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■オープニング本文 ●お社で 楼港の外れに小さな社がある。 不夜城、楼港の人々に親しまれてきた社なのだろう。訪れる人が絶えないらしく、社は供えられた花や菓子でいっぱいだ。 ごくありふれた、どこの町にでもある光景に、女はほっと肩の力が抜けるのを感じていた。 気を張り続け、疲れ果てていた神経がじんわりと解けていくようだ。これも社に祀られた精霊の御利益というものだろうか。 「先払いで頂いた御利益のお礼に、お参りをして行きましょうか‥‥」 腕の中の赤子に話しかける。母の心労を知ってか知らずか、赤子はむずかる事もなく、静かに母を見上げていた。そのつぶらで純粋な瞳に映る己の姿からそっと目を逸らし、女は社の前に膝をついた。 「可愛いお子でありんすなぁ」 不意にかけられた声に、女は体を強張らせた。短刀は懐にあるが、未だ片手を布で吊られた状態では、赤子を抱えたままでは戦えない。離れて警護についていた犬神のシノビ達が殺気立つ。相手が少しでも妙な気配を見せたら、彼らは即座に動くであろう。 警戒も顕わな女の様子に気付いただろうに、豪奢な着物で着飾った娘は素知らぬ顔で女の隣に膝をつき、手を合わせると、裾を払って立ち上がった。 「さ、陽も落ちて寒うなりんした。お子が風邪を引かれたら事でありんす。お茶でも一服頂いて、温かくして帰っておくんなんし」 「いえ、私は‥‥」 固辞しようとした女に、娘は口元を引き上げる。 「わっちは高華楼の夕霧でありんす。わっちの誘いを断るお人なんぞおりんせん」 僅かの間、女は躊躇した。高華楼と言えば、楼港でも名の知られた店だ。だからと言って油断は出来ない。上忍四家の影響下にない特別な場所とはいえ、遊女に身をやつしたシノビがいないわけでもないのだ。 だが、ここで夕霧の誘いを断り、自分達の存在を客や仲間の遊女達に語られても得はない。 「お茶だけ‥‥でしたら」 渋々頷いた女に、夕霧は満足げに頷いた。 ●茶室の密談 彼女が通されたのは、高華楼の中庭にぽつんと立てられた奇妙な小屋だった。 高床に平屋根、周囲は池が囲んでいる。中庭に面した渡り廊下は遊女や客達が行き交っている。これでは、いかな犬神衆とて、周囲に潜んで中の様子を窺う事は出来ないだろう。 小屋への階に足を掛けた夕霧がくすりと笑う。 「茶室に必要なのは炉と茶釜だけというのが、親父様の信念でござんして、このような風情も何もない造りとなっておりんすよ。‥‥茶道具を」 店に入った時から、ついて来ていた禿が可愛い声を上げて駆けて行く。 「さ、入っておくんなんし」 茶室に入り、戸を閉めれば、そこは外部からは隔絶された空間となる。 「さて、ここからは誰の目も耳も気にする必要はありんせん。‥‥犬神氷雨様、どうぞお座り下さんし」 やはり、という思いが女‥‥氷雨の体を駆け抜けた。殺気を隠す事ない氷雨に、夕霧は茶を点てる支度をしながら、語り出した。 「楼港の遊郭には、色んな話が聞こえてくるでありんして。賭け試合の事、その原因の事‥‥。そんな時に、お子を連れた大怪我をした女子がいるという噂。情報に通じた者であれば氷雨様に違いないと、すぐに分かる事ではありんせんか」 「そ‥‥」 夕霧は居住まいを正して、氷雨へと向き直る。 「氷雨様とお子は、今、大変危険な状態にありんす。敵と狙う者達だけではなく、お身内の中にも氷雨様とお子を良く思わぬどころか、お2人を消そうとする方々がおられるでありんしょう」 「それ、は」 俯いた氷雨が抱いた赤子へと、夕霧はそっと手を伸ばした。 