高遠重衝氏の優雅な休日
マスター名:桜紫苑
シナリオ形態: ショート
相棒
難易度: 普通
参加人数: 8人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2010/04/12 04:13



■オープニング本文

●命令
「‥‥以上、楼港での顛末をご報告致します」
 作法に則った完璧な一礼をして場を辞そうとした高遠重衝を呼び止めたのは、室内で文机に向かっていた人物だった。
「‥‥いえ、たいした事では。それでは失礼を‥‥」
 その場を立ち去ろうとする重衝に、その人物はさらさらと認めた文を突きつける。その内容を一読した途端、重衝の眉間に皺が寄る。
「ですが、私は先日、休暇を頂いたばかりで‥‥」
 彼にしてはやんわりと断りを入れたにも関わらず、その人物の意思が変わる事はなかった。
 そうして、高遠重衝は怪我の治療という名目で、10日に及ぶ休暇を無理矢理取らされる羽目になったのだった。

●休暇は戸惑いと共に
 彼には、どうしても勝てない相手がいる。
 先程の人物もその1人ではあるが、1度も勝てた例のない相手は自身の兄だ。
 彼と同じく志体を持ち、共に天護隊に入隊した兄は、剣を持つよりも楽器を奏で、扇を手に舞い、歌を詠んでいる姿の方が似合う、雅な男だった。気性も穏やかで、自分や妹の我が儘をいつもにこにこ笑って受け入れてくれた。
 しかも剣を握れば、相応に強い。数え切れない程に手合わせをした自分も、兄に勝った事がない。鍛錬を積んだ今も、まだ勝てないだろう。
 誰が見ても、高遠の跡取りとして相応しい男だった。
 ただ1つ、度の過ぎたお人好しという点を除けば。
「なのに、あの狸がッ」
 思い出しただけでも腹が立つ。
 父の旧知という男が、兄と自分を天護隊にと推挙したのだ。
 野心を抱く自分は否やはなかったが、雅な世界こそが相応しい兄に天護隊での暮らしは向いていない。そう反対したにも関わらず、兄は父の顔を立てて天護隊に入隊し、そして‥‥。
「広い世界が見たい、か」
 数年、天護隊で過ごした後、兄はそう言い残して出奔した。
 行方は‥‥その気になれば探す事も出来ただろうが、敢えてしなかった。
 妹が巫女として貴族どもの悩み相談を受けるようになったのも、兄が消えてからの事だ。
 あれもあれで何か思う所があったのだろう。
「ともかく、だ。今は兄上の事よりも10日間をどう過ごすか‥‥だな」
 自宅に戻る事も考えたが、怪我の治療だの養生だのにかこつけた妹の小言を毎日聞かされるのも面倒だ。
 何より、憎まれ口を叩いても、怪我を見て辛そうな顔をする妹は見たくない。
 泣いたり、悲しんだりする妹は、昔から勝てないものの1つだ。
「さて、どうするかな‥‥」
 天護隊の羽織を脱ぎ、大門を潜れば憂鬱な休暇が始まる。
 行く宛もなく、過ごす予定もない休暇の日々がー。

●そして企む者
「なに? ひーすけ兄様がお怪我を?」
 同じ頃、高遠家では屋敷から殆ど出る事がない癖に耳聡い彼の妹が柳眉を吊り上げていた。
「それで、お怪我の具合は? すぐに天護隊に使いを。お怪我の治療が必要ゆえ、屋敷に戻して頂けるよう、隊長殿にお願いを」
「姫様‥‥」
 重衝負傷の報を持って来た側仕えの女房が、口早に指示を飛ばす姫をそっと窘めた。
「重衝様には、既に休暇が下された由、どうぞお静まり下さいませ」
「なんじゃと?」
 その言葉に、千歳は女房を振り返った。
「先を越されたか‥‥。兄様のこと、お休みを頂いても屋敷には顔を出しては下さるまい」
 小さな舌打ちは聞こえない振りをして、女房は頭を下げた。
「仕方があるまい。相手が兄様であれば、生半可な策を弄しても効果はないであろう。ならば‥‥」
 ぱちんと千歳は扇を閉じてにこやかに微笑んだ。
「開拓者ギルドに依頼を出すのじゃ。どのような手段を使っても構わぬ故、ひーすけ兄様を捕獲せよ、と」
「‥‥捕獲、ですか」
 さすがに女房の口元が引き攣った。
 仕える家の若君をアヤカシか獣のように捕らえるというのには抵抗があるが、志体を持つ重衝を「保護」するとなると、これまた何かが違う気がする。
「そうじゃ。そして、妾の元に連れて参れと申し伝えよ。既に天護隊からの命が下され、兄様は休暇に入っておられる。時間が経つにつれて、捕獲は難しくなる。早急に、と念を押しておくのじゃぞ」
 聡明な女房は、黙って頭を下げた。


