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■オープニング本文 母は、潔いものが好きな人だった。 人でも、ものでも。潔く、儚く、だからこそ美しいものを夏維(なつい)の母は愛した。それを守るために全力を尽くすことを尊んでいて、そのようなものでありたいといつも願っていた。 今、母の加奈芽(かなめ)を思い出して夏維が思うのはその事だ。美しいものを愛し、潔きものを好んだ母は、半月以上前にアヤカシから村人を庇って死んだ。たぶん何のためらいもなく、当然のようにその選択肢を選んだ。 そんな事を思ったのはもしかして、部屋から見える村の景色がとてもうららかな、春の息吹を感じさせたからかもしれない。遠くには桜の老樹。潔きものを好む母が愛した、潔き花。 きっと今頃は膨らみ始めた蕾を抱いて、もうそろそろ咲かそうか、と思い悩んでいる頃に違いない。この頃になると母はそう言って、老樹を指さしクスクス笑ったものだ。そうして桜が咲けば、夏維と静瑠(しずる)をつれて老樹の下で桜を見上げ、早くも散り始める桜の花弁を受け止めては香に練り込んだり、よく乾かして小袋に入れて持ち歩いていた。 老樹を見て、夏維はそんな事をとりとめもなく思い出す。ただ思い出して、日が明けては暮れていく。 ◆ 神立静瑠(かみたち・しずる)が『金剛』と名乗る陰陽師集団に所属するようになった理由は、至って単純明快だ。ある日故郷の村を襲ったアヤカシに喰われかけた所を『金剛』の陰陽師・浦西加奈芽に救われた彼は、志体があったことを幸いに加奈芽の役に立つ為サムライになり、協力者という建前で『金剛』に所属して、加奈芽の愛する一人息子を守ってきた。 そう思えば、彼女の最後はとても『らしい』と静瑠は諦めとともに嘆息する。加奈芽の死は今でも胸が塞がる思いだけれど、それが加奈芽という人なのだと納得せざるを得ない。 だが、と静瑠はもう一度息を吐き、もうずいぶん部屋から出てこない少年を思った。食が細くなったわけではない、眠りが浅くなったわけでもない。けれども日がな一日母と暮らした家の窓から外を眺め、ただそれだけで一日を終えるのが、本来の姿の訳はない。 (‥‥あれじゃあ、そのうち身体を壊すぞ) 食べているうちはまだ良いとは言え、逆にそれが不安を煽る。だが側についていても静瑠を逆に気遣う夏維に、どうしたら良いのか解らなくてここ数日は食事の時以外は顔を合わせていない。 どうしたら良いですか、と胸の中の加奈芽に問いかける。加奈芽は恩人で、憧れの人で、師でもあった。こんな時加奈芽がいたらきっと、静瑠には思いも寄らない道を示してくれるはずなのに。 加奈芽はもう居ない。だから静瑠はむっつりと押し黙り、どうすれば良いのかを考える。うっかり見かけるたびに拾ってくるので、随分増えてしまった犬や猫やイタチなどに餌をやりながら、考え、考え、また考えて。 「‥‥雪桜」 ふと思い出し、村の外に視線を向けた。『金剛』が本拠地を構える村の郊外に悠然とそびえ立つ桜の老樹。満開に咲いた花が降り散る様が雪のようだと、加奈芽は老樹に愛称をつけて呼び親しんでいた。 すっかり忘れていたけれど、もうそろそろ雪桜に花がつく頃だ。花の頃には毎年加奈芽と夏維と静瑠、3人で老樹の下でのんびり過ごし、桜の花弁を集めたもの。 あの老樹の元へ、夏維を連れて行ってみてはどうだろうか。かつてと同じように桜の花弁を集めて、加奈芽の愛した桜の香を作って。そうして過ごせばもしかして、夏維の心を動かすきっかけになるかもしれない。 そう思い、だがそこで問題に気付いて静瑠はぐっと眉を寄せた。生憎、自分があまり人を気遣える性格ではない事を、彼はとっても自覚している。