「こんな可愛いお子を危険な目に遭わせたくはありんせんなあ‥‥」 「この命に替えても、この子は守って見せます」 決死の覚悟を口にした氷雨に、夕霧は緩く首を振る。 「そのお体では、襲って来る全てからお子を守るのは難しいかと」 「難しかろうと、私は‥‥」 「不可能、と申せばよろしいでありんすか」 厳しい声に、氷雨はぎゅっと唇を噛んだ。確かに夕霧の言う通りだ。だが、この子‥‥但馬と自分の血を受け継ぐこの子だけは、何があっても守らなければならないのだ。 「お子を守る為に、何でもする覚悟はありんすか?」 「無論」 氷雨の手を、温かな手が包み込む。 「では、わっちにお子をお預け下さいなんし。この天儀で一番安全な場所で、お子をお守りすると誓うでありんすよ」 「そんな事は」 握られたままの短刀を、夕霧はゆっくりと自分の首に近づけた。 「もしも、お子に何かありんしたら、わっちの首を掻っ切っておくんなんし」 信じてもいいのだろうか。 躊躇する氷雨の耳元で、夕霧は更に声を潜めて何事かを囁いた。 ●夕霧 「わっちの名を、よくも勝手に使ってくれなんしたなあ」 華やかな花魁装束に身を包んだ女が柳眉を逆立てる。 「仕方ありんせん。この借りは必ず返すでありんすから、今回だけは目を瞑っておくんなんし」 悪戯っぽく片目を瞑ると、花魁は不承不承ながらも怒りを鎮めたようだ。己の名を騙った女が腕に抱いた赤子を覗き込み、相好を崩す。 「本当に可愛いお子でありんすなあ。このお子の為なら、この夕霧、一肌も二肌も脱ぐでありんすよ」 「高華楼一の花魁にそこまで言わせるとは、末恐ろしいお子でありんす」 くすくす笑って、夕霧を名乗った女は赤子を抱き直した。 「どこへ行くおつもりでありんすか?」 「氷雨様との約定、違えるわけには参りんせん」 「それだけで大丈夫でありんしょうか。氷雨という御方は大怪我をされておりんすが‥‥」 心配げに問うてくる花魁に、女は軽く頷いてみせた。 「氷雨様には、開拓者ギルドに出来るだけ多くの依頼を出すよう申し上げてありんす。開拓者が氷雨様のお側につけばつくほど、あの御方の安全は保証されるでありんしょう。このお子の為にも、開拓者の方々には頑張って貰わんといけんせんなぁ」 ●護衛依頼 開拓者ギルドに、犬神氷雨の名で依頼が出されたのは、その翌日の事であった。 依頼の内容は、自分と赤子‥‥朧谷の里の後継者である秋郷を守って欲しいというものである。 賭け試合の成り行きを見届ける為に楼港へやって来たものの、氷雨の怪我は思わしくなく、我と息子の身に危険を感じているらしい。 「護衛のシノビがついているんじゃないの?」 眉を寄せた女開拓者の目の前、険しい顔で輝蝶は依頼書を手に取った。 「シノビの世界は色々複雑みたいだぜ? 護衛っても、いつ寝首を掻かれるか分からないなら、安心して休む事も出来ないわな」 そのまま、輝蝶は受付台へと歩み寄り、依頼受理の手続を行う。 「受けるの?」 「ったりめぇだろ。怪我した女と赤ん坊、守ってやらなきゃ男が廃るじゃねぇか!」 依頼人は具合が悪いとかで息子と2人で宿の部屋に籠もりきりらしい。ただ守るだけなら楽な仕事なのだろうが、シノビの世界に属する者が対象だ。何が起きるか分からない。 「暗殺なんてのはお家芸だからな。気は抜けねぇぞ」 |
■参加者一覧
滋藤 御門(ia0167)
17歳・男・陰
音有・兵真(ia0221)
21歳・男・泰
時任 一真(ia1316)
41歳・男・サ
喪越(ia1670)
33歳・男・陰
楊・夏蝶(ia5341)
18歳・女・シ
沢村楓(ia5437)
17歳・女・志
桐崎 伽紗丸(ia6105)
14歳・男・シ
神咲 輪(ia8063)
