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■オープニング本文 ●魔の森 苦しい。 このまま心の臓が止まってしまいそうな程に胸が苦しい。 それでも、走るのを止める事は出来なかった。 限界を訴える心の臓も木の枝や生い茂った雑草が肌を傷つける痛みも構っている余裕はない。時折、背後を振り返りながら、ひた走る。あの恐ろしいものがすぐ後ろまで迫っているような気がする。 ー誰か、助けて‥‥! 助けを求める叫びが声になっていたのかどうかすら分からない。 自分の荒い呼吸音ばかりがうるさく響いている。 「あっ!」 何かに足を取られて、体勢を崩した。突然の事で踏み止まる事も出来ないまま、地面に倒れ込む。強かに打ち付けた膝が痛んだけれど、今はそれどころではない。立ち上がろうとして、彼女はひゅっと息を呑んだ。 取られた足に、何かが巻き付いている。 ぬるりとした何かが蠢く感触に背筋に悪寒が走った。 「い‥‥嫌っ!」 巻き付いているそれを外そうと手を伸ばして気づく。 おぞましい姿形をしたモノ達が、彼女のまわりを十重二十重に取り囲んでいることに。 ガタガタと体が震えだす。 あれほど苦しかった呼吸や痛みよりも強く感じるのは恐怖、絶望。 「嫌‥‥来ないで‥‥来ないで!」 足に巻き付く何かが、彼女の体を引き寄せようとする。 引き寄せられたら、それで終わりだ。本能がそう告げている。 近くの木にしがみついて、彼女は狂ったように首を振った。 「やだやだやだやだっ!! 誰か助けて!!」 魔の森に浸蝕されかけた森に近づく者などいない。 助けなど来やしない。 頭のどこかで冷静に告げる声が聞こえたけれど、それでも助けを求めずにはいられなかった。 「やだっ! まだ死にたくないっ!」 「‥‥騒がしい」 周囲に満ちていた腐臭と、人ならざるもの達の不気味な唸り、そして、彼女の泣き叫ぶ声をも一蹴したのは涼やかな声。 動きを止めたモノ達に、彼女も恐る恐る顔を上げる。 しがみついていた木の上、優雅に体を横たえた男が感情の見えない瞳で彼女らを見下ろしていた。 「あ‥‥」 助けを求めようとしかけて、彼女は身を震わせた。 しなやかな銀色の髪が肩から流れ落ちる。それは、場違いな程に美しい光景だった。 「醜い‥‥‥‥」 薄い唇から呟きが漏れると同時に、彼女を捉えようとしていたモノ達が掻き消える。 「え? ええっ?」 一体何が起きたというのだろうか。 頬を掠めたのは、ふわりと舞った男の銀糸。いつ移動したのか、男は地面に降り立っていた。 あれほどひしめいていた異形は跡形もなく消えてしまっている。 「あ‥‥あの、ありがとうございました‥‥」 礼を述べる彼女を一瞥すると、男はわずかに口元を引き上げた。 その笑みが何を意味するものだったのか、彼女に分かろうはずもなかった。 ●再会を願って 「というわけなんです」 開拓者ギルドに現れた青年は、一連の事情を語り終えると項垂れた。 東房の、冥越との国境にほど近い村からやって来た彼は、同じ村に住む幼なじみの代理としてギルドに依頼を提出したのだが、その内容というのが、 「‥‥魔の森の中で出会った命の恩人にお礼を言いたい女性の護衛。‥‥この女性は正気か?」 呆れを含んだ開拓者の言葉に、青年はますます身を縮込ませる。 「こ、これでも‥‥妥協させたのです。香住は奴を探す為、何度も1人で魔の森に入ろうとしました。その度に、僕が止めて‥‥」 「あなたの村では、魔の森に対する認識は軽いのかしら?」 黙って依頼状と依頼人の話を聞いていた女開拓者が首を傾げる。 「いえ。魔の森は恐ろしいもの。立ち入れば、生きて帰れる保証はないと子供でも知っています。ただ、村の近くに迫る魔の森は、昔は本当に豊かな森でした。鳥や小さな動物達が暮らし、清らかな泉が湧いて、茸や薬草を採りに行ったり、家族で森の中を散策したり‥‥。村の人達にとってはとても思い出深い場所でした」 「その森が、魔の森に飲み込まれてしまったのね」 はい、と再び項垂れた青年に、開拓者達は顔を見合わせた。 