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■オープニング本文 満天の星々が息を潜める頃、魂狩の音は響く。 音は森に安寧を導き、黎の主は呪縛に喘ぐ。 その対価に、摂理に外れし魔物はそなたより良妻を奪うであろう。 Epsiode.4 魂狩の音、響く ――黎森島、天輪宗黎森支部最奥部。 「主様……お心はお決まりで?」 尼僧の不安そうな声に、闇に沈んだ存在は頷きを返した。 黎森支部では、先日の島での騒動以降、ある議題が持ち上がり、度々こうして支部の幹部達が会合を開いている。 中には若々しい者もいれば、皺を深く刻んだ者もいる。天輪宗を深く信仰し、黎森島に誠心誠意尽くすと誓った者だけが集まっているのだ。 主様――そう呼ばれた存在は、一際年老いて見える老婆のようだった。長いヴェールを被り、薄明かりの中鎮座している。 「十八年前……止められなんだ我らの不覚じゃ。否……此度の魂狩は、その時から決まっていたのやもしれぬ」 「主様……」 杖を着いて立ち上がった老婆は、困惑の表情を浮かべたままの幹部たちをみつめた。 「十八年前と此度、何があったのか私は調べよ。各自、各支部及び陰殻の彼方にあって滅亡した集落の跡地を訪れよ」 「承知しました」 「それと、支部より島に触れを出せ。今年の初米納めは延期じゃ」 「は……、は?」 きょとんとした若い尼僧に、主はしわがれた声で言った。 「延期じゃ。――魂狩を、行う」 ☆ 魂狩――。 その言葉が黎森島の歴史において、最後に記されたのは半世紀以上前のことである。 当時、物怪の類が集い、邪神と化した森神を鎮め、あるいは討伐すべく、腕利きの者を集めて黎いの森に入るというものである。 昔の伝承に登場する森の扉は、この魂狩によって作られ、あるいは改築されるのだという。 しかし、前回の魂狩後、祟神を仕留め損なった島には疫病や飢饉が蔓延し、以来魂狩が行われることはなかった。 島に伝わる歴史書によれば、森の神と米の神は友好な関係にあり、魂狩を行う際には初米納めは延期、あるいは中止、既に行われている場合は初米を返納するのだという。 ――という、上の人々の事情はさておき、島の人々、殊に初米様の役を指名された燈子にとっては寝耳に水な上に到底納得できるものではなかった。 「どういうことだわさ!! そんなこと聞いたことない!」 役を降ろされ、初米を返納せよと言われた燈子は怒髪天を衝く形相で黎森支部に殴りこんだ。 まぁまぁ、と彼女を宥める尼僧も詳しい事情は知らされていないらしい。 「どうも、魂狩をするみたいだから、仕方ないわね」 「たまがり……って、何?」 「わー……随分古いことをするんだねぇ」 娘の後ろからひょっこり顔を覗かせたのは、彼女の父親の伊織である。彼もまた、名前は知っていても事情を知らないただの島民の一人だ。 「しきたりによれば、魂狩が終わるまで初米納めは延期だそうよ」 「し……しんじらんない! その間、私達は古米を食えって!? 米食うなって!?」 「ごめんよ、燈子……おばちゃんにはどうしようもないよ」 申し訳なさそうに言う尼僧にそれ以上何も言えず、燈子はやり場の無い怒りを父親の裾にぶつけながら黎森支部を飛び出した。 ☆ 「失礼。そこの人。もし良ければ、どこか良い宿はないだろうか」 「宿なら……」 支部を出た直後に声を掛けられて振り返った燈子は、足元からその人を嘗めるように見上げた。 あら、お父さん程じゃないけど、なかなか美形だわさ。 