21歳・女・シ |
■リプレイ本文 ●潜む親子 その女性と赤子が滞在している宿の離れは、奇妙な程に静まり返っていた。 まるで、そこには誰もいないかのようで、周囲の警護にあたる開拓者達を不安にさせた。だが、時折聞こえる、弱々しい赤子の声が、彼らが確かに存在する事を教えてくれる。 「氷雨さん、お怪我の具合はいかがですか?」 障子ごしに声を掛けた滋藤御門(ia0167)にも、何の返事も戻らない。 自らが募った開拓者でさえも、氷雨は信じていないのかもしれない。 「止血剤と包帯をお持ちしました。えーと、これは万商店で購入して来たものばかりなので、危険はないと思います。食事も、僕達で調達し、毒味もする事になっています」 しばらく待ってはみたが、やはり返事はない。 「あの、ここに置いておきますと申し上げたいのですが、目を離した隙に何か仕込まれても困りますから、この品々が入るだけで構いませんから、障子を開いて頂けませんか」 やがて、部屋の中で衣擦れの音がした。 障子の向こうに立つ気配に、御門は思わず息を詰めて、障子が細く開いていくのを見つめてしまった。 「氷雨‥‥さんですか?」 「‥‥はい」 静かな、諦め切ったように静かな瞳をした女性が、小さく頷く。 「これを‥‥。中を改めて頂けたらお分かりになると思いますが、薬と包帯です。それと、これは秋郷くんに」 薬に添えて差し出したのは、もふらのぬいぐるみだ。 氷雨の表情に戸惑いに似た感情が走る。だが、それも一瞬の事。 「僕達は交替で、この離れを警護しています。仲間にシノビもいますけれど、彼らはシノビである前に開拓者なので、安心して下さいね」 返ったのは微かな頷きだけだった。 音もなく、元の通りに閉ざされた障子を見つめて、御門は苦笑を漏らした。 「よお、アミーゴ、天の岩戸は開いたかーい?」 「ほんの少しだけ‥‥。やっぱりアマノウズメの踊りが無かったからでしょうね。次はお願いします」 にっこり笑って切り返した御門に、喪越(ia1670)が大袈裟な身振りで驚きを表現してみせる。 「おう! 俺に脱げって事か!? 脱げって事かあ!?」 「見たくありませんから、脱ぐ必要はありませんよ」 にこにこ。 笑顔の分だけ、何か怖い。 だが、喪越にも彼の苛立ちの理由は分かる気がした。 「しっかし、人間模様が入り乱れてやがるな。ま、浮き世はこうでなくちゃいけねぇ」 「でも、何の罪もない赤ちゃんまで巻き込む必要はありません。命を狙われていなければ、親子でのんびり庭を見て過ごす事だって出来るものを‥‥」 閉ざされた障子を振り返った御門に、ぬっと腕が突き出される。 交替でやって来た時任一真(ia1316)だ。 仲間うちで決めた目印を素早く確認して、御門は頷きを返す。けれど、普段は緩く、飄々としている一真から発せられたのは、辛辣な言葉であった。 「自分の腹を痛めた産んだ子から父親を奪ったのは、彼女だろ。氏族やら何やらがあったんだろうけど、それで母親として子供に顔向け出来るのかい?」 部屋の中に聞こえるように言い捨てると、皮肉げに口元を歪めた一真に、御門と喪越は互いに顔を見合わせる。 「一真さん‥‥本当に一真さんですか?」 「心配するな。見分ける方法ならある。本物のアミーゴなら、俺のこのリズムにノってくれるハズだからな?」 「「無理です」」 体を小刻みに揺らし始めた喪越に、御門と一真から同時にツッコミが入る。 「なんだなんだ、ノリが悪いなぁ、おい」 「喪越さんのノリについていく事が出来る人は少ないと思います」 おっとりきっぱり、喪越の主張を一刀両断して、神咲輪(ia8063)はぺこりと頭を下げた。 