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■オープニング本文 陰殻の根来寺から少し南下した所に、緑と白の交差点である白緑宮はある。 商人達が行き交う小さな場所だ。 白緑宮では、活発な商談が多く行われる。ここで取引されたものは、やがて各地の流通に乗って陰殻全域に行き渡る。 敦彦も、そうした商人の一人であり、今回も一つの取引を終えて宿に帰ってきたところだ。 藍染めの布を頭に巻いた精悍な青年を見ると、宿の主人で受付をしている娘は顔を上げた。何度も宿泊しているので、既に顔馴染みだった。 「おかえりなさい、敦彦さん」 「ただいま。少し休むから、夕飯は要らない」 「分かりました」 部屋に引っ込んだ敦彦は、頭の布を解いてベッドに腰掛けた。欠けた二つの小さな角が、黒い前髪の間から覗く。 一度都に戻る、とは決めていたが、敦彦はしばらく白緑宮に滞在していた。 先だって出会い、別れたアセリアの事が気にかかっていた。それは恋情等というものではなく、もっと根幹にある――幼い頃に老婆から与えられた予言の足音が聞こえた気がしたからだ。 ベッドに仰向けに倒れた敦彦は、しばらく天井を見上げていた。 「陰徳の覇者、か……」 五つの予言について考えてこなかったわけではない。それなりに意味を考え、調べ歩いていたつもりだった。 それでもなお、恐らく強大な敵であることは分かったとしても、それ以上のものは闇の中で藻掻くような感覚を残しただけで、とても想像のつくものではなかった。 「……嫌な気配だ」 呟いた敦彦はしばらくして、藤色の瞳をゆっくりと閉じた。 ☆ 「やあやあ敦彦、元気だったか?」 振り返った敦彦に笑いかけたのは、同じく浅黒い肌の青年だった。額から伸びた立派な角が自慢だという幼馴染だ。 「ああ。久しいな。元気だったか?」 懐かしさに敦彦の表情も少し綻ぶ。 幼馴染は、故郷を失った敦彦が移り住んだ村で出会い、しばらくしてそこを出て行った男であった。商人になって一山当てる、というのが口癖で、その通り、敦彦が商人になる頃にはそれなりに名の知れた存在になっていた。 何度も手紙で連絡を取り合っていたが、ここ半年は消息が途絶えたままだった。 「手紙が無いから心配したよ」 「ああ、悪い悪い。ちょっとでかい山を狙っててな」 鼻頭を掻いた幼馴染は、それから半年間のことをぽつぽつと話し始めた。 商談のこと、新しく入った仲間のこと――基本的には仕事の話だったが、その中で彼が家族を得たことや、故郷に残した家族と再会したことなど、敦彦には得られない経験をしたことも分かった。 話題が尽きて、しばらく間があった。その間に幼馴染は何か言いたげな顔になっていくのを敦彦は見ていた。 往々にして、この表情の時は大事な話が来る。 「――敦彦。冥哭の谷、知ってるか?」 冥哭の谷――それは商人の間で、必ずと言って良いほど避けようとする、白緑宮への道の一つだ。アヤカシが多数出現し、谷の頂には人間を丸呑みできるほど大きな鷲のアヤカシが住み着いているらしい。 そして、その頂を始めとして、谷には貴重な鉱石や反物に使える蚕の一種が吐く糸などがとれるという噂だ。 全て伝聞なのは、谷に踏み込んだ商人の殆どが瘴気の当てられて足を踏み外すか、アヤカシに殺されるか等の壊滅的な痛手を受けて、まともに話を聞けないからでもある。 「どうしてそんな話を? 行ったのか?」 怪訝そうに尋ねた敦彦に、幼馴染は寂しそうな顔をして静かに頷いた。 そうして手を――血に濡れた掌で敦彦の手を握った。 「見つけてくれ、敦彦。俺は、冥哭の谷にいる――……」 どういうことだ、と叫びそうになったところで、敦彦はハッと目を覚ました。 ☆ 「敦彦さん、本当に行くんですか?」 「ああ。でも大丈夫だ。流石に一人では行かない」 不安そうな隊員に言って、敦彦は近くのギルドに向かった。 夢だと片付けるには、余りにも生々しいものだった。