■参加者一覧
野乃宮・涼霞(ia0176
23歳・女・巫
橘 天花(ia1196
15歳・女・巫
璃陰(ia5343
10歳・男・シ
沢村楓(ia5437
17歳・女・志
早乙女梓馬(ia5627
21歳・男・弓
神咲 輪(ia8063
21歳・女・シ
煌夜(ia9065
24歳・女・志
白 桜香(ib0392
16歳・女・巫


■リプレイ本文

●天護隊
「なあなあ、楓はん」
「紅葉、だ」
 袖を引き、声を掛けてきた璃陰(ia5343)に、何度めか分からない訂正を入れて、沢村楓(ia5437)は溜息をついた。
 高遠家の姫からの依頼という肩書を持って、天護隊を訪れたまではよかった。
 だがしかし、一室に通され、茶を供されて待つこと数十分。
 ようやく現れた男は、のらりくらりと重衝の居場所を問う楓を躱しまくった挙げ句、「嬢ちゃん、坊ちゃん、飴玉あげるから、そろそろお家にお帰り」と来た。
 楓が怒り狂うのも無理はない。
 楓の「天敵、天護隊」が特定の1名から「隊」全体へと移る日も遠くない‥‥かもしれない。
「飴、美味しいな♪」
「‥‥ならば、私のもやる」
 懐紙に包まれた飴玉を璃陰へと投げると、楓は天護隊の大門を振り返った。選ばれた者達が集う天護隊の大門は、そこいらの貴族の屋敷にもひけを取らぬ程に立派で、彼女達を拒むかのようだ。
「楓‥‥ではなく、紅葉」
 不機嫌な楓に睨まれて、即座に呼び名を変え、声を掛けて来たのは早乙女梓馬(ia5627)だ。
「その様子じゃ、情報は得られなかったようだな」
「天護隊は狐と狸の巣窟だ」
「おっちゃんが飴くれたんやー」
 言い捨てた楓と、嬉しそうに飴玉の乗った手を広げて見せた璃陰とに、梓馬は口元を引き上げた。笑われたと気付いた楓の鋭い緯線に、梓馬は咳払って話題を変える。
「涼霞達が周辺の目撃情報を集めているが、こちらも難しそうだな。目立つ御仁らしいが、目撃情報が少ない」
 依頼人である千歳が「急げ」と言った理由は、この辺りにもありそうだ。
「そや、思い出した。天護隊のおっちゃん達が、部屋の外で言うとったで」
 口の中に大きな飴玉を2つごろごろ転がし、両頬をぷくりと膨らませた璃陰がぽんと手を叩いて、口を開く。
「重衝はんは、休みのたんびに連絡がつかんようなるんやて。急ぎの話があって探しても見つからん言うとった。自分らが見つけられんのに、わいらが見つけられるはずがないて」
 ほほう?
 楓と梓馬の瞳がきらんと光る。
 そこまで言われては、意地からでも見つけ出してやらねばなるまい。
「にしても、怪我の間、姿を眩ますとは奴はケモノか何かか」
 璃陰が聞いた話によると、天護隊の隊士達も重衝の行動を把握していないようだ。
「ケモノ‥‥か。言い得て妙だな」
 うんうんと頷いた梓馬に、楓はぐっと拳を握り締める。
「奔放な兄を持つと妹は苦労する。兄の身を案じて袖を濡らす千歳姫の為にも、必ずや奴を捕獲して見せよう!」
 決意を拳に込めて誓う楓に、梓馬ははてと首を傾げた。
「兄の身を案じて袖を濡らす姫が、その兄をどのような手段を使っても捕獲して来いと言うものか‥‥?」

