話を逸らしたわね、あからさまに」 伊邪那の追及は止まらない。 しかし、梓とて情報収集の為に城勤めの女を十把一絡げで誑かしました‥‥等と、言っていい相手とそうでない相手ぐらい分かっている。ここは誤魔化し続けるしかない。 「ふふふ。そんなに気になるんですか? そういえば伊邪那も女のコでしたね。心配しなくとも大丈夫ですよ」 「ちょ、ちょっと!? い、いきなり何を言い出すのよ! 確かに、あたしはイケメンは好きだけど‥‥」 勝った‥‥。 心の中でその一言を噛み締めて、梓は茶を啜った。 一方、伊邪那はと言えば、あっという間に姿を消している。 「???」 2人の遣り取りに、更に首を傾げるしかない柚乃の前に、梓は自分の菓子を滑らせた。 「深く考えなくても大丈夫ですよ。それよりも、雁茂様が来られる前に、私が得た情報を簡単にお話しします」 梓の言わんとする事を察して、柚乃は菓子に手を伸ばした。 「芹内王の縁談の噂を、城の者達は公然の秘密扱いしています。芹内王には今まで浮いた話ひとつなかったらしく」 少しだけ近づいた距離からの声が一層、小さくなる。 「想い人がいらっしゃるのか、男色を好むのかと探りを入れてみた所、どうやら職務優先で女性と知り合う機会がなかったからのようです。正直、草食過ぎるので、一番倍率が低かった予想なのですが」 「だんしょく? そうしょく?」 「はい、そこは深く考えないように。‥‥と、お見えになられたようですよ」 促されて、柚乃は姿勢を正した。梓も背筋を伸ばし、表情を改める。 障子を開けて入って来たのは、長く芹内王の側に仕えている雁茂時成ー女中達の話によれば「がんもどき」と呼ばれているーという老臣。 「お忙しい所に申し訳ありません」 柚乃の希望をくみ、女中達の伝手で雁茂との面会を取り付けた梓は、儀礼的な挨拶の後にさりげなく王の縁談の噂を話の中に混ぜ込んだ。 反応を見逃さぬようにと、大きな目をいっぱいに開いて凝視する柚乃の目前、雁茂はさっと表情を変えたあと、何食わぬ顔に戻って豪快に噂を笑い飛ばしたのであった。 ●噂の噂 あ、と小さく呟いて、橘天花(ia1196)は笑顔になった。 それまでにらめっこしていた懐紙を懐に仕舞うと、人混みを上手に避けて、小走りにその人の元に駆け寄る。 「ティエさん!」 その声に、髪を黒く染め、地味な服で周囲の女の子達に溶け込んでいた楊夏蝶(ia5341)が顔を上げた。変装しているとは言え、周囲はごく一般のお嬢さん達ばかり。夏蝶も天花に笑顔を向けた。 「色々話を聞かせてくれてありがとう。私はもう行くね」 「うん。じゃあね!」 年齢も様々な女性達は昔からの友人のように夏蝶に手を振ると、すぐに他愛のないお喋りを再開する。彼女達の話はとりとめないけれど、その中に、ごくたまに重要な情報が含まれている事があるから、馬鹿には出来ない。 「収獲はありましたか?」 彼女達から離れた途端、聞いて来る天花に、夏蝶はうーんと軽く頬を掻く。 「収獲ねぇ。あったような、無かったような‥‥」 玉石混淆の膨大なお喋りの中で、芹内王の縁談の噂は確かに出た。 けれども、それは「これまで独身を通していた芹内王が、突然、色好みに方針変更した」とか「年若い娘と見ればお城に連れていかれる」といった怪しいものから、「側近が候補を絞り込んでいる」「親達が自分の娘を芹内王の妻にしようと奔走している」という、出まかせとは判断しにくいものまで様々だ。 「噂の選別してみないとねー。本当はお女中を相手に小物を売りに行こうと思ったんだけど‥‥」 商人の利権が絡んだ縄張り争いは夏蝶の想像以上だった。下手に警戒されて情報を聞き出せなくなってもまずいので、すぐに小物を選びに来ている女の子達に紛れたのだが。 「‥‥天花ちゃん、どうかしたの?」 懐から取り出した懐紙をじぃと見つめる天花に、夏蝶が声をかける。 「やっと分かりました」 芹内王の側近達から聞き込んで来た話がびっしりと書き込まれている懐紙を夏蝶に見せながら、天花は続けた。 「ばってんが付いている方々には門前払いされたのですが、その時に「戯言に付き合う暇はない」みたいな事を言われたんです。