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■オープニング本文 ●楼港 不夜城、楼港を見下ろす高台に、この街で最も格式が高い楼閣がある。 見る者を圧倒する豪勢な造りの建物は、先日の賭け仕合の折に一部が何者かに破壊され、改修の工事が終わったばかりだ。 営業を再開した途端、待ちかねていたお大尽達が押し寄せて、楼の廊下は酒や料理を運ぶ者達、三味線の音や笑いさざめく声と賑やかさを取り戻した。 「以上、ご報告致します」 そんな階下の賑わいとは打って変わって、楼の最上階は静まりかえっていた。 開け放たれた障子から外を眺めている佳人に、男は深く頭を垂れて言葉を締めくくる。 身なりからして、どこかの大店の主人といった風体だ。 「‥‥分かりました」 返ったのは短い言葉。だが、男にはそれが全て。 更に深く頭を下げると、男はその場を辞した。 音もなく部屋を出た男の気配が完全に消えると、声の主は婉然と微笑んで立ち上がった。 「思ったよりも時間が掛かったこと」 窓の外を見つめたまま、彼女は呟く。 あの日、そこに浮かんでいた女アヤカシ。 全ては終わったと思われた。 けれど‥‥。 「もう好きにはさせぬ」 豪奢な着物の衿に手を掛けると、大きく寛げる。 しゅるりと衣擦れの音が静かな部屋に響いた‥‥。 ●無明 ガンッと響いた大きな音に、少女は飛び上がって驚いた。弾みで咥えていた肉が口から落ちる。 落ちた肉に群がった犬によく似たものと、自分を見下ろす影とに忙しなく視線を走らせながら、じりと後退る。 途端に首を掴まれ、小さな体が浮いた。 「また小物ばかりじゃねぇか。こんな薄汚いのを俺に喰えと?」 「ご‥‥ごめんな‥‥さ」 少女を壁に叩きつけると、犬に似たもの達が喰らっていた肉を踏みにじる。 「はっ、それとも何か? こいつらみたいに腐肉を喰えとでも言うのか?」 ぶんと首を振る少女を、男は一瞥した。 「なら、もっとマシなものを狩って来い。俺の口に合う上等な獲物を! 何の為にあしび、お前を助けたと思っている?」 怯えて身を竦ませていた少女は、その怒声に弾かれたように根城を飛び出した。犬に似たもの達も、その後を追いかけていく。 後に残されたのは、食い散らかされ、辛うじての形を留めている肉の塊と、少女を追い出した男だけ。 静かになった根城の中、男は肉の塊を蹴り飛ばしてにやりと笑った。 「ま、お前には無理だろうが」 懐から取りだした一目で上物と分かる簪を投げ捨てて、男は積み重ねられた藁の上に体を預けた。破けた屋根から星空が覗く。 「もっと美味い奴が喰いてぇなぁ。味付けした最上級の獲物。そいつを狩る事を想像するだけでも堪らねぇな」 獲物の目星は付けてある。 後はどうやって誘き寄せるか、だ。 それから最高の味付け。 「さて、どうしてやろうか‥‥」 ●戦鬼夜行 緋毛氈に見立てた布を敷いた縁台に腰掛けて、高遠重衝はずずっと薄い茶を啜った。 「不味い‥‥」 このような店で茶を飲むのは初めてではないが、想像を超える不味さだ。どうやれば、こんな不味い茶を煎れる事が出来るのかと、店の者に問いただしたくなる。 「ほほ‥‥。高遠の御曹司は舌が肥えていると見える」 背中合わせに座っていた娘から掛けられた声に、重衝は口元に皮肉げな笑みを浮かべた。 「そういう貴女こそ、ただの若い娘に見える」 「ただの若い娘ですから」 くすくすと一頻り笑うと、娘は傍らに置いてあった団子を一串、手に取る。 「供がいないようだが」 「途中でまいて参りました」 あっさり告げられて、重衝は一瞬、言葉を失う。そんな重衝の様子に、娘は団子を口元へと運びながら笑んだ。 「無用と申し置いたものを、勝手について来たのです。気遣う必要などございません。それよりも」 息を吐いて、重衝は湯呑みを置いた。と同時に、布の包みをするりと背後の娘に向けて滑らせる。 「そいつが残されていた」 「趣味の悪いこと」 指先で包みを確かめて、眉を寄せる。 「さすがに、そろそろ限界だな。