白火の恋
マスター名:西尾厚哉
シナリオ形態: ショート
相棒
難易度: やや難
参加人数: 6人
サポート: 0人
リプレイ完成日時: 2014/11/09 02:46



■オープニング本文

 川を左手に見ながら土手を歩く。
 神西白火(ハクヒ)は立ち止って周囲を眺めてみる。
 すずちゃんと会ったのはこのへんだったと思う。
 この道を姉の桃火と歩いたのはずっと前だ。
 

 天儀から継母の紅子と弟の緑が戻り、兄の橙火は実に5年ぶりに継母と顔を合わせた。
 緊張した空気の中で兄はゆっくりと手を前につき、長男としての神西屋の後継権は全て緑に委ねること、3人兄弟でバレクと開拓者が提案してくれた事業を練るためにジルベリアに渡ること、その主要を担うのは白火になるため協力を願いたいこと、言葉を選んで母に伝えた。
 母の目はずっと疑わしげに細められたままで、でも、反対する理由を見つけられないでいる表情だった。
 そして兄は末の弟、緑をぎゅっと抱きしめ、
「俺達に会いたい時は黙って家を出るな」
 そう伝えた。
 そのあと兄は見守る父と一緒に母と別室に行った。
 何を話していたのかは、白火には分からない。

 翌朝、兄はまだ誰も目を覚ましていないうちに家を出ていた。
 姉の桃火はずっと天儀に置いたままだった彼女と白火の相棒の龍を連れて一足先にジルベリアに帰った。
 そして白火はジルベリアに発つ前に、ずっと気になっていた人に会うために出発した。
 行方不明だった兄を探す旅の途中で出会った女の子。
 開拓者と一緒に咲かなくなった庭の桜の手入れをして、彼女の大切な人を皆で一緒に見送った。
 兄が決心をつけたように、白火も何か自分のこれからにふんぎりをつけたかったのかもしれない。

 覚えのある家の門の前に立つ。
「こんにちは!」
 声を張り上げるが応答がない。
 何度か声を張り上げて、返事がないのでぐるりと庭の方に回ってみる。
 塀の上から見える桜の枝が元気そうで少し安心した。
「桜の木が好きなのかい?」
 声をかけられて振り向くと、女性が一人立っていた。
「いい桜だろ? いっときダメになりかけたけど今年は見事に咲いたよ」
 そう言ったあと、女性は白火の顔をじーっと見る。
「あんた、どっかで会ったような?」
「あの…すずちゃん、元気ですか?」
 白火は聞いてみる。
「すずちゃんの知り合い? すずちゃんは山向こうのお家にお嫁に行ったよ」

 すずちゃんがお嫁に…。
 ちょっとショックだったが、白火は女性に聞いた話を頼りに山向こうに向かった。
 なんでも、旅の途中で町に寄った男がすずを見かけて気に入り、何度も足しげく通っては嫁にと言ったのだという。
 亡くなったじいじとの思い出が詰まった家を離れたくないすずは悩み抜いた末、世話になっている近所の人達とも相談して結局了承したのだそうだ。
 嫁いだ先は「安居」といった。
 山向こうの町は大きくて、名を尋ねると家はすぐに分かった。
 町一番の金持ちなのだという。
 確かにと、大きな門の前で白火は戸惑う。
 でも、せっかくここまで来たんだし、と思い切って声をあげてみた。
 何度か声をかけたあと、重そうな門が開いて中から痩せた男が顔を覗かせた。
「あの…神西白火といいます。すずさん、いますか?」
 男は無言のまま暫く白火を眺めたあと、門の奥に入って行った。
 待つこと数分。
 そしてようやく待ち望んだ少女がやってきた。

 すずは白火の顔を見て目を丸くした。
「白火さん?」
 嬉しそうに顔をほころばせ、彼女は白火の手をぎゅっと握った。
 思いのほか冷たい指先に白火はすずの手に目をやって、あれと思う。
 真っ赤に腫れて、指のあちこちがひび割れた手。
 記憶にあるすずの手はもっと白くて綺麗なはずだった。
「ここがよく分かったわね」
「家に寄ったらおばさんが教えてくれて…」
 すずちゃん、痩せた…。
 白火は青白いすずの顔を見て思う。
「懐かしい…。でも、今日は家の人がいるから…。明日の昼過ぎならゆっくりお話しできると思う。まだこの町にいる?」
「うん、いるよ。また来るね」
「絶対ね」
 白火はすずのやつれ方を少し心配しながら別れた。