「少し遅れてしまいまして、申し訳ありません」 「あー、確か市に行くとか言ってたっけ」 ぽりと頭を掻いた一真に、はにかんだ笑みを向ける。彼女の手にあるのは、団子やおはぎの包みと茶道具一式だ。 「折角の良いお天気ですから、お茶でも‥‥と思いまして」 「そりゃいいねぇ」 ぽわんと和んだ一真の耳を摘むと、喪越はずりずりと彼の体を引き摺って持ち場へと向かった。 「残念だなぁ、アミーゴ。俺たちゃ、周辺警護。離れの警護じゃないんだな、これが」 持ち場へと向かう一真と喪越の背に、輪が声を掛ける。 「お2人の分もちゃんとありますから、ご心配なく〜」 「後で僕が届けてあげますよ。ただし、サボっていたら没収ですからね」 不満の声をあげる2人に、御門と顔を見合わせてくすくす笑う。 「輪さんの気持ちが氷雨さんに届いて、少しでも打ち解けてくれるといいですね」 「はい」 大きく頷いて、楽しげに駆けて行く輪の姿に、御門にもようやくいつもの笑みが戻ったのだった。 ●午後の一時 氷雨達のいる部屋から少し距離をあけた廊下の一角で、刀を前に正座していた沢村楓(ia5437)は、ふと顔を上げた。 「楓さん、交替の時間ですが、もう少しだけお付き合い頂けませんか?」 縁側から声を掛けて来た輪に、僅かに首を傾げ、彼女が手にしている品々に「ああ」と納得した。 「私は構いませんが」 「ありがとうございます!」 言うが早いか、輪は軽やかな足音を立てて、数段の階をのぼる。主の動きに合わせて、ふわりと流れる柔らかな髪に目を細めると、輪を手伝うべく、楓も立ち上がった。 「氷雨さん、今からちょっとだけ騒がしくしますね。あ、楓さん、お水は大丈夫だと思いますけれど、一応、確認をお願いします」 「分かりました」 輪が汲んで来た水を器に移すと、小魚の入った鉢に注ぐ。 「‥‥大丈夫です。湯を沸かします」 淡々と告げて、楓は用意されていた炭を熾し、釜で湯を沸かし始めた。風炉釜は時期を外れるが、この際、仕方がない。 「氷雨さん、甘味はお好きですか? 色々買って来たんです。お店で味見‥‥じゃなくて、毒味もしてますから、安全ですよ」 それから、と輪は懐から端布で作られたお手玉を取りだした。 「これは秋郷くんにお土産です。ここに置いておきますから、良ければ遊んであげて下さいね」 障子の前にお手玉を積むと、輪は楽しげに茶の準備を続ける。静かに短く、障子が桟を滑る音がしたが、あえて視線を向けずに輪は道具を並べていく。 「‥‥以前」 細い声が聞こえた。 「庭を見ながら茶が飲みたいと言われて‥‥道具だけを部屋に持ち込んで‥‥作法も何もなくお茶を点てた事があります」 「綺麗なお庭だったのですか?」 息だけで笑う気配が伝わって来る。 「手入れはしておりましたが、風流なものでは‥‥。ただ、萩が見事だから、秋郷も一緒に‥‥と」 「そうですか」 交わされる短い会話を聞きながらも、楓は周囲の気配を探っていた。 犬神の護衛と、依頼された仲間達の気配。これは変わらない。変わらないが。 「‥‥」 手を止め、険しい表情で顔を上げた楓に、輪は僅かに開いていた障子をぴしゃりと閉めた。 「秋郷くんと一緒に。心配しないで下さい。この離れには、犬神の人達だけじゃなくて、私達の仲間も詰めているんですから」 ●破られた平穏 交替の時間になったからといって、ただ休むだけでは能がない。 庭師を入れているのだろう。手入れの行き届いた木立の間を散策しながら、音有兵真(ia0221)は油断なく周囲に警戒の目を走らせていた。襲撃者が侵入しやすい経路、潜伏しやすい場所を1つでも見つけられたら御の字‥‥程度に、考えていたのだが。 