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■オープニング本文 ●異変 「また、ですか」 弟弟子、松也に呼ばれ、部屋の中を覗き込んだ澤村龍之介は眉を寄せた。 いつも世話係の手で綺麗に整理された立女形の部屋は、今は無惨に荒らされ、着物から化粧道具といった小物までもが床に散乱している。 舞台の裏に儲けられた楽屋に出入りするのは、役者や裏方だけではない。全ての者を確認するのが難しいぐらい、雑多な人間が出入りしている。 「でも、揚羽兄さんの部屋ですよ?」 澤村最高位の女形として、今、一番の人気を誇るのが揚羽だ。 遠からぬ内に更なる名跡を襲名するという話が出回っているが、これも噂だけではない。実際に、澤村の家長を始め長老方の間で出始めている話題なのだ。 「とにかく、部屋を片付けよう。誰か、菊松を呼んで来ておくれ」 外に一声かけて、華やかな柄の着物を手に取った龍之介の名を震える声が呼んだ。 「‥‥兄さん‥‥」 松也が、床に転がる紅筆を拾い上げる。 何の変哲もない紅筆。 だが、それを見た瞬間、龍之介の表情が険しくなった。 まだ使われてはいないはずの筆の先に、朱の紅がついている。 「気味が悪いですね。付け届けの事もありますし」 「そうだね」 誰かが借りたのだろうか。いや、大部屋ならともかく、立女形の楽屋では有り得ない。 「お呼びですか、兄さん‥‥!」 呼ばれてやって来た菊松は、部屋の惨状に息を呑んだ。瞬時に青ざめた菊松に、龍之介は優しく声をかけた。 「お前の事を責めているんじゃないよ、菊松。ただ、揚羽がこれを見たら、いい気はしないだろうから、早く片付けたくてね。手伝っておくれ」 「は、はいっ!」 龍之介の声に我に返った菊松は、慌てて床にしゃがみ込んだ。 「そう言えば菊松」 「へえ、何でございましょう」 慣れた手つきで帯を畳んで行く菊松に、龍之介は紅筆を見せる。 「この筆は、お前が用意した時から、こうだったのかな?」 その筆を目にした途端、菊松の顔色が変わる。 「いいえ! 揚羽の兄さんが使う筆は、この菊松が綺麗に洗って筆先を整えたものをご用意しています! あっ‥‥」 口元を覆った菊松が、低い声で龍之介もまだ知らぬ話を語り始めた。 「この部屋を用意していた時に、兄さん宛てに付け届けが届いたと連絡があったんです。この間の事もありますから、まずは私が確認しようと思って部屋を出て‥‥」 口ごもった菊松を、龍之介は視線で促す。 「付け届けの中には‥‥文と、猫のな、生首が‥‥」 そんなものをおいそれと誰かに見せるわけにはいかない。とりあえず、舞台が終わるまで誰の目にも触れない場所を探して隠した所に、龍之介からの呼び出しが掛かったのだ。 「猫の生首か」 「‥‥一体、誰が‥‥」 松也が呟く。 口止めをしてあるから、ここしばらくの様々な事件を知る者は少ないが、このままでは揚羽自身にまで危害が及ぶかもしれない。 考え込んだ龍之介の視界の端で、悄然と項垂れて、部屋を片付けていた菊松が煌びやかな簪に手を伸ばした。 「あっ」 「今度は何だい?」 小さく上がった声に、龍之介は溜息をついて菊松に問う。 「兄さん、菊松の手‥‥」 松也の声が揺れる。簪に触れた菊松の手から血が流れていた。 「菊松!?」 「簪が‥‥」 菊松の足下に転がる簪の足を拾い上げて龍之介は目を細めた。 その足の一部が薄く磨かれて刃のように鋭くなっていた。何者かによる細工だと素人でも分かる。 「菊松!? 菊松!!」 どさりと音がしたと思ったら、菊松の体が床に倒れていた。額に汗を浮かべたその体を松也が揺する。 「兄さんっ、菊松が!」 