 翌日、白火は約束通り安居の家に向かった。
 しかし門は開かなかった。
「白火さん、ごめんなさい。会えないの。ごめんね…」
 掠れたすずの声が門の向こうから聞こえた。
 変だ、と白火は直感的に思った。
「すずちゃん、僕ね、ジルベリアに行くんだ。また何年も会えないかもしれない…」
「ジルベリアに…行くの?」
「うん…」
「ジルベリアに…」
 すずの声が潤んだ。
「すずちゃん」
 再び声をかけると、門がそっと開いた。
 白火は自分の目を疑った。
 真っ赤に腫れあがったすずの頬。
 溢れる涙を拭おうともせず立ち尽くすすずに、白火は自分でも気づかないうちに腕を伸ばしていた。

 白火とすずは手を繋いで走った。
「白火さん、待って…。もう、走れない…食べてないの…」
 白火は息をきらす彼女の顔を見て、懐から握り飯を出した。
「宿で作ってもらったんだ。食べていいよ」
 崩れかけた空き家を見つけて2人でそこに向かう。
「私をお嫁にもらってくれたのは、あそこの家の子供なの。まだ15にもなってなかった。でも、ご主人の子供じゃなくて甥御さんなの。体が悪くて湯治に向かう途中で私を見たって…」
 すずは握り飯を食べながら話した。
「物静かで綺麗な男の子だった。でも、私が嫁いで三月もしないうちに亡くなったの。私は帰されると思ったんだけど…」
「こきつかわれた?」
 白火の問いにすずは無言だった。
 家事に使うにしてもこの使われ方は異常だ。
「女の人、ほかにいないの?」
「ご主人の奥さんがいるけど…怖いの。亡くなった有紀さんから何をもらったとそればかり聞くの」
「もらった?」
 すずは白火の顔を見た。
「何ももらってないの。有紀さんは優しくていつも私を気遣って、自分が死んだらこの家に縛られず帰りなさいって…」
 白火はすずの顔を見つめる。
 ふと、外に気配を感じて、白火はすずの肩を抱いて身を低くした。
 無数の足音がして空き家を覗き込む気配がしたが、物陰に身を隠していたため何とかやり過ごした。
 空き家を出て暫くすると日が暮れたので、2人は夜露をしのげそうな場所を探し、寒さから逃れるために身を寄せ合った。
 すずは小さな声で歌を歌った。

 夕の暮れに見る影は
 やがて小さく消えていく
 野に沁む雨がいくように
 涙の痕がいくように
 悲し 哀し 影の跡

「何の歌?」
 白火が尋ねるとすずは小さく笑った。
「有紀さんは歌を作るのが好きで。最後に教えてもらった歌。何だか寂しい歌よね…」
 白火はすずの肩をぎゅっと抱いた。
 すずちゃんをあの家には帰せない。
 ジルベリアに…一緒に連れて行こう。
 でも…港まで辿りつけるんだろうか。


 安居の家長、安居孫吉からギルドに依頼が出た。
 見知らぬ少年がうちの嫁をさらった。
 取り戻して欲しい。
 見知らぬ少年は抵抗するようなら怪我の有無は厭わず。
 ただ、殺さず、ともに連れてくるように。


■参加者一覧
北條 黯羽(ia0072
25歳・女・陰
佐上 久野都(ia0826
24歳・男・陰
酒々井 統真(ia0893
19歳・男・泰
千代田清顕(ia9802
28歳・男・シ
クロウ・カルガギラ(ib6817
19歳・男・砂
イルファーン・ラナウト(ic0742
32歳・男・砲