一度は開拓者が鎮めたが、また少しずつ混じり出したようだ」 包みに指先を当てたまま、娘は考え込む素振りを見せた。 「消えた貴族、残された血痕と凶器。貴族どもの噂にも上り始めた」 「此度は、以前とは違うと重衝殿もお思いか」 返った答えは沈黙。 状況は、まだ断片的にしか分かっていない。 今、彼らが思い描いているものは推測の範囲から出ないのだ。 「もう少し、情報が必要ですね」 「お仲間が動くのは、得策とは思えんな」 娘は小さく笑った。 「表立てば北面だけでなく、朝廷との間もおかしくなりましょう。故に‥‥」 囁かれた言葉に、重衝は渋面を作る。 「それもどうかと」 「ふふ‥‥心配無用と申し上げておきますわ。これしきの事、果たせぬようでは名を返上せねばなりませんもの。されど常に動ける身の上ではなし。ここは、再び彼らの手を借りましょうか」 「‥‥懸命だな」 ●依頼 開拓者ギルドに、一枚の依頼が張り出されたのは夕刻のこと。 「楼港における神隠しの真相を究明されたし。神隠しに関する詳細は不明。併せて調査願う」 短い依頼文の下に、受付嬢が書いたと思しき付け足しがあった。 「進展があれば報告を。それによって依頼の内容が変わるかもしれません。その都度、依頼書と依頼料金が出るとのこと」 |
■参加者一覧
万木・朱璃(ia0029)
23歳・女・巫
野乃宮・涼霞(ia0176)
23歳・女・巫
志藤 久遠(ia0597)
26歳・女・志
橘 天花(ia1196)
15歳・女・巫
羅轟(ia1687)
25歳・男・サ
弖志峰 直羽(ia1884)
23歳・男・巫
狐火(ib0233)
22歳・男・シ
葉隠・凛花(ib4500)
15歳・女・シ |
■リプレイ本文 ●それぞれに 久しぶりに訪れた高華楼の主人に挨拶をして、楼港で起こっている様々な問題を世間話に混ぜて聞き出した野乃宮涼霞(ia0176)は笑顔のままで凍り付いた。 かの事件の折に何度か出入りしていたが、ここは妓楼だ。 涼霞とて忘れていたわけではない。 だが。 「や、まだおひさん高いよ?」 「おひさん高いうちから、見世に来なんしたのは、どこのどなたでありんしょう?」 くすくすと笑う女が男にしなだれ掛かっていた。 妓楼では珍しくない光景だ。 けれど、言い寄られて笑っている男に、見覚えがあるのは気のせいか。それとも涼霞の目の錯覚か。 「ねぇ、わっちの部屋に来ておくんなんし」 「んー、そうだなぁ‥‥って、あれぇ? なんか知り合いの顔を見た気が‥‥って!?」 人の善さそうな顔で笑っていた弖志峰直羽(ia1884)の視線が涼霞を捉え、そのまま硬直した。そんな直羽の視線を辿った妓女の目に不機嫌そうな光が浮かぶ。しかし、それも一瞬のこと。すぐに愛想よく直羽へと向き直ると、彼の腕を取って2階へと続く階段を上がり始める。 「え、ちょっ‥‥」 その後ろ姿を見送って、涼霞はにこやかに高華楼の主を振り返った。 「ご主人、またお世話になりますが、よろしくお願い致します」 頭を下げた涼霞に、主人も笑顔で頷く。 知人の伝手というだけではなく、楼港を守った開拓者達に感謝しているのだと彼は全面的な協力を申し出てくれたのだ。これで、今後の楼港での活動の足がかりが確保出来た。 後で、裏方として手伝いをさせて貰う約束も取り付けて、涼霞は見世を出た。 二階に連れ込まれた誰かは、きっぱりばっさりと見捨てて。 ●手がかりを求めて 楼港に自警組織は幾つか存在する。 不夜城と呼ばれる街には、揉め事も多い。そんな揉め事を解決したり、街の治安を守る為、見世や茶屋等、楼港で商う者達が私的に組織している集団である。 その幾つかに顔を出して、志藤久遠(ia0597)は重い息を吐き出した。 楼港からいなくなる者など、今更だ。いちいち数えていたらきりがない。 先々で、そう言って笑った彼らに何かを隠蔽している素振りはなかった。 「しかしまぁ、呑気なものですね。人がいなくなっているというのに」 居なくなった者の情報はそれなりに入っているようだが、年も生業もばらばらで、何ら規則性も見出せないので事件だと思っていないのかもしれない。 