誘われた男
マスター名:箔o屋敷
シナリオ形態: ショート
無料
難易度: 普通
参加人数: 8人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2009/08/22 02:06



■オープニング本文

 都の歓楽街。茶屋に温泉と軒を連ね、楼閣の雄大さはまさに人々の発展と活気を示すに相応しいものだった。だが果たして、それがただ人の明るさだけを満たすものなのかは定かではない。光があれば闇があるように、歓楽街の影にひっそりと潜むは、人の弱さと人の悪意。そしてそれに誘われた男は、涙を拭うしかない。

●歓楽街
 男はにんまりとした笑顔で人の溢れる歓楽街を歩いていた。名を夢安と言う。ここらでは少しばかり有名な男だ。とはいえ、それは決して良い意味ではない。なにせこの男。人の金は返さぬわ、一日中遊び歩いているわ、女の下で世話をしてもらってるわ。ろくでもない男なのである。根も葉もない噂ではなく、根も葉も十分にあるひどい噂が流れる男、それが夢安だった。
 夢安は賭博で一儲けし、ほくほく気分である。数時間前まで10文しかなかった金が、いまや何十万文を越したのだ。これで喜ばない馬鹿はおらぬ。
「おや、夢安じゃないか」
「げっ‥‥!」
 夢安が振り向くと、そこにはニヤリとした強面の男が立っていた。いかにも人相が悪く喧嘩腰で、夢安でなくとも何か無礼をしただろうかと怯えるほどだ。
「おいおい、つれねぇなぁ。なにがげっ、なんだよ、げってよぉ。そんなに俺に会うのがまずいのか?」
「い、いやですなぁ、旦那。あっしは別にそんな意味で言ったわけじゃありませんよぉ」
 男が肩をまわしてきて、夢安は余計にびくついた。
「‥‥ま、そんなこたぁどうでもいいんだがよ。おい、夢安」
「は、はひ‥‥」
「おめぇ、俺に借りた金はどうなったんだ? ん? もう半年も経ってるんだがなぁ」
「い、いやぁ、それがいまはまだ返せる金もなくて‥‥」
 じわりじわりと、夢安の顔に男の強面が近づいてきた。男は笑みを浮かべているが、あまりにもそれがうそ臭い。夢安の身体は縮こまり、額や手のひらには汗がじっとりと流れてきた。
「ほほぅ」
「あ、あはは‥‥」
 男は一際満面の笑みを浮かべ――
「ざけんなぁっ!!」
 殴りかかってきた。
 もはや顔は般若のそれである。
 さきほどまでの笑みはやはり嘘だったんだ! と、夢安は涙ながらに思いながら全力で駆け出した。ここで捕まるわけにはいかない。せっかく稼いだ金である。男に見つかったらそれもおじゃんだ。
 いまにも殺しそうな怒涛の文句と顔で男はひたすらに夢安を追いかけたが‥‥いかんせん、逃げ足だけは速いのがこの夢安である。
 夢安は歓楽街中を駆け回り、ようやく立ち止まった。
「はぁはぁっ‥‥ここまで、逃げれば、だ、大丈夫、やろぉ」
 膝に両手を落として、肩で息を吐く。何度も荒れた呼吸を繰り返し、ようやく彼は落ち着き始めた。背中と頭部には汗がびっしょりである。
「ったぁ、もう。旦那もしつこいんだからなぁ。しかし‥‥この金どうしようかねぇ。持ってると旦那に取られちまうなぁ」
 ふと、夢安は傍の建物を見上げた。それは遊郭の建物で、夜の歓楽街でもよく目立つ灯りが灯っていた。中からはどんちゃん騒ぎのような騒がしい声も聞こえてくる。夢安は周りを見回し、ここが遊郭区域であることを知った。
「‥‥ニヒヒッ。まっ、取られちまう前に使っちまえってねっ」
 そして、彼はにんまりとした笑顔で一軒の遊郭に入っていった。