■リプレイ本文

 でぷんと垂れ下がった両頬を震わせながら安居孫吉は
「ジ…なんだっけか?」
 尋ねられた横の妻も、これまた良い肉付き。
「ハクヒとかいう男」
 それを聞いて千代田清顕(ia9802)は僅かに視線を泳がせる
『白か!…』
 すずの祖父に仲間と共に桜の花を見せた時のあの少年
 北條 黯羽(ia0072)と佐上 久野都(ia0826)に目が合って、2人はちらりと視線で応える。
「で…すず嬢のご夫君は?」
 佐上が顔を巡らせると、妻はキセルを片手にぶわっと煙を噴き
「一年前に亡くなりました」
 コン! と灰を落とす
「これは失礼…」
 コホコホと小さくむせる佐上。
「では、他に無くなったものは? 金品とか…」
「盗られてたまるかいな。ほんまえげつない間男や。うちの財産は…」
「あーた」
 歯ぎしりする孫吉を妻が諌め、太い唇がむうと歪む
「とりあえず、はよ連れ戻して。うちの者じゃ動きがとろくてよ」
 孫吉は鼻から息を吹き出して言った

 安居の家を出た後、佐上が後ろを振り返る。
 あの夫婦、どう見たって心配して連れ戻すふうじゃない。出る前にそっと言魂を飛ばした。

『余計なことを言うんじゃないわよ』
『そやかて、すずが間男に渡してしもたらどないすんねん』
『開拓者が連れて来りゃあ、絞り上げればいいってこと』

「…だ、そうです」
 佐上は皆に伝える
 何だか依頼主とはいえ皆が白火を知っているだけに思いは複雑になる

 北條、清顕、佐上は安居家周辺から情報を得ながらすずの生家に一度向かうことに。
 無論、白火も注意していたとみえ、2人を見かけた者はいない。
 佐上に尋ねられた女性はギルドの依頼と聞くと内緒話をするように顔を寄せ、
「あんた、報酬踏み倒されないようね」
 と、囁いた。
 清顕は饅頭屋の主人に鬱憤を晴らされる。
「毎回値切りやがって、あのドけち野郎、やってらんねえ!」
 北條は金物屋の女性に
「安居に行くときゃ気をつけな。あの助平すぐ触ってくるからさ」
 と、胸元を引き寄せられる。
 とにかく安居夫婦がろくでもないことだけは十分に理解できた。
 そしてすずの家。
 3人は家の裏に回って塀の上に見える桜の木を見る。
 きっと今年の春は綺麗に咲いただろう
 聴覚を使っていた清顕が物音に気づいて顔を巡らせた。続いて裏の木戸が開く。
 一瞬身構える。まさか、と思ったのだ。
 だが、出て来たのは中年の女性だった。
「あら? あんた達もすずちゃんの知り合い?」
「すずは元気?」
 北條が尋ねてみる。
「すずちゃんはお嫁に行ったのよ。あたしはたまにここの風通しに」
 女性は木戸を締めて向き直る。
「ねえ、あんた達知り合いならすずちゃんの様子見てきてくれない? 前にも男の子が来て、頼めば良かったと思ってて」
「何か気になることでも?」
 佐上が尋ねると、
「うーん、手紙出しても返事がないし、じいじの命日も帰って来なかったし…」
「…じいじのお墓はどこかな」
 清顕が聞くと女性はここからすぐよと教えてくれた。2人はもしかしたら墓には立ち寄ったかもしれない。
 しかし墓は綺麗に掃除されているものの、2人が立ち寄ったと思わせるものは何もなかった。
「まっしぐらに港に向かっているのかもしれませんね…」
 佐上が呟く。
 清顕は近くに咲いていた小菊を摘んで墓に供えた。
「じいじ、孫娘を護ってやりなよ…」
 北條と佐上もそれにならう。
「これ…清じいじゃないかい?」
 横の墓石を見た北條が言う。墓石に清二と書いてあるが、そういえばじいじと仲が良かった植木職人の清じいの名前はなんだっけか。
「まあ、いいさ」
 北條はそこにも花を置いて手を合わせた。
「すずを迎えに行ってくる。あんたも見守っててよ」