「‥‥この依頼の主は、何を案じて依頼を出したのやら‥‥」 「さて。神隠し‥‥行方不明と一口で言っても、その原因や事情は多岐に渡りますからね。何が本命なのかは不明ですよ」 ぽつり漏らした久遠に、すれ違い様、囁く者がいた。髪を染め、通りを行く人々に紛れて何の違和感もない姿をした狐火(ib0233)だ。 さりげなく道の端に寄ると、2人は偶然行き会った知人のように、にこやかに会話を始めた。 その和やかな雰囲気の中で交わされる話の内容は、日常からは遠いものであったが。 「役人の方に確認したんですがね、この街では人がいなくなるのは日常茶飯事の事で、家族や知人からの訴えが出たものに関しては、調べるそうです」 「訴えがないものは、そのまま‥‥」 はい、と狐火は頷くと声を潜めた。 ここまでの話は、以前にあった依頼でも調べがついていた事だ。 「ちょっと面白い話を小耳に挟みましてね。何件かの行方不明の話が、上の預かりになっているそうですよ」 「上?」 怪訝な顔をした久遠に、狐火は口角を引き上げてみせる。 「そう、上です。この楼港は北面の飛び地でありながら、陰殻の王が権勢を振るう街。その街の役人の上となると‥‥」 狐火の言わんとしている事を悟って、久遠は表情を険しくした。 ●誰かの思惑 ふぅ、と万木朱璃(ia0029)は熱い茶を啜りつつ、溜息をついた。 情報収集の為に、不特定多数の人が集まりそうな場所として食事や酒を扱う店、そして甘味処を重点的に巡って来たのだが、店に入った以上、何も飲み食いせずに帰るというわけにはいかず、気が付けば楼港の案内に記された有名所の名物を制覇してしまっていた。 「食べ合わせでも悪かったのかな? なんか気持ち悪‥‥」 うぷ、と口元に手を遣る。 茶で流し込めばすっきりするかと思ったが、どうも胃の辺りがムカムカするのは治らない。 「それは、食べ過ぎというものでは?」 呆れ顔で肩を叩くと、葉隠凛花(ib4500)は彼女の隣に腰掛けた。 「凜花く‥‥じゃなくて、お凜さん」 耳が遠いというおばばに身振りで団子と茶を注文すると、凜花は通りの斜め向かいにある店を凝視した。 三笠屋という屋号のその店の主は、かつての賭け仕合において犬神の強行派と結託していた。シノビと関わりがある事は間違いない。 「それで、収穫は?」 柔らかくてほのかな甘みのある団子を頬張りつつ、凜花が尋ねる。団子見たくないと唸っていた朱璃は、渋々と口を開いた。 「収穫は‥‥あったと言えばあったと思います。楼港で一番というお店のお蕎麦、あれは多分、出汁に秘密があると思うんです。私、この仕事が終わったら、あの出汁を必ず再げ‥‥ふにゅっ!?」 嬉々として語り出した朱璃の口を塞ぐと、凜花は真剣な顔で彼女を見据える。 「それは、口に出してはいけない」 「な‥‥何故ですか?」 団子の串を皿に戻すと、凜花は「噂屋お凜」の顔で空を仰ぐ。 「よくある話です。若武者が戦の前にぽつり、同志に漏らす。「俺、この戦いが終わったら、村に戻って幼馴染みと祝言を挙げるんだ」と。そうすると‥‥」 「そうすると?」 ごくりと喉を鳴らして、朱璃は凜花ににじり寄った。 そんな朱璃を一瞥すると、凜花は小さく首を振る。 「村に帰るのは、若者の遺品。いつからか、戦いに赴く者達の間で流れるようになった噂‥‥。戦いの前に、戦の後の夢を語った者は死と書かれた旗を背に刺しているようなものだと、こうも言われているんです。戦場で叶わぬ夢を語った者に「旗が立った」と」 ちらりと視線を送られて、朱璃は青ざめた。 けれど、大丈夫。まだ最後まで言っていない。 ほぉと安堵の息をつくと、凜花と朱璃はすぐに表情を改める。 「ところで」 口調を改めた朱璃がぽつりと呟く。 「色んなお店で話を聞いていて思ったのですが、今回の依頼人は、一体、誰なんでしょうか。神隠しの一件が街に影を落としている様子はありません。それなのに、どうして依頼人は‥‥」 「さあ。必要である事ならば、情報が添えられているはず。