幽霊や生霊の類は信じない方だが、アセリアの事もあって、今の敦彦には現実的な判断を下す余裕が無い。 何より、頭を過ったのは、またあの予言の一つだった。 緑白の地が慟哭する空を仰ぐ時、そなたは友を失い、覇者を知るだろう。 「迷惑な予言だ。相変わらず」 友が誰なのか、失うのはいつなのか、覇者は何者なのか。 高名な祈祷師ならば、もっと明確に予言して欲しいものだと敦彦は唇を噛んだ。 同行を希望する開拓者を募るようギルドに要請し、外へ出た敦彦の耳に、走る子どもたちの声が聞こえてきた。 「聞いて聞いて。『谷』がよく見えるよ。てっぺんもよく見えるよ」 「ほんとだ。珍しいね」 顔を上げた敦彦の目に、冥哭の谷が見えてくる。霧深く閉ざされているそこが、今日に限って嫌に晴れて見える。 瘴気に侵され、アヤカシの跋扈する黒い谷の頂で、黒い影が羽撃くのがかろうじて見えた。 「待っていてくれ。今、会いに行く」 目指すのは大鷲の住処。 確信はない。ただの直感だ。 だが、友との再会と別れは、あの戦場以外にはあり得ない。 |
■参加者一覧
水月(ia2566)
10歳・女・吟
門・銀姫(ib0465)
16歳・女・吟
クロウ・カルガギラ(ib6817)
19歳・男・砂
帚木 黒初(ic0064)
21歳・男・志
津田とも(ic0154)
15歳・女・砲
ミヒャエル・ラウ(ic0806)
38歳・男・シ |
■リプレイ本文 白緑の地が眼下に歪む。 麓には、頂を目指す一団がいる。 その中央に立つ人に、それは目を細めた。 ようやく、姿を見つけられたか。 背後に降り立った大鷲が、指示を出さない主を訝しがるように首を捻った。 ――敦彦様……。 胸に染みこんでくるような女の声がまとわりつく。 なんと、目障りなことか。 儚く世を去った少女の魂の残滓を握り潰したそれは、小さく口を開いた。 リョクビャクのチがドウコクするソラをアオぐトキ――。 その時は、もうそこまで来ている。 ★ また白緑宮か、という呟きに前を行く敦彦は視線だけを後列のミヒャエル・ラウ(ic0806) に向けた。 気を悪くさせるつもりはないのだよ、と肩を竦めるだけに留めたミヒャエルはしばし思考した。 偶然か、必然か――不可解な現象が白緑宮で起こるのは二度目だ。そして、敦彦に出会うのも二度目。話を聞けば、また生死不明の存在が関わっている。 巫女や陰陽師の方が向いているのかもしれないな。 敦彦の背中に担がれた長銃を見やり、ミヒャエルは口角を僅かに上げた。 開拓者達が敦彦と合流したのは、冥哭の谷へ続く門の前だった。ある程度の話は彼から聞かされていたが、信じられたかというと、それは半々というところだろう。 「友の窮地を告げる夢か。有り難くない話だな」 眉根を寄せたクロウ・カルガギラ(ib6817)は谷の頂を見上げる。瘴気で陰るという谷は、不思議なことに今は頂がはっきりと見えていた。開かれた大地を見下ろすように、鳥の羽撃く音が聞こえては、唐突にそれが途切れる。 「敦彦さん……」 「なんだ?」 「……」 呼び止めた水月(ia2566)が思い出していたのは、アセリアの事だった。アセリアは長く土地に縛られ、自身の命を落とす事件を何度も追体験させては命を奪われ続けていた。 それ自体がまるで、操られていたかのように。 「今回も同じような……上手く言えないですけど、なんだかそんな風に感じるの」 消えそうな声で言った水月の言葉に敦彦が気づいたのかは定かではない。 ただ、彼の浅黒の大きな手が彼女の頭を何度かぽんぽんと撫でた。 「……先を急ぎましょう、なの」 ふるふると頭を振った水月は、歩き出した敦彦の背中に「ごめんなさい」と呟いた。 でも、きっと、もう――……。 ★ 谷へ踏み入れた瞬間の異様な空気は、まさに門でもって少しでも封じておきたいと思わせるに値するものだった。 「さあ、友人と再会する為に危険な谷を突破するのを手助けするね〜♪」 それでも、琵琶を爪弾いた門・銀姫(ib0465) が明るく語る程度には、まだ麓はまともだった。