「松也、お医者様か巫女様を呼んで来るんだ!」 「はいっ!」 指示を出すと、龍之介は懐の手布を取り出し、菊松の手首を強く縛った。こんな小さな傷、倒れる程のものではないし、突然の発熱を引き起こすものでもない。簪に毒が塗られていた可能性がある。 「これは、もう我々の手に余る」 医者が来るのでの時間、菊松を励ましながら龍之介は1つの事を考えていた。 ●護衛依頼 ギルドに澤村龍之介の依頼が貼り出されたのは、その日の夜だった。 舞台が終わったその足でやって来た龍之介は、立女形揚羽の身の回りで起きている異変を告げた。 「幸い、菊松は命には別状はありませんでしたが、まだ意識は戻っていません。菊松が隠したという猫の生首も、どこにあるやら‥‥」 ふ、と遠い目を明後日に向けた龍之介の気持ちは痛い程分かる。 初夏へと向かうこの季節。 日数が経てば、さぞや‥‥。 いや、問題はそこではない。 菊松は生首と一緒に文が入っていたと言っていたのだ。その内容も気に掛かる。 「というわけで、皆様にお力をお貸し頂きたいのです。一座の中でも、この一件を知らない者は多い。出来るだけ、内密に揚羽を守り、犯人を捕らえて頂きたい」 ふむ、と開拓者は考え込んだ。歌舞伎の世界は閉じられた世界。秘密裏に女形の警護と一言に言っても難しいものがある。 依頼人もそれは承知しているはずだ。様子を窺うと、彼はにっこり微笑んだ。 「私に出来る事は協力させて頂きます。‥‥が、まずは幾つかの案を聞いて頂きたい」 そうして、彼から出された案は 「揚羽の替え玉になる」 「倒れた菊松の代わりに、揚羽の臨時世話係を用意する」 「龍之介の遠縁で、役者の卵として出入りする」 の3つ。 これぐらいしか考えつかない、と彼は言い、他に案がある場合は遠慮なく相談して欲しいと付け足した。 「後ろ2つはいいけど、揚羽の替え玉ってどうするのよ」 「女形の外見だけ」なら女性でも出来そうだが、舞台の上や化粧を落とした揚羽の替え玉は難しいだろう。 「それは、多分大丈夫です」 はは、と龍之介はぽりぽりと頬を掻いた。 「揚羽は人見知りが激しく、舞台に上がる以外、滅多な事では人前には出ませんから、化粧を落とした顔を知る者も少なく‥‥」 要するに、澤村の問題児だ。 溜息をついた女開拓者に、龍之介は続ける。 「舞台には本人が上がります。出番まで座長の元に預けておけば問題はないでしょう」 更なる問題に開拓者達が気付いたのは、龍之介がギルドを出た後の事だった。 「‥‥龍之介さんって立ち居振る舞いが綺麗よね」 「小さい頃から役者として躾けられた賜物って奴だな」 「‥‥立役の龍之介さんの所作がアレだとすると、女形の揚羽さんの所作も‥‥」 開拓者は頭を抱えた。 女形として舞台に上がる必要はないし、人前に出るのも最小限。だが、全く人の目に触れないわけではないだろう。悩む彼らの目の前で、ギルドの扉が開かれた。 「ちーっす。何か仕事な‥‥」 片手を挙げた男の姿に、女開拓者が即座に反応する。男の腕をがしりと掴み、仲間に向かって親指を立てる。 「女装癖の持ち主、捕獲しましたッ!」 「よくやった!」 「女装癖ってなんだっ! 女装癖って!!」 事態が飲み込めていない様子の輝蝶が、依頼内容を知って頭を抱えるのは、そのすぐ後のこと‥‥。 |
■参加者一覧
滋藤 御門(ia0167)
17歳・男・陰
六条 雪巳(ia0179)
20歳・男・巫
香椎 梓(ia0253)
19歳・男・志
高遠・竣嶽(ia0295)
26歳・女・志
橘 天花(ia1196)
15歳・女・巫
大蔵南洋(ia1246)
25歳・男・サ
沢村楓(ia5437)
17歳・女・志