わー、綺麗だねー、とその人の藍色の衣服を褒める父を無視して、燈子は来た道を指さした。 「長期滞在ならあっちの『名滝庵』がオススメですけど」 「そこは大人数……そうだな、五、六人は泊まれる?」 「うーん……じっちゃんに聞かないと分かんないですけど、ご飯は出ないかも」 「そうか……弱ったな」 うーん、と悩んでいる青年は、浅黒い肌に藤色の瞳が印象的な長身の男性だった。島の人ではないのは勿論、燈子にはあまり見慣れない外見である。 「あ。だったら、うちで食べるのはどう?」 「お、お父さん! うちはそんな大人数賄えないわさ!」 「えー」 すぐそこだし、という父親に慌てた燈子である。二、三人ならまだしも、燈子には荷が重い人数だ。 あたふたしている燈子が断る前に、青年は苦笑して肩を竦めて見せた。 「いや、お嬢さん。大丈夫だよ。幸い、この島で食料に苦しむことはなさそうだし、自分で何とかしてみるよ」 それじゃあ、と彼女に背を向けた青年に、燈子は思わず声を掛けていた。 「その宿! 泊まるのは歓迎です! 私も手伝いに行ってるから、ご飯ももしかしたら出るかもしれないわさっ!」 青年は振り返らずに、小さく手を上げるだけだったが、きっと来てくれるだろう……と燈子は何となくそんな気がしていた。 ☆ 黎森支部の門をくぐった敦彦の背に、彼を呼ぶ声が引っかかった。 「アタシを置いていくとは良い度胸じゃない」 「雪梨か」 「どうせ、魂狩とやらに行くんだろ? 隊長さぁ、最近変だったしね」 「すまない。だけど、だからこそ、」 「隊を解散する……ってのが、ケジメの付け方なら、そりゃあ違うよ、敦彦。アタシやイヅル、それに湖都も、アンタが好きだから一緒にいるのさ。そのくらい分からないアンタじゃないだろうに」 「……」 「そう馬鹿におしでないよ。イヅルはともかく、アタシと湖都は志体持ちなんだ。バケモンだろうがアヤカシだろうが、そう簡単に死にゃしないよ」 「……」 「何かよく分かんないけどさ。全部終わらせて、それでもって、またがっぽり稼ごうじゃないか。アタシらって、そういう生き物だろ?」 啖呵を切った雪梨の男らしさに、敦彦はもう笑って頷くしかなかった。 魂狩の知らせは東房国全域にも通達が出された。とは言え、正確には黎森島でのアヤカシ退治という名目である。応募された中から、これはという者を選抜し、二度に分けて黎いの森を制圧する。 狙うのは、最奥に救うという祟神の討伐――。 それが、この魂狩の本当の狙いであった。 「今回は参ノ扉の解放と二ノ扉の撤廃を目的とする。想定されるアヤカシは強力故、努々迂闊な選抜をせぬよう」 「承知しました、主様」 頭を下げた尼僧は、その後、おずおずと口を開いた。 「しかし……祟神と言え、森の神。弑するのは……」 「案ずるでないよ。神とはいえ、今や一介のアヤカシに成り果てた身。これ以上の恥辱、見ておれんわ……早う解放して差し上げれ」 |
■参加者一覧
孔雀(ia4056)
31歳・男・陰
菊池 志郎(ia5584)
23歳・男・シ
鈴木 透子(ia5664)
13歳・女・陰
リィムナ・ピサレット(ib5201)
10歳・女・魔
Kyrie(ib5916)
23歳・男・陰
クロウ・カルガギラ(ib6817)
19歳・男・砂 |