そんな自分と夏維が2人だけで行けば、結局何も変わらないのかもしれない。 しばし、その事実について真剣に悩んだ静瑠はやがて、うん、と1つ頷き庚(かのえ)の元へと足を運んだ。『金剛』の指導者である彼女は、同時に加奈芽の死を悼む親友でもある。 「雪桜の花見に人を呼びたい?」 「ああ。俺や庚や、他の陰陽師じゃ夏維の気晴らしにならんでしょう」 そう言った静瑠の言葉に、そうだねぇ、と庚も憂い顔になる。夏維がふさぎ込んでいる事は、庚ももちろん知っていた。だが彼女にだって出来ることはとても少ない――陰陽師の術ならば幾つも納めてきたというのに。 「良いだろうよ。お前に任せようじゃないか‥‥あの子の事は、加奈芽を除けばお前が一番よく判ってるんだからね」 だから庚は当然のように頷いた。彼女とて親友の息子をこのままにしておくのは忍びない。その為に今取れる一番良い手段がそれだと静瑠が言うのなら、それが一番正しい事を庚は知っている。 そんな庚にぶっきらぼうな謝意を述べて、静瑠はくるりと背を向ける。あのサムライに愛想の一つも教えなかったのは親友の手落ちだと、庚は小さなため息を吐いたのだった。 |
■参加者一覧 / 香椎 梓(ia0253) / 桔梗(ia0439) / 柚乃(ia0638) / 鷹来 雪(ia0736) / 玖堂 柚李葉(ia0859) / 深山 千草(ia0889) / 酒々井 統真(ia0893) / 氷(ia1083) / 礼野 真夢紀(ia1144) / 喪越(ia1670) / 倉城 紬(ia5229) / 黎阿(ia5303) / 頼明(ia5323) / 由他郎(ia5334) / 設楽 万理(ia5443) / 紗々良(ia5542) / 菊池 志郎(ia5584) / からす(ia6525) / 神咲 輪(ia8063) / 玖堂 紫雨(ia8510) / 和奏(ia8807) / リエット・ネーヴ(ia8814) / 滋藤 柾鷹(ia9130) / アルーシュ・リトナ(ib0119) / リン・ヴィタメール(ib0231) |
■リプレイ本文 うららかな日和だった。柔らかく眩しく暖かい日差し。見上げれば枝一杯に咲き誇る桜。その場所で、礼野 真夢紀(ia1144)は紙を広げ、矢立から筆を取って書き付ける。 『姉様、ちぃ姉様。本日もお花見に行ってまいりました。でも今回は、先日の手紙に書いたような皆でわいわい楽しく、というようなものではなく‥‥故人の好きな花の下で、桜のお香作りでしたの』 同じ桜の花の下で過ごすのでもそれは、あまりに違うひと時で。真夢紀はそこで筆を置き、リエット・ネーヴ(ia8814)に手を引かれて部屋から出てきた浦西夏維の姿を見た。 『私、リエットってゆーの。よろしくだじぇ〜♪』と、物怖じもせず明るい笑顔で部屋に踏み入ってきた彼女に連れられ、雪桜の元まで来て。香を作るのにはまずどうすれば良いのかと聞かれて、答える少年に滋藤 柾鷹(ia9130)はついと眼差しを向けた。 彼とて慰めが得意な訳ではない。だが柾鷹は夏維が母と死に別れたその場に立ち会った1人で、そうである以上この少年を放っておく事などできず。 雪桜と、故人が呼び親しんだ桜の老樹を見上げる。桜は咲く姿も散る姿も美しい。そのまま留めたいと願っても叶わないのは、人の命と同じだろうか。それを留め置こうと思えば、思い出として形に残し、心に深く刻みつけるしかなくて。 「雪桜、誠に見事だな」 「――うむ。あれが加奈芽殿の愛していた雪桜か」 しみじみ呟いた柾鷹の言葉に重ねて、喪越(ia1670)がぐいと桜を見上げた。故人は喪越と同じ陰陽師だったという。なら面識はないが同じく陰陽の術を修めし者、供養させて頂こうとやって来た。 