●花の宴
 桜の花は人々の心を陽気にさせる効果でもあるのかもしれない。
 花の下で浮かれ騒ぎ、笑いさざめく者達に微笑みながら、煌夜(ia9065)は仲間達との合流場所へと急いだ。
「ほんと、怪我した時ぐらい実家でゆっくりすればいいのに、ね」
 何故、彼は実家を避けるのだろう。確かに、貴族の中には愛憎ドロドロ泥沼家族もいるという噂は聞くが、高遠家はそんな感じではない。
 煌夜が高遠家の内情を垣間見たのは、つい先程の事だ。
 重衝が立ち寄りそうな場所の心当たりを千歳から聞く為に訪れた高遠家で、泥土で汚れた作業着に身を包み、庭木の手入れをしていた男から一抱え程の蜜柑やら八朔やらを大量に貰った。
「千歳のお友達かな? これからも仲良くしてやっておくれ。さあさあ、これを持って行きなさい」
 という言葉と共に。
 その言葉の意味を悟った時、煌夜は二重、三重の驚きで卒倒しかけたのだ。
「あれが、重衝、千歳兄妹のお父さん‥‥信じられないわ」
 貰った柑橘類は、庭仕事の男‥‥高遠家の当主が用意してくれた風呂敷に包まれて煌夜の手にある。
 優しい父と兄思い(と思われる)妹のいる家は、彼にとっても心休まる場所ではないのだろうか。
「ま、それは本人の事情だものね。あ、いた」
 騒がしい花見客を避けるように、まだちらほらとしか花を付けていない桜の木の根本で仲間達が煌夜の到着を待っていた。
「ごめんね、遅れちゃって」
「いいえ。私達もお花見を楽しんでおりましたから」
 ほんわかと微笑んで、白桜香(ib0392)が煌夜の為に場所を空ける。楽しんでいたという桜香の言葉の通り、彼女らの前に並んでいるのは団子や草餅といった甘味類だ。
「あら、美味しそう」
 しかも、どれもこれもその辺りの突発屋台で売っているような安っぽい品ではない。
 甘味大王ならぬ甘味大姫、神咲輪(ia8063)がいるのだから、当然と言えば当然だが。
「煌夜さんも食べて下さいね! 輪さん厳選の、頬っぺが落ちるぐらい美味しいお菓子ばかりです!」
 団子の皿を手にした橘天花(ia1196)に、煌夜は持っていた風呂敷を見せて片目を瞑る。
「私もお土産があるのよね。高遠のお家で貰って来たの。‥‥あ、でも甘いものの後だと、酸っぱいかしら?」
 わぁ、と歓声を上げた天花に、輪もころころと転がった蜜柑に相好を崩した。
「甘味も好きですけれど、お蜜柑も好きです」
 それはよかったと笑うと、煌夜は物憂げにはらはらと風に舞う桜の花びらを手の平で受けていた野乃宮涼霞(ia0176)に首を傾げた。
「何をしているの? 涼霞」
「春の香を‥‥集めておりました」
 微笑む姿は、いつもの涼霞だ。手の平に積もった花びらをそっと懐紙に包む涼霞に、煌夜もくすりと笑って頷いてみせる。
「天儀の春はとても美しいから好きよ。ジルベリアの春も優しいけどね」
 つい先日、依頼で里帰りをする事になった故郷を思い浮かべ、煌夜は桜を見上げた。
「でも、こんな美しい季節にお休みを頂いて、どこへドロンしちゃったのかしらねぇ」
 何気ない呟きに、涼霞の手が止まる。
「やっぱりお花見だと思います! だって、こんなに桜が綺麗なのですから!」
 力一杯、力説する天花に、仲間達は生温かい視線を向けた。
「でも、この周辺にはいらっしゃらないみたいです」
 桜香が懐から取り出したのは、重衝の似姿数枚。
「「「‥‥‥‥‥‥」」」
 束帯姿や天護隊の隊服だったりと、格好は様々だが、それは間違いなく、探し人の似姿だ。
「‥‥あのお方が、こんなものを作らせるとは思えないのですが‥‥」
 何枚かを手に取った涼霞の困惑した呟きに、春香がきょとんと首を傾げる。
「私は重衝さんにお会いした事がありませんので、妹さんにお伺い致しましたら、色々お話を聞かせて下さいました。鍛錬にも熱心で真面目でお優しいお兄さんだとか。羨ましい限りです。あ、この似姿は妹さんから頂いたのです。「ひーすけ兄様」と彫られた、美しい螺鈿の手箱の中に沢山納められておりました」
「そ、そうですか‥‥」
 それ以外に何と言えばいいのだろう。
 言葉に詰まって、涼霞は仲間達を見た。互いに目を逸らし合うのは、彼女らが少なからず「重衝」の為人を知っているからであろう。
 彼を探すという依頼を受けた以上、この任は果たさねばならない。
 そうすると、必然的に桜香も真実を知る事になる。
「でも、今は‥‥」
 少しぐらい桜香に夢を見せてあげよう。
 真面目で妹に優しい兄、しかもお育ちの良い貴族の御曹司。それだけを並べれば、少女の頃に誰もが1度は憧れる、いつか自分を迎えに来てくれる草紙の中の殿方に思えない事もないのだから。
「そういえば‥‥」
 似姿を見つめていた桜香がぽつりと呟く。
「な、何?」
 何故だか焦った素振りの煌夜に首を傾げつつ、桜香は似姿を彼女に差し出しかけ、動きを止めた。
「この方‥‥いえ、何でもないのです。ごめんなさい」
 そのまま黙り込んでしまった桜香に、話題を変えるべく涼霞が口を開いた。
「しかし、重衝様にも困ったものですね」
「一応、千歳姫の心当たりも軽く当たってみたんだけど、影も形も見えなかったわ」
 煌夜の報告に、揃って溜息をつく。 
「ですから、お花見です! 美味しいお団子‥‥じゃなくて、重衝様なら、お酒を頂いてのお花見だと思います。それに綺麗なお月様が揃うと言う事はないのだそうです!」
 それだ!!
 天花が何気なく発した一言に、仲間達は即座に反応した。
「はい?」
「この辺りで静かに桜と月を愛でる事が出来る場所ってあるのかしら」
「梓馬さんとか、知らないかしら?」
 突然にてきぱきと動き出した仲間達を、天花は団子を手にしたままで不思議そうに眺めていたのだった。