「‥‥紫燕は、村で病人が出た時の為に、薬草を探しに行ったんです。少しぐらい残っているかもしれないって。そこでアヤカシに襲われて、その男に助けられたと言うんです。村に戻ってからは、口を開けばそいつの事ばかり‥‥。でも、僕は心配で」 「心配?」 「‥‥魔の森に人が住めるものなのでしょうか?」 ずばりと尋ねられて、開拓者達は咄嗟に答えに窮する。 絶対に無理とは言わないが、住むには適していない場所だ。木の上で優雅に昼寝しているような者がいるとは思えない。 「だから、紫燕の依頼に、僕の依頼を追加させて下さい。紫燕と魔の森に入り、彼女を守って下さい。そして、彼女の気が済むまで奴を探させてやって下さい。でも、奴には会わせないで欲しい。なんだか分からないんですけど、よくない気がするんです」 そう一息に言い切ると、青年は深々と頭を下げたのだった。 |
■参加者一覧
橘 天花(ia1196)
15歳・女・巫
弖志峰 直羽(ia1884)
23歳・男・巫
和奏(ia8807)
17歳・男・志
レティシア(ib4475)
13歳・女・吟
リーゼロッテ・ヴェルト(ib5386)
14歳・女・陰
御調 昴(ib5479)
16歳・男・砂
マハ シャンク(ib6351)
10歳・女・泰
九蔵 恵緒(ib6416)
20歳・女・志 |
■リプレイ本文 ●想い憑かれ 依頼人は、粗末な小屋の中にいた。 窓際に置かれた寝台の上で、はらはらと涙を流している女性に、彼らは一様に言葉を失う。 「紫燕さんはご病気なのですか?」 心配そうに問うた橘天花(ia1196)に、彼らをここまで案内して来た紫燕の幼馴染‥‥藍人は苦々しげな表情で首を横に振った。 「病じゃない。‥‥紫燕、お前、ちゃんと食うって約束、守らなかったな?」 「藍人‥‥だって」 「だって、じゃない。お前が約束を破ったんなら、開拓者には帰って貰う」 紫燕と藍人のやり取りに仰天したのは、天花だけではない。 「ちょ、ちょっと待って。俺達だっていきなり依頼破棄されたら困るって言うか‥‥」 慌てて2人の間に入った弖志峰直羽(ia1884)に、藍人は決まりの悪そうな顔でそっぽを向く。 「俺は約束を守って代わりに依頼を出した。けど、紫燕は守らなかった。依頼料は払うから、あんた達は」 「いやいや、だからね」 冥越との境まで出向いて、依頼破棄されたらたまらない。金の問題でもないのだ。 「一応、食べようとしたのよ? でも‥‥」 「でも、じゃない。食べてないんだから、約束を破った事に変わりない」 わー。 どーしよー。 自分を挟んで口論を始めた2人に、直羽は途方に暮れた。痴話喧嘩の真っ只中に取り残されては、居心地が悪い事このうえない。 「あー‥‥、ねぇ、ちょっといいかしら?」 仲間達に向けられた、直羽の瞳うるうる助けて光線に、リーゼロッテ・ヴェルト(ib5386)は額を押さえながら藍人の肩を叩いた。直羽の救出はともかく、このまま痴話喧嘩を続けられたら困るのはリーゼロッテ達も同じだ。 「あなた達の話は、どうも平行線っぽいし、ここは私達に任せて貰えない?」 「何を?」 目が据わった藍人の襟首を掴んで、リーゼロッテは後ろへと押し遣った。細身とはいえ、リーゼロッテも開拓者だ。油断をしていた一般人の青年は呆気なく体勢を崩し、たたらを踏んで背後へと倒れ込む。 「え? え? わあああ?」 運悪く、その場にいた御調昴(ib5479)を巻き込んだ藍人に、九蔵恵緒(ib6416)がうふふと笑いながら片目を瞑ってみせる。 「大丈夫。悪いようにはしないから、心配しないのよ? ほらほら、あなた達も。ここからは女同士の秘密なの。出て出て」 藍人に潰されてもがく昴を引っ張り出した和奏(ia8807)は、軽く首を傾げて考え込んだ後、首肯した。 「分かりました。自分達は彼の家にお邪魔しますから、後はよろしくお願いします」 勝手に決めるなと藍人が騒ぎ出す前に、和奏は彼の腕を掴んで外へと引っ張り出す。