アヤカシに喰われて母子が死に別れるのは取り立てて珍しい出来事ではない。それでも痛ましい話には違いないと、設楽 万理(ia5443)はわずかに眼差しを落とす。 加奈芽が逝っただろう彼岸にはこのように美しい桜が咲いているだろうか‥‥ふとからす(ia6525)が呟いた。「彼岸に咲く桜がある」という言葉遊びを聞いた事があったから。 だがここにあるのは現実の桜。そして目の前に居るのは加奈芽ではなく遺された夏維。 「よろしくお願いしますね」 柚乃(ia0638)はそう、丁寧に夏維と静瑠に頭を下げた。柚乃も桜は好きだ。その桜を使ったお香を作るのを、だから彼女はとても楽しみにしていて。 果たしてどうやって作るのだろう、と和奏(ia8807)も手の中の花弁をほのかに楽しみに見つめた。彼の知り合いには、咲き綻んだ花だけを使って香を作る人が居る。 「けれども咲いた花を毟るのは、やはり無情というか寂しいので‥‥」 「そうですね。お土産に出来るよう頑張りましょう」 散った花弁で香を作った事を教えてあげたいのだと、言った和奏に柚乃も頷く。そうして丁寧に、少しでも傷を付けないよう花弁を集める。 倉城 紬(ia5229)は老樹の側に立ち、ごつごつとした幹に手を触れた。心の中だけでそっと「少々、周囲が賑やかになりますが、ご了承くださいね♪」と呟く――きっと桜も、自身を愛してくれた人を偲ぶ集まりに、文句は言わないだろうけど。 母様は舞い散る桜と戯れるように花弁を集めたんだ。そう、遠い口調で言った夏維の言葉に、白野威 雪(ia0736)はふとその光景を想像して、小さな笑みを零した。 「散る桜の花弁を受け止めて、ですか? ‥‥一生懸命な割に失敗しそうな気が致します‥‥」 桜の花弁はとても軽く、捕えようとすればするりと手の中から逃げてしまう。そんな花弁を追う見知らぬ亡き人を思った。幾つもの花弁に逃げられて、それでも直向に天を見上げて降り来る桜を追ったのだろう人を。 音もなく袂に落ちた桜の花弁を指先でそっと取り上げ、深山 千草(ia0889)が柔らかな中にもどこか寂しそうな微笑を浮かべた。思い出したのは亡き妹。袂で桜の花弁を受け止めて、クルクルと降りしきる桜の下で回っていた彼女の笑顔。 集めた花弁を静瑠が用意した鍋に放り込む。毎年、花弁を集めるのが加奈芽と夏維で、静瑠はこの役回りらしい。手つきは慣れたものだった。 その様子を桔梗(ia0439)は千草の横でじっと見つめる。一緒に暮らす千草や神咲 輪(ia8063)と誘い合わせてやって来たのは良いけれど、香を練る時に果たして誰を偲べば良いのか悩んでいて。 (俺には、偲べる人は、母しか居ない、けど) その母の記憶はあまりに遠く、すでに欠片も面影がない。だがそれならば、偲ぶのではなくあげるつもりで作ってはどうかと、千草は微笑む。どんな匂いが好きだろうか、どんな匂いが似合いそうな人なのだろうかと想いながら作るのは、亡き人を偲ぶ行為にも似ているから。 その言葉をしばし噛み締めて、桔梗はコクリ、頷いた。母は穏やかな人だったと言うから、ふぅわり柔らかい香りが似合うだろうか。優しく包み込んでくれるような、そんな香りが。 「ん‥‥それなら、出来そう」 「喜んで下さると、良いわね」 そんなやり取りを聞きながら、輪はふと視線を巡らせ夏維を見た。今は雪桜の幹に背を預けている少年。それを目の端に留めながら、静瑠はひたすら己の作業を全うしていて。 彼らを労ってあげたいと思いながら巧い言葉も見つからず、じっと見つめた輪に気付いたのは静瑠の方だった。目が合った彼に笑いかけてみると、男が目礼でそれに応える。 だがその表情が、加奈芽を失った瞬間には青ざめていた事を黎阿(ia5303)は覚えていた。