「‥‥見つけたくないものを見つけてしまったかなぁ」 もう何度も散策して覚えてしまった庭の配置。 常であれば死角になるであろう場所も、兵真は残さず確認している。その1つに、落ち葉に埋もれた腕が1本、突き出していた。ざっと落ち葉を掻き分けると、身包み剥がれた男の死体。身元を証すものは何1つとして残されていない。その徹底ぶりが、逆に、その死体が何処の者であるのかを兵真に告げていた。 「早めに知らせた方がいいよな。でも‥‥」 離れを振り返り、兵真は口元を上げた。 「潜入した者が動くのが早くても、あいつらが何とかしてくれるだろ。だとしたら、俺は‥‥」 敵は、犬神の護衛だけでなく、開拓者が常駐している事を知っている。暗殺という手段の成功率が低いとなると、潜入者の騒ぎを合図に攻め込んで来る可能性の高い。 「迎え討つ態勢を整えておくか」 足早にその場を離れた兵真は、門から続く道を歩いて来る2人に目を留めた。 輝蝶と、彼が気に入ったらしい楊夏蝶(ia5341)だ。食事に毒を仕込まれる可能性を考え、食べ物も自分達で調達すべく、市へと出掛けていたのだ。夫婦者を装っているらしく、夏蝶は輝蝶の腕に手をかけて、仲睦まじく笑い合っている。 「輝蝶、夏蝶!」 2人に駆け寄ると、小声で囁く。表情を変えた夏蝶が駆け出すと同時に、兵真と輝蝶も二手に分かれた。 いつ、どこで戦いの火ぶたが切って落とされるか分からない。現在、警護の任に当たっている仲間達の援護の為だ。 初冬の穏やかな午後は、気付かぬうちに忍び寄っていた影によって、いつとも知れぬ間に終わりを告げていたようだった。 ●絆を守る者 「‥‥家族っていいよね」 離れの屋根裏で、思わず口をついて出た言葉に桐崎伽紗丸(ia6105)は苦笑した。 心の中で思っていた事が、つい表に出てしまった。 「赤ちゃんを親無し子にしない為にも、お母さんを守ってあげなくちゃ。ね?」 最後の一言は、近くに身を潜めているはずの犬神の護衛に向けたものだ。同じ氏族同士でさえも信用出来ないなんて、伽紗丸には信じられない事だ。赤の他人でさえも、家族同然に支え合って暮らしていけるのに、どうして同じ氏族の者が寝首を掻こうとするのだろう。 シノビの氏族には「情」というものが存在しないのかもしれない。 ーーそう言えば、赤ちゃんのお父さんは‥‥お母さんが殺しちゃったんだよな‥‥ 考えれば考える程、伽紗丸には理解出来なくなって来る。夫婦の間に何があったのかは分からないが、絆で結ばれた氏族と、絆を結んだ夫婦、そして、その結晶とも言える赤ん坊が、こんな辛い目に遭うのは間違っていると思う。 膝を抱え込んだ伽紗丸は、次の瞬間、体を倒した。 それまで彼が座っていた場所に突き立ったクナイ。狭い場所にもかかわらず、伽紗丸はそのまま転がって懐の短刀へと手を伸ばした。 下の部屋の様子も気になるが、今は突然の襲撃者を退ける事が先だ。 結果的に、それが氷雨と秋郷の無事にも繋がるのだから。 「っ! このっ!」 伽紗丸が目の端に捉えたのは、真っ黒の忍び装束に身を包んだ者だ。何者かは不明だが、襲い掛かって来る者に遠慮などいらない。 「兄さん、姉さん達、お母さんと赤ちゃんは任せたよ!」 犬神の護衛が援護に飛んで来る。しかし、シノビ装束のままでは、誰が味方で誰が敵か分からなくなる。 「ええいっ! 面倒くさい! 襲って来るのが敵! それでいいやっ!」 伽紗丸の出した答えは単純で、それだけに的を得ていたのだった。 ●シノビの覚悟 膝を着いたまま抜いた刀が、襲い来るシノビを切り裂いた。 更に、輪が咄嗟に返した釜の熱湯を浴びせられて、シノビはもんどりうつ。 「楓さんっ! 輪さんっ!」 