●開拓者ギルド
 受付係はげんなりとした顔で男の話を聞いていた。まったく、なんなんだこいつは。
「だぁかぁらぁっ! あっしの金がとられちまったんだよぉ」
「はぁ」
「娘達に囲まれてアハアハと遊ぼうと思ったら、ちょびっと酒を飲んだだけでめちゃくちゃな金をとられたんだわぁっ。なっなっ、こんなの許せないでしょう? あっしのためだと思って受理してくだせぇなぁ‥‥っ!」
 男――夢安は涙ぐみながら、めり込む勢いで突っ伏して懇願した。
「いや、あのですね。だからそれは自警団にでも言えばいいんでないですかね。開拓者達を招集して行う事件としては‥‥その、ねぇ」
「金なら払いますんでお願いしますよぉ! なんせ表向きは普通の遊郭。向こうも全然取り合ってくれないもんで」
「‥‥金なら、きっちり払うと」
 受付係は静かに言って、きりっとした表情に変わった。
「ま、まぁ、金を取り戻してくださったなら、ですけど」
「ああ、取り戻した金から払うと。そういうことですね」
 夢安が頷くと、受付係は満面の笑みを返した。
「了解しました。じゃ、受理しておきましょうか」
 金ならきっちり払うというのであれば、話は別である。でもまぁ、こんなくだらん依頼に誰が来るのかは疑問だが。
 受付係は心の中で苦笑しながら、そんなことを思っていた。


■参加者一覧
犬神・彼方(ia0218
25歳・女・陰
七里・港(ia0476
21歳・女・陰
時任 一真(ia1316
41歳・男・サ
四方山 連徳(ia1719
17歳・女・陰
辰宮(ia2928
29歳・女・志
腹部 康成(ia3734
25歳・男・サ
ヘレナ(ia3771
20歳・女・魔
籠舞 独楽(ia4054
19歳・男・志


■リプレイ本文

●夢安のもとにて 
 犬神・彼方(ia0218)は夢安に詰め寄った。その様子はまるで威嚇する狼のようで、夢安もタジタジである。そんな中でも、間延びした口調が変わらないのだけは幸いだが。
「で、どういうことさぁね。詳しく教えてもらおうかぁ」
「だ、だから店で金をぼったくられたんでさぁ」
 夢安はしどろもどろに言った。その様子に、犬神に加えて辰宮(ia2928)までもが彼に詰問した。
「それは分かってる。店の構造や様子を聞いている。あとは用心棒の‥‥こともな」
「店の構造って言っても‥‥ま、まぁでかかったことはでかかったさ。基本的には屋敷みたいなところでしてね。左奥の静まった部屋に通されたんでさぁ。あ、ちなみに入るときには前金が必要でね。そのときは大した金額でもなかったからなかなか良い店だなと思ったんだがねぇ‥‥遊んだ後だとあっしも足元見られちまって」
 夢安の言葉に、開拓者達は思案した。
 どうやらそれなりに頭は回るらしい。もちろん、役人の目を盗んでやっているほどだ。予想はしていただろう。開拓者達はそれぞれ頷き合い、事前に打ち合わせしていた通り、行動を開始した。