泣き縋った少年の側で、もはや動かぬ人をじっと見つめて居た事を。 「貴方は大丈夫なの?」 そう聞いたのは、だからだ。静瑠にとっての加奈芽が、夏維にとってのそれより劣っていたとは思えないから。 黎阿の言葉に、静瑠は静かなため息を吐き、加奈芽さんだからな、と頷く。痛ましい最期でも、あれ以上に加奈芽に相応しい最期があったかと問われれば、彼には首を振るより他にない。 その言葉に、そう、と黎阿は微笑んだ。 「‥‥大丈夫みたいね? 加奈芽という人は本当に良い方だったのね」 夏維の様子を見れば、加奈芽が息子に与え注いだ愛の大きさ、息子の中に遺していったものの多さは推して知れる。その中にはこの、無愛想に夏維を案ずるサムライも含まれるのではないか。 そう言うと静瑠は小さく頷いて、また作業へと戻っていった。だが夏維はそんなやりとりに気付かないまま、雪桜の下で物思いに耽るのみだ。どこか遠い眼差しが何を見ているのか、それを思って佐伯 柚李葉(ia0859)は少年の手をぎゅっと握る。 「夏維君‥‥私にも、お香の作り方を教えてくれる?」 手を握ったのは、少年の心を現に引き戻そうと思ったからなのかもしれない。先ほどそっと手で触れて見上げた雪桜も、何だか彼を心配しているように感じられた。そうして、小さく頷いて説明を始めた少年に頷きを返していた柚李葉は、ふと目の端に通りがかった人に気付く。 玖堂 紫雨(ia8510)。柚李葉の、お付き合いしてる人、の父親。隣には頼明(ia5323)が付き従っていて、柚李葉が気付く前からどうやら2人はこちらに気付いていたらしい。 だが彼女が小さく会釈をするに留めたのはほんの少しばかり、羨ましいと思ってしまったからだ。血の繋がった家族というものを、彼女は知らない。 そんな少女に紫雨は取り立てて近付くことはせず、細い指で丁寧に花弁を拾う。ひとまずは香作りの手伝いだ。紫雨を補助するように、頼明が細やかに動いて新しい籠を取ってきたり、下準備の終わった材料を受け取ってきて香を練る準備を始めたり。2人とも、薫物が趣味だったりそんな主の手伝いを良くしていたりで、大体の所の製法は聞いただけで理解できたようだ。 作り方自体はそれほど、難しい手順ではない。桜の花弁を煮出し、上澄みを香の素材に混ぜて良く練って整形する。決して洗練されたものではない、ただほのかな香りをつかの間楽しむためだけのもの。 だがそれもまた故人が愛したものだ。そう思いながら、酒々井 統真(ia0893)は雪桜を見上げた。故人が好んだ潔き花、という以上に桜は新しい四季の始まりを告げる花とも言える。その香を作ることで、少しでも気分転換になれば良いのだが。 少し離れた場所からも、雪桜はよく見える。季節の移ろいは早いものだ、目を細める由他郎(ia5334)の傍らで、髪に降る花弁にも構わず桜を集める紗々良(ia5542)もそれを見た。 (大きな、桜‥‥。亡くなった、お母様も‥‥こんな風に、懐が大きくて、潔い人、だったのかな‥‥) そんな事を思い、静かな祈りを捧げながら綺麗な花弁を探して拾い集める妹に、よく見れば解るほどの苦笑を浮かべた由他郎が時折髪にはらりとこぼれた花弁を取ってやる。だが降りしきる花弁は終わりが見えず、キリがないなとまた小さく苦い笑みを浮かべて。 のんびり集める兄妹の様子を見ながら、菊池 志郎(ia5584)はからすと一緒に厚紙を小さく折って型を作った。あちらこちらで練り始めている香を、詰めて整形する為だ。 よく見る形は円錐形だが、花形や星型にも出来れば可愛いかもしれない。そう告げた志郎に、からすは面白いかもねと頷いた。 「難しいイメージはあるが、材料があれば結構簡単なんだよ」 「そのようですね‥‥とは言えやっぱり、初めてではなかなか」 苦笑し紙を折る志郎に、なら後でやってみると良いとからすは涼やかに頷く。