その後を、昴が追いかけていった。 彼らに任せておけば、藍人は大丈夫だろう。 そんな事を考えながら、リーゼロッテは直羽を見る。 「‥‥」 「‥‥」 彼女らの視線を受けて、直羽ははたと我に返った。案の定、恵緒がねこじゃらしを見つけた猫のような表情で直羽の元にすり寄って来る。 「んん〜? どうしたの〜? 直羽ちゃん? お姉さん達と一緒にひ・み・つのお話したい〜?」 つんつんと頬を突っつかれて、直羽はぶんぶんと首を振った。 「いやいやいや、そーゆーわけじゃないし。てゆーか、俺の方がおにーさんだよ、恵緒ちゃん」 笑いを堪える恵緒やリーゼロッテに、あははと引き攣った笑いを浮かべ、さりげなく出口へ足を向ける。と、それまで一言も発せずに成り行きを見守っていたマハ シャンク(ib6351)と目が合った。 「‥‥御苦労」 幼い外見のマハに労われ、あまりの居たたまれなさに直羽は脱兎の如く駆け去って行く。 「はて? 何か気に障ったのであろうか?」 「直羽さん‥‥」 その後ろ姿を見送って、天花はそっと目頭を押さえるのだった。 ●魔の森 村で借りた昔の地図を手掛かりに、レティシア(ib4475)は先行班の先頭に立ち、魔の森を進んでいた。 「昔はとても豊かな森だったようです」 今は、その名残すらも見出せないが。 「もう、この森に季節が巡る事はないんですね‥‥」 少しでも情報を、と地図に色々な印を書き込むレティシアはいつになく沈んでいるように見える。それも無理のない事かもしれないと、マハは周囲を見回して思う。 「村の人間が、再びこの森に入る事がないようにしておくべきだな。面倒事を増やされるのはごめんだ」 「薬草とかも、この様子じゃ見つからないですよね」 同意した後、昴は思い出したように語り出した。 「紫燕さんは、この辺りで薬師を生業にしていた香住一族の人なんだそうです。でも、今では紫燕さん1人になってしまったって‥‥」 話ながら、耳と尻尾が垂れてしまった昴の頭を撫でると、和奏が話を継ぐ。 「術を掛けられている事も考慮して、直羽さんが解術の法を試みてくれたのですが」 「掛けられてなかった、と」 行く手を塞ぐ不気味な蔦を、村で借りた鉈で断ち切って、レティシアは息を吐いた。 「だとしたら、紫燕さんを突き動かしている力は何でしょうね」 「‥‥私には理解不能だ」 眉を寄せたマハに、昴も頷いた。 「危ない所を助けられた‥‥それも、死ぬかもしれない所を、という事で感謝の念を抱くのはおかしくないですけど、それでも、藍人さんや村の人の言葉も耳に入らない、食べ物も喉を通らないっていうのは、なんだか変な気がします」 全ての鍵は、紫燕を助けたという男が握っている。 「尋ね人さんは何者で、何の為に紫燕さんを助けたのか‥‥というのが、重要になって来ると思います。もしも、尋ね人さんがアヤカシで、悪意があって紫燕さんを助けたとすると厄介ですよね」 その可能性は高い。和奏の懸念に、仲間達も黙り込んだ。 先行班に沈黙が落ちた頃、彼らから少し離れて紫燕を護衛する者達は、別の意味で言葉を失っていた。 「紫燕ちゃん、大丈夫よ‥‥私が一晩で忘れさせてあげるわ」 何が? 何を? どうやって? 直羽とリーゼロッテの脳裏に同じ言葉が駆け巡る。 恵緒が放った一言に、彼らの思考は停止寸前であった。 今の状況では、彼女が敵ではない事を幸いだったと思わなければならないだろう。 「怖い事とか、嫌な事を一晩で忘れさせる事が出来るんですか? それは凄いです! 恵緒さん、今度、私にも遣り方を教えて下さい!」 怖いもの知らずの天花が、やや興奮気味に「凄い技」の伝授を希望する。それでも紫燕と繋いだ手を離さないあたり、状況と己の使命は忘れていない。 「ダメ。天花ちゃんにはまだ早すぎる。ダメ。大事なことだから2度言いました」 そんな天花の希望を一刀両断する直羽に不満の声があがる。 天花と恵緒からだ。 「ちょっと、私の事、どんな目で見てるわけ?」 