少なくとも、開拓者達にとってはどうというものではない。 だが、難なくアヤカシを退ぞけ、ようやく中腹に足を踏み入れようという頃には、辺りは一変していた。 植物は枯れ、瘴気が立ち込め視界を遮る。鳥の声は麗美さを失い、怨嗟に満ちた禍々しい慟哭が響く。 「これはまた……鳥の声が耳に痛いな」 吐き捨てるように言った津田とも(ic0154)は耳を微かに動かす。鷹の遺伝子を有するともには、この森の異様さが肌に染みるのだろうか。 「進むにゃ進むが、こうも視界が悪いと困るな」 空から来られたら厄介だぜ、と仲間を先導するクロウはぼやいた。 薄々勘付いていたが、中腹に入った頃から、岩壁の穴――アヤカシの巣穴だろうか――が増えているような気がした。やはり、谷の頂はアヤカシに支配されているのだろう。 「ミヒャエルさん」 「大丈夫、今のところは――否、来るか」 超越聴覚で周囲の音を拾ったミヒャエルが眉をしかめた。上だ、という声に開拓者たちが全員空を仰ぐ。 黒の空間を飛翔する、鳥のような異形の姿。 「こちらも来たよ〜♪」 流れるような、けれども緊張感に満ちた声で銀姫で指した先には、穴から出てきたばかりの獣が現れた。だが、その上半身は明らかに人間――生気の欠片も感じられない死人に等しい。 その数、上空に三、前方に五。 「囲まれたか」 「いや、この数なら突破可能だ」 シャムシールを抜いたクロウが体勢を低くする。後ろでにともに合図を送り、彼は叫んだ。 「行くぞ!」 クロウの声と共に、全員が目を閉じた。――とも以外は。 「まずは空の奴から、降りて来て貰うぞ!」 銃口を上に向けたともが引き金を絞った。 刹那、闇を裂くような閃光が空で炸裂した。閃光練弾を放ったともの背後に、目を潰された鳥が落ちる。 「前は僕達に。後ろは任せるよ〜♪」 銀姫が共鳴の力場を奏で、戦域を支配する。谷に共鳴する甲高い音が、全てのアヤカシの耳を劈いた。 「……ん」 こくりと頷いた水月とミヒャエルが動いた。 詰め寄った水月の指は橙色の暗器が挟まっている。足でブレーキをかけながら、水月は太陽針を鳥の羽根で投げ込んだ。 ギィ、と鳥が鳴いて、黒い羽根を散らしながら藻掻く。 「まずは、一……というところか」 更に距離を詰めたミヒャエルが魔剣を振り下ろす。首を刎ねた魔剣はその流れのまま、飛び立とうとする鳥の羽根を斬り飛ばした。 「おっと、どこへ行くんだよ」 視界が安定したのか、空から再度奇襲をしかけようとする鳥には、ともが空撃砲を放った。バランスを崩した鳥が、また地に落とされる。 「後ろは大丈夫だな」 数で言えば、穴から出てきたアヤカシの方が多い。 一旦距離を取ったクロウが再度地面を蹴った。四つん這いのような格好のアヤカシの腕を薙ぎ、叫び声を上げて仰け反った獣を谷底へ蹴り落とす。 「今度は滅びの重低音、行くよ〜♪」 場の音が低く変わる。叩きつけるような音は谷の地を這い、獣の足元を絡めとった。 「貰った――!」 動きの鈍った獣の体を斬り捨てて、クロウは飛びかかってきた獣からバックステップで距離を取る。 その間にシャムシールを落とし、彼は短銃を構えた。 ドン、という鈍い発砲音と共に、獣の脳天を銃弾が貫通する。 「チッ……まだ来るかっ」 仲間の死骸を飛び越えて飛びかかる獣に舌打ちしたクロウのすぐ脇を、銃弾が掠めていく。アヤカシの足を撃ち抜いた銃弾は岩壁に吸い込まれるようにのめり込んだ。 「助かる」 少し振り返ったクロウの目に、銀姫と並ぶようにして立ちながら長銃を肩に担ぐ敦彦が見えた。 もう少し――数にすれば大したことが無くても、仲間を呼ぶ前に。 裂帛の気合と共に、クロウは獣に突撃した。 ★ 幼馴染の名は、鳳珠という。 隊の運営や商売への勘が鋭く、行動力に溢れた愛妻家だった。 彼は、敦彦に下された予言を知らない。彼の故郷が滅んだことは漠然と知っているだろうが、それが敦彦の過ちであることも、勿論知る由がなかった。 