●月と桜と
 小さな杯を満たす酒に、はらり花びらが舞い落ちる。
 騒々しい街中では桜の風情を楽しむ気にもなれない。時折、獣やアヤカシに邪魔しに来るが、さくっと斬り捨てられる分、酔っ払い達より遙かにマシである。人里からもさほど離れていないので、食料や酒の調達にも事欠かない。
「重衝はん、見〜っけた!」
「何か」が背中にぶつかって来た衝撃で、杯の中の酒が零れて空になる。
「‥‥‥‥」
 近づいて来る気配は感じていたが、里の人間か、獣の類だと思っていたのだが。
「まったく。少しは人の苦労というものを考えろ! こんな山奥までおまえの為に足を運ばねばならない者の苦労というものを!」
「見事捕獲。お手柄だな、璃陰」
「楓はん、梓馬はん」
 繁みが揺れたかと思えば、次から次へとどこかで見た顔が現れる。
 わざとらしく溜息をついた重衝に、つかつかと歩み寄ったのは楓だった。
「妹さんからの依頼だ。お前の怪我を純粋に心配する妹さんの事も少しは考えてやれ!」
 純粋。
 後に続こうとした者達が、その一言に疑問を抱くよりも早く、楓が更なる一撃を見舞う。
「千歳殿と言ったか。線の細そうな娘さんではないか!」
 ぐらりと傾いだ体を近くの木で支えた煌夜の肩を、梓馬が気遣うように叩く。
「なんでそんなに帰るん嫌なん〜?」
 重衝の背に抱きついたまま、璃陰が問うた。その無邪気さに、ほんのちょびっとだけ、心的打撃を受けていた者達が癒される。だがしかし、それは更なる打撃の布石に過ぎなかった。
「もしかして郭に行くん〜? 今度、わいも一緒に行ったるさかい、今は我慢して帰ろ〜?」
 予期せぬ一撃に、大人達は凍り付いた。
「郭? 郭って何ですか?」
 そして、更にその打撃を広げる者が約1名。
 璃陰と天花。
 天然無敵流免許皆伝の2人は「混ぜるな、危険」である。
「ちょ、ちょっと貴方たち‥‥」
 呆気に取られていた煌夜が2人のこれ以上の暴走を防ぐ為に動き出したその時、地を這うような声が響く。
「貴様ら‥‥子供に何を教えている‥‥」
「ま、待て。それは濡れ衣だ」
 璃陰の突然の発言に、一瞬意識を飛ばしかけていた梓馬が、無実を訴える。だが。
「何や? 子供には行かれへん所なんか? でも、大丈夫や! わいはこう見えてもそこいらの子供とは違うんやからなっ! そんで、いつか立派な「よたか」になるんやっ!」
 トドメの一言に、花びらが幻想的に舞い散る静かな山間は一瞬にして焦土と化した‥‥。