■リプレイ本文 いつからだろう、森が泣いているように感じたのは。 いつからだろう、誰も私を見ようとしなくなったのは。 支えているのに、こんなにも慈しんでいるのに。 だから、もっと、もっと貴方達を守るから。 どうか、私を見捨てないで――。 ★ 黎いの森への扉が開く。壱ノ扉とされたこの扉の向こうは、既に鬱蒼とした森が広がっていた。 「神殺しなんて大げさよぉ」 そう、出発前に笑ったのは孔雀(ia4056)だった。彼にとっては神もアヤカシも同じ討伐対象であることに変わりはない。 故に、他ほどのしがらみも少ない。 「それにしても……アラぁん……袖振り合うも多生の縁、嬉しい巡りあわせねえ」 今にも舌舐りしそうな声で言った孔雀の視線の先には、ぶるりと一瞬肩を震わせたKyrie(ib5916)がいた。 「私は妻のある身でして……」 嫣然と笑んだ彼に、孔雀はクツクツと笑った。 「やれやれ……随分とあっちは『濃い』ですね」 艶かしい雰囲気の二人を見やって菊池 志郎(ia5584)は息を吐いた。 かつて、別件でこの黎いの森に入った事がある志郎にとって、この場所がどういうものであるかは理解したつもりではいた。 それが、神とは――。 「話が大きくなっていますが……主様のおっしゃるように、アヤカシ化したままなのは良くないでしょう」 「そうだな。集落にも影響が出ると良くないしな」 志郎の言葉に同調したクロウ・カルガギラ(ib6817) は後ろに立つ敦彦の方を振り返った。毎度この男は表情があまり変わらないが、それでも今回は緊張に満ちているのがよく分かる。 「今回もよろしく頼むぜ」 「ああ。こちらこそ、よろしく」 途切れ途切れに言った敦彦の傍で雪梨が目を細め、ぽん、と何も言わずに敦彦の背中を叩いたのが印象的だった。 ★ 「すっごい……本当に森って感じだね」 瘴気を避けるために布を口に巻いたリィムナ・ピサレット(ib5201)が感心したような声を上げる。 「……」 壱ノ域は以前と特に変わりないようだ、と志郎は周りを見つめて思った。蝶の数は増している気がするが、全体的に拍子抜けするほど殺気が感じられない。 開拓者達は足音を殺しながら、壱ノ域を進んだ。 「あの」 不意に敦彦の背中に声がかかる。振り返れば、鈴木 透子(ia5664)が意を決したように見上げていた。 「お聞かせ願えませんか」 「何だろうか?」 「あの……ご結婚はされていますか?」 それを今聞くのか、という顔をしたのは雪梨である。 だが、当の透子は大真面目に聞いたのだ。それを察した敦彦も至極真面目に「いや、予定もない」と返した。 「では、心に決めた女性はいますか?」 「い、いるのかいっ」 敦彦が答える前に雪梨が割って入り、一拍置いて顔を赤くしてすごすごと引き下がった。 そんな彼女の行動に少し驚きつつも、これもまた敦彦は「いや」と答えた。 「あまり女性と縁がないものだから……良い歳なのは分かっているんだが」 「ンフ」 頓珍漢の答えを寄越した敦彦に思わず孔雀が声を漏らした。鈍いというのは罪である。 「……ああ、予言のことを言っているのなら、俺も良く分からないのが正直なところだな」 ようやく透子の真意に行き着いた敦彦は首を傾げた。 ――摂理に外れし魔物はそなたより良妻を奪うであろう。 「何にせよ、女性は要注意……ということか」 考えるように言ったクロウに敦彦は頷いた。 現状としては、それ以上の結論はあるまい。 「先を急ぎましょうか。考えるのは道中でも良いでしょうし」 そう言ったKyrieが少し先を指さした。うっすらとではあるが、弐ノ扉が木々の隙間から覗いている。 「……いないんだ、敦彦」 再び歩を早めた開拓者の背中を追いながら、雪梨はぽつりと呟いた。 良妻――良き妻、つまり、敦彦の妻。敦彦の想い人。 