それがないのは、開示出来る程の情報がないという事か、もしくは‥‥我らの力量を試しているのかもしれませんよ?」 悪戯っぽく笑って見せて、凜花は再び通りへと目を遣った。 そして、絶句する。 かぱっと口を開けたまま真っ白になった凜花を訝しみ、その視線を追った朱璃もまた同様にあんぐりと口を開けた。 「‥‥聞いたか? 三笠屋の丁稚の話。夜道を歩いていると、後から不気味な息づかいが聞こえて‥‥」 「聞いた聞いた。振り返っても、闇が広がるばかり。だが、息づかいは近くから聞こえて来る。怪訝に思って提灯を掲げると‥‥」 少し離れた場所で下世話な話に興じていた男達が体を震わせる。 「丁稚は寝込んで魘されてるって話だ」 「暗黒魔人って本当にいたんだなぁ」 互いに顔を見合わせ、朱璃と凜花は同時に目元を押さえた。 彼女達が見つめる通りには、すれ違う人々を恐怖のどん底へと突き落としつつも懸命に話しかけようとする羅轟(ia1687)の姿があった。 「‥‥ちょっと行って来ます」 冷めてしまった茶を啜る朱璃の耳に、勇気ある女性の登場に感嘆の声が沸き起こり、そして‥‥。 ●照合 「お土産を頂いてきました〜」 橘天花(ia1196)が差し出した皿の上には、どこか懐かしい素朴な料理が数品、山と積まれていた。 今日一日の戦利品らしい。 「井戸で水汲みのお手伝いをしていたら、お内儀さんが分けて下さったのです!」 「ふむ。これはなかなかいけますね」 箸を伸ばした狐火が舌鼓を打ち、料理屋の料理に飽きた朱璃もうんうん頷いている。 「それで、他にお土産は?」 「あります。けど‥‥」 かぱりと口元の部分だけ外して煮物を突っついていた羅轟が、その視線に箸を置いた。 「‥‥三笠屋‥‥神隠しの噂、知っていた‥‥」 おお、と仲間達がどよめく。行方不明者に無関心な楼港の住人が多い中、「神隠し」の噂を知るという三笠屋。やはり、普通の商人ではないと言う事か。 「‥‥三笠屋の客‥‥何人か‥‥いなくなってる‥‥」 「客だけじゃないみたいね。これは三笠屋も未確認との事ですが、最近、連絡を絶つシノビが多いそうですよ」 かつて、アヤカシに踊らされた失態を恥じているのか、三笠屋も開拓者に協力的らしい。 「シノビも‥‥ですか」 聞きこんで来た話や、仲間が集めて来た情報を楼港細見に書き込んでいた天花が手を止める。 「シノビの方だと、どこで消えたとか居なくなった前後の事がはっきりしないかもしれませんね」 「うん。そうだね」 相槌を打った直羽に仲間達の視線が集まる。 「それで、そちらの首尾の方は」 狐火の問いに、直羽は顔を覆った。 「いくらなんでも部屋持ちのコと遊べる金なんてないよう」 妓女に引っ張り込まれたのは、彼女に割り当てられた部屋だった。妓女には、それぞれ格があり、それによって掛かる金も違って来る。強引に腕を取った妓女が、格子越しに客を引く妓女ではなく部屋持ちだと知った時には血の気が引く思いだったと、直羽は息を吐き出す。 「部屋に連れてかれた時点で分かったから、何とか逃げられたけど収穫無しだよ。まあ、街の中で瘴気が濃い所とかは確認して来たから、後で細見に入れといてね」 「分かりました!」 純真無垢な天花には直羽の話に含まれるものには気づかなかったようだ。素直に直羽が調べて来た妓楼街の様子をさらさらと書きこんでいく。 けれども、少し世の中を見る視点が高くなった大人達は、そう簡単には納得してくれない。 「‥‥直羽クン、二階に連れてかれた事情を、もう少ーし詳しく話して貰ってもいいかなあ?」 「凛花サン、何か目が据わってるような気がするのは‥‥」 詰め寄った凛花に、直羽のこめかみに冷たい汗が伝う。 「そう見えるのは、直羽さんに後ろめたい所があるからでは?」 ずびしっと指摘した久遠の目もなんとなく冷たい。 「や、やだなあ。別に綺麗なおねーさん目当てとかじゃないっすから! ホントホント!」 女性陣の疑惑の眼差しを浴びて、直羽は人好きのする顔に愛想笑いを浮かべて懸命に言い訳‥‥もとい、釈明する。 