●遊郭侵入班
 犬神に連れ添われるように、ヘレナ(ia3771)と籠舞 独楽(ia4054)は遊郭へと向かっていた。門前へと辿り着くと、そこには体格の大きな巨体のサムライ、腹部 康成(ia3734)が待ち構えていた。
「どのようでしたか?」
 籠舞が言った。その優美な仕草や容姿は見紛うなき女性のものだが、真っ当な男である。胸には布を入れ込んで女装し、女のそれとなんら変わりない外観を作り上げていた。よほどのことがない限りでは、女装が露見することはないだろう。
 籠舞らを確認して、腹部はこくりと頷いた。
「やはり、遊郭の暴利は疑いないものと見てよろしいのではないでしょうかな。花街ではあまり良い噂を耳にしなかった」
「なら、気兼ねなく計画を進めても問題ないということですわね。私達の行動が無駄になるのは困りますもの」
 ヘレナの言葉に、誰もが苦笑した。
 確かに、これで夢安の狂言に騙されていたとなれば、たまったものではない。少なくとも、それだけは確保しなければならないのだ。
「では、皆の武器は預かっておこうかな。中で見つかっては厄介なことになりかねんのでな」
「それじゃ、頼んどくなぁ」
 犬神達は腹部に持っていた武器を預け、危険なものがないとばかりの丸腰になった。
 そして、腹部に後を頼むように告げて、遊郭内へと侵入する。門をくぐった先は一種の受付となっており、遊女が官能的な笑みを浮かべて待ち受けていた。
「いらっしゃいませ。どのようなご利用で?」
「いや、客じゃないんだぁ。実は女を買って欲しいんだよ」
 犬神の言葉に一瞬だけ眉を歪めた遊女は、背後にいるヘレナと籠舞の姿を確認して再び犬神に目を向けた。
「‥‥少々、お待ちください」
 そして、そう良い残すと奥へと引っ込み、そう時間も経たない内に舞い戻ってきた。
「こちらへどうぞ」
 遊女は代わりの娘に受付を託すと、犬神達を連れて廊下をひた歩いた。奥の部屋へ案内されると、踏ん反りがえる一人の男は座っていた。男は上物の羽織を来た商人風のふくよかな者で、いかにもごまを擦るような手つきをしたまま、犬神達を見定めていた。
「お待たせしました。何でも、女を買って欲しいとか?」
「そうそう。経験あるからすぐ働けるし、やすーくするかぁらさ。ほら、かなりの上物だぁぜ?」
 犬神はヘレナと籠舞をずいと前へ押し出し、男に突きつけるようにした。
「ふぅむ‥‥」
 まじまじと、男は二人の娘を見つめた。
 男の目は籠舞の胸へも動くが、特に意に介していないところを見るに、籠舞が男だとは気づいていないようである。
「確かに上物は上物ですな。これだけ肌の手入れがされている娘も珍しい。とは申しましても‥‥そうすぐには‥‥ねぇ」
 男は苦笑すると、犬神を少しばかり見下したように首を振った。
「そう言わないでさ。頼むよ。ほら、この娘なんて働いてた経験もあるんだからさぁ」
 犬神の言葉に男は仕方なく考え込み、そうして答えを出した。
「では、しばらくは雑用でもさせて様子を見ましょう。使えそうでしたら‥‥その時は交渉次第、ということで」
「よろしく頼むよ」
 犬神は予定とは少しだけ違ったが、ひとまずは成功だろうと思った。やはりそうそうすぐには信用してもらえまい。あとは、ヘレナと籠舞の働きに望みを託すだけである。

●調査開始
 犬神達と分かれた後、別の一行は歓楽街を歩いていた。
「まずは被害者を探してみましょうか。夢安さん以外にも、被害にあってる人はいるでしょうし」
 七里・港(ia0476)が言った。涼しげな印象を受ける彼女の傍で、時任 一真(ia1316)が唸った。
「そうさなぁ。ついでに店の連中にも声をかけておこうか。花街じゃあ、きっと迷惑がられてるだろうと思うよ」
「だね。それには賛成。きっと面白い話が聞けると思うよ」
 賛同する四方山 連徳(ia1719)はニヤニヤとした笑みを浮かべて、真に楽しそうである。
 辰宮はそんな三人を見回して、くいと首で店を示した。
「手当たりしだい‥‥とはいかないが、とりあえずはいくつかの店を回ることで相違ないみたいだな」
 そうして、彼らは花街を散策することにした。

●調査中
 いくらかの店の話調査を要約すると、このようなものだ。
 一に、花街では基本的にあまり他の店には干渉しない。自分の店の売り上げが落ちることはない限り、別に店を迷惑がっているということはないようだ。二に、被害者は確かに見つかった。前金で優良店だと勘違いする者が多いらしく、店構えも別段怪しくないことから、騙される者は多いそうだ。
 評判は確かに悪い。だが、それが人の流れが悪くなることには案外繋がらぬらしい。むしろ、優良店はお得意様が増えることで助かる面もあるようだ。
「ということから考えるに‥‥自然解体ってのは難しいかな」
 時任は肩をすくめて言った。
「役人には話を通しておいた。ある程度値段も決まっているようなのでな。被害者の声もあるようだし、一応は動いてくれるようだ。ただし‥‥そうそう熱心には働かぬようだったがな」
 辰宮はそう言って、苦笑した。夢安にしても自警団にしても、どうにも煮えきらぬものである。
「ところで‥‥時任さん、それって何なんだい?」
 連徳が言った。彼女の視線は、時任が持つ小さな湯飲みに注がれていた。
「ああ、これ? これぁ、ちと遊郭で買い取ったものだよ。まぁ、後で問題の処に行ったときに使おうかと思ってね」
 時任は相も変わらず飄々として、湯飲みを懐にしまった。
「今日はこの辺までにしておきましょうか。今度は遊郭に侵入するときですね」
「そだねぇ。そのときはよろしく頼むよ」
 七里の言葉に開拓者達は頷いた。いまは、時期を待つべしである。