そんな者がいるのなら気づいたはずだから、敦彦の言葉に嘘はないのだろう。隊長の浮いた噂の無さは、商隊の七不思議とさえ言われている。 だから、今の自分の立ち位置は、とても曖昧だ。 「雪梨、大丈夫か。休むか?」 振り返った敦彦の温かい声が降って来る。ぎゅっと握った拳を隠して、彼女は明るく言った。 「何言ってんだい。あたしゃ商隊の女将だよ。こんなくらいでへばったりしないさ」 ★ 陰徳の覇者、陰徳――……。 壱ノ域を行く間、透子は何度かその言葉を呟いた。 本来ならば良い意味の言葉なのに、何故悪のように予言ではなされるのか。 そもそも、敦彦の受けたという予言は良い方向に導かれるものなのか。 「……どういう事なのでしょう」 首を傾げる透子は、前を行くクロウの「着いたな」という声で一旦思考を止めた。 いずれにせよ、情報が少ないので想像の域を出そうにない。 「これが扉、か……」 見上げたクロウが感心したように言った。 アヤカシの襲撃も思ったよりなく、一行は弐ノ扉の前まで到達していた。扉は静かに口を閉ざし、蔦が絡んでいる。 明らかに何年も開けられたことのない、年代ものの扉だった。 「開ける? それとも壊しちゃう?」 腕まくりをしたリィムナが言う。ここで壊すのは簡単だが、それは同時に、この先のアヤカシを殲滅しなければ、より危険な状況になることを意味している。 「ここは、慎重に行きましょうか。先の事もありますし」 Kyrieが言って、そっと白い指で扉に触れる。頑丈な南京錠で施錠された扉は、錆びた鍵穴から小さな葉が花を覗かせる。 葉を避け、ギルドから預かった鍵を差し、ゆっくりと扉を開いた。 少し、その先の光景が目に入った時だ。 「――」 志郎の眉が僅かに寄った。 なるほど、弐ノ域を封じているのは正解だったらしい。 明らかにこれまでとは異なる瘴気と、そして、隠しもしない殺気を滲ませて、弐ノ域はその姿を開拓者達に晒していた。 ★ 「ンフフ……ゾクゾクしちゃうわ」 茂みから飛び出す獣が地縛霊にかかったのを仕留め、孔雀は勿体ぶったように身をくねらせた。 この高揚感、この臨場感――まさに戦場だ。 弐ノ域に足を踏み入れて以降、彼らは幾度となくアヤカシの襲撃を受けていた。それほど強いわけではないが、数が多い。 畢竟、消耗戦にならざるを得ない。 「それでも、あたし達の敵じゃないけどね!」 呪本をめくり、詠唱するリィムナは固まったアヤカシに一気に術をぶつけた。全ての魂が原初に還るための唄を流れるように奏でる彼女の旋律に、獣が唸り声を上げて足元から砕け散る。 「大丈夫ですか、怪我は」 「アタシは大丈夫さね。敦彦をお願い」 獣に削られた腕に閃癒をかけた志郎に雪梨は言った。 「あなたの治療が先です。腕を。もう一度、かけますから」 「平気だって。もうちょっとキツくなったら頼むよ」 笑った雪梨は再び戦線に復帰するため走り出した。手に残る術の感触を握った志郎は、その背中を見ながら息を吐く。 「護る方も大変ですね――、と」 脇から飛び出した獣を刀で切り裂いて、志郎は小さく零した。護衛対象が元気なのは結構だが、突っ走られるとなかなかに厄介である。 「こっちはそろそろ落ち着くか。そっちはどうだ?」 「ええ。問題ないですよ」 別方向で獣の対処をしていたクロウが息を切らせて戻って来た。濃い瘴気の中を行ったり来たりしているせいか、やはり顔色はあまり良い方ではない。それは他の開拓者も同じおとなのではあるが。 「一度、私は回復をさせてもらいますね」 結界呪符の壁を作り直した透子が肩を上下させて言った。