 酒々井 統真(ia0893)とイルファーン・ラナウト(ic0742)、クロウ・カルガギラ(ib6817)は港までの道のりを辿る。
 白火はきっと人目につかず、すずに負担が少ない道を選ぶはず。
 寂れた村では婆さんに尋ね、あばら家を見ては痕跡がないか確かめる
 宿で尋ね、峠の茶店でも聞いた。
 しかし全く2人に辿りつけない。相当注意深くなっているのだろう。
 そしてとうとう港に着いてしまう。
 ジルベリア行の船は今日は3時間後の一隻。たぶんこの船だ。
 前の船には乗れていないだろうし、明日にする可能性も低い。
 佐上達も会えていなければこの時間に合流する筈だ。
 3人は人探しをするように周辺を歩いた。
 出航時間が迫って来てやっと見覚えのある姿を見つける。
「白!」
 統真が呼ぶと白火は舷梯にかけかけた足を止め、横の少女の手を繋いで走り出した。
 あっという間に人ごみに紛れそうになるのを慌てて追う。
 路地を潜り抜け、先にイルファーンの姿を見て白火は向きを変える
 その先に今度はクロウを見つけて反対側に。
「白火さん!」
 叫ぶクロウの声が聞こえないはずがないのに。
 暫く追って統真は悟る。建物の状態からしてこの先はきっと行き止まり。
「白!」
 叫んで出た途端、
「うぁっと…っ」
 身を避ける。トトッと二本の矢が地に突きささった。
 袋小路に入った白火は背にすずを庇い、こちらに矢を向けていた。
 イルファーンとクロウが追いつく。
「…ギルドで…聞いた…どうして…皆さんが…」
 白火は震える声で言う。
 クロウは頭上の窓から清顕が顔を覗かせていることに気づいた。
 北條と佐上もいる。到着するなり気づいて先回りしたらしい。
 ふいにイルファーンがどしっと腰の銃をクロウに預けた。
 クロウは「え?」とイルファーンを見る。
「依頼は受けた。でも話をしてくれや。俺達はお前の力になる」
 イルファーンは両手をあげて2人に近づく。白火はかぶりを振った。
「…見逃がしてください。…お願い」
「白火さん…」
 すずの小さな声が聞こえる。
 距離が縮まる。統真は少し身構え、窓から見ている3人は術の必要あればと下を凝視する。
 そして
「まあ…少し休もうや」
 大きな手が弓にかかり、矢が下を向いた。
 「はー」という息が皆の口から漏れた。

 宿屋の一室を借りた。
 佐上と北條、清顕の顔を見て、すずは涙を溢す。
「…見違えたよ、2人共」
 清顕が2人の頭にぽふんと手を乗せる。
「なんか、痩せちまったねえ」
 北條がすずのひび割れた手を取って呟くと白火がためらいがちに口を開いた。
「あの…すずちゃん、あちこち怪我してて…その…」
 薬草と包帯を取り出したのを見て北條は「ああ」と頷く。
「おいで。手当てしてあげる」
 すずを隣の部屋に連れて行った。
「話…聞かせてくんねえか?」
 統真に促され、白火はすずを連れ出した経緯を皆に話した。
 暴力を受けながら夫から託されたものを出せと言われるすず。
 でも、すずが知っているのは夫に教えてもらった歌だけだ。
 白火はすずが生殺しのような扱いを受けるのに堪えられなかったようだ。
「でも…誘拐はなあ…」
 統真は呟く。堂々と出ていけるようにしたほうがいいんだが。
 暫くしてすずの手当てをした北條は、すずを座らせて息を吐いた。
「キセルの傷だよ、たぶん。焦げ跡もあった」
 清顕は俯くすずの顔を覗き込む。
「辛かったね。亡くなった旦那さん…なぜ叔父さんの家に?」
「あれは…有紀さんの家です」
 すずは小さな声で答えた。
「有紀さんのご両親は急死なさったみたいで…そのあと叔父さん達が…」
 もう企みぷんぷんの世界だ。
「教えてもらった歌を聞かせてくれる?」
 クロウが手帳を取り出した。
 すずは白火に歌って聞かせた歌を口ずさむ。
「有紀さんの歌は優しい歌が多いのに、これだけが何だか寂しい歌なの」
 書き留めた歌を皆で覗き込む。
「ゆやのなか…だな…」
 イルファーンが呟いた。頭文字をとるとそう読める。でも、とすずは言う。
「…湯屋は見てたわ…床まで剥がして。でも、何も」
 うーんと皆で考え込む。
「ともあれ、探しもんが分かればあっちも文句ねえはずだろ。旦那が託したもん安居に渡していいか?」
 統真が尋ねるとすずは「はい」と答えた。
「じゃあ、これから話すことを聞いて? 悪いようにはしない」
 清顕の声に白火とすずは互いの手をぎゅっと握って頷いた。