狐火(ib0233)
22歳・男・シ |
■リプレイ本文 ●看板役者の災難 澤村揚羽は、依頼人である澤村龍之介と共に、天儀歌舞伎の名門「澤村座」の看板役者だ。 舞台の上では凛々しい二枚目から怪物まで幅広く演じる龍之介は、素顔に戻ると人当たりのよい好青年であると評判だ。 同じ澤村の看板役者でも、揚羽は違っていた。 極端な人見知りという噂があり、彼の素顔を知る者は少ない。 しかし、舞台の上の彼に憧れる者は多い。 山と届けられる付け届けや、貴族や豪商の贔屓の数がその証だ。 「恋情募って憎しみに‥‥というのは、芝居でもよくある話ですよねぇ」 「え‥‥ええ、そうですね」 舞台の準備で白粉を塗っていた龍之介にしなだれ掛かりながら、女が囁く。慣れた素振りに対し、龍之介の態度はぎこちない。 「嫌ですわ。本職なんですから、もっとしっかり演じて下さらないと‥‥」 拗ねたように頬を膨らませ、龍之介の二の腕を軽く抓ると女は彼の耳元に唇を近づける。 「困ります」 そっと吹き込まれた言葉に睦言の響きは欠片もない。 「分かってはいるんだが‥‥」 言葉を濁した龍之介に、香椎梓(ia0253)は怪しく笑んだ。 「舞台の上では平気な癖に」 「舞台は舞台と割り切れるでしょうが、「私は龍之介さんの愛人で。男の愛人という事でもいいですよ」とか言われたら、そりゃ龍之介さんも動揺しますよ」 入口の暖簾を潜った狐火(ib0233)が呆れたように肩を竦めていた。 「揚羽さんは?」 「とっくに座頭の所に」 問うた梓に素っ気なく答えて、狐火はその場に膝を着くと手の平で畳の上を撫で始める。 「化粧して鬘をつければ、大丈夫‥‥だなんて、大胆な事をおっしゃいますねぇ。こっちは、ばれやしないかと冷や冷やしましたよ」 立女形の部屋から座頭の部屋まで、舞台を控え、多くの人が行き来する狭い通路を揚羽と菊松の代わりとなる付き人として挨拶に向かった道中は、狐火も相当緊張したようだ。 もっとも、そのほとんどが揚羽の人見知りを良く知る者達だ。軽く会釈をする程度の替え玉達に、声を掛ける事も不審がる事もなく、無事に座頭の部屋まで辿り着けた。 「今頃、揚羽さんは輝蝶さんと入れ替わっているのですね」 「座頭の部屋へ挨拶に来る人は多いですが、奥の部屋にまでは立ち入りません。入れ替わりには絶好の場所なんです」 さて、と化粧を終えた龍之介が立ち上がった。 「それでは、私も参ります」 「いってらっしゃい、あんた」 梓の一言に、颯爽と舞台に向かった二枚目役者が柱に頭をぶつけた。 「‥‥まあ、いいんですがね」 畳を撫で続けていた狐火が息を吐く。 「あら、あたしが何か? ‥‥狐火さんこそ、先刻から何をしているのですか」 「この部屋は揚羽さんの真上にあるんですよ。何か仕掛けられてないかと思いましてね」 何もありはしませんでしたが、と肩を竦めると、狐火も腰を上げた。 「龍之介さんを呼びに行くと言って来たんで、私もこれで。後ほど、また」 「ええ、後ほど」 出て行く狐火を見送ると、薄化粧を施し、女物の着物を身に纏った梓は、開拓者の顔に戻って周囲を見回した。 ●新入りの運命 一方、舞台が始まる前の忙しさに目を回し、調査どころでないのは、役者の卵として一門に入り込んだ者達だ。 兄弟子にあたる者達の雑用に、舞台がどのようにして成り立っているのかを知る為と称して、裏方の仕事まで手伝わされて息を付く暇もない。 「こ、こんなはずでは‥‥」 汗で湿った浴衣を山と抱えて、沢村楓(ia5437)が呆然と呟く。その隣では、重ねた小道具の箱を危なっかしい足取りで運ぶ橘天花(ia1196)がいる。 