まだ麓を歩いていた頃、銀姫の幼馴染に関する質問に、敦彦はこう答えている。 「素晴らしい友だよ。彼がいなければ、きっと俺はこの道を進んでいなかったはずだ」 その友を失うことになるであろう、抗えない運命が憎らしい。 死してなお待ち人を焦がれるのは、どんな気分なのだろう。 もっとも、そんな事に興味はないが、こうも暇だと考えてしまう。 「……ああ、まだシんでなかったか」 地面を抉るように進み、それは頂に伏した男の頭上に立った。 どんな気分だ。 そう尋ねると、喉の乾ききった息遣いの男は、僅かに顔を動かしたように見えた。 「……つ、ひ……」 敦彦か。心配しなくても、もう間もなく来る。 「そのマエに、おマエのタマシイを、モラう」 瀕死の男の耳に、その言葉はどう聞こえたのだろう。 美しい女の声に聞こえたような気がした。 荘厳さのある老婆の声にも聞こえた。 たどたどしい言葉を必死に繰る子どものようにも聞こえた。 ――敦彦……。 大きな羽撃きが聞こえる。大鷲が自分にのしかかっているのが分かる。 喰われるのか。タマシイというものを、持っていかれるのか。 それでも、もう、構いはしない。 だが――……。 「見……けて、くれ……敦、彦……」 ★ 頂に到着した時、『それ』がいないことを開拓者たちは疑問に思わなかった。 勿論、その存在をまだ知らないからだ。 代わりに、敦彦やギルドで教えられていた通り、人一人を丸呑みしそうなほどの大鷲が鎮座していた。血走った赤い目が、獲物をじっと捉えている。 「ふむ……大きい、な」 ミヒャエルが感心したように言った直後、敦彦の藤色の瞳を大きく開いて叫んだ。 「――鳳珠!」 大鷲のすぐ後ろに、懐かしい友の無残な姿が見えた。 考えるより先に体が動いていた。 「敦彦さん!」 「援護を!」 悲鳴のような水月の声が敦彦に届いたのも、大鷲が嘴の餌食にならなかったのも、同時に叫んだクロウの声で全員が一斉に行動したからだった。 一直線に走った敦彦の鍛えられた体躯を小さな体で引き寄せた水月が、反射的に太陽針を鷲に放つ。羽撃き一つでそれを叩き落とした鷲が空に舞い上がった。 「空から仕掛ける気か」 天狗礫を構えたミヒャエルが、その狙い易い大翼へ放つ。 「させるかよっ!」 声を張り上げたともが空撃砲を放つ。身をひねるようにそれを躱した大鷲が、迷わず攻撃後の隙ができたともを目指して急降下した。 「――ッ!」 「うわっ!」 近くにいたミヒャエルがともを抱えるようにして退く。地面に深々と開いた穴は、先程までともの立っていた場所だった。 「動きを止めようか〜♪」 重力の爆音が奏でた銀姫の琵琶が地面を叩く音を立てる。大鷲の鉤爪を絡めとった音で動きが鈍った脇を、水月が駆け抜ける。敦彦も地面を転がるように、鳳珠の元へ滑りこんだ。 「……まだ」 「鳳珠!」 治癒の光を放出した水月の対面に座った敦彦が友の名を呼ぶ。 その声に、大鷲が気づいた。 「どこを見ているっ!」 振り返った大鷲の翼を、クロウがシャムシールで薙いだ。大量の黒い羽根が瘴気をまき散らす。 片翼を失った大鷲はしばらく藻掻くように羽撃きを響かせ、落ちるように頂から転がり落ちる。 「やったか?」 崖下を見下ろしたミヒャエルだったが、すぐにクロウの言葉に首を横に振った。 飛行能力を回復した大鷲が、瘴気の霧の中から飛び出すのが見えた。そうして、惜しむようにこちらを振り返るように滞空し、しばしの別れと言わんばかりに遠くへ飛び去っていった。 ★ しっかりしてくれ、と敦彦の必死の声が聞える。 「……」 ふるふると白髪の少女が首を振るのが見える。 どうしてだ、息があると言ったのに、と敦彦が少女を詰る。小さい子にそんなことをしてやるなよ、と笑って言ったつもりだったが、声が出なかった。 だが、最期に、『あの』言葉だけは、伝えたかった。 「……黎……王」 何だ、と聞き返した敦彦の握っていた掌が、静かに降ろされた。 