 翌朝早く安居の家に向かう。
 いろいろ計画は出たが、あの夫婦には脅しがいいだろうとクロウの案をとることに。
 家が近くなってから、クロウは白火を縄で縛った。
「いい? こう力入れると外れるから。弓は俺が預かって、白火さんの足元に置く」
「矢を射るんなら会った時みてえにちゃんと外せよ? できんだろ?」
 統真が言うと白火は「あ」と漏らし真っ赤になった。統真は笑って白火の頭をくしゃくしゃと撫でる。
 そして安居の家に着く。皆の顔を見るなり妻が「あんたー!」と金切り声をあげた。
 文字通り孫吉が転がるようにして出て来る。
「約束通り2人は連れて来ましたから」
 クロウが白火の足元に弓を置く。
「志体持ちですから。気をつけて」
 夫婦はぎょっと白火に目を向けるが、縄で縛られていると見て何も言わなかった。
 それでは、と皆で背を向ける。
「…ったく、人騒がせな…」
 妻がすずの腕を掴んだ時、あっという間に白火が縄から抜けた。
「すずちゃんに…触るな!!」
 声と同時に矢が飛んだ。妻が「きゃー!」と声をあげる。
「わ! 誰か! あんたら待てや! 何とかせえ!」
 と、孫吉。
 その声に皆はゆうるりと振り返った。
「俺達の仕事はもう終わりましたよ?」
 クロウはしれっと答える。
「それとも追加にするかい?」
 と、北條。
 途端に孫吉の口が歪む。追加報酬を気にしたらしい。
「よろしければ、お探し物も承りましょう。嫁御殿だけをお探しではなかったのでしょう? この2人の身が報酬でけっこう。いかがです?」
 佐上はにこりと笑う。
「そ、それは…!」
 孫吉はうろたえる。
「さっさと決心つけな。俺ぁ気が短けえ。怒らせると訴えに出るぞ。分かってんだからな」
 イルファーンの太い声に妻が
「あんたが開拓者なんかに頼むからだよ!」
 夫をなじる。本当にもう救いようのない夫婦だ。
 白火の矢がひゅんと飛んだ。
 ついに孫吉は叫ぶ。
「わかったから何とかしてんかー!」
 孫吉は壁と袂を矢で打ち付けられてしまったのだった。