「直羽さん、ひどいです」 女性2人に詰め寄られて、直羽の愛想笑いも強張る。 「でも、アヤカシの1匹も見かけないなんて、おかしいわね」 貧乏くじは直羽に任せたとばかりに無視を決め込んだリーゼロッテが、疑問を口にして考え込む。 先に行った仲間達も、アヤカシと遭遇した様子もない。 あ、と天花が声を上げる。 「濃い瘴気は沢山凝ってます。でも、襲ってくる気配はありません」 魔の森に入って、何度か瘴索結界を試したらしい。 「襲って来ないのは、私達の数が多いから‥‥違うわね。数で言えば、奴らの方が圧倒的に多いはずだもの」 天花に目を向けると、はっきりと頷いた。 「私達が開拓者と知って、手出しを控えている‥‥のも無さそうだし」 「もう一度、調べてみます」 天花が周囲の瘴気を探る。集中している彼女に代わり、青ざめた紫燕の顔を覗きこんだ恵緒が眉を寄せる。 「紫燕ちゃん、少し休む?」 それでも、紫燕は首を縦には振らない。 「少しでも早く、あの方にお会いしたい‥‥」 「あの方、ね」 恵緒はリーゼロッテと顔を見合わせた。 「‥‥この森って、どれくらいの大きさなのかしら」 不意に話題を変えた恵緒に、紫燕が顔を上げる。 「ここは東房でしょ? 冥越との境は‥‥まだ遠い?」 「いえ、森自体が境のようなものでしたから‥‥。ただ、魔の森になって、境があやふやになってしまっているんです」 そっか、と恵緒は周囲を見回した。 「久しぶりの‥‥いえ、初めての故郷か‥‥案外、何も感じない物ね」 「え?」 驚いた顔を見せる紫燕に肩を竦めてみせる。 冥越は、恵緒の瞼の故郷だ。郷愁を感じられなくても仕方がないと恵緒は自嘲した。自分の故郷だった冥越は、こんな禍々しい植物やアヤカシに覆われた森ではなく、四季の実りを抱いた大地のはずだから。 それでも、吐息が漏れる。 失望だろうか、それとも憤り? 自分の気持ちに名をつける暇もなかった。周囲の気配を探っていた天花が緊迫を孕んだ声を上げたのだ。 「気をつけて下さい! こ、怖いぐらいに大きな瘴気の塊が急に‥‥!」 その声に身構えるよりも早く、先行していた仲間の戦いが始まった。迂回の指示を出そうとしたレティシアにアヤカシが襲い掛り、和奏の鬼神丸がそれを斬り捨てる。 「待って下さい!」 アヤカシの襲撃を知り、駆け出そうとした紫燕の腰に抱き付いたのは、天花だ。 「危ないですから、紫燕さんはここにいて下さい!」 「でも、でも、あのお方が!」 「大丈夫、大丈夫。キミの探し人はまだ現れていないから」 天花を振りほどこうとする紫燕に、直羽はのんびりとした声で諭す。けれど、その内心は声ほどに穏やかではなかった。天花が感じ取った「怖いぐらいに大きな瘴気」が、仲間達を襲っているアヤカシとは思えない。 もしかすると、今、この場にソレが現れてもおかしくはないのだ。 直羽と同様に、リーゼロッテと恵緒もいつでも戦えるよう、それぞれの得物に手を当てている。 「さて、出て来るのは鬼か蛇か‥‥」 呟いた直羽の額から伝った汗に気付く者は誰もいなかった。 ●魔性 「なんなんですか、この雑魚!」 羽のある魚に似たアヤカシを撃ち落として、昴は毒づいた。 量ばかりで手応えがない。弱いと言っても、雲霞のごとく襲い掛って来られては堪らない。 「我々を疲れさせる手か。姑息だな」 「‥‥と言うマハさんが、なんだか楽してるように見えるのは僕の気のせいでしょうか」 「そうか?」 するりとマハが躱したアヤカシを和奏の刀が消し去るのを見て、昴の疑問はますます大きく膨れ上がった。 「ダメですよ、昴さん。集中、集中」 レティシアが奏でる「騎士の魂」を受けて、昴は再び銃を構えた。射程に入ったアヤカシを的確に射抜いていく昴に、マハが感嘆の声をあげる。 「ほう。なかなかの腕だな」 「だからね、マハさん、〜っ!?」 振り向きざま、昴は宙に向けて銃を撃った。 放たれた弾丸は、何もいない虚空に吸い込まれ、どこかに消える。 「感じましたか!?」 「うむ。