あと、三角の印は「いくら出す?」とおっしゃった方々です」 「あー‥‥」 夏蝶は天を仰いだ。 自分と天花の話を突き合わせて考えると、少なくとも1つの噂が真実だと知れる。 「噂の真偽も確かめずに、踊らされている人達が多いって事ね」 困った連中だ。 「大事な妹の縁談にブチ切れた妹思い(婉曲表現)の兄もいれば、娘を王の妻にする為に画策している親もいる。考えてみれば、ハタ迷惑な話よね」 しみじみと呟いた夏蝶に、天花はただ笑うしか出来なかった‥‥。 ●ろまんす 依頼人である重衡の名を使って、千歳と面会の約束を取り付けた煌夜(ia9065)を出迎えたのはケロリーナ(ib2037)だった。 「あら?」 いつものカエルを抱えたまま、スカートの裾を摘まんで優雅に一礼したケロリーナは、煌夜の手を掴むと軽やかに駆け出す。屋敷の女房達は慣れっこになっているのか、微笑ましそうに笑って彼女達を見送る。 「どうやってここに?」 「重衡おじさまにお願いして、千歳おねえさまとお茶会なのです〜」 思ってもいなかった言葉に、煌夜は思わず足を止めた。その反動でつんのめったケロリーナが不思議そうに振り返る。 「煌夜おねえさま?」 「驚いたわ‥‥」 「お茶会がですか?」 「あの重衡様を「おじさま」と呼んで無事だったあなたが、よ」 きょとんと瞬きを繰り返すケロリーナに、煌夜は瞠目した。 「ケロリーナさん‥‥恐ろしい子‥‥」 「涼霞おねえさまにも、そう言われましたの」 心底不思議そうなケロリーナに、煌夜は悄然と肩を落とした。 「どうなさいましたの? 煌夜おねえさま?」 「‥‥いえ、ちょっと疲れただけよ。ところで、千歳様のご様子はいかが?」 にっこり笑ったケロリーナの笑顔が、その問いに雄弁に応えていた。 「噂についての話はしたの?」 「それはまだですの。でも、ケロリーナ、ちゃんと願いが叶うって評判のお社に願掛けしたので大丈夫ですの☆」 「そ、そう‥‥」 そんな話をしている間に、千歳とケロリーナがお茶会をしているという部屋に着いた。馥郁とした花の香りと深みのある茶の香りと上機嫌の千歳に迎え入れられて、煌夜は用意されていた席に座る。 「お久しぶりです。千歳様。‥‥私が来た理由はもう疾っくにご存じでしょうけれど‥‥」 扇で隠した口元からくすりと笑い声が漏れる。 やはりお見通しのようだ。ならば、回りくどい手を使う必要などない。 「ずはりお尋ねします。芹内王と」 「ちゅ〜したの〜?」 けほ。 横合いから突然質問を奪われた煌夜が噎せる。 「お姫様だっこは〜?」 「け‥‥ケロリーナさん?」 慌ててケロリーナの口を押さえると、煌夜は千歳を窺い見た。彼女も驚いたようだが、それでも、どこか楽しげだ。 ー縁談の噂は本当って事なのかしら? お輿入れの日を楽しみにしている乙女的な雰囲気ではないけれど‥‥。 「千歳おねえさま、楽しそうですの〜。やっぱり、芹内王おじさまとロマンスが!?」 目を輝かせて千歳に詰め寄るケロリーナのドレスの裾を引っ張りつつ、注意深く千歳の様子を探る。 ー王に嫁ぐ気が無ければ、その気がない事をそれとなく仄めかすと思うのよね。自分からじゃなく、周りから広がるように手を打つでしょうし。 けど、と煌夜は依頼を受けた後、梓が呟いていた言葉を思い出す。 ー縁談の噂というものは、かように広まってしまうものなのでしょうか。兄上様が、家からではなく噂で縁談の話を聞いたということは‥‥まだ正式な話でない可能性が? 梓が疑問を持つのも分かる気がする。 ケロリーナの追及に千歳は肝心な事を何ひとつ言わずにするりと躱している。 ー噂の事を知っていて、それを否定しない。でも、あれだけ大好きな兄上には何も話していない‥‥って、どういう事なのかしら? 分からない。 眉を寄せた煌夜と、ふと顔を上げた千歳の視線が合う。どこか面白がっているような色を湛えた瞳に、煌夜は溜息を吐いた。 やっぱり、そう簡単に手の内を見せてくれそうにない。 「重衡様に何て報告しようかしら」 収獲は何もなし、だったら流石に怖い。 そんな事を考えながら、煌夜は談笑し合うケロリーナと千歳の姿を眺めて再び深く息を吐きだした。 ●噂、そして 外から悲鳴が聞こえた。 叫びに混じる「熊だ!」という声に、涼霞は頬を引き攣らせた。 今にも、通りすがりの他人に八つ当たりをしかねない重衡を野放しには出来ず、涼霞は彼の宿に留まった。そのうち、仲間達も戻って来るだろう。 今も1人、戻って来たようだ。 ただ、この部屋に辿り着くのがいつになるかは不明だが。 ふぅと息を吐いて、涼霞は部屋の中に視線を戻した。 重衡の機嫌は降下の一途を辿っている。酒を呷り続ける彼に、涼霞もほとほと手を焼いているのが現状だ。 ー千歳様のご縁談、気になって当然ですけれど‥‥困った方。 徳利が空になった事に気付いて、重衡は手を伸ばす。 彼が求める新しい徳利を取り上げると、涼霞は笑んでみせた。 「そろそろ、お控え下さいませ」 「‥‥‥‥黙れ」 涼霞の持つ徳利に、なおも手を伸ばす重衡。 「まあ。随分と御乱心なのですね、重衡様」 「なんだと?」 ぎろりと睨みつけて来る男に動じる事なく、涼霞は宿の女中を呼ぶと徳利を全て片付けるよう頼んだ。 「勝手な事をするな」 凄みを増した重衡の視線。けれども、涼霞は綺麗に無視をして部屋の中を片付ける。 「おい、女。聞いているのか」 「相変わらず名前を覚えていらっしゃらないご様子ですね」 その程度の言葉では、嫌味にもならなかったらしい。重衡は涼霞の言葉を鼻で笑い飛ばした。 不穏な空気を感じてか、女中達は片付けを済ませるとそそくさと部屋を出て行く。閉められた障子を見るともなしに見遣って、涼霞は直接的な話題を振った。 「千歳様のご縁談、それ程心配なさる事ですか? 縁談の話が来ない方が心配ではありませんの?」 千歳は、世間的には立派な「嫁き遅れ」である。 かなり年が離れているとは言え、一国の王の奥方にという話は、高遠家にとっても、千歳にとっても悪い話ではないはずだ。 「‥‥おい、酒を持って来い!」 「必要ありませんから!」 廊下に向かって声を張り上げた重衡の言葉を打ち消せば、ちっと派手な舌打ちが聞こえて来る。 「千歳様は、常日頃から「兄上より優れた男はいない」と豪語されているお方。今の重衡様のお姿をご覧になられたら失望されるのではありませんか?」 少し口調がきつくなるのは仕方がない。 目を吊り上げた涼霞に、重衡は黙って腕を伸ばして来た。 「重衡様?」 腕をひかれるがままに座ると、ごろりと重衡が横になった。頭を涼霞の膝の上に乗せて、そのまま目を閉じる。 「し、重衡様っ!?」 「うるさい。酒を飲むなと言うのであれば、後は寝るぐらいしかやる事はないだろうが」 それでも、いくらなんでも人の足を枕代わりにするのは止めて欲しい。 突然の出来事に口をパクパクさせるしか出来ない涼霞の耳に、低い呟きが届く。 「‥‥皆、俺を置いて行く。兄上も、誠士郎も。このうえ、千歳までいなくなったら‥‥」 ー重衡様‥‥? 酔っているが故に口をついた弱音だろうか。 重衡の顔を覗き込んだその時に。 「‥‥邪魔‥‥した‥‥か?」 からりと障子を開いて、熊が‥‥いや、羅轟(ia1687)が硬直する。 「えっ? あ、いえ、これはその‥‥!」 膝の上から重衡の頭を落とすと、涼霞は何でもないと首を振った。 「あ、案外、早かったのですね、ではなくて、何か情報はあったのですか?」 微かに赤く染まった頬を冷ますように、ぱたぱたと手を動かす涼霞に頷いて、羅轟は口を開いた。 「楼港の‥‥三笠屋が‥‥仁生で‥‥嫁入り道具の注文が‥‥増えていると言っていた‥‥」 「嫁入り道具?」 「芹内王の所に‥‥嫁に行く娘の為に‥‥豪華なものを‥‥と」 ちゃき、と背後で鯉口を切る音がする。涼霞が振り返るより早く、羅轟が重衡の手を押さえる。 「他の皆の‥‥話‥‥。娘を‥‥芹内王に嫁がせたい親が‥‥多い‥‥らしい。それから‥‥縁談の噂、雁茂殿も‥‥困惑していた‥‥との事」 「どういう事ですの?」 首を振って、羅轟は重衡に向き直った。 「よく分からない‥‥けど、娘を嫁がせたい親‥‥名前が出ている千歳殿‥‥目障りに思うやも‥‥」 千歳に危険が迫る可能性を示唆した羅轟に、重衡は表情を消したのだった。 |