天花は世話係見習いという立場から、雑用係確定だったが、これほどまでの重労働だとは思っていなかったようだ。 「少し持ちましょう」 ひょいと天花が抱えた箱を幾つか取り上げて、大蔵南洋(ia1246)は、ぜえはあ息を吐く少女達に苦笑した。 「大丈夫ですか? 重い物とかありましたら、私を呼んで下さっても構わないのですよ、梅松さん」 「ありがとうございます。大‥‥じゃなくて、えーと」 「裏方の大蔵です。そろそろ幕が上がりますから、見習いは少し休んでいても構わないそうです」 ここからは、役者と裏方の息が合っている必要がある。昨日、今日入ったばかりの裏方では、舞台の進行に触りが出るから、今のうちに休んでおけと言われたらしい。 「今のうちに、か」 浴衣を洗い場に置くと、楓は口元を歪めた。 つまりは、舞台が終わる頃にはまた慌ただしくなるという事だ。 「では、今のうちに調べちゃいましょう!」 「はい。舞台には何の仕掛けもないと確認しています。澤村の本邸で養生している菊松さんのお見舞いは、舞台が引けた後、龍之介さんが戻られてからになるでしょうが、探し物ぐらいなら出来そうですね」 他の者達の意識が舞台に集中しているから今が絶好の機会だ。 既に狐火や梓が動き出しているのを南洋は確認していた。 「ここは何かと人の出入りが多いみたいですからね。急ぎませんと」 ●付け届け 「確かにお預かり致しました」 仕立ての良い着物に身を包んだ少年から桐の箱を預かると、六条雪巳(ia0179)は丁寧に頭を下げた。 「それはどなた宛でしょうか」 「木津屋さんから龍之介さん宛ですよ、御幸さん」 頷いて、滋藤御門(ia0167)が、さらさらと帳面に贈り主と龍之介の名前を認め、同じ内容を書き付けた紙を桐の箱に貼り付ける。ご贔屓さんや客からの付け届けは、こうして1つ1つ贈り主と宛名を確認し、役者ごとに分け、楽屋へと運ぶのだ。 舞や芝居の才能があっても、ここでは通用しない。 これでも、門戸を開いた方なのだと龍之介は申し訳なさそうに言っていた。以前は、一門以外の者は、どれ程才能があっても役者の卵にすらなれなかったという。 「一門の役者よりも才能があると信じて疑わず、この世界に飛び込んではみたものの、舞台に立つ所かろくに稽古もつけて貰えず、途中で断念した方も多いそうです」 独り言のように雪巳が呟く。 「‥‥梨園の方々は色々な面で優遇されている。断念した方も、頑張っておられる方も、内心ではどう思っておられるのか‥‥」 語尾を濁した雪巳の表情に憂いが混じる。 歌舞伎の世界は華やかだ。絢爛豪華な衣装を付けた役者達が、芝居や舞で客を魅了し、姿絵は飛ぶように売れ、こうして贔屓からの付け届けがひっきりなしに届く。 しかし、陽の当たらない部分、表から見えない部分は「綺麗」なだけではなさそうだ。 「梨園に生まれた方々の中でも、妬み嫉みがあるようですしね」 「‥‥揚羽さんへの付け届けは、まず付き人さんに確認して頂く事になっておりますので、少々外します」 雪巳の呟きを聞いてなかったかのように、御門は一抱えもある付け届けの山を手に席を立った。 「はい。お気をつけて」 付け届けを持った使いも、ようやく途切れたようだ。 威勢のいい掛け声や、口上が漏れ聞こえて来る中、雪巳は懐に仕舞って置いた懐紙をそっと取り出した。それは、挨拶という理由をつけて訪れた立女形の部屋で、輝蝶から渡された針だ。揚羽の衣装から出て来たらしい。 さすがに長居は出来ず、他に怪しいものを見つける事は出来なかったが、雪巳が「揚羽」になる日には何が出て来るのだろうか。 吐いた溜息は、どっと沸き上がった歓声の中に紛れて消えていった。 ●団子屋の密会 「最初は文だったそうですよ」 男の姿に戻った梓がぽつりと漏らす。 