すぅ、と息を吸って、周りの瘴気を取り込み始める。 「――これは……」 同じく瘴気を吸収し始めたKyrieが柳眉をしかめた。体が満たされていく感覚は確かにあるが、濃い。 「咽返る濃厚な……ってとこね。嗚呼ン、素敵」 三度よじらせた身で、孔雀は休憩中の仲間を護るように、前方の獣を妖刀で縦に薙いだ。 「それにしても、一気に数が増えたな」 額の汗を拭ったクロウの隣に、銃を支えにて敦彦が身を折った。範囲の限られた戦場だ。射程の余りある獲物を使う彼にとって、相性の良い場所ではないのだろう。 「なぁ、敦彦さん」 「何だ……?」 「終わったらで良いから、あんたと『祟神』とやらの間に何が有ったか、教えてくれないか?」 唐突な頼みに、敦彦は目を瞬かせ、それから小さく頷いた。 「覚えている範囲……という条件なら、いくらでも話そう」 もう、それくらいにまで、色々な人を巻き込んでしまったのだから。 ★ ねぇ、敦彦。 息を殺して先を進む中、雪梨は敦彦の背中にこっそり尋ねた。 「アンタ、奥さんとか貰う気はないのかい?」 「雪梨……状況を、」 「分かってるって。その上で聞いてんのさ」 「……縁があれば」 何と当たり障りのない答えか。 唇を引き結んだ雪梨の沈黙をどうとったか、敦彦は付け加えるように言った。 「いなくても、雪梨が色々と世話を焼くから。娶ったりしたら、相手にも雪梨にも悪い」 「なんだいそりゃ。あたしゃ押し掛け女房じゃないんだよ」 「そうだな。甘えてばかりですまない」 それきり、二人の会話は途切れた。 でも、嬉しい――そんな、一人の女性の独言を残して。 ★ その大きな獣は、体を伸ばせば小さな透子より遥かに大きく見えるであろう姿だった。 体の中央から生えた異形の足が、その生物がこの世の摂理から外れた存在であることを示している。 「……皆さん、気をつけて」 結界呪符を仲間に施して、透子は祈るように言った。 弐ノ域、最後の戦いが始まった。 「盛大にやりましょうか……一撃で、なんて、野暮なことはやめて頂戴ね」 呪怨の絶叫を届かせ、孔雀が地を蹴った。異常な跳躍を見せる獣の着地を狙って、妖刀で横に薙ぐ。 「あら……ン?」 ゆらゆらと陽炎のように身を裂いた獣の姿が掻き消える。手には仕留めた感触は無い。 「――上っ!」 叫んだのは志郎だ。敦彦の頭上、牙を剥き出しにして飛びかかってくる。 「敦彦さんっ!」 風魔を引き抜き敦彦の前に立ちはだかった志郎の刃に、獣の牙がぶつかる。ずん、と足の沈む感覚。力で押し返すと弾かれた獣は木の枝に飛び移った。 「敦彦さん、もっとこちらへ!」 敦彦の腕を引いて、透子が獣から距離を取る。呪の霊を呼びこんだ透子は、小さく何かを唱えて獣を指さした。 「――征け、妖なる比良坂の傀儡よっ」 透子の声に応じ、地面からずるりと這い出た『何か』が、獣の足に絡みつく。唸り声を上げ、五本目の足を振り上げた獣は、一回転して地面に転がり落ちた。 「よしっ、今が好機だね!」 駆け出した前線のリィムナが獣に肉薄する。同じく黄泉より這い出る者を矢継ぎ早に唱えるが、そこで、ようやく異変に気づいた。 活性化されていない術は使えない。 逡巡の間に、獣がそこまで迫る。 「――っ!」 呼びかけに応じない霊を遮り、獣がリィムナに体当たりする。後ずさった彼女を追う爪を躱したリィムナの脇をKyrieが仕掛けた。 「黄泉の使者……響け、怨嗟の声」 突進する獣に向かって黄泉より這い出る者で向かったKyrieが詠唱する。黒水晶の髑髏は不気味に光、うごめく闇で獣を包む。 