「ほら、この澄みきった目を見て下サイヨ」 しかし、悲しいかな、一度落ちた信頼はなかなか取り戻せないのが常。 こそこそ、やーねぇなどと交わされる女性陣の会話に、直羽は途方に暮れたのだった。 そんな仲間達に、狐火は肩を竦めると周囲を見回した。 「ん?」 外見からは全くそうとは見えないが、合流後からずっと落ち込んでいる様子だった羅轟がぼそり呟く。 「楼港‥‥この地で‥‥また‥‥なにか‥‥起きる‥‥?」 「さあ。だが、異変の予兆らしきものが見え隠れしているのは確か。その隠れたものを引きずり出すのが我らの務め」 こくりと頷いた羅轟に、狐火はさてと息を吐く。 それはそうだが、依頼人には何と報告すべきか。 何気なく、狐火は天花が情報を細かく書き込んだ細見に目を遣った。情報の内容を確認する為に、先ほど一通り目は通した。けれど。 「すみません。ちょっと見せて下さい」 細見を手に取ると、狐火は指先で書かれた文字をなぞった。 「どうかしましたか?」 「行方不明者の情報の一部と、瘴気溜まりの場所と‥‥形が似ていると思いませんか?」 ●再会 座敷に運ぶ酒を妓女に預けると、涼霞は襷を解いた。今夜はこれで上がってもいいと言われている。肝心の情報は得られなかったが、これからの布石作りと思えば安いもの。にぎやかな三味線の音と笑い声を聞きながら、開け放たれた窓から霞のかかった月を見上げる。この月の下、今この時も誰かが消えているかもしれない。そう思うと気は焦るが。 「そこの女ァ、こちらに来て酌をせよ」 物思いを邪魔するようにやって来た酔客に苦笑して、涼霞は丁寧に頭を下げた。 「申し訳ありません。私はただの下働きですので」 「構わぬ。ほれ、こっちへ来ぬか」 酒臭い息に眉を顰めかけ、慌てて笑顔を取り繕う。ここで問題を起こすわけにはいかない。どうしたものかと迷っている間に、男は涼霞の手を掴み、覆いかぶさるように抱きついて来た。 押しのけようとしても、涼霞の力ではどうにもならない。 「あ、あの、お客様? ‥‥え?」 酔客の衣の隙間から、見覚えのある姿が覗く。 間違えようもないその姿は‥‥。 「重衡様!?」 涼霞の声に動きを止めたのは一瞬のこと。そのまま重衡は何事もなかったかのように、涼霞と酔客の横を通り過ぎて行く。 「重衡様っ! 顔見知りが困っているのに無視をなさるおつもりですか? それでよく誇り高い天護隊の隊士だなどと‥‥」 怒りに任せた涼霞の言葉に、今度こそ重衡は足を止めた。 「重衡様っ!」 「‥‥鳥居殿、榊殿が行方をくらまし、かの職を任されたとは伺っておりますが、いかにめでたいとは言え、羽目を外し過ぎるのはいかがなものか」 嫌々と分かる不機嫌な声に、ベタベタ涼霞に触れていた酔客がぴくりと巨体を震わせた。 「む‥‥、そ、そなたは高遠の‥‥」 目の前の青年の素性に気づき、男は酔いが覚めたようだ。急にそわそわと辺りを見回し始める。 「そういえば、奥方様は鳥居殿の身を常に案じておられるとか。疾くお戻りになられては」 「そ、うですなっ! 今宵は失礼致しますぞ、高遠の若君」 突き飛ばすように涼霞を離すと、男はそそくさと去って行った。 倒れかけた涼霞の腕を掴むと、重衡は面白くなさそうに吐き捨てる。 「今の男は、競争相手の同僚の失踪で官職に着いた。無能で遊び好きの小物だがな」 「失踪‥‥」 不穏な単語に気を取られている間に、重衡は涼霞の腕を離して踵を返していた。 「待って下さい、重衡様」 「なんだ? 助けてやった礼に酌でもしてくれるのか」 「今、失踪とおっしゃいましたね? それは、もしや神隠しの」 その言葉に、重衡は鼻で嗤う。 「食いっぱぐれて、ここで働き始めたわけでもなさそうだな。ならば、あんな小物に捕まっている暇もなかろう。さっさと手を打て、開拓者」 「っ!」 笑んだ重衡の表情に息を呑む。ゆらり揺れる廊下の灯火に照らし出されたそれは、いつもの傲岸不遜なものではなく、どこか面白がるような、悪戯を企む子供のような表情。 投げつけられた言葉に憤りを覚えるのも忘れて、涼霞は重衡の背を見つめ続けた‥‥。 |