行き交う大勢の人々を眺めつつ、団子ではなく、茶に手を伸ばして彼は口元に皮肉な笑みを浮かべて見せた。 「光がある所には影が差す。それは嫌と言う程見て来ましたけどね」 「‥‥」 小さく呟く彼と背中合わせに団子を口に運んでいるのは、娘姿の高遠竣嶽(ia0295)だ。この後、舞台を終えた揚羽と入れ替わる事になっている竣嶽は、歴とした女性だ。女性を相手に「外では町娘姿」も何もあったものではないが、用心にこした事はない。 「それで、付け届けの方は‥‥?」 「狐火さんが探していますが、まだ見つかっていないようですね。龍之介さんの話では、菊松さんの意識もまだ戻っていないとか」 竣嶽の眉が寄る。 「いかな理由があったとしても、他者を害して良い事にはなりますまい」 「正論ですね。ですが、世の中、正論だけでは成り立たってはいないのですよ。悲しい事に」 湯呑みを手にしたまま、梓は更に声を潜めた。 「気をつけて下さいね。舞台の上や小屋は衆目の目がありますが、その後は‥‥」 「菊松さんの容態が気になるので、今日から「揚羽」は澤村の本邸に戻るのでしたね。いつもは隠し別邸に引き籠もっているそうですが」 本邸に戻るのは、揚羽ではなく竣嶽だ。 そして、龍之介と彼の口利きで補充された付き人、役者見習いも共に本邸で過ごす事になる。 「‥‥そういえば、これから芝居見物らしい、上品な身なりの奥方様達のお話を小耳に挟みました」 ことん、と湯呑みを置くと、竣嶽は困ったように肩を竦める。 「どこの世界にも噂好きの奥様はいらっしゃるものです。‥‥お話によると、どこかの大店の娘さんが揚羽さんに恋い焦がれているとか。思いあまった娘さんは、揚羽さんが振り向いて下さらないならば自害すると大騒ぎをしたそうです」 何と言えばよいものか。 梓は視線を明後日の方角へと視線を泳がせた。 「奥様方は、自害をすると騒げば、親が何とかしてくれるのではないかという甘い考えだ、娘の浅知恵だと酷評しておられました。揚羽さんに懸想する方は、その娘さんだけではないのだと笑っておられましたが‥‥」 「想う心が暴走して、歪んだ形で揚羽さんにぶつけようとする者達は、星の数‥‥と」 「はい」 二人して、同時に溜息をつく。 これでは捜査の対象も動機も絞り切れないではないか。 「そうそう。御門さんの人魂からの情報です。要約すると、澤村の内部でも油断をするな。これまた範囲が広がりますね」 「‥‥なんだか楽しそうですね、香椎様」 「そう見えますか?」 にこやかに微笑んで見せると、梓はさてと傍らの包みに手を伸ばした。 「芝居もひける頃です。また愛人に戻ってきましょうか」 ●舞台裏 ごった返す舞台裏は戦場の様相を呈している。新入りだろうが、何だろうが、手間取れば容赦なく怒声が飛ぶ。そんな中で、南洋は注意深く各人の行動を観察していた。 役者の早変わりを手伝う者、小道具、大道具を管理する者、揚羽を害しようと思えばいくらでも機会はある。だが、実行するのは無理だ。ここは他人の目が多すぎる。 「となると、やはり楽屋ですか」 人見知りの激しい揚羽の楽屋には、あまり人が近付かない。仕掛ける時間はたんとある。 ただ、いくら楽屋が怪しくとも、公演中に近づける内部の者はいないだろう。何しろ、誰もかれもが自分の為すべき事で手一杯だからだ。 見目良い新入りという事で、入口で付け届けを預かる仕事に回された雪巳と御門からの情報では、付け届けには控えの帳面があるらしい。猫の生首が届いた日の帳面を調べて貰えば何かしら手掛かりが見つかるかもしれないが‥‥。 「やれやれ。調べる事が多すぎですね」 「大蔵! 何をぼーっとしてやがる! 