今日来た者の中には、初めて香を練る者も多い。あんな風にやれば良いんじゃないかな、と指をさした先にはいつしか没頭して香を練り合わせる桔梗が居て。 少しでも夏維の気を引き立てようと、リエットが幾度目かに少年の元へ駆けて行って笑いかける。それに微笑を返す夏維は、だが一緒に遊ばないかという誘いにはゆるりと首を振った。じゃあお香を一緒に作ろうと誘えば、コクリと小さく頷くけれど。 そのやり取りを、雪桜の反対側に寝転んで聞いていた氷(ia1083)がぼそり、呟いた。 「ま、時間が経てばその内記憶も薄れちまうモンだし。死人なんかはたまに思い出してやるくらいでいいんでないかね」 突き放すような言葉は、けれども他人事の無責任な気持ちから出たわけではない。彼らを心配する気持ちはあるけれど、あれだけ心配してくれる人が居るならきっと大丈夫だろうと。そんな事すらおくびに出さずにのんびり昼寝を決め込む青年の上に、うららかな日差しと共に桜の花弁が舞い落ちていた。 ◆ 『死』は決して、特別な物ではない。誰の上にも等しく訪れる出来事で――けれどもそれが近しい人のものであればあるほど、乗り越えるのは辛い事で。 (しかもあんな残酷な形で‥‥) 香椎 梓(ia0253)はそっと息を吐く。悲しみはいつか必ず時が癒してくれるとは言え、無残な母の姿を見た衝撃は計り知れない。それを癒すには長い時が必要で、半月ではまだ‥‥辛すぎるだろう。 なのに笑みを浮かべる夏維をじっと見守る静瑠に、アルーシュ・リトナ(ib0119)が微笑んだ。 「随分と動物を飼っておいでなのですね‥‥夏維さんには抱かせて差し上げましたか?」 犬や猫やいたちやその他の小動物がいつの間にやら足元でじっと静瑠を見上げているのを、優しく撫でながらアルーシュは問う。それに静瑠は、否、と首を振った。 ただでさえ周りを気遣う夏維に、小動物にまで気を使わせてはと告げた静瑠に、彼女が挨拶をした時も微笑を浮かべた少年の事を思う。挨拶だけだから無理して笑わなくても良いのだと、言った彼女にむしろ困り顔になった少年。 だがその気遣いは違うとアルーシュは首を振った。告げた万の言葉より、抱きしめたたった一つの小さな温もりが慰めになる事もあるのだ。ましてこの動物達は静瑠の優しさの形、きっと少年の心に届くに違いない。 そうだろうかと、戸惑う青年が見つめた先ではリン・ヴィタメール(ib0231)が、ねぇ、と少年に声をかけていた。 「お母はんってどういうお人やったの? よければ、詳しく教えてもらえへんかなぁ‥‥?」 「母様、は‥‥『金剛』の陰陽師、で」 微笑み言葉を口にしかけた少年が、ふと言葉を詰まらせる。だがリンは言葉を撤回せず、聞いていた開拓者達はそれを咎めない。 リンは思う。自分なら腫れ物に触るように語る事を避け、忘れ去って欲しくはない。たくさん、飽きる程にたくさん自分の事を話してもらって、いつしかそれが物語になり、思い出となり、揺るぎ無き信念として家族や仲間の心に残ってくれたなら良いと思う。 「きっと、お母はんもそう思うんやないかなぁ? 夏維はんはそうは思わはらへんの?」 そう、ぐっと手を合わせて握ったリンに夏維は戸惑い顔を浮かべる。けれどもそれは良い傾向だと、統真は少年を見つめた。いつでもどこでもどんな状況でも、見えるのも、語れるのも、今を生きてる人間だけ‥‥だからこそ、夏維には今ここで生きてる人間を見てもらいたい。 本当なら夏維に何か言葉をかけた方が良いのだろうが、知りもしない故人の事を語るのは冒涜に等しいと統真は考える。だからそこには触れぬまま、折に触れて解らない所が出てきたら夏維に作り方を聞く。 