姿を現した夏蝶に、離れを囲んでいたシノビ達の意識がそれる。その一瞬を逃す楓ではなかった。抜き放たれた刀が、次々とシノビ達を斬り伏せて行く。 夏蝶の放った雷火手裏剣も、木の上や屋根の上にいた者達を過つ事なく貫いていく。 「どこの手の者ですか!?」 「分かりません!」 戦いの合間に短く交わされる会話。 その間にも、数名のシノビが地面に倒れ伏す。 「まったくもう! 女の子にばっか押しつけてくれちゃってっ! 今日はおかず一品ずつ抜いちゃうんだからっ!」 「ひどいなぁ、夏蝶の姉さん。おいらはおいらで頑張ってたんだけどー」 屋根に足をかけて、逆さに顔を出した伽紗丸の頬には薄く一筋の傷が出来ている。 「一真の兄さん達も、多分‥‥」 伽紗丸は、ちらりと広い庭へ視線を向ける。 その先では、彼の予想通り、一真と喪越が黒い集団に囲まれていた。 「ん〜‥‥おっさん2人組は、やっぱ与し易しと見られたかあ」 「そーゆー発言は、繊細な男心が傷つくんだけどなぁ」 小刻みに体を揺らして楽しげな喪越と、頭を掻いたかと思うと大欠伸を漏らした一真に、黒装束の集団は戸惑ったに違いない。これだけの人数に囲まれても勝てるという自信があるのか、それとも、ただ呑気なだけなのか。 攻めかねて、シノビ達が互いに見交わした瞬間、それまでのんびり呑気に構えていた一真が地面を蹴った。 同時に喪越も動く。 「ヘイ、アミーゴ、殺しちゃダメなんだぜ?」 「分かってるって」 だが、シノビは彼らが考えている以上に怖ろしい相手だった。 恐らくは歯に仕込んでいたのだろう。 捕らえた全員が服毒自殺をしたのだ。当然ながら、どこに属するシノビであるのか、一片の手掛かりも残さずに‥‥である。 「やれやれ、どうしてこう命を無駄にするのかな」 死体を検めるという、あまり気持ちのよろしくない仕事を終わらせて、兵真が呟いた。 「これが、氏族に縛られたシノビ‥‥なのですね」 並べられたシノビ達の亡骸に手を合わせていた御門が、離れを振り返る。 楓や夏蝶達によって隙なく守られた離れの中には、同じく氏族に縛られたシノビが1人。 彼女が背負ったものの重さを、開拓者達は改めて感じ入ったのだった。 ●残る謎 「‥‥でありんす」 不意に聞こえて来た囁き声に、夏蝶は顔を上げた。 どこで、誰が誰と話しているのだろう。 ここは氷雨と秋郷が養生し、警護の者達以外、近づく事が出来ない離れだというのに。 「‥‥ですか」 答えているのは氷雨だ。あの後、何度か言葉を交わしたから聞き間違える事はない。 「‥‥っちの‥‥元気‥‥」 「‥‥いします」 そっと、夏蝶は気配を消して立ち上がった。話している相手を突き止める為だ。共に警護についていた楓も、中からの話し声に気付いていたようだ。頷きで夏蝶の背を押した。 離れの裏は母屋との間にある柵と低木の庭、そして母屋へ続く小道がある。当然ながら、そこにも警護の仲間がいるはずだ。 「兵真さんは庭を見回ってくれているはずだから、裏は御門さんと輝蝶さんね。2人が何か気付いていてくれるといいんだけど」 だが、夏蝶の話に2人は顔を見合わせて首を傾げるばかりだった。 「僕達はずっと、近づいて来る者がいないか見張っていましたけど、誰も来ませんでしたよ?」 その頃。 氷雨は部屋の中にふよふよ浮かぶ蝶に、自由になる手を差し伸べて寂しげに微笑んでいた。そっと口元に指を当てて、蝶を放つ。 「‥‥ふぅん、そーゆー訳ね」 蝶に似せた符で一部始終を見ていた喪越は、そういうカラクリかと肩を竦めた。 蝶の目で見たのは、小さな揺り籠。もふらのぬいぐるみとお手玉を添えられ、御包みにくるまれて籠の中にいたのは、赤子の形をした人形だったのだ‥‥。 |