これらの雑魚とは違うようだが」 さらり、と葉ずれの音とは違った幽き衣擦れの音が彼らの耳に届いた。 その場に溢れる雑多な音、大地を踏み荒らす乱れた足音、銃声やアヤカシの断末魔‥‥そんな騒音の中にあっても、静かに鮮やかに響く。 「‥‥上だ」 押し殺したマハの声。 アヤカシを倒しながら、彼らはその声に導かれるように視線を上げた。 「!!!」 レティシアが息を呑み、和奏が言葉を失う。 木の枝に腰掛け、戦闘を見下ろす男の姿に、レティシアは用意していた言葉も出てこない。 「綺麗‥‥」 不気味な葉を広げる木々の隙間から差し込む太陽の光に、長い銀の髪が輝き、男の周囲を光の膜が覆っているかように錯覚する。月の光に属する精霊が具現化したならば、このような姿ではないだろうか。 麻痺した頭の片隅で、レティシアはそんな事を考えた。 「おぬし、惑わされるでない!」 咄嗟に爪先で地面を抉り、そのまま蹴りあげる。しかし、それは周囲に散っただけで何も起こらない。 「糸を使っているわけではないのか」 ふむ、と考え込んだマハに、アヤカシが一斉に集中攻撃を仕掛けて来た。怒り狂ったような攻撃に、さしもの開拓者達も反応が遅れる。 「そう好きにはさせないわよ!」 するすると伸びて来た蔦が、マハへと群がったアヤカシの動きを封じ込めた。 続けて、目を焼く閃光が走り、周囲のアヤカシを一掃する。 「紫燕、さあ、夢から覚める時間よ。アレ、素敵な王子様に見えるかしら?」 リーゼロッテの鋭い声に、直羽と天花に守られた紫燕がぴくりと体を震わせる。 無数のアヤカシ達が取り巻く木の上、うっすらと口元に笑みを浮かべた男の姿は美しかった。それが魔的な美しさである事は、紫燕にも分かる。分かるけれど、頭と心は別物だった。 「あ‥‥あの、私」 「紫燕ちゃんっ」 恵緒の発した警告に、男に向かって足を踏み出しかけた紫燕が立ち止まる。と、同時にその場に崩れ落ちた。紫燕の体を抱き止めたのは直羽。抱えられた彼女の顔にかかる髪を払って、リーゼロッテは「ごめんね」と小さく謝る。彼女を眠りの縁へと導いたのは、リーゼロッテの唱えたアムルリープだ。 「さて、藍人さんの依頼は果たせませんでしたが‥‥、あなたが危険である事は確認出来ました」 紫燕を守る者達が後方へと下がったのを確認して、和奏が木の上の男へと話しかけた。 昴はレティシアを背に庇い、いつでも銃を撃てるように引き金に指を当てている。 今は止んでいるアヤカシの攻撃が再び始まるのも時間の問題だ。 アヤカシ達を退ける事は可能だろう。けれど、と昴は男を窺う。 全身の毛が逆立っているのではないかと思うくらい、本能が危険を叫んでいる。 傍らに立つマハも、常にない程緊張している様子だ。 ーあいつ、強い‥‥。きっと、これまで僕達が戦って来たアヤカシの中でも‥‥かなり‥‥。 汗で滑りそうになった銃を昴が握り直した時、さわりと木の枝が揺れた。 軽い揺れと葉ずれの音が森の中に溶けて消えていくように、男の姿はいつの間にか木の上から消えていた。 「どこへ行った!?」 時を同じくして、あれほどに集っていたアヤカシ達も姿を消す。 残されたのは、不気味な静けさに満ちた森と、茫然とする開拓者のみ。 何かに化かされていたのではないかと思うほどに、それは呆気なく、一方的に終わりを告げたのであった。 ●予感 「紫燕を連れて、村を出ます」 藍人は、そう言って彼らに頭を下げた。 恵緒やリーゼロッテに諭され、件の男が危険だと知らされて決意したのだ。紫燕は難色を示したようだが、藍人の決意が勝ったらしい。 「森から離れたら、彼女も落ち着くと思います‥‥けど」 村人に借りた鉈と、今の情報を付け足した地図を渡したレティシアが俯き加減にぽつりと零す。 「気になります‥‥」 術をかけられたわけではない。だが、目を奪われ、魅入られた。 あの男の目的が定かではない以上、同じ事が起きないとは言い切れない。 「そうですね。彼は一体、何者なのか‥‥。これで終わらないような気がします」 和奏の静かな言葉は、仲間達の胸に重く落ちていった。 |