早く来いッ」 降ってきた怒号に、南洋は次の場面の大仕掛けを動かすべく汗だくの裏方達と共に巨大な装置に手を掛けた。 その頃、協力し合って浴衣の洗濯を終えた楓と天花は、誰かに尋ねられたら、新入りは置いてある場所を覚えろと言われたと言えと輝蝶に持たされた帳面と筆を手に、隠された猫の生首を探してあちらこちらの戸棚や押し入れを開けて回っていた。 「ここにもないな」 「どこかに隠し扉があるとか‥‥」 「それに関しましては」 突然に掛けられた声に、2人の少女が飛び上がる。 その反応を予想していたのだろう。満足げな表情の狐火が音もなく部屋の中へと入り込み、開けたままの棚を元に戻す。 「私も隈無く探しましたがね、無いんですよ。どこにも」 狐火の言葉の意味を、彼女らもすぐに悟る。 「それってつまり、誰‥‥むぎゅ」 天花の口を押さえて、楓は狐火に頷いてみせた。 「ともかく、現物を見たのは菊松さんだけですからね。頼みますよ、天花さん」 ●急変 竣嶽が座頭の楽屋に入った時、既に揚羽の姿は無かった。 座頭専用の通路に仄かに薫る残り香だけが、揚羽の存在が確かにそこにあった事を示している。 「さ、この頭巾を被って下さい。急いで本邸に向かわなければ」 「‥‥何か、起きたのですか」 硬い口調の龍之介の言葉に、開拓者の勘が良からぬ事が起きたと告げる。表情を強張らせた竣嶽に、龍之介は初めて見せる険しい表情で短く答えた。 「菊松の容態が急変したそうです。天花さんが本邸に着いている頃ですが、精霊の力は死に向かう者をこの世に呼び戻して下さるでしょうか‥‥」 その言葉に、竣嶽は慌てて頭巾を被り、控えていた狐火に手を引かれて座頭の部屋を出る。 「菊松は、例の付け届けの現物を見た唯一の証人。彼が小屋の中に隠したはずの付け届けがどこにもありません」 「犯人は内部にいると?」 駕篭に乗り込む直前、狐火が囁いた。 「命に別状が無かったはずの菊松が危篤状態になったのも怪しいですし、可能性は大きいでしょう。しかし、まだそうとも言い切れないのが現状です」 揚羽の替え玉として竣嶽が乗り込んだ駕篭を部屋の窓から見送ると、楓は龍之介に視線を向けた。挨拶回りから戻ったばかりで化粧も落としていない彼の傍らには、愛人に扮した梓の姿もある。 「聞いてもいいか。ギルドに依頼を出す必要があると判断した理由は何だ? 確かに毒を仕込むのは行き過ぎているが、これまでにも色々あったらしいな」 色々な場所を調べ回るうちに聞こえて来た噂。 それは、最近になって揚羽への付け届けや文に異変が起きているということ。 「‥‥それは‥‥」 「揚羽さんの付け届けの記録に印がついているのも、異変とやらに関係があるのですか」 途端に歯切れが悪くなった龍之介に、別の声が掛かる。驚く彼に、楓は指先に止まった蝶を示した。 「御門の人魂だ。で、どうなんだ?」 「‥‥最初は悪戯だと思ったのです。ですが、段々と内容が過激になり、楽屋が荒らされるようなりました」 「このままでは揚羽に危害が及ぶと考えて、依頼を出した、か」 「その頃の文や付け届けは残っているのでしょうか?」 蝶と会話を交わすのに慣れない様子の龍之介が、戸惑いつつ頷いて答えた。 「菊松は捨てろと言ったのですが、揚羽が‥‥。恐らくは揚羽の別邸にあるかと」 何を思って、揚羽はそのような物を残したのだろうか。 同じ事を考えていたらしい梓と視線を交わすと、楓は蝶を宙に放った。 「色々絡まり過ぎて何も見えないのだ。まずは、現物と帳面を付き合わせ、少しずつ解きほぐして行くしかないか」 捜査方法を決めた彼らに、菊松が息を引き取ったとの報が届いたのは、数刻後の事であった。 |