それでも、少年の心を動かす何かがあったのか。 「これは、誰に習った、の?」 「‥‥母様に」 「上手いものね」 黎阿や紗々良が香を練りながら、向けた話に夏維は言葉少なにポツリと思い出を語る。幼い頃から、母と静瑠と3人で雪桜に来た。時には庚も一緒に、桜の下で穏やかに過ごした懐かしい日々。時に幼い少女のようにも思えた母の背中は、だがいつだって揺るぎ無く誇り高かくて。 そうですか、と雪は静かに頷く。 「素敵なお母様でしたのね‥‥」 「もっと、聞かせて? 夏維の、母様の事」 紗々良も夏維の顔を覗きこむ。彼の中にはきっと、加奈芽が残したものが沢山あるはずだ。それを閉じ込めておくのはもったいないから、もっと聞いて共有したいと願う。 夏維の中に残されているのは、ちっとも特別じゃない当たり前の日常。ずっと続いていくはずだったそれが、ある日はらりと壊れたのは柚李葉も一緒で――だから夏維の言葉にふと、瞳を伏せる。 彼女にとっての日常の崩壊は、生きていく場と術を失うと言う事だ。だが彼女には志体があり、それゆえに降って来た幸運にしがみつく以外の選択肢を与えられず、それからの日々を目まぐるしく過ごしてきて。 その日々を思う。あの日、失われた人達を彼女はちゃんと悲しむ事が出来ていただろうか。それともそれすら出来ない冷たい子だっただろうかと、自分自身に問いかける。 まるでそんな柚李葉に告げたかのようなタイミングで、リンが大丈夫、と夏維に言った。 「私たちがついてるから」 「人が幸せになるのは半分義務よ、自分を想ってくれた人を大事に想うなら‥‥その人達に胸を腫れる様に生きなさい」 「夏維の、母様の代わりは、誰にも出来ない、けど、夏維の代わりも‥‥誰にも出来ない、から。ね」 それは特別な言葉ではなく、だからこそ真摯な言葉。少しでも少年の心に届くようにと、祈りと共に告げられた言葉だ。 手の中の花弁を手でそっと撫でながら輪が微笑む。 「昔、母様から聞いたのだけど‥‥桜の木の下には、亡き人の想いが眠るっていうわ‥‥今は、うちの母様もね」 彼女が生まれ育った里では、里人が亡くなれば桜の木の下に埋める。そうして咲いた桜を見て亡き人を偲ぶのだと、言いながら輪は静かに視線を手の中の花弁に落とした。 その言葉に、だが志郎はふと不安の眼差しを夏維へと向ける。母が愛した雪桜に、もし夏維が母そのものを重ね合わせて見ているのなら、それは危険な事だと思ったから。 桜は、誰かの為に咲くわけではない。誰かの為に花弁を散らすわけではない。物に想いを仮託することは、時にその物自体に否定や拒否の気持ちを抱いてしまう事があって、それは誰の為にもならない。 けれどもそんな言葉を初対面の少年に言うのは躊躇われ、ひどく遠回しに「花が咲いている間だけが桜ではありませんよ」とだけ告げたのに、志郎の想いを察した雪が「大丈夫です」と頷いた。 「夏維さんの事を見守って下さっている方は、そちらにもいらっしゃいますから」 「そうだな。荷が重いやもしれぬが夏維殿を支えてやれるのは貴殿しかおらぬ」 柾鷹が労わるような眼差しを静瑠に向ける。もうずいぶん大丈夫なようだし、実際話してみてもかなり立ち直ったと感じられるけれど、本当の心の底など自分自身でも解らないもの。もし辛い時があれば無理して溜め込まず、誰かに吐き出す事も必要なのだと、告げた柾鷹に静瑠は大きく頷いた。 夏維にしても静瑠にしても、大切な人と急に亡くした事に変わりはない。その心を本当に癒すにはきっと、親しい人が共に故人を悼み、優しい思いで懐かしむことしかなく――無理に心を奮い立たせれば良いというものではないだろう。 けれども少年には母の想いを大切にして欲しい。そして前へ進む時がくればきっと、その傍らには静瑠が居るはずで。 