●その頃の遊郭内
 数日が経ち――件の遊郭内で働くヘレナと籠舞は、早くも周囲に馴染み始めていた。受付を行う籠舞の接客は見事なもので、経営者である男の目も見開かんばかりである。
 ヘレナもヘレナとて、懸命によく働くものであるから、男は良い掘り出し物が舞い込んできたと思っていた。
 籠舞が受付で接客をする間、部屋の掃除などの雑用をしていたヘレナは、遊女と話しこんでいた。
「それじゃあ、この店は旦那様が一人でやってますの?」
「そういうことだね。他人には任せたくないらしいから、営業から会計まで、全部を旦那がやってるわけよ」
「でもあのお方達は‥‥」
 ヘレナが指を指した先では、刀を挿したサムライの男達が談笑していた。
「あれは旦那の雇ったお抱えサムライだよ。どこぞの開拓者みたいに志体を持ってるわけでもないし、ま、ゴロツキとそう変わらないね」
 遊女は煙管を吹かしながらつまらなそうに言い捨てた。
 なるほど、店の内部事情はどうにか理解できてきた。
「ちなみに、普段、旦那様はどちらにいらっしゃいますの?」
「ああ、いつも店の奥で引っ込んでるけど‥‥ほら、あそこだよ」
 そう言って遊女が指し示したのは、客からは見えない反対側の奥部屋だった。
「なるほど‥‥。ご親切に痛み入りますわ」
「別にかまわないよ。ああ、ところで、あんた。その口調どうにかしたほうが客には受けると思うよ。あたしは面白いけどね」
 遊女はからかいぐさに呵々と笑い、煙管を再び吹かした。
 余計なお世話ですわ。と、心で中で思いながらも、彼女はその場から離れるのだった。

●遊郭乗り込み、時任側
「あ、それじゃ、これもよろしく」
「任された」
 門前近くで構えていた腹部は、時任の武器を預かった。丸腰になった時任は、いかにもな顔つきを作ると、そのまま遊郭の中へ入っていく。
「どのようなご利用で?」
 受付では遊女が一人構えていた。
「さっさと案内してくれよ。こちとら疲れてんだからよぉ」
 時任は横暴な仕草と口調で受付を済ませ、前金を支払って奥の部屋へと案内された。その間も、うそ臭いばかりの横柄な仕草は変わらず、目つきはひどく悪趣味な人間に見えた。
「こちらでお待ちください」
「おうよ。ああ、そうだ。相手はそこで花瓶の水を替えていた娘で頼むよ」
 時任を部屋で待たせて遊女は引っ込み、すぐに担当を連れてこようと旦那のもとへと向かった。
 しばしの後、旦那のもとから戻ってきた遊女は、花の水を替えていた娘――籠舞に近づいてきた。
「奥にいるお客様、あなたが担当するそうよ。その成果次第によっては雇うつもりみたい‥‥頑張りなさいね」
「‥‥分かりました」
 籠舞は内心でしてやったりとばかりに思いながら、時任のもとへと向かった。

●遊郭乗り込み、犬神側
 犬神が遊郭内に入ると、先日と同じ遊女が迎えてきた。
「今日はどのようなご用件で?」
「いやぁね。うちの娘達がちゃんとやってるか、様子を見にきたんだ」
 犬神の言葉に思案する様子だった遊女は、お待ちくださいと声をかけると奥へと引っ込んだ。そして、再び現れたのはやはり先日と同じ商人風のふくよかな男であった。
「これはこれは、お世話になっております。なんでも様子を見にきたとか」
「ええ、これでも娘達のことが心配になってねぇ。店にも迷惑をかけてはいないか、と」
「いや、思っていた以上によく働く娘達ですな。ささ、こちらの部屋に案内しましょう。隣では先ほどお客様がいらっしゃったらしく、そちら様から買い取った娘を一人、宛がわしてもらっております。その成果によっては、ぜひこちらからも買い取らせていただきたいと思っておりますよ」
 男に連れられるまま、犬神は時任のいる部屋の隣へと案内された。
 そして、ごゆっくりと言葉を残すと、男は去っていく。あとはタイミングを待つばかりである。