●高遠家にて
「‥‥こんなお怪我を放っておかれるなんて」
 やや強引に重衝の腕を取り、巻かれていた包帯を解いた涼霞が顔を歪めた。本人は大した事ないと言ってはいたが、苦無で貫かれた腕は、まだ傷口が生々しい。巫女の治癒も受けず、ただ化膿防止の薬草を貼り付け、包帯を巻いていただけのようだ。
「これぐらいの怪我は日常茶飯事だ。いちいち大騒ぎする必要はなかろう」
「しかし、怪我の為に休暇を取られたと伺いました」
 ふん、と重衝は鼻で笑った。
「俺がなかなか家に寄りつかんので、上が気を回したのであろうよ」
「‥‥ごめんなさい」
 突如、ぽつりと謝罪の言葉を呟いた涼霞に、重衝は片方の眉を器用に跳ね上げる。
「何故、貴様が謝る」
「あの時、私がちゃんと止める事が出来ていたら‥‥」
「それを言うなら、私もです」
 包帯やら薬やらを用意していた輪がずいとにじり寄る。
「重衝様のお怪我は弟のせいですもの。お詫び申し上げるのは私です。それに、お礼も‥‥。氷雨を、殺さないでくれたから‥‥」
「殺せとの命は受けていなかったからな‥‥」
 興味無さげに、重衝は酒の杯を口元に運びかけ、涼霞に取り上げられた。
「なりません。怪我人は大人しく薬湯でも飲んでいて下さい」
「‥‥おい」
 手早く酒と杯を片付ける涼霞を、輪も援護する。
「涼霞さんのおっしゃる通りですわ。‥‥そうだ。疲れた体には甘いものがよろしいのです。お団子などいかが?」
 露骨に嫌そうな顔をした重衝に、輪は頬に手を当てた。
「お気に召さないのでしたら‥‥そうですわね。やはり、薬湯で我慢して頂くしかありませんね」
 んふふ。
 微笑む輪の顔が、妙に楽しげなのは見なかった事にしよう。
 そう心に決めつつ、梓馬は杯の酒を飲み干した。口当たりのまろやかな、飲みやすい酒だ。口に含んだ瞬間、桜の香りが広がる上物の、春の夜を愛でるに相応しい酒。
 そんな趣きとは無縁の匂いを放つ薬湯の椀を押しつけられた重衝の傍らにちょこんと座ると、桜香はじぃと彼を見上げた。
「桜香? どうかしたの?」
 それに気付いた煌夜が問う。
「ジルベリアの戦の折に、依頼でご一緒した方に似ておられるような気がして‥‥」
 噎せかけた煌夜の内心も知らず、「そういえば」と天花も桜香に同意した。
「重さんですね。確かに、似ていらっしゃるかもしれませんね」
「ちょ、ちょっと2人とも‥‥」
 高遠家で、今、その話をするのはまずいのではないか。
 煌夜と涼霞が考えたのは同じ事だ。
 重衝に兄がいる話は聞いた事があるが、桜香と天花が言わんとしている人物は、度がつくお人好しで、他人の赤ん坊を「あなたの子」だと押しつけられ、寒空の下、汚れたおしめをひたすら洗い続けるような男だ。
 とてもではないが、お宅のご長男では? なんて聞けやしない。
「俺に‥‥似ているのか? どんな奴だ?」
 興味を示した重衝に、桜香はにこやかに語った。
「はい、泣きながら飛空挺に抱きついておられました」
 桜香よ、お前もかっ!?
 青ざめた煌夜と涼霞を余所に、璃陰が更に余計な事を付け足す。
「重兄やんは、わいに「よたか」の事を教えてくれたんや!」
 邪気のないお子様達の発言に開拓者が凍り付くのと同時に、ころころと軽やかな笑い声が響いた。重衝も小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
「もーりぃ兄様は、そのような事をなさる方ではありませんゆえ」
「そうなの?」
 しとやかに、にこやかに頷いた千歳に、釈然としない表情の仲間に苦笑し、梓馬も再び杯を口元へと運びかけて、ふと気付く。
「‥‥千歳姫、あの男は何をしているんだ?」
 部屋の隅に控えている男を視線で示した梓馬に、扇で口元を隠しつつ、千歳は上機嫌に答えた。
「あれは絵師。怪我をされて養生されている兄様のお姿を絵に残しておるのじゃ」
 さも当然の如く返って来た答えに、梓馬は重衝が自宅に戻りたがらない理由の一端を見たような気が‥‥した。