「鳳珠! 頼むから目を開けろ!」 「敦彦さん……」 「どうしてだ、何故……!」 「魂が……、もう……」 項垂れた水月は、鳳珠の息がある事を確認するや否や、閃癒と生死流転を施した。だが、既に魂の殆どが失われていた事も、彼女はすぐに気がついた。 もはや、手の施しようがないほどの消耗。 それを敦彦にぶつけるには、あまりも酷だった。 結果として、鳳珠は敦彦に何かの言葉を残して息絶えた。 「くそ……」 助けきれなかった自責の念に、ともが銃を握りしめた。 「……」 治癒の状況を見守っていたクロウがフェズを下ろして自身の顔を隠す。 もし、彼がアヤカシ化していたらと握っていたシャムシールを懐に納めた。 止めを刺すのと、死に水を取るのと、どちらが苦痛だったのだろう。 「……どうやら、彼はこれを探していたのだろうな」 周囲を検分していたミヒャエルが、大鷲の食らった血肉の中から、小さな鉱石を拾って言った。よく見れば、視界が晴れた頂には宝石のような石が沢山埋め込まれていた。 商人になって一山当てる、というのが口癖だったという。ならば、財宝の山である冥哭の谷に踏み込むのは頷ける。 もっとも、それだけの理由ではないのだろうが。 「火急の金が必要だったか、それとも誰かに唆されたのか」 思えば不可解な状況だ。 生存が絶望的であった鳳珠が直前まで生きていたことは奇跡的であるし、本来喜ばれることだ。しかし、白骨化の覚悟さえ持って挑んだミヒャエルには、言葉にしがたい違和感を残した。 例えば、敢えて回復不能な程度に魂を削ったのだとすれば。 例えば、敦彦の目の前で息絶えるように仕組まれていたのだとすれば。 例えば、鳳珠が冥哭の谷に来ることが、既に確定されていたことだとすれば。 「……黒幕殿がいるならば、隠れてばかりいないで、ご登場願いたいところだがね」 敦彦の周りでは、不可解な事が起きる。 そして、彼もそれをある程度覚悟している節がある。 「……すまない」 立ち上がった敦彦が、詰った事を水月に詫びた。ふるふると首を振った少女の前で、彼は頭を覆う布を解いた。 流れるような長く豊かな黒髪と欠けた角が目に焼き付く。 「鳳珠は……置いていく。遺体を運んでの下山は危険過ぎる」 「……良いのか?」 尋ねたクロウに頷いた敦彦は、懐の刀を抜いて友の一角を削りとった。 「これだけ、家族に届けられれば良い」 恐らく、そういう風習の一族なのだろう。藍染めの布にそれを包んで、敦彦は開拓者達を見た。 その藤色の瞳が僅かに充血している理由を悟らない者はいまい。 「今回の礼をさせて欲しい。だから今は、ここを離れよう」 瘴気がかなり濃くなっていた。 ある程度の瘴気に耐えうる修羅の敦彦だが、これ以上は体に障る。 ここまでのようだ。 彼らは鳳珠の亡骸を簡単に埋葬し、再び来た道を戻り始めた。 仰いだ空の色が、涙で滲んだ。 ★ ――鳳珠が語り得なかった現実。 「鳳珠、というのはアナタですか?」 振り返った男は、声と体格に少し驚いた。風体の悪そうな男なのに、女のような声をしていたからだ。 「あんたは?」 「メイコクのタニにムかおうと。アツヒコにキいたら、アナタもそこにムかいたい、と」 「敦彦を知っているのか? 知り合いなんだな」 破顔した鳳珠は男と握手をした。 危険な場所だが、自分は抜け道を知っているから大丈夫。 そう言った男を訝しむことはできたが、その男は志体を持っているから大丈夫だと、事実人間離れした技を披露して見せた。 「それにしても、あんた、結構変わった声だよな」 「よくイわれます」 「それで外見も穏やかそうなら、もっと良いんだろうけどな」 「アナタみたいに?」 「どうだろうな」 事実、そんな軽口を聞けるほど、道中は至って平和だったのである。 そして――、 「吾は黎王。敦彦を滅ぼす、陰徳の覇者」 唐突に老婆のような嗄れた声で言った男が、鳳珠の腹を剣で突き刺した。 敦彦が、友と惜別する数日前のこと。 了 |