●タイミング
 時任は懐に忍ばせていた湯飲みを取り出した。
「物を壊すということは、なかなか躊躇するものですね」
「ま、それも仕方のないことだね」
 籠舞の言葉に苦笑して、時任はぐっと湯飲みを振り上げると床に叩きつけた。破裂音が鳴り響き、時任は見計らって努めて大きな声を張り上げた。
「これは俺が今日ようやく手に入れた骨董品なんだぞ、どうしてくれる!」
 すると、それに何事かとばかりにやってくるのは、店の旦那である。加えて、野次馬根性を出すように犬神から遊女までもが駆け寄ってきた。
「ど、どうされましたか?」
「どうしたもこうもない! 俺がせっかく手に入れた貴重な骨董品を、この娘が割りおったのだ!」
 籠舞は悲壮な顔を浮かべて崩れ伏せており、時任は有無を言わさぬ様子である。もちろん――芝居ではあるのだが。
「全額弁償してもらおうか。金額は相応のものだ」
 時任の横暴な言葉に対して、旦那は決して怖気づく様子はない。むしろ、ニヤリと笑みのように口の端を持ち上げると、時任に向かって言い放った。
「では、お客さん‥‥。こちらの利用代金から差し引いてあげましょう」
 男は算盤を打つと、金額を差し出した。時任は一瞬、その暴利な金額に形相が変わったが、ある意味でこれは有利である。
「尻尾出したね、旦那さんよ。これは役人の定めた金額より遥かに大きいよね」
「はて、それがどうされましたかな? ここには誰も役人などおらぬですよ。いるのはあなた様だけ、ということですが」
 男は指先を鳴らした。
 それは恐らく、サムライを呼ぶ合図であったのだろう。だが――
「‥‥?」
「サムライならもういない」
「こんなんで戦おうなんて、なめられたものだね」
 男ははっとなって振り返った。そこには、ニヤニヤした笑みを浮かべた連徳と、表情を変えぬ辰宮が立っていた。その横では、意識を失ったサムライが数名転がっている。
「な、な‥‥!」
 男は予想外の出来事に頭が回らぬようだ。それでも、本能だけは警報を鳴らすのか。男は誰もいない裏側の襖から逃げだそうと――するが。
「逃げられませんよ」
「大人しくするんだな」
 七里と腹部が襖に立ちふさがり、完全に男の逃げ場は失った。
 気づけば、部屋には男だけしかない。遊女はいつの間にか消えており、味方は誰一人として存在しなかった。そこに、廊下を走ってくる娘の姿。
「帳簿を見つけましたわよ」
「はぁい、ご苦労」
 犬神に帳簿を手渡すは、遊女達の避難を行っていたヘレナだ。
 彼女は騒動のおきている内に男の部屋まで向かい、不正帳簿を手に入れていた。
「はい、逃げ場なし、ってね」
 男は力を失い、しなびた野菜のように床にへたり込んだ。時任達が組み敷くまでもなく、男にはもう何も抵抗する術はなかったのである。

●終幕
 その後、役人に話の通してあった悪徳遊郭は解体の道を辿ることとなった。主犯の男はいくら言い訳しても証言と証拠を突きつけられてはどうしようも出来ず、結局ところは諦めるしかなかった。
 そして――
「いやっほーい、あっしの金が戻って‥‥あ、あれ? いや、ちょ、旦那、あ、それに馬屋のおっさんも、借りた金? いや、でも、ちょ、それは、ご無体なあぁ‥‥!」
 夢安の金は連徳の判断によってギルドに手渡され、意地の悪いヘレナによって金貸し達に言いふらされたのである。
「娯楽に溺れると身の破滅になる、それを肝に銘じて今後は気をつけたほうがいい」
 ギルドでへたり込んでいる夢安の顔を無理やりに上げさせ、腹部と犬神は彼に人生の何たるかを説いていた。涙を流す夢安が腹部の話を聞いているのかは疑問であるが、とにもかくにも彼にとっては散々なことのようだ。
 暴利遊郭が解体した後、働いていた遊女たちは別の遊郭に雇われていた。これもそれも辰宮が話を通してくれていたからだが、店の遊女達のほとんどが悪意のない者であったことが幸いではあった。そうして、籠舞は遊女達と解体を喜んだ。
「これでおしまい、かな‥‥?」
 最後に、七里と時任は静かに夢安の駄目人間っぷりにご愁傷様とばかりの祈りをあげるのである。