「あんまり塞ぎ込んでっと、こういうばたばたしてる連中に、どんどん置いてかれるぜ?」 統真がくいと指差したのは、懸命に香を練ったり、新たな花弁を集めて動き回る仲間達。解らないなりに手伝おうとしたり、作り方を学ぼうとしたりする彼らを見て、うん、と夏維は小さく頷いたのだった。 ◆ 降りしきる雪桜の下にずらりと並べられたのは、お香作りがひと段落ついた後、紬が浦西家の廚を借りて作った春の料理だ。これは亡き加奈芽が息子の為にいつも作っていた料理。 こっそり静瑠にそれを確認していた黎阿も、この成果に満足そうな笑みを浮かべている。リエットもひょいと一つ摘んで口に入れ、これなら薄味が好きだという夏維にも気に入って貰えそうだと頷いて。 「リエットさん、こちらも運んで貰えますか? 私はお茶を淹れるので」 「任されたじぇー♪」 男性には不慣れで恥ずかしがり屋な為、自分ではみんなの間に立って給仕などは色々難しいので、頼んだ紬にリエットは元気に右手を振り上げる。そうして「お香が乾くまでの間、ささやかに宴会でもどうか?」と声をかけておいた仲間達と紬の間を行ったり来たりして、お茶を運んだり料理の空いた皿を下げたり。 箸が進まない訳ではないが、元々食が細いらしい夏維の前に緑茶を置いたリエットが、少年の顔を覗き込んでにこぱと笑う。 「お腹いっぱい食べてくれると‥‥嬉しいな?」 その言葉にこくりと頷いてもそもそ口を動かす夏維の前に、真夢紀も作ってきたお弁当のおかずをそっと並べる。春のもの、それも筍ご飯とか、菜の花のからし和えとか、蕗の煮ものと言った肉気のない料理は故人を偲ぶための彼女なりの気遣いだ。 他にも花見の宴らしく、席には手製の草餅や苺大福、桜餅などが並んでいる。どれも美味しそうだと、思いながら口を付けようとした緑茶の上に、薄紅色の花弁が1つ。何だかそれが妙に印象的で、この事も姉様達のお手紙に書いておきますの、と真夢紀は書きかけの手紙と矢立を取り出した。 賑やかながらどこかしめやかな宴席で、つ、と立ったのは紫雨。 「もしお許し頂けるなら桜の下で鎮魂の神楽舞を一つ献じても?」 その言葉に少年はこくりと小さく頷いた。それに艶やかな笑みを返して、紫雨は連れを振り返り「頼明と‥‥あぁ宜しければ佐伯殿にも伴奏をお願いできますか?」と順番に視線を向ける。 当然のように頷いた頼明のそばで、私も? と柚李葉は少し首を傾げた。だが紫雨の視線は間違いようもなくまっすぐ自身に向けられている。 頷き、ぺこりと頭を下げて笛を取り出した柚李葉に、同じく横笛を取り出した頼明が曲目を告げ、音を合わせた。そうして2本の笛が奏でる透明な音曲に合わせて、昨今は人前であまり舞わないのだと嘯きながら、紫雨が艶やかな神楽舞を踏み始める‥‥桜とは対照的に、咲き誇る一輪の華を思わせる舞を。 見ていた輪がふいと桔梗を振り返って、次は桔梗の舞が見たい、と言った。そうして自分の横笛を取り出して夏維を振り返り、一緒にどうかと誘った。だが見ているだけで良いと首を振る夏維と傍らにいる静瑠に、立ち上がりながら桔梗は尋ねる。 「願う事はある? 俺は、精霊様の為の舞しか、知らないけど‥‥」 それでも良いなら何でもという桔梗の言葉に、静瑠は「夏維が幸いであるように」と答えた。それが加奈芽の一番の願いだった事を、誰より夏維と加奈芽の側にいた静瑠は知っている。 桔梗は頷き、紫雨の舞が終わった桜の下に立った。輪の笛の音を聞きながら、静瑠の願いと同時に鎮魂の祈りを込めてゆっくりと舞い始める、その様を見て千草が嬉しそうに手拍子を添える。 「まあ、雅だこと。桜の精霊の宴みたいねえ」 「お母様が好きだった桜の老樹なら‥‥きっと今はこの桜とともにあるんだね」 お気に入りの笛をそっと撫でながら柚乃が頷いた。