本能で向きを変えた獣を闇が追う。その先には、再び、敦彦がいた。 「敦彦さん、俺の後ろに!」 叫んだクロウが戦陣を敷く。龍の舞うように軽い脚さばきで獣の爪を避けた彼は、一転、シャムシールを縦に払った。 確かな感触とともに、濃厚な瘴気が獣から噴き出した。思わず目を閉じたクロウの脇を駆け、息を切らした獣が死に体で再び方向を変える。一直線に、明確な狙いを持って、敦彦と雪梨へ。 あまりにも強い、怨念と、執念を持って。 「しま――っ」 一瞬だった。だが、あまりにも長い一瞬だった。 クロウだけではない。他の開拓者達も、一瞬、どちらを先に護るべきか躊躇った。 その中で一切の逡巡なく動いたのは、敦彦の袖を強引に引いて彼を引き倒し、代わりに獣の正面に身を晒した――雪梨だった。 「雪梨――――っ」 叫んで腕を伸ばした敦彦の掌に、真っ赤な血が鮮やかに注いだ。 ★ 息絶えた獣に蝶が群がっている。屍を悼むように活発に動く蝶にとって、相手は獣だろうと人だろうと関係ないのだろう。 鬱陶しそうに蝶を払いのけた孔雀は、流れる腕の血を舐めとった。この蝶は血に集まってくるのか。 「やぁねぇ……こうも多いと綺麗じゃないわね」 そう言って、孔雀は視線を落とした。 群がろうとする蝶を腕で払いのけて、屈んだ敦彦が血の止まらない雪梨の冷たくなる手を握っている。 閃癒をかけ続ける志郎とKyrieにもやや疲労の色が浮かんでいた。 「……これ以上は、」 言いかけたKyrieを志郎が首を振って制する。 獣の牙を受け入れた雪梨の胸は大きく引き裂かれていた。最早開拓者の術でもってしても、息絶えようとする程の傷を癒やすには用意された時間があまりにも短い。 「……あ、つひこ」 弱い息遣いで名を呼んだ雪梨は、口元をゆるめて、ぽつりと呟いた。 アンタの女に、なりたかった――と。 「……」 ぱたりと落ちた白い手は陶器のように冷たい。 「……敦彦さん」 透子が呼んだ声に、敦彦はぎゅっと目を閉じた。 「連れて、戻りたい」 その言葉に、クロウは何を言えば良いか分からなかった。 雪梨に群がる蝶。無残な姿。大切な人の死。 それらを受け入れて戻るには、この森は少し深い。 そんなことは恐らく、言われる間でもなく敦彦も分かっている。 今は雪梨の遺体が、アヤカシを引き寄せてしまうことも。 「……すまない」 誰にでもなく謝った敦彦は立ち上がった。 何も言わず、透子が敦彦の手を掴む。受け入れた敦彦は、ようやく重たい一歩を踏み出した。 姿が隠れる程の蝶を捌ききれる余裕があるわけではなく、開拓者達は亡くなった雪梨を置いて、森から戻らざるを得なかった。 敦彦が開拓者達に連れられ、最後に見た仲間の姿は、蝶に囲まれて眠るようであったという。 ★ 雪梨を欠いたとしても、目的は達成したと言って良い。 破壊を免れた扉は再度封鎖され、次の魂狩を待つこととなった。 だが、口を開こうとしない敦彦から話を聞けるはずもなく、多くの謎は未だ森に封じられたままであった。 黎いの森――最奥部、伍ノ域。 御神木として祀られた跡の大木に爪を立て、若い女の姿の黎王は苦痛に顔を歪めていた。陽炎のように姿を保てず、小さな少年や老婆にも変わる。 「あ、つ…‥ひこ……ぉ」 嗄れた声で名を呼ぶ黎王の耳に、鈴の音が届く。魂狩によって葬られた森の使者の断末魔が、黎王を苛んだ。 苦痛に流れた涙が草に染み、碧の草を黎に変える。 満ちた瘴気が黎王に纏わりつき、次なる異形のモノを、身を削って創りだす。 そうやって、黎王は憎むのだ。 封じた敦彦を――捨てた人間を。 了 |