「湯屋はなーんもあらへんで」
 孫吉はぶうと膨れて破れた袂を気にしている。
「他の湯屋はねえのか?」
 イルファーン言うのを聞いて妻が夫の顔を見る。
「俺が知るかよ」
「じゃあ、平太だ。平太!」
 妻の金切り声で男が顔を覗かせた。最初に白火を迎えた男だ。
「お前、ここにずっと仕えた身だろ。湯屋はほかにあるのかい」
「離れにひとつ」
 それを聞いて妻の顔が朱に染まる。
「なんでそれを前に言わないんだよ!」
「聞かれてねえし」
 途端に平手が男に飛んだ。すずがびくっと身を震わせる。こんなふうにすずもすぐに叩かれていたのかもしれない。
 むかつくが平静を装って皆で離れに向かう。
 離れは長く使われていなかったらしく、男が示した湯屋も扉を開くとぎっしりと物置と化していた。
 とりあえず全部の物を出そうということに。
 2時間かけてようやく湯船が出て来た。
 蓋を取り除いて中を覗き込むが何もない。
 忍眼を使った清顕は一部分だけ板の色が違うことを見てとった。
 壊してみるしかない。槌やら金物を持ってガンガン壊す。
 木片を取り除き、下の地面を掻き、そして何かが現れた。
「どいて!」
 妻が皆を押しのける。孫吉も加わって地面を掻く姿はさながら鬼。
 そしてようやく出た。
 30センチ四方ほどの鉄の箱。夫婦二人でうんしょと外に持って出て蓋を開ける。中から油紙の包み。
 それを開くのを皆で息を詰めて見守る。
「…なに、これ」
 妻が封書を取り上げた。中身に目を走らせてすぐに放り出し次を取り出す。
 気が狂ったように妻は包みをぶちまけた。
 ころんと小さな金の粒がひとつだけ転がり落ちた。
 辺りに散った一枚を佐上は拾い、北條も拾う。
「なるほど…」
 佐上が呟き、北條がそれをすずに渡す。
 すずは白火と共に目を走らせ、互いの顔を見合わせた。
 それは恋文だった。
「有紀さんの…お父さんとお母さんだわ…」
 すずは言った。
「どこに遺産があるってのさ、このあほんだら!」
「お前が言うてたやろが!」
「約束ですから、2人は連れて行きますよ」
 罵り合う夫婦に佐上が声をかける。
「勝手にどこでも行きくされ!」

 …自由になった…?

「すずちゃ…」
「白火さん! あの…」
 白火の声を遮ってすずは声をあげるが次が続かない。
 すずを見つめる白火の目が切なく揺れた。
「…帰ろうか…じいじの家に」
 白火は精一杯の笑顔で言ったのだった。

 こんなところはとっととおさらば、と踵を返した一行は後ろから近づく足音を聞いた。
 振り返ると平太と呼ばれていた男が風呂敷包みを背負っていた。
 皆の視線を感じ平太は
「これでわしもお努め仕舞。奥さん、達者で」
 無表情にそう言ってスタスタと歩き去った。
 ちょっと皆で呆気にとられながらそれを見送る。
 すずの家が見えて来ると、早速近所の女性がすずの姿を見つけた。
「すずちゃん!」
「おばさん…!」
「ちょいと、みんなー!」
 あっという間にすずはわらわらと取り囲まれる。
 それを見た白火がくるりと身を返し、さっさとその場を後にするのを見て
「あっ、おい!」
 統真が声をかけ、慌てて皆も追った。
「白火さん、せめて挨拶くらい…」
 クロウの声を白火はぶんぶんと首を振った。
「いいんです。…ごめんなさい…あとで、皆さんにお礼を送りますね…」
 歩を緩めず白火は言う。
「お礼なんて…」
「白火さん! みなさん…!」
 すずの声が聞こえた。
「すずちゃん! さよなら! 元気でね!」
 白火は大声で叫び手を振った。開拓者達も一緒に手を振る。
「ありがとう…! ありがとう! 手紙…書くわ!」
 すずは近所の人達と一緒に深々と礼をした。
「白、彼女は君が救ったんだよ。自分を誇りに思えばいい」
 清顕が言うと、
「はい…」
 白火は答え、零れそうになる涙を見られまいと顔を背けた。


 以下は、すずが作った紐輪と共にギルドより白火と開拓者のみに伝達する。

 きっかけは近所の女性の一言だった。
「子供らがまた読み書き教えてもらえるって大喜びよ。朝からあかさたな、あかさたなって歌ってるわ」
 気づいたのはもう日が暮れてからだった。
「あかさたな…」
『ゆやのなか』
 まさか。
 私、有紀さんに読み書き教えてた話をした…?
 ゆ、と、やのなか。五文字ずつ頭の中で並べる。
「しいす…? すいし…? すいじ…炊事…」
 あちこち覗いてみた。
 灰まみれになりながらかまどの中を掻き出した。
 そして見慣れぬ壺を見た。
 蓋を取ると一番上に小さく折りたたまれた紙が入っていて、その下にはぎっしりと金の粒が詰まっていた。
 紙にはこう書かれていたそうだ。

『すずちゃん。これは僕からの最初で最後の贈り物です。平太さんに頼んでおきます。じいじの家を守る助けに使ってください。有紀』