加奈芽がすぐ側で夏維を見守っている気がする、と。そうね、と頷いた黎阿もこの後、故人とこれから生きる人の為に舞う予定。 ふと、梓が首を傾げた。 「夏維って名前‥‥どういう由来なのでしょうね。夏をつなぐ‥‥まさに今、春のこと‥‥?」 「母様は何も‥‥春は、好きだったけど」 夏維はそっと首を振る。母は、そういう事は1つも話さない人だった。もし尋ねたとしてもきっと、そんなことは良いじゃない、と笑って話さなかったに違いない。 だから知らないと目を伏せた少年に、そっと梓は微笑みかける。 「季節が巡るように‥‥人は明日へ命を繋いでいかないといけません」 どん底まで悲しむ事も大切だ。だが時間があれば悲しみばかりを思って頭から離れず、と言って生きていく為にはいつまでも悲嘆に暮れ続けるわけにもいかず。だから外へ出て慌ただしくして‥‥生活に追われてふと、大丈夫な自分に気付くものだから。 だから過去を振り返るのは今日までにして、明日からは少しづつ歩き出さないかと、告げた梓の言葉にかすかに笑んだ女性に気付いたのは、氷だけだった。 「庚サン。春維君や静矢君を気遣うのもいいけど、アンタも無理すんなよ?」 人の名前を間違って覚えがちな男の、人生経験豊富そうなおねーさまに言える立場でもないけどな、と嘯く言葉に彼女は少し唇の端を吊り上げる。そうしてひらりと手を振って背を向け、村へと戻っていく――どうやら様子を見に来ただけだったらしい。 宴席から少し離れた辺りでは、からすが茶席を作ってそろそろ乾き始めた香にそっと火をつけた。本当は数日よく乾かすのが良いのだが、小さく固めた幾つかは何とか大丈夫そうだ。煙がすぅと空に昇っていくのを、見上げて小さく呟いた。 「天まで昇れ。彼岸へ届くように」 「‥‥届くでしょうか?」 祈るように柚李葉も、香の煙を見送った。どうかこの香を愛した加奈芽が、降りしきる雪桜の花弁で優しく夏維を包んでくれますように、と――その隣で柾鷹も、見よう見まねで作った不恰好な香に火をつけ、加奈芽の冥福と夏維の幸せを願う。 ふと、千草が苦笑した。 「不思議なものね。皆で同じに作っても、少しずつ、違う香りになるのねえ」 誰かを想って作るから、その人の印象も一緒に練り込んでしまうのかしら。首を傾げた女性の言葉に、どうだろうねぇ、といつの間にか陰陽師らしい衣服に着替えた喪越が至極真面目な表情で肩をすくめた。死んで花実が咲くものか――と呟く。 喪越の主義は生きている間に必死に足掻く事。だが芽吹いてた花実が死んだ後に咲く事もあるし、長生きしても花実が咲くとも限らない。 「こうして人の死に触れる度に思うのだ。死んだらそれで終わりか? とな。現に、加奈芽殿がいない中、俺達はこうして集まって過ごしている。本当の死――終わりとは、この世界から忘れられる事なのかもしれないな‥‥」 「そうかもな」 奇しくも同じ事を言った女性が居たとは知らぬまま、由他郎も老樹の幹に手を添え頷いた。見上げるばかりの大木は不思議と懐かしさを感じさせる。それは故郷の山桜を思わせるからかもしれないし、老樹が数え切れぬ季節と無数の命の移ろいを動かず見てきたからかもしれない。 その樹齢に比べれば遥かに儚い人の命は老木にはどのようにうつるのだろう、と夏維と静瑠を振り返った由他郎に、気付いたアルーシュがにこりと微笑んだ。この儚げな美しさを持ちながら、凛とした存在感を持つ花の花弁が降り積もる様は、まさに雪のような静寂を感じさせて。 (想いを凝らせば傍らに立つお母様を感じる事が出来るかもしれませんね‥‥) 心の中だけでそう呟いて、アルーシュはただ静かに、時が止まったような老樹を見上げていた。儚